「魔女狩り」の心理と「陰謀論」のネガティブな効果
「悪魔」と結託して、人々に危害を加える者は、かつて「魔女」として恐れられ、大々的に「狩られる」ことになりました。しかし、その後、近代社会が起こり、「魔女」なる者は、「存在しない」ことにされました。
だから、現在では、前回みたような、「悪魔」と通じて、魔術的な陰謀を行う「悪魔主義者」も、「魔女」として摘発されることは、ありません。何らかの現実の法に触れない限り、このような行為そのものが、咎められることはなくなったのです。ある意味、現代では、「悪魔主義者」は、好き放題できるということです。
一方、「魔女」そのものとしてではなくとも、実質、「魔女狩り」に相当するような出来事、つまり、特定のある者を、はみ出し者、厄介者として、「排除」する現象は、なくなったかと言えば、そんなことはありません。むしろ、様々に陰湿な形で、増え続けています。
学校や、職場、その他の集団の中でのイジメや、「精神病者」、「犯罪者」、その他の「レッテル」のもとに、実質的な差別を行うなどのことです。
「魔女なる者は存在しない」というのは、近代社会の合理主義的な発想がもたらしたもので、かつての「魔女狩り」に対する、一定の反省に基づいているものではあるでしょう。しかし、そのことの効果は、決して、「悪魔主義」をなくすことにも、「魔女狩り」に相当するものをなくすことにも、結びついていないのです。
それは、多くの人が信じた、「魔女」とか「悪魔」という存在について、本当に顧みることなく、ただ「迷信」として、表面的に、葬り去ってしまったからです。「魔女狩り」が、あまりに悲惨な結果を生んだので、そんなものは、「ないこと」にして、二度と同じ「過ち」を繰り返したくなかったのは分かりますが、実質的には、何らの対処がされているわけではありません。
そもそも、「魔女狩り」からして、実際に、狩られたのは、「魔女」そのものではなく、集団の中の、「はみ出し者」、「厄介者」であり、「害悪をなす者」として、「疑念を向けられた者」なのです。「魔女」としての、悪魔と結びついた行為が恐れられたのは事実であり、そのような、「オカルト的なもの」こそが、恐怖の元にあるのは事実です。しかし、そのようなオカルト的なものを、(意識のレベルで表面上)「ないことにする」だけでは、それに対する(深層における)根本的な恐れは、なくすこくなどできるはずもありません。そして、実質的には、そうであった、集団の中の、「はみ出し者」、「厄介者」を排除するという行為そのものも、(表面上)「オカルト的なもの」をないことにすることでは、なくなりようがありません。
そういうわけで、表だって、「魔女」として狩られることはないにしても、実質的には、「魔女狩り」に相当する出来事は、今後もあり続けることになります。
また、そのような「魔女狩り」の心理には、「オカルト的なもの」に対する、深層における、かなり根本的な恐怖と、ある(不幸な)出来事が起こったとき、それを、普段から好ましく思われていない、特定の「はみ出し者」や「厄介者」のなした行為として、「疑念を向ける」ということがあることを、確認しておくことは重要です。
そして、このような「魔女狩りの心理」は、巷の「陰謀論」にもまた、強く働いているとみられるのです。
「陰謀論」的な発想は、表面上、「オカルト」的なものを前提としていなくとも、「オカルト」的なものに対する恐れと、通じ合うところがあるのは、前回にみました。
そして、その発想には、端的に言えば、人々を不安ならしめる、何らかの出来事の背後には、支配者の陰謀があるのではないかと、疑心暗鬼になる心理があるのです。まさに、「魔女狩りの心理」そのものです。
それで、「陰謀論」には、根拠が必ずしも十分伴っていなくとも、人々の心を引きつける、一定の力があると言えます。そして、多くの人に不信や恐れ、あるいは怒りや反感を抱かせ、混乱や葛藤をもたらすのです。「陰謀論」には、確かに、そのような「ネガティブな効果」があるということです。
しかし、「魔女狩り」では、疑念は、「支配者」には向けられていなかったが、「陰謀論」では、「支配者」に向けられているという点に、大きな違いがあると言うかもしれません。
確かに、その違いは、一応あると言えますが、実質的には、微妙なものがあります。「陰謀論」でも、陰謀の主体、またはその実行者は、様々なレベルに拡張し得るもので、必ずしも、真に「支配者」に向けられているとは限りません。たとえば、「集団ストーカー被害」という、一種の陰謀説では、一般人を取り巻く、身近な「集団」自体が、そのような行為の実行者と捉えられています(※1)。
一方、「魔女狩り」も、当時は、そのような「魔女」こそが、世界を支配したと、実感に基づいて信じられたのであり、背後の「悪魔」に着目するなら、そのこと自体は、現代にも通じる、一定の理由があると言えます。
そのようなわけで、「陰謀論」は、「魔女狩り」の心理と通じるところがあるのです。そして、それは、決して、真の「支配者」にとって、都合の悪いものではない、ということが言えます。
これは、「オカルト」についても言えることなのですが、そもそも、「陰謀論」は、現代において、決して一定以上の多数の者に、受け入れらるものではないことが、「支配者」にも、あるいは、背後の「悪魔的存在」にとっても、分かっています。現代の社会自体が、根本から変わらない限り、そのことは変わりようがありません。ある一定の人たちには、かなりの影響力をもつとしても、最後には、そんなのは「陰謀論に過ぎない」ということで、容易に、切り捨てることができるのです(※2)。
一方で、「陰謀論」は、既にみたように、ある出来事の原因を、特定の者の陰謀として、疑念を植えつけ、不安や疑心暗鬼を煽ることができます。このようなことは、「支配者」にとっても、背後の「悪魔的存在」にとっても、むしろ望ましいことなのです(特に、「悪魔的存在」にとっては、自分らに向けられる疑念は、ほぼ皆無なので、望ましい面の方がはるかに大きい)。
「陰謀論」には、ネガティブな効果が多くあること、むしろ支配者の都合の良いように利用される可能性があることを、十分認識する必要がある、ということです。しかし、そのうえで、決して、丸ごと忌避せず、その中に含まれる「真実」を見極めるようにすることが重要です。
※1 ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『「集団ストーカー」という厄介な問題』を参照ください。
※2 そこには、もちろん、いくら根拠を重ねても、完全な「証明」にはなり得ないということがあります。せいぜい、「説得力」を高めるということしかできません。「陰謀論」という「レッテル」の力の方が、勝ってしまうということです。
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