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2024年8月

2024年8月28日 (水)

設問9 「幻覚」を見ているときと、現実にあるものを見ているときでは、脳の状態に違いがあるのではないですか?

回答 「幻覚」を見ているときと、現実にあるものを見ているときでは、脳の状態をみる限り、何ら違いがないことが分かっている。脳の状態としては、「現実の知覚」と「幻覚」を区別することなど、できないということである。さらに、「知覚」という現象自体、脳科学的には、外界の現実をそのまま映しとるものではなく、視覚的な情報を脳が思考や記憶などを交えて、再構成してできたものであることが分かっている。

脳科学的には、「現実の知覚」というものが、「幻覚」とは別の確かな基盤があるものではないのである。

解説 「幻覚」を見ているときと、現実にあるものを見ているときでは、脳の状態をみる限り、何ら違いがないことが分かっています。

たとえば、色の幻覚を見ている人と実際に色を見ている人の脳の状態は、「視覚野」とよばれる、脳の視覚に関する領域の色に関る領域が同じように活性化しています。人の顔の幻覚を見ている人と実際に人の顔を見ている人の脳の状態は、脳の視覚に関する領域の人の顔に関る領域が同じように活性化しているのです。それらの間には、脳の状態として見る限り、何の区別のつけようもないのです。

しかし、単に何かを見ていると想像している人と実際に幻覚を見ている人の脳の状態は、はっきりと区別できます。想像している人の脳の視覚野は、活性化していないのです。(これらについては、たとえば、オリヴァー・サックス著『幻覚の脳科学──見てしまう人びと (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)』第1章参照)

これらのことは、幻覚を見るということは、単なる想像ではなく、実際の知覚と同じようにリアルな現象であることを、はっきりと示していると思います。

さらに、これらのことは、(「幻覚」と脳の状態としては異ならないような)「知覚」とはそもそも何なのか、あるいはさらに踏み込んで、それでは「現実」とは一体何なのか、「現実」なるものは確たるものとしてあるのか、という根本的な問題をも引き起こします。

脳の状態として、実際に何かを見ることと幻覚を見ることが区別できないなら、それらは、同じように「現実」であるとも、あるいは同じように「幻覚」なのだとも、両面から言えることになるでしょう。

もちろん、実際には、何か見ているとされるものが、多くの人に共通して、同じものを見ていると判断されるとき、それは「現実の知覚」とみなされるし、多くの人が、同じものを見ていないと判断されるとき、それは「幻覚」とみなされます。しかし、それらは、「事実上」のことであり、問い詰めれば、それらを区別する明確な根拠というものがあるわけではありません。「同じものを見ている」というときも、果たしてそれが厳密に同じと言えるかどうかには疑問があり、ただ、その「同じもの」というのは、文化や習慣が共有されることによって、漠然と規定されているに過ぎないという可能性があります。

いずれにしても、我々の知覚というのは、それくらい、「怪しい」ものであることが分かって来ているのです。

そして、最近の脳科学は、そのような「知覚」という現象、「見るということ」が、何か外界にあるものをそのまま映しとるというものではなく、網膜に入った外部的な刺激を分解して脳に入れ、脳がそれらを思考や記憶などを交えて、再構成してできたものであることを明らかにしています。

たとえば、藤田一郎著『脳はなにを見ているのか』(角川ソフィア文庫)では、このことを次のように言っています。

「ものを見ることの本質は、そうやって網膜でとらえられた光情報にもとづいて、外界の様子を脳の中で復元することである。その復元されたものを私たちは主観的に感じ、また、復元されたものにもとづいて行動するのである。」

さらに最近では、これらのことをもう一歩推し進めて、「知覚」にしろ、その他何にしろ、我々が脳の中で構成するものは、すべて「現実」を反映するという根拠は何もなく、それらは要するに、脳の中の「仮想現実」に過ぎないという見方もされるようになっています。

日本では、解剖学者養老孟司の『唯脳論』や、脳科学者茂木健一郎の説などがそうです。

さきほど、「脳の状態として、実際に何かを見ることと幻覚を見ることが区別できないなら、それらは、同じように「現実」であるとも、あるいは同じように「幻覚」なのだとも言える」と言いましたが、これらの説は、両者を「幻覚」の方に引き寄せて、脳の中に構成されるものは、すべて脳が生み出した一種の「幻覚」であるとするものです。実際に、先の2人は、「<現実><幻覚>を区別できる根拠はない」と言っています。

これらの見方は、「霊的な知覚」なるものを認め、それを一種の「現実」とする、私の見方とは違うのですが、一貫していて、また私も、必ずしも脳を中心には捉えませんが、すべての現象は一種のホログラフィであり、「仮想の現実」であるという見方をするので、重なる部分は十分にあります。だから、私も、現実の知覚も幻覚も、一種の幻覚なのだという言い方には、必ずしも反対はしません。

ただ、現在において、一般のものの見方や精神医学のものの見方は、明らかに「現実の知覚」と「幻覚」を区別し、「現実の知覚」は正しいもので、「幻覚」は間違ったものだから、排除(治療)しなければならないという考えをしています。

その「現実」に照らすと、私は、やはり、とりあえずは、「現実の知覚」も「幻覚」も「現実」の方に引き寄せて、「<現実の知覚>というのも、<幻覚>というのも、一種の「現実」には違いない」ということを強調する必要を感じます。

「幻覚」と言われるものが、通常の物質的なものの知覚と同じと言うのではないですが、「霊的な領域」において現実に存在するものの知覚に基づいているのだということを、訴えて行きたいのです。


2024年8月25日 (日)

設問8 「幻覚」と聞くと、どうしても、「実際にはないものを見たり聞いたりすること」というイメージになってしまいますが。

回答 「幻覚」が、近代以降、「実際にはないものを見たり聞いたりすること」という意味で使われているのは事実である。しかし、それは、知覚の対象物として、「物質的なもの」のみが存在するという、近代の発想を反映しているに過ぎない。「幻覚」という言葉を変えることは難しいが、「幻覚」には、通常の(物質的なものの)知覚とは異なるが、実際に存在するものの知覚を含むという風に、意味合いを変えて理解することが必要である。

 

解説 「幻覚」というのは、英語の「hallucination」や「illusion」でも、日本語の「幻覚」でも、「実際にはないものを見たり聞いたりする」という意味で使われているのは事実です。読んで字のごとくで、「幻」を「覚する」ことなのだから、イッコーさんでなくとも(笑)、「まぼろし」という意味合いをそこに含ませるのは当然のことでしょう。

 

古典的には、「対象のない知覚」などと言われ、最近は、ウィキペディアでも、「外部からの刺激がないときに、現実の知覚と同じような性質を知覚すること」と説明されているようです。どちらも、「対象物がない」、「外部的な刺激がない」等、実際には「存在しないもの」を知覚することが意味されています。「対象物がある知覚」が、「現実の知覚」ということになります。

精神医学になると、「間違った知覚」とか「歪んだ知覚」などとも言われ、それが「正しくない」ものであり、「歪んだ」ものだから、「治さなくてはならないもの」という意味合いを強調されます。「幻覚」それ自体に、「病的」なイメージを、かなり強く塗り込んでいるということが言えます。

いずれにしても、これらは、「物質的なもの」のみが存在するものであり、「対象物」があることが、外界に確認できる知覚(実際には、後にみるように、多くの者が共通して知覚するということ)のみを「現実の知覚」とするという、「近代」の発想から来たものです。

本来、物質としての「対象物」がある知覚でなければ、それは「存在しないものである」とは当然には言えないはずだし、現に近代以前には、物質的でないものを知覚することは可能とされていました。しかも、それは、近代に比べれば、かなりの人に可能だったのですが、誰もが共通に知覚するわけではなく、一部の者の知覚する、一種の特殊な知覚であることには違いないものでした。

近代は、そのような、誰にも共通に知覚されるものでないものは、「幻覚」と呼び、存在しないものの知覚であることにしたのです。そして、さらにそれを、「間違った」「病的なもの」として、病気の症状の一つとしたのです。多くの者には知覚できない知覚、そのような「特殊」の知覚は、認めることのふさわしくないものとして、「排除」することにしたのです。

実際には、単に「幻覚」があるというだけで、ことごとく「幻覚」が「病気」とされたわけではありませんが、結局は、それによって、周りに危険な感じを与え、隔離させる必要を感じさせるようなものを、「病気」として、強制的に病院に隔離し、治療させることにしたのです。

その意味では、精神医学というのは、物質的なもののみを存在するものとする、近代の新たな発想を裏から支える、強力な執行機関の役目を与えられたと言えます。現実に、強制的な力をもって、それに反する物の見方をする者を「排除」するなり、「矯正」することが、できる立場にあるからです。

そのようにして、近代社会の発想が常識として行き渡ることになった現在、「幻覚」という言葉が使われる時点で、それは、「存在しないものの知覚」であり、「誤ったもの」だというイメージになってしまうのも、当然のことと言えるのです。

「幻覚」という言葉が使用されること自体が、強力なイデオロギー的な意味を帯びて、近代の発想や精神医学の発想を、当然視する見方を支えているのです。

ただ、(これは、「妄想」という言葉にも言えることですが)もはや「幻覚」ということで定着してしまった言葉を変えることは難しいし、「幻覚」という言葉を使いつつも、その意味合いを、通常の知覚とは確かに異なるが、実際に存在するものの知覚の一つであるという意味合いに変えていくことは、不可能ではないと考えます。

そこで、今後も、「幻覚」という言葉を使っていくので、私がその意味合いを、このようなのとして使っていくことは、押さえておいてほしいと思います。

また、統合失調の幻覚においても、上に述べたことは、全く当てはまるのですが、前回みたように、統合失調の人の幻覚を表現された形態でみる限り、明らかな「誤り」といえるようなものが多いことは事実なのです。妄想においては、それはさらに強まります。

それが、問題をややこしくしているし、統合失調の場合、「幻覚」=「誤り」という見方が当然視されるところはあるのですが、統合失調の人の見たり聞いたりしている「幻覚」そのものは、本来、実際に存在するものと言わなければならないということが、前回述べたことなのです。

次回以降は、幻覚についての脳科学の知見や、幻覚にも具体的に多くのものがあるので、それらを参照しながら、統合失調の幻覚について、さらに踏み込んでみていきます。

2024年8月19日 (月)

設問7 統合失調の人が見たり聞いたりする「幻覚」は、本当に存在するものを、見たり聞いたりしているということですか?

設問7  統合失調の人が「憑依」の影響を受けているということは、統合失調の人が見たり聞いたりする「幻覚」は、本当に存在するものを、見たり聞いたりしているということですか?

 

回答 限定つきだが、これも基本そのとおりである。ただし、統合失調の人は、それまでに経験のない不安と怖れに満ちた状況にあるので、そのような「感覚」をまともに見極めて、表現することは難しい。それで、その表現は、いくらかの歪みを受け、結果として、そのまま受け取る限り、明らかに「誤り」とされるようなものになってしまうのである。

 

解説 これも、かなりの限定をつけてですが、基本そのとおりということになります。

統合失調の人は、周りの人には、明らかな誤りと思われるような幻覚を訴えて来ることが多いです。しかし、それは単なる「誤り」ではなく、実際に存在する何ものかを感覚していて、それに基づいて、その統合失調の人なりに、「真実」と思われることを表現したものなのです。

具体的に例をあげて示していくことにしましょう。

たとえば、統合失調の人にとって最も典型的な幻覚は、幻聴で、道行く人などが、自分にかけてくると感じられる、嘲笑的だったり、避難を帯びた言葉()だったりします。それも、単に、何の脈絡もなく、無意味にかけて来るのではなくて、たとえば、自分が気にしていたり、しようと思っていたことなど、心にあることと関連することを、ついて来ることだったりするのです。

そして、その「声」は、通常の視覚や聴覚とほとんど同様、またはそれ以上の確かさ(強烈さ)をもって感じられるものです。しかも、それは、何か逆らい難い、特別の力を帯びたもののように感じられます。無視しようとしても、難しく、どうしても捕らわれてしまって、そのことが心から離れなくなります。

そういうことが、たまにとか、単発にではなく、ほとんど日常的に、頻繁に繰り返されるのです。なので、統合失調の人は、そのような「声」が真実の声であることを疑うことが、難しくなります

統合失調の人の訴える「幻覚」(人の声)は、その人の表現のまま受け取る限り、「誤り」であり、「真実でない」ことは確かです。例えば、「道行くAという人物が、何々という声をかけて来る」と表現された幻聴は、実際には、Aという人物は、そのような声はかけておらず、その意味では明らかな誤りとなるのです。

ところが、そのAという人物の声とされる「声」そのものは、実際に存在していて、統合失調の人は、それを現実に目の前にしているAという人物の声と混同しているのです。

統合失調の人も、(バカではないので)「声」そのものは実際に存在しているからこそ、それを否定しようにも否定できず、それに捕らわれて、振り回されるほどのことになるのです。また、周りの人がどのように言っても、それよりも自分自身の「確かな」感覚の方を信じて、それを拒否してしまうのです。

単に、自分の頭の中だけに聞こえる(自分の頭が作り出している)とか、心の中だけにあるというものではありません。

ただし、「実際に存在する」と言いましたが、それは、物理的に存在しているということではなくて、やはり、一種の「見えない」「霊的な」領域に存在するものです(他にいろいろな言い方がありますが、以後「霊的な領域」ということで統一します)。この点は、これまでの科学の見方や近代社会の常識と反するので、もっと詳しく、根拠をあげながらみていく必要がありますが、ここでは、まずは、典型的な例を通して、統合失調の人の訴える幻覚というものの、少なくとも基本には、本当に存在するものがあることを押さえてもらうことが重要です。

しかし、統合失調の人も、それまで近代社会の常識の中で生きていた人なので、いざ自分がそのような異様な、特別の声を聞くなどということに見舞われたとき、とても、そんなことは信じることができないのです。あるいは、恐怖のために、そのようなことはあってはならず、とても、受け入れ難いのです。

そこで、統合失調の人は、このような感覚(声)を、霊的なものとか、何か未知のものなどとは解さずに、でき得る限り、それまでの現実に実際に存在するものの延長上に、解しようとします。それで、その感覚()を、実際に存在する道行く人に結びつけて(感覚としてもそのように思えるものがあるのは事実なのですが、なぜそうなるのかについては、後に述べます)、その者の声として、受け取ってしまうのです。

さらに言うと、統合失調の人は、既に、様々な不安や恐怖から、自分で自分の思考がコントロールしにくいような、混乱した状況にあるので、どうしても、起こっていること(感覚)を、冷静に見極めることは難しいことになってしまいます。

それで、元々の感覚には、本当のものがあったとしても、それはいくらかの歪みを受けて表現され、周りの者からみれば、明らかに「誤り」というものになってしまうのです。

これも、後により詳しくみますが、このようなことは、より「解釈」の要素が占める「妄想」になると、ますます大きくなり、誰が見ても、「誤り」としか思えないような信念を確信してしまうことになるのです。

そういったことから、まずは、統合失調の人は、基本には、本当に存在する感覚がありながらも、その表現された形態をそのまま受け取る限り、「誤り」になってしまうような、幻覚と呼ばれるものを見たり、聞いたりしているのだということを、押さえてほしいと思います。

 

2024年8月14日 (水)

設問6 「統合失調の原因の重要な要素は憑依現象である」ということですが、どのような意味で、「重要」なのでしょうか?

回答 一言で言うと、「統合失調の<最も統合失調らしい>部分の現われの、原因となる」からである。それは、統合失調の発症の前ではなく、現に統合失調を発症した状況で、受ける影響が大きな部分である。この部分に目を向けない限り、統合失調の具体的な理解は望めないのである。

解説 本当は、統合失調の原因と考えられるものを一つ一つあげていって、その中で、特に「憑依」現象が重要であることを示した方がいいのですが、それをするのは、もう少し後のことになるでしょう。

ここでは、原因として「重要」であるということの意味を、感覚的に分かり易く、端的に示しておきます。それは、一言で言うと、「統合失調の<最も統合失調らしい>部分の現われの、原因となる」ものだからなのです。

統合失調の人は、幻覚や妄想に振り回されて、混乱または錯乱し、周りの人にとっても、いかにも「危うい」感じを与えます。周りの人にとっては、あり得ないと思われることを、強く確信して、訴えてきたり、それに基づいて行動したりします。周りの人が、どのように説得しても、聞き入れる様子がありません。その内容は、「何かの組織に迫害される」というものが多いですが、ときに、宇宙人や神が出て来て、この世の終わりを説いたり、突拍子もないことをするようなものもあります。

そにには、どことなく「無気味」で「異様」な感じ、「おどろおどろし」く、「信じがたい」要素がまとわりついています。

統合失調は、「了解不能」とも言われるように、他の精神病とされる「病気」に比しても、明らかに、理解しがたい、不思議な部分があるのです。それこそが、人々に、本能的と言ってもいいような、「危険」な感じを与え、関りを避けようとさせ、病院などへ「隔離」させる必要を感じさせるのです。

また、このような信じがたい部分が本当には納得できないために、これまで言われて来た「原因」というものが、十分に認められることがなかったのです。「脳の病気」とか「頭がおかしい」というのも、とりあえず、「分かったこと」にするための、レッテルのようなもので、これで本当に心から納得するという人は、あまりいないと思います。

このようなことこそ、「統合失調の最も統合失調らしい」部分の現われだとすれば、そのようなことの原因となる主たる要素が、「憑依」によっている、というのが、「統合失調の原因の重要な要素である」ということの意味です。

実際、「憑依」ということを鑑みることなくして、統合失調を本当に理解することなど、無理と断言できるし、近代以前または西洋近代以外の文化が、普遍的と言っていいほどに、このような現象を(大枠として)「憑依」とみなしてきたことには、それだけの理由があるのです。

しかし、近代社会は、それらを、まさに「おどろおどろしい」「不合理」のものへの「怖れ」のため、「排除」してしまったのです。

先に、統合失調の原因は、具体的には後に見ると言いましたが、一つの大枠的な捉え方を示しておきます。統合失調の原因を、元々の先天的な性質、発症するまでの過程で受けた影響、発症してから受ける影響の三段階にしぼってみることができます

そうすると、それは、次の図のようになります

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元々の性質に精神面と身体面の特性があることは分かり易いと思います。元々の脳の脆弱性があれば、それはこれに入りますし、憑依という観点から、「霊媒体質」というのも、身体面の遺伝的な性質があると言えます。また、発症するまでに受ける親の影響や不適応感、様々なストレスが作用するというのも分かると思います。

しかし、精神医学にしても、精神病理学や精神分析にしても、原因を探るというときに考慮するのは、ここまでの段階で、発症してからの影響などには目を向けないのです。それは、発症してしまうことが、幻覚や妄想という症状に陥るという「結果」なのであって、もはや「原因」の問題ではないからということになるのでしょう。具体的には、発症することにおいて、自己または脳の働きが大きく「阻害」ないし「崩壊」されてしまっていて、幻覚やら妄想も、単にその表れの一つに過ぎないとみるからです。

ところが、実際には、発症して、「幻覚」(特に幻聴)を明白に見たり聞いたりすることが、その後の状況に大きな影響を与え、「妄想」の内容にも大きく影響を与えるのです。いわば、そこからが、本当に統合失調らしい現象に遭遇する入口なのです。

先に見た、異様な混乱や錯乱、無気味でおどろおどろしい要素など、周りから見ても、「統合失調の最も統合失調らしい」現われというのも、このことから生じてくるのです。そして、そのような状況を起している主要な原因こそが、「憑依」現象ということなのです。

精神医学にしても、精神病理学や精神分析にしても、この部分を、単に病的な結果の現われに過ぎないものとみなして、具体的な関心を向けないがために、最も統合失調の統合失調らしい部分を取り逃がしてしまっているのです。

 

※ ここまでの設問で、全体のごく大まかな総論的な部分を提示できたと思います。これから、具体的、細目的な部分を少しずつ明らかにしていきますが、それについても、これまでのように、まず総論的なことを述べて、徐々に細目的な部分を明らかにていくスタイルをとることになると思います。

 

2024年8月12日 (月)

設問5 近代以前の見方である、「精神病は憑依現象である」という見方の方が、正しいということなのですか?

回答 限定つきだが、そのとおりである。統合失調の原因は一つではないが、その重要な要素が、「憑依」現象によると言い得る。近代の精神医学は、そのような見方を、当然に排除するからこそ、統合失調の原因の主要な要素を、見逃しているのである

解説 これも、ある意味というより、限定つきになりますが、そのとおりです。

近代以前のこのような見方は「迷信」であって、だからこそ近代社会は、そのような見方を排して、「合理的」な科学的な方法で「病気」に対処することにしたのだという、一般に行き渡っている理解をしていると、このようなことはとても信じ難いことでしょう。

しかし、「憑依」現象なるものが、科学的に否定された(ないものとして証明された)ことなどは、一度もないし、現に現在でも、多くの文化が「憑依」現象を信じていて、日本においても、伝統的に信じられて来た「憑依」現象を信じる人は、多くいます。

そして、現在でも、霊能者等、それを明白に体験する人が多くいますし、私自身、統合失調の体験において、明らかに「憑依」現象と言うべきものを、ずっと体験して来たのです。

いずれにしても、「憑依」現象という、それまでの文化で信じられて来た見方を、当然に排除することはできないし、それを排除することを前提にすることで、統合失調の原因を探ることに、大きな制約をもたらしていることは、これまでの設問で見て来たとおりです。

実際、これから詳しく見ていくように、「統合失調」の原因のかなり重要な要素が、「憑依」によるとみることは、確かにできるのです。従って、それを排除したのでは、「統合失調」の原因として十分納得できるものが、見出されるはずがないのです。

ただし、「憑依」という言い方は、とても曖昧で漠然としていて、捉え難いのは事実です。

一般に、何らかの存在(見えない「霊的存在」)に、身体を乗っ取られるような状態を言いますが、必ずしも、乗っ取られるまで至らなくとも、そのような存在に影響を受けて、身体や思考の自由を奪われることはいくらもあるし、そのようなものも、「憑依」と呼ばれることがあります。

「統合失調」においては、全面的に「乗っ取られる」というようなことはほとんどなく、その強い働きかけにおいて、大きく影響を受けて、身体や思考の自由を奪われている状態ということができます。そして、そのような場合をも、「憑依」と呼ぶことができるならば、確かに、「統合失調」の原因の重要な要素が、「憑依」によると言うことができるのです。

あるいは、「憑依」する存在ということでも、様々なものが想定でき、それによって、「憑依」の性質も大きく変わります。必ずしも、悪意を持って影響を与えるのではなく、善意で、保護的な働きをするものもあります。「統合失調」の場合は、かなり明白な悪意をもって、積極的に働きかける存在の影響が顕著だということが言えます。

今回は、冒頭の設問に答えることを目的に、「憑依」について、ほんの概要を説明するだけなので、そう言える根拠や、その詳しい状況は、おいおい明らかにしていきます。

ただ、「統合失調の原因」というとき、それは一つではなく、様々な原因が複合的に重なって作用するし、また一見一つの原因のようでも、それは様々な観点から複合的に見られ得るということを確認しておくことは重要です。

ですので、私は、「統合失調の原因が、<憑依>現象に尽きる」などと言うのではありません

たとえば、「憑依」を受けやすい性質(霊媒体質などと言われる)というものがあるとして、それには、身体の様々な状態や、遺伝的な性質も作用します。「憑依」と言う現象においても、身体レベルの「原因」を様々にあげることはできるということです。

あるいは、「憑依」現象は、脳においても、強い作用を受けていますので、脳に様々な「異常」が現れることは、当然考えられます。だから、脳のレベルにおいても、様々な「原因」を見出すことは、できないことではありません。

従って、「統合失調の(重要な)原因は、<憑依>である」と言っても、それは、精神医学のあげる、身体や脳の原因、あるいは、精神病理学や精神分析などのあげる主観的、無意識的な原因を「排除」するものではありません。それらは、原因のある要素、あるいは、ある原因の表面的な要素を捉えている可能性はあるのです。

ところが、精神医学の身体や脳に原因を見る見方は、明らかに「憑依」という見方を「排除」するものですし、それは、一般の精神病理学や精神分析においても、同じことでしょう。

そのような「排除」こそが問題であって、そうすることでは、原因の主要な部分を見逃すことになってしまうということなのです。

 

2024年8月11日 (日)

設問4 精神医学も様々な観点から原因を探って行った結果、特定の原因を見つけることができなかったので、身体または脳の病気ということに落ち着いたのではないですか?

設問4  統合失調の原因は、様々な側面から探って行く必要があるということですが、精神医学もそのように様々な観点から探って行った結果、特定の原因を見つけることができなかったので、現在のように、身体または脳の病気ということに落ち着いたのではないですか?

 

回答 ある意味ではそのとおりだが、それは、身体や脳に原因が見出されたということなのではない。身体や脳の病気という見方の方が、もともと精神医学が誕生する段階から要請されていた、統合失調の「危険な状態」に対処するという必要性を満たすものと、みなされたからである。

 

解説 ある意味ではそのとおりです。

精神医学特に精神病理学や、精神分析では、当時なされていた、統合失調は「了解不能の脳の病気」という単純な見方に疑問をもち、主観的に了解し得るような原因や、無意識の奥に潜む原因について、様々に探究がなされました。あるいは、社会学的な観点から、統合失調が作り出される原因を探ろうとした人たちもいました。

そして、そのような探究は、それなりの説得力をもつものをもたらしました。

しかし、それらの探究は、人によって異なる結論で、統一性に乏しかったり、具体的に治療に結びつくような効果が、十分に見出されたというわけでもありませんでした。あるいは、一般には、単純に「母親の育て方」の問題とされるような見方もされ、母親に責任を押し付けることで済ますようなことも起きました。

これらの精神医学の探究や説については、後に、もう少し具体的に見ることになると思います。

何しろ、それらの探究は、統合失調の原因を見出し、対処の仕方を明確にするという意味では、必ずしも成功するものではありませんでした

設問13でも述べたように、統合失調への見方は、とにかく、現に現れている「危険な状態」を解消し、治療=対処の方法を明らかにするという必要性から生じているので、これらの探究は、そのような要請を満たすことができなかったと言えます。

それで、そのような要請を満たすものとしては、主観的な了解や無意識、社会的な関係などではなく、もっと客観的で、誰もに共通に当てはまる(少なくとも、そのような見かけを持つ)方法を編み出し、たとえば薬のような、身体医学と同様の物質的な方法でマニュアル的に対処し得るようにすることが必要と、多くの者には思われたのです。

そこに、科学技術の発展によって、ますますそのような物質的な方法こそが、医学の発展をもたらす道とみなされ、また、よりよい治療の方法が見出されるという希望的観測も強まり、現在は、設問2で述べたような、薬物療法中心の治療法や、マニュアル的な診断法が行き渡ったということが言えます。

だから、それらは、様々な観点からの原因の探究がなされた結果、十分のものが見出されなかったからでは確かにあるのですが、かと言って、身体や脳に、そのはっきりとした原因が見出された結果というわけでもないのです。

そもそも、たとえば日本では、明治の初期から、海外の精神医学を学んだ者やメディアにより、精神病は、(狐などの憑依現象ではなく)「脳の病気」という見方が強く押し出されて、西洋風の精神病院を作る運動が押し進められました。初期の頃、これらの病院は、「脳病院」という呼ばれ方もしました。

西洋でも、先ほど述べたように、もともと近代に、精神病は「了解不能の脳の病気」という見方があったのに反抗して、様々な原因の探究がなされたのですが、結局は、もともとの「脳の病気」という見方に戻ったようなあり方になっています。

要は、もともとあった「脳の病気」という見方に、回帰したようなものです。

既に述べたように、近代社会成立の当時、それまでの時代や他の(未開の)文化でなされた、「精神病は<憑依>現象」と言うような見方を排して、「病気」として捉えていく方向が定められました。そして、そのような見方を埋める具体的な方途が探られました。要は、そうするうえで、当初の必要性を満たすものとしては、やはり、「脳の病気」とみる方向こそがふさわしかった、ということなのです。

統合失調の原因を探求するということで言うと、問題は、精神医学(精神病理学)や精神分析は、「様々な観点」から原因を探究すると言っても、それは、既に近代社会「特有」の見方が出来上がっていて、その延長上になされたものなので、それまでの見方を大きく排して制限されていたり、「病気」ということで大まかな方向がつけられたものだったということです。

そのような「見方」の延長上では、十分に原因を探求することができなかったとしても、そのような「見方」をわきに置いて、もっと広い視点から原因を探るなら、十分その目的は達し得るということです。

 

2024年8月 3日 (土)

設問3 統合失調は、「病気ではない」ということですか?

回答 「病気である」か「病気でない」かということではなく、何か、「病気」というものがあって、それが幻覚や妄想などの症状を引き起こしているのではない、ということである。

 

解説 統合失調は、「病気である」か「病気でない」かというような議論も見かけますが、そうことではなく、そもそも、何か「病気」というものがあって、それが幻覚や妄想などの症状を引き起こしているのではない、ということです。

統合失調状態の人がもたらす幻覚や妄想などの症状が、その者の個人的な状態として、あるいは社会的に、危険だったり、不都合だったりすることは確かにあります。そのような状態を、身体医学の言う「病気」という概念から借りて来て、「病的」状態とみなすことはできるでしょう。

しかし、「病的」というのは、その状態を比喩的に表しているに過ぎず、そのような状態をもたらしている「原因」については、何も明らかにするものではありません。その「原因」を探ろうとするなら、「病的」という表現に縛られずに、その者の性質や生育環境、人間関係、文化や社会の規範など、様々な側面から探って行く必要があります。

ところが、精神医学は、統合失調状態を「病気」という概念で括っており、それを「内因性の病気」などとして、「具体的な原因は分からない」にしても「身体的な原因に基づくもの」と規定しています。あるいは、既にみたように、主流派の生物学的な精神医学は、「脳の病気」として、「脳に原因があるもの」という見方をとります。

これらの見方は、統合失調の者が陥っている状態を「病的」とするだけでなく、そこに、何か「病気」というものがあって、それが統合失調状態をもたらしているという見方を導かざるを得ません。すわなち、「病的」とされる状態の「原因」の位置に、「病気」という概念を持って来ているのと同じことになるのです。

身体医学では、「病気」の原因に、たとえば「病原体」のような「実体」があるとみなされますが、それと同じような発想を暗に含ませるような意味合いで、「病気」というものが、「実体化」させられているとも言えます。

要は、「病気」とすることで、(「原因そのものは分からない」ことにはなっていますが、いわば大枠的な方向性については、)「分かった」ことにしているということです。

しかし、それは、突き詰めれば、「<病気>だから<病気>なのだ」と言っているのと同じで、完全なトートロジー(循環論法)的な発想と言うべきです。

少なくとも、そのような見方は、統合失調の者の陥っている状態の原因を決めつけ、様々な方向から探ろうとすることを、大きく制限してしまうものです。

そして、実際、多くの者の心理としては、統合失調は、「何かわけの分からない状態」ではなく、「病気ということで分かった」ことにできることが重要なのです。実際には、大いに恐れを抱いているからこそそうするのですが、それ以上に、「恐れ」に支配されないで済むからです。

だから、現代の社会の一般的な人は、統合失調が「病気」であるという精神医学の前提については、当然のように受け入れている人が多いはずです。一応「分かった」ものとできることは、それ以上それに探りを入れたり、疑問を挟んだりしないで済むとしいう意味でも、好都合なのです。

しかし、実際には、「病気」とする見方は、歴史的、文化的に言っても、「西洋近代社会」がごく最近もたらしたものであって、何ら「普遍的なもの」ではありません。それ以前、または他の文化では、何らかの神的または魔的な存在の「憑依」などによってもたらされるものと、理解されてきたのです。

近代人は、そのような見方を迷信とすることで、克服したものとみなしますが、それもまた、「恐れ」に基づくもので、それらの見方を「排除」したかったからに過ぎないと言うべきです。この辺りのことも、追い追いもう少し詳しく、明らかにしていきます。

何しろ、このように、「病気」ということで分かったことにされることによって、様々な原因を探る道は、大きく閉ざされているのです。その原因について本当に探ろうとするなら、「病気」ということで「分かった」ことにする見方は、わきに置くことが必要です。

 

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