2024年9月15日 (日)

設問14 実際に、人を前にするのでない状況でも、声が聞こえるという話を聞いたことがありますが、本当ですか?

回答 本当である。例えば、自分一人で部屋にいて、周りに誰もいない状況など、人を前にするのでない状況でも、声が聞こえることがある。しかし、これは、その声が、もはや、人が現実に発する声などではあり得ないことを知る、重要な機会でもある。

 

解説 本当です。例えば、自分一人で部屋にいて、周りに誰もいない状況など、人を前にするのでない状況でも、声が聞こえることがあります。そしてこれは、声というものが、実際には何であるのかを示す重要な機会ともなります。

自分一人しかいないのに、前回説明したような、はっきりとした「人の声」が、外から伝わってくるように聞こえるのですから、これは、本当に尋常でない事態です。しかし同時に、本当を言えば、これによって、「声」というものは、みかけは人の声のようでも、実際にはそうでない、何か違うものであることを、はっきりと認識できる状況でもあります。

しかし、実際にこのような声を聞くとき、なかなかそういうことにはなりません。大抵の人は、このような状況でも、その聞こえる声を、何とか理由をつけて、現実の人の声であると受け取ってしまうのです。

たとえば、その声が誰か現実の人の声に似ていれば、その人の発する声と受け取ることになります。それは、もはやその人が現に物理的に発する声ではあり得ないので、言うならば「テレパシーの声」ということになるでしょう。実際、テレパシーの声は、物理的な距離とは関係なしに伝わるとされているので、理屈としてはそうである可能性はありますが、前回もみたように、具体的に声の性質や内容を鑑みるなら、とても、その本人の声などと解せない場合の方が、圧倒的に多いと思われます。

また、人によっては、その聞こえる声は、「指向性の電磁波装置」から発せられたもので、自分は、声を聞かせられる攻撃を受けているのだと解することにもなります。現代の科学技術の発展に照らせば、これも絶対にあり得ない発想ではありませんが、やはり、具体的に声の性質や内容を鑑みれば、実際にはとてもあり得ないものであるのが分かると思います。

いずれにしても、統合失調の人は、このような事態に至っても、というか、このような事態に至ったからこそでもあるのですが、そのような人の声を、現実の人の声でなく、何か他の違ったものであるという可能性を、極力認めない方向で解釈するのです。

その理由は、前回もみたとおり、「幻聴」そのもののリアルさや、幻聴が帯びている特別の力の影響にもよりますが、ここまで声に迫られる状況になると、もはや、その声が何か未知のものであることを認めることの恐怖ということに尽きます。

現実の人の声でないということには、一般に言う意味で、「幻聴」(実際には存在しないものを聞く)であるということも含まれますが、もはや、ここまで来ると、そのリアルさと差し迫った状況が勝るため、「幻聴」と理解することも困難です。「幻聴」であるということは、統合失調のような精神病ということを意味することでもあるので、その「病気」ということに対する恐怖も加わり、ますますそのような方向では解釈できないことになります。

しかも、この聞こえる声には、ヤスパースの言う「実体的意識性」という感覚が伴うことも多くなります。それは、「何者かが実際にそこにいるという確かな感覚」のことで、単にリアルということを超えて、実際に何者かの存在を関知せざるを得ないような状況になっているのです。

私の場合にも、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『14 「幻聴」から「幻視」へ』及び『15 「声」あるいは「存在」に取り巻かれること』で説明しているとおり、このように一人で部屋にいるときに声を聞くということも、起こるようになりました。ただ、その頃には、後に説明する「幻視」も、曖昧ながらも伴い始めるようになっていて、その幻視の助けも借りて、そのような声は、実際には、人の声ではあり得ず、現にその場にいるということの、かなり強く感覚できる、何者かの存在の声であるとしか考えられなくなるということがありました。

つまり、それまでは、どこかにまだ、現実の人の声とか、あるいは一般にいう幻聴かもしれないという疑いが、わずかにあったのですが、そのような疑いも解けるほどに、はっきりと何者かの存在による声であることを認識するきっかけとなったということです。

私は、恐らく、他の人の場合でも、「実体的意識性」を感じているような場合には、はっきりとは意識せずとも、何かしら「幻視」的な要素も働いていて、それが実際に何者かがそこにいるという感覚を強めているのだと思います。

いずれにしても、このように、自分ひとりしかいない状況で声が聞こえるようになるのは、統合失調的な状況に大分深く入り込んでいることを示すとともに、その「声の正体」を知り得る、重要な契機でもあるということになります。

人によっては、自分一人しかいない状況で声が聞こえるということこそ、その幻聴は、その者本人の中から生み出されていることを示すものだと解する人もいるでしょう。また、前回もみたように、声が自分しか知らないことに関わることを言ってくることも、その幻聴の声が自分の中あるいは心から生み出されていることを示すものだと解することでしょう。

確かに、その点だけを表面的に捉えれば、そのようにみなされる余地があるのですが、実際に、前回もみたように、声そのものの性質やリアルさ、内容、その他の状況を総合的に、また具体的にみるならば、そのように解することはとても無理なのです。後に説明しますが、この声は、逆に自分は知らないことを言ってくることもあって、後に、それが事実であることが確かめられることもあるのです。さらに言うと、声というより、その存在そのものがということですが、はっきりと分かるような物質的な現象を起こすこともあるのです。

何しろ、このように、統合失調の人の聞く声には、いわゆる「他者性」というものが明白にあって、自分の中にあるものでないことがはっきりと感じられる要素が多くあるのです。この点で、いわゆる「解離性幻聴」といわれる、自分自身の人格の一部の声を聞くようなものとは区別されるわけですが、それについては、また後に説明します。

 

2024年9月13日 (金)

設問13 「幻覚」というのは、具体的にどのように見られたり、聞かれたりするのですか。

設問13  「幻覚」というのは、具体的にどのように見られたり、聞かれたりするのですか。これまでの説明では、今一つ抽象的な感じで、具体的にイメージできません。

 

回答 まず、基本として、幻聴の声は、通常の(物理的な)声と、ほとんど同じように聞こえるということを押さえる必要がある。但し、注意深く観察すれば、そこには、「多少の違い」が認められるのも事実である。声そのものの性質にも、声の伝わり方にも、通常の声と比べると、独特の要素がある。そこに気がつくと、幻聴の声を幻聴の声として、通常の声と違うものであることに気づくことができるようになる。

 

解説 「幻覚」が具体的にどのように見えたり、聞こえたりするのかは、ほとんどの人が体験したこともないでしょうから、本当に分かりにくいことだと思います。しかし、そのように、幻覚がどのようなものかを知らないために、実際に自分が幻覚に見舞われたときに、それにどう対応してよいか、どう解したらよいかが分からず、混乱してしまうことが多いのです。

本当は、幻覚のことは、統合失調的な体験をする可能性がある思春期になる頃には、ある程度知っておくべき事柄です。しかし、それを、教えられるような人もほとんどいないし、そもそも、幻覚というのは、近代の社会において、一種タブー化されていて、表の話題に上ることもほとんどないのが現状です。

そこで、私としては、何回かの設問に分けて、これからできる限り詳しく、幻覚の具体的なあり様を説明していきたいと思います。

統合失調の場合、典型的なのは「幻聴」ですので、まずはどのように「声が聞こえる」のかを、説明していきます。私の場合、無意識領域で聞いていたのを、後に「思い出す」という形で「聞いた」のと、現にリアルタイムで「聞く」のと両方あるわけですが、どちらも基本変わりないので、両方の場合をまとめて説明していきます。

幻聴の場合、誰か通りがかりの人とすれ違うなどのときに、その人のものと思われる「声を聞く」というのが典型的なので、その場合を想定してみます。

まず、基本として押さえるべきは、「声」は、本当に誰かが外部的に「声をかけて来る」ときと、ほとんど同じように聞こえて来るということです。単に、頭の中で響いているとか、一種の「空耳」のように、聞こえていると思い込んでしまっているだけというようなものではありません。

すなわち、現実の「声」と同じように、はっきりした人の「声」としての「音声」が、その出どころと思われる通りすがりの人のあたりから、外部的にこちらに伝わってくるようにして、耳に(頭の中に直接というのではなく―但し、後に多少の違いを説明します)聞こえる、ということです。

まずは、そのように、幻聴というのは、通常の「声を聞く」のとほとんど同じように、リアルな知覚の体験であることを、押さえておいてほしいと思います。だからこそ、統合失調の人も、それを「現実の人の声」と混同してしまうのです。

「ほとんど」と言いましたが、その聞こえている「幻聴の声」を「幻聴」と疑うことをしたうえで、じっくり観察していかない限り、なかなかその違いに気づくこともできません。統合失調の人が、「現実の声」と混同してしまうのも、当然と言えるところがあるのです。普通は、自分がそのような声を聞くことになるとは、つゆとも予期していないからです。

しかし、先ほど言ったように、そこに、よくよく観察していくと、感じ取れるような、「多少の違い」というのがあるのも事実なのです。

両者を見分けようとするなら、その多少の違いに注目していくことが重要になります。それには、それが幻覚である可能性を多少とも意識していることが必要で、たやすく結論めいたものを出さないで(結論はかっこに入れるように保留して)、じっくり観察するという態度をとることが必要になります。「組織に狙われている」などというような、「妄想」を固めてしまった場合には、そのようなことは、ほとんど無理になってしまうのです。

幻覚についての知識がなく、いきなりそのような状況に見舞われたなら、そういった冷静な判断をとることが、いかに難しいか、分かるでしょう。だからこそ、あらかじめの知識が必要になるのです。

それでは、その「多少の違い」というのを説明していきます。

まずその「声」そのものに注目してみると、それは、確かに、「人の声」としての「みかけ」を有しているのですが、全体として、どこか「違和感」を感じる要素を含みます。こういった人の声というのは、統合失調の場合、「非難する」ものだったり、「嘲笑する」ようなものが多いわけで、それに特別に注意を向け、意識が囚われるようになるのも当然のところはあります。

しかし、それにしても、単にそれだけではない、この「声」には、「独特の響き」があるのです。あるいは、ある種の特別な「力」を帯びているとも感じ取られます。普通、人間が非難したり、嘲笑したりするだけでは感じないような、圧倒されるような、逆らい難いような、何かしら、これまでに体験のない、特別のものを感じ取るということです。

幻聴のこのような性質について、精神医学の一般的な解説書でも、たとえば、笠原嘉著『精神病』(岩波新書)は、「なにかしら地上性をこえた「超越性」を帯びている」といい、岡田尊司著『統合失調症』(PHP新書)は、「患者本人にとっては、 幻聴の声は、神の啓示にも似た強い呪縛力、 迫真性をもって感じられる」と言っています。

単に、リアルであるということのほか、このような、「独特の響き」のため、統合失調の人がそれに捕らわれてしまうことになるのも、理解できるというものでしょう。ただ、これは、逆に言えば、この「幻聴の声」を、通常の人間の声と区別する徴となるということでもあります。それは、通常人間が発するようなものでない、言葉の内容にもよるわけですが、その声の響き自体から、通常の人間の声としては、どこか「おかしい」、「尋常でない」という部分を感じ取ることができるということです。

「幻覚」について何も知らずに、ただ恐れを抱いていたら、そのようなことも難しいわけですが、「幻覚」についてある程度知れるようになれば、そういうことも、それほど難しいものではなくなるのです。

もう一つ、幻聴の声に捕らわれてしまう大きな理由として、幻聴の声の内容自体が、たとえば、自分しか知らないようなことに関わって来るということがあります。非難や嘲笑をして来るにしても、自分しか知らないはず(心の中にしかないはず)のことに関わることを捉えて、非難や嘲笑をして来るということです。

これには、「違和感」を感じるのは当然と言うべきで、また、自分の心が「さとられる」とか、外部に「つつぬけている」などという訴えに結びついてくることですが、この点については、後に改めてみることにします。

次に、「声の伝わり方」にも、多少の違いがあることを述べます。

先ほど、「声は、外部的にこちらに伝わってくるようにして、耳に(頭の中に直接というのではなく但し、後に多少の違いを説明します)聞こえる」と言いました。

幻聴の声というのは、やはり「声の伝わり方」にも独特のものがあって、通常の声と同じように、「外部的に伝わって来る」感覚がありますが、通常の声の伝わり方に比べると、どこかそのまま直接に、―必ずしも頭の中と言うのではなく、自分の中に響いてくるという感覚があるのです。だから、周りの声がはっきり聞こえないようなときでも、この幻聴の声は十分聞こえて来るし、普通は、聞き取れないような距離であっても、十分聞き取れるものになるのです。

通常の声も、特にそれに注意を向けて集中して聞けば、その声だけ特別に浮かび上がるということはありますが、この幻聴の声はそのようなレベルではなく、特別に意識されるものがはっきりとあるのです。この点も、統合失調の者が、この声を無視することが難しく、捕らわれて、振り回されることになりやすい理由です。

ただ、それと同時に、このことは、やはり、幻聴の声を通常の声から区別する理由にもなるもので、幻聴の声をある程度聞き慣れて、注意深く観察できるようになれば、その違いに気づけるようになると思います。

これまでの典型的な例とは別に、「声」を聞く場合として、通りすがりの人のような見知らぬ人ではなく、実際に知っている身近な人の「声」を聞く場合もあります。たとえば、実際に、身近でよく知っている人を目の前にするような状況で、「声」を聞く場合です。この場合、多少厄介なのは、実際にその人本人の声と思われるくらい、似た声を聞くことがあることです。

「声」の性質としては、その人本人のものとそっくりなので、その本人の声と即座に判断してしまいがちなのですが、やはり、この声にも、上に述べたような、「幻聴の声」としての性質はあるのです。だから、よく聞き分ける限り、そのような声も、その本人自身の声ではなく、「幻聴の声」であることに気づける余地があります。

ただし、これは、「幻聴の声」の正体が何であるかということとも関わって来ることで、その声が、実際にその本人から「発せられた」ものであるという可能性はあると思います。それにしても、それは、「幻聴の声」である限り、物理的に発せられた声ではありません。従って、その声は、聴いている人以外の他の人は聞かないであろうし、本人も、そのような声を発しているという自覚はないはずです。

それは、言うならば、一種の「テレパシーの声」ということになりますし、実際に、超心理学の実験などにおいても、「テレパシー」という現象自体はあることが、統計的に示されていますが、本人に自覚がない限り、そのようなものと確かめる手立てはありません。

いずれにしても、ここでは、「声の正体」を暴くのではなく、そのような声を「幻聴の声」として、現実の(物理的に発せられた)人間の声と区別することが目指されています。「声の正体」については、後に、もう少し踏み込んでみることになると思います。

 

2024年9月 7日 (土)

設問12 無意識領域の体験を「思い出す」ということの例は、夢を思い出すことのほかにもありますか?

回答 夢の場合以上に似た体験として、カルロス・カスタネダが、「高められた意識状態」で、ドンファンから受けた教えや、様々な体験を、後に「思い出し」て、意識化するようになったことがあげられる。それらの体験が、ただの「無意識の体験」なのではなく、一つの「現実」の体験であることを示す意味でも、この例は重要である。

 

解説 少し特殊な例になりますが、統合失調状況で無意識領域の体験を思い出すことに非常に似たものがあります。それは、人類学者カルロス・カスタネダが、ヤキインディアンのシャーマンであるドンファンから、教えを受けたり、様々な体験をさせられる領域に関わるものです。

カスタネダは、これらを「高められた意識状態」と言われる、通常の意識では感知できない一種の無意識領域で体験しており、後に、「思い出す」という大変な努力をして、意識化することができるようになります。それで、それらを、ドンファンシリーズと呼ばれる本に、報告することができるようになったのです。

意識領域では、認識したり、体験することが難しいような事柄でも、「高められた意識状態」である、無意識領域においては、体験できるようになるということです。実際、カスタネダは、無意識領域においても、意識領域とは別に、ドンファンと様々に交流したり、「精霊」との交流や、「カラスとなって空を飛ぶ」など、日常では普通起こり得ないような、特殊の体験をしているのです。

それは、実際、リアルな体験として体験されるし、その状況は、ドンファンや他の者とも共有されるもので、決して、カスタネダの中で閉じた「幻想」というものではありません。物質的な身体の移動を伴うなど、後に物理的に事実であることが確認できるものもあります。

ただし、それを「思い出す」のは、本当に「大変なこと」であるのは、私も体験したとおりです。これらの体験は、直線的な時間意識が支配する通常の意識の領域にとても収まり難いものだし、そもそも意識が受け入れ難いものとして、排除(抑圧)してしまうものでもあるからです。意識と無意識の溝というのは、特に現代人の場合、それだけ深いものがあるのです。

夢の場合は、睡眠時の体験なので、それが日常の意識とは別の無意識領域での体験というのが分かりやすいと思います。しかし、タスタネダの体験は、統合失調状況の場合と同様、覚醒していて、意識のレベルでは何事かを体験している状況で同時的にそれと並行するように、無意識領域で別の事柄を体験しているのです。

その体験は、意識領域で体験していることの背景で起こっているなど、意識で体験していることに関連していることも多いですが、もはや意識領域での体験からは断絶しているかのような、それこそ「夢幻的」で理解しがたいものもあります。私も、後に述べるように、強力な「悪魔的存在」との出会いや、「精霊」から攻撃を受けることなど、信じがたいことを、初めは、この領域で体験していたのです。

これらの体験は、もはや、単に無意識領域の体験というのではなく、カスタネダのドンファンが説明するように、多様な現実の中の、「もう一つの(別の)現実」の体験というべきものです。あるいは、その体験領域は、「非日常的意識領域」と言われ、「日常的意識領域」とは別に(並行して)存在する、一つの確たる「領域」なのです。

私は、これを「霊的領域」という伝統的な言い方で言いますが、基本的には重なるものとみていいと思います。ただ、初めから、いきなり「霊的領域」に入り込むのではなく、「霊的領域」のものが、この現実世界に重なるようにして、侵入してくるという感じになります。

ルドルフ・シュタイナーという神秘学者は、霊界に入る前に、この世界と霊界との境界領域である「霊界の境域」に入る、という言い方をしますが、この「霊界の境域」という言い方は私も適切であると思うので、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方でもよく使っています。

いずれにしても、無意識領域の体験であるからと言って、それは全くの「幻想」とか「事実でない」のではなく、通常の意識領域での体験とは異なる、もう一つの「現実」である(可能性がある)ということを、ここでは押さえておいてほしいと思います。

このような領域の体験を、ただの「幻想」や「混乱の反映」とみている限り、統合失調状況の理解などできるものではないと断言できます。

そして、私のように、その無意識領域の体験を思い出して「意識化」することができるようになると、それは、もはや無意識の体験ではなく、まさに意識がリアルタイムで体験する「現実」そのものとなっていくのです。それについては、また改めて、説明していきます。

 

2024年9月 5日 (木)

設問11 なぜ無意識領域で「声を聞いている」などということが、分かるのですか?

回答 無意識領域で「声を聞いていた」ことを、後にはっきりと、意識領域で「思い出す」という体験があったからである。この「思い出す」という体験を経て、幻覚をリアルタイムに意識しつつ体験するという信じがたい状況に入っていくことになり、同時に、何が起こっているか分からないという、どうしようもない状況を脱け出すことになったのである。

 

解説 前回述べたように、私も、あるときまでは、無意識領域で「声を聞いていた」のを意識にのぼらせることができずに、何が起こっているのか分からず、非常に混乱した状態にありました。ところが、あるときから、無意識領域で「声を聞いていた」のを、はっきり意識の領域で「思い出す」ということが起こったのです。

そして、この「思い出す」ということが起こってからは、幻覚を見たり聞いたりすることも、現に「リアルタイム」に意識できるようになりました

狂気をくぐり抜ける』の『ブログの趣旨』の後半でも説明していますが、このように「思い出す」ということで、それまで分からなかったことが明らかになった面は、統合失調の理解にとって非常に重要なことであるし、また他の解説書や、統合失調体験者の手記や話でも、このようなことをはっきり述べているものは、みかけることのないものでした。ですので、このことは、私が、独自に明らかにできる、非常に重要な事柄となります。

詳しい状況は、同ブログの記事『14 「幻聴」から「幻視」へ』や『17 「思い出す」ということ』でかなり詳しく述べているので、そちらを参照してもらえればと思います。今回は、この「思い出す」ということを、一般の人にもなるべく分かりやすく説明することにしたいと思います。

実は、無意識領域で起こっていたことを「思い出す」ということは、誰にも似た経験があります。それは、夢で何か「印象に残る」ことが起こっていたことは分かるが、努力してもなかなか思い出せないことを、後に、何かのきっかけで、「思い出す」ということです。これは、本当に、統合失調状況での「思い出す」ということに似ています。

努力してもなかなか思い出せないという状況も似ていますし、いったん何か一部でも思い出すことができたら、一気にその全貌が、かなり明白に思い出せるようになるのも似ています。

そして、このことは、誰においても、無意識領域で何ごとかを体験するということが実際にあることを、明らかにしています。

人によっては、「無意識領域で声を聞いていた」と言うと、それでは、「意識があった」ことになるので、実際には、「無意識領域で起こっていた」何事かを、後に意識の領域であれこれ考察して、「声として聞いていた」という風に解釈するのではないかと思うでしょう。

しかし、夢を思い出す例でも、夢の中には、日常の意識とは違っても、ある種の意識が厳としてあって、それが夢の中の映像とか声を聞いていたことが、はっきりと分かると思います。それと同じように、それまでは「聞いていた」ことすら分からない無意識領域での出来事が、意識において思い出されるときには、はっきりとその無意識領域下のある種の意識で「聞いていた」ことが分かるのです。

そして、それによってこそ、様々な影響を受けて、混乱していたことも分かるのです。それは、「解釈」や「考察」によって、明らかになったことではなく、ただ「事実として聞いていてこと」が明確に意識に浮かび上がるということです。

もちろん、その「無意識下に聞いていた声」そのものが、要するに「幻覚」なのだから、実際には存在しないものと、一般には解するのでしょうが、この明白に「思い出す」ことを体験すると、それはとても存在しないものなどとは解せないものになります。幻聴を聞くことそのものも、リアルな体験で、存在しないものを聞くことなどとは思えませんが、「思い出す」ということは、それと同程度のリアルなことで、むしろ、それまで「分からない」ことがはっきり浮上するという経過をたどる分、より「真実」のものという思いも強まるのです。

夢の場合は、覚醒時の意識と睡眠時の意識ということで、ある種の断絶があり、その「思い出した」夢の現実そのものが、覚醒時の意識と同程度のリアルな出来事とは解せない場合がほとんどでしょう。ところが、統合失調状況の「思い出す」というのは、その無意識下で起こっていた現実そのものに、リアルタイムで入っていくような感覚を伴います。つまり、現に「思い出して」いるその状況で、それを体験していたのとまったく同じ体験を追体験しているような状況なのです。夢の場合のように、それが現実の覚醒時の現実と異なるという感覚はなく、このリアルな現実そのものと同じレベルの体験と感じられるということです。

だから、「思い出す」ということは、それまで何が起こっているのか分からずに混乱している状況に対して、その状況から抜け出す、ある種の「光明」となるような、出来事でもあるのです。

ただし、その「思い出す」事柄は、要するに「日常的には起こらないような特別の声を聞いている」ことで、とても信じがたく、怖いことでもあるので、そのこと自体がもたらす、新たな怖れも、大きなものとはなります。しかし、それでも、何が起こっているか分からないで行き詰っている状況を打開し、新たな理解の可能性を開くものではあるのです。

実際、私の場合、ここから、幻覚をはっきり意識するような、統合失調状況そのものと言うべき、まさに信じがたい「非日常的」状況に入るということが起こりました。それは、多くの混乱と怖れをもたらすものではありましたが、同時に、それによってこそ、新たな理解の可能性も開けることになったのです。

先に述べたとおり、夢の例では、その「声を聞く体験」自体の現実同等あるいはそれ以上と言っていい、「リアリティ」まで伝えることができず残念ですが、とりあえず、「無意識領域で声を聞く」ということがあること、それを実際に「思い出す」ということがあることは、明らかにできたと思います。

 

2024年9月 2日 (月)

設問10 「幻覚」は、いきなり見えたり聞こえたりするようになるのですか?

回答 統合失調の場合、「幻覚」は、いきなり見えたり聞こえたりするようになるのではない。幻覚のようなものがない時期と、幻覚が見えたり聞こえたりする時期との間に、あやふやな中間期のようなものがあって、その時期こそが一番厄介な時期なのである。

この中間期には、幻覚がないのではなく、幻覚は無意識領域の意識に近いレベルでは働いていて、その影響が、はっきりと意識を捉えるまでになっている。そのため、何か尋常でないことが起こっていることははっきり分かるが、しかし、その内容が、様々に模索しても、はっきりと意識できないので、具体的に何が起こっているか分からず、不安定で、不安と恐怖の支配する状況となってしまう。

 

解説 統合失調の場合、「幻覚」は、いきなり見えたり聞こえたりするようになるのではありませんまったく幻覚のようなものがない時期と、幻覚が見えたり聞こえたりする時期との間に、あやふやな中間期のようなものがあって、その時期こそが一番厄介と言える時期なのです。

この中間期は、特に、幻覚があるわけではないですが、周りの人が自分に注目しているとか、自分を監視しているように感じるなど、何かこれまでに体験のない、尋常でないことが起こっていることを、確かに感じとることになります。勘違いとか、気のせいとかそんなことではないことは、確かに分かるほどの、はっきりした、周りの世界の「変化」を感じとるのです。

けれども、いろいろ考え、模索しても、それが何かはっきりとは分からないので、悶々とし、非常に不安定で、不安と恐怖の支配する時期となります。

この時期に、それは、自分が「組織に狙われているからだ」などの「妄想」を固めてしまう人もいるでしょうが、それは、このような不安定な状態に耐えられないからそうするので、本来、本当に、何が起こっているのか分からず、どうしようもなく、耐えがたい状況なのです。

私自身、振り返っても、後の幻覚をはっきり認める時期に比べても、この時期が、一番辛く、どうしようもない時期だったと思います。

精神科医中井久夫も、統合失調症の急性期の本質は、「恐怖」であるとして、次のように言っています。(『最終講義』みすず書房)

「もっとも強烈な分裂病体験は恐怖であるとサリヴァンは考えていました。私も賛成します。一般には幻覚妄想などを以て分裂病の特徴と考えているようです。」

「恐怖はいつも存在します。しかし、時とともにおおむねは、恐怖から幻覚・妄想・知覚変容などに比重が傾いてゆくと私は思います。そのほうが少しでも楽だからです。これは生命がそうさせてゆくとしか言えません。恐怖は意識性を極度に高めますが、幻覚・妄想・知覚変容などはそれほどではありません。」

ただ、恐怖が耐えがたいために幻覚に移行するというのは(一面は正しいでしょうが)、やはり幻覚は「ないものを知覚すること」という前提に捕らわれたが故の見方の面があります。幻覚というものが、事実を反映するものではないから、恐怖に対抗するようにして、脳または心の中に、生み出されてしまうのだという発想になるのです。

しかし、実際には、この時期には、幻覚をまったく見たり聞いたりしていないのではなく(幻聴の場合が典型的なので、以後適宜、「声を聞く」と言い換えます)無意識領域の、しかしかなり意識に近いレベルで、はっきりと声を聞いているのです。意識に近いレベルではあるので、その影響ははっきりと意識を捉え、何か尋常でないことが起こっていることは確かなこととして感じとられるのです。しかし、具体的に、何が起こっているのか、「何を聞いているのか」までは、意識が一生懸命模索しても、なかなか分からないのです。

意識と無意識の溝というのは、現代人の場合特に深いものなので、たとえ、意識に近いレベルで起こっていることでも、その溝を埋めるということは大変なことなのです。ましてや、無意識の領域の、より深い領域で起こっていることには、意識はほとんど気づくことができず、その影響というのも、ほとんど感じとることのできないものになってしまいます。

先に、中間期の前には、幻覚を全く見ることも聞くこともないといった、初めの状態があると言いました。しかし、ここでも、実は、無意識領域の深いところでは、そういうものを見たり聞いたりしている可能性があるのです。ただ、それが通常、意識に影響することはなく、意識が捉えることもないため、何も起こっていないように感じられるのです。人によっては、このときに、ある程度意識に影響を受けて、何らかの統合失調的な反応をしてしまう人もいるでしょう。その場合には、実際発病する前の、少年期や思春期に、統合失調的なエピソードを伴うことになるでしょう。

さらに言えば、このように無意識の深い領域で、何らかの幻覚的なものを見たり聞いたりしていることは、統合失調の人だけでなく、一般の人にも言い得ることなのです。ただ、一般的な人は、通常、それ以上に、幻覚が意識に浮上することがないので、それに影響を受けたり、意識されることも、全くというほどないだけなのです。

このように、(物理的なレベルにはないものを見たり聞いたりする)幻覚というものは、確かに存在するもので、しかも多くの人の無意識領域の奥では、常に働いていると言えるほど、(潜在的な)影響力をもつものなのです。統合失調においては、このような幻覚というものが、様々な理由で意識に上りやすいため、まだ意識にはっきり捉えられない段階でも、強い影響を受けて混乱している状態にあることを、改めて確認してほしいと思います。

ただ、このような、中間期というものは、統合失調の本人が必ずしもそのように意識できるものではなく、人によっては、いきなり幻覚を見たり聞いたりすると感じるでしょうし、そもそも幻覚を見たり聞いたりすると意識することすらできない場合も多いのです。

設問7で説明したように、具体的に「目の前にする人物の声を聞く」という典型的な例では、現実の声と混同しているため、それが幻覚であることを意識する可能性に乏しいですし、そもそも(物理的に存在するものでない)幻覚を見たり聞いたりしていると認めることは、心理的に困難なものだからです。このあたりは、「病識がない」と言われることとも関わってくるので、また後にもう少し詳しく説明します。

いずれにしても、統合失調の人が、必ずしもそのように認識するというのではありませんが、幻覚というのはいきなり見たり聞いたりするのではなく、それまでは無意識の奥に働いていたものが、はっきり意識に影響を与えるようになる中間的な時期を経て、後に、幻覚として意識されるようになるのだということを、明らかにしておきます。

 

2024年8月28日 (水)

設問9 「幻覚」を見ているときと、現実にあるものを見ているときでは、脳の状態に違いがあるのではないですか?

回答 「幻覚」を見ているときと、現実にあるものを見ているときでは、脳の状態をみる限り、何ら違いがないことが分かっている。脳の状態としては、「現実の知覚」と「幻覚」を区別することなど、できないということである。さらに、「知覚」という現象自体、脳科学的には、外界の現実をそのまま映しとるものではなく、視覚的な情報を脳が思考や記憶などを交えて、再構成してできたものであることが分かっている。

脳科学的には、「現実の知覚」というものが、「幻覚」とは別の確かな基盤があるものではないのである。

解説 「幻覚」を見ているときと、現実にあるものを見ているときでは、脳の状態をみる限り、何ら違いがないことが分かっています。

たとえば、色の幻覚を見ている人と実際に色を見ている人の脳の状態は、「視覚野」とよばれる、脳の視覚に関する領域の色に関る領域が同じように活性化しています。人の顔の幻覚を見ている人と実際に人の顔を見ている人の脳の状態は、脳の視覚に関する領域の人の顔に関る領域が同じように活性化しているのです。それらの間には、脳の状態として見る限り、何の区別のつけようもないのです。

しかし、単に何かを見ていると想像している人と実際に幻覚を見ている人の脳の状態は、はっきりと区別できます。想像している人の脳の視覚野は、活性化していないのです。(これらについては、たとえば、オリヴァー・サックス著『幻覚の脳科学──見てしまう人びと (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)』第1章参照)

これらのことは、幻覚を見るということは、単なる想像ではなく、実際の知覚と同じようにリアルな現象であることを、はっきりと示していると思います。

さらに、これらのことは、(「幻覚」と脳の状態としては異ならないような)「知覚」とはそもそも何なのか、あるいはさらに踏み込んで、それでは「現実」とは一体何なのか、「現実」なるものは確たるものとしてあるのか、という根本的な問題をも引き起こします。

脳の状態として、実際に何かを見ることと幻覚を見ることが区別できないなら、それらは、同じように「現実」であるとも、あるいは同じように「幻覚」なのだとも、両面から言えることになるでしょう。

もちろん、実際には、何か見ているとされるものが、多くの人に共通して、同じものを見ていると判断されるとき、それは「現実の知覚」とみなされるし、多くの人が、同じものを見ていないと判断されるとき、それは「幻覚」とみなされます。しかし、それらは、「事実上」のことであり、問い詰めれば、それらを区別する明確な根拠というものがあるわけではありません。「同じものを見ている」というときも、果たしてそれが厳密に同じと言えるかどうかには疑問があり、ただ、その「同じもの」というのは、文化や習慣が共有されることによって、漠然と規定されているに過ぎないという可能性があります。

いずれにしても、我々の知覚というのは、それくらい、「怪しい」ものであることが分かって来ているのです。

そして、最近の脳科学は、そのような「知覚」という現象、「見るということ」が、何か外界にあるものをそのまま映しとるというものではなく、網膜に入った外部的な刺激を分解して脳に入れ、脳がそれらを思考や記憶などを交えて、再構成してできたものであることを明らかにしています。

たとえば、藤田一郎著『脳はなにを見ているのか』(角川ソフィア文庫)では、このことを次のように言っています。

「ものを見ることの本質は、そうやって網膜でとらえられた光情報にもとづいて、外界の様子を脳の中で復元することである。その復元されたものを私たちは主観的に感じ、また、復元されたものにもとづいて行動するのである。」

さらに最近では、これらのことをもう一歩推し進めて、「知覚」にしろ、その他何にしろ、我々が脳の中で構成するものは、すべて「現実」を反映するという根拠は何もなく、それらは要するに、脳の中の「仮想現実」に過ぎないという見方もされるようになっています。

日本では、解剖学者養老孟司の『唯脳論』や、脳科学者茂木健一郎の説などがそうです。

さきほど、「脳の状態として、実際に何かを見ることと幻覚を見ることが区別できないなら、それらは、同じように「現実」であるとも、あるいは同じように「幻覚」なのだとも言える」と言いましたが、これらの説は、両者を「幻覚」の方に引き寄せて、脳の中に構成されるものは、すべて脳が生み出した一種の「幻覚」であるとするものです。実際に、先の2人は、「<現実><幻覚>を区別できる根拠はない」と言っています。

これらの見方は、「霊的な知覚」なるものを認め、それを一種の「現実」とする、私の見方とは違うのですが、一貫していて、また私も、必ずしも脳を中心には捉えませんが、すべての現象は一種のホログラフィであり、「仮想の現実」であるという見方をするので、重なる部分は十分にあります。だから、私も、現実の知覚も幻覚も、一種の幻覚なのだという言い方には、必ずしも反対はしません。

ただ、現在において、一般のものの見方や精神医学のものの見方は、明らかに「現実の知覚」と「幻覚」を区別し、「現実の知覚」は正しいもので、「幻覚」は間違ったものだから、排除(治療)しなければならないという考えをしています。

その「現実」に照らすと、私は、やはり、とりあえずは、「現実の知覚」も「幻覚」も「現実」の方に引き寄せて、「<現実の知覚>というのも、<幻覚>というのも、一種の「現実」には違いない」ということを強調する必要を感じます。

「幻覚」と言われるものが、通常の物質的なものの知覚と同じと言うのではないですが、「霊的な領域」において現実に存在するものの知覚に基づいているのだということを、訴えて行きたいのです。


2024年8月25日 (日)

設問8 「幻覚」と聞くと、どうしても、「実際にはないものを見たり聞いたりすること」というイメージになってしまいますが。

回答 「幻覚」が、近代以降、「実際にはないものを見たり聞いたりすること」という意味で使われているのは事実である。しかし、それは、知覚の対象物として、「物質的なもの」のみが存在するという、近代の発想を反映しているに過ぎない。「幻覚」という言葉を変えることは難しいが、「幻覚」には、通常の(物質的なものの)知覚とは異なるが、実際に存在するものの知覚を含むという風に、意味合いを変えて理解することが必要である。

 

解説 「幻覚」というのは、英語の「hallucination」や「illusion」でも、日本語の「幻覚」でも、「実際にはないものを見たり聞いたりする」という意味で使われているのは事実です。読んで字のごとくで、「幻」を「覚する」ことなのだから、イッコーさんでなくとも(笑)、「まぼろし」という意味合いをそこに含ませるのは当然のことでしょう。

 

古典的には、「対象のない知覚」などと言われ、最近は、ウィキペディアでも、「外部からの刺激がないときに、現実の知覚と同じような性質を知覚すること」と説明されているようです。どちらも、「対象物がない」、「外部的な刺激がない」等、実際には「存在しないもの」を知覚することが意味されています。「対象物がある知覚」が、「現実の知覚」ということになります。

精神医学になると、「間違った知覚」とか「歪んだ知覚」などとも言われ、それが「正しくない」ものであり、「歪んだ」ものだから、「治さなくてはならないもの」という意味合いを強調されます。「幻覚」それ自体に、「病的」なイメージを、かなり強く塗り込んでいるということが言えます。

いずれにしても、これらは、「物質的なもの」のみが存在するものであり、「対象物」があることが、外界に確認できる知覚(実際には、後にみるように、多くの者が共通して知覚するということ)のみを「現実の知覚」とするという、「近代」の発想から来たものです。

本来、物質としての「対象物」がある知覚でなければ、それは「存在しないものである」とは当然には言えないはずだし、現に近代以前には、物質的でないものを知覚することは可能とされていました。しかも、それは、近代に比べれば、かなりの人に可能だったのですが、誰もが共通に知覚するわけではなく、一部の者の知覚する、一種の特殊な知覚であることには違いないものでした。

近代は、そのような、誰にも共通に知覚されるものでないものは、「幻覚」と呼び、存在しないものの知覚であることにしたのです。そして、さらにそれを、「間違った」「病的なもの」として、病気の症状の一つとしたのです。多くの者には知覚できない知覚、そのような「特殊」の知覚は、認めることのふさわしくないものとして、「排除」することにしたのです。

実際には、単に「幻覚」があるというだけで、ことごとく「幻覚」が「病気」とされたわけではありませんが、結局は、それによって、周りに危険な感じを与え、隔離させる必要を感じさせるようなものを、「病気」として、強制的に病院に隔離し、治療させることにしたのです。

その意味では、精神医学というのは、物質的なもののみを存在するものとする、近代の新たな発想を裏から支える、強力な執行機関の役目を与えられたと言えます。現実に、強制的な力をもって、それに反する物の見方をする者を「排除」するなり、「矯正」することが、できる立場にあるからです。

そのようにして、近代社会の発想が常識として行き渡ることになった現在、「幻覚」という言葉が使われる時点で、それは、「存在しないものの知覚」であり、「誤ったもの」だというイメージになってしまうのも、当然のことと言えるのです。

「幻覚」という言葉が使用されること自体が、強力なイデオロギー的な意味を帯びて、近代の発想や精神医学の発想を、当然視する見方を支えているのです。

ただ、(これは、「妄想」という言葉にも言えることですが)もはや「幻覚」ということで定着してしまった言葉を変えることは難しいし、「幻覚」という言葉を使いつつも、その意味合いを、通常の知覚とは確かに異なるが、実際に存在するものの知覚の一つであるという意味合いに変えていくことは、不可能ではないと考えます。

そこで、今後も、「幻覚」という言葉を使っていくので、私がその意味合いを、このようなのとして使っていくことは、押さえておいてほしいと思います。

また、統合失調の幻覚においても、上に述べたことは、全く当てはまるのですが、前回みたように、統合失調の人の幻覚を表現された形態でみる限り、明らかな「誤り」といえるようなものが多いことは事実なのです。妄想においては、それはさらに強まります。

それが、問題をややこしくしているし、統合失調の場合、「幻覚」=「誤り」という見方が当然視されるところはあるのですが、統合失調の人の見たり聞いたりしている「幻覚」そのものは、本来、実際に存在するものと言わなければならないということが、前回述べたことなのです。

次回以降は、幻覚についての脳科学の知見や、幻覚にも具体的に多くのものがあるので、それらを参照しながら、統合失調の幻覚について、さらに踏み込んでみていきます。

2024年8月19日 (月)

設問7 統合失調の人が見たり聞いたりする「幻覚」は、本当に存在するものを、見たり聞いたりしているということですか?

設問7  統合失調の人が「憑依」の影響を受けているということは、統合失調の人が見たり聞いたりする「幻覚」は、本当に存在するものを、見たり聞いたりしているということですか?

 

回答 限定つきだが、これも基本そのとおりである。ただし、統合失調の人は、それまでに経験のない不安と怖れに満ちた状況にあるので、そのような「感覚」をまともに見極めて、表現することは難しい。それで、その表現は、いくらかの歪みを受け、結果として、そのまま受け取る限り、明らかに「誤り」とされるようなものになってしまうのである。

 

解説 これも、かなりの限定をつけてですが、基本そのとおりということになります。

統合失調の人は、周りの人には、明らかな誤りと思われるような幻覚を訴えて来ることが多いです。しかし、それは単なる「誤り」ではなく、実際に存在する何ものかを感覚していて、それに基づいて、その統合失調の人なりに、「真実」と思われることを表現したものなのです。

具体的に例をあげて示していくことにしましょう。

たとえば、統合失調の人にとって最も典型的な幻覚は、幻聴で、道行く人などが、自分にかけてくると感じられる、嘲笑的だったり、避難を帯びた言葉()だったりします。それも、単に、何の脈絡もなく、無意味にかけて来るのではなくて、たとえば、自分が気にしていたり、しようと思っていたことなど、心にあることと関連することを、ついて来ることだったりするのです。

そして、その「声」は、通常の視覚や聴覚とほとんど同様、またはそれ以上の確かさ(強烈さ)をもって感じられるものです。しかも、それは、何か逆らい難い、特別の力を帯びたもののように感じられます。無視しようとしても、難しく、どうしても捕らわれてしまって、そのことが心から離れなくなります。

そういうことが、たまにとか、単発にではなく、ほとんど日常的に、頻繁に繰り返されるのです。なので、統合失調の人は、そのような「声」が真実の声であることを疑うことが、難しくなります

統合失調の人の訴える「幻覚」(人の声)は、その人の表現のまま受け取る限り、「誤り」であり、「真実でない」ことは確かです。例えば、「道行くAという人物が、何々という声をかけて来る」と表現された幻聴は、実際には、Aという人物は、そのような声はかけておらず、その意味では明らかな誤りとなるのです。

ところが、そのAという人物の声とされる「声」そのものは、実際に存在していて、統合失調の人は、それを現実に目の前にしているAという人物の声と混同しているのです。

統合失調の人も、(バカではないので)「声」そのものは実際に存在しているからこそ、それを否定しようにも否定できず、それに捕らわれて、振り回されるほどのことになるのです。また、周りの人がどのように言っても、それよりも自分自身の「確かな」感覚の方を信じて、それを拒否してしまうのです。

単に、自分の頭の中だけに聞こえる(自分の頭が作り出している)とか、心の中だけにあるというものではありません。

ただし、「実際に存在する」と言いましたが、それは、物理的に存在しているということではなくて、やはり、一種の「見えない」「霊的な」領域に存在するものです(他にいろいろな言い方がありますが、以後「霊的な領域」ということで統一します)。この点は、これまでの科学の見方や近代社会の常識と反するので、もっと詳しく、根拠をあげながらみていく必要がありますが、ここでは、まずは、典型的な例を通して、統合失調の人の訴える幻覚というものの、少なくとも基本には、本当に存在するものがあることを押さえてもらうことが重要です。

しかし、統合失調の人も、それまで近代社会の常識の中で生きていた人なので、いざ自分がそのような異様な、特別の声を聞くなどということに見舞われたとき、とても、そんなことは信じることができないのです。あるいは、恐怖のために、そのようなことはあってはならず、とても、受け入れ難いのです。

そこで、統合失調の人は、このような感覚(声)を、霊的なものとか、何か未知のものなどとは解さずに、でき得る限り、それまでの現実に実際に存在するものの延長上に、解しようとします。それで、その感覚()を、実際に存在する道行く人に結びつけて(感覚としてもそのように思えるものがあるのは事実なのですが、なぜそうなるのかについては、後に述べます)、その者の声として、受け取ってしまうのです。

さらに言うと、統合失調の人は、既に、様々な不安や恐怖から、自分で自分の思考がコントロールしにくいような、混乱した状況にあるので、どうしても、起こっていること(感覚)を、冷静に見極めることは難しいことになってしまいます。

それで、元々の感覚には、本当のものがあったとしても、それはいくらかの歪みを受けて表現され、周りの者からみれば、明らかに「誤り」というものになってしまうのです。

これも、後により詳しくみますが、このようなことは、より「解釈」の要素が占める「妄想」になると、ますます大きくなり、誰が見ても、「誤り」としか思えないような信念を確信してしまうことになるのです。

そういったことから、まずは、統合失調の人は、基本には、本当に存在する感覚がありながらも、その表現された形態をそのまま受け取る限り、「誤り」になってしまうような、幻覚と呼ばれるものを見たり、聞いたりしているのだということを、押さえてほしいと思います。

 

2024年8月14日 (水)

設問6 「統合失調の原因の重要な要素は憑依現象である」ということですが、どのような意味で、「重要」なのでしょうか?

回答 一言で言うと、「統合失調の<最も統合失調らしい>部分の現われの、原因となる」からである。それは、統合失調の発症の前ではなく、現に統合失調を発症した状況で、受ける影響が大きな部分である。この部分に目を向けない限り、統合失調の具体的な理解は望めないのである。

解説 本当は、統合失調の原因と考えられるものを一つ一つあげていって、その中で、特に「憑依」現象が重要であることを示した方がいいのですが、それをするのは、もう少し後のことになるでしょう。

ここでは、原因として「重要」であるということの意味を、感覚的に分かり易く、端的に示しておきます。それは、一言で言うと、「統合失調の<最も統合失調らしい>部分の現われの、原因となる」ものだからなのです。

統合失調の人は、幻覚や妄想に振り回されて、混乱または錯乱し、周りの人にとっても、いかにも「危うい」感じを与えます。周りの人にとっては、あり得ないと思われることを、強く確信して、訴えてきたり、それに基づいて行動したりします。周りの人が、どのように説得しても、聞き入れる様子がありません。その内容は、「何かの組織に迫害される」というものが多いですが、ときに、宇宙人や神が出て来て、この世の終わりを説いたり、突拍子もないことをするようなものもあります。

そにには、どことなく「無気味」で「異様」な感じ、「おどろおどろし」く、「信じがたい」要素がまとわりついています。

統合失調は、「了解不能」とも言われるように、他の精神病とされる「病気」に比しても、明らかに、理解しがたい、不思議な部分があるのです。それこそが、人々に、本能的と言ってもいいような、「危険」な感じを与え、関りを避けようとさせ、病院などへ「隔離」させる必要を感じさせるのです。

また、このような信じがたい部分が本当には納得できないために、これまで言われて来た「原因」というものが、十分に認められることがなかったのです。「脳の病気」とか「頭がおかしい」というのも、とりあえず、「分かったこと」にするための、レッテルのようなもので、これで本当に心から納得するという人は、あまりいないと思います。

このようなことこそ、「統合失調の最も統合失調らしい」部分の現われだとすれば、そのようなことの原因となる主たる要素が、「憑依」によっている、というのが、「統合失調の原因の重要な要素である」ということの意味です。

実際、「憑依」ということを鑑みることなくして、統合失調を本当に理解することなど、無理と断言できるし、近代以前または西洋近代以外の文化が、普遍的と言っていいほどに、このような現象を(大枠として)「憑依」とみなしてきたことには、それだけの理由があるのです。

しかし、近代社会は、それらを、まさに「おどろおどろしい」「不合理」のものへの「怖れ」のため、「排除」してしまったのです。

先に、統合失調の原因は、具体的には後に見ると言いましたが、一つの大枠的な捉え方を示しておきます。統合失調の原因を、元々の先天的な性質、発症するまでの過程で受けた影響、発症してから受ける影響の三段階にしぼってみることができます

そうすると、それは、次の図のようになります

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元々の性質に精神面と身体面の特性があることは分かり易いと思います。元々の脳の脆弱性があれば、それはこれに入りますし、憑依という観点から、「霊媒体質」というのも、身体面の遺伝的な性質があると言えます。また、発症するまでに受ける親の影響や不適応感、様々なストレスが作用するというのも分かると思います。

しかし、精神医学にしても、精神病理学や精神分析にしても、原因を探るというときに考慮するのは、ここまでの段階で、発症してからの影響などには目を向けないのです。それは、発症してしまうことが、幻覚や妄想という症状に陥るという「結果」なのであって、もはや「原因」の問題ではないからということになるのでしょう。具体的には、発症することにおいて、自己または脳の働きが大きく「阻害」ないし「崩壊」されてしまっていて、幻覚やら妄想も、単にその表れの一つに過ぎないとみるからです。

ところが、実際には、発症して、「幻覚」(特に幻聴)を明白に見たり聞いたりすることが、その後の状況に大きな影響を与え、「妄想」の内容にも大きく影響を与えるのです。いわば、そこからが、本当に統合失調らしい現象に遭遇する入口なのです。

先に見た、異様な混乱や錯乱、無気味でおどろおどろしい要素など、周りから見ても、「統合失調の最も統合失調らしい」現われというのも、このことから生じてくるのです。そして、そのような状況を起している主要な原因こそが、「憑依」現象ということなのです。

精神医学にしても、精神病理学や精神分析にしても、この部分を、単に病的な結果の現われに過ぎないものとみなして、具体的な関心を向けないがために、最も統合失調の統合失調らしい部分を取り逃がしてしまっているのです。

 

※ ここまでの設問で、全体のごく大まかな総論的な部分を提示できたと思います。これから、具体的、細目的な部分を少しずつ明らかにしていきますが、それについても、これまでのように、まず総論的なことを述べて、徐々に細目的な部分を明らかにていくスタイルをとることになると思います。

 

2024年8月12日 (月)

設問5 近代以前の見方である、「精神病は憑依現象である」という見方の方が、正しいということなのですか?

回答 限定つきだが、そのとおりである。統合失調の原因は一つではないが、その重要な要素が、「憑依」現象によると言い得る。近代の精神医学は、そのような見方を、当然に排除するからこそ、統合失調の原因の主要な要素を、見逃しているのである

解説 これも、ある意味というより、限定つきになりますが、そのとおりです。

近代以前のこのような見方は「迷信」であって、だからこそ近代社会は、そのような見方を排して、「合理的」な科学的な方法で「病気」に対処することにしたのだという、一般に行き渡っている理解をしていると、このようなことはとても信じ難いことでしょう。

しかし、「憑依」現象なるものが、科学的に否定された(ないものとして証明された)ことなどは、一度もないし、現に現在でも、多くの文化が「憑依」現象を信じていて、日本においても、伝統的に信じられて来た「憑依」現象を信じる人は、多くいます。

そして、現在でも、霊能者等、それを明白に体験する人が多くいますし、私自身、統合失調の体験において、明らかに「憑依」現象と言うべきものを、ずっと体験して来たのです。

いずれにしても、「憑依」現象という、それまでの文化で信じられて来た見方を、当然に排除することはできないし、それを排除することを前提にすることで、統合失調の原因を探ることに、大きな制約をもたらしていることは、これまでの設問で見て来たとおりです。

実際、これから詳しく見ていくように、「統合失調」の原因のかなり重要な要素が、「憑依」によるとみることは、確かにできるのです。従って、それを排除したのでは、「統合失調」の原因として十分納得できるものが、見出されるはずがないのです。

ただし、「憑依」という言い方は、とても曖昧で漠然としていて、捉え難いのは事実です。

一般に、何らかの存在(見えない「霊的存在」)に、身体を乗っ取られるような状態を言いますが、必ずしも、乗っ取られるまで至らなくとも、そのような存在に影響を受けて、身体や思考の自由を奪われることはいくらもあるし、そのようなものも、「憑依」と呼ばれることがあります。

「統合失調」においては、全面的に「乗っ取られる」というようなことはほとんどなく、その強い働きかけにおいて、大きく影響を受けて、身体や思考の自由を奪われている状態ということができます。そして、そのような場合をも、「憑依」と呼ぶことができるならば、確かに、「統合失調」の原因の重要な要素が、「憑依」によると言うことができるのです。

あるいは、「憑依」する存在ということでも、様々なものが想定でき、それによって、「憑依」の性質も大きく変わります。必ずしも、悪意を持って影響を与えるのではなく、善意で、保護的な働きをするものもあります。「統合失調」の場合は、かなり明白な悪意をもって、積極的に働きかける存在の影響が顕著だということが言えます。

今回は、冒頭の設問に答えることを目的に、「憑依」について、ほんの概要を説明するだけなので、そう言える根拠や、その詳しい状況は、おいおい明らかにしていきます。

ただ、「統合失調の原因」というとき、それは一つではなく、様々な原因が複合的に重なって作用するし、また一見一つの原因のようでも、それは様々な観点から複合的に見られ得るということを確認しておくことは重要です。

ですので、私は、「統合失調の原因が、<憑依>現象に尽きる」などと言うのではありません

たとえば、「憑依」を受けやすい性質(霊媒体質などと言われる)というものがあるとして、それには、身体の様々な状態や、遺伝的な性質も作用します。「憑依」と言う現象においても、身体レベルの「原因」を様々にあげることはできるということです。

あるいは、「憑依」現象は、脳においても、強い作用を受けていますので、脳に様々な「異常」が現れることは、当然考えられます。だから、脳のレベルにおいても、様々な「原因」を見出すことは、できないことではありません。

従って、「統合失調の(重要な)原因は、<憑依>である」と言っても、それは、精神医学のあげる、身体や脳の原因、あるいは、精神病理学や精神分析などのあげる主観的、無意識的な原因を「排除」するものではありません。それらは、原因のある要素、あるいは、ある原因の表面的な要素を捉えている可能性はあるのです。

ところが、精神医学の身体や脳に原因を見る見方は、明らかに「憑依」という見方を「排除」するものですし、それは、一般の精神病理学や精神分析においても、同じことでしょう。

そのような「排除」こそが問題であって、そうすることでは、原因の主要な部分を見逃すことになってしまうということなのです。

 

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