2025年2月 9日 (日)

設問50 統合失調状況における対処法の要点をまとめてください。

回答 最後に、まとめの形で提示するとおりである。

 

解説 設問34その他で、既に述べたことですが、実際的観点から言って、最も大事なことであるので、統合失調状況に対処する方法の要点を、まとめておきます。要点を捉えつつも、できる限り、分かり易く、具体的に述べるつもりです。

精神医療にかかって薬物治療でも受ければ、より酷くなって、手に負えないものになる可能性が高く、周りの者が頼りになる状況でもないので、「対処」というのは、基本的に、統合失調状況に陥った本人が、どのようにその状況に対処し、「抜け出す」か、あるいは「くぐり抜ける」かということになります。

まず第一に、「統合失調」というものがどういうものか、予め、ある程度知っていることが重要です。そうでなければ、何の手掛かりもないところから始めなければなりません。

しかし、ここでも、精神医学が一般に提供する知識は、実際の統合失調状況との齟齬があり過ぎ、かえって混乱のもととなります。特に「幻覚(幻聴)」を、「実際にないものを見たり聞いたりすること」と捉えている限り、統合失調状況の実際とは相容れず、何の手掛かりも得られないばかりか、むしろ自分の状況を「病気」ではない(幻覚ではない)ものとして確信させてしまいます。

まず、一般的理解として、統合失調というものが、「<幻覚>や<妄想>に囚われて、通常の社会生活を困難にする事態である」、という理解が必要です。ただし、その「幻覚」とは、実際に存在するものであり、通常の知覚と同じかそれ以上にリアルなものです。

だからこそ、その状況に入った者は、それに囚われることになって、抜け出し難いのです。そうでなければ、統合失調が、現にそうであるように、難しい問題になることも、恐れられることもありません。ただの「誤り」であれば、人間がいつまでも振り回されて、抜け出せないなどということはないのです。まずは、このことを押さえることです。

しかし、それにも拘らず、この「幻覚(幻聴)」は、他の多くの者に共通して知覚されるものではないということです。通常の知覚と同じように「見たり聞かれたり」するので、本人も、その可能性に気づくことが難しいですが、予め、「たとえ通常の知覚と同じように知覚されても、他の者には知覚されない「幻覚(幻聴)」というものが、割合身近にあるものだという理解があれば、何か「おかしい」と思う声を聞いた場合などに、「幻覚(幻聴)」である可能性が、早めに予感されることになります。

ただ、実際に存在するのに、多くの者が知覚しないということは、我々が通常「物質的世界」と呼んでいるこの世界に存在するのではないということです。この点が、普段、この世界と別の世界があることを意識しない一般の人たちには、ネックになるでしょうが、もはや現代は、そのような「世界がない」という狭い考えを維持する方が難しい状況にあるとも言えます。そのような頑なな考えに固執するのではなく、普段から、少なくとも、別の世界の存在する「可能性」に対しては、心を開いておくことも重要なことです。

そこを「霊的世界」と呼ぶか、「見えない世界」とか「異次元の世界」などと呼ぶかは自由ですが、私は、先住民文化その他のこれまでの近代以前の伝統文化との連続で理解するには、「霊的世界」がふさわしいものと思っています。いずれにしても、「この世界に存在するのではない」ことの理解が要点です。

このことを理解することにより、たとえば、聞いている「声」を、(見かけはそのようであるとしても)現実の人間が発するものと混同することがなくなります

このことが、統合失調状況から「抜け出し」たり、「くぐり抜ける」ことの、非常に重要な、一つの関門となります。

「妄想」というものは、自分を苛む、幻聴の声を、現実の人間の発するものと混同して、自分は迫害されている、つけまわされているなどと解釈し、それを全体として、「組織」に迫害されているなどと結論づけてしまうことで構築されるものです。そして、それこそが、統合失調状況で実際に起こっていることの理解を妨げてしまうことの大きな要因です。

(このような「妄想」については、予め、そんなことは「あり得ない」ことを強く確認しておくことも重要です。たとえ、そのように思える事態が自分の身に起こったとしても、やはり、単なる一個人の者を、確かな理由もなく組織が狙うなどということは、(絶対とは言わないまでも、それに限りなく近く)「あり得ない」ことなのです。その感覚を外さないようにし、他の可能性を考えなければなりません。その感覚を外してしまったら、とどめなく妄想を膨らませる方向に行ってしまいます。)

言い換えれば、幻覚(幻聴)が、現実に存在するものであるが、この物質的世界にあるものではないことが分かれば、少なくとも、この世界そのもののこととして構築される形の妄想は、避けることができ、この世界そのものに対して、その妄想に基づいた行動をしてしまうことも避けられ得るのです。

しかし、それでは、現に現れている「幻覚(幻聴)」とはいったい何ものなのかという新たな問題が浮上します。「霊的世界」のことなどに関心や知識がなかった者には、それは全くの「未知」の事態というほかありません。たとえ、ある程度の「知識」はあったとしても、実際の経験との齟齬はどうしてもあるので、やはり「未知」の要素は多くあります。

そのように、「未知のもの」ということを認めることが、人間にとっては、容易いことではありません。特に、近代人は「世界」について、大概のことを知り尽くしているかのように思っているので、全体として「未知」ということを認めることが大変なのです。

しかし、このことを認めることが、統合失調状況を「抜け出し」たり、「くぐり抜ける」ことの第二の関門となります。

混乱し、妄想を築いて、異常な振る舞いをするということは、「未知」であることが認められずに、「あがい」ているということです。逆に言えば、「未知」であることが本当に認められれば、「あがく」ことをやめて、一種の「開き直り」が生じ、ある程度冷静になることができるので、それについて(妄想的にではなく)虚心坦懐に「探究」できる余地も生まれて来るのです。

とは言っても、何も知らない状況から、これら人間を超えた要素を多分に持つ「幻覚(幻聴)」について、理解を得ようというのは、あまりに大変なことです。こういった、未知の「霊界の境域」に入り込んだ状況において、どのようなことが起こるのかを、そのような経験を持つ先人を通して、予め(漠然とでも)理解することは、現在の状況において、可能なことです。

私のような、統合失調の過程として体験した者の経験談は、本やネットにもいくらもあるし、ルドルフ・シュタイナーやカスタネダなど、自覚的な修行を通して体験した者の詳しい記録も貴重です。

ただ、私としては、統合失調状況に大きな影響を与えるのは、「捕食者的存在」という、精霊的存在(または「宇宙人」という捉え方も可能)であることを理解することが、その状況を「抜け出す」ことや「くぐり抜ける」ことにおいては、最も重要な点であることを強調します。

統合失調状況に大きな影響を与えるのは、「捕食者的存在」という、精霊的存在であること、従って「幻覚(幻聴)」というのも、この「捕食者的存在」の作り出したものか、この存在が関わって出て来ているものであることを理解することが、状況から「抜け出し」たり、「くぐり抜ける」ことの、第三の関門と言えます。

「捕食者的存在」とは、(人間にとっては破壊的な、おそるべき存在ではありますが)決して、「悪なる」存在ではなく、人間から発せられる恐怖等の否定的感情エネルギーを食糧源としている存在です。ただ、そのために人間の牧畜と同じように、人間の上に立って「管理・支配」しているので、当然人間を超えたところのある厄介な存在です。

それにしても、これらの存在が、悪意や破壊の意図ではなく、ただ食糧源である否定的感情エネルギーを得るために、戦略的に(攻撃的な)働きかけをしていることを知ること、あるいは予めの予期を得ることは、恐怖や混乱を緩和する絶大な効果をもたらします。どのようにもっともらしくとも、あるいは恐怖をもたらすものであっても、それらの存在の「声」なり、働きかけは、まともに受け取る必要がなく、ただ受け流せばいいだけのものであることが分かります。そのことが本当に納得できれば、状況を「抜け出す」ことにおいても、「くぐり抜ける」ことにおいても、大きなカギを得たようなものです。

ただ、「捕食者的存在」という捉え方は、(人間以外の存在を認めるにしても)なじみのないものであるだけに、それを認めるということは、やはり大変なことには違いありません。実際の経験の中で、そのような捉え方こそが、本当に心から納得できるものであることを確認できるかどうかが、大きな分かれ目となるでしょう。

そういうわけで、統合失調状況を「抜け出し」たり、「くぐり抜ける」ための対処法として、特に3つの関門となる事柄に着目して、その要点を述べました。他にもいくつかあげられますが、それはこれまでの個々の設問でも触れたことだし、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方では、記事『「声」への対処法』などが、さらに詳しくこのようなことを述べていますので、参照ください。

なお、統合失調状況を「抜け出す」ということと、「くぐり抜ける」ということの違いは、設問41で図を用いて、分かりやすく説明しています。

最後に、以上のことを箇条書き風にまとめておきます

 

対処法のまとめ

第一の前提 統合失調について、ごく基本的な理解を得ていること

統合失調=<幻覚>と<妄想>に振り回されて、社会生活が困難になる事態

<幻覚(幻聴)>とは、本当に存在するものであり、現実の知覚と同等かそれ以上にリアルなものであること

にも拘らず、<幻覚(幻聴)>は、他の多くの者は知覚しないものであること

第一の関門 <幻覚(幻聴)>を、この「物質的世界」の現実の人間の声などと混同しないこと=「物質的世界」ではなく、別の世界(「霊的世界」)のものがこの世界に入り込んでいることの理解

第二の関門 そのような世界のものは、「未知のもの」であることを正面から認めること=覚悟を決め、開き直り、虚心坦懐に見極めるようにすること

第三の関門 そのような世界には、「捕食者的存在」がいて、食糧源である否定的感情エネルギーを収奪すべく、戦略的に働きかけていることを知ること=声にしても、その他の働きかけにしても、真に受ける必要はなく、受け流していいものであることを知ること

 

※ 一旦終了のお知らせ

 区切りのいいこともあり、この辺りでいったん終了いたします。まだ述べたいことはありますが、あまり増やすと、要点がぼやけてしまうので、基本的なことにしぼってでき得る限り明確に提示する、このブログの趣旨においては、この辺りで十分全うできたと思います。今後、さらに述べたいことが出てきた場合、追加をすることはあると思います。『狂気をくぐり抜ける』の方は、今後とも適宜更新してまいります。

2025年2月 6日 (木)

設問49 結局のところ、統合失調の原因は何なのですか?

回答 統合失調の原因を一つに絞って提示することは、残念ながらできない。しかし、統合失調状況をネガティブな病的なものにしてしまう原因を、いくつかあげることはできる。それは、端的に言うと、統合失調状況(霊界の境域)に入ってしまうこととなる「自我」の壊れやすさと、その状況について、社会全体としての知識や経験が欠けており、対処のしようがないということに尽きる。

個人のネガティブな要素を見逃してよいわけではないが、統合失調を、難しい、謎めいたものにしてしまっている根本的な原因は、社会の側の「霊的な知識」を失ってしまったことにあると言うべきである。

 

解説  残念ながら、統合失調の原因を一つに絞って提示することはできません。統合失調という、謎めいた「病気」の原因を一つに絞って、その解消を図りたいという気持ちは分かりますが、統合失調とは、それほど単純な事態ではありません。

また、統合失調の原因を明らかにして、その解消を図りたいという思いには、統合失調は「悪いもの」、「正さなくてはならないもの」という決めつけがあるとみられますが、これまで説明して来たとおり、必ずしも、統合失調状況(霊界の境域)に入ること自体が、「悪い」ことなのではありません。それを「抜け出し」たり、「くぐり抜ける」ことは、むしろ、経験や知識を増して、それ以前より「成長」することでもあるのです。

そこで、「統合失調の原因」というとき、それは、「統合失調状況に入ることが、ネガティブな「病的」状態をもたらすこととなる原因」と言い換えられるべきです。この意味の「原因」なら、いくつか取り出すことができ、それを「解消」することに資することができます。

設問6で、統合失調の原因を、元々の先天的な性質、発症するまでの過程で受けた影響、発症してから受ける影響の三段階にしぼってみることができるとして、次のような図を掲げていました。Photo_20240814140901_20250206014601

さらに、設問26では、発症して受ける影響というのは、「霊界の境域」に入って、そこで様々な存在から受ける影響のことを意味することを明らかにしました。そして、その「霊界の境域」とはどういうことかについて、次のような図をあげて説明しました。

Photo_20250206014901

我々の日常的な「自我」とは、近代社会の常識の行き渡った中で育てられたものので、端的に、この図の「物質的世界」に結びつけられてできているものです。それで、通常は、この「自我」が一種の防御壁となって、周りをとり囲んでいる「霊的世界」が侵入することを防いでいます。

しかし、そのような「自我」が何らかの理由で緩んだり、外れたりしたときは、「霊的世界」が「世界」そのものに侵入することになっても不思議はなく、それは「霊界の境域」に入り込んだということになります。

シュタイナーが言うように、自覚的な修行に基づいて入ることもありますが、まず、統合失調の場合、意図せず、しかも、何かしらネガティブなあり方で、自我を緩めたり、崩壊させることで、「霊界の境域」に入ってしまうのです。それで、自ずと、そこでの「反応」も、「ネガティブ」な「病的」なものになってしまうということです。

「原因」と言うなら、そのことが、まず第一の原因であり、その具体的な要因を元々の性質と生まれた後に受けた影響に分けていくつかみたのが、最初の図です。

そして、「霊界の境域」に入っても、それについて何らの知識も、経験もないのが一般の近代人なので、普通は、そこで起こる「幻覚」などの現象に翻弄され、混乱し、「妄想」を築くなど、この世界の者には、「異常」としか映らない振る舞いをするしかなくなるのです。

ただ、元々の性質や生まれた後に受けた影響などにより、ネガティブな要素を多く持ってしまっている場合には、その反応の『異常さ』も、それを反映してさらに拡大して現れるので、この世界の者には、「病的」とみられる事態がさらに膨らむということになるのです。

従って、「統合失調の原因」、すなわち「統合失調状況に入ることが、ネガティブな「病的」状態をもたらすこととなる原因」としては、大まかに、

1  意図せずとも、「霊界の境域」に入ることになるような「壊れやすい自我」を形成してしまったこと

2  「霊界の境域」についての経験も知識もないために、ただ翻弄されて、あがくしかないこと

3  その「あがき」のあり方にも、ネガティブな性質や生後に受けた影響が反映して、より病的な事態を膨らませること

3つがあるということができます。

このうち、13のような、その者の持つ「ネガティブ」な要素については、通常の精神医学も、精神病理学なども、当然のように認めることと言えます。ところが、2の点は、全く抜け落ちているのです。そして、それこそ、「統合失調」のいわば最も「統合失調らしい」点を醸し出すのであり、「統合失調」がいつまでも「謎めいた」ものであり続けることの根本的な理由なのです。さらに、実際的にも、その状況から、「抜け出」たり、「くぐり抜ける」ことの要点となるという意味で、最も重要な「原因」なのです。

そしてそれは、個人的な原因というよりは、全体としての社会的原因なのであり、端的に言えば、それまでの先住民文化を初めとする前近代の伝統的、普遍的な文化を否定して、自らを進化した特別の社会のようにみなした「近代社会」の問題ということです。

ですから、もちろん、病的な要素をもたらした、個人のネガティブな要素を改善していくことも必要でしょうが、それもまた、社会全体の問題との関係で起こることでもあるので、その問題抜きに(特に社会の側が押しつける形で)なされるべきことではありません。

このようなことは、「近代社会」の常識を「ひっくり返す」ことができずしては無理なことであり、そうできて、初めて、それらの「原因」を本当に問題にし、「解消」に向かわしめることができるということができます。

その意味では、あえて端的に1つだけ、統合失調の原因をあげるとするならば、それは、「近代社会が霊的な知識を失い、対処の方法を失ってしまったことに帰する」と言っていいでしょう。

それを取り戻すことは、容易なことではありませんが、まずはそのような状態に陥った個々の者から、徐々になしていくしか手はありません。

なお、ブログ『狂気をくくり抜ける』の記事『狂気(統合失調症)の「原因」』では、統合失調状況に入った後の「霊界の境域」での影響について、水平的方向と垂直的方向に分けて、さらに詳しい図を掲げつつ説明をしています。そちらも参照ください。

2025年2月 2日 (日)

設問48 あなた自身は、どのようにして、「霊界の境域」から抜け出し、それらの存在の攻撃から解放されたのですか?

回答 私自身も、森山のいう、妄想だけのあるパラノイア段階→幻覚と妄想の入り混じる幻覚・妄想段階→幻視も混じり、現実から遊離した夢幻的な世界の展開される夢幻様段階の3段階をたどったことには違いなく、その3段階目で「世界没落体験」といわれる「宇宙の死」の体験をし、それが「死と再生」の体験に結びついて、結局「くぐり抜ける」ことができたのである。

ただ、その「宇宙の死」の体験のいわばピークにおいて、実体的なものとして自分に迫る「暗黒の闇の塊」との遭遇体験をしていることが、特異である。それは、世界の根底に控える「虚無」の「実体的な部分」と解されるが、その体験のあまりの強烈さ、リアリティのために、それまでの体験(捕食者の攻撃や宇宙の死ということそのものも含む)は、いわば「幻想」であったかのように「解消」されてしまったのである。それが、「死と再生」の「死」の体験として、新たに「再生」することにおいて、最も根源的な部分での作用を果たしたと考えられる。

 

解説 これまで、部分的には私自身の体験と照らし合わせて述べて来ましたが、全体として私自身が、どのようにして統合失調状況を「くぐり抜けた」かについては、正面から述べていませんでした。

それは、私自身が「くぐり抜ける」過程において、決定的な役を果たした出来事があるのですが、その出来事というのは、他の例ではみかけることのないような、ちょっと特異な体験で、説明も難しいものだからです。

しかし、私が「くぐり抜ける」過程も、全体としてみれば、森山公夫が『統合失調症』(ちくま新書)で明らかにしているような、妄想だけの表現されるパラノイア段階→幻覚と妄想の入り混じる幻覚・妄想段階→幻視も混じり、現実から遊離した夢幻的な世界の展開される夢幻様段階の3段階をたどっています。その3段階目で、「世界没落体験」ともいわれる「宇宙の死」の体験をしていて、それが(森山はそこをはっきりと明示しませんが)、「死と再生のイニシエーション」につながり、結局「新たに生まれる」ようにして、全体を「くぐり抜ける」ことになったということが言えます。

ただ、その「宇宙の死」というべき出来事で、「宇宙が全体として終わる」「崩れ去る」ということを受け入れた瞬間に起こったことが、特異なのです

これまでにも、様々に恐ろしいものに迫られていたわけですが、その瞬間は、これまで以上に強烈な、「暗黒の闇の塊」としか言いようのないものが一瞬にして自分に迫り、それに包まれるような状態になります。それが迫る瞬間は、非常な恐怖を感じましたが、それに包まれてからは、恐怖を感じることもなく、一瞬のことで、意識も半ば失いかけていたようで、明確な意識はないのですが、確かに、それと一瞬一体化したという感覚があります。

しかし、それは一瞬の後、すぐに去っていき、元の状態に戻りました。そして、そのときには、それまで統合失調状況で起こっていたことすべてが、いわば「解消」されていて、「何事もなかったかのよう」に、本当に元に戻った、というより、「新しく生まれ変わった」のです

「解消された」、「何事もなかった」といっても、事実としてそれまで起こったことがなくなったわけではなく、決して「声を聞く」ということもなくなったわけではないのですが、それらがほとんど自分に対して影響を及ぼせなくなった、私からすれば、ほとんど「どうでもよい」ものになったということです。自分にとって、絶望的な意味を帯びていた、「宇宙の死」ということすら、ある意味「どうでもいい」ものとなってしまったのです。

おそらく、「暗黒の闇の塊」の体験が、あまりにも強烈で、それまでの出来事以上に、「リアリティ」に満ちていたので、それまでの体験は、一種「幻想」のようなものに「格下げ」されてしまったのだと思います。

とは言え、この段階で、私自身は、身体的にも心理的にも非常に酷い状態にあり、すぐさま、動きがとれるような状態ではなく、徐々にリハビリのようなことを経て、何とか回復していくのです。また、この段階で、このときの体験の意味も、それまで自分に起こっていた一連の出来事の意味も、分かったわけではなく、それも今後徐々に追究していくことで、分かるだろうという予感があったのみでした。

そうして、現在では、それらの体験の意味も、一応自分なりに納得する形で、「分かる」ものにはなっています。

しかし、この体験には、本来、言葉で説明することのできない要素が多分にあるし、統合失調状況を「抜け出し」たり、「くぐり抜ける」ことにおいて、知っておかなければならないようなものではないと思われます。このようなことにとらわれると、かえって混乱することも考えられます。

ただ、「特異な体験」と言いましたが、このような体験は、「世界没落体験」と一般に言われる体験のピークの部分に、本人が意識レベルで自覚しないとしても、いわば、無意識過程として「包み込まれている」という可能性はあると思われるのです。

また、この「暗黒の闇の塊」を、私自身は、世界の根底に控えている「虚無」のいわば「実体的な部分」という風に解しています。カスタネダのドンファンの説明でも、「無限」という世界の根源には、実体的な部分があるということが、言われています。そうすると、この「虚無」との関りというのは、統合失調状況の体験例でも、割合よく観察されるものです(たとえば、セシュエ―夫人の『分裂病の少女の手記』などに、このようなものがよく現れています)し、精神病理学などでも、このことには言及されます。

このような「虚無」は、それと自分との間に一種の「距離」があるときは、根源的な恐怖として作用し、実存的な問題を引き起こしますが、それと一体であるときには、むしろ浄化の作用をなし、「死と再生」の「死」の働きをなすと考えられるのです。というよりも、むしろ、「死」ということの根底には、この「虚無」があるのです。

このような「虚無」または「無限」の体験は、統合失調の過程ということではないですが、それ自体は、たとえば、バーナデット・ロバーツの『自己喪失の体験』(『無自己の体験』、『無我の体験』)や、全く偶発的に、バス停でバスを待っているときに起こったこととして、スザンヌ・シガールの『無限との衝突』などにも見られることです。

そういうわけで、私は、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方では、このような、根底に控える「虚無」に接近する方向を「垂直的な方向」として、様々な霊的体験をする「水平的方向」とは別の要素として重要視しています。それらの各方向に引き裂かれて、抜け出し難い状況にあるのが、「統合失調状況」とも言えるわけです。

しかし、こちらのブログは、統合失調状況について、「明確に」理解し得る限りの理解を得ることと、それを、状況を「抜け出し」たり、「くぐり抜ける」ことに結びつけられるようになることを端的に目的としていますので、これらの、「根源的」な問題ではありますが、必ずしも目的に沿わない問題には、触れておくだけにします。

なお、『狂気をくぐり抜ける』の方では、私自身の「暗黒の闇の塊」との遭遇体験について、記事『22 「闇」ないし「虚無」との接触』に詳しく述べられています。

また、記事『「イニシエーション」と「垂直的方向」』及び『「成人儀礼」としての分裂病』などで、統合失調状況の「垂直的方向」がもたらす作用について、それなりに踏み込んで説明していますので、参照ください。

2025年1月31日 (金)

設問47 最近「集団ストーカー被害」を訴えるものが増えていますが、そのことも統合失調の「軽症化」と関係していますか?

回答 「集団ストーカー被害」を訴えるものが増えていることには、統合失調も含めて、攻撃を仕掛ける捕食者的存在の戦略の変化が影響している可能性がある。食糧源である、否定的感情エネルギーの収奪という観点から言っても、結局は「解体」してしまうような統合失調の場合より、長い間、「妄想世界」に閉じ込めておくことで、より長い間否定的感情エネルギーを収奪できる「集団ストーカー被害」の方が好ましくなっている可能性がある、ということである。

それが、全体として、典型的な統合失調の減少、すなわち「軽症化」に貢献しているとは言えるが、それは、決して、前より「厄介」でなくなったのではなく、むしろ社会的には、より困難な問題を引き起こし得る。

 

解説 設問38及び39で、最近は、「集団ストーカー被害」を訴えるというものが増えて来たことをとりあげ、それが統合失調の場合とどう違うのか説明しました。統合失調と共通する点もあるのですが、「集団ストーカー被害」の場合、統合失調状況に入っているとは言えない場合が多く、ネットで類型化されている強固な「妄想」を共有しているため、「解体」の様相は見られないことが多いのでした。

しかし、「集団ストーカー被害」の場合にも、統合失調の場合と同様、捕食者的な存在の働きかけを受けている場合があり、その場合には、捕食者的な存在は、統合失調とは違った戦略で対していると解されるのです。声を聞かせるとか、かなり強烈な攻撃を仕掛けるということでなく、周りの人間を使ったり、共時性現象を演出して、多くの者に,理不尽な「嫌がらせ」を受けているという思いを抱かせ、「集団ストーカー被害」という抜け出すことの難しい「妄想世界」に閉じ込めようというものです。

捕食者的存在は、恐怖等のネガティブな感情エネルギーを食糧源にしているので、それを収奪するべく、仕掛けてくるわけですが、統合失調の場合、確かに、強力な攻撃により強い感情エネルギーを収奪できる反面、「解体」してしまえば、それは言葉は悪いですが、「食いカス」のようなもので、もはや用済みとなってしまいます。もちろん、捕食者的存在も、いっぺんに解体に向かわせるようなことはせず、じわじわと継続的に攻撃を仕掛けるのですが、それでも、いずれは「解体」してしまうとすれば、それ以上の収奪は望めません。また、統合失調の場合、病院等に隔離され、薬漬けにされることが多いわけですが、そうすれば、収奪すべき否定的な感情エネルギーの質も落ちてしまいます。

ところが、「集団ストーカー被害」の場合は、個々の攻撃そのものは、それほど激しいものではなく、一度に多くの否定的な感情エネルギーを収奪するには適していないでしょうが、継続的に長い間、「妄想世界」に閉じ込めることによって、「解体」せずに、長い間、否定的エネルギーを収奪できるのです。また、他に明らかな異常が見られないので、病院等に「隔離」されるということは少なく、感情エネルギーの質が落ちることもありません。さらに、社会の中で生活することで、様々なトラブルや軋轢を、周りの者との間に生み出すこともできるのです。

これらのことから、設問39でも述べていたように、最近の傾向として、統合失調の場合も含めて、攻撃を仕掛ける捕食者側の戦略が変わってきているという可能性があるのです。統合失調的に結局は「解体」を導くようなやり方よりも、集団ストーカー的にいつまでも「妄想世界」に閉じ込めさせて、そこから抜け出せないようにすることの方が、好ましいものになって来ている可能性がある、ということです。

統合失調の者に対する「捕食」のあり方は、我々の場合に当てはめてみるならば、「狩猟」に似ています。捕食者的存在は、一方で、社会という「檻」の中に囲っている多くの者から、否定的な感情エネルギーを収奪していますが、それは、我々の場合の「牧畜」に相当します。しかし、統合失調の者は、「野生」というわけではないですが、社会という「檻」からは逸脱する傾向が強く、それらの者は、いわば個別的に捕らえられて、優先的に「捕食」の対象となるのです。

しかし、ちょうど、我々が現在、食糧不足や、絶滅の危惧のため、一般に自由な「狩猟」を差し控えているのと同様、捕食者的存在も、統合失調的に「自由」な「狩猟」をなるべく差し控えて、「集団ストーカー的な捕食」のようなあり方に、移行しているのではないかと思われるのです。

ただし、それはあくまで、全体としての傾向であって、今後、典型的な統合失調に陥る場合がなくなるということではありません。また、「集団ストーカー被害」というのも、現在採用されている一つの具体的な戦略のあり方に過ぎず、今後もその方法がとられ続けるとは限りません。

そういうわけで、このような戦略の変化は、解体をもたらすような、典型的な統合失調の減少をもたらし、全体として統合失調の「軽症化」に貢献しているとは言えるでしょう。しかし、そのような変化によって、「集団ストーカー被害」のような「妄想世界」に閉じ込めることが多くなったとしても、それが前に比べて、「厄介」でなくなったということではありません

むしろ、社会的には、より「厄介」で対処の難しい問題となる可能性があるのです。そして、それは、今後ますます、よりはっきりした形で、目にみえるものとなって来ると思われます。

 

2025年1月27日 (月)

設問46 最近、「統合失調」は「軽症化」したと言われますが、どうしてなのでしょうか?

回答 「軽症化」というのは、曖昧な概念で、みかけの判断に過ぎない面もあるが、かつてと比べると、明らかに異常な振る舞いをしたり、解体して廃人そのもののようなあり方をする例は、確かに少なくなっていると思われる。

それは、決して精神薬の開発によるのではなく、社会の側の統合失調を取り巻く状況、特にイメージの変化によるところが大きい。また、それと関連するが、一般に、統合失調というものが「治り得る病気」として、ある程度知られるようになってきていることも大きい。

さらに、本質的に言っても、統合失調状況のあり方自体にも変化が起こっている可能性があるのだが、それについては次回述べる。

 

解説 「軽症化」というのは、かなり曖昧な概念で、見かけの判断に過ぎないという面もあります。しかし、統合失調において、社会の中で生活することが明らかに困難なほど、異常な振る舞いや、解体して廃人そのもののようになるという状態を呈する人が、かつてに比べて少なくなっているということは、確かに言えると思われます。

私の子供の頃(50年ほど前)から、21世紀に入る頃まで、「分裂病」と言えば、不治の病というよりも、見た目にもすぐ分かる、その人の特性のようなもので、「正常」からは隔絶された、「狂人」そのものを意味していました。病院は「治療」をするところではなく、そういった「狂人」を社会から隔離するところで、「狂人」は当然そうされて然るべき人たちでした。

それは、単に私だけのイメージではなく、周りの子供もそのように見ていたし、大人もそう見ていたのが分かります。そのような、「イメージ」に沿うような明らかに異常な状態を呈する人たちが、実際に、現在より多くいたとみられます。

精神医学的には、「解体型」とか「破瓜型」と言われるタイプで、「緊張型」と言われる型も多くあったようです。設問43で、R.D.レインの『引き裂かれた自己』に触れましたが、まさにそこに描かれたような、自己からも世界からも引き裂かれ、「解体」「崩壊」へと向かうことが運命づけられたかのような人たちです。

そのような、見た目にも明らかに異常な状態を(長い間)呈する人たちが少なくなったのは、精神医学的には、非定型精神病薬のような精神薬の開発によると解されることが多いようですが、けっしてそうではありません

確かに、精神薬が脳の神経伝達の働きに作用して、見た目にも派手な「陽性症状」を抑えるということが多く起こるようになったとは言えますが、反対に、薬の長期的服用により、「陰性症状」的な荒廃状態も増えているわけで、全体として「軽症化」などと言えたものではありません。

ただ、地味な「陰性症状」が増えることより、派手な「陽性症状」が抑えられることの方がよほど与える印象としては強いでしょうから、そのことを捉えて、「軽症化」ということが言われている可能性はあります。

何しろ、ここでは、もっと根本的にみて、このような「軽症化」が起こった理由として考えられることを、簡単にではありますが、3つほど述べておきます

一つは、社会的に共有される統合失調のイメ―ジそのものが、かつてと比べて大きく変わったことです。もちろん、現在でも、「統合失調」のイメージは、他の病気と比しても、「治る」可能性の少ない、酷く深刻なものでしょうが、かつての、「正常」からは全く隔絶されたごとき、とうしようもない「分裂病」のイメージとは、大分変っています。

「統合失調」の場合、そのような社会の側の「イメージ」そのものが、統合失調の者の内心のあり方や、幻覚や妄想の内容にも大きな影響を与え、「規定」するということが確かに起こるのです。

かつては、統合失調の者は、社会から排除されるも同然であり、いやがうえにも孤立を深め、自分の世界に閉じこもって、対社会的にも理解不能の絶望的な反応を示すしかなかったということが言えます。

しかし、少なくとも、かつてと比べると、最近は、社会の統合失調の者に対するイメージは軟化し、その締め付けも緩くなり、そのことが、統合失調の者の外に現れる反応や、振る舞いにも影響していることがうかがわれるのです。

それには、「分裂病」が「統合失調症」と改められたことも影響しているだろうし、「不治」ではなく、「治り得る病気」とされるようになったことも、影響していると思われます。そのようなことが、果たして本質的に、統合失調を捉えているのかどうかは別問題ですが(他の類似の状況にある者も、「統合失調」に含められるようになった可能性がある)、少なくとも「軽症化」という観点から見たときには、影響しているだろうということです。

もう一つは、これも上のことと関連していますが、統合失調という「病気」そのものについて、一般に、一応とも知られるようになってきていることです。最近は、それが「誰もがかかり得る」「精神的な病気」なのであり、「幻覚」や「妄想」という症状を呈するもの、という位のことは、ほとんど一般にも知られているようになっているのです。これには、インターネットの普及ということも、大きく関わっています。

かつては、既に述べたように、分裂病の者は、「病気」というよりは、「狂人」そのものであり、隔離すべきものであって、「正常」からは隔絶されていたので、それについて知ろうとされることもまずなく、実際ほとんどタブー化されていたということが言えます。

そして、そのようなことは、実際に統合失調状況に陥った人にも影響するし、その周りの人にも影響します。統合失調の人は、自分の陥った状態に何の手がかかりもなく向き合うしかないし、周りの者も何か手を貸すようなこともできないのです。いきおい、その混乱状態と妄想世界は、歯止めがきかないものとなります。

最近は、(病気として認識するのではないにしても)かつてのように、何も知り得ないところから出発するのではなく、一応のことは知り得るし、本人も周りも、対処のしようがないものとして、絶望的になるのではなく、治癒や社会復帰に向けての一応の希望も持ち得ます。そのようなことが、混乱状態を緩和するし、幻覚や妄想の内容にも影響するのです。

ただし、この点も、ただかつてと比べての「軽症化」という観点から言っているので、そのような一般の見方が実際に「事実」に沿っているかどうかは別問題です。ただ、そのことは、このブログで述べてきたように、もっと本質的に統合失調状況そのものについて知られるようになれば、単なる「軽症化」というのではなく、もっと本質的な治癒の方向が望めるようになるという可能性を示しているものとは言えるでしょう。

以上の「軽症化」の理由は、統合失調を取り巻く社会の側の変化ということから見られた視点です。しかし、統合失調状況そのもののあり様に着目しても、最近は、そこで本質的な影響を与える側のあり方自体が、変わってきているという可能性もあるのです。それについては、次回述べることにします。

 

2025年1月23日 (木)

設問45 統合失調の「陰性症状」と言われるものは、どのようにして生ずるのですか?

回答 意欲や感情の減退、不活動などの「陰性症状」といわれるものは、次の3つの理由により生じると解される。

第一は、脳の神経伝達の働きを抑える精神薬の作用によるもので、この場合は、減薬や断薬により対処するしかない。次に、幻覚や妄想といった、統合失調状況での激しい脳の活動が限界を超えたり、あるいはその反動として、意欲の減退等が起こることは確かにある。さらに、その者を取り巻く、家族や病院、社会などの不理解や不当な扱いが、その者の孤立を深め、心を閉ざしめることにより、意欲の減退等をもたらすことがある。

2つ目、3つの目の理由は、結局は、本人にとっても、周りの者にとっても、幻覚や、統合失調状況そのものについて本質的に理解しないことによる怖れに帰すので、本気でその理解を目指すしか手立てはない。

 

解説 統合失調には、一般に、幻覚や妄想のような「陽性症状」の他に、意欲や感情の減退、不活動などの「陰性症状」があるとされます。それは、一時的なものではなく、継続して起こるので、むしろ、幻覚や妄想より、こちらの方が社会生活上厄介な問題だとされます。

設問33でみたように、意欲や感情の減退、不活動などは、脳の神経伝達の働きを抑える精神薬の(長期的)服用によっても起こることです。そして、むしろ、医師が関わって、「陰性症状」が出ているなどと評価されるのは、(当然精神薬が服用されている場合ですから)こちらの場合の方が断然多いと思われます。本来は、薬の作用により現れ出ている状態が、もともとの病気のせいにされているのです。

従って、「陰性症状」といわれる状態が生じることの原因として、第一に疑うべきは、薬の作用ということになります。この場合は、薬を減薬なり、断薬することで対処されるべきことになります。

但し、(私は一切薬は飲んでいませんが)私の経験から言っても、統合失調状況に深く入るほど、その過程自体から、意欲や感情の減退、不活動が起こることは当然あると思います。

幻覚や妄想は、「陽性症状」と言われますが、それが起こっている状況では、脳が処理しきれないような情報が絶えず侵入し、それに対してああでもないこうでもないと、思考が異常に昂って、激しい活動をしています(「過覚醒」などとも言われます)。それは、本当に耐え難いほどのものになり、自分でも「限界を超えている」と感じることがあるのです。そして、私は、実際に、脳が異常な音を発しながら混線し、まさにショートするかのように切れる寸前である、ということを如実に感じたことが何度かあります。そこで、もし本当に切れていたら、かなり根源的に、意欲や感情の減退というより、停止に近いことが起こっていただろうと思います。

たとえそのように、「切れる」ということまで起こらなくとも、思考の混乱と、異常な昂ぶりが続けば、その反動として、意欲や感情の減退が起こるのは、自然なことと言うべきです。

ですから、陰性症状の生じる原因として、統合失調状況自体の過程から生み出されるものは確かにある、ということが言えます。

岡田尊司著『統合失調症』(PHP新書)でも、「陽性症状が、神経系の「火災」だとすると、陰性症状はその結果、神経系がダメージを受けたことによる「後遺症」だと理解できる。」と言われていますが、そのとおりと思います。

しかし、このような陰性症状というものも、統合失調状況に必然的に伴うのではなく、要は、統合失調状況で起こる幻覚について何も知らず、またその「未知性」について正面から認めることなく、いわばあがきまくることによって、自ら混乱を深めているからです。

つまり、「病気」そのものの「症状」なのではなく、理由があって起こっていることなので、その状況から「抜け出す」ときや「くぐり抜ける」ときに述べたことと同様、ある程度の知識や経験により、自らの意思で(100パーセントとは言いませんが)抑えられ得るものだということです。

さらに、陰性症状が生じる理由として、その者を取り巻く、家族や病院、社会などの周りの環境やあり方、その者への接し方が大きく関わることも重要です。

ただでさえ、周りから理解されずに、孤立しがちな状況にあるのに、家族や病院、社会から、理解や配慮を欠いた態度や扱いを受ければ、その者はますます孤立し、心を閉ざし、絶望して、意欲や感情を減退させる事態になっても不思議はありません

そして、このような周りの「不理解」や「仕打ち」も、結局は、統合失調そのものに対する「不理解」や「怖れ」に根差しているので、そこが解消されない限り、このようなことは改善されようがないということになります。そこを、(了解不能の)「病気」ということで、分かったことにすることでは、決して埋め合わせはできないことなのです。

要は、本人自身にとっても周りの者にとっても、「統合失調状況とは本質的にどういうものなのか」を本気で理解しようとすることしか、手立てはないということです。

2025年1月20日 (月)

設問44 「解離性幻聴」といわれるものと、統合失調の幻聴との違いを説明してください。

回答 「解離性幻聴」とは、自己から切り離された人格の声を、自己自身が聞くことを意味する。「捕食者的存在」といった、明らかに他者的な存在による声を聞く、統合失調の場合とは異なる。ただし、自己から切り離された人格も、抽象的なものではなく、霊的領域に生み出された具体的な存在と解され、その意味では、「他者的な存在」としての性質は備えていると言うべきである。

両者の見分けは、簡単ではなく、混交する部分もあるが、自己の一部という面は直感的にも感じられることで、明らかに他者的なものが、継続的に、解体をもたらすほどの強烈な攻撃を仕掛けてくる場合とは区別できる。

 

解説 設問2529で触れたように、精神医学的には、「統合失調」と似た状態として「解離」というものがあります。「統合失調」はかつて「分裂病」と言われたように、「解離」ということと、概念上も重なるようにみえます。

しかし、「解離」というのは、「ストレスによって、意識と知覚・記憶が分断される」ことを意味するもので、「統合失調」のように、人格または思考・感情が全体として「分裂」する(統合を失う)といったものではありません。誰でもが経験することであり、全体としての「自己」を防衛するために、必要なことでもあります。

典型的には、受け入れ難い記憶が現在の意識から切り離されるということがあります。特に、虐待を受けた場合には、必然的にそのようなことがなされることが多くなります。

ただ、「解離」も何度も繰り返されたり、酷いものになると、日常的な社会生活に支障をきたすような「病理的なもの」になり得ます。精神医学的には、「解離性障害」と言われます。典型的には、「二重人格」や「多重人格」と言われるものがあり、「解離」された自己が、それ自体の人格をもって振舞うようになるものです。しかも、本体である自己とは切り離されて互いに交流ができないのが普通ですから、統制がされないものとなり、社会生活上も大きな問題を生み出します。

但し、その場合でも、「統合失調」の場合と大きく違うのは、その者の本体の人格にしても、切り離された人格にしても、それらはそれなりにまとまった人格を持って振舞っているということです。統合失調のように、それらの人格そのものが、全体として分裂し、壊れかかっているといった印象は与えません

そのような本体の意識から切り離された人格の「声」を、本体の意識が聞くということがあります。それが「解離性幻聴」で、統合失調の「幻聴」と似た現象になります。

しかし、説明して来たように、明らかな「他者」の声を聞く統合失調の場合と違い、「解離性幻聴」の場合は、自分の意識から切り離された自分の一部の声を聞くのですから、どこか親しみがあったり、明らかな他者という感じで迫って来るものとは異なります。攻撃的なことを言いかけて来ることはあるでしょうが、その場合でも、それで自己が全体して危機に陥るといった感じにはならないのです。

ただ、「解離」は大した問題ではないというのではなく、「解離」にはまた、「解離」独自の難しい問題があり、意識とは何か、人格とは何かという、本質的な問題をも提示します。

また、統合失調の場合、「統合失調」という病気があってそのような状態をもたらすのではないように、「解離」の場合も、「解離」という病気があって、そのような状態をもたらすのではないことは重要です。両者には、私の場合もそうでしたが、十分重なる部分があり、混交があり得るのです。精神医学がよくやるように、「統合失調」か「解離性障害」かという、(病名の)選択の問題ではないのです。

(さらに、精神医学では、統合失調の幻聴の場合も、結局は、自分自身が生み出したものを聞いているに過ぎないと解するのが普通です。そうすると、表面上どのように言おうと、「解離」の場合との本質的な違いなど、明らかになるはずがないということになります。)

このブログでは、「統合失調状況の本質」を明らかにすることを意図していますので、ここでは、統合失調の本質に関わる点のみを簡単に述べることにします。

設問25でみたように、この「解離性幻聴」の「声」をもたらす切り離された「人格」も、抽象的なものではなくて、具体的に、実体として、「霊的世界」に存在しているものと解されます。それは、「想念形態(エレメンタル)」とか「霊的鏡像」と呼ばれます。それらの存在が、他者のもとに現れれば、「生霊」ということになりますが、「解離性幻聴」の場合は、それが自己自身に現れ出ているのです。

ただ、それらは、「捕食者的存在」のような、明らかに「他者」的で攻撃的な存在ではないので、統合失調の場合のように、継続的に強力な影響を与え続け、いずれ解体をもたらすほどの危機的な状況ではないということです。

対処の仕方としても、統合失調のように、「抜け出す」とか「くぐり抜ける」ということではなく、切り離された人格を自己が生み出したものとして受け入れ、全体として「統合」を図るようなことが必要になります。その過程では、「解離」をもたらしたものとして、自己が受けた「虐待」によるトラウマと向き合うということも、必要になるでしょう。

また「解離」には、設問29でみたように、さまよえる人間の霊による「憑依」と類似するという問題もあります。ただ、精神科医小栗康平が言うように、「憑依」の場合は、その者とは別の人格が取り憑いて表面に出ているので、対話を重ねるなどの方法で、他者的な存在であることが分かることが多いものです。

何しろ、「解離」は、このように統合失調と似た面がありますが、本質的には、統合失調とは異なったものです。しかし、統合失調の本質を理解するうえでは、一通りのことを知っておくことが重要です。

なお、「解離」および「解離性幻聴」については、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『「解離」について』や『8 「解離性幻聴」との相違』などでも述べられていますので、参照ください。

2025年1月18日 (土)

設問43 反精神医学者の R.D.レインは、「分裂病霊的旅路」説を唱えていますが、あなたの考えと同じとみていいですか?

回答 R.D.レインの「霊的旅路」説というのは、統合失調状況は、それまでの自我を超えて行く「霊的な旅路」であり、その過程で、本来の自己を見出して、より成長を遂げて帰還することのできるものとする説である。統合失調状況を「くぐり抜ける」ことを重視する私の見方と共通するし、その失敗とも言うべき「狂気」に陥ることは、やはり酷く否定的な状態とみる点でも一致している。

ただ、レインの「霊的」というのは、ユングに近い、「内面的精神性」という意味で言われていると解され、私のように、外部的実在として「霊的存在」を認めるのとは異なっている。私は、統合失調状況を「抜け出る」にしても「くぐり抜ける」にしても、正面から外部的実在としての霊的存在を認めて、具体的にその性質を知ることで、対処していくことが必要と解するのである。

解説  反精神医学の旗手といわれるR..レインには、『引き裂かれた自己 狂気の現象学』(ちくま学芸文庫)という有名な著書があります。精神医学者の間でも、重要な書としてよく読まれているようです。分裂病質の者が統合失調に至る過程を実存的に分析したもので、統合失調の体験者からみても、かなりの説得力があります。

要は、分裂病質の者の自己は、世界に対しても自分自身に対しても二重に引き裂かれており、偽自己体系というものを作り上げてなんとか世界に対峙するが、いずれは、崩壊せざるを得ないといったものです。ただ、その過程が分裂病質の者の内面にまで踏み込んで、鋭くも、詳細に描かれているのです。

しかし、これは、分裂病質の者が「必然的」に統合失調に陥らざるを得ないかのようで、否定的な見方に貫かれているし、統合失調の状態に至るまでのことには詳しいですが、統合失調に至ればもはやそれで「終わり」であるかのように、その後のことにはほとんど触れられていません。実際、この時期には、レインはかなり徹底した否定的な見方をしていたようです。

ところが、その後、レインは一種の転身を遂げ、「分裂病霊的旅路説」といわれるものを提示するに至るのです。これは、統合失調は、否定的な病気といった(ことに尽きる)ものではなく、本来、霊的な旅路なのであり、その体験を通して、その体験前の自我を超えて、本来の自己を見出し、成長を遂げることのできるものなのだというものです。

特に、統合失調状況に入ることを、単に統合失調的な(病的)結果として重視していなかったのが、その状況こそ、それまでの自我を超えて行くための「旅路」のプロセスとして重要なものとみることになったのが、最も変わったところです。

レインがこの点につき端的に述べている文章をいくつかあげておきます。(『経験の政治学』(みすず書房)より)

「この旅は次のようなものとして経験されます。つまり「内」へ向かっての絶えざる進行、人間の個人の生活を貫いての遡行、そしてすべての人類の、原初的人間のアダムの経験への、そしてまたおそらく動物植物鉱物であることへの遡行貫通超越として経験されます。この旅には、しかし、行くべき道を見失う可能性も多くあります。混乱したり、部分的な失敗をしたり、そして結局最後に難破したりする可能性があります。多くの怖ろしい怪物や霊魂や悪魔に出会わなければなりません。そしてそれらにうちかつこともあるし、うちかてないこともあるのです。」

「ある人が狂気に陥るというときには、その人の位置は、あらゆる存在領域との関連において、深い転変を蒙ります。彼の経験の中心は自我(エゴ)から<自己>(セルフ)に移動します。しかしながら狂人は混乱しているのです。彼は自我と自己を混同し、内部と外部を混同し、自然なものと超自然なものとを混同します。にもかかわらず彼はしばしば、たとえ深いみじめさや崩壊を通してであれ、私たちにとっては聖なるものの司祭となることができるのです。」

「狂気というのは全面的な崩壊である必要はありません。それはまた、ある突破かもしれないのです。狂気は隷属であり実存的死であると同じぐらいに、潜在的には解放であり更生でもあるのです。」

「霊的な旅路」が「自我」を超える旅路となるといっても、それは失敗する可能性をはらんだものであることをしっかりみています。レインは、前からもっていた統合失調に対する否定的な見方を捨てたわけではなく、ただ、いくつかの体験例に接して、本来、そうである必然性はないことに、気づいたのです。決して、狂気を美化したものではありません。ただ、レインは、そのような失敗は、個人の問題というよりも、社会自体が「疎外」されているからだという点を重視していました。

このようなレインの説は、前回とりあげた、シャーマンの巫病についての「死と再生のイニシエーション」という見方とも通じるものだし、私の見方とも共通するところの多いものです。

ただ、レインが「霊的な旅路」でいう「霊的」というのは、いわゆる「spiritual」ということで、「内面的な精神性」ということを意味していると思われます。私のように、外部的に存在する「霊的なもの」や「霊的存在」を認める立場をはっきりととるわけではないということです。

統合失調の者は、「<自己(セルフ)>と<自我>を混同する」とか、「内に向かっての絶えざる進行」であり、「原初的人間や動物植物鉱物への遡行」などというところからも、その考えは、普遍的無意識を唱えたユングに近いと思われます。

「自己(セルフ)」というのは、表層的な「自我」ではなく、普遍的無意識の中心に働いているもので、自我を超えた自己の本質のようなものです。ユングは、ビジョンとして外部的に現れる「精霊的存在」も普遍的無意識が投影された「元型的存在」と捉えるので、「霊的な実在」そのものとして認めるのではありません。(ただし、ユングは晩年、人間の「幽霊」を経験してその存在を認めており、また、普遍的無意識が投影された「元型的存在」といっても、物質的なものと共時的に結びついているので、単なる「内面的存在」というのではありません。この辺りは、かなり微妙なところがあります。)

レインも、基本的には同様な見方をとっていると思われ、「怖ろしい怪物や霊魂や悪魔に出会わなければならない」というのも、「元型的な存在」という意味で言っているものと解されます。ところが、私は、それらをはっきりと外部的な「霊的存在」として認めるし、本当に統合失調状況を「抜け出」たり、「くぐり抜ける」ためには、そうすることが必要と考える点が異なります

こういった存在は、外部的存在として自己に働きかけていることを正面から認めたうえで、具体的な状況での体験を通してその特徴を知り、そこから「抜け出」たり、「くぐり抜ける」ための対処法として生かしていくことが必要なのです。ただし、統合失調状況に入った理由を含めて、体験の全体を見返すというときには、ユングのような内面性の重視は必要なことでもあり、大いに参考になるものです。

そうわけで、私の見方は、レインの見方と共通するところが多いですが、外部的な「霊的存在」をはっきりと認めるところが異なります。外部的な「霊的存在」をはっきりと認めて、それを重視して行く点、「死と再生のイニシエーション」を重視する点でも、私の考えは、シャーマニズムの方により近いと言えるでしょう。

なお、ブログ『狂気をくぐり抜ける』でも、記事『「自己の脆弱性」/『ひき裂かれた自己』や『「疎外」からの「逸脱」/『経験の政治学』』、さらに『R.D.レインと反精神医学の道』と隠喩としての「精神の病」』で、R.D.レインの説についてかなり詳しく述べていますので、参照ください。

2025年1月12日 (日)

設問42 シャーマンになる者が通り抜ける「巫病」と、統合失調状況の関係を教えてください。

回答 シャーマンになる者が通り抜ける「巫病」と、統合失調状況は、本質的に異なるものではない。そこでは、同じように、幻覚や幻聴に悩まされ続け、精霊や神々(悪魔的存在を含む)に執拗な攻撃的働きかけを受ける。ところが、シャーマンの巫病では、結局、それを通り越し、克服することで、シャーマンになる能力と力量を身につけることになるのが違っている。

それには、文化的背景が異なっていることの影響が大きいが、本来、統合失調状況も、同じように「くぐり抜ける」ことのできるものである。

解説 「シャーマン」というのは、(通常)トランスのような変性意識状態に入って、超自然的存在(神、精霊、死霊など)と直接接触・交流し、予言、託宣、卜占、治病行為などの役割を果たす人物です(佐々木宏幹著『シャーマニズム』(中公新書)参照)。先住民文化の共同体には一人はいると目され、近代以前の文化において、普遍的に大きな役割を果たしてきた人物です。

何度か述べたように、近代社会は、そのようなものを「迷信」として否定することで成り立っている社会なので、もはや一般に信じられる存在でも、敬われる存在でもなくなってしまいましたが、かつては、文化の中心をなした人物と言っていいものなのです。

日本では、「巫者」「巫女」などと呼ばれますが、具体的には、修験者やイタコ、沖縄のユタなどを思い浮かべると分かり易いでしょう。現代でも、「生き神」や「霊能者」として、信奉を集め、活躍している人はいます。

そのようなシャーマンは、前回も触れたように、シャーマンになる過程で、「巫病」と呼ばれる「異常な心身状態」を通り抜けるものとされます。この「巫病」は、「聖なる病」とか「カミダーリィ」などとも呼ばれますが、そこには、前回見たような、「死と再生」の過程が含まれています。精霊的存在によって食べられる、体を解体されるなどの過酷な試練が与えられ、それを克服することで、いわば、普通の人間として死に、精霊的存在に近いシャーマンとして「生まれ変わる」のです。

前掲の佐々木宏幹著『シャーマニズム』から、この「巫病」=「聖なる病」について書かれた部分を引用してみます。

「巫病はここでも心身異常の形で現れることが多い。シャーマンになるべき人物は、食欲不振、夢、幻覚、幻聴などに悩まされ続け、その間にかつてシャーマンであった祖先()が訪れて、彼を矢や刀で殺し、肉を切り取り、骨をひき離して数えた(ツングース)とか、クマやセイウチなどが彼をずたずたに引き裂き、貪り食ったが、のちにその骨の周りに新しい肉が生じた(エスキモー)とかの体験をしている。もっとも、彼らを苦しめ、痛めつけた祖先や動物が、やがて彼らの守護霊や指導霊となる例は少なくない。

未来のシャーマンが夢や幻覚の中で殺され、バラバラに解体されると述べても、どうせ現実にではなく夢や幻覚なのだから大したことはないと考える人は少なくないと思うが、それは当を得ていない。夢とか幻覚の語は、その状況を客観的、合理的に説明するために用いているのであり、当人にとって肉体の切断や骨の解体は、決して夢や幻覚の中での出来事ではなく、まぎれもない「事実」なのである。」

「聖なる病は、一般的には神がある人物を選んで、「霊界の専門家」または「神の乗り物」に鍛え上げるための、いわば神によって課された聖なる試練であると目される。カミダーリィ経験には、明らかに「生と再生」(こういう言い方がされる場合もあるが、通常「死と再生」といわれる―引用者)の観念を示すような内容も多く看取される。彼らにはカミダーリィの心身異常の極限において意識を失い(しばしば一度死んだと表現される)、回復したのちに神の意志の何たるかを「サトリキッタ」と称するものが多い。」

この説明により、一見して、「巫病」といわれるものが、統合失調状況と非常に似ていることが分かるでしょう。幻覚や幻聴に悩まされ続けること、動物的な精霊に食われたり、解体されるという過酷なものではありますが、要は、解体をもたらすような、強い攻撃的な働きかけを受けるという点などです。

しかし、統合失調の場合との一番の相違は、シャーマンの「巫病」の場合は、「死と再生」の過程として、結局は、それを乗り越え、むしろそれを乗り越えたことによって、シャーマンとしての能力や力量が身につくことです。

それには、明らかに、文化の相違が影響しています。シャーマンの「巫病」では、周りの者もそれをシャーマンになるための試練として受け止めており、先輩のシャーマンもそのための支援ができるし、そのためのノウハウも伝統として受け継がれています。イニシエーションにおいて重要な役割を果たす、精霊や神々についても、一般にもある程度のことが知られ、多くの人に当然のように信じられています。

ところが、近代社会では、そのような伝統が失われてしまい、神々や精霊の存在も否定され、「(単なる)病気」という見方が浸透したため、もはやその「巫病」を克服する道は大きく断たれ、いわば「失敗」に帰する場合が多くなってしまったのです。それで、結局は、「病的な状態」に終始するようなことが普通になってしまったということです。

シャーマニズムの古典的研究者エリアーデも、シャーマンは、「全快した病人」であり、「自ら治癒するに成功した病人」と言っています。つまり、シャーマンは、確かに「病的状態」を通り越していくのであり、それは、決して「統合失調状況」と本質的に異なるわけではありません。シャーマンの巫病と統合失調は別物という見方もされますが、そうではなく、ただ、その文化的な背景が全く異なることと、結果において大きく異なることが、違っているだけなのです。

言い換えれば、統合失調状況というのも、本来は、このようなシャーマンの「巫病」と異なるものではなく、精霊によって課せられた試練という面があるのです。

つまり、それは、前回みたように、「くぐり抜ける」ことのできないものではないのです。

また、現代では理解の困難なものになってしまいましたが、「統合失調状況」というものがどのようなものであるかは、逆に「シャーマンの巫病」というものを知ることで、照らし出される面があるのです。

私は、今後のあり方として、シャーマンの「巫病」を知ることこそ、「統合失調理解の鍵」となるとさえ思っています。

私は、現代の統合失調状況が、「捕食者的な存在」の働きかけによることを強調して来ましたが、その働きかけは、確かに、かつてのシャーマンの「巫病」の場合以上の、いわば「統制が効かないもの」となっていると思います。それが、統合失調状況では、乗り越えの「失敗」に結びつくことが多い理由にもなっていますが、この点も、今後の我々のあり方次第では、変わって来る可能性があると思います。

なお、ブログ『狂気をくぐり抜ける』でも、統合失調とシャーマンの「巫病」との関係やイニシエーションとしての面については、記事『6 他の「幻覚」の場合との比較』や『「イニシエーション」と「分裂病」』などでとりあげていますので、参照ください。

また、統合失調状況でも、捕食者的存在の働きかけは非常に強烈で執拗ですが、シャーマンの「巫病」においても、「神々」(悪魔的存在を含む)の働きかけは強烈かつ執拗で、逃げようにも逃げられず、結局、シャーマンになるしかないというところへ追い込まれていくほどのものです。この点について、谷川健一著『神に追われて 沖縄の憑依民俗学』(河出文庫)(電子書籍あり)は、沖縄のユタの場合ですが、小説風に構成することで迫真的に描き出していますので、興味のある方は是非お読みください。

2025年1月 9日 (木)

設問41 統合失調状況を「抜け出す」のではなく、「くぐり抜ける」というのはどういうことですか?

回答  統合失調状況に深く入り込む前には、「抜け出す」ことが可能だが、 ある程度深く入り込んだ場合には、「くぐり抜ける」ことを目指す方が現実的である。「くぐり抜ける」とは、それが「未知」の状況であることを認めて、あがくことを止め、むしろそのプロセスの展開に身をゆだね、最終的にその状況を、「超え出る」ように「抜け出る」ことである。

ただ、そこには、ある種必然的に、それまでの自己の喪失体験が含まれることになり、それから新たに再生することを意味する。それは「死と再生」の体験とも言われる。

 

解説  設問32において、そのような状況に入る以前なら、「抜け出す」ことも難しくはないが、統合失調のより深い状況に入ってしまった場合について、次のように述べていました。

「誰もいない状況でも、常時声を聞くなど、既に(統合失調状況の)深みに入ってしまった場合は、……そのように容易に抜け出せないくらいの深みに入ってしまったことを自覚しつつ、それなりの長い時間をかけて、その状況を見極めつつ、いろいろ格闘しながら、「くぐり抜ける」ということを目指すしかなくなる」

今回は、その「くぐり抜ける」とはどういうことかについて、もう少し詳しく説明します。

統合失調状況の深みにある程度入ってしまった場合には、補食者的存在の懐まで入り込んで、いわば「捕まって」しまっているので、もはや「抜け出す」ということは容易ではありません。たとえそれを意図したとしても、下手にあがくだけの結果になってしまいかねないのです。

そこで、その状況を「くぐり抜ける」ということですが、それは、もはや「抜け出す」ことは諦めつつ、むしろ、その状況により深く入って行って、そのプロセスの展開に身を委ね、最終的には、その状況を「くぐり抜け」て、超え出ていく、ということです。統合失調状況を、回復できない、または回復の困難な「病気」とみなす立場からは信じがたいことでしょうが、後にみるように、統合失調状況とは、プロセスの結果として、「くぐり抜ける」ことの十分でき得る状況なのです。

当然、それには、大きな危険を伴うし、覚悟のいることでもあるし、 相当の時間をかけて(私の場合は数カ月)なされることになります。最終的に「くぐり抜ける」ことができるとしても、実際には、様々な紆余曲折も予想されます。

それでも、状況のある程度深みに入ってしまった以上、無理に「抜け出」そうとして、悪あがきするよりは、「現実的」な選択であり、実際に、「くぐり抜ける」ことができれば、結果として大きな利点があり、その状況に入る前より、成長を遂げていることになります。その体験を通して学んだことは、通常の「この世的」な体験では学べないことであり、また、その後たとえ似たような状況に陥ったとしても、もはや、同じように混乱したり、翻弄されることはないことになるはずです。

そのためには、予め、このような状況は「くぐり抜け得る」のだと知っていることも重要ですから、その点からも、私はこのことを強く訴えかけたいと思っているのです。(「くぐり抜ける」は、私のもう一つのブログのタイトルにもなっている言葉です。)

初めに、「誰もいない状況でも、常時声を聞くなど、既に深みに入ってしまった場合は」と言いましたが、「常時声を聞くようになる」ということは、もはや、その声が目の前にする人間のものでないことを分かる状況でもあります。つまり、何らかの「霊的存在」の声を聞いていることに気づき得る状況ということになります。それは、言い換えれば、人間の「組織などにつけ狙われる」といった妄想が、もはや維持できない状況ということでもあり、そのような妄想に固執することを止め、「未知」の要素をはっきり認めたうえ、それと向き合うしかなくなっている状況ということでもあります。

前々回集団ストーカー被害の場合でみたように、そのような妄想に固執する場合には、それ以上状況に深く入っていくことは押しとどめられるかもしれませんが、その妄想世界から抜け出すことも、くぐり抜けることも、かえって難しくなるのです。それに対して、それまでの体験にない「未知のもの」として、何らかの「霊的存在」の働きかけを認めた場合には、もちろんそれ相応の恐怖も膨らむのですが、人間による攻撃の場合と違って、ある種の「開き直り」も生じます。「未知のもの」である以上、あがいてもどうしようもないという意識です。

統合失調状況により深く入っていくことの危険の最も大きなものは、「捕食者」にいいように「食われる」(エネルギーを収奪される)ことによって、意欲や思考、感情が大きく低下して、荒廃した状況に陥ることです。精神医学においても、「陰性症状」と言われる状況です。

しかし、これも、予めのある程度の知識なくして、その場だけで身につけるのは難しいでしょうが、「捕食者」なるものの性質やあり方を知って、対処の仕方を学べば、決して避けられないことではありません。設問28で、「捕食者」が統合失調の者にどのように働きかけるのか説明していますが、そこで述べたようなことを確かに知ることができれば、まず間違いなく避けられると言えます。

特に、「捕食者」の目的が、恐怖や攻撃的感情などの「否定的感情エネルギーの収奪」にあることを、明確に知ることができれば、彼らのなすことのすべてが、結局はそこに向けられていることが分かり、それに対して、変に怖れを膨らませることはなくなります。

ただし、人間の上に立つ「捕食者」と正面から向かい合うのですから、そこには、多くの「喪失」を伴うのも当然であり、何らの否定的な結果を受けないということではありません。

また、統合失調状況の深みには、「捕食者」だけでなく、「虚無」が控えている(このことは後に説明します)こともあり、そのような深みに入った以上、統合失調状況に入る前の自分の何ほどかを喪失する体験を伴うことになるのは、必至という面はあります。

何度か触れた、森山公夫著『統合失調症』も、統合失調の段階が、第二段階の幻覚・妄想段階から第三段階の夢幻様体験と進むにつれて、結局は、「世界没落体験」とも言われる、「自己」または外部的世界の「終焉」あるいは「死」の体験をするとして、次のように言っています。

「この夢幻様段階では、宇宙的規模での「人類の破滅」というテーマへと収斂してゆくのです。こうしてテーマの基調は、「自己の破滅」という点で一貫しながらも、その規模は「疎外」から「迫害」へ、そして「人類の破滅」へと拡大してゆくのです。」

<宇宙的規模での「人類の破滅」>ですから、これは、「宇宙の死」とも言える体験で、単なる「自己の死」を超えています。私の場合は、自分に迫って来たのは、文字通りの「宇宙の死」であり、当然「人類の破滅」を含んでいました。(ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『20 「宇宙の死」へ』参照)

しかし、そのような、それまでの自己と世界の「終焉」ないし「死」の体験こそ、また新たな自己の「再生」をもたらす基礎となると解されるのです。統合失調状況を「くぐり抜ける」ということが可能となるのは、このように、(もちろんそれが全面的であるほど、より深い体験となるわけですが)何ほどかのレベルで、自己の喪失を伴うとともに、新たな自己として再生することによるということが言えます。

森山は、「死と再生」という観点をはっきりとは打ち出していませんが、症例としてあげている例でも、その体験後23か月後には、元気を取り戻し、社会に復帰することがでたということであり、このような体験プロセスを経ることが、むしろ回復へとつながったことがみてとれます。

この「死と再生」の体験については、「死と再生のイニシエーション」とも言われ、先住民文化の、特にシャーマンになる者が通過すべき儀礼の、重要な要素ともされています。(この点については、次回に再び触れます。)

総じて言えば、このように、「統合失調状況」を「くぐり抜ける」ことは、危険の伴うことで、簡単なことではないですが、十分なし得ることであり、それは、現在の状況では難しいとしても、「霊界の境域」や「捕食者」のような「霊的存在」の知識が予め知り得る状況になるほど、よりなされやすくなるということが言えるのです。

最後に、以上述べたことを、分かりやすく図にしたものを掲げおきます。これまで述べたことと照らしてみれば、特に説明の要はないものと思います。

Photo_20250109001501

«設問40 統合失調の妄想にしても、集団ストーカー被害にしても、そこに何かねじ曲がったもの、歪んだものを感じてしまうのですが

2025年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28  

最近のコメント

質問の募集について

無料ブログはココログ