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2025年1月18日 (土)

設問43 反精神医学者の R.D.レインは、「分裂病霊的旅路」説を唱えていますが、あなたの考えと同じとみていいですか?

回答 R.D.レインの「霊的旅路」説というのは、統合失調状況は、それまでの自我を超えて行く「霊的な旅路」であり、その過程で、本来の自己を見出して、より成長を遂げて帰還することのできるものとする説である。統合失調状況を「くぐり抜ける」ことを重視する私の見方と共通するし、その失敗とも言うべき「狂気」に陥ることは、やはり酷く否定的な状態とみる点でも一致している。

ただ、レインの「霊的」というのは、ユングに近い、「内面的精神性」という意味で言われていると解され、私のように、外部的実在として「霊的存在」を認めるのとは異なっている。私は、統合失調状況を「抜け出る」にしても「くぐり抜ける」にしても、正面から外部的実在としての霊的存在を認めて、具体的にその性質を知ることで、対処していくことが必要と解するのである。

解説  反精神医学の旗手といわれるR..レインには、『引き裂かれた自己 狂気の現象学』(ちくま学芸文庫)という有名な著書があります。精神医学者の間でも、重要な書としてよく読まれているようです。分裂病質の者が統合失調に至る過程を実存的に分析したもので、統合失調の体験者からみても、かなりの説得力があります。

要は、分裂病質の者の自己は、世界に対しても自分自身に対しても二重に引き裂かれており、偽自己体系というものを作り上げてなんとか世界に対峙するが、いずれは、崩壊せざるを得ないといったものです。ただ、その過程が分裂病質の者の内面にまで踏み込んで、鋭くも、詳細に描かれているのです。

しかし、これは、分裂病質の者が「必然的」に統合失調に陥らざるを得ないかのようで、否定的な見方に貫かれているし、統合失調の状態に至るまでのことには詳しいですが、統合失調に至ればもはやそれで「終わり」であるかのように、その後のことにはほとんど触れられていません。実際、この時期には、レインはかなり徹底した否定的な見方をしていたようです。

ところが、その後、レインは一種の転身を遂げ、「分裂病霊的旅路説」といわれるものを提示するに至るのです。これは、統合失調は、否定的な病気といった(ことに尽きる)ものではなく、本来、霊的な旅路なのであり、その体験を通して、その体験前の自我を超えて、本来の自己を見出し、成長を遂げることのできるものなのだというものです。

特に、統合失調状況に入ることを、単に統合失調的な(病的)結果として重視していなかったのが、その状況こそ、それまでの自我を超えて行くための「旅路」のプロセスとして重要なものとみることになったのが、最も変わったところです。

レインがこの点につき端的に述べている文章をいくつかあげておきます。(『経験の政治学』(みすず書房)より)

「この旅は次のようなものとして経験されます。つまり「内」へ向かっての絶えざる進行、人間の個人の生活を貫いての遡行、そしてすべての人類の、原初的人間のアダムの経験への、そしてまたおそらく動物植物鉱物であることへの遡行貫通超越として経験されます。この旅には、しかし、行くべき道を見失う可能性も多くあります。混乱したり、部分的な失敗をしたり、そして結局最後に難破したりする可能性があります。多くの怖ろしい怪物や霊魂や悪魔に出会わなければなりません。そしてそれらにうちかつこともあるし、うちかてないこともあるのです。」

「ある人が狂気に陥るというときには、その人の位置は、あらゆる存在領域との関連において、深い転変を蒙ります。彼の経験の中心は自我(エゴ)から<自己>(セルフ)に移動します。しかしながら狂人は混乱しているのです。彼は自我と自己を混同し、内部と外部を混同し、自然なものと超自然なものとを混同します。にもかかわらず彼はしばしば、たとえ深いみじめさや崩壊を通してであれ、私たちにとっては聖なるものの司祭となることができるのです。」

「狂気というのは全面的な崩壊である必要はありません。それはまた、ある突破かもしれないのです。狂気は隷属であり実存的死であると同じぐらいに、潜在的には解放であり更生でもあるのです。」

「霊的な旅路」が「自我」を超える旅路となるといっても、それは失敗する可能性をはらんだものであることをしっかりみています。レインは、前からもっていた統合失調に対する否定的な見方を捨てたわけではなく、ただ、いくつかの体験例に接して、本来、そうである必然性はないことに、気づいたのです。決して、狂気を美化したものではありません。ただ、レインは、そのような失敗は、個人の問題というよりも、社会自体が「疎外」されているからだという点を重視していました。

このようなレインの説は、前回とりあげた、シャーマンの巫病についての「死と再生のイニシエーション」という見方とも通じるものだし、私の見方とも共通するところの多いものです。

ただ、レインが「霊的な旅路」でいう「霊的」というのは、いわゆる「spiritual」ということで、「内面的な精神性」ということを意味していると思われます。私のように、外部的に存在する「霊的なもの」や「霊的存在」を認める立場をはっきりととるわけではないということです。

統合失調の者は、「<自己(セルフ)>と<自我>を混同する」とか、「内に向かっての絶えざる進行」であり、「原初的人間や動物植物鉱物への遡行」などというところからも、その考えは、普遍的無意識を唱えたユングに近いと思われます。

「自己(セルフ)」というのは、表層的な「自我」ではなく、普遍的無意識の中心に働いているもので、自我を超えた自己の本質のようなものです。ユングは、ビジョンとして外部的に現れる「精霊的存在」も普遍的無意識が投影された「元型的存在」と捉えるので、「霊的な実在」そのものとして認めるのではありません。(ただし、ユングは晩年、人間の「幽霊」を経験してその存在を認めており、また、普遍的無意識が投影された「元型的存在」といっても、物質的なものと共時的に結びついているので、単なる「内面的存在」というのではありません。この辺りは、かなり微妙なところがあります。)

レインも、基本的には同様な見方をとっていると思われ、「怖ろしい怪物や霊魂や悪魔に出会わなければならない」というのも、「元型的な存在」という意味で言っているものと解されます。ところが、私は、それらをはっきりと外部的な「霊的存在」として認めるし、本当に統合失調状況を「抜け出」たり、「くぐり抜ける」ためには、そうすることが必要と考える点が異なります

こういった存在は、外部的存在として自己に働きかけていることを正面から認めたうえで、具体的な状況での体験を通してその特徴を知り、そこから「抜け出」たり、「くぐり抜ける」ための対処法として生かしていくことが必要なのです。ただし、統合失調状況に入った理由を含めて、体験の全体を見返すというときには、ユングのような内面性の重視は必要なことでもあり、大いに参考になるものです。

そうわけで、私の見方は、レインの見方と共通するところが多いですが、外部的な「霊的存在」をはっきりと認めるところが異なります。外部的な「霊的存在」をはっきりと認めて、それを重視して行く点、「死と再生のイニシエーション」を重視する点でも、私の考えは、シャーマニズムの方により近いと言えるでしょう。

なお、ブログ『狂気をくぐり抜ける』でも、記事『「自己の脆弱性」/『ひき裂かれた自己』や『「疎外」からの「逸脱」/『経験の政治学』』、さらに『R.D.レインと反精神医学の道』と隠喩としての「精神の病」』で、R.D.レインの説についてかなり詳しく述べていますので、参照ください。

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