霊界、霊界の境域

2019年12月 9日 (月)

補足 低次の自我から高次の自我へ

前回の補足になります。

前回、「低次の自我から高次の自我への移行」ということを、「霊界の境域」に入ると、低次の自我が混乱して、行き詰まり、一種の死を迎えるので、潜在していた、高次の自我へと譲り渡されなくてはならなくなる、ということで説明しました。

こう言うと、「低次の自我」と「高次の自我」が、全く別ものであるかのように思われるかもしれません。しかし、当然ですが、これらは、いずれも、自分自身の「本性」の現れとして、本来は、一つのものです。「魂」あるいは「霊」は、様々に分離する可能性のあるもので、「自我」や「人格」というのも、分離して現れ出ることがあるのは、既に何度か述べました。

あるいは、低次の自我と高次の自我は、無意識領域では、つながっていると言った方が、分かりやすいかもしれません。

意識領域では、「低次の自我から高次の自我への移行」は、一種の「断絶」として感じられますが、無意識領域では、「連続性」があるということです。

これを図で表すと、次のようになります。

自我の移行1.png

ただ、このような移行が、断絶として感じられるのは、低次の自我が、未熟であったからであり、「霊界の境域」へ入ることが、準備もなく、望まずして起こったのであったことが、大きく影響しています。私自身、そうでしたので、説明は、そのような観点からの説明になっています。

シュタイナーの言うような、自覚的な修行において、自我が霊界の参入に向けて、それなりの準備をし、十分鍛えられていた場合、「霊界の境域」での混乱は、より少なく、高次の自我への移行は、よりスムーズに行くと思われます。その場合は、意識領域でも、連続性をもって、移行が可能と思われます。

図にすると、つぎのようになります。

自我の移行2.png

シュタイナーは、自然な成長の先に、あるとき気がついたら、高次の自我へと移行していたというのが、理想の形だと言います。しかし、そのような場合は、稀だと思います。

自覚的な修行をしていて、高次の自我への移行が、スムーズに行くこと自体も、かなり少ないことと思われ、やはり、何らかの意味で、「断絶」が起こるのが、普通のことと思われます。

ただし、低次の自我が、断絶となるような、「死」を迎えれば、高次の自我が、必然的に浮上するというわけではありません。移行が起こるには、高次の自我が、その時点で、少なくとも、何らかの意味で、目覚め始めている(意識に浮上する可能性あるものとなっている)必要はあります。そこで、霊的なものへの何の指向も、準備もなしに、移行が起こるということは、考えにくいことです。

私の場合も、霊界の境域に入った時点で、ある程度の霊的な指向や知識はありました。ただ、それも、実際に入ってみると、とってつけたようなものだったことが分かり、十分には役立ったとは言えません。それで、低次の自我にとっては、霊界の境域は、未知の状況そのもので、遂には、完全に行き詰まり、「死」を迎えることになったので、断絶の要素は、はっきりと伴いました。

何しろ、現代人にとっては、このような移行は、それだけ大変なことであることは、強調しておきます。

2019年12月 4日 (水)

「低次の自我」と「高次の自我」

前回、「霊界の境域」では、人格(思考・感情・意志)が分裂するので、それまでの自我ではなく、新たに目覚める「高次の自我」によって、統合されなくてはならなくなることを述べました。

この、「それまでの自我」というのは、新たに目覚める「高次の自我」に対して、「低次の自我」とも言われます。今回も、「境域の守護霊」について述べる前に、この「低次の自我」と「高次の自我」について、簡単に説明しておくことにします。

「低次」とか「高次」 というのは、多分に「価値的」な表現で、抵抗のある人もいるかと思います。その場合は、より客観的に、「狭い(限定された)自我」と、「広い(限定の少ない)自我」ということで、捉えればよいと思います。あるいは、「日常的な自我」と「それを超えた自我」と言ってもいいでしょう。スピリチュアリズムでは、「小我」と「大我」などとも言われます。

いずれにしても、通常の「自我」は、この物質的な世界に生まれて、この世界を規定する、文化的信念体系の中で育ちます。それは、非常に狭く、様々な限定を受けるものにならざるを得ません。特に、近代社会は、知的には、高度なものとみなされていますが、「霊的なもの」を否定する文化なので、「霊的なもの」を前にしたときには、その狭さが、大きく浮き彫りになります。近代社会以前でも、この物質的な世界に生まれる以上、多かれ少なかれ、狭さがありますが、近代社会では、それがより際立つことになるのです。

現代において、まさに、「霊界の境域」という、それまでの世界とは異なる、より広い世界に入ることは、そのような自我の狭さを、如実に、露にしてしまいます

シュタイナーは、「霊界の境域」では、「高次の自我」による新たな統合のために、人格が分裂するという、「目的的」な表現をしていました。確かに、「目的」という観点からは、そのとおりと言えます。しかし、「霊界の境域」で、人格が分裂するのは、それまでの自我では、狭すぎて、とても対応できなくなるからでもあるのです。

それまでの自我は、「霊界の境域」という未知の状況に入ると、混乱し、行き詰まり、一種の限界を迎えます。私の実感で言うと、それは、自我にとっては、明らかに、「死」が差し迫っているという感覚です。もはや、それ自体としては、やっていけなくなったことを、如実に感じ取るのです。そして、思考・感情・意志の統合力を、大きく失うのです。だから、霊界の境域では、思考・感情・意志が分裂するのは、「必然の流れ」と言うこともできます

もちろん、自我も、それに抵抗し、様々にあがいて、「狂気」そのものの様相を呈します。しかし、いずれは、実際に、何らかの意味で、「死」を受け入れざるを得なくなります。そして、最終的には、潜在していた、「高次の自我」を目覚ましつつ、そちらの方に、自らの働きを譲り渡さなくてはならなくなるのです。

「高次の自我」とは、そのように、「霊的なもの」をも受け入れることのできる、より器の広い自我であり、同時に、より強い統合力を発揮し、主体的な働きのできる自我です。

とは言え、そのような移行の過程は、実際には、なかなかスムーズに行くものではありません。特に、望まずして霊界の境域に入った場合は、それが、失敗に終わる場合もままあります。だから、シュタイナーは、自覚的な修行に基づいて、通常の自我を鍛えつつ、霊界の境域に参入する必要を強調するのです。

ただし、自覚的な修行に基づいてなされた場合にも、このような移行は、そう簡単に、一遍になされるものではありません。場合によっては、劇的に、一時になされることもあるかもしれませんが、通常はそうです。

それで、この「低次の自我」から「高次の自我」への移行というものは、それぞれの要素が、様々な葛藤や、せめぎ合いを経つつ、長い時間をかけて、なされることになります。もちろん、一生を越えて、次の生まで持ち越されることもあります。

「境域の守護霊」というのは、自分自身の「本性」の、霊的な現れなのですが、これら「低次の自我」と「高次の自我」の様々な要素が、様々に交錯して現れることになります。ですから、それは、かなり、複雑な様相を呈することにもなります。先に、「低次の自我」は、この世における「日常的な自我」と言いましたが、実際には、この世だけでなく、前世のものも含みます。それで、ますます複雑なものともなるのです。

さらに、シュタイナーが、あえて、「低次」の自我というのは、それが、まさに「低次の欲望や情動」によって、突き動かされることがあるからです。通常の自我に、このような面があることは、誰しも認めざるを得ないと思います。この「低次の欲望や情動」は、シュタイナーによれば、「ルシファー存在」という、「悪魔的存在」によって植え付けられたものです。

それで、「高次の自我」への移行には、そのような、低次の要素が、越えられる―あるいは、シュタイナーは、むしろ、相対する「アーリマン的」な要素との均衡がなされることと捉えるのですが―、必要があることになります。「高次の自我」への移行と言っても、一筋縄では行かないことが、分かると思います。

私自身も、この「低次の自我」の性質が、人一倍強い?故に、なかなか、「高次の自我」への移行がうまくいかず、苦労している面があります。

いずれにしても、「境域の守護霊」とは、このような移行の過程に関わるもので、その移行の過程を、目に見えるように、見せてくれるものとも言えるのです。それについては、次回に述べます。

2019年11月11日 (月)

「霊界の境域」と「人格の分裂」

シュタイナーは、人が「境域の守護霊」に出会うのは、「霊界の境域」に入って、しばらく後、「人格」(思考・感情・意志)が分裂し始める頃だと言います。

 

そこで、「境域の守護霊」について述べる前に、「霊界の境域」における「人格の分裂」ということを、先に述べておきたいと思います。これは、それ自体、「霊界の境域」の危険性に関わる、重要な事柄であるし、「境域の守護霊」と関わる部分も多くあるからです。

 

ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方では、『霊界の境域」と「思考・感情・意志」の「分裂」』及び『シュタイナーの「精神病論」1』という記事で、これについて、かなり詳しく述べています。本当は、それを参照してもらえばいいのですが、あえてこちらでも、重要な事柄に触れておくことにしました。

 

「人格の分裂」ということからは、分裂病(統合失調症)のような「病的な状態」が連想されると思います。まさにこれは、それと関わっています。実際、シュタイナーが、これについて述べている部分は、シュタイナーの「分裂病論」としても読めます。

 

ただ、シュタイナーが言っているのは、(他の「霊界の境域」での現象と同じように)これは、一つの「越えるべき試練」として起こることで、全体として「成長」するための、必然的な過程だということです。

 

「霊界の境域」に入る以前、通常の人間は、「宇宙法則」により、自然と「人格」は統合されています。思考・感情・意志は、互いに結びつき、ある思考はある感情を導くというように、連動して働いています。また、思考・感情・意志のうちのどれかが、突出して働こうとしても、自然な結びつきが、バランスとして作用し、それを抑制することができます。

 

ところが、「霊界の境域」に入ると、この「思考・感情・意志の自然な結びつき」が外れることになります。思考・感情・意志は、互いに、ばらばらに分離するようになるということです。たとえば、ある思考が、自然にある感情を導くというようなこともなくなります。思考・感情・意志のどれかが突出して働くとき、他の要素が、それを抑制することもできにくくなります。

 

人は、大概、思考・感情・意志を全体としてバランス良く発達させている訳ではなく、どれかが突出しているものです。それで「人格の分裂」が起こると、その要素が、歯止めなく働いて、抑制が利かなくなります。それは、いかにも、「異常」で、偏った様相を帯びることになります。

 

たとえば、シュタイナーは、「意志」が突出している場合、意志は統御されぬまま突き進み、いかなる拘束も受けずに、行為から行為へと突っ走る、「暴力的人間」が生じるとします。同様に、「感情」が突出している場合、制御できない、様々な「感情的耽溺」を生みます。他人を崇拝する傾向を持った人は、限りなく依存性を強め、あるいは、妄信的な宗教的熱狂を生じます。また、「思考」が突出している場合には、日常生活を敵視する、自己閉鎖的な隠遁生活が生じます。そして、いたるところで、冷たい無感動な態度が現れるのです。

 

これは、要するに、はた目からみても、いかにも、狂気じみた、常軌を逸した行動をとるようになるということです。

 

しかし、このような「人格の分裂」が起こるのは、思考・感情・意志を、分離、独立させて、(通常の自我ではなく)新たに目覚める、より高次な自我が、それらを統合的に使用できるようになるためなのです。

 

それまでは、「宇宙法則」といわれる、自然に備わっていた要素(そこには、さまざまな霊的な存在の働きもあるのですが)によって、「統合」がなされていました。ところが、「霊界の境域」に入ると、それはあえて外され、その者自身の、新たに目覚める高次の自我によって、意識的に「統合」されなくてはならなくなる、ということです。その新たな「統合」のためには、それまでの「統合」は、一旦、外される必要があるのです。

 

しかし、その場合、新たな「統合」がうまく行かなければ、当然、その分裂した状態は、病的な様相を呈し続けることになります。それこそ、まさに「分裂病(統合失調症)」の状態ということです。

 

だから、シュタイナーは、「霊界の境域」に入るのは、そのような危険性を認識しつつ、修行によって、自我を鍛えたうえで、自覚的に行う必要があることを強調するのです。また、この場合、「霊界の境域」に入る前に、思考・感情・意志をバランス良く発達させておくことも、強調されます。 

 

ところが、現代では、多くの場合、そのような自覚的な方法によってではなく、「望まず」して、「霊界の境域」に入ってしまうことが多いので、「統合」に向かうことは、容易ではなく、病的な状態も、もたらされやすいのです。

 

さらに、既に述べたように、現代では、この「感覚的な世界」そのものが、大きく揺らいで、「霊界の境域」に近いものとなっているので、このようなことは、今後、多くの人が辿ることとなると予想されます。ですから、このような状態が、容易に克服できるものではないことは、認識しつつ、それなりの知識と知恵により、少しずつでも、越えて行けるようにしなければなりません。

 

(私自身、シュタイナーの言うような、「霊的な修行」をしていた訳ではなく、「霊界の境域」には、「望まず」して入ってしまうことになったものです。それで、(私は、意志タイプではなかったので、それほど目立たなかったですが)シュタイナーが述べているような、「病的状態」も多く体験し、通過しています。それは今思っても、本当にどうしようもないくらい、「狂気」じみたものでした。しかし、結果として、何とか、それを「くぐり抜け」、「越えて」行くことができたので、それは、シュタイナーが言うような、自覚的な修行に基づくものでない限り、絶対に越えられないというものではないことは、保証できます。

 

ただし、それは、シュタイナーが想定するような、「模範的」なものではあり得ないし、その場合に比して、不必要な混乱、苦悩も多く、結果としても、決して「十分」な「成長」をもたらすものではなかったと思われます。

 

しかし、今後に向けて、シュタイナー的な「模範的な道」を進める人は、わずかと思われるので(もちろん、それが最善ですが)、私のように、「望まず」して「霊界の境域」に入った場合にも、結果的に、何とか越えられるような、知識と知恵を身につけてもらうことは必要と思い、このようなことを述べています。)

 

「霊的なもの」への指向というと、多くの人は、「霊的なもの」や「存在」に依存し、頼るような方向に行くものと思うかもしれません。しかし、シュタイナーが述べているのは、逆に、徹底的に、「主体性」を高めて行く方向です。

 

むしろ、「霊界の境域」に入る前の状態の方が、自然に(無意識レベルで)「霊的存在」の保護や支援を受けていたので、「霊界の境域」に入るというのは、それらの保護や支援が外されるということです。それで、それらの保護や支援に代わるものを、自分自身で身につけて行かなくてはならなくなるのです。それは、それまでの生き方に比しても、全く、「主体的な生き方」を進める方向のものです。

 

だし、それを可能にするのは、それまでの「自我」ではなく、新たに目覚める「高次の自我」になります。そして、その「高次の自我」との関係で、「霊界の境域」に生まれるものこそが、次回に述べる、「境域の守護霊」なのです。

 

ただ、この「高次の自我」にしても、それまでの「自我」という基盤の上に生まれることかできるものです。従って、通常の「自我」の育成こそが、その前提として重要なことになるのは、改めて確認しておくべきです。

2019年10月 1日 (火)

「霊界の境域」と「霊的鏡像」

シュタイナーは、「霊界の境域」で初めに遭遇する霊的な現象は、「霊的鏡像」であると言います。

 

前回もみたように、思考、想念というものは、「霊界の境域」では、一つの生命のように、「実体化」して現れるものになります(「想念形態」(エレメンタル))。自分自身の発した想念が、実体化して、鏡に反射するように、「霊界の境域」に現れ出たものが、「霊的鏡像」です。

 

「鏡に反射する」というように、これは、外部や他者に向かって発せられたものも、自分自身に向かって来るように現れ出ます。たとえば、恐怖や、攻撃性をもって発した想念は、自分自身に、恐れをもよおすような、また自分自身を攻撃して来るようなものとして、跳ね返ってくるのです。しかも、それは、一つの生きた存在のように(たとえば、動物の姿や人の姿として)、現れ出るのです。

 

シュタイナーは、「霊的鏡像」ということを知らずに、「霊界の境域」でこのようなものに出会うと、それを他者的な存在として捉えてしまって、恐れをなし、混乱してしまうので、注意を促しているのです。それが、自分自身の発したものであるとに気づけば、自分の思考、感情を制御することで、それらの現象を抑えることができます。

 

また、それだけでなく、「霊界の境域」で起こることを、客観的に観察し、見極めて行くには、まず、自分自身の発する「霊的鏡像」をそれとして認識することが、不可欠のことになります。「霊的鏡像」は、ただ単独に現れるというよりも、様々な霊的現象にかぶさるように、あるいは、それらに影響するものとして、作用します。

 

自分自身が、発している思考、想念が、外界に現れる霊的現象に大きく影響するのです。たとえば、恐れや攻撃性をもって接していれば、「霊的鏡像」と同じように、その現れ出る現象そのものも、それを反映して、恐ろしいものとして現れ出てしまいます。(あるいは、そのような想念をエネルギー源にしている存在も多いので、実際に、その存在をより強力なものに、拡大させてしまいます。)

 

「霊界の境域」では、自分自身が発している「霊的鏡像」が、様々に影響して、外界の景観をもたらしているのです。ですから、その「霊的鏡像」を、自分自身の発するものとして正しく認識し、それを排すようにして、初めて、外界の「客観的な」現象と向き合うことができるということです。

 

さらに、「霊的鏡像」というのは、結局、自分自身の、それも、多くは、自分でも意識しない、本性のようなものです。

 

「霊界の境域」では、それが、一つの外的な像として現れ出るので、それを認識することは、結局、自分自身を認識することです。つまり、「霊的鏡像」を通して、(自分でも知らない)自分自身を知ることが、可能になるということです。シュタイナーは、「霊的なもの」の認識を高めて行くには、「自己認識」を通して、自分自身を統制して行くことが、重要ということを強調します。「霊的鏡像」は、そのための、貴重な材料ともなってくれるのです。

 

ただし、実際に「霊界の境域」に入ったときに、現れ出たものの、何が、「霊的鏡像」で、何が「他者の想念形態」で、何が、「他の霊的存在」なのかということは、そう簡単に判明するわけではありません。

 

まず、初めに「霊界の境域」に入ったときには、そこで見たり、感じる「知覚」も、細分化されず、曖昧なところが多いのです。ある程度、「知覚」が細分化されて、明確になるまでは、「漠然たる感じ」として、すべてが、同じように、あるいは、混然一体となって、感じられると思います。

 

また、初めに「霊界の境域」に入ったときには、どうしても「恐怖」の感情が先立つので、「霊界の境域」で出会う存在も、それを反映したり、それにつけ込むような存在が多くなります。「霊的鏡像」であろうと、「他者の想念形態」であろうと、「他の霊的存在」であろうと、それらは似たようなものとなり、要するに、「恐れをもよおさせる」、「攻撃的なもの」として迫って来るのです。それで、それらの見分けも、難しくなります。

 

ただ、前回もみたように、「想念形態」は、それに捕らわれず、無視できるような態度でいれば、いずれは、自然に勢いを衰えさせて、消滅してしまうものです。これは、自分の「霊的鏡像」であろうと、「他者の想念形態」であろうと、同じと解されます。(ただし、次回みるように、一時的な想念の現れである「霊的鏡像」ではなく、もっと本質的な、自己の性質あるいは、存在そのものの現れというべき「ドッペルゲンガー」や「境域の守護霊」になると、そのように消滅してしまうものとは言えません。この点については、次回にみます。)

 

ところが、「他の霊的存在」となると、無視するような態度でいれば、攻撃力を減退はしますが、その存在そのものが、衰えたり、消えて行くということはありません。そして、ある程度の経験を通して、自己の感情的な抑制がつくようになると、「霊的鏡像」の覆いもとれて、「他の霊的存在」の性質も、客観的に現れやすくなります。そのようにして、「想念形態」と「他の霊的存在」の見分けは、かなり明白に、つくようになると言えます。

 

それにしても、まず、「霊界の境域」で、初めに出会うものは、自分自身の「霊的鏡像」である可能性が高いことを、予め知っておくことは重要です。あるいは、何か、客観的な現象が現れ出ているとしても、そこには、自分自身の「霊的鏡像」が影響を与えていることを知ることが、重要なのです。そして、その自分自身の発するものを正しく認めて、それに捕らわれず、それを排したうえで、外界を客観的に見極めるようにすることが、必要なのです。

 

私の場合も、初め、霊界の境域で、襲いかかって来るものは、漠然として、あやあやだったものが、段々と知覚的にも細分化して、明確化してくるようになりました。あやふやだったり、不鮮明なものは、表に現れなくなりましたが、最終的に、もっと強力で、明白な他者的な存在が現れ、それに取り巻かれるようになりました。

 

私は、「霊的鏡像」というものは知りませんでしたが、心理的な「投影」ということは十分意識していて、初め、漠然と襲って来るものは、この自分自身の思いの「投影」ではないかと疑っていました。これらは、実際、本当に、何らかの実体であるかのように襲って来ていたのですが、「心理的な投影」という可能性を、かなり後まで、捨てずにみていたために、それほど酷く、捕らわれずにいることができたと思います。

 

シュタイナーのいう「霊的胸像」のような理解には、なかなかいたりませんでしたが、実質的には、それに近い考えを抱いていたと思うのです。実際、それは、シュタイナーのいう、「霊的鏡像」だったと解されます。

 

しかし、それらへの捕われが薄れ、より明確に知覚が細分化し出すと、後に、それは、例えば特定の友人のような、明確な他者として現れ初めました。それは、「他者の想念形態」だったと思います。そして、最終的には、もっと明白な形で、もはや、人間的なものとは解し得ない、他者的な「霊的存在」そのものとして現れ出したのです。(このあたりの経過は、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の前半に詳しいので、参照ください。)

 

初めの現われに、それほど酷く捕らわれることなく、さらに深みに入って行った訳で、その深みでは、もはや、疑いようのない形で、他者的な霊的存在が立ち現れたのです。「霊的鏡像」ということを知っていれば、もう少し、混乱少なく、これらの過程を踏むことができたと思います。(初めの現われに酷く捕らわれてしまうと、より深みには入らない代わりに、それらに捕らわれた混乱から抜け出せないことにもなります。シュタイナーの意図するような、「霊界の境域を超える」ということには、全くつながらないことになるということです。)

 

このように、個々的な「霊的鏡像」は、いずれ弱まる、儚い存在と言えるのですが、この「霊的鏡像」は、一方で、「ドッペルゲンガー」から「境域の守護霊」という、より強力な存在へ発展すると、シュタイナーは言います。個々の思いとか、想念だけでなく、自己のもっと、本質的な性質を現すような存在となるからです。しかし、それについては、次回述べます。

 

※ シュタイナーの「霊的鏡像」についての記述は、特に『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(ちくま学芸文庫)の178ページ以降に詳しいです。

 

その中から、いくつか重要と思われるものを引用しておきます。

 

「この形象世界全体の内部には、特別の種類の形姿も存在する。それははじめ人間の影響をほとんどまったく受けつけない形姿である。
……この部分が何に由来するのかは、修行者が自分自身を観察したとき、はじめて明らかになる。すなわちこの霊的形姿は修行者自身が生み出したものに他ならないのである。自分が行い、欲し、望むとき、それがこれらの形姿となる。」

 

「ちょうど自分の周囲を鏡で囲まれた人が、自分の姿をあらゆる側面から、よく見ることができるように、高次の世界の中では人間の魂的本性が鏡像となって、その人間の前に立ち現れてくる。」

 

「このような体験を持つ場合、もしあらかじめ以上に述べた霊界の本質が理解できていなかったとすれば、修行者自身の魂の内部を映し出している外部の霊的形姿は、まるで謎のように思えるであろう。彼自身の衝動や情熱の諸形姿なのに、それがあたかも動物や、時には人間の姿となって現れてくる。」

 

「魂の特性もまた鏡像のような現われ方をする。外にある何かに向けられた願望は、その願望を抱く人自身のところへ向う形姿として現れる。人間の低い本性に基づく情欲は動物のような姿をとって、人間に襲いかかってくる。」

 

「静かな自己反省を通して自分の内部に精通しようとしなかった人は、このような鏡像を己の姿であるとは認めたがらず、それを自分と異質な外的現実の一部分と見做すであろう。またはそのような鏡像に接して不安に陥り、その姿が見るに耐えなくなり、それを根拠のない空想の産物であると思い込もうとするかもしれない。」

2019年9月 7日 (土)

「霊界の境域」の危険性

前回みた「想念形態」(エレメンタル)に近いものとして、シュタイナーは、「霊的鏡像」ということを言っています。これについて述べる前に、その「霊的鏡像」が、実体的なものとして現れ出る領域である、「霊界の境域」について、ざっとみておくことにします。

 

シュタイナーは、この感覚的、物質的な世界と霊的な世界との間には境界があり、それを「霊界の境域」と言って、重視します。人は、この感覚的な世界を越え出ようとするとき、いきなり、「霊界」に参入するのではなく、まずは、その境界である、「霊界の境域」に入ると言うのです。

 

「感覚的な世界」も「霊的な世界」も、それぞれ独自の性質と秩序をもって存在する、一つの閉じられた世界です。「霊界の境域」は、それらの枠組みから、はみ出さんとする、周辺的、あるいは境界的な領域で、それらの合い交わる、曖昧で、混沌とした世界と言うことができます。図で表すと、次のようになります。

 

霊界の境域(オカルト)2.png

 

記事『霊とは何か』などで示したように、本来は、霊的な世界が、物質的、感覚的な世界を包み込む関係にあるのですが、今は、両者の境界である「霊界の境域」を際立たせるため、仮に並行的な世界として描いています。

 

さらに、シュタイナーは言っていませんが、この境域は、「感覚的な世界」にも「霊的な世界」にも属さない、本来の、「虚無」ないし「闇」、または「無限」の領域に通じています

 

通常、このような領域は、「感覚的世界」としての、あるいは「霊的な世界」としての、一つの秩序的な枠組みにより、覆い隠されています。しかし、霊界の境域では、それらの枠組みが外されるため、根底にある、「虚無」ないし「闇」、または「無限」が、その姿を覗かせることになるのです。そこは、我々の思考では、限定づけることのできない、本来的に、「無限定」の世界であり、まさに「混沌」そのものの世界です。

 

この「虚無」ないし「闇」、または「無限」の領域は、仏教的には、「空」などと呼ばれ、最も根源的には、我々の本来の姿ということになります。しかし、現に、ある性質をもった、「閉じた存在」としてある我々にとっては、そのあり方を脅かす、破壊的な作用を及ぼします。キルケゴールやハイデッガーなどの実存主義哲学で問題にされる「虚無」にも、これらの領域が反映されています。後にみるように、統合失調症においても、この領域が、大きな影響をもたらします。

 

このように、「霊界の境域」は、秩序を外れた、曖昧で、混沌とした世界ですが、それが様々な問題をもたらします。

 

シュタイナーが想定しているのは、「霊界参入」という、目的をもって、意識的に目指された、霊界への参入です。修行に基づいて、意識を高め、この感覚的な世界を越え出て、霊的に「進化」ないし「成長」しようというものです。ところが、それには、この、「霊界の境域」を通過し、越えて行かなければなりません。そこは、様々な危険をはらんだ領域なので、そのための「試練」の意味合いを帯びて来ます。

 

しかし、この領域に入り込むのは、何も、意図した場合だけでなく、意図せずとも、無自覚的に、入り込む場合も多いのです。その典型が、統合失調の場合で、統合失調者は、体質的その他の理由で、この領域に入り込みやすいのです。実際に、発症するときには、現にそこに入り込んでしまっている、ということができます。そこで受けた、様々な霊的な作用(その典型が、前回みた「想念形態」などによる「声」です)に、振り回され、混乱しているのが、統合失調状況なのです。

 

さらに、現代では、この「霊界の境域」は、 もはや、どこか遠くにではなく、我々の身近に、常に口を開いて臨んでいる、ということができます。たとえば、それは、人と人の交わる場である、「人と人の間」に、常に働いているのです。さらに言えば、現代では、ある意味で、この「感覚的な世界」そのものが、「霊界の境域」と化しつつある、と言うこともできるのです。

 

感覚的な世界や霊的な世界というのも、先の図でみたように、一つの秩序的な枠組みによって、閉じられた世界として、形成されているに過ぎません。現代においては、その枠組みは、かなり緩まっているので、霊界の境域と通じやすくなっているのです。このような秩序的な枠組みは、固定的に外せないものとして、初めから設定されているのではなく、様々な要素によって、作り出されているものです。それには、我々の集合的な意識も大きく影響していますが、それが、現代において、大きく揺らいでいることも、一つの大きな理由です。

 

現代は、感覚的な世界や霊的な世界という区別そのものが、曖昧になり、両者が混交する、まさに「霊界の境域」と似た様相になりつつあると言えるのです。

 

このような状況においては、特に意図せずとも、誰もが、「霊界の境域」に入り込む可能性があり、様々な危険と遭遇する可能性があります。シュタイナーも、現代においては、霊界の境域のこと知ることが、殊更重要だと言っています。

 

「霊界の境域」の「危険性」とは、既にみたように、一言で言えば、容易に理解しがたい、「曖昧」で「混沌」とした世界ということです。

 

これを、もう少し具体的に言えば、まずもって、そこには、我々の、通常の感覚的な世界の経験からは、理解しがたい、「未知」の要素が入り込むということです。そこは、それまで知らずにいた、様々な「霊的な作用」が、現れ出る、最初の領域なのです。しかし、それは、それとして明白にではなく、それまでの、感覚的な世界の中に、紛れ込むようにして、入り込むので、厄介です。それらは、この感覚的な世界そのものの出来事と、混同される可能性があります。

 

統合失調の場合も、大抵は、そのような作用を、霊的な作用とは認識できずに、この感覚的な世界のものと混同してしまいます。たとえば、「声」なども、現実に存在する、周りの人間のものと受け取ってしまうのです。あるいは、たとえ、霊的な作用と認識できたとしても、その解釈は、この感覚的世界のものに彩られ、かえって、訳の分からない、混沌としたものになる可能性が高いのです。

 

統合失調状況の場合、さらに深く領域に入り込めば、先にみた「虚無」ないし「闇」、または「無限」と何らかの形で、「遭遇」することになります。それは、根本的とも言える、破壊的な作用を及ぼすことにもなり得ます。統合失調の者の語りに、絶望的とも言える、虚無的ないし破壊的な彩りがあるとすれば、それは、このような、領域の反映と言うことができます。

 

シュタイナーが、自覚的に、修行によって鍛えられた意識をもって、この領域を越え出る必要があるとしているのは、このように、様々な危険に対処できるだけの、知識をもち、また、それだけの「高められた自我」を築いていなければならないからです。そしてそのような、「自我」は、この感覚的な世界においてこそ、築かれるものでもあるのです。そこに、あえて「感覚的な世界」に生きて、そこから霊的な世界に参入する意義も、認められます。

 

霊界の境域で、働く「霊的な作用」というのにも、様々あります。一つは、前回みたような、「想念形態」(エレメンタル)で、人間の想念を反映しています。人間の想念が、攻撃的であったり、邪悪であったりすれば、そのような領域も、それを反映する存在に占められるということです。

 

さらに、「霊界の境域」にこそ住まう、様々な「霊的存在」もいます。それは、シュタイナーでは、「元素霊」とも言われますが、一種の「精霊的存在」です。通常、「妖精」とか、「自然霊」と言われます。そのような、この感覚的世界に近い、境域に住まう存在は、純粋に霊的な存在と言うよりも、人間に近いところのある存在です。また、人間に対して害意があったり、破壊的な意図があったりする存在も、多くいます。あるいは、人間から発するエネルギーを、搾取(捕食)する存在であったりします。これらは、この領域に、人間が生み出す想念形態にこそ巣くうものとも言え、ある意味で、人間が呼び寄せているものです。

 

そのような存在の中には、「悪魔的」と言えるような存在も含まれます。シュタイナーでいえば、「アーリマン存在」や「ルシファー存在」です。あるいは、このような悪魔的な存在こそが、霊界の境域での、様々な霊的な存在の背後にあって、それらを管理し、操作しているということもできます。霊界の境域の「統轄者」のようなものです。(※)

 

いずれにしても、霊界の境域に住まうのは、人間にとっては、通常、未知のもので、攻撃的なものも多く、精神的に混乱したり、破壊的な作用を受ける、危険な存在です。統合失調の場合にも、このような存在が関与するがゆえに、一筋縄には行かず、様々な破壊的な作用を受けてしまう、ということがあります。このような領域を越え出るためには、それらの存在について知っていて、さらに、対処する、何ほどかの知恵も身につけていなければなりません。あるいは、少なくとも、現に、そのような境域での体験を通して、試行錯誤的に、身につける必要があります。

 

このように、霊界の境域は、「危険性」の高い領域で、そこに捕らえられて、抜け出せなくなってしまう可能性もあります。しかし、そこは、本来、越え出られる、「境界」的な領域なのであり、それこそが、試練の意味合いをもつものでもあるのです。

 

そして、シユタイナーが強調するのは、霊界の境域に入って、初めに遭遇するのが、「霊的鏡像」と呼ばれる、自己自身の生み出した「想念形態」であり、それを正しく認識することが、境域を越えるうえで、重要な役割を果たすということです。

 

しかし、それについては、次回述べます。

 

なお、「霊界の境域」については、ブログ『狂気をくぐり抜ける』でも、たとえば記事『霊界の境域」を超える二方向性 』、 『 「人と人の間」と「霊界の境域』などで、詳しく述べているので、そちらも参照ください。

 

※ デーヴィッド・アイクは、「低次アストラル領域」に、支配的な宇宙人である「レプティリアン」が住まうと言っています。しかし、この「低次アストラル領域」というのも、ここで言う「霊界の境域」と解してよく、「宇宙人」というのも、「霊的存在」と重なる、あるいは、区別し難いものであることは、何度か述べたとおりです。

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