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2024年9月

2024年9月30日 (月)

設問18 なぜ統合失調では、「幻聴」が圧倒的に多いのですか?

回答 一つは、聴覚の特殊性という面から捉えられる。聴覚的な感覚は、視覚的なものに比べて単純であり、まず発達しやすいと言える。しかし、聴覚的な情報、特に人の「声」というのは、「言葉」であり、直接的な「意味」なので、捕らわれを生じやすく、視覚的なもの以上の影響力をもたらしやすい。それで、統合失調の人は、人の「声」に関わる幻聴を発展させやすいと言える。

もう一つは、幻聴を聞かせる存在の側の意図であり、それらの存在は、あえて人の「声」を聞かせることで、人を混乱に陥れようとするものと言える。

 

解説 統合失調の幻覚において、「幻聴」が圧倒的に多い理由は、二つの面から捉えることができると思います。

一つは、感覚の中でも、「幻聴」に関る聴覚の特殊性という面です。

聴覚というのは、情報を受け取る重要な感覚ではありますが、視覚に比べれば、情報量が少なく、単純な感覚ということができます。情報を伝える電機機器でも、まず聴覚に関わるラジオが産まれ、次に視覚に関わるテレビが産まれています。

物質的な領域でなく、新たに開けた(未知の)領域においても、まずは単純な情報を受け取ることのできる聴覚的なものが発達し、次にもっと複雑な視覚的なものが発達するということが言えます。前回みたように、私の場合は、はっきりと、そのような発展的な傾向がありました。

ただし、統合失調の一般的な場合は、以下のような理由もあって、「幻聴」を聞くことに終始し、「幻視」を見るまでに至らない(無意識領域から意識領域に上らない)ことが多いのだと思います。

上のように、情報量が少なく、単純な聴覚的な情報というのも、情報を意味として受け取る人間にとっての影響力という意味では、決して視覚に劣るものではありません。特に、「幻聴」において圧倒的に多い、人の「声」というのは、「言葉」であり、直接的な「意味」であるので、それを聞く者に、強力な関心と捕らわれをもたらしやすいと言えます。

また、「声」や「音」というものは、まさに内に「響いてくる」ものであって、その情報が内部に侵入してくるといった感じを伴います。この点で、単に外界の景色を構成する視覚と違って、攻撃的なものして受け取られやすいのです。

統合失調の人は、このような「人の声」というものに非常な拘りまたは捕らわれを生じてしまったがために、「声」に対して非常に過敏になり、意識を向けてしまうため、通常の「物理的な声」を超えるような「幻聴」の声をも聴くようになるということができます。視覚的な情報については、そこまで過剰に意識を向けることにならないということです。

また、統合失調の場合でも、欧米の場合は、日本より「幻視」が生ずることが多いと聞きます。感覚を受け取る側の、「見る」という行為、「聞く」という行為を比べた場合、「見る」ということには積極的な要素が多くあり、「聞く」ということには受動的な要素が多くあるということができます。日本人は、一般に、欧米に比べると、人との関りにおいて、積極的に見るという面より、受動的に聞くという面が多く働くと言えるのではないかと思います。いわば、欧米を「見る文化」とするなら、「聞く文化」です。それで、聴覚的な面がより働きやすい(発達しやすい)ということも一つの理由でしょう。

そして、幻聴が多い理由を捉えるうえで、もう一つの注目すべき面は、幻聴を聞かせる側の戦略という面です。上に述べた、聴覚の特殊性に関わることではありますが、幻聴を聞かせる存在の側でも、自分の意図や利益を図るうえで、「声」を聞かせるというのが非常に有効な方法になるということです。

この点は、後に、声を聞かせる存在が、どのような存在で、どのような意図によるのかを明らかにしないと、はっきりしないでしょうが、とりあえず、幻聴の声の、攻撃的で、人を混乱させたり惑わせたりする面が、それらの存在にとって、都合がいいからこそ選ばれているという可能性を指摘しておきます。これらの存在は、あえて人を混乱に貶めようとするものがあるということです。

詳しくは、追って述べることにします。

2024年9月26日 (木)

設問17 「幻視」についても、どのように見えるものなのか具体的に説明してください

設問17  「幻視」の体験もあったということですが、「幻視」についても、どのように見えるものなのか具体的に説明してください。

 

回答 私の場合は、初めは、もわーっとした、漠然としてはっきりしない形の「幻視」が起こり、それが段々と鮮明になって、より「現実の知覚」に近い幻視が起こるようになった。

そして、「声」だけが聞こえるのでは、声を何者が発してるのかなど、起こっている状況が分かりにくいが、そのような幻視が加わることで、声は、現に目の前にする人物が発しているのではないことなど、起こっている状況が、かなりはっきりと分かるようになった。

 

解説 統合失調では、「幻聴」だけを聞くという場合が圧倒的に多いようですが、私には、「幻視」の体験もありました。

ただし、「幻聴」と「幻視」は別のものというより、「幻視」も加わることによって、「幻覚」の知覚世界が、より細部にわたって、具体的になっていく過程という風に捉えられるものです。

「幻聴」では、「声」や「音」、つまり「聴覚」に関るものだけが「聞こえる」だけで、それ以上に、外界の知覚の情報が伝わるわけではありませんでした。ところが、「幻視」になると、「視覚」的に「見える」という要素も加わって、外界の知覚に関する情報が飛躍的に増え、細部にわたって、具体的になっていくのです。

ただし、私の場合、「幻視」そのものも、いきなり具体的に細部まで鮮明に見えるのではなくて、最初は、もやーっとした漠然としたもので、かなり曖昧ですが、段々と鮮明になることが増え、細部まで明らかになるような幻視も見るようになりました。「幻視」そのものにも、一種の段階というか、鮮明さの度合いにおいて成長のようなものがあるようなのです。

ただ、設問15でも述べたように、テレビの中に、非常に鮮明に極彩色の3D映像のような「幻視」を見ることもあり、この点は、「幻視」については、単に成長というよりも、多様な性質のものがあるということなのかもしれません。あるいは、見る側の状況によっても、「見せる」側の働きかけによっても、変わって来るというのもあるでしょう。(声を聞かせる存在がいると言ったように、幻視を見せる存在というのもあります。)

いずれにしても、私の場合は、「幻視」が徐々に鮮明になるのに応じて、外界の状況も、よりはっきりと「見えて来る」ということになり、起こっていることを理解するに、大きく貢献することになりました。そして、それは、設問11で述べたような、無意識領域で起こっていることを「思い出す」ということにも関わっています。

「思い出す」という体験の中でも、初めは「声」だけを聞くなど、限定された情報だけが明らかになっていたのが、「思い出し」がより深まる(「思い出し」の状況により深く入っていく)と、段々と、「幻視」的な視覚的な情報も、明らかになって来て、より無意識領域で起こっていることが、鮮明に分かって来るということになったのです。

そして、そのように、「思い出す」という状況の中で視覚的なものが加わり出すとともに、リアルタイムでも、「視覚的な幻視」が起こるようになったのです。

たとえば、誰か通りがかりの人が、「声」を仕掛けて来たかのような状況では、幻聴の声だけを聞いている状況だと、それらはほとんど同じようなものとして聞こえるので、その人物そのものが発した声と混同する可能性が高まります。しかし、視覚的な幻視が加わると、その人物の背後から、何者かがぬっという感じで出て来て、こちらに向けて、「声」を発しているというのが、「見える」ことになります。それで、これは、その目の前にする人物そのものが発している声ではないということが、かなりはっきりと認識できることになるのです。

先ほど述べたように、幻視として見えるのは、初めは非常に漠然としたもので、曖昧です。色も白黒で、何かが見えたとしても、その輪郭もはっきりしていなく、もわっーとしていて、それが何であるかまでは分からないのですが、何者かが出て来ているということは、かなりはっきりと認められるのです。

これが、たとえば、自分一人で誰もいない状況で声を聞くような状況では、よりはっきりしてきます。声そのものしか聞こえない状況では、そのことの驚きと混乱が大きいですが、漠然としたものでも、もわーっという感じで、何者かがはっきりとその声の「背後」にいることが「見える」形で分かると、そこに確かに何者かが存在しており、その者が「声」を発しているのだということが分かります

設問14で述べたように、ヤスパースは、このように、「そこに誰かがいるという確かな感覚」について、「実体的意識性」と呼んで重視しました。恐らくそれは、それが単独で起こるというよりも、視覚的な幻視が、無意識領域で起こっていて、意識に影響を与えているのですが、その視覚自体は意識が認識できないために、「そこにいる」という感覚のみが意識されるという状況も多いのだと思われます。

そして、先ほど述べたように、「幻視」的な視覚が段々鮮明になって来ると、たとえば、色もちゃんとついていて、輪郭などもよりはっきりし、本当に、そこにいる何者かの「姿」なども「見る」ことが起こります。(それは、ほぼ「人間」と同じように見えますが、この点については、そのように「見せられる」という点も考慮しなければならないので、その見たままが、真の姿などと決めつけることはできません。この点については後にまた説明します。)

そのようにして、「幻視」が鮮明になって来るのに応じて、外界に起こっていることの情報が増えて来ることで、自らがそこに挟み込む(恣意的な)「解釈」の度合いも少なくなってくることができます。それで、たとえば、「組織に狙われている」などの「妄想」が固まることも、相当抑えられることになるのです。

「幻視」などは、一般にも、「幻聴」以上に、忌み嫌われることが多いでしょうが、このように、新たに開けて来た、(未知の)知覚世界を知る上においては、非常に重要なものと言うべきなのです。

ただし、そのように、幻視的な情報が加わったことにより、声を発してきたり、自分を取り巻いたりする存在は一体何者なのかという新しい疑問が、当然起こって来ます。ですが、それは、未知の状況により深く入っていった結果の進展として、しっかりと受け止めなければならないこととなります。

ただ、私の場合、幻視そのものが、「現実の知覚」と全く同等に見えるほどの幻視というのは、あまりなく、やはり初めの頃と同様、どこか漠然とした要素は、つきまとっていたということが言えます。その意味では、やはり、「幻聴」の方が中心であり、統合失調では、「幻聴」の影響の方が相当に大きいというのは、確かに言えることだと思います。

ただ、先ほどのテレビの中の「幻視」のように、現実同等、あるいはそれ以上に鮮明な幻視もあったわけで、そういうものを見ると、「現実」というのが一体何なんか分からなくなって、混乱するというのはあります。そのような混乱状況の中で、実際には、「幻視」を見ているのに、自分ではそれを「現実」そのものの知覚と思っていたものは、かなりあるかもしれません。

この点では、私も、幻視については、幻聴の場合ほどの「見分け」の方法を見出すことができているわけではないことになります。あるいは、「幻視」というのは、それほど、多様で、分かりにくい要素に満ちているということでもあります。

「幻視」の説明としては、このようなところになりますが、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『14 「幻聴」から「幻視」へ』から『16 「夢幻的世界」へ』でも、幻視についてより詳しく説明しているので、そちらも参照してもらえればと思います。

 

2024年9月23日 (月)

設問16 「現実の声」というものがある場合、「現実の声」は聞こえないで、「幻聴の声」の方が聞こえて来るのでしょうか?

回答 初めのうちは、「現実の声」を聞いているが、「幻聴の声」を聞くときには、「現実の声」の方はかき消されて、「幻聴の声」の方を聞くことになっている。いわば、「現実の声」に上書きされるようにして、「幻聴の声」の方が聞こえるのである。

それは、意識の焦点が、「現実の声」の方から「幻聴の声」の方に移り、「幻聴の声」の方を聞くようになっているということであるが、本人は、そのことに気づかず、「現実の声」の延長上のものとして「幻聴の声」を聞いてしまうことが多いのである。

 

解説 そうですね。「現実の声」と「幻聴の声」は別のものなのだから、これら両方がある場合、それらの関係はどうなっているのかというのは、当然起こって来る疑問ですね。

私の場合、初めのうちは、「現実の声」を聞いているけど、「幻聴の声」を聞くときには、「現実の声」の方はかき消されて、「幻聴の声」の方を聞くことになっているという感じになります。いわば、「現実の声」に上書きされるようにして、「幻聴の声」の方が聞こえるのです。

これは、私以外の場合でもよく聞く話なのですが、実は、「声」ではなくて、何らかの気になる「音」の場合でも、それと重なるようにして、「幻聴の声」が聞こえて来るということもよく起こります。たとえば、道路が近ければ、車の音とか、近くで工事をしていれば工事の音とか、初めはそれが聞こえているのですが、いずれその音に重なる、というよりむしろ、やはり上書きされるようにして、「幻聴の声」が聞こえるということがあるのです。

この頃には、「人の声」だけでなく、「音」そのものに対してとても過敏になっていて、やたら「人の声」やそれ以外の「音」も気になるし、いわば「声」や「音」が自分の内部に侵入してくるかのような、攻撃的なものに感じられるのです。それで、「人の声」や「音」に対して意識がいやでも向いてしまうのと、やはりどちらにおいても、「声を聞くのではないか」という受動的な構えを持ってしまうことで、本当に、「幻聴の声」を聴くような意識の状態になってしまうのだと思います。

それは、催眠暗示にかかった人が、催眠術士の声しか聞こえなくなるように、一種「催眠」に近い状態ですが、そのときには、意識の焦点は、「幻聴」の方に向いていて、「現実の声」や「現実の音」の方にはもはや向いていない(聞こえていない)ということです。

もちろん、これは、注意深く観察して初めて分かることで、多くの人は、このように認識するわけではありません。多くの人は、それまで聞いていた「現実の声」の延長上のものとして「幻聴の声」を聞いてしまうので、それは、「現実の声」そのものと混同してしまうことになるのです。

このように「音」から、幻聴の声を聞くようになることも、テレビの登場人物の声を聞くのと似た、誰もいなくとも声を聞くようになることの前段階的な現象のひとつと言えるでしょう。

何しろ、「現実の声」や「音」は、それに注意を向けることで、「幻聴の声」を聞くことを呼び起こす媒介になるわけですが、それはあくまで媒介であって、それがなければ「幻聴の声」を聞かないということではありません。そのような状況が進むと、いわば、常時、内部に「幻聴の声」を聞く体勢ができあがって、誰もいなくとも、あるいは、特に「幻聴」を意識する音がなくとも、「幻聴の声」が当たり前のように聞こえるようになることにもなるのです。

2024年9月19日 (木)

設問15 統合失調の人は、テレビの登場人物から発せられる「幻聴」の声を聞くことがあるようですが、本当ですか?

回答 これも本当である。テレビの登場人物から、これまでみて来たとおりの幻聴が、実際にその人物そのものの声であるかのように、聞こえて来るのである。これは、前回みた、誰もいない状況で声が聞こえるようになることの、前段階的な現象として捉えることもできる。

 

解説 本当です。多くの人は、テレビの登場人物の「声」を聴くなどと聞いただけで、「おかしい」やはり「狂っている」と思うことでしょう。しかし、これは、割と多くの人に起こることなのです。実際に、テレビの登場人物そのものと思える声が、自分の心の中にあるようなことをついて「嘲笑」したり、「非難」したり、あるいは逆に「好きだ」などということを言って来るのです。

前回の、誰もいない状況で聞こえる声もそうですが、普通に考えたらあり得ないことが、現実にリアルに起こっているという状況なのです。

そういうわけで、このようなことがあることと、その状況をそれなりに詳しく述べて、予め多くの人に知っておいてもらえることは重要なことと言えます。後にみるように、テレビの登場人物の声は、誰もいない状況で声を聞くようになる、前段階的な出来事としてみても、興味深いものがあるはずです。

このような声は、これまでみて来たような、幻聴としてリアルさや、特別な響きをまったく備えています。また、テレビの登場人物の声と似ていると言えば言えます。ですので、現に人を前にするときと同様、このような声も、統合失調の人にとって、現実にテレビの登場人物が発したものと受け取られるのが普通です。物理的な声そのものとして受け取られこともあれば、テレパシーで特別に伝えられたと受け取られることもあるでしょう。

テレビの登場人物がこんなことを言うはずがないという疑いは、生じ得ますが、しかし、声を聞くことが頻繁化し、自分を取り巻く世界の様相が変わったという思いが強くなると、こういうこともあり得るものかと、割と容易に思ってしまうものなのです。もちろん、それ以外の未知の現象であると解する方が、よほど怖いというのも、大きな理由です。

私もそうでしたが、テレビの登場人物の声が聞こえるようになるのは、現に人を前にする状況で声を聞くようなことを繰り返し体験した後、自分一人になって、周りに誰もいないが、テレビはつけていて、テレビの登場人物としての人は意識しているような状況です。

統合失調の人が、初めの頃に声を聞くのは、いくらか無意識領域か、意識の領域で声を聞き出しているため、周りの人のことを多少過剰に意識していて、「また声を聞くのではないか」と受動的に構えているような状態です。そのような状態は、ますます、本当にそのような声を聞かせてしまうことに、影響してしまうのです。これまで示唆して来たように、実際に、声を発する存在がいるという観点から言っても、そのような受動的な状況は、声を仕掛けるについても、最適な状態です。

それで、そのようなことが繰り返されると、統合失調の人は、疲弊し、人と出会うことを苦にし出し、一人で閉じこもりがちになります。ところが、やはりテレビをつければ、テレビ画面を通してのものでも、登場人物の人を人として意識してしまうことがあり、その状況が、声を聞かせる状況を創出してしまうことにもなります。そして、現に人を前にする状況と同じように、その声を、その登場人物自身の声と解してしまうことにもなるのです。

私の場合は、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『16 「夢幻的世界」へ』でも述べているとおり、テレビから声が聞こえる頃には、前回言ったように、多少の幻視も見えるようになっていました。それで、テレビの登場人物そのものというより、その背後からぬっという感じで、何者かが声を発しているというのを、かなり感じとれる状況になっていました。ですので、現実の登場人物そのものの声とは解しませんでしたが、何者か分からない者に声を仕掛けられているという状況がより鮮明となり、それはそれで、信じがたく、耐えがたいものではありました。

さらに、その幻視世界が、テレビの画面の範囲で、実際のテレビの放送内容とは関係のない特別のイリュージョンのようなものを展開し始めて、本当に衝撃を受けることにはなりました。

それで、テレビをつけることも少なくなるのですが、その後しばらくして後に、前回述べたような、誰もいない状況であるにも拘わらず、はっきりと声が聞こえる状況を迎えることになったのです。

この頃には、もはや、幻聴が聞こえるのではないかと人を意識するような受動的な構えがなくとも、幻聴が(いわばいつでも)聞こえるような状態になっていて、誰もいなくとも、はっきりと声が聞こえるような状況になったと言えます。あるいは、声を発する存在の側からすれば、特に人を意識させるまでもなく、声を仕掛けられるような状況になっていたということになるでしょう。

このように、テレビの登場人物からの声というのは、幻聴の声が、現に人を前にする状況でなくとも聞こえるようになることの前段階的な現象として捉えることもできるのです。

何しろ、テレビの登場人物の声にしても、既にそれを現実の登場人物の声と捉えるのは、客観的には、無理の状況となっていることを確認する必要があります。現実に人を前にする状況であれば、聞こえる声をその人物のものと混同することにも、仕方がない面があるのですが、テレビの登場人物となれば、それはもはや無理と言うべき状況なのです。そして、さらに、誰もいない状況で声が聞こえるなら、それは、もはや現実の人の声などではあり得ないことが、はっきりしている状況とみなすべきなのです。

実際の状況では、恐怖と混乱に巻き込まれて冷静な判断はしにくいですから、なかなかこのようには解せないのですが、多くの人に、ぜひこの壁を乗り越えて、実際にこのような状況に陥ったときには、もはや「人の声ではあり得ない」と正しく認識してほしいというのが私の思いです。

それでは、いったいこの声は何なのかという新たな問題を抱えることになるのですが、それについても、近代社会の常識はそのようなものを認めませんので、容易ではありませんが、現在の知識の状況に照らせば、決してたどり着けないというものではないのです。そのことは、追い追い明らかにしていきます。

2024年9月15日 (日)

設問14 実際に、人を前にするのでない状況でも、声が聞こえるという話を聞いたことがありますが、本当ですか?

回答 本当である。例えば、自分一人で部屋にいて、周りに誰もいない状況など、人を前にするのでない状況でも、声が聞こえることがある。しかし、これは、その声が、もはや、人が現実に発する声などではあり得ないことを知る、重要な機会でもある。

 

解説 本当です。例えば、自分一人で部屋にいて、周りに誰もいない状況など、人を前にするのでない状況でも、声が聞こえることがあります。そしてこれは、声というものが、実際には何であるのかを示す重要な機会ともなります。

自分一人しかいないのに、前回説明したような、はっきりとした「人の声」が、外から伝わってくるように聞こえるのですから、これは、本当に尋常でない事態です。しかし同時に、本当を言えば、これによって、「声」というものは、みかけは人の声のようでも、実際にはそうでない、何か違うものであることを、はっきりと認識できる状況でもあります。

しかし、実際にこのような声を聞くとき、なかなかそういうことにはなりません。大抵の人は、このような状況でも、その聞こえる声を、何とか理由をつけて、現実の人の声であると受け取ってしまうのです。

たとえば、その声が誰か現実の人の声に似ていれば、その人の発する声と受け取ることになります。それは、もはやその人が現に物理的に発する声ではあり得ないので、言うならば「テレパシーの声」ということになるでしょう。実際、テレパシーの声は、物理的な距離とは関係なしに伝わるとされているので、理屈としてはそうである可能性はありますが、前回もみたように、具体的に声の性質や内容を鑑みるなら、とても、その本人の声などと解せない場合の方が、圧倒的に多いと思われます。

また、人によっては、その聞こえる声は、「指向性の電磁波装置」から発せられたもので、自分は、声を聞かせられる攻撃を受けているのだと解することにもなります。現代の科学技術の発展に照らせば、これも絶対にあり得ない発想ではありませんが、やはり、具体的に声の性質や内容を鑑みれば、実際にはとてもあり得ないものであるのが分かると思います。

いずれにしても、統合失調の人は、このような事態に至っても、というか、このような事態に至ったからこそでもあるのですが、そのような人の声を、現実の人の声でなく、何か他の違ったものであるという可能性を、極力認めない方向で解釈するのです。

その理由は、前回もみたとおり、「幻聴」そのもののリアルさや、幻聴が帯びている特別の力の影響にもよりますが、ここまで声に迫られる状況になると、もはや、その声が何か未知のものであることを認めることの恐怖ということに尽きます。

現実の人の声でないということには、一般に言う意味で、「幻聴」(実際には存在しないものを聞く)であるということも含まれますが、もはや、ここまで来ると、そのリアルさと差し迫った状況が勝るため、「幻聴」と理解することも困難です。「幻聴」であるということは、統合失調のような精神病ということを意味することでもあるので、その「病気」ということに対する恐怖も加わり、ますますそのような方向では解釈できないことになります。

しかも、この聞こえる声には、ヤスパースの言う「実体的意識性」という感覚が伴うことも多くなります。それは、「何者かが実際にそこにいるという確かな感覚」のことで、単にリアルということを超えて、実際に何者かの存在を関知せざるを得ないような状況になっているのです。

私の場合にも、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『14 「幻聴」から「幻視」へ』及び『15 「声」あるいは「存在」に取り巻かれること』で説明しているとおり、このように一人で部屋にいるときに声を聞くということも、起こるようになりました。ただ、その頃には、後に説明する「幻視」も、曖昧ながらも伴い始めるようになっていて、その幻視の助けも借りて、そのような声は、実際には、人の声ではあり得ず、現にその場にいるということの、かなり強く感覚できる、何者かの存在の声であるとしか考えられなくなるということがありました。

つまり、それまでは、どこかにまだ、現実の人の声とか、あるいは一般にいう幻聴かもしれないという疑いが、わずかにあったのですが、そのような疑いも解けるほどに、はっきりと何者かの存在による声であることを認識するきっかけとなったということです。

私は、恐らく、他の人の場合でも、「実体的意識性」を感じているような場合には、はっきりとは意識せずとも、何かしら「幻視」的な要素も働いていて、それが実際に何者かがそこにいるという感覚を強めているのだと思います。

いずれにしても、このように、自分ひとりしかいない状況で声が聞こえるようになるのは、統合失調的な状況に大分深く入り込んでいることを示すとともに、その「声の正体」を知り得る、重要な契機でもあるということになります。

人によっては、自分一人しかいない状況で声が聞こえるということこそ、その幻聴は、その者本人の中から生み出されていることを示すものだと解する人もいるでしょう。また、前回もみたように、声が自分しか知らないことに関わることを言ってくることも、その幻聴の声が自分の中あるいは心から生み出されていることを示すものだと解することでしょう。

確かに、その点だけを表面的に捉えれば、そのようにみなされる余地があるのですが、実際に、前回もみたように、声そのものの性質やリアルさ、内容、その他の状況を総合的に、また具体的にみるならば、そのように解することはとても無理なのです。後に説明しますが、この声は、逆に自分は知らないことを言ってくることもあって、後に、それが事実であることが確かめられることもあるのです。さらに言うと、声というより、その存在そのものがということですが、はっきりと分かるような物質的な現象を起こすこともあるのです。

何しろ、このように、統合失調の人の聞く声には、いわゆる「他者性」というものが明白にあって、自分の中にあるものでないことがはっきりと感じられる要素が多くあるのです。この点で、いわゆる「解離性幻聴」といわれる、自分自身の人格の一部の声を聞くようなものとは区別されるわけですが、それについては、また後に説明します。

 

2024年9月13日 (金)

設問13 「幻覚」というのは、具体的にどのように見られたり、聞かれたりするのですか。

設問13  「幻覚」というのは、具体的にどのように見られたり、聞かれたりするのですか。これまでの説明では、今一つ抽象的な感じで、具体的にイメージできません。

 

回答 まず、基本として、幻聴の声は、通常の(物理的な)声と、ほとんど同じように聞こえるということを押さえる必要がある。但し、注意深く観察すれば、そこには、「多少の違い」が認められるのも事実である。声そのものの性質にも、声の伝わり方にも、通常の声と比べると、独特の要素がある。そこに気がつくと、幻聴の声を幻聴の声として、通常の声と違うものであることに気づくことができるようになる。

 

解説 「幻覚」が具体的にどのように見えたり、聞こえたりするのかは、ほとんどの人が体験したこともないでしょうから、本当に分かりにくいことだと思います。しかし、そのように、幻覚がどのようなものかを知らないために、実際に自分が幻覚に見舞われたときに、それにどう対応してよいか、どう解したらよいかが分からず、混乱してしまうことが多いのです。

本当は、幻覚のことは、統合失調的な体験をする可能性がある思春期になる頃には、ある程度知っておくべき事柄です。しかし、それを、教えられるような人もほとんどいないし、そもそも、幻覚というのは、近代の社会において、一種タブー化されていて、表の話題に上ることもほとんどないのが現状です。

そこで、私としては、何回かの設問に分けて、これからできる限り詳しく、幻覚の具体的なあり様を説明していきたいと思います。

統合失調の場合、典型的なのは「幻聴」ですので、まずはどのように「声が聞こえる」のかを、説明していきます。私の場合、無意識領域で聞いていたのを、後に「思い出す」という形で「聞いた」のと、現にリアルタイムで「聞く」のと両方あるわけですが、どちらも基本変わりないので、両方の場合をまとめて説明していきます。

幻聴の場合、誰か通りがかりの人とすれ違うなどのときに、その人のものと思われる「声を聞く」というのが典型的なので、その場合を想定してみます。

まず、基本として押さえるべきは、「声」は、本当に誰かが外部的に「声をかけて来る」ときと、ほとんど同じように聞こえて来るということです。単に、頭の中で響いているとか、一種の「空耳」のように、聞こえていると思い込んでしまっているだけというようなものではありません。

すなわち、現実の「声」と同じように、はっきりした人の「声」としての「音声」が、その出どころと思われる通りすがりの人のあたりから、外部的にこちらに伝わってくるようにして、耳に(頭の中に直接というのではなく―但し、後に多少の違いを説明します)聞こえる、ということです。

まずは、そのように、幻聴というのは、通常の「声を聞く」のとほとんど同じように、リアルな知覚の体験であることを、押さえておいてほしいと思います。だからこそ、統合失調の人も、それを「現実の人の声」と混同してしまうのです。

「ほとんど」と言いましたが、その聞こえている「幻聴の声」を「幻聴」と疑うことをしたうえで、じっくり観察していかない限り、なかなかその違いに気づくこともできません。統合失調の人が、「現実の声」と混同してしまうのも、当然と言えるところがあるのです。普通は、自分がそのような声を聞くことになるとは、つゆとも予期していないからです。

しかし、先ほど言ったように、そこに、よくよく観察していくと、感じ取れるような、「多少の違い」というのがあるのも事実なのです。

両者を見分けようとするなら、その多少の違いに注目していくことが重要になります。それには、それが幻覚である可能性を多少とも意識していることが必要で、たやすく結論めいたものを出さないで(結論はかっこに入れるように保留して)、じっくり観察するという態度をとることが必要になります。「組織に狙われている」などというような、「妄想」を固めてしまった場合には、そのようなことは、ほとんど無理になってしまうのです。

幻覚についての知識がなく、いきなりそのような状況に見舞われたなら、そういった冷静な判断をとることが、いかに難しいか、分かるでしょう。だからこそ、あらかじめの知識が必要になるのです。

それでは、その「多少の違い」というのを説明していきます。

まずその「声」そのものに注目してみると、それは、確かに、「人の声」としての「みかけ」を有しているのですが、全体として、どこか「違和感」を感じる要素を含みます。こういった人の声というのは、統合失調の場合、「非難する」ものだったり、「嘲笑する」ようなものが多いわけで、それに特別に注意を向け、意識が囚われるようになるのも当然のところはあります。

しかし、それにしても、単にそれだけではない、この「声」には、「独特の響き」があるのです。あるいは、ある種の特別な「力」を帯びているとも感じ取られます。普通、人間が非難したり、嘲笑したりするだけでは感じないような、圧倒されるような、逆らい難いような、何かしら、これまでに体験のない、特別のものを感じ取るということです。

幻聴のこのような性質について、精神医学の一般的な解説書でも、たとえば、笠原嘉著『精神病』(岩波新書)は、「なにかしら地上性をこえた「超越性」を帯びている」といい、岡田尊司著『統合失調症』(PHP新書)は、「患者本人にとっては、 幻聴の声は、神の啓示にも似た強い呪縛力、 迫真性をもって感じられる」と言っています。

単に、リアルであるということのほか、このような、「独特の響き」のため、統合失調の人がそれに捕らわれてしまうことになるのも、理解できるというものでしょう。ただ、これは、逆に言えば、この「幻聴の声」を、通常の人間の声と区別する徴となるということでもあります。それは、通常人間が発するようなものでない、言葉の内容にもよるわけですが、その声の響き自体から、通常の人間の声としては、どこか「おかしい」、「尋常でない」という部分を感じ取ることができるということです。

「幻覚」について何も知らずに、ただ恐れを抱いていたら、そのようなことも難しいわけですが、「幻覚」についてある程度知れるようになれば、そういうことも、それほど難しいものではなくなるのです。

もう一つ、幻聴の声に捕らわれてしまう大きな理由として、幻聴の声の内容自体が、たとえば、自分しか知らないようなことに関わって来るということがあります。非難や嘲笑をして来るにしても、自分しか知らないはず(心の中にしかないはず)のことに関わることを捉えて、非難や嘲笑をして来るということです。

これには、「違和感」を感じるのは当然と言うべきで、また、自分の心が「さとられる」とか、外部に「つつぬけている」などという訴えに結びついてくることですが、この点については、後に改めてみることにします。

次に、「声の伝わり方」にも、多少の違いがあることを述べます。

先ほど、「声は、外部的にこちらに伝わってくるようにして、耳に(頭の中に直接というのではなく但し、後に多少の違いを説明します)聞こえる」と言いました。

幻聴の声というのは、やはり「声の伝わり方」にも独特のものがあって、通常の声と同じように、「外部的に伝わって来る」感覚がありますが、通常の声の伝わり方に比べると、どこかそのまま直接に、―必ずしも頭の中と言うのではなく、自分の中に響いてくるという感覚があるのです。だから、周りの声がはっきり聞こえないようなときでも、この幻聴の声は十分聞こえて来るし、普通は、聞き取れないような距離であっても、十分聞き取れるものになるのです。

通常の声も、特にそれに注意を向けて集中して聞けば、その声だけ特別に浮かび上がるということはありますが、この幻聴の声はそのようなレベルではなく、特別に意識されるものがはっきりとあるのです。この点も、統合失調の者が、この声を無視することが難しく、捕らわれて、振り回されることになりやすい理由です。

ただ、それと同時に、このことは、やはり、幻聴の声を通常の声から区別する理由にもなるもので、幻聴の声をある程度聞き慣れて、注意深く観察できるようになれば、その違いに気づけるようになると思います。

これまでの典型的な例とは別に、「声」を聞く場合として、通りすがりの人のような見知らぬ人ではなく、実際に知っている身近な人の「声」を聞く場合もあります。たとえば、実際に、身近でよく知っている人を目の前にするような状況で、「声」を聞く場合です。この場合、多少厄介なのは、実際にその人本人の声と思われるくらい、似た声を聞くことがあることです。

「声」の性質としては、その人本人のものとそっくりなので、その本人の声と即座に判断してしまいがちなのですが、やはり、この声にも、上に述べたような、「幻聴の声」としての性質はあるのです。だから、よく聞き分ける限り、そのような声も、その本人自身の声ではなく、「幻聴の声」であることに気づける余地があります。

ただし、これは、「幻聴の声」の正体が何であるかということとも関わって来ることで、その声が、実際にその本人から「発せられた」ものであるという可能性はあると思います。それにしても、それは、「幻聴の声」である限り、物理的に発せられた声ではありません。従って、その声は、聴いている人以外の他の人は聞かないであろうし、本人も、そのような声を発しているという自覚はないはずです。

それは、言うならば、一種の「テレパシーの声」ということになりますし、実際に、超心理学の実験などにおいても、「テレパシー」という現象自体はあることが、統計的に示されていますが、本人に自覚がない限り、そのようなものと確かめる手立てはありません。

いずれにしても、ここでは、「声の正体」を暴くのではなく、そのような声を「幻聴の声」として、現実の(物理的に発せられた)人間の声と区別することが目指されています。「声の正体」については、後に、もう少し踏み込んでみることになると思います。

 

2024年9月 7日 (土)

設問12 無意識領域の体験を「思い出す」ということの例は、夢を思い出すことのほかにもありますか?

回答 夢の場合以上に似た体験として、カルロス・カスタネダが、「高められた意識状態」で、ドンファンから受けた教えや、様々な体験を、後に「思い出し」て、意識化するようになったことがあげられる。それらの体験が、ただの「無意識の体験」なのではなく、一つの「現実」の体験であることを示す意味でも、この例は重要である。

 

解説 少し特殊な例になりますが、統合失調状況で無意識領域の体験を思い出すことに非常に似たものがあります。それは、人類学者カルロス・カスタネダが、ヤキインディアンのシャーマンであるドンファンから、教えを受けたり、様々な体験をさせられる領域に関わるものです。

カスタネダは、これらを「高められた意識状態」と言われる、通常の意識では感知できない一種の無意識領域で体験しており、後に、「思い出す」という大変な努力をして、意識化することができるようになります。それで、それらを、ドンファンシリーズと呼ばれる本に、報告することができるようになったのです。

意識領域では、認識したり、体験することが難しいような事柄でも、「高められた意識状態」である、無意識領域においては、体験できるようになるということです。実際、カスタネダは、無意識領域においても、意識領域とは別に、ドンファンと様々に交流したり、「精霊」との交流や、「カラスとなって空を飛ぶ」など、日常では普通起こり得ないような、特殊の体験をしているのです。

それは、実際、リアルな体験として体験されるし、その状況は、ドンファンや他の者とも共有されるもので、決して、カスタネダの中で閉じた「幻想」というものではありません。物質的な身体の移動を伴うなど、後に物理的に事実であることが確認できるものもあります。

ただし、それを「思い出す」のは、本当に「大変なこと」であるのは、私も体験したとおりです。これらの体験は、直線的な時間意識が支配する通常の意識の領域にとても収まり難いものだし、そもそも意識が受け入れ難いものとして、排除(抑圧)してしまうものでもあるからです。意識と無意識の溝というのは、特に現代人の場合、それだけ深いものがあるのです。

夢の場合は、睡眠時の体験なので、それが日常の意識とは別の無意識領域での体験というのが分かりやすいと思います。しかし、タスタネダの体験は、統合失調状況の場合と同様、覚醒していて、意識のレベルでは何事かを体験している状況で同時的にそれと並行するように、無意識領域で別の事柄を体験しているのです。

その体験は、意識領域で体験していることの背景で起こっているなど、意識で体験していることに関連していることも多いですが、もはや意識領域での体験からは断絶しているかのような、それこそ「夢幻的」で理解しがたいものもあります。私も、後に述べるように、強力な「悪魔的存在」との出会いや、「精霊」から攻撃を受けることなど、信じがたいことを、初めは、この領域で体験していたのです。

これらの体験は、もはや、単に無意識領域の体験というのではなく、カスタネダのドンファンが説明するように、多様な現実の中の、「もう一つの(別の)現実」の体験というべきものです。あるいは、その体験領域は、「非日常的意識領域」と言われ、「日常的意識領域」とは別に(並行して)存在する、一つの確たる「領域」なのです。

私は、これを「霊的領域」という伝統的な言い方で言いますが、基本的には重なるものとみていいと思います。ただ、初めから、いきなり「霊的領域」に入り込むのではなく、「霊的領域」のものが、この現実世界に重なるようにして、侵入してくるという感じになります。

ルドルフ・シュタイナーという神秘学者は、霊界に入る前に、この世界と霊界との境界領域である「霊界の境域」に入る、という言い方をしますが、この「霊界の境域」という言い方は私も適切であると思うので、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方でもよく使っています。

いずれにしても、無意識領域の体験であるからと言って、それは全くの「幻想」とか「事実でない」のではなく、通常の意識領域での体験とは異なる、もう一つの「現実」である(可能性がある)ということを、ここでは押さえておいてほしいと思います。

このような領域の体験を、ただの「幻想」や「混乱の反映」とみている限り、統合失調状況の理解などできるものではないと断言できます。

そして、私のように、その無意識領域の体験を思い出して「意識化」することができるようになると、それは、もはや無意識の体験ではなく、まさに意識がリアルタイムで体験する「現実」そのものとなっていくのです。それについては、また改めて、説明していきます。

 

2024年9月 5日 (木)

設問11 なぜ無意識領域で「声を聞いている」などということが、分かるのですか?

回答 無意識領域で「声を聞いていた」ことを、後にはっきりと、意識領域で「思い出す」という体験があったからである。この「思い出す」という体験を経て、幻覚をリアルタイムに意識しつつ体験するという信じがたい状況に入っていくことになり、同時に、何が起こっているか分からないという、どうしようもない状況を脱け出すことになったのである。

 

解説 前回述べたように、私も、あるときまでは、無意識領域で「声を聞いていた」のを意識にのぼらせることができずに、何が起こっているのか分からず、非常に混乱した状態にありました。ところが、あるときから、無意識領域で「声を聞いていた」のを、はっきり意識の領域で「思い出す」ということが起こったのです。

そして、この「思い出す」ということが起こってからは、幻覚を見たり聞いたりすることも、現に「リアルタイム」に意識できるようになりました

狂気をくぐり抜ける』の『ブログの趣旨』の後半でも説明していますが、このように「思い出す」ということで、それまで分からなかったことが明らかになった面は、統合失調の理解にとって非常に重要なことであるし、また他の解説書や、統合失調体験者の手記や話でも、このようなことをはっきり述べているものは、みかけることのないものでした。ですので、このことは、私が、独自に明らかにできる、非常に重要な事柄となります。

詳しい状況は、同ブログの記事『14 「幻聴」から「幻視」へ』や『17 「思い出す」ということ』でかなり詳しく述べているので、そちらを参照してもらえればと思います。今回は、この「思い出す」ということを、一般の人にもなるべく分かりやすく説明することにしたいと思います。

実は、無意識領域で起こっていたことを「思い出す」ということは、誰にも似た経験があります。それは、夢で何か「印象に残る」ことが起こっていたことは分かるが、努力してもなかなか思い出せないことを、後に、何かのきっかけで、「思い出す」ということです。これは、本当に、統合失調状況での「思い出す」ということに似ています。

努力してもなかなか思い出せないという状況も似ていますし、いったん何か一部でも思い出すことができたら、一気にその全貌が、かなり明白に思い出せるようになるのも似ています。

そして、このことは、誰においても、無意識領域で何ごとかを体験するということが実際にあることを、明らかにしています。

人によっては、「無意識領域で声を聞いていた」と言うと、それでは、「意識があった」ことになるので、実際には、「無意識領域で起こっていた」何事かを、後に意識の領域であれこれ考察して、「声として聞いていた」という風に解釈するのではないかと思うでしょう。

しかし、夢を思い出す例でも、夢の中には、日常の意識とは違っても、ある種の意識が厳としてあって、それが夢の中の映像とか声を聞いていたことが、はっきりと分かると思います。それと同じように、それまでは「聞いていた」ことすら分からない無意識領域での出来事が、意識において思い出されるときには、はっきりとその無意識領域下のある種の意識で「聞いていた」ことが分かるのです。

そして、それによってこそ、様々な影響を受けて、混乱していたことも分かるのです。それは、「解釈」や「考察」によって、明らかになったことではなく、ただ「事実として聞いていてこと」が明確に意識に浮かび上がるということです。

もちろん、その「無意識下に聞いていた声」そのものが、要するに「幻覚」なのだから、実際には存在しないものと、一般には解するのでしょうが、この明白に「思い出す」ことを体験すると、それはとても存在しないものなどとは解せないものになります。幻聴を聞くことそのものも、リアルな体験で、存在しないものを聞くことなどとは思えませんが、「思い出す」ということは、それと同程度のリアルなことで、むしろ、それまで「分からない」ことがはっきり浮上するという経過をたどる分、より「真実」のものという思いも強まるのです。

夢の場合は、覚醒時の意識と睡眠時の意識ということで、ある種の断絶があり、その「思い出した」夢の現実そのものが、覚醒時の意識と同程度のリアルな出来事とは解せない場合がほとんどでしょう。ところが、統合失調状況の「思い出す」というのは、その無意識下で起こっていた現実そのものに、リアルタイムで入っていくような感覚を伴います。つまり、現に「思い出して」いるその状況で、それを体験していたのとまったく同じ体験を追体験しているような状況なのです。夢の場合のように、それが現実の覚醒時の現実と異なるという感覚はなく、このリアルな現実そのものと同じレベルの体験と感じられるということです。

だから、「思い出す」ということは、それまで何が起こっているのか分からずに混乱している状況に対して、その状況から抜け出す、ある種の「光明」となるような、出来事でもあるのです。

ただし、その「思い出す」事柄は、要するに「日常的には起こらないような特別の声を聞いている」ことで、とても信じがたく、怖いことでもあるので、そのこと自体がもたらす、新たな怖れも、大きなものとはなります。しかし、それでも、何が起こっているか分からないで行き詰っている状況を打開し、新たな理解の可能性を開くものではあるのです。

実際、私の場合、ここから、幻覚をはっきり意識するような、統合失調状況そのものと言うべき、まさに信じがたい「非日常的」状況に入るということが起こりました。それは、多くの混乱と怖れをもたらすものではありましたが、同時に、それによってこそ、新たな理解の可能性も開けることになったのです。

先に述べたとおり、夢の例では、その「声を聞く体験」自体の現実同等あるいはそれ以上と言っていい、「リアリティ」まで伝えることができず残念ですが、とりあえず、「無意識領域で声を聞く」ということがあること、それを実際に「思い出す」ということがあることは、明らかにできたと思います。

 

2024年9月 2日 (月)

設問10 「幻覚」は、いきなり見えたり聞こえたりするようになるのですか?

回答 統合失調の場合、「幻覚」は、いきなり見えたり聞こえたりするようになるのではない。幻覚のようなものがない時期と、幻覚が見えたり聞こえたりする時期との間に、あやふやな中間期のようなものがあって、その時期こそが一番厄介な時期なのである。

この中間期には、幻覚がないのではなく、幻覚は無意識領域の意識に近いレベルでは働いていて、その影響が、はっきりと意識を捉えるまでになっている。そのため、何か尋常でないことが起こっていることははっきり分かるが、しかし、その内容が、様々に模索しても、はっきりと意識できないので、具体的に何が起こっているか分からず、不安定で、不安と恐怖の支配する状況となってしまう。

 

解説 統合失調の場合、「幻覚」は、いきなり見えたり聞こえたりするようになるのではありませんまったく幻覚のようなものがない時期と、幻覚が見えたり聞こえたりする時期との間に、あやふやな中間期のようなものがあって、その時期こそが一番厄介と言える時期なのです。

この中間期は、特に、幻覚があるわけではないですが、周りの人が自分に注目しているとか、自分を監視しているように感じるなど、何かこれまでに体験のない、尋常でないことが起こっていることを、確かに感じとることになります。勘違いとか、気のせいとかそんなことではないことは、確かに分かるほどの、はっきりした、周りの世界の「変化」を感じとるのです。

けれども、いろいろ考え、模索しても、それが何かはっきりとは分からないので、悶々とし、非常に不安定で、不安と恐怖の支配する時期となります。

この時期に、それは、自分が「組織に狙われているからだ」などの「妄想」を固めてしまう人もいるでしょうが、それは、このような不安定な状態に耐えられないからそうするので、本来、本当に、何が起こっているのか分からず、どうしようもなく、耐えがたい状況なのです。

私自身、振り返っても、後の幻覚をはっきり認める時期に比べても、この時期が、一番辛く、どうしようもない時期だったと思います。

精神科医中井久夫も、統合失調症の急性期の本質は、「恐怖」であるとして、次のように言っています。(『最終講義』みすず書房)

「もっとも強烈な分裂病体験は恐怖であるとサリヴァンは考えていました。私も賛成します。一般には幻覚妄想などを以て分裂病の特徴と考えているようです。」

「恐怖はいつも存在します。しかし、時とともにおおむねは、恐怖から幻覚・妄想・知覚変容などに比重が傾いてゆくと私は思います。そのほうが少しでも楽だからです。これは生命がそうさせてゆくとしか言えません。恐怖は意識性を極度に高めますが、幻覚・妄想・知覚変容などはそれほどではありません。」

ただ、恐怖が耐えがたいために幻覚に移行するというのは(一面は正しいでしょうが)、やはり幻覚は「ないものを知覚すること」という前提に捕らわれたが故の見方の面があります。幻覚というものが、事実を反映するものではないから、恐怖に対抗するようにして、脳または心の中に、生み出されてしまうのだという発想になるのです。

しかし、実際には、この時期には、幻覚をまったく見たり聞いたりしていないのではなく(幻聴の場合が典型的なので、以後適宜、「声を聞く」と言い換えます)無意識領域の、しかしかなり意識に近いレベルで、はっきりと声を聞いているのです。意識に近いレベルではあるので、その影響ははっきりと意識を捉え、何か尋常でないことが起こっていることは確かなこととして感じとられるのです。しかし、具体的に、何が起こっているのか、「何を聞いているのか」までは、意識が一生懸命模索しても、なかなか分からないのです。

意識と無意識の溝というのは、現代人の場合特に深いものなので、たとえ、意識に近いレベルで起こっていることでも、その溝を埋めるということは大変なことなのです。ましてや、無意識の領域の、より深い領域で起こっていることには、意識はほとんど気づくことができず、その影響というのも、ほとんど感じとることのできないものになってしまいます。

先に、中間期の前には、幻覚を全く見ることも聞くこともないといった、初めの状態があると言いました。しかし、ここでも、実は、無意識領域の深いところでは、そういうものを見たり聞いたりしている可能性があるのです。ただ、それが通常、意識に影響することはなく、意識が捉えることもないため、何も起こっていないように感じられるのです。人によっては、このときに、ある程度意識に影響を受けて、何らかの統合失調的な反応をしてしまう人もいるでしょう。その場合には、実際発病する前の、少年期や思春期に、統合失調的なエピソードを伴うことになるでしょう。

さらに言えば、このように無意識の深い領域で、何らかの幻覚的なものを見たり聞いたりしていることは、統合失調の人だけでなく、一般の人にも言い得ることなのです。ただ、一般的な人は、通常、それ以上に、幻覚が意識に浮上することがないので、それに影響を受けたり、意識されることも、全くというほどないだけなのです。

このように、(物理的なレベルにはないものを見たり聞いたりする)幻覚というものは、確かに存在するもので、しかも多くの人の無意識領域の奥では、常に働いていると言えるほど、(潜在的な)影響力をもつものなのです。統合失調においては、このような幻覚というものが、様々な理由で意識に上りやすいため、まだ意識にはっきり捉えられない段階でも、強い影響を受けて混乱している状態にあることを、改めて確認してほしいと思います。

ただ、このような、中間期というものは、統合失調の本人が必ずしもそのように意識できるものではなく、人によっては、いきなり幻覚を見たり聞いたりすると感じるでしょうし、そもそも幻覚を見たり聞いたりすると意識することすらできない場合も多いのです。

設問7で説明したように、具体的に「目の前にする人物の声を聞く」という典型的な例では、現実の声と混同しているため、それが幻覚であることを意識する可能性に乏しいですし、そもそも(物理的に存在するものでない)幻覚を見たり聞いたりしていると認めることは、心理的に困難なものだからです。このあたりは、「病識がない」と言われることとも関わってくるので、また後にもう少し詳しく説明します。

いずれにしても、統合失調の人が、必ずしもそのように認識するというのではありませんが、幻覚というのはいきなり見たり聞いたりするのではなく、それまでは無意識の奥に働いていたものが、はっきり意識に影響を与えるようになる中間的な時期を経て、後に、幻覚として意識されるようになるのだということを、明らかにしておきます。

 

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