前回みた「想念形態」(エレメンタル)に近いものとして、シュタイナーは、「霊的鏡像」ということを言っています。これについて述べる前に、その「霊的鏡像」が、実体的なものとして現れ出る領域である、「霊界の境域」について、ざっとみておくことにします。
シュタイナーは、この感覚的、物質的な世界と霊的な世界との間には境界があり、それを「霊界の境域」と言って、重視します。人は、この感覚的な世界を越え出ようとするとき、いきなり、「霊界」に参入するのではなく、まずは、その境界である、「霊界の境域」に入ると言うのです。
「感覚的な世界」も「霊的な世界」も、それぞれ独自の性質と秩序をもって存在する、一つの閉じられた世界です。「霊界の境域」は、それらの枠組みから、はみ出さんとする、周辺的、あるいは境界的な領域で、それらの合い交わる、曖昧で、混沌とした世界と言うことができます。図で表すと、次のようになります。
記事『霊とは何か』などで示したように、本来は、霊的な世界が、物質的、感覚的な世界を包み込む関係にあるのですが、今は、両者の境界である「霊界の境域」を際立たせるため、仮に並行的な世界として描いています。
さらに、シュタイナーは言っていませんが、この境域は、「感覚的な世界」にも「霊的な世界」にも属さない、本来の、「虚無」ないし「闇」、または「無限」の領域に通じています。
通常、このような領域は、「感覚的世界」としての、あるいは「霊的な世界」としての、一つの秩序的な枠組みにより、覆い隠されています。しかし、霊界の境域では、それらの枠組みが外されるため、根底にある、「虚無」ないし「闇」、または「無限」が、その姿を覗かせることになるのです。そこは、我々の思考では、限定づけることのできない、本来的に、「無限定」の世界であり、まさに「混沌」そのものの世界です。
この「虚無」ないし「闇」、または「無限」の領域は、仏教的には、「空」などと呼ばれ、最も根源的には、我々の本来の姿ということになります。しかし、現に、ある性質をもった、「閉じた存在」としてある我々にとっては、そのあり方を脅かす、破壊的な作用を及ぼします。キルケゴールやハイデッガーなどの実存主義哲学で問題にされる「虚無」にも、これらの領域が反映されています。後にみるように、統合失調症においても、この領域が、大きな影響をもたらします。
このように、「霊界の境域」は、秩序を外れた、曖昧で、混沌とした世界ですが、それが様々な問題をもたらします。
シュタイナーが想定しているのは、「霊界参入」という、目的をもって、意識的に目指された、霊界への参入です。修行に基づいて、意識を高め、この感覚的な世界を越え出て、霊的に「進化」ないし「成長」しようというものです。ところが、それには、この、「霊界の境域」を通過し、越えて行かなければなりません。そこは、様々な危険をはらんだ領域なので、そのための「試練」の意味合いを帯びて来ます。
しかし、この領域に入り込むのは、何も、意図した場合だけでなく、意図せずとも、無自覚的に、入り込む場合も多いのです。その典型が、統合失調の場合で、統合失調者は、体質的その他の理由で、この領域に入り込みやすいのです。実際に、発症するときには、現にそこに入り込んでしまっている、ということができます。そこで受けた、様々な霊的な作用(その典型が、前回みた「想念形態」などによる「声」です)に、振り回され、混乱しているのが、統合失調状況なのです。
さらに、現代では、この「霊界の境域」は、 もはや、どこか遠くにではなく、我々の身近に、常に口を開いて臨んでいる、ということができます。たとえば、それは、人と人の交わる場である、「人と人の間」に、常に働いているのです。さらに言えば、現代では、ある意味で、この「感覚的な世界」そのものが、「霊界の境域」と化しつつある、と言うこともできるのです。
感覚的な世界や霊的な世界というのも、先の図でみたように、一つの秩序的な枠組みによって、閉じられた世界として、形成されているに過ぎません。現代においては、その枠組みは、かなり緩まっているので、霊界の境域と通じやすくなっているのです。このような秩序的な枠組みは、固定的に外せないものとして、初めから設定されているのではなく、様々な要素によって、作り出されているものです。それには、我々の集合的な意識も大きく影響していますが、それが、現代において、大きく揺らいでいることも、一つの大きな理由です。
現代は、感覚的な世界や霊的な世界という区別そのものが、曖昧になり、両者が混交する、まさに「霊界の境域」と似た様相になりつつあると言えるのです。
このような状況においては、特に意図せずとも、誰もが、「霊界の境域」に入り込む可能性があり、様々な危険と遭遇する可能性があります。シュタイナーも、現代においては、霊界の境域のこと知ることが、殊更重要だと言っています。
「霊界の境域」の「危険性」とは、既にみたように、一言で言えば、容易に理解しがたい、「曖昧」で「混沌」とした世界ということです。
これを、もう少し具体的に言えば、まずもって、そこには、我々の、通常の感覚的な世界の経験からは、理解しがたい、「未知」の要素が入り込むということです。そこは、それまで知らずにいた、様々な「霊的な作用」が、現れ出る、最初の領域なのです。しかし、それは、それとして明白にではなく、それまでの、感覚的な世界の中に、紛れ込むようにして、入り込むので、厄介です。それらは、この感覚的な世界そのものの出来事と、混同される可能性があります。
統合失調の場合も、大抵は、そのような作用を、霊的な作用とは認識できずに、この感覚的な世界のものと混同してしまいます。たとえば、「声」なども、現実に存在する、周りの人間のものと受け取ってしまうのです。あるいは、たとえ、霊的な作用と認識できたとしても、その解釈は、この感覚的世界のものに彩られ、かえって、訳の分からない、混沌としたものになる可能性が高いのです。
統合失調状況の場合、さらに深く領域に入り込めば、先にみた「虚無」ないし「闇」、または「無限」と何らかの形で、「遭遇」することになります。それは、根本的とも言える、破壊的な作用を及ぼすことにもなり得ます。統合失調の者の語りに、絶望的とも言える、虚無的ないし破壊的な彩りがあるとすれば、それは、このような、領域の反映と言うことができます。
シュタイナーが、自覚的に、修行によって鍛えられた意識をもって、この領域を越え出る必要があるとしているのは、このように、様々な危険に対処できるだけの、知識をもち、また、それだけの「高められた自我」を築いていなければならないからです。そしてそのような、「自我」は、この感覚的な世界においてこそ、築かれるものでもあるのです。そこに、あえて「感覚的な世界」に生きて、そこから霊的な世界に参入する意義も、認められます。
霊界の境域で、働く「霊的な作用」というのにも、様々あります。一つは、前回みたような、「想念形態」(エレメンタル)で、人間の想念を反映しています。人間の想念が、攻撃的であったり、邪悪であったりすれば、そのような領域も、それを反映する存在に占められるということです。
さらに、「霊界の境域」にこそ住まう、様々な「霊的存在」もいます。それは、シュタイナーでは、「元素霊」とも言われますが、一種の「精霊的存在」です。通常、「妖精」とか、「自然霊」と言われます。そのような、この感覚的世界に近い、境域に住まう存在は、純粋に霊的な存在と言うよりも、人間に近いところのある存在です。また、人間に対して害意があったり、破壊的な意図があったりする存在も、多くいます。あるいは、人間から発するエネルギーを、搾取(捕食)する存在であったりします。これらは、この領域に、人間が生み出す想念形態にこそ巣くうものとも言え、ある意味で、人間が呼び寄せているものです。
そのような存在の中には、「悪魔的」と言えるような存在も含まれます。シュタイナーでいえば、「アーリマン存在」や「ルシファー存在」です。あるいは、このような悪魔的な存在こそが、霊界の境域での、様々な霊的な存在の背後にあって、それらを管理し、操作しているということもできます。霊界の境域の「統轄者」のようなものです。(※)
いずれにしても、霊界の境域に住まうのは、人間にとっては、通常、未知のもので、攻撃的なものも多く、精神的に混乱したり、破壊的な作用を受ける、危険な存在です。統合失調の場合にも、このような存在が関与するがゆえに、一筋縄には行かず、様々な破壊的な作用を受けてしまう、ということがあります。このような領域を越え出るためには、それらの存在について知っていて、さらに、対処する、何ほどかの知恵も身につけていなければなりません。あるいは、少なくとも、現に、そのような境域での体験を通して、試行錯誤的に、身につける必要があります。
このように、霊界の境域は、「危険性」の高い領域で、そこに捕らえられて、抜け出せなくなってしまう可能性もあります。しかし、そこは、本来、越え出られる、「境界」的な領域なのであり、それこそが、試練の意味合いをもつものでもあるのです。
そして、シユタイナーが強調するのは、霊界の境域に入って、初めに遭遇するのが、「霊的鏡像」と呼ばれる、自己自身の生み出した「想念形態」であり、それを正しく認識することが、境域を越えるうえで、重要な役割を果たすということです。
しかし、それについては、次回述べます。
なお、「霊界の境域」については、ブログ『狂気をくぐり抜ける』でも、たとえば記事『「霊界の境域」を超える二方向性 』、 『 「人と人の間」と「霊界の境域」』などで、詳しく述べているので、そちらも参照ください。
※ デーヴィッド・アイクは、「低次アストラル領域」に、支配的な宇宙人である「レプティリアン」が住まうと言っています。しかし、この「低次アストラル領域」というのも、ここで言う「霊界の境域」と解してよく、「宇宙人」というのも、「霊的存在」と重なる、あるいは、区別し難いものであることは、何度か述べたとおりです。
最近のコメント