科学・量子論

2019年7月 3日 (水)

「魔術」と「科学技術」

最初の記事『「オカルト」とは何でしょうか?』で、「科学」たまは「科学技術」というものも、元々「オカルト」と渾然一体となっていたものであることを述べました。最近の最先端の科学理論や、飛躍的に発展した科学技術も、そこはかとなく、「オカルト」めいたものを忍ばせています。それも、元々の出自が同一であったことを考えれば、頷けることのはずです。

 

「科学技術」が「魔術」と混然一体となっていたもので、本来、区分けし難いものであることは、科学史家村上陽一郎なども、よく指摘しています。歴史的にも、ルネッサンスの頃の魔術の復興が、科学技術の発展をもたらしたのであり、両者の発想そのものにも、共通性があるからです。(たとえば、『技術とは何か』NHKブックス参照)

 

「科学技術」というのは、物質的なものの「背後」にある、目に見えない「(数学的)法則」を発見して、その「法則」を操ることによって、物質的なものを操作する技と言えます。

 

「目に見える」領域そのものではなく、背後の「目に見えない」領域にあるものを探求するという意味では、「オカルト」と同じなのです。そして、「目に見えない」領域にあるものに働きかけることによって、「目に見える」領域のものを操作するという意味では、「魔術」そのものと言えます。

 

実際、映画などでも、未開の民族に、科学技術に基づいたマジックめいたものを見せると、大いに恐れられ、崇拝されるというものがあります。これは、誇張とは言え、確かに、未開の民族にとって、それは「魔術」に外ならないものがあるので、そのように受け取られる可能性はあるのです。

 

ただし、本来の「オカルト」ないし「魔術」は、「目に見えない」領域について、単に、「(数学的)法則」という形で、誰もが客観的に法則化できるものに注目するのではありません。むしろ、そのような領域を超えたもの(それもある種の「法則」ではあり得ても、「数学的な法則」ではありません)に、例えば「意志」において働きかけ、「科学技術」ではとても不可能な現象を生起させるものです。

 

現代では、科学技術のもとになる、「(数学的)法則」という形で、客観的に法則化して捉えられるものの全体を、「物質的なもの」として規定することになりました。そして、そのようなものが、存在するもののすべてであるかのように、みなされることになりました。ところが、そのような「物質的なもの」を越えた「霊的なもの」を操るのが、本来の「オカルト」ないし「魔術」ということです。その辺りは、混同してはならないことです。

 

とは言え、これまでにもみて来たとおり、両者の区別には、曖昧なものがあり、互いに、互いを含み込む部分があると言えます。近代以前に、「魔術」と解されたものにも、現代では、法則に則った「科学技術」として理解できるものがあり、逆に、現代というよりも、未来の科学技術、さらに、現代でも、宇宙人の技術には、「魔術」そのものと解すべきものも、あると解されます。

 

「魔術」に、「科学技術」的な要素があれば、それは、現代で言う意味の「マジック」ということになり、「タネ」があるということになります。実際、近代以前の魔術師たちが、行っていた魔術には、このようなものも混在していた可能性があります。ただし、それは、全体としての「魔術」を、生起させるための、取っ掛かり、ないし「要素」として働いた可能性もあります。両者が、混在して、全体としての「魔術」を成り立たしめたということです。

 

現代の超能力者が行う「超能力」についても、同様の面があり、「マジック」との区別が難しいのは、このような事情の影響もあるでしょう。

 

さらに、シュタイナーは、産業革命後のあらゆる技術は、「アーリマン存在」という悪魔的存在のインスピレーションによって、興されたものと言います。だとすれば、「技術」というものは、「オカルト」ないし「魔術」と、実際にも、通じていることになります。(『狂気をくぐり抜ける』の記事『シュタイナーにみる「陰謀論」的発想』を参照ください。)

 

いずれにしても、「目に見えない」領域のものに働きかけることによって、現に表に現れ出ているものを操作するという意味では、「科学技術」も、「魔術」にほかならないということになるのです。そして、実際にも、そのような「魔術」めいた面は、現代の「科学技術」の飛躍的な発展によって、ますます助長されていると言えます。目に見えない領域、思考の届かない領域で、縦横無尽に活躍する、現代のIT技術、AIの技術などは、まさにそのようなものとして実感されるでしょう。

 

このような、IT技術、AIの技術が、例えば、我々の「意志」と融合するような事態になれば、それは、まさに、本来の「魔術」そのものの、飛躍的な再現ということになるでしょう。

 

私自身は、先にも触れたとおり、「オカルト」においては、単に、客観的な法則に基づく、「科学技術」ということではなく、それを超える面、つまり「霊的な面」こそを、しっかりと、正面から見据えることが重要と考えます。

 

しかし、現代の科学技術の発展は、「オカルト」や「魔術」ということが、現代においても、決して無視できないものであることを、指し示しているとは言えるでしょう。

2019年5月15日 (水)

「意識説」と「多世界解釈」

前回、量子力学の観測問題の解釈として、「意識説」をとり上げましたが、これには、ほかにもいくつかの解釈があります。その中で、「多世界解釈」というのが、最近は、物理学者の支持を多く得ていて、主流になりつつあるようです。

 

ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『「量子力学の観測問題」と「意識」1』でもとり上げていますが、この説は、意識説の対極をなす説と言えます。

 

意識説では、量子力学的な過程から独立した意識が、波束を収縮させて、(粒子としての)確定的な事象を生起させるのでした。しかし、「多世界解釈」では、意識といえども、量子力学的な過程から独立したものではなく、波束を収縮させるなどということはないと考えます。意識をもった観測者も、量子力学の波動関数に従うとするのです。

 

これは、「波束の収縮」などという現象はなく、量子力学の波動関数により、宇宙のすべてを記述できるとするものです。しかし、それが、実際に意味するのは、ミクロの物質だけでなく、マクロの物質も、意識をもった観測者も、すべてが「確率的な重ね合わせ」の状態として存在し、それが確定するなどということはないということです。

 

観測者の観測によって、確定したようにみえるのは、(重ね合わせの状態そのものを、それとして観測することはできないから)観測の制限的な性質によって、その重ね合わせの状態の中の、ある状態だけを写し取ったようなものに過ぎないことになります。それで、他の状態は、何ら崩壊または喪失したわけではなく、他の世界として、そのある状態だけを観測した世界と共に、併行して存在しているというのです。

 

前回の、「シュレディンガー猫」という思考実験でいえば、箱を空けて観測して、猫が死んでいたとしても、猫は死んだことに確定したのではなく、猫は、それを観測する観測者と共に、他の世界で、併行して生きていることになります。

 

まさに、「パラレルワールド」のように、多くの世界が併行して存在するので、「多世界解釈」と呼ばれます。

 

ただし、一般の「パラレルワールド」の理解と違って、ある世界が、他の世界と交わることはなく(認識する可能性もない)、観測者が、他の世界に移行するということもありません。つまり、他の世界が存在するということを、確かめる手立ては一切ないのです(もっとも、この「確かめる手立てがない」というのは、あらゆる解釈について言えることです)。

 

通常の感覚からすれば、このようなことは信じ難いことでしょう。しかし、量子力学というものが、数学的に、物質の振る舞いをいかによく説明するかということを知る物理学者にとっては、この説は魅力的なもののようです。

 

量子力学は、物質の状態を「確率の重ね合わせ」の状態としてしか記述できません。それが、多くの人に、不満や疑問を誘います。しかし、それは、数学的にみる限り、波動関数として、見事に記述できます。このように、「数学的に見事に記述できる」ということが、物理学者にとっては、重要であり、良く言われるように、「美しい」ことともされます。数学的に見事に記述できて、それで矛盾なく完結しているのであれば、それが意味すること自体はあまり重要でなく、「そのように宇宙はできている」ということで、割とすんなり受け入れられるようなのです。

 

最近の物理学的理論というものは、多かれ少なかれ、この傾向があると言えます。

 

それに対して、意識説というのは、意識なる、物質的に説明できないものを持ち出して、物質の状態を記述する量子力学の波動関数そのものの、崩壊を認めるようなものです。そのようなものは、多くの物理学者の感覚からすれば、「美しくない」どころか、物質科学そのものの放棄のようなものでしょう。

 

要するに、宇宙の全てを、「物質的なもの」として捉えたい、言い換えれば、数学的に、完結したものとして捉えたい、という物理学者の願望からすれば、「多世界解釈」の方こそが、好ましいということです。

 

しかし、それは、あくまで、一つの世界観であり、それを維持したいという、願望の問題に過ぎないと言うべきです。宇宙がそのようにできているという保証は、何もないはずなのです。

 

多世界解釈の方からすれば、一つの世界観であり、願望に過ぎないのは、意識説も異ならないということになるでしょう。そういう面は確かにあります。

 

しかし、これまでみて来たように、意識は、観測問題に限らず、様々な場面において、物質的なものを超える働きをすることが示唆されます。超能力もそうですし、臨死体験(特に脳波停止状態によるもの)もそうです。

 

また、量子レベルでも、ラディン博士の提示した次のような実験の結果は、観測問題とも絡む形で、意識による影響を強く示唆するものです。

 

すなわち、電子の二重スリット実験では、電子が波として、AのスリットとBのスリットを同時に通り抜ける(重ね合わせの状態としてある)ことによって、干渉し合い、スクリーンに干渉縞を作ります。しかし、人間が、意識によって、電子がAのスリットかBのスリットを通るように強く念じると、干渉縞に、実際にその念じたとおりの偏りが生じることが、統計的に有意に確認できるというものです。

 

記事としては、たとえばここ( https://tocana.jp/2019/03/post_90057_entry.html )に簡単な説明があります。この実験は、NHKの『サイエンスゼロ』という番組でもとり上げられていましたが、その部分の動画(https://www.youtube.com/watch?v=yLufAR6k8tw )もあります。参照ください。

 

このように、意識が物質に影響を与えることは、実際にさまざまな方面から示唆されることで、観測問題そのものとも関わる例もあるのです。このことは、観測問題を、意識の問題としてとりあげることが、決して、単に「世界観」の問題で済まされるものではなく、それ自体、「事実」の問題として、検討されるべきことを十分に示していると私は思います。

 

少なくとも、意識を、(あえて避けるかのように)当然のように、量子力学的過程に収めて、スルーさせ、確かめようのない「多世界」を認める、「多世界解釈」よりは、自然で説得力のある解釈と思うのです。

2019年5月 9日 (木)

「量子」と「霊的なもの」

記事『相対性理論との関係』では、「相対性理論」を参照にして、「時間・空間を超える」という面から、「物質的なもの」と「霊的なもの」の関係をみました。

 

今回は、「量子論」を参照にして、物質の本質である「量子」ということと、「霊的なもの」との関係を、ざっとみておきたいと思います。

 

私自身、かつて10代の終わり頃、「霊」などというものは全く信じられなかったのですが、ある工学博士の書いた、量子と霊の振る舞いが似ているということを述べた本を読んで、少し考えを変えさせられたことがあります。

 

霊が信じられないというのは、「物質」というものが、明白に存在を確かめ得る、確たる存在としてある、という思いによっていました。物質というものを、そのようなものと思っていたので、それとの対比で、「霊」なるものは、余りにも曖昧かつ、不確かなものなので、存在することなど確かめられるはずもなく、そもそも、存在するなどとは、とても思えないものだったのです。

 

しかし、物質というものが、その本質である、量子というレベルでは、決して確たる存在とは言えないことが分かると、その見方も揺らぐことになります。それは、決して、「霊」なるものを、積極的に認める理由となるものではありませんが、少なくとも、「簡単には否定できない」ということは、顧みさせるものとなったのです。

 

量子というのは、とりあえず、電子などの素粒子ということですが、その電子は、教科書などで、よく、原子の中心の原子核を雲のように取り巻く図として描かれます。そして、その「存在確率の高い」ところが、黒く濃く描かれ、「存在確率の低い」ところは、薄く描かれます。電子という一個の素粒子が、そのように明確な位置や存在を示さないで、雲のように、「漠然と」取り巻いているというのは、どういうことなのか、私は、全然分かっていませんでしたし、それが重大な問題であるとも思っていませんでした。

 

しかし、そのとき読んだ本では、一応の量子力学的な説明がされていて、それがかなり重大で、本質的な問題であることを知ることになりました。

 

これは、簡単に言ってしまうと、要するに、電子というものは、位置と運動量を同時に測定することができないので、位置と運動量を確定できず、雲のように、全体に広がっているものとして、捉えるしかないということなのです。そして、それは、「技術的」な問題ではなく、「原理的」なものだということです。つまり、どのように観測の精度を上げても、原理的にそうなるということです。これを「不確定性原理」といいます。

 

「雲」のようにと言いましたが、電子は、「波」として、全体に広がっているとも捉えられます。ただし、その波は、「電磁波」や「水の波」とは違って、実体のあるものの振幅ではなく、「確率の波」という抽象的な(波動関数として数学的に表現できるだけの)ものなのです。

 

先ほど、「存在確率の高い」ところは、黒く濃く描かれると言いましたが、それは、観測した場合に、そこで電子がみつかる可能性が高いところということです。波として広がっているといっても、観測により、特定の位置に電子をみつけることは可能なのですが、それは「確率的」にしか予測できないことになります。「観測以前」には、あくまでも、「波」として、全体に広がっているという捉え方をするしかありません

 

このように、電子というものが、明確なあり様を示す、確かな存在というよりも、雲のように、漠然と取り巻いているというものであるならば、それは幽霊にかなり近いものとも言えます。また、電子は、ある場所にあったものが、一瞬にして、他の場所に移動して、現れることもできます。これを「量子テレポーテーション」と言います。これなども、まさに幽霊そのものの振るまいと言っていいでしょう。

 

記事『相対性理論との関係』では、「物質的な領域のぎりぎりの境界にある」のが、「光」だと言いました。これは、「電磁波」という観点からみたものですが、「素粒子」というレベルでは、光に限らず、あらゆる物質が、霊的な領域に近づいて、「ぎりぎりの境界にある」とも言えるのです。物質が、霊的なものと似た振る舞いをするということです。

 

このような、量子の問題は、実は、「観測されるもの」と「観測するもの」の問題とも言うことができます。

 

先にみたように、量子とは、観測以前には、存在確率の波で示されるしかないものですが、観測すれば、特定の場所に位置を示すこともできます。つまり、波のように全体に広がっていたものが、一瞬にして、ある場所に粒子としての姿を現すのです。波として振舞っていたものが、一瞬にして粒子として姿を現すということは、「波」が一瞬にして、消えて、一点に収縮したということになります。これは、「波束の収縮」と言われ、量子力学の波動関数自体からは、導けない事態です。

 

このようなことが、信じ難いものであることは、たとえば、シュレディンガーの提示した、「シュレディンガーの猫」という思考実験に照らすと、より明らかになります。

 

放射性物質の崩壊は、ミクロの現象なので、量子力学的な確率に従いますが、ある時間に2分の1の確率で崩壊する放射性物質を用意します。そして、箱の中に、この放射性物質と、その崩壊を感知すると毒を出すような仕掛けを施した装置を、猫とともに入れておきます。そこで、ある時間に、放射性物質が崩壊すると、猫は死んでしまうことになりますが、箱を開けて観測する以前には、猫はどうなっているかというものです。

 

箱を開けて観測すれば、もちろん、猫が生きているか死んでいるかは確定します。しかし、観測以前には、放射性物質は、崩壊する確率と崩壊しない確率が2分の1同士の重ね合わさった状態として存在するとしか言えません。電子が、存在確率の波として、広がっているとしか言えないのと同じことです。そうして、その重ね合わせの状態を、マクロの装置や物質も引き継ぐとすると、猫は、「生きている状態と死んでいる状態の重ね合わさった状態」にあるということになるのです。しかも、それが、観測すると同時に、一瞬にして、生きているか死んでいるかに決定されたということになります。

 

まさに、「波束の収縮」ということの、信じ難い性質が、浮き彫りになることでしょう。

 

このような、波束の収縮ということが醸し出す問題は、「量子力学の観測問題」とも言われます。それをどう合理的に解釈するか、様々な説は出されていますが、決定的なものはありません。しかし、「観測問題」と言われるとおり、これは、「観測」(物事を「観る」、「認識する」)ということの本質は何かという問題とも関っていることは、確かと思われます。単に、「観測されるもの」としての客観的な対象の内部の問題ではなく、観測する側の「主体」との関わりの問題であり、最終的には、「意識」との関わりの問題ということです。

 

相対性理論においても、観測者の位置ということが問題となります。ただし、それは、物質的な過程そのものを、独立したものとしての「主体」が問題となると言うものではありません。あくまで、事象に対する観測者の相対的な位置の問題です。しかし、この「観測問題」では、単に、観測者の「位置」ということではなく、物質的な過程そのものからは独立することとなる、観測主体の本質そのものが、問題となっているものなのです。

 

実際、「観測問題」の解釈として、「意識説」というのもあります。これは、フォン・ノイマンやウィグナーによって提出された説で、量子力学全般の中では、主流ではないですが、一定の説得力があることは確かと言うべきものです。

 

その論の基本は、マクロの物質といえども、量子の集合体ですから、量子力学の過程から独立したものではあり得ず、量子力学的な波束を収縮させることはできない、ということにあります。つまり、観測において、波束を収縮させるようなものは、量子力学からは独立した(物質的な過程から独立した)存在としての、「意識」しかあり得ないということです。

 

この辺りのことは、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『「量子力学の観測問題」と「意識」1』に、ある程度詳しく検討しているので、是非参照ください。

 

ともあれ、「意識」というのは、記事『「霊」とは何か』でもみたように、「霊的なものの本質」というべきものです。つまり、「意識」との関わりというのは、「霊的なもの」との関わりでもあり、物質的なものと霊的なものの交わる、「境界的」な事象を浮かび上がらせるものと言えます。だから、量子の観測という事態において、物質的なもののぎりぎりの境界的なあり様が露わになるというのは、頷けることのはずです。

 

ただし、この意識というのを、人間のものに限るとみると、矛盾や疑問が多くなります。実際、最終的に、人間の意識が観測するまで、現象が確定しないとは、とても考え難いことです。同記事でみたように、物質的なものと霊的なものは、画然と区別されるというよりも、互い混交しているというべきものです。あらゆる物質が、霊的な要素も含んでいるということです。

 

たとえば、猫にも、ある意味の「意識」があり得るし、あるいは、観測装置などのマクロの物質にも、ある意味の「意識性」が働いているとみる余地があります。また、人間以外の霊的な存在は、多く想定でき、そのような存在の意識も関与している可能性があります。根源的には、宇宙そのもの、あるいは、「神」の意識というものも想定できます。

 

いずれにしても、そのような、全体的な展望のもとでなら、観測問題の波束の収縮は、「意識」が引き起こすものと言っていいものと思います。

 

そういうわけで、量子という物質の本質レベルでは、通常の物質というものの理解を超えた、物質としての境界的なあり様、つまり、霊的なものとの境界的なあり様が、露わになるところがあるのです。さらには、霊的なものの本質である、「意識」との関係を、浮かび上がらせるものがあるのです。相対性理論の場合とは別の観点から、というよりも、より本質的なレベルで、物質的なものと霊的なものとの関係を、露わにするものがあるということです。

2019年1月30日 (水)

「相対性理論」との関係

私は、アインシュタインの「相対性理論」について、詳しく知るわけでも、深く理解するわけでもありません。「相対性理論」は、はっきり言って、苦手であり、難しくてややこしいです(「量子論」の方がまだしもと思っています)。

ただ、最も基本的な部分での、見方というのは、一応理解するつもりなので、その線に沿って、前回みたような、時間・空間を超えた「移動」ということと、「相対性理論」との関係について、簡単な補足をしておきたいと思います。

「相対性理論」については、根本的に誤った理論である、という見方をする人もかなりあるようです()。しかし、私は、物質的なものと時間・空間の関係を明らかにした理論としては、基本的に正しいのではないかと思っています。実際、多くの実験的な事実は、この理論と符合します。

前回みたように、「光速度不変の原理」は、破られることがあるのですが、それは、「物質的な領域を超えた領域」にいたることで、起こるということでした。「物質的な領域を超えた領域」とは、「霊的な領域」ということでもあり、そこは、物質的なものと相関関係にある、「時間・空間を超えた領域」ということでもあります。

このような領域においては、物理法則を覆す現象が起きることは、当然と言え、それは、相対性理論に限らず、どのような理論においても、起こり得ることです。なので、そのことから、すぐさま、その理論そのものに欠陥があるということにはなりません。

問題は、何であれ、ある物理法則を、すべての領域に当てはまる、万能のものとみなしてしまうことです。つまり、すべての現象は、物質的な理論である物理法則によって解ける、という発想をしてしまうことです。それだと、その物理法則に当てはまらない現象が生じたとき、その現象を「ないもの」として葬り去るか、さもなくば、その物理理論が誤っているとみなすという、極端な選択をしなくてはならないことになるのです。

「相対性理論」について言うと、それは、むしろ、時間・空間の相対性を明らかにした点で、画期的な理論と言えると思います。ニュートンの古典物理学では、時間・空間は、絶対的な枠組みで、その中で、物理的な現象が起こるのでした。それでは、時間・空間が超えられるという発想そのものが、出て来にくく、そんなことは、受入れ難いこととなるでしょう。しかし、「相対性理論」が、時間・空間の「相対性」を明らかにしたことで、時間・空間が「絶対不動」のものではなく、超えられるという発想とも、結びつきやすいものとなったということが言えます。

ただ、「相対性理論」では、時間・空間ではなく、光(の速度)の方が「絶対的」な基準となったのです。時間・空間も、光の速度というものを一定にすべく、相対的に変化するということです。言わば、物質的なもの全体の基準となる枠組みは、時間・空間ではなく、光の方にあったということです。(と言っても、それが、顕在化するのは、物質の速度が光の速さに近づくときであって、通常の速度では、ニュートンの古典物理学が、近似的に当てはまります。)

これが意味するのは、物質的な領域にとって、光というものが、一種の「境界領域」にあるということだと思います。時間・空間を相対的ならしめる、光こそが、物質的領域の「ぎりぎり」の境界に、存在しており、それを超えた領域にいたると、時間・空間は、もはや、全体として超えられるということです。言い換えると、「物質的領域」を超えた「霊的領域」というのは、「光」を超えた領域なのであって、その結果として、時間・空間も超えられることになるということです。

「光を超える」とは、その速度を超えるということではなく、「存在」そのものとして、超えるということです。「速度」というのは、あくまで、空間・時間との関係で捉えられるものですから、その場合には、もはや「速度」という発想そのものが超えられることになります。

光とは、「電磁波」の一種であり、「光子」という「素粒子」でもあります。ですから、それは、「電磁波」という波動を超えるということであり、「素粒子」という物質を超えることでもあります。

「電磁波」というのは、電場と磁場の振幅が連続して伝わる、「見えない」波動エネルギーで、広く様々な情報を運ぶ媒体として利用されます。その在り方は、まさに、「霊的なもの」との境界領域を、よく示していると言えます。「電磁波」というのは、物質的な領域において、最も、霊的なものに類似する性質のものなのです。

ただし、電磁波も、物理的なものである以上、距離の二乗に反比例してエネルギーを減ずるなど、物理法則に従います。ところが、霊的なものとなると、電磁波と似た性質を持ちつつも、そのような物理法則には従わず、さらに自由度の高いものとなります。

また、「素粒子」というのは、微小ながら、一定の体積をもち、空間的な位置を占める、「物質」なのですが、「光子」の静止質量は「0」とされます。つまり、質量をもたない、物質としては、「ぎりきり」の存在とも言えるわけです。「霊」というのは、それを超えて、質量をもたないだけでなく、もはや、体積ももたず、特定の空間的な位置を占めることもない存在と言えます(ただし、みかけ上、そのように見えるということはあります)。

前回、KANという人が、そのような領域を「潜象界」(「現象界」の背後にある、具体的に形をなさない潜勢的な世界)と言っていることをみましたが、まさに「物質的な領域」を超えるとは、そのように、物質として顕現する以前の、潜勢的なものに帰すこととも解し得ます。そこから、エネルギー状態、または波動を落とすことで、再び、物質的なものとして顕現することも、可能と解されるのです。

このように、「霊的な領域」とは、物質的なものの境界にある、「光を超える」領域であり、そこに至ると、空間・時間も、結果として超えられるということです。前回みたように、「テレポーテーション」などの現象は、このようにして起こる現象で、「宇宙人」の移動方法というのも、やはり、このようなことを、何らかの技術によって、可能にしているものと解されるのです。

しかし、だからと言って、相対性理論そのものは、物質的な領域の内部では、「正しい」ことに変わりなく、それ自体に欠陥があるということにはならないということです。

ここで述べたことは、あくまで、「基本的なものの見方」を簡単に示したものに過ぎません。が、相対性理論というものを例にとって、物質的な領域と霊的な領域について、どのように捉えられるかということの、一つの分かりやすい例を示すことはできたと思います。

 「エーテル」の否定について

特に、相対性理論がエーテルを否定したという点について、疑義が唱えられることが多いようです。「エーテル」とは、真空中に充満すると想定される媒質で、光の波動を伝えるものとして要請されたものです。

しかし、この「エーテル」を物理的に確認することは、現在までのところ、できていません。私も、「エーテル」というものを、「物理的実体」として想定することは、無理なのではないかと思います。オカルトの方でも、「エーテル」の存在が言われますが、これは、東洋で「気」に相当するもので、「物理的な実体」ではありません。それが、真空中に充満していることは、確かと思われますが、直接光の波動を伝える役割をするようなものではないと思われます。(この意味の「エーテル」または「気」については、いずれまたとりあげます。)

ただし、この「エーテル」を否定することで、空間そのものの媒質性やエネルギー性に目が向けられることは、少なくなり、「量子論」との折り合いは、悪くなったのではないかと思われます。

本文で、「光が物質の基準となった」と言いましたが、物質と時間・空間は、相関的に結びついて存在しているという視点も重要と思います。時間・空間も、単なる「枠組み」ではなく、ある種の「物理的な実体」で、物質そのものと結びついて存在しているということです。そのような相関的な結びつきの中で、「光」という存在が、物質的領域のぎりきりの境界線上にあり、それを超えるということは、必然的に、それと結びついた時間・空間も超えるということになるのだと思います。

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