精霊、神々、捕食者

2020年8月21日 (金)

「自我の発達」や「均衡」という行き方との関係

これは、本来、かなり込み入った問題ですが、ここでは、疑問に思う人のために、参照になる程度に、簡単に、触れておくだけにとどめます。

 

1 「自我の発達」との関係 「捕食者の心を脱する」という行き方は、普通一般に言われる、「自我の発達」ということとは反するように思われるでしょう。「自我の発達」が望ましいことだとすれば、「捕食者の心を脱する」ことは、望ましくないことになります。普通に言われる「自我の発達」とは、現代の社会に適応するためのものなので、「捕食者の心」を中心にできている、現代の社会にとっては、確かに沿わない方向に行くことになるのです。

 

しかし、本来、「自我」ということには、今まで述べた、「捕食者の心」と「元々の心」の両方が含まれているとみなすことができます。「元々の心」を発達させるという意味では、「自我の発達」は、やはり必要なことと言えるのです。

 

前に、「低次の自我」と「高次の自我」について述べましたが、「捕食者の心」と「元々の心」は、必ずしも、そのままそれに重なるわけではありません。「元々の心」も、現実に発達していないと、「高次の」働きができるわけではないからです。

 

かなり割り切った言い方ですが、「捕食者の心」=(自我ではなく)「エゴ」と捉えると、分かりやすくなると思います。他者との関係で、保身、優位に立つこと、収奪などのために、自分自身を重視して行く心です。しかし、これは、本当には、「自分自身を重視」するものとは言い難いものです。自分自身の本来の意向というよりも、他者や社会との関係で、そうならざるを得なくして、そうなっているようなものだからです(もともと、他者から、植えつけられたものなので、そうなってしまうのも必然ということができます。まさに「奴隷」ということです)。

しかし、普通に「自我の発達」というときは、こういう面を多く含むのです。

それに対して、「元々の心」は、他者や社会との関係というのではなく、単純に、自分自身の経験のために、「主体性」を発揮して行く心と言えます。ただ、現状では、「捕食者の心」に乗っ取られているために、その「主体性」を発揮できない状態になっているということです。

 

「元々の心」=「主体性」、「捕食者の心」=(一見主体的であるようで、実は)「他者依存性」というのが、ポイントです。

 

「自我の発達」ということには、本来、このような「主体性」の発達ということも、含められるべきものです。

 

ドンファンの説明では、「捕食者の心」を脱して、初めて、「元々の心」、つまり、真の主体性を発達させることができる、という意味合いが強いです。確かに、「捕食者の心」がその邪魔をするので、「捕食者の心」を脱しないと、「元々の心」を発達させることは難しいでしょう。

 

しかし、私は、「捕食者の心」を脱してからでないと、「元々の心」を発達させることができないとは思いません。つまり、「捕食者の心を脱する」という方向を見据えつつ、それと併行して、「元々の心」を発達させることも可能ということです。「捕食者」という存在を認識し、「捕食者の心」に、意識的、自覚的になれれば、「捕食者の心」の邪魔には気づきつつ、「元々の心」をある程度発達させることは、可能と思うのです。

 

また、「捕食者の心」を脱するまでは、「元々の心」を発達できないとすれば、まさに、ドンファンの言うように、「元々の心」は全く使い物にならない無力な状態のままなので、たとえ「捕食者の心」を脱することができたとしても、その後、やっていけるかどうかは疑問ということになるでしょう(その意味では、ドンファンの説明は、多少誇張の面があります)。

 

要するに、「自我の発達」は、通常は、「捕食者の心」の発達を意味するので、「捕食者の心」を脱する行き方と相入れないのは、とりあえず本当です。しかし、真の「主体性」の発達という意味では、決して矛盾せずに、共存することも可能ということです。あるいは、むしろ、積極的に、共存させて行く方が望ましいということです。

 

2 シュタイナーの「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」との関係
シュタイナーの「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」という行き方も、一見、「捕食者の心」を脱する行き方とは相入れないようですが、「自我の発達」の場合と同様、実際には、共存可能の面があります。

 

シュタイナーの行き方については、ここでは改めて説明しませんので、それについては、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の以下の記事を参照してください。

 

「ルシファー的な性向」と「アーリマン的な性向」について→記事『「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」』。「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」について→記事『「分裂気質」と「均衡」という行き方』さらに、ドンファンの「捕食者の心」を脱する行き方と必ずしも矛盾しないことについて→記事『ドンファンの言葉―「捕食者」を脱する道』。

 

「捕食者の心」が、シュタイナーのいう「アーリマン的な性向」と多く重なることは、これまでも何度か述べて来ました。実際そうで、反対に、シュタイナーのいう「ルシファー的な性向」には、「元々の心」と重なる面があります。ただし、「ルシファー的な性向」も、外部的に植えつけられたものなので、「エゴ」的な欲望や高慢さという意味では、「捕食者の心」と重なる面もあります。

 

このように、「捕食者の心を脱する」とは、「アーリマン的な性向」と「ルシファー的な性向」の多くを脱することになるので、それらの均衡を図るというあり方とは、相入れないようにも思われます。しかし、結果としてみると、「均衡」とは、過剰な部分をそぎ落とすということなので、それらを「脱する」ということとそう違うわけではありません。

 

また、「自我の発達」の場合と同様、「捕食者の心」を脱したとしても、「元々の心」を発達させて行かなくてならないので、その発達の方向は、事実上、「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」ということと、そう違わないことにもなるのです。「元々の心」の発達は、真の「主体性」の発達と同時に、捕食者や、捕食者的な社会との関係でなされる以上、「ルシファー的な性向」の「アーリマン的なものとの(妥協ではなく、主体的な意味での)折り合い」という面をもつからです。

 

このような、「元々の心」の発達というのは、結局、「自己の完成」とも言えますが、それは、事実上、「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」というのと、違わないものになるということです。

 

(但し、それも「終わり」ではなく、バーナデット・ロバーツによれば、さらに、そこから、「虚無への溶解」ということが起こるとされ、ドンファンでも、「無限との一体化」ということが言われます。)

 

ただ、その行き方には、かなりの違いがあるのは事実で、シュタイナーのいう「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」というのは、既にあるものの、均衡を図るという意味で、より穏当で、一般向きと言えます。こちらの方が合うという人は、その方法でいけばいいと思います。

 

「捕食者の心を脱する」という行き方は、「捕食者」というものを如実に経験し、それを脱したいという動機づけをもった人に、最適の行き方と言えます。ただ、前回も述べたように、「捕食者」の活動が特別に高まっている現在、こちらの行き方の方が、一般的にもふさわしくなりつつあるという面はあると思います。

2020年8月 6日 (木)

「捕食者の心」を脱すること

既に述べたように、「捕食者の心」は、現に、我々自身の心と化しているものです。そのような、「捕食者の心を脱する」ということは、いかに途方もないことか、分かると思います。

 

それは、我々自身の「心」となっているものを、手放すということを意味するからです。我々にも、「元々の心」が、ないわけではありませんが、それは、ドンファンも言うように、敗北して隅に追いやられて、ほとんど「使いものにならない」ものになっています。「捕食者の心を脱する」とは、そのような、「か弱い心」で、この世知辛い世の中を、生きて行くことを(意志することを)意味するのです。

 

それで、前回は、「捕食者の心を脱する」ということはとりあえずおいても、捕食者の働きかけに対処し、その影響を極力少なくしていくことは、現実的に必要という観点から、述べました。

 

しかし、そのような捕食者への対処は、本来は、「捕食者の心を脱する」ということと結びついてこそ、意味をなすものです。それには、長いプロセスが必要だとしても、一応は、そのような方向を、見定めておかなくてはなりません。

 

それで、今回は、「捕食者の心を脱する」ということについても、一とおり、述べておくことにします。

 

前回も紹介した、『狂気をくぐり抜ける』の記事『ドンファンの言葉―「捕食者」を脱する道』でも詳しく述べられていますが、まずは、ドンファンの説明を中心に、より分かりやすく述べます。

 

「捕食者の心」とは、何かを「する」ときの心であり、要するに、心に様々な喧噪をもたらす、「騒ぎ立てる心」ということができます。それは、「あーでもない、こーでもない」と、「内的な対話」を通して、心に働きかけて来て、心を忙しくさせます。それが、我々の日々の悩みや葛藤のもととなり、捕食者に「食われる」もととなります。

 

それで、ドンファンは、この「内的対話を止める」ということから、「捕食者の心を脱する」道が始まるとします。それは、「すること」に対して、「しないこと」とも呼ばれます。一種の「沈黙」の状態であり、「内的静寂」の状態です。座禅やヨーガ、その他の「瞑想」によって、達せれる状態と言っていいと思います。

 

このような「内的対話が止まる」状態、「静寂」の状態は、初めは、一時的なものですが、それでも、その瞬間、「捕食者の心」は、耐え切れなくなって、「逃げ去って」いるのです。「捕食者の心を脱した」状態が、一時的にであれ、実現しているということです。それで、普段、我々がそうだと思っている心は、本来の心ではなく、「外から来たもの」ということが分かることが重要です。「外から来たもの」なので、それを脱することは、不可能ではないことも、分かるのです。

 

私も、瞑想しているときなど(それに限らず、集中が高まっているとき、深く共感する本を読んでいるときなど)には、このことを感じることが、多くあります。たとえば、それまで心が動揺し、胸に痛みを感じるような状況にあったときも、「内的対話が止まる」状態では、それらが、きれいさっぱりなくなってしまうのです。それまであったはずの、「痛み」ですら、嘘のように、なくなっていることは驚きです。

 

しかし、ドンファンも言うように、初め、そのような状態は、長くは続かず、「捕食者の心」も、すぐに戻って来ます。心も静寂ではなくなり、「内的対話」がまた始まるのですが、そうすると、一旦はなくなったはずの、動揺する心や、なんと、胸の「痛み」すら、ちゃっかりと、戻って来てしまっているのです。

 

しかし、これらのことから、本当に、それらは、本来あるものではなく、自分自身が、囚われから作り出しているのであることが分かります。「脱し得るもの」であることが分かる、ということです。

 

ドンファンは、そのようなプロセスが繰り返されることによって、徐々に、「捕食者の心」の影響力は、弱まっていくのだと言います。そして、いすれは、永遠に逃げ去ることになると言うのです。つまり、「捕食者の心が脱せられる」ということです。

 

しかし、ドンファンは、その日は、実に「悲しむべき日」だと、逆説的なことを言います。そのドンファンの言葉をあげてみます。

 

実に悲しむべき日だ!なぜって、おまえが自分自身の装置に頼らざるを得なくなる日なのに、その装置は無に等しいときているんだからな。どうすれはいいのか教えてくれる人は誰もいない。おまえが慣れ親しんいる無能な精神に指図してくれる外部起源の心は、もうどこにも残っていない。……なぜならば、われわれに属する本物の心は、それはまたわれわれの経験の総体でもあるのだが、長い長い期間を支配されつづけた結果、臆病になってすっかり自信を喪失し、あてにならないものになってしまっているからだ。
           
わしの個人的な見解を言わせてもらえば、本当の闘いはその瞬間から始まるのだ。それ以外はすべてそのための準備に過ぎん

 

初めに述べたように、「捕食者の心を脱する」ということは、敗北して隅っこに追いやられている、「か弱い」「元々の心」だけで、やっていくということを意味するのです。

 

それまでは、「捕食者の心」が、良かれ悪しかれ、社会や人との対応においても、一定の役割をなしていました。それは、多くの人との共通部分でもあったので、ある意味で、その部分でこそ、社会的な連帯や、人との共感もできていたわけで、「社会的な適応」の基礎でもあったわけです。また、何かあったときには、その心が、「攻撃的」な意味で、防御をなすものでもありました。

 

そういったものを失うということは、それまでの、「捕食者の心」に頼った生き方を止めて、全く違った生き方を、自ら築いて行かなければならないということです。それは、社会的には、ある意味で、「逸脱した」生き方になります。

 

それはまた、「捕食者」との関係でも、新たに、「元々の心」だけで、対処して行くということをも意味します。「捕食者の心」は、「捕食者」と通じているもので、奴隷になるということと裏腹にですが、その直接的な攻撃から護るものでもありました。それを失うということは、「捕食者」の攻撃も、より直接的になり、強化されるということです。

 

そのようなことが、「捕食者の心を脱する」ということを、途方もないことにし、誰もが望めることではないものにしています。むしろ、実際には、誰もが、あえて、「望まない」ものになっているということです。

 

ドンファンも、「捕食者」は、完全に「目に見えない」というわけではないので、多くの者は、子供の頃に、捕食者を何らかの形で「見て」いるが、その恐怖により、記憶からは抹消するのだと言います。(私も、子供の頃、当時は、もちろん捕食者とは意識しませんでしたが、後に捕食者と分かる存在と、「金縛り」という形で出会い、非常に恐怖したことがあります。)

 

その後も、多くの者は、意識はしないにしても、無意識領域では、捕食者について、何らかの「知識」をもっており、強く恐怖しているので、それを「脱する」などということは、望むべくもないということです。

 

だから、「捕食者の心を脱する」には、まず何よりも、「捕食者」という存在について、無意識にではなく、意識的、自覚的に知ることが前提になります。無意識では、知り得なかった、決して、恐るべき存在というだけではない面も含めてです。前回も紹介した、『狂気をくぐり抜ける』の記事『まとめ-「補食者」について』の 「6 その「克服」、あるいは影響を「脱する」ことに向けては、彼らを、「補食者」として、あるがままに認めて、「受け入れる」ことが第一歩である。」でも、「捕食者を捕食者として受け止める」ことこそが、「脱すること」の始まりの一歩であるとしていました。

 

「捕食者の心を脱する」こと自体が、このように大変な道なのですが、しかし、たとえ脱することができたとしても、それはある意味で、本当の、「始まりの一歩」なのだと、ドンファンは言うのです。そして、前回述べたような、「捕食者に対する対処」ということも、改めて立ち返って来ることになります。「捕食者」の方でも、それで攻撃を止めるわけではなく、むしろ強化されてくるからです。

 

ドンファンは、その対処の手立ては、端的に、「予期せぬ事態にあっても、ひるむことなく立ち向かう能力」と言っていました。それも、「強い」からではなく、「畏敬の念に満ちている」からこそです。(攻撃的な心である)「捕食者の心」なしに、それに対処するには、それしかないということになるのです。

 

さらに、既にみたように、社会的、対人的な意味でも、「元々の心」だけで生きて行くことは、困難な道になります。

 

私も、『狂気をくぐり抜ける』の方で述べたように、一連の体験のピークには、「闇との接触」ということが起こり、それは、「捕食者の心」を、永遠にではないですが、単に一時的にというのでもなく、「逃げ去らせる」ことになりました。

 

それで、当分は、静寂で、悩みや葛藤からは解放された状態が続いたのですが、社会的、対人的には、「弱々しい」「元々の心」だけでやって行くという、困難な事態を経験しています。私は、それを「リハビリ」とも言っていましたが、本当に、全く「生まれ変わった」ような状態で、「右も左も分からない」状態から、つまり、ほとんど赤ちゃんに等しいような状態で、一からやり直すというようなものでもありました。

 

捕食者の攻撃も、前のように継続はしないのですが、ときどきのものが、前以上に強烈になった面があり、新たに対処が大変になった面があります。しかし、特に、社会や他の人間との関係や折り合いに、とても苦労することになったのです(その背後に、捕食者がいるという意味では、それも捕食者との関係の一面と言えますが)。

 

(現在は、それらがある程度身についたという面と、恐らく、「捕食者の心」もいくらか戻って来てしまっているので、それほど苦労することはなくなっていますが…)

 

いずれにしても、現に我々自身の心となっている、「捕食者の心を脱する」ということは、途方もないことのようではありますが、決して不可能なことではありません。前回述べたように、現在は、「捕食者への対処」が、誰しも必要な時代になっているとすれば、やはり、いずれは、「捕食者の心を脱する」という方向性を、見据えたものにする必要があると思います。

 

既にみたように、たとえ、「捕食者の心を脱する」ことができたとしても、それは、「新たな生」の始まり、「本当の闘い」の始まりを意味し、「捕食者への対処」も、相変わらず必要ということにはなります。それは、意気を消沈させるようなことかもしれませんが、ドンファンがそれを強調するのは、文字通り「逆説」の面もあります(それが「ゴール」ではないことの強調)。そして、もし、時代的に、多くの者ではなくても、ある一定の人たちが、そのような方向に進めたとしたら、それまでの社会も、大きく変わることになります。そうすると、「捕食者の心を脱した」後の「新たな生」も、それほど困難なものとはならないで済むと思うのです。

 

次回は、「捕食者の心を脱する」ということと、いわゆる「自我の発達」ということ。さらに、シュタイナーのいう「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」ということとの関係についても、触れておきたいと思います。

2020年7月17日 (金)

「捕食者」への対処

「捕食者の心」を脱することについては、『狂気をくぐり抜ける』の記事『ドンファンの言葉―「捕食者」を脱する道』で、ドンファンの言葉をあげながら、述べています。ドンファンの説明では、「捕食者への対処」と「捕食者の心を脱する」ことが、一体的に述べられています。

 

しかし、次回改めてみるように、「捕食者の心を脱する」とは、途方もないことで、誰もが望み得ることでもないので、ここでは、まず、「捕食者への対処」を、その前提となることとして、より一般的な観点から、述べたいと思います。

 

前回も触れたように、「捕食者は宇宙の本質的な一部」であり、「宇宙の探測装置としての人間に働きかける」ものです。人間が「宇宙の探測装置」であるとは、宇宙は、人間の経験を通して、自分自身の認識を得る(ものとして造った)ということです。捕食者も、そのような人間に働きかけることで、結果的には、宇宙の自己認識を助ける働きを担っているということができます。

 

ともあれ、捕食者も、シュタイナーのいう「アーリマン存在」と同様、宇宙的意義があるからこそ存在しているということです。

 

その意味でも、捕食者は、だたの邪悪な、「悪魔」的存在とみて、恐れたり、なきものにしたいなどと思うことは、無意味です。捕食者には、闇雲に反発したり、排除しようとすればよい、というものではないということです。

 

ドンファンも、捕食者は、宇宙の本質的な一部として、「ありのままに認めて受け入れる」ことを前提に、いかに、「奴隷」状態となることなく、影響を脱して行くかを問題にしているのです。

 

捕食者の「奴隷状態とならない」とは、要は、捕食者に、「いいように食われない」ということです。ドンファンは、「捕食者の口に合わない」ようになることと言います。

 

既にみたように、捕食者は、恐怖などの「ネガティブな感情エネルギー」を食糧源とし、そのために、戦略的に働きかけている存在です。なので、その働きかけに乗って、恐怖あるいは混乱し、怒り、絶望感などのネガティブな感情を、継続的に供給してくれる者ほど、「口に合う」ことになります。先に触れたように、無闇に反発することも、「ネガティブな感情」の裏返しであり、捕食者にエネルギーを供給することになることには、注意を要します。

 

何しろ、このように、「捕食者の口に合わなくなる」とは、捕食者の働きかけがあっても、それに乗って、「ネガティブな感情エネルギー」を、供給しなくなる、ということに尽きます。

 

ドンファンは、これを端的に、「予期せぬ事態にあっても、ひるむことなく、立ち向かう能力」と言っています。それも、「強い」からではなく、「畏敬の念に満ちている」からこそ、と言うのです。

 

捕食者の戦略は、まさに、「予期せぬ」こと、こちらの予測に反し、混乱するようなことを仕掛けて来るので、「予期せぬ事態にあっても、ひるむことなく、立ち向かう」というのは、全く頷けることです。それが身につけば、捕食者の戦略的な働きかけにも、たじろがず、恐怖などの「ネガティブな感情エネルギー」を供給することもないからです。そればかりか、これは、人生を生きるうえで、一般的にも、大きく作用するはずのことです。

 

ただ、「強い」からではなく、「畏敬の念に満ちている」からというのには、注目されます。「強い」というのは、一見望ましいようですが、むしろ、「捕食者の心」の発展の方向に沿うものと言うべきです。「攻撃」または「戦い」の発想の延長にあるもので、それは、やはり、「ネガティブな感情エネルギー」の裏返しという面があるのです。

 

「畏敬の念に満ちている」というのは、捕食者に限りませんが、先にみたように、「捕食者」という存在についても、基本的なところで、「受け入れ」ているということ、その意義を認めているということになります。無闇な反発や、攻撃、戦いの発想で、対処しないということです。そのように、真に「異形の念に満ちて」いれば、「奴隷」になることもない、ということだと思います。

 

このような、ドンファンの説明は、かなり「途方もない」ことのように思われるかもしれませんが、それは、最初に言ったように、既に我々の心となっている、「捕食者の心」を脱するということと、結びつけられて言われているからです。

 

しかし、一般的にも、捕食者の奴隷状態とならずに、対処するということは、誰しも必要になることのはずで、その場合にも、これは、基本に据えられるべき視点だと思います。

 

だた、これを、もう少し、一般的に言い直せば、捕食者の働きかけなど、「気にしない」でいられるようになる、ということになるでしょう。影響を受けず、「気にしない」でいる人からは、捕食者もエネルギーを収奪できないので、離れて行くことになります。

 

しかし、これが難しいことであるのは、実は、捕食者という存在を知れば、知るほどという面もあるのです。捕食者なる存在を知らないうちは、捕食者の働きかけにも気づかないことが多く、生来、ポジティブで楽天的な人は、そのまま気にもかけないで過ごすことも多いはずです。

 

ところが、捕食者という存在を知れば、どうしても、それを意識してしまい、恐怖の思いは強まります。人間にとっては、未知の存在であり、人間を超えた存在であることは間違いないからです。「知らぬが仏」ということは、この場合にも、大いに当てはまります。

 

しかし、この『オカルトの基本を学ぶ』というブログの意図を、最初の記事で述べたように、現在は、もはや、そのような領域のことを、知らずにいることを通すことで、くぐり抜けるのは、難しい状況になっていると思います。捕食者は、単に、個人的にではなく、全体として、人間そのものや社会にも働きかけており、個人的には、大して影響を受けないようにみえる場合でも、知らずのうちに、人間そのものや社会そのものが、大きく貶められています。

 

そこで、今後は、各人が、捕食者という存在を知ったうえで、その影響を、より受けない方向に、自覚的に進むことが必要と解されるのです。

 

私は、捕食者の「恐ろしい」面についても述べましたが、「捕食者の限界」や「弱点」となることについても、多くを述べました。捕食者は、決して、人間が対処し得ない、全能の存在ではないので、それらを総合したうえで、捕食者の影響を受けなくなること、あるいは、少なくとも、より少なくして行くことは、可能なのです。

 

初め、捕食者について知り、様々な働きかけについて、知るようになると、それまで予想しなかったことだけに、驚きと混乱も強くなることとは思います。しかし、捕食者について知ることは、世界や宇宙について、より深く知ることにつながりますし、捕食者の影響を脱する動機づけにもなることです。捕食者そのものについても、知ることが増えれば、いずれ、その影響を受けなくなることは可能ということも、実感できるようになると思います。

 

むしろ、捕食者を知らないでいることこそ、捕食者に、やりたい放題にさせる、土壌になっていると言えます。実際、捕食者は、自分らについて、人間に知られないことも、戦略の一部としているのです。

 

次回は、さらに進んで、我々の「捕食者の心」を脱するということについて、みてみます。

 

なお、捕食者に対する対処法として、ここに述べたことは、捕食者そのものではなく、「捕食者的な心」の発展した、人間の「エネルギーバンパイア」の、いじめその他の、陰湿な働きかけにも言えることです。

 

 「捕食者への対処」については、『狂気をくぐり抜ける』の記事『まとめ-「補食者」について』の、<6 その「克服」、あるいは影響を「脱する」ことに向けては、彼らを、「補食者」として、あるがままに認めて、「受け入れる」ことが第一歩である。>でも、改めて、かなり詳しく、まとめ的な説明をしているので、是非参照ください。

2020年6月27日 (土)

「捕食者の心」と「ウイルス」

「捕食者は、ウイルスのように、人間に寄生している」ということを、何度か述べました。ウイルスは、以下にみるように、細胞に寄生しない限り、生を営むことができません。同様に、「捕食者」は、人間が発する恐怖等の感情エネルギーを食糧源としているので、人間に寄生せずしては、生を営むことができないのです。

 

それは、「捕食者」が、人間に働きかける必然であると同時に、人間に「依存」しているという意味で、その限界を示すものでもあります。

 

この「ウイルスとの類似性」というのは、かなり本質的なもので、また、単に抽象的にではなく、具体的なレベルでも言えることです。今回は、それをみてみたいと思います。

 

ウイルスは、DNAまたはRNAという遺伝情報は備えていますが、細胞に侵入して、細胞の中のシステムを利用しないと、それを複製して増殖することができません。つまり、細胞に寄生することによって、初めて、自分自身を増殖するという生命の基本活動ができるのです。

 

そのやり方は、いろいろありますが、たとえば、エイズなどの、RNAレトロウイルスは、逆転写酵素によって、自己のRNAからDNAを合成し、宿主の遺伝子DNAの中に忍び込ませます。そして、その複製機能により、宿主細胞と共に、自己自身の複製もさせてしまうのです。

 

これは、ほとんど、宿主細胞を「乗っ取っる」と言ってもいいものでしょう。

 

さらに、このウイルスが、宿主の生殖細胞にまで侵入すれば、それは、宿主の子孫にも受け継がれ、その中でも、増殖することができることになります。

(ちなみに、新型コロナウイルスは、RNAウイルスではありますが、レトロウイルスではありません。ただし、エイズウイルスを挿入して造られた人工ウイルスとの見方もあり、そうであれば、レトロウイルス同様細胞の遺伝子に入り込むことも考えられます。)

 

ここには、ウイルスの、恐るべき、「捕食者的な面」が、垣間見られると思います。だたし、それは、単に、対象を「食糧源」とするという「捕食者」とは、大分異なるように思われるかもしれません。(実は、「食糧源」という点でも、私は、ウイルスが、実際に、捕食者と同様、恐怖のような感情エネルギーを、何らかの意味で、自己増殖の推進材料にしていると思っていますが、それは今はおいておきます。)

 

しかし、捕食者もまた、人間の内部に寄生することで、自己増殖を図っている、あるいは、人間の支配を徹底している、ということが言えるのです。

 

捕食者が、人間の社会慣行や、信念体系を通して、人間を支配下においていることは、既にみました。しかし、それが本当に可能になるのは、単に、そういった慣行や観念を、外から吹き込むからというだけではありません。捕食者は、自分自身の「心」を、人間に与える(植え込む)からこそ、それを通して、支配、コントロールを徹底することができるのです。

 

「捕食者」については、ブログ『狂気をくぐり抜ける』でよくとりあげるように、カルロス・カスタネダの師ドンファンが、詳しく、鋭い説明をしています。記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』でもとりあげていますが、カスタネダが、捕食者は、なぜ(知らないうちに)そんなに人間を支配できるのか、という疑問を呈したときの、ドンファンの答を再びあげてみたいと思います。

 

やつらはそれよりはるかに有能で組織的だ。われわれを弱く従順で意気地なしにさせておくために、捕食者どもは素晴らしい策略を用いる。素晴らしいというのは、もちろん喧嘩好きの策士の観点からしてだぞ。受ける側からすれば、恐ろしい策略だ。やつらは自分の心をわれわれに与えるのだ!おい聞いているのか?捕食者どもは自分の心をわれわれに与える。そしてそれがわれわれの心になる。捕食者どもの心は粗野で矛盾だらけで陰気だ。そして、いまにも発見されてしまうのではないかという恐怖に満ちている。」

ドンファンが言うように、我々のどうしようもない、粗野で陰気な心、また、深いところで、さまざまな影響を与える、「食えなくなってしまうのではないか」という恐怖は、捕食者の心から来るということです。ドンファンは、「われわれを自己満足に陥らせ、型にはまった行動をとらせ、極端に自己中心的な存在にさせている」のが捕食者の心だとも言います。

 

自分自身の心を顧みれば、そのような「心」があることは否定できないと思います。

 

さらに、ドンファンは、「われわれが日々あらゆることをするのに用いる心」が捕食者の心になっているとも言っています。

 

捕食者の心は、「外来の心(装置)」とも言われるのですが、それは、元々ある心(内部的な心)に対して、外から植え込まれたものだからです。この二つの心が、人間に様々な葛藤や問題をもたらすのです。ドンファンが、人間には捕食者がいるという話をし始めたのも、カスタネダが自分の内部で、葛藤を感じていたときで、その源が、捕食者にあることを教えるためです。

 

しかし、今や、元々の心は、敗北して隅っこに押しやられているので、何かするときの心は、すべて「外来の心」になっていると言うのです。つまり、外来の心が、元々の心に「寄生」していると言うだけでなく、もはや、「乗っ取られている」のも同然ということです。

 

まさに、レトロウイルスが、人間の遺伝子に侵入して、増殖するのと同じようなことになっているということです。実際、捕食者の心には、遺伝子レベルでみれば、それに対応するものがあるはずで、遺伝子レベルでも、植え込まれたものがあるはずです。ある意味で言うと、人間は捕食者の「創造物」、あるいは「子」でもあるわけです。逆から言えば、捕食者は「創造神」、あるいは「父」です。

 

捕食者などと言うと、人間とは縁遠い、疎遠な存在のように思われるかもしれませんが、人間の内部にも住み着いている、身近な存在でもあるのです()。それは、逆に、捕食者なるものは、決して我々の理解の及ばない存在ではなく、我々の「心」を顧みることによって、どのような存在か、十分推察することができるということでもあります。

 

この、人間の内部に「植え込まれている」という点は、衝撃的で、違和感が強いかもしれませんが、シュタイナーのいう「アーリマン存在」も全く同様で、人間の内部に自らの性向を植え込んだとされます。それは、「アーリマン的性向」などと呼ばれます。

 

さらに、シュタイナーは、細菌(当時ウイルスと区別されていなかったので、ウイルスも含む趣旨と解とされる)そのものが、アーリマン存在によりもたらされたとしています。だとすると、捕食者とウイルスに、本質的な類似性があるのも、当然ということになるでしょう。

 

ただし、シュタイナーは、アーリマン存在は、単純に「悪」なのではなく、人間に「均衡」をもたらし、「進化」を促す存在としています。これは、アーリマン存在がもたらした、ウイルスにも言えるはずのことで、恐るべき面のみをみて、やたらと怖がることは、無意味と言うべきです。

 

ドンファンも、捕食者は宇宙の本質的な一部であり、宇宙の探索装置としての人間に働きかけるものとしています。ただ、それは、外から来ているのである以上、それを脱することは可能としています。

 

次回は、それについてみてみることにします。

 

 従って、人間でも、この捕食者の心が強く発展している人は、捕食者的なあり方をしています。その人といると、何かしらネガティブな気分になり、エネルギーを消耗させられるという人がいると思います。エネルギーを吸い取られているのです。「エネルギーバンパイア」などとも呼ばれます。

 

ただし、人間は、だれしも、そのような心を持っているのであり、状況によっては、自分自身がそのようなあり方をすることもあり得るのです。

2020年6月 3日 (水)

「捕食者」という存在の実質と限界

しばらく間があいてしまいましたが、今回は、「捕食者」という存在の実質と限界について述べようと思います。

 

「捕食者」という存在については、前回、基本的なことを大体述べましたし、プログ『狂気をくぐり抜ける』の方でも、「狂気」をもたらす大元ということで、何度もとりあげ、相当つっこんだ解説をしています。たとえば、前回もあげたように、記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』 、『捕食者」という理由』などがあります。ですので、前回の記事と、それらを参照してもらえば、十分理解できることとは思います。

 

ただ、何度も言うように、「捕食者」という存在は、「オカルト」の基本にとって抜かせない重要な事柄なので、こちらでは、より一般的に、分かりやすく説明したいと思います。

 

前回みたように、「捕食者」とは、「我々が発する意識のエネルギー、特に「恐怖」や「不安」などのネガティブな感情的エネルギーを食料源にしている存在」です。そして、その「恐怖」や「不安」などの感情的エネルギーを絞り取るため、社会的にも、個人的にも、さまざまな働きかけをしています。その働きかけは、戦略的で徹底しており、人間からすれば、冷酷そのものです。それは、「恐怖」や「不安」などのネガティブな感情をもたらすことに向けられていますから、当然、人間にとって、「恐ろしい」こと、「不安になる」ことが仕掛けられます。

 

そのために、人間は、楽しく、喜びにあふれた生を送りたいと思っても、そうはならず、ネガティブな感情から、逃れることができないでいるのです。

 

我々は、そのような働きかけを「悪」として、「破壊」を意図するもののように解してしまいますが、そうではなく、「恐怖」や「不安」という感情そのものを生み出すことを意図しているのです。我々にとっては、まずは、それに気づくことが、決定的なことであり、彼らという存在についての、本質をつかむことになります。そして、彼らを、殊更怖がることからも開放される、というより、それでも怖がることは、進んで、彼らの餌食になろうとすることに他なりません。

 

人間は彼らの食料源ですから、人間を破壊してしまうことは、彼らが望むことではありません。ウイルスのように、人間に「寄生」しているということであり、あるいは、「依存」していると言ってもいいです。つまり、そこにこそ、彼らの大きな限界もあるのです。これについては、また改めて述べることがあろうかと思います。

 

何しろ、彼らが、言って来ることや、仕掛けて来ることは、徹頭徹尾、「恐怖」や「不安」という感情を生み出すための「戦略」なのであって、真実のものでも、特別に意味があるものでも、ありません。「恐ろしい」ことでも、「不安をかき立てる」ことでも、それらを本気にしたり、真に受ける必要はないということです。(ただし、完全なウソ、虚偽だけでは、効果を発揮しにくいので、真実が交ぜられるということはあります。みかけは、真実を含むものであることも多いので、注意が必要ということです。)

 

それにしても、このような存在の仕掛けなど、想像もつかない。具体的にどういったものなのかと、いぶかるかもしれませんが、前回も述べたように、既に現在の高度産業社会そのものが、そのような仕掛けによって、できあがっている社会です。

 

貨幣、金融等の経済的な制度、教育やメディアを通しての社会的洗脳、物質主義的な価値観や医療システムなど、全てが、人間の支配層を介しているとはいえ、彼らのもたらした仕掛けと言えます。あるいは、最近もしょっちゅう問題となる、戦争やテロ、大掛かりな事故、さらには、自然現象とされてしまいますが、一部の地震や異常気象、そして、現在の新型コロナウイルス騒動もそうです。つまり、我々が、日々周りにみているもの、既に前提としてあるものの多くがそうなのです。

 

これらは、それによってもたらされる直接の害悪よりも、不安や恐怖を煽ること自体が意図されているのです。こういった事柄は、一つ一つが決定的なまでの破壊的効果を生むというよりも、何かが来たら、次は何と、次々に起こされ、一向に休まる暇もなく、収束しないことに気づかれると思います。そのように、継続的に恐怖や不安の種を発生させ続けることこそ、彼らの戦略なのです。

 

個別的なところで言うと、私が体験したような、霊界の境域での遭遇や、「声」を通しての働きかけがあります。これらは、必ずしも、「捕食者」そのものではなく、某かの霊的存在を通してなされることが多いですが、その背後には、彼らがいることも多いのです。執拗な、攻撃的内容、暗示的なほのめかし、幻覚的現象の創出などが多いですが、どれも、恐怖、それも尋常でない恐怖を、継続的にもたらすことが図られています。

 

最近では、「集団ストーカー」という現象もそうで、「声」とは限らず、通りがかりの人間などを利用して、様々な「嫌がらせ」的な仕掛けがなされます。最近は、「統合失調」のような、古典的な仕掛けから、このような方法に移行していることも窺わせるものです。

 

ただし、このような個別的な働きかけも、決して、特別な者に特別に仕掛けられたというものではなく、本当は、誰にも、なされているものです。ただ、多くの場合、それを意識することがほとんどない、というだけなのです。意識することがなければ、意識レべルで恐れることもないですが、 無意識レベルでは、何らかの反応が生じている可能性が高いです。少なくとも、何らかの、ネガティブな思考のもとになっていることが多いのです。

 

こう言っても、現在ほとんどの人が、このような存在を認めないでしょうが、既に、人間は、いやというほど、このような存在の支配下にいるのです。それでも、このような存在を否定することは、私には、皮肉を通り越して、滑稽にすら思われます。ただし、既にみたように、唯物論的な発想そのもの、従って、彼らの存在を知られないように「隠す」ことも、彼らの戦略の一部なので、その戦略がよく効いている結果とはいえます。

 

先に、「捕食者」としての、彼らの本質をつかめば、それほど恐れることはないと言いました。それは、本当であり、彼らの戦略から逃れる第一歩です。しかし、彼らには、人間を超えた力や、狡猾な知性があるのも事実です。そして、現に、そのような存在に、いやというほど支配されて、どうしようもない状態にいる現状は、まともに認識する必要があります。そこから脱することは、決して容易なことではないのです。これについても、また改めて述べたいと思います。

 

既に述べたところから、「捕食者」という存在は、特定の固有の存在というよりも、「捕食者的な型」をもった、ある一群の存在ということが分かると思います。その意味では、シュタイナーのいう「アーリマン存在」と同じです。実際、両者は、重なるところが多いです。これらは、「霊的な存在」とみられると同時に、次元を超えた「宇宙人」とみることもできます。「レブティリアン」というのが、その典型です。

 

ただし、「レプティリアン」説で有名なデーヴィッド・アイクも、最近は、「レプティリアン」(爬虫類系の宇宙人)を特別視することから離れて、それも、元々の「大いなる認識」から逸脱した、「捕食者」的な存在または原理の、一つの現れに過ぎないという見方に変わって来ています。もちろん、そちらの方が正しいと言うべきです。

 

このように、「捕食者」という認識が、まだまだ少ないとはいえ、一定程度広まって来ていることは、望ましいことと言えます。

2020年4月10日 (金)

「捕食者」という捉え方 1-経緯

前回、「悪魔」という捉え方は、問題が多いことをみました。何しろ、「悪魔」というのは、人間の側からみて、「邪悪な存在」、「敵対する存在」ということで、観念的に押しつける面の強いものです。それは、その存在そのものの実質を、必ずしも、明かにするものではありません。

 

私も、初め、その強烈な攻撃性と、とても敵わないと思われる力、醸し出す雰囲気などから、この存在を、「悪魔」とみなさざるを得ませんでした。しかし、しばらく接するうちに、それは、(そうしたければできるはずなのに)必ずしも、私を殺そうとか、人間をなきものにしようとか、しているようには思えませんでした。

 

そして、この存在を、ほとんど常に、身近にする状況になったのですが、この存在は、私が、恐怖を感じているときは、非常に活気づきます。ところが、あるとき、私が恐怖をあまり感じないでいたとき、目に見えて、勢いを失っていくことを体感しました。それで、この存在は、こちらが恐怖によって、何らかのエネルギーを供給しない限り、それほど恐ろしいという訳ではないということに気づきました。

 

その後、この存在との関わり方も、それほど恐怖に満ちたものではなく、どこかに余裕ができ、大きく変わりました。(もちろん、なめられるような存在ではないし、その後、「境域の守護霊」の方が恐くなるなど、いろいろ紆余曲折はあります。)

 

私は、このようなことから、この存在は、どうも、「悪なる存在」というよりも、「恐怖を活力源にする」ということの方が、実質をよく表していると思うようになりました。

 

その後、前から、前著を読んでいて、自分の体験とも大きく重なる部分があると興味深く思っていた、カルロス・カスタネダの本で、『無限の本質』(二見書房)というのが出ました。これは、前著では触れられていなかった、「捕食者」という存在について、正面から説き起こしている、画期的なものでした。それは、私の接した、悪魔的な存在とも、見事に符合するものだったので、強い衝撃を受けました。

 

このような存在について、悪魔というのとは別の観点から、これだけ詳しく説いていたものがあったということ。しかも、それは、もともと興味深く思っていた、カスタネダの師ドンファンのものだということも、驚きでした。

 

この存在については、次回、その実質をより詳しくみますが、簡単に言うと、我々が発する意識のエネルギー、特に「恐怖」や「不安」などのネガティブな感情的エネルギーを食糧源にしている存在です(以下「彼ら」と言います)。

 

「捕食者」というのは、我々が、他の動物に対して「捕食者」の位置に立つように、人間に対して、「捕食者」の位置に立つということです。これは、キリスト教の発想の影響が強いのですが、我々人間は、他の動物に対して、食物連鎖の頂点に立つ存在のように思って来ました。そうすると、違和感が強いと思いますが、実際には、そうではなく(というか、まともに考えれば、そうであるはずがないのですが)、我々の上にも、捕食者の位置に立つ存在がいるということです。

 

ただし、この捕食関係は、物理的な成分だけについて言うのではなく、霊的(エーテル的)な「エネルギー」(要するに、既にみた「気」と思えばいいです)も含んだものです。

 

また、「捕食」と言いますが、実際には、彼らは、人間を、社会システムや信念体系を通じて、管理、飼育しているに等しく、むしろ「牧畜」と言った方が適確です。社会の直接の支配は、人間の支配層によってなされるとしても、その背後には、この存在の働きかけがあるということです。

 

ただ、人間が、牧畜を主としつつも、ときに野生動物を捕食することがあるように、この存在によっても、人によって(特にその飼育システムから外れる者)は、「捕食」そのものののような対象になります。

 

(「うつ」というのが、彼らに、飼育システムの中で、がんじがらめにされ、搾取される結果だとしたら、「統合失調」というのは、まさにそのように、飼育システムから外れる者への、特別の攻撃的な搾取の結果と言えます。)

 

先に、彼らは、人間を直接殺そうとか、なきものにしようとかしているようには思えないことを述べました。それは、要するに、人間は、彼らの食糧源だからです。彼らも、食糧源を、失ってしまうことは望まないのです。まさに、細胞に寄生するウイルスと同じようにです。

 

ただし、それは、人間から、「恐怖」や「不安」などの感情エネルギーを、徹底的に絞り取るためにこそ、生かすことを意味します。そして、そのために、冷徹かつ戦略的に、徹底して、働きかけます。私と接した存在も、直接的に、分かり易い攻撃を仕掛けるというよりは、とにかく、じわじわじわじわと、精神的に痛めつけるような言葉を発したり、意図の分かりにくい、曖昧な振る舞いや現象を演出し、恐怖を膨らませようとします。それが、途切れることなく、延々と続くのです。

 

これは、個人レベルのものですが、それを、人間の飼育のため、社会レベルで行うとき、彼らにとって都合のよい、人間をがんじがらめにする、社会システムを導くのです。恐怖や不安に動機づけられた、また、人間の本質を大きく制限する、常識や信念体系を与え、それを社会に行き渡らせることを通じてです。現代の高度産業社会のシステム、またその基礎にある、唯物論的、機械論的な信念などは、その最たるものです。また、現在みられる、コロナウイルスによる「パンデミック」の演出も、そうと言うべきものです。

 

こうみると、彼らは、シュタイナーの言う悪魔的存在、「アーリマン存在」と重なるところがあることに気づくと思います。

 

実際にそうで、私も、まず、自分が接した存在について、シュタイナーのいう、「アーリマン存在」こそが、見事に、適確に捉えていると思いました。「アーリマン存在」というのは、二系統の悪魔的存在として、一方の「ルシファー存在」との対比で捉えられたもので、人間を機械的、物質的な方向に導く存在という面が強調されます。

 

これだけからは、「捕食者」という面は、あまり表に出ないですが、シュタイナーも、アーリマン存在は、人間の中の、ルシファー的な性向から発する情念を「刈り取る」と言っており、実質、「捕食者」的性質があることになります。つまり、一見、異なる捉え方のようにみえて、実際には、かなり重なる部分があるのです。

 

しかし、私は、「捕食者」という捉え方は、「アーリマン存在」という以上に、実質を捉えている部分が多いと思います。何よりも、それは、人間の側の「善悪」の観念を離れた、客観的な見方を可能にします。さらに、「捕食者」という捉え方は、食物連鎖において人間の上に立つ存在を認めることで、逆に、人間の動物に対する関係を、改めて顧みさせる効果があります。

 

人間が、彼らを「悪魔」というなら、動物にとって、人間も「悪魔」にほかならないことになるでしょう。そのような生命の全体的な関係を、改めて見直す視点も提供するということです。

 

このようなことから、私は、彼らについては、「アーリマン存在」という見方も、受け入れつつ、「捕食者」という捉え方をすることにしています。

 

当時は、このような捉え方は、非常に異質だった感がありますが、最近は、割といろんなところで目にするようになりました。

 

たとえば、「レプティリアン」などの「ネガティブ系宇宙人」についても、人間に対する、捕食者的な支配者という観点から説明するチャネリングものも、よくみかけます。バーバラ・マーシニアックの『プレアデス+かく語りき』などは、その代表です。さらに、何度か触れた、デーヴィッド・アイクも、特に最近は、このような存在を、「捕食者」的なものとして捉える視点が、強まっています。

 

我々自身が、「善悪」の観念に捕らわれず、それを「卒業」することによって、このようなことが見えてくる要素が強いので、まさに、最近は、そのようなことが要請される時代になっているということも感じます。

 

そういうわけで、今回は、私が、彼らを、「捕食者」として捉えるようになった経緯と、理由を中心に述べました。なお、『狂気をくぐり抜ける』の方では、記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』が、アーリマン存在との対比について、また、記事『「捕食者」という理由』が、捕食者と呼ぶ理由についてまとめて述べていますので、そちらも参照ください。

2020年3月25日 (水)

「悪魔」という捉え方の問題

記事『様々な「霊的存在」― 特に「悪魔的存在」 』で、物質的身体をもたない、霊的な存在には、人間以外にも多くの存在がいること。そして、その中には、当然「悪」なる存在もいることをみました。また、それらは、物質的な次元とは、次元を異にする、「宇宙人」として捉えることも可能であることをみました。最近では、「レプティリアン」とか「オリオン人」といわれる存在が、これに当たります。

 

これらは、現実に、我々の世界に強く働きかけているからこそ、問題にする意味があるので、単に抽象的に存在するか否かなどと論じることに、意味があるわけではありません。

 

特に、現代の状況は、このような存在による影響が、かつてないほど強まっている時代と言えます。このことは、様々な方面で言われますが、度々とりあげるシュタイナーも、現代は、特に、「アーリマン存在」という、悪魔的存在に支配される時代といいます。

 

アーリマン存在は、物質的なものの背後で、(つまり「霊界の境域」から)働きかける存在で、本来、霊的な存在である人間を、物質的、機械的なものへと貶めようとします。産業革命以後の「技術」は、アーリマン存在によって、(インスピレーションを通して)もたらされたとものとされます。物質的なものが極限にまで発達し、あらゆるものが機械化された、現代の高度産業社会は、端的に、「アーリマン化した社会」ということが言えるのです。

 

また、これまで、「霊界の境域」 について、かなり詳しくみて来たのは、そこでは、アーリマン存在の働きかけが、個々人への個別的な働きかけとしても、強力になるからです。

 

私も、「霊界の境域」に、予期せずも入り込み、そこで、さまざまな存在と遭遇しましたが、特に、この存在から強い働きかけを受け、酷い恐怖や混乱を味わいました。しかし、その時点で、霊的なものの存在することは、十分肯定していた私も、このような存在がいるということは、なかなか信じ難く、認め難いものがありました。このような存在を、それとして認めるのには、相当の時間がかかっています。

 

ですから、一般に、このような存在が信じられないものであることは、よく分かります。

 

しかし、この経験を通して、私自身は、その存在を、疑いの余地なく、明白に、知ることになったのだし、それを通して、そうでなければ得難い、多くの知識を得たのも事実です。

 

そして、現代は、我々の世界そのもの、つまり、この「物質的な世界」という枠組みそのものが、大きく揺らいで、霊的な世界との混交をもたらしつつある時代です。だから、「霊界の境域」というのは、何も特別な状況ではなく、我々のこの世界そのものが、そのように化しつつあります。多くの人が、個別的なレべルでも、このような存在と出会う可能性が、高まっているということです。

 

そのような状況では、この存在のことを知ることは、是非とも必要なことになっていると思います。既に述べましたが、私が、「スピリチュアル」ということよりも、「オカルト」を重視するのも、このような存在の強い影響を、意識してのことです。

 

この存在については、これまでにも、多くのことが、言われて来ました。特に、近代以前には、むしろ、このような存在が存在することは、多くの人に、「常識」として知られていたのです。そして、それは、多くの場合、「悪魔」という呼ばれ方がしていました。特に、一神教の世界では、善なる「神」に対立するものとして、そう呼ばれ、非常に恐れられるとともに、「おどろおどろし」く、奇怪なイメージも、大きく膨らまされて来ました。

 

既にみた「魔女狩り」も、そのような見方が一般に浸透していた背景に、起こったことです。

 

しかし、この「悪魔」という捉え方は、多くの点で問題と思います。

 

このような存在が、人間の側からみれば、「悪」として意識されることは本当です。しかし、その「悪」は、どうしても、人間の側がもつ観念の押しつけでしかなく、その存在自体の本性を、明らかにするものではありません。

 

また、それは、時代や文化によっても、大きく移り変わるものです。特に、一神教の文化圏では、善なる「神」ということを強調し、または宣伝するためにこそ、「悪魔」の観念やイメージが、膨らまされて来たことがあります。それは、ことさら、「おどろおどろしい」ものとされ、恐怖や敵意をもつように誘導され、神への信仰へと向けさせるのに利用されたということです。

 

「魔女狩り」というのも、そのような教会や異端審問所の大きな働きかけのもとに、起こっています。

 

ところが、非一神教的な文化圏や先住民文化では、「悪魔」や「魔」という捉え方がされるにしても、それは、「悪」の視点一辺倒ではなく、ときに、共同体の秩序を保ったり、成長を促す、「善」なる働きも認められています。つまり、「両義的」な面があるのです。これは、より「真実」に近い捉え方と言っていいですが、やはり、その文化の「悪」の観念に捕らえられているところがあることは、否定できません。

 

実際に、このような存在に出会うという状況から言っても、「悪魔」という捉え方、特に、一神教的な影響を受けた捉え方では、ことさら、恐怖や混乱を深めることにしかならないと思います。その存在そのものというよりも、「悪」という観念や「悪魔」についてのイメージによって、自ら押し潰されてしまうということです。

 

私自身、このような存在が、「悪魔」である可能性をみてからは、そのような傾向が強くありました。このような存在が、現に自分がみたとおり、世界を牛耳っている状況では、地球は終わると思ったし、私自身、永遠に地獄に捕らえられると思いました。

 

また、前々回の記事でみたように、モーバッサンの『オルラ』も、自ら、自分のもった「悪魔」的な観念に、押し潰されてしまったよい例です。「境域の守護霊」と思われる「オルラ」に対して、多分に、実質、これまで「悪魔」としてみられて来たものを、「投影」してしまったからです。

 

これらは、本当に、人間の側が、この存在に出会ったときに、(やむに止まれず)もたらしてしまうことなのであって、この存在そのものから、明白に露になったものではありません。この存在そのものの実質は、そう簡単に、露になるものではなく、初めは、何しろ、人間にとって、「未知なる存在」としてしか、受け止めようのないものです。そのうえで、徐々に、時間をかけて、見極めて行くしかないものということです。

 

ところが、このように、「未知なる存在」として、そのまま受け止めるのは、人間にとって、容易なことではありません。どうしても、自分が既にもっている、観念やイメージを押しつけることで、とりあえずの「理解」を得ようとします。

 

そのようなときに、「悪魔」という観念は、決して「真実」を明らかにしないばかりか、その場の状況としても、恐怖と混乱をもたらすだけで、建設的な働きをしないのです。

 

シュタイナーも言っているように、このような存在は、それと出会ったことにより、初めて、存在したのではありません。既に、ずっと存在していたものを、たまたま、そのとき、自分も知ったというに過ぎません。それが、どんなに「恐ろしい」ものと思ったとしても、既に、その存在の働きかけのもとに、(「知らぬが仏」で)自分もそれまで、「普通に」生きて来たのです。その状況は、その存在を現に見、知ったからと言って、急に変わるものではありません。

 

つまり、このような存在がいるといっても、ことさら、恐怖したり、混乱したり、大変なことと、騒ぎ立てたりすることは、意味のないことということです。「悪魔」という捉え方は、そのようなことに、拍車をかけるだけです。 

 

そこで、私は、これからは、これらの存在を、これまでの観念やイメージから離れて、新たに捉え直す必要があると解します。そして、それらは、「捕食者」として捉えることが、適当と考えています。ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方では、既にこれについては、相当詳しく、述べていますが、次回はこれについて述べることにします。

2018年12月10日 (月)

様々な「霊的存在」― 特に「悪魔的存在」

前に、記事『「霊」とは何か』で述べたように、「霊」なるものがあるとすれば、人間にだけでなく、いろいろな存在にもあるはずです。また、もともと、霊だけで存在できるのだとすれば、物質的な身体をもたない「霊的存在」というのも、種々いるはずです。

 

実際、近代以前または近代以外の「普遍的」な文化は、そのように解して来ました。動物には、「動物霊」が宿り、木などの植物にも、その植物の「霊」が宿ります。そればかりか、石や鉱物にも、何らかの霊的なものが宿っているとされます。

 

また、物質的な身体をもたない霊的存在も、広く認められています「精霊」、「神々」、「妖精」、「妖怪」、「天使」、「悪魔」、「神」など、文化や宗教形態により、様々な呼び方がありますが、これらはすべて、そのような存在です。「スピリチュアリズム」では、これらを「自然霊」と呼びます。

 

これらのほかに、現代では、「宇宙人」と呼ばれるものも、重要な存在となっています。「宇宙人」というと、太陽系外の惑星に住む、人間と同様の存在というイメージでしょうが、広く、宇宙起源の、地球の人間と関わり得る存在が問題です。そして、これらは、単純に、人間を基準にして、物質的な存在とするわけにはいきません。物質的なものを超えた、「霊的存在」の一種と解すべきものも多く、現に、かつては、先のような、「精霊」、「神々」、「妖精」、「妖怪」、「天使」、「悪魔」、「神」などと呼ばれていた可能性があります。

 

この「宇宙人」については、次回、改めて述べたいと思います。

 

日本の神道では、「神々」は、岩や鏡、神木などの、「御神体」に宿るとされますが、それは、一定期間、または一時的に宿っているのであって、本来、物質的なものを住処としないで、自由に移動できる、霊的な存在です。

 

「妖精」や「妖怪」などは、「UMA」(未確認生物)と言われることもあり、物質的な存在と同様に、視認され、人間と接することもよくあります。日本では、妖怪としての「狐」や「狸」、あるいは「カッパ」などが有名でしょう。

 

しかし、これらの存在も、常に、物質的な形態をとっているわけではなく、ある期間、または一時的に、「物質化」しているものと解されます。「神々」や「精霊」なども、一時的に「物質化」して現れることがあります。前に触れたように、人間の幽霊ですら、「物質化」して現れることがあるのです。

 

記事『「霊」とは何か』で述べたように、「霊的なもの」は、本来「物質的なもの」を含むので、それが凝縮して、物質的なものとして現れ出ることもできるのです。ただし、それには、相応のエネルギーがいるようで、長い間、物質化していることは難しいようです。

 

このような、様々な「霊的存在」が認められるようになったのは、一つには、このようにして、物質化して現れて、人間と接することが多くあったからと思われます。どこの文化にもある、「昔話」や「伝説」に記録されていることは、文化的な脚色を受けているとはいえ、本当にあったことなのです。現在でも、「都市伝説」として、このような「接触」は多く伝えられています。

 

私自身、(「宇宙人」も含める必要がありますが)これらの存在が物質化したもの(と解すほかないもの)に、出会ったことがあります。

 

しかし、これらの霊的な存在が、広く認められるもととなったのは、やはり、「シャーマン」という特別の能力をもった人間を、介してのものと思われます。シャーマンは、先住民文化において、どの共同体にも、一人はおり、これらの霊的な存在と交流する特別な能力を備えています。そして、それらの存在から、様々な知識を与えられたり、守護されたり、あるいは、こちらから、交渉して、さまざまな力を引き出したりします。それが、儀式などを通して、共同体の多くの者にも、共有されるわけです。

 

だから、先住民文化にとっては、このような霊的な存在が、普遍的に認められることになるのです。文明化した文化においても、その伝統は、多かれ少なかれ引き継がれており、かつてのシャーマンの役割をする者は、存在しています。 それで、そのような文化においても、このような霊的な存在は、認められているのです。ただし、先住民文化の「精霊」などの存在こそが、その原点のようなもので、より原初的な姿を現しています。文明化された文化の、「神々」や「神」などは、文化的に脚色された「観念」を、多くまとっていると言うべきです。

 

私も、また、記事『私の体験から』で述べたように、(物質化して現れたものとは別に)霊的な存在としての、様々な「精霊」と遭遇しました。これらは、人間と共通する面もあり、似たものとして現れ出ますが、人間とは異質の面が強く、かなり強烈(ときに攻撃的)な存在です。それで、それまで人間という存在しか想定していなかった私は、大きな混乱に見舞われました。実際、人間という範疇の想定しかない者にとっては、そうなるしかなく、その混乱が、周りには、「病的」とみなされるような、危うい反応をもたらすのです。「妄想」というのも、その遭遇を、自分の理解できる範囲のことに引き寄せて、自分流に解釈した結果です。

 

それは、かつては、そのようなものとして「知られたもの」だったわけですが、近代になって、そのようなものを「ないもの」として切り捨てたので、それに対処する手立てを失った、ということによる面が大きいのです。

 

これらの存在は、「神」や「神々」という言い方だと、洗練されたイメージになるでしょうが、実際、エネルギーに満ちた、「荒々しさ」というものを醸し出しているので、「精霊」という言葉がぴったり来ます。

 

それらは、性質にもいろいろあり、人間からみれば、「善」または「味方」、あるいは「悪」または「敵」という捉え方で、捉えることもできます。「天使」や「悪魔」という言い方は、それを反映したものといえます。ただし、そこには、やはり、多分に、人間の都合による、解釈が入り込んでいます。「善なるもの」といい、「悪なるもの」といっても、人間からみた、人間の都合により、それらに押しつけられた「観念」に過ぎない、という面が多くあるからです。

 

とはいえ、もし「悪魔は存在するか」と問われるならば、当然、「存在する」と言わなくてはなりません。人間にも、「悪人」がいるのに、霊的存在に、「悪なる存在」がいないはずがありません。そして、そのスケールも、当然、人間とは比べ物にならないものとなります。

 

様々な「霊的存在」について、みて来ましたが、それらが、ただ単に「存在している」というだけでは、それを特に問題にする意味もありません。それらの存在が、人間に対して、多くの影響を与えていると思われるからこそ、問題にする意味があるのです。

 

先にみたように、そもそも、先住民の文化からして、シャーマンとの交流を通して、「精霊」が、多くの部分をもたらしたといえます。木内鶴彦氏の臨死体験の例でもみたように、霊的な存在は、人間を通して(憑依して)、様々な行為をすることもできます。我々の意思に基づくと思われている、人間の行為の多くが、霊的な存在の影響によるという可能性は、常にあるのです。何しろ、我々が思っている以上に、霊的な存在の影響を受けているというべきなのです。

 

ところが、近代に入って、そのような存在がいないとみなされて、「排除」されたため、人間とそのような存在との関係は、大きく変化したと考えられます。特に、それらの存在の中でも、これまで人間に友好的に働きかけていた存在との関係が、大きく「断たれた」可能性があります。そして、それは、その間隙をぬって、逆に、「悪意」ある存在が、人間を好きなように、「支配」する契機をもたらしたといえます。自らの存在が知られることもなく、他の霊的存在に邪魔されることもないので、いいように、人間と関ることができるからです。

 

実際、現代とは、かつてないほど、人間が、「悪魔的存在」の影響のもとにある時代ということがいえます。現代の社会情勢や、人間同士のあり方を顧みれば、それも頷けることのはずです。争いや戦争が絶えないのも、その影響によるところが大きいのです。もちろん、人間そのものにも原因がありますが、人間の内部からのみそれを追究しようとしても、なかなかうまくいかないし、現にそれが止むことはないでしょう。人間が、そのような存在がいないと思っていればいるほど、なぜとは明確に分からないままに、その影響から脱せられない状況を、闇雲に拡大し続けてしまうのです。

 

何度も触れたように、「オカルト」という言葉が、「おどろおどろしい」ものを連想させ、嫌悪感をもたらすことにも、この「悪魔的存在」の影響が強く働いています。人間は、表面的には否定しつつも、「オカルト」という言葉が、「悪魔的なもの」と結びつくことを、心のどこかでは知っているというべきなのです。

 

記事『私の体験から』でみたように、この世的なものからはみ出して、霊的世界の入り口に踏み出す体験が、病的なものになりやすいのも、その影響が強く働いているからです。実際、私の遭遇した存在の多く、というより、私が最も強いインパクトを受け、影響を被った存在も、 そのような悪魔的存在です。そして、一連の体験の間には、このような存在が、いかに多くの人間に影響を与えているか、いやというほど、肌で知らされることになりました。

 

私は、このような存在を、人間の「善悪の観念」に入れ込んで、「悪魔」と呼ぶのは適当でないために、「捕食者」と呼んでいます。ブログ『狂気をくぐり抜ける』でも、多くそれに触れています。こちらでも、それについては、改めて述べることにします。

 

いずれにしても、現代では、特に、このような悪魔的存在との関係を問い直すことが、重要になっています。私が、「オカルト」ということを、正面から問題にする理由の半分も、実は、そのことにこそあると言ってもいいのです。

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