2018年11月20日 (火)

木内鶴彦氏の臨死体験

今回は、スウィフト・タットル彗星の発見者である彗星研究家、木内鶴彦氏の臨死体験を紹介したいと思います。

 

氏の臨死体験は、立花隆の『証言・臨死体験』(文春文庫)にもとり上げられているもので、とても興味深いものです。以下、簡単にまとめられている、『木内鶴彦の超驚異的な超宇宙』(ヒカルランド)(超「超」がついていますが…これは毎度おなじみの超「お約束」)を参照に、要点と特に興味深い点だけ述べます。詳しく知りたい方は、本やネットで調べてみてください。なお、インタビュー動画 があります。

 

氏は、死線をさまよう大きな病気により、二度の臨死体験をしています。初めの臨死体験には、脳波停止、心肺停止で「死亡」を宣告されて30分後に甦生したときの体験が含まれていて、医師のカルテにも「死後甦生」と記録されています。前回みたように、「脳内幻覚説」では説明できないものです。

 

氏も、臨死状態で、病院で周りの者がする処置を見ていたり、既に死んだ親類の女性に導かれて、祖先などのいる「死後の世界」を垣間見るなど、多くの人と共通の体験をしています。

 

ところが、氏は、「死亡」後の体験で、かなり「特異」な体験をします。死亡を宣告された後も意識がはっきりとあり、病室のベッドの自分の肉体を見て、意識だけの存在になったことに気づくと、自ら意思して、空間を自由に移動するだけでなく、時間を超えて、過去や未来にも行けるようになったというのです。

 

氏は、6才の頃、川の土手で遊んでいたとき、誰もいないはずの後ろから、「危ない!」という大きな声を聞き、上を見ると、大きな石が転げ落ちようとしているところで、前にいた姉を前に押して、すんでのところで助けることができたという体験をしています。

 

その体験のことを思い出し、その「声」が誰のものだったかを知りたく、その当時に戻ることを意識すると、まさにそのときの光景が上から見えました。そして、石が落ちそうになっているので、思わず「危ない!」と、大きな声をあげたのです。すると、当時の自分が姉を押して、助けるところが見えます。なんと、その「危ない!」という声は、後の自分、それも臨死体験で、意識だけの存在になっていた自分のものだったということです。まるで、SFドラマのストーリーのような展開です。

 

さらに、氏は、古代エジプト時代に戻って、ピラミッド建設の現場を見たり、原始の地球には月がなかったことを確認し、月の誕生は、今からなんと1万5000年前のことだったことを見たりします。また、さらに遡って、生命の誕生の瞬間を見たり、宇宙誕生の瞬間を見たりもしているのです。

 

ピラミッドについては、今から6000年前のことで、犬や鳥のような頭をし、体は人間のような「宇宙人」が、人間を使って、建設させたということです。「宇宙人」は、土に掘った穴に水と「薬品」のようなものを入れて、軽石のようなものを作り出し、それを人間が4人がかりで持ち上げて、隙間なく積み上げていくことで、完成したというのです。

 

月は、地球に近づいた巨大な彗星が、地球の引力によって捕獲されて月となったということです。その彗星は内部に大量の水や氷を蓄えていたため、それが太陽の熱により水蒸気と化して、地球に大量に降り注ぎ、地上の多くが海に沈むことになりました。当時、地球にも文明があり、それも失われましたが、それが「アトランティス大陸の沈没」であり、「ノアの洪水」ということてです。

 

宇宙の誕生については、氏が「膨大な意識」と呼ぶ、時間や空間を超越し、理性や知性をはるかに超えた「存在」に包まれる体験を通して、知ることになったものです。

 

その「膨大な意識」は、それ自体完全で、何の動きや変化もない「退屈」な状態で、自分自身を動かして進化させるために、不完全な状態にしたかったというのです。そのため、ある時点で歪みを作り出し、不完全な形にするべく、宇宙という「物質的な存在」を作り出したということです。

 

これらは、一般的な「常識」からはかけ離れているため、にわかには信じ難いものでしょう。私も、文字どおりには、受け入れ難いと思っています。氏の体験そのものとしては、「真実」であっても、前回みたように、霊的な体験とこの世的な「事実」との間に、食い違いがあることはあり得るので、その可能性もあります。あるいは、実際の過去の出来事そのものというよりも、一種の「パラレルワールド」的な体験ということも、あり得ます。

 

しかし、専門的な観点から、氏の「説」に注目する人もかなりいるし、物理学者の保江邦夫のように、氏の体験から示唆を受けて、理論を発展させた人もいます。

 

また、氏の体験には、「事実」と符合することが確認される部分も、あるのです。さらに、氏は、後に「事実」と確認できるように、自ら訪れた場所に、「痕跡」を残すことをしており、それが実際に確かめられたものもあるのです。

 

江戸時代の、四国のT神社を訪れたときのこと、氏は、「宮大工の体に入っ」て、造営中の柱に「つる」という字を書いておきました。甦生後、この神社に行く機会があり、そこで宮司に聞くと、「なぜそれを知っているのか?」と驚かれ、柱を見せてくれました。それは、間違いなく、自分が書いた文字に違いありませんでした。そして、宮司から、神社の古文書に、「造営中の柱に突然梵字のような文字が現れ、神様からの言葉かと大騒ぎになった」ことが書かれていると知らされます。

 

これは、実際に、その時代の物質的な状態に痕跡を残して来たものと解さざるを得ず、このような例をみると、氏の体験の多くも、文字どおり「真実」である可能性はあるものと思わざるを得ません。

 

そして、このように、「霊的な状態から物質的な現実に働きかけることができた」ことをはっきり示しているのも、興味深い点です

 

前回、私の体外離脱の体験では、周りの物体を、離脱時の「もう一つの肉体」を使うことでは、動かすことができなかったことを述べました。知覚的には、そのように働きかけることができたというものがあったのですが、物理的な次元では、実現していなかったのです。この点は、氏の場合でも、同じと思われます。ただし、氏は、自分のではなく、他の人の肉体に「入る」ということをして、その人の肉体を通して、物理的な現実に働きかけているのです。そして、それは、現に物理的な次元で、実現することになっているのです。

 

つまり、肉体から抜け出した「意識だけの存在」の氏が、他の人の「肉体」に一時的に「憑依」することで、物理的に働きかけたということです。しかも、時間を超越して、過去に影響を与えているのです

 

肉体を離れた存在に、このようなことが可能ということをはっきり示しているのは、興味深いと言わざるを得ません。肉体から離れた存在、あるいは、もともと霊的な存在が多くいるのだとした場合、このようなことは、恐らく、かなり頻繁に行われているはずだということも予想させます。このような存在によって、何らかの行為をさせられている場合があり、しかも時間を超越してなされる場合もあるということです。

 

この点は、我々が自分の「行為」と思っているものが、本当に、自らの意思に基づいているのかどうか、改めて問い直さなくてはならないことにもなるでしょう。

 

何しろ、氏の体験は、臨死体験というものが、単に、「死後の世界」を垣間見せるというだけのものではなく、物質的な世界に対する、「霊的な世界」というものの、広大な広がりや深みを垣間見せてくれるもので、貴重なものと言うべきでしょう。

 

次回も、さらに、そのような霊的な世界の広がりや深みに通じる、人間以外の霊的な存在について、みることにします。

2018年11月 2日 (金)

「霊」についての総合的考察 3

次に、理由の2「多くの人は、「霊」というものを、現実的なものとして、捉える手立てがない」について、検討します。

たとえば、霊能力を持っていて、普段から霊と交流しているとか、身近に、そういう人がいるとか、疑いようのない幽霊の体験をしたとか、幽体離脱や臨死体験をして、「霊」の状態を自ら体験したというのでない限り、現在の日本で、「霊」というものを、現実的なものとして捉えるのは難しいことでしょう。

しかし、それは、現在の日本で、「霊」というものが、一般に否定されていること、またあるとしても、稀なことだと思われていることが、強く影響しています。実際には、我々の本質が、「霊」ということなので、「霊」を見たり、体験したり、自ら「霊」の状態を感得したりすることは、本来いくらもあることなのです。

ただ、ほとんどの人は、何らかの形で、そういった体験をしているのですが、それを強く抑圧してしまうため、意識にのぼらないか、のぼっても、一瞬にして忘れ去られてしまっているのが、実情だと思います。

やはり、「オカルト的なもの」についての嫌悪や恐怖が、強く影響しているのです。
このような状況で、「霊」について現実的に捉えることが難しいのは、当然のこととも言えます。しかし、そのような状況でも、「霊」についての現実的な把握を、思いのほか高めてくれる体験があります。それが、前回もみた、「体外離脱」の体験です。

「臨死体験」は、死に臨むという状況での、特別な体験なので、誰もが通常体験できるものではありません。ところが、「体外離脱」の体験そのものは、誰でも、生きている間に体験し得るもので、肉体を抜け出して、「霊」の状態をリアルに体感できる、またとない機会となります。前回みたように、誘発する方法や訓練によって、体験できるようになる人もいますが、そうでなくとも、自然発生的に起こることも多いのです。私の場合は、自然発生的なもので、何度か連続して起こりました。

自ら肉体を抜け出して、外界を知覚し、霊的な世界をかいま見る体験は、強烈な印象を残します。覚醒しているときと同様の、はっきりとした意識を伴うので、その現実感は、明白なものです。「夢」とは異なることが、はっきり分かります。肉体に戻ったときにも、それを自覚できます。体験中、不安や恐怖はありますが、肉体に戻ったときには、非常に気分が爽快です。

たとえ、「霊」についての嫌悪や恐怖が強かったとしても、この実際の体験は、そのようなイメージが違ったものであることを、明らかにしてもくれます。

今後は、この体験のことや、誘発する方法が知られることなどにより、この体験をする人が、相当増えてくると思われます。そうすれば、多くの人にとっても、「霊」というものが、かなり現実的に捉えられるものになる可能性があります。体験そのものをしないにしても、そのような体験について知るだけでも、かなり違うと思います。

そこで、今回は、この体験の、特に、誰もに共通する部分である、「肉体から抜け出してなされる外界の知覚」ということについて、もう少し、具体的な説明をしてておきたいと思います。それこそが、肉体から独立して働く「魂」や「霊」の存在を把握する、基礎となるものだからです。私の場合を中心に述べますが、多くの人の例も参照にはします。

私の場合、それは、ベッドで眠りに入るとき、または眠っていて、一旦目覚めた(と意識された)ときに、起こっています。といっても、後に、肉体に戻ったときに、完全に目覚めるので、通常の覚醒状態ともまた違う、特殊な意識状態です。ただし、意識ははっきり伴うし、覚醒時と同じように、周りの状況をリアルに把握できる状態です。

初め、頭の上の当たりに、強烈な振動を感じ、不安に思いますが、それが全身を包み込むようになったとき、気がついたら、肉体を抜け出して、宙に浮いていたというのが、私の場合の大体のパターンです。肉体を抜け出す感覚は、はっきりとした、リアルなものです。そして、実際に、自分が、部屋の天井の近く当たりまで、浮くのが分かります。外界の知覚は、現実の自分の部屋そのままであり、宙に浮くのに従って、その位置から知覚しているのです。

前々回、臨死体験の知覚と同様の体験は、側頭葉の刺激でも起こせるという実験があることを述べました。しかし、その体験は、あくまで「類似」の「バーチャル」な感覚であって、現実に、宙に浮いた位置から、知覚しているのではないと思います。ただし、側頭葉の刺激によって、本当に、「体外離脱」が誘発されること自体は、あり得ることです。「ヘミシンク」のような、音響効果でも誘発されるので、側頭葉の刺激で誘発されたとしても、不思議はありません。これは、前回述べたように、脳と「魂」や「霊」の関係の仕方の問題であって、そのことが、「幻覚」であることを証するものではありません。

さて、その「知覚」ですが、それは、実際に、自分のいる部屋という物理的な「外界」を、映し取っています。そこが、「夢」との大きな違いだし、夢を見ている自覚のある「覚醒夢」というのとも、違うところです。

だたし、その「知覚」は、通常の覚醒時の「物理的な知覚」とは、また違う面もあるのです。「知覚」そのものの性質が違っているし、「知覚される対象」も、やはり、違う面があります。

この辺りが、多少、「体外離脱」を明解でないものにしていますが、しかし、それは、物理的な身体による知覚ではないのだから、違っていて当たり前だと私は思います。むしろ、物理的な身体による知覚と同じであるとしたら、それは、脳による知覚そのものということになってしまうでしょう。

具体的に言うと、まず、その「知覚」は、視界に外界の全体が満遍なく映るというよりは、特に注目したものが、図と地の「図」のように、はっきり鮮明に浮き上がって見え、その他のものは、「地」のように背景に退く感じです。また、私の場合、初めは、なかなか鮮明ではなく、色もついていない、「白黒」というよりも、「半透明」の濃淡のある感じの場合が多かったです。

この辺りは、「慣れ」ということの影響も考えられ、体験を重ねるにつれて、徐々に知覚が明確になって来るということはあるようです。自ら体外離脱を多く重ねたモンローも、そのように言っていたと思います。

外界にある知覚の対象も、「現実」と符合してはいるのですが、細部では、異なる面もあります。色だけでなく、形なども、微妙に違います。触れば、感触はありますが、「手」が突き抜けたりします。私は実際に実験してみましたが、その対象を、物理的な意味で、本当に動かすことはできませんでした。ただし、知覚としては、あるものを、動かしたという感覚が伴ったので、そのときはそのとおりできたと思っていたのですが、後で肉体に戻ったときに、動いていなかったので、面食らいました。そのような意味でも、その状態の知覚と物理的な現実との間には、食い違いが生じることがあります。モンローも、このことを指摘しています。

ただし、その体験をしているときは、外界が「現実」そのままであることの方に意識がいき、強く驚きます。細部の違いは、あまり気になりません。「食い違い」があるにしても、全体として、「現実」そのままを反映しているということが重要です。

臨死体験で、体外離脱中に、周りの状況を客観的に観察していて、医師が自分にしている施術を事細かに語ったり、窓の外など、見えない位置にあるものを見たりして、それが事実と符合することがあるのは既にみました。これなどは、外界が、実際に、「現実」を反映しているからこそのことです。ただし、そのように現実と符合する場合にも、細かな部分で、その知覚が「物理的な知覚」と同じであるかというと、そうではないと私は思います。

この辺りは、臨死体験者が、あまり明確には語ってはいないようだし、もしかしたら、通常の体外離脱と死の状況で起こる臨死体験では、違う面もあるのかもしれません。しかし、体外離脱でも、モンローを被験者にした実験で、宙に浮いて、ある特定の位置から見ない限り、中が確認できないような装置を使って実験すると、統計的に有意に、それを確認できたという事実もあります。体外離脱でも、外界と客観的に符合する知覚が得られているということです。

いずれにしても、物理的な外界と客観的に符合するかどうかは、その体験が、単なる「幻覚ではない」ということを示す意味で、重要ではありますが、それ以上に、拘る必要のないものと思います。

その体験のリアリティは、必ずしも、知覚における外界との符合ばかりから来ているのではありません。要は、そのような知覚は、「物理的な対象」そのものの知覚なのではなく、肉体から離れて、「魂」や「霊」として、「霊的な世界に踏み出した領域から知覚された限りでの物理的な対象」ということです。あるいは、そのような領域は、「物質的なもの」と「霊的なもの」が相交わる「境界領域」ともいえます。そのような境界領域を「霊界の境域」と言って、それには、独自の性質があることを、シュタイナーも述べています。たとえば、主観的な要素もまた、霊的な領域に「実体」として反映され、知覚の対象となるなどのことです。

しかし、それには、またいずれ触れたいと思います。何しろ、ここでは、肉体を抜け出たときの感覚をはっきり捉える、ということが重要です。

「肉体を抜け出る」という点では、多くの場合、肉体を抜け出て、宙に浮いているときに、自分自身の「物理的な肉体」を見て、衝撃を受けるということがあります。それが、自分が、肉体を抜け出たことを、はっきり意識するのにも影響しているのです。しかし、私の場合は、これはありませんでした。宙に浮いているときに、自分の肉体を見ようとしたことはあるのですが、そうすると、一瞬にして、自分の肉体に戻ってしまったのです。ああ、「戻ってしまった」と思って、また離脱した状態に戻りたいと思うと、その状態に戻ることができました。それで、以後、肉体を意識すると肉体に戻ってしまうので、それはしないようにしたのです。

ただ、そのように、肉体に戻ることと、肉体を離脱することを繰返したので、両者の状態の違いがよく分かるということはありました。それで、自分の肉体を見たわけではなくとも、確かに自分の肉体から離脱したということを、強く意識できたのはあります。

また、多くの人は、肉体を離脱したときに、自分が、物理的な肉体そのものとは別だが、それとそっくりの、「体のようなもの」をまとっていることを知覚します。私も、それは知覚しましたし、また面白いことに、肉体に戻ったときに、物理的な肉体とその「もう一つの体」の両者を、同時に知覚するということもありました。

「もう一つの体」は、先にみたように、「もの」に触れることはできますが、突き抜けたりもします。また、その「体」で、「もの」を動かしたつもりが、実際には動いていなかったことを述べました。これは、物理的な肉体にあるときの習慣で、その体を使って、ものに働きかけようとしても、それはうまくいかない(物理的な次元では実現しない)ということです。考えてみたら、それは当然とも言えます。これが簡単にできたら、そこら辺のもの、たとえば信号機なども、人が体外離脱して好きなように動かしたり、変えたりできるということになって、大変なことになるでしょう。

ただし、霊によって、物理的な現象が起こされること自体は実際にあることなので、霊的な状態において、物理的なものに働きかけることができないということではありません。

いずれにしても、肉体から抜け出て、「魂」または「霊」となったら、我々が通常生きている「物理的な世界」そのものから、もはや離れて、「霊的な世界」に足を踏み入れて、その世界から「物理的な世界」を知覚したり、体験したりしているのだということです。

重要なのは、「肉体」という物理的なものから抜け出ても、意識や知覚があり、それこそが「魂」や「霊」という、我々の本質的な部分を指し示しているということです。物理的な肉体の機能している状態での、体外離脱という現象だけでは、このことが十分把握できないかもしれません。が、前回みたように、臨死体験の脳波が停止した状態で起こる体験は、通常の体外離脱の場合にも、このことを十分示しているというべきです。

「体外離脱」の体験だけが、そのように、「霊」についての現実的な把握を高めるのではないですが、多くの人が体験し得る重要なものとして、少し詳しく述べました。

最後に、「霊」についての考察をもう一度振り返ります。

「霊」については、その存在を証明することはできないが、総合的に考察する限り、十分認められるということでした。「証明されない限り、認められない」という人も多いかもしれませんが、「証明されない」のは、「霊が存在しない」という見方についても同じことです。

いずれにしても、「証明」という形で、有無を言わさず、決着がつけられることはないのだから、結局は、各人それぞれが、どのように判断し、主体的に選び取るかの問題となります。それは、「証明」などによって、半ば「強制的」な形で結論が「押しつけ」られるような「解決」の仕方よりも、むしろ「建設的」なことと言えるでしょう。

現状では、全体として社会に行き渡っている見方のために、霊を認めることは難しいですが、そのような事情は、今後、少しずつでも、解消していくと思われます。現に、霊について、認められる度合いは、私が子供の頃から比べれば、断然高まっています。根底にある「オカルト的なもの」への嫌悪や恐怖は、そう簡単には解消されませんが、それでも、多く人が霊について認める余地が増え、それを体験していく人も増えるに従って、弱まっていくと思います。

霊については、「超ESP仮説」というものがあり、超常的な現象が起こったとき、霊の作用と認めるより、実験的に存在が確かめられている、超能力の作用とみるべきという考え方をみました。それは、「科学的」には、一応正しい態度でしょうが、しかし、霊の方が本質的なものとすると、むしろ見方が逆転していることになります。本来、「霊」があるからこそ、「超能力」のような物理的な法則を超えた力があり得るのです。「霊」抜きに、「超能力」のような現象を理解しようとしても、うまくいかないと言うべきです。そればかりか、本来、霊こそが本質とすれば、「物質的な現象」を、その「物質的なもの」の内部からのみ説明しようとしても、必ず行き詰まり、うまくいかなくなるでしょう。そのようなことを示唆しているのが、量子力学の諸問題だと思います。これらについても、いずれまた踏み込むことになります。

「オカルト」とは本来、「隠されたもの」の意味で、それは「物質的なもの」を含めた「存在」の根底にあるものでもありました。それに迫ろうとする場合、物質的なものの理解が深まることも重要ですが、その物資的なものを超えた、「霊的なもの」についての視点を据えることも重要です。そうでないと、「物質的なもの」の延長上にしか、「存在」を捉えることができないことになります。霊的なものを無視したり、軽視している限り、全体としての「存在」にはとても迫れないということです。

次回は、私の体外離脱の体験との関連でも、とても興味深い、一つの臨死体験の例を紹介してみたいと思います。

2018年10月20日 (土)

「霊」についての総合的考察 2

前回みたように、総合的に考察する限り、「超能力」のみならず、「霊」についても、十分認められることが分かります。しかし、現代の状況は、全体として、「霊」を認めることにはなっていません。

 

まず、その理由として、「表面的」なものをあげると、大きく、次の2つになると思います。

 

1 「科学的」には、「霊」は認められない(あり得ない)という常識が、強く行き渡っている。
2 多くの人は、「霊」というものを、現実的なものとして、捉える手立てがない。

 

「表面的」と言いましたが、決して「軽い」ということではなく、近代人にとっては、十分に「重い」理由です。ただし、その根底に潜む、真の理由が、より「重い」ということです。その理由こそ、ブログの初めに述べたように、「オカルト」的なものへの独特の嫌悪感であり、恐怖です。近代が、「魔女狩り」によって始まったと言えるほど、「オカルト」的なものを、排除しようという意思と、結びついていることは、既にみました。

 

「霊」というのも、「オカルト」的なものを象徴するといえるほど、それを代表する一つです。近代人にとって、それを認めることは、そもそも、心情的に難しいのです。それは、我々の無意識の奥底に、潜んでいるものなので、通常、自覚することはないでしょうが、強力に根を張っているのです。

 

この無意識的な意思が、強く作用している限り、たとえ、「表面的」なところで、十分の「論理的」な理由があったとしても、容易に、それを認めることはできないことになります。

 

ただし、そうは言っても、その無意識的な意思を克服するには、一種の「タブー意識」を排して、「表面的」なところからでも、それを正面から問題にして、考察することを積み重ねていくしか、ないのだと思います。

 

そこで、今回は、上にあげた、2つの理由について、検討します。

 

まずは、1の「「科学的」には、「霊」は認められない(あり得ない)という常識が、強く行き渡っている」について

 

既に、「科学的」なアプローチによって、「霊」の存在は、十分示唆されることをみました。だから、「霊」は、決して「科学的」に認められないのではないのです。まして、「あり得ない」などということは、ありません。

 

「霊」を否定するのは、「科学」そのものではなく、「(物質)科学的な方法によって、その存在を証明できるものだけが、存在し得るものである」という、「ものの見方」です。端的には、「物質的なものだけが存在する」という「唯物論」ということです。この見方による限り、「物質的なもの」ではなく、従って、物質科学的な方法で、直接捉えることのてきない「霊」などは、初めから、存在し得ないことになります。

 

「ものの見方」が「霊」を否定しているのであって、「科学」という方法そのものが、否定しているわけではないということです。

 

前に、「霊」も、物質的なものと完全に別ものなのではなく、物質的なものと結びつきながら、働いていることをみました。だから、その限りで、「科学的なアプローチ」は可能ではあるのですが、それは、直接、「霊」そのものを捉えるものではありません。(もし、「科学」で「霊」そのもののが捉えられるのであれば、それは「霊」ではなく、何らかの、「未だ解明されていない物質」の一種ということになります。)

 

ただ、そのようなアプローチの結果、間接的に、霊の存在を想定した方が、論理的に整合的になるということで、「示唆」されるということに過ぎません。「霊」については、恐らく、「証明」ということは、不可能と思われます。というより、どうすれば、「証明」したことになるかという共通の理解を得ることは、無理ということです。

 

「(物質)科学」は、「存在するもの」を、数学的、客観的な法則として捉えて来たので、多くの人に、共有することができ、しかも、その法則を、実際に、技術として応用することができます。この点で、「物質科学」は、多くの人に、共通の理解と利便をもたらし、人間を取り巻く、「存在するもの」が、人間によって、コントロール可能なものと思わせてくれました。だから、「存在するもの」のすべてが、「物質科学」によって捉えられると思うことには、大きな理由があります。

 

しかし、本来、そのような保証は、どこにもないものです。そのように望むのは、人間の側の都合であり、あるいは一種の思い上がりでしかないと言うべきです。

 

そして、実際に、そのような発想により、もともと、文化的に共通に認められていた「霊」なるものを、「存在するもの」から「排除」したのです。「霊」は、数学的、客観的な法則として捉えられるものではなく、曖昧なもので、何よりも、人間のコントロールが効かないと思われるものです。そのようなものは、科学が、「存在するもの」すべてを、説き明かしてくれることを期待する者にとっては、「邪魔もの」だったということです。

 

このようなことは、単に、一般の「常識」というだけでなく、「科学者」の考え方としても、当たり前のようにみられるものです。それを象徴するのが、そのような「科学的に捉えられないもの」を知覚したというときに、必ず持ち出される、「幻覚」という見方です。

 

前回、臨死体験の場合にも、科学者の主流は、「幻覚」とみなすことを述べました。

 

「幻覚」とみなす見方は、「科学的に捉えられない」すなわち、「一般的に共有できない」形の知覚がなされたとき、それがある脳の活動と結びついていることが判明すると、それは脳が生み出した「幻覚」とみなすものです。臨死体験の場合は、脳の活動が停止した状態でなされることがあるので、その「幻覚」とみる説すらも、成り立たなくなります。しかし、そうでなくとも、人間が生きている限り、ある知覚が、脳の活動と結びつくことは当たり前なので、脳の活動と結びついていることが、「幻覚」の根拠となるものではありません

 

(逆に、脳の活動と結びつくことが「幻覚」の根拠となるなら、いわゆる「唯脳論」がいうように、すべての知覚は、脳が生み出した、「幻覚」の一種ということになるべきであり、それなら、一貫していると言えます。)

 

脳波活動のある場合の「臨死体験」や、臨死状態とは別に起こる、通常の「体外離脱」についても、脳の活動と結びついていることが、「幻覚」であることの根拠となるものではないということです。

 

この点は、「霊」なるものがあるとしたときに、「脳」とどのような関係にあるのかという問題となり、いわゆる「心脳問題」とも関わる、厄介な問題なので、いずれ改めて検討します。(「体外離脱」の場合については、次回にも、少し触れるつもりです。)

 

いずれにしても、「幻覚」とされることの根拠は、それが「科学的に捉えられない」ものについてであることであり、「一般に共有することのできない」ものであることの方なのです。初めから、「科学的に捉えられないもの」を「排除」する限りで、成り立つものの見方だということです。「結論」が既に「前提」として、先取りされているのであり、一種の「トートロジー」(循環論法)ということです。

 

このような見方は、「科学」の内部においても、かなり一般化されているのであり、それによってこそ、科学の「権威」が保たれているところがあるのです。

 

このように、「霊」なるものが、「科学的には認められない」とか「あり得ない」というのは、それ自体、一つの、かなり偏狭な「ものの見方」であり、本来、「科学」的な見方とは、とてもいえないものと言うべきです。

 

次回は、理由の2の点について、検討します。

2018年10月14日 (日)

「霊」についての総合的考察 1

前回みたことから、科学的な「証明」はできないにしても、「肉体」とは独立して、死後も存続すると考えられる、「魂」または「霊」のような存在があるということは、十分示唆されることが分かると思います。

特に、臨死体験の事例で、脳死判定後、脳の活動が停止した後に起こる、鮮明で一貫した内容の体験は、強くこのことを示唆するといえます。

ただし、もちろん、それによってすぐさま、臨死体験の内容、特に、境界を超えて、既に死んだ人と出会ったり、光の存在と出会ったりするなどの内容が、「真実」のものとなるということではありません。

臨死体験において、「肉体」から独立して働く、「魂」または「霊」のような存在を、最も強く指し示す要素は、「体外離脱」の体験というべきです。肉体から、意識及び肉体とそっくりな「(霊的な)体」が抜け出して、外界を知覚するという体験です。この体験こそが、肉体を離れて、独自に存在する「魂」や「霊」の存在を、本人の主観においても、客観的にも、最も直接に指し示しているのです。

本人の主観というのは、実際に、肉体を離れても、現に働く意識や知覚が、「現実のもの」として明白に感じられるからで、その点は、次回にも、少し詳しく述べます。実際、多くの臨死体験者が、その体験内容を「真実」のものと感じ、死後の存在を確信するようになるのは、この離脱の体験のリアリティこそが基礎になっています。

客観的にというのは、前回もみたように、その離脱の状態で知覚する外界の状況が、医師が患者にする施術の詳細など、現実のものと符合するというのが、典型的なものです。

このように、臨死体験において、体外離脱は、重要な位置を占めますが、実は、体外離脱そのものは、必ずしも、臨死状態と結びついて起こるわけではありません。日常において、いくらでも、自然発生的にも起こり得るのです。私が、記事『私の体験から』で述べた体験というのも、このようなものです。有名な、ロバート・モンローのように、自らの意志で、自由にこの体験を起こせる人もいます。モンローは、「ヘミシンク」といって、音響効果を利用して、体外離脱またはそれと類似の意識状態を引き起こす方法も開発しています。

臨死体験は、「死に臨む」という、特別な体験であり、誰もが生きている間に、普通に体験できることではありません。しかし、「体外離脱」そのものは、その気になれば、割と誰もが、体験できるものなのです。臨死体験での体外離脱は、死後も存続する「魂」や「霊」を示唆しているわけですが、だとすれば、「魂」や「霊」は、生きている間にも、肉体や脳と関係しながら、常に存在しているはずで、それが肉体から抜け出すということが起こっても、不思議はないわけです。

実際、そのような体験の例は、多く積み重ねられていて、興味深い事例も多くあります。日本では、坂本政道という人の研究が有名でしょう(『「臨死体験」を超える死後体験』など参照)。

超心理学においても、先のモンローなどを被験者として、体外離脱状態の特異な知覚について、興味深い研究がされています。ただし、それが、「魂」や「霊」そのものが、本当に肉体から抜け出して起こった体験かということを、「証明」することはできません。肉体から抜け出したといっても、肉体が生きて機能している限り、脳波等の活動が止まるわけではないので、脳から独立した体験と確かめることは困難だからです。離脱状態での知覚は、「魂」や「霊」を持ち出さなくとも、「ESP(超能力)」によって説明し得るという考えも、ネックになっています。

ただ、この点では、臨死体験において、脳活動が停止した状態で起こる、体外離脱の事例が、一般的な、体外離脱においても、示唆をもたらすといえます。臨死体験における体外離脱が、脳から独立したものであることが示されるなら、一般の体外離脱も、そのようなものである可能性があるからです。

いずれにしても、体外離脱状態の意識状態や知覚は、臨死体験以外でも、多くの人に、日常的に体験し得るもので、「魂」や「霊」というものがどういうものかを知る手がかりとして、非常に重要なものなのです。そこで、これについては、次回にも、さらに述べることにします。

前回、もう一つの科学的なアプローチとして、「前世記憶」の研究をあげました。こちらは、臨死体験のように、死の状態に関わる体験ではなく、過去の「記憶」として、詳細に内容を語ることで、生まれる以前にも、その者と同一性をもった「魂」や「霊」などの存在があった可能性を示唆するものです。

あくまでも、「記憶」として語られるものなので、「魂」や「霊」の存在を示すものとしては、臨死体験よりも弱いと言えるでしょう。「記憶」というのは、外部的な形で植えつけられる可能性もあるという点も、考慮されなければなりません。たとえば、「心臓移植」などによって、その移植した本人の記憶ではなく、臓器を提供した者の記憶と解されるものが、喚起されるという現象があります。(https://matome.naver.jp/odai/2138917667091407001?&page=1 参照)

これなどは、臓器の、たとえば細胞などに蓄えられた記憶が喚起するというよりも、臓器にまとわれた「気」のような媒体(オカルト的には「エーテル体」)に貯えられた記憶が、移植によって喚起されたものと考えられます。そうすると、前世記憶のようなものも、他者から、物質的な媒体はなくとも、霊的なレベルで、何らかの形で移植された記憶という可能性も、考えられないわけではありません。

しかし、前世記憶が非常に詳細な内容をもち、本人のものと強く意識されて、語られることや、その人物が受けた身体的な痕跡まで、生まれたときから、同じように移ることがあることを考えると、本人と同一性あるものとして受け取る方が、自然であるとは言えるでしょう。さらに、「中間生」の記憶なども合わせると、「前世」と「中間生」ということで、本人と同一性のある、「魂」や「霊」の記憶として、十分一貫した内容にはなります。

この「前世記憶」の事例も、少なくとも、臨死体験とは違った観点から、「魂」や「霊」の存在を、強く示唆する現象には違いないでしょう。

このほかに、前回あげたものとしては、霊媒による霊界通信などの現象もあるわけですが、それはそれで、霊の存在を示唆するものが多くあります。また、内容からいっても、これまでみてきた現象とも、十分符合するものがあります。さらに、一般でもよく体験されるような、幽霊体験などを合わせると、少なくとも、死後も同一性をもって存在する、「魂」や「霊」のような存在を示唆する現象は、数限りなくあるということになるでしょう。

さらに、「総合的な考察」ということでいうと、「超能力」の場合に述べたように、他の文化によって、どのように捉えられているかという点も、重要な視点です。しかし、それは、超能力のところでも述べたように、「霊」というものがあり、それこそが人間の本質であることは、近代社会以外の、ほぼどの文化でも、共通の認識です。また、人間の霊ばかりか、他の「神々」や「精霊」のような存在も、当然のように認められています。その、「魂」や「霊」というのも、ただ漠然と信じられているというのではなく、前に述べたように、いくつかの具体的な要素に分けられるなど、その構造や性質についても、非常に詳しく述べ伝えられます。(たとえば、佐々木宏幹著『シャーマニズム』や、藤村久和著『アイヌの霊の世界』など参照)それは、まさに、近代人の知る、臨死体験や体外離脱の体験の事例からみても、十分符合するものなのです。

このような視点から、総合的に考察する限り、肉体から独立して、死後も存続する、「魂」や「霊」が存在するということ自体は、もはや十分過ぎるほど、認められると言わなければならないと思います。ただし、その「魂」や「霊」の性質がどのようなものなのか。死後も同一性をもって存在するといっても、その「同一性」とは、どの程度のものなのか。それらは、「生まれ変わり」をするものなのか。それらは、消滅することなく、永遠に存在し得るものなのか、といった点は、不確かなことで、別に考察する必要があるものです。

しかし、そうは言っても、事実上の問題として、残念ながら、近代において、このようなことは、まだまだ一般に認められることではありません。それには、「科学」や、その他のものの見方についての、近代に特有の事情があることも事実です。それについては、既に多くのことを語ったつもりですが、次回は、その点を含めて、もう少し考察を進めたいと思います。

2018年9月29日 (土)

「霊」についての科学的アプローチ

歴史的経緯

 

今回は、「霊」について、科学的にアプローチしたものをとりあげます。

 

前々回、超能力については、「超心理学」という学問があることをみました。超心理学は、超能力について科学的に研究する学問ですが、それは、もともと、霊について科学的な研究をしようとする心霊科学」(スピリチュアルリサーチ)から、始まったものです。

 

西洋で、19世紀頃、死者との交信などの心霊現象を起こす霊媒が多く現れて、交霊会も頻繁に催され、多くの者の注目を集めることになりました。科学者や心理学者、作家などさまざまな分野の著名人も注目して、霊について科学的に検証しようという機運が高まりました。そこで、「心霊科学協会」が設立され、科学的な研究が始まったのです。参加した者には、シャルル・リシェやウイリアム・クルックスなどのノーベル賞級の科学者や、心理学者ウイリアム・ジェームス、哲学者ベルグソン、作家のコナン・ドイルなどもいました。

 

しかし、霊媒の起こす現象は、かなり気まぐれで、研究の方法を確立するのは難しく、ときにトリックであることが判明することもありました。超能力者を対象とする研究も、難しい問題があることをみましたが、霊媒については、さらに難しい事情があります。

 

霊媒が、霊のもたらす情報を語ったとしても、霊は「生きている者」ではなく、「既に死んだ者」であって、間違いなく、その者がもたらす情報かどうかを確認する方法が確立できないからです。

 

「クロスコレスポンデンス」(霊が何人かの霊媒に情報を分断して伝えて、一人の者では意味をなさず、全体で始めて意味をなすような内容となる交信方法)など、多くの工夫もなされ、確かに霊によるものと思わせるだけの、肯定的な結果も出ているのですが、「決め手」には欠けることになります。また、その死者しか「知らないはず」の情報が得られることも多くありましたが、他の何らかの方法で霊媒がそれを知る可能性は排除できず、その「証明」となると非常に困難です。

 

しかし、「証明」ということは別にすれば、死者や高級霊とされる霊が語る霊界通信の内容には、驚くほどの一貫性があって、とても作為的に作られたとは思えないものも多くあります。霊や霊界について、かなり踏み込んだ内容の、興味深い事実が知られることもあるのです。

 

そういうことから、霊界通信の内容自体を重視し、「科学的な研究」ということからは離れて、「霊」そのものを「物質的なもの」とは別に存在する価値あるものと認めて、生きるうえでの糧にしていこうとする立場も現れて来ます。それが、何度か触れて来た、「スピリチュアリズム」(心霊主義)の始まりです。

 

一方で、あくまで、「科学的な研究」ということを重視する立場もありました。その中には、死者と交流する霊媒を対象とするのでは、厳密な研究はできないということで、生きた者の現す超能力現象を研究対象とするべきだというものも出て来ます。それが、実験的な「超心理学」の始まりとなるのです。

 

この辺りの、歴史的経緯については、前にもあげた、超心理学を概観する、このサイトが簡単に説明していますので、参照してください。(超心理学講座・超心理学の歴史 (meiji.ac.jp)   )

 

ところが、既にみたように、超心理学によって、「超能力」の存在が明らかにされると、それは霊の存在の証明についても、難しい問題を追加しました。超能力があるということになると、霊媒が語る内容が真実である場合にも、それは、霊が語ったのではなく、霊媒が、超能力によって得た情報である可能性があるからです。超能力は一応とも証明された能力とすると、科学的には、証明されていない霊の存在より、優先して採用されなければなりません。さらに、本来、超能力は、限界の想定されるものですが、「超ESP仮説」といって、普通は起こり得ないような込み入った内容の情報や物理的な現象でも、超能力で得られた(なされた)ものとみなすべきという考えも出て来ます。そうすると、事実上、どのような現象でも、霊ではなく、霊媒が超能力で起こしたものとみなければならないことになり、霊の証明自体が、不可能となります。

 

これは、極端な例ですが、そうでなくとも、やはり、霊の存在を認めることは、超能力の場合以上に、難しい事情にあるということです。

 

ただし、超心理学の内部にも、霊や、あるいは人間の死後生存の問題を研究することを志す人たちはおり、超能力のように、厳密な実験的方法は無理としても、可能な限り科学的なアプローチで、迫ろうとするものがあります。これらは、それなりに、多くの成果をあげ、いわば「情況証拠」的な積み重ねをもたらしています。

 

たとえば、テレビなどでもよくとりあげられる、「臨死体験」の研究や、イアンスティーヴンソンを初めとする、「前世の記憶」を語る者の研究などです。

 

研究の成果の概要

 

このような科学的アプローチの成果を、ざっとみていきたいと思います。

 

臨死体験


「臨死体験」は、人が死に瀕するときに体験する、特異な体験です。人により、様々な内容がありますが、大枠で、共通する要素があり、肉体から意識が離脱する、体外離脱、人生を一瞬にして振り返る、走馬灯体験、三途の川や壁などの、ある「境界」との遭遇、既に死んだ者との遭遇、光の存在との遭遇などがあります。日本でも、昔から、民間で、死ぬときに体験する現象として、語り伝えられていたものと多く重なります。それが、現代は、病院で死を迎えることが多くなって、その間際の体験というのが、立ち会った医師にも知られることが増えたことが、科学的な研究の可能性をもたらすことになりました。

 

たとえば、体外離脱では、肉体は臨死状態でも、肉体から抜け出した意識が、その場をはっきりと観察していて、医師が自分に施した手術などの内容を事細かに語るということがあります。当然、医師はそれを聞いて、驚きます。さらには、その者が病室で見れるわけがない、病院の別の階の窓の外にあったシューズのことを、体外離脱中に見て、詳細に語ったという例もあります。

 

このように、臨死体験は、個々的に、様々な内容がありますが、核となる共通の要素があるので、全くの作り話とか、単なる幻想とは言えません。また、先にみたように、物理的な事実と符合する内容を含むことがあるので、ただの幻覚ともいえないものです。そのようなことから、できる限り科学的に、多くの事例を解析して、人間の死後生存の問題や、霊の存在について、何らかの結論が見出されることが期待されるのです。

 

もっとも、これらの体験が、すぐさま、人間の死後の存在や、霊の存在を証明することにならないのは当然です。これらの体験が事実としても、それはあくまで「死に臨した」状態の体験であって、「死後の体験」そのものではないということもあります。臨死の状態では、脳の活動は停止しておらず、体験の内容も、脳の危機的な状態が生み出した、何らかの幻覚という可能性があります。たとえば、酸素の供給不足の状態が脳に幻覚をもたらすことや、側頭葉の刺激により、臨死体験と類似の幻覚が生み出されることが、実験的にも分かっています。だから、科学界の主流は、これらの体験を、事実とは認めず、幻覚とみます

 

しかし、自動車事故などで、脳を大きく損傷し、とても意識が機能する状況ではないのに、鮮明な内容の体験を報告する例もあります。さらには、脳死と判定され、脳波の活動も停止した状態で体験された臨死体験も、かなり報告されています。そのような状態では、幻覚を見ることや、記憶が残ることも不可能のはずで、脳の活動から独立した意識の働きが、想定されなければ、説明がつかないことになるはずです。また、たとえ、何らかの微弱な脳波の活動は残っていたとしても、その状態で、臨死体験のような、鮮明で、一貫した内容の体験が可能とは、とても思われません。

 

このような、脳活動停止後の臨死体験について、斎藤忠資という研究者が、ここに、簡潔にまとめています。(https://home.hiroshima-u.ac.jp/tadasi/ronbun-12.pdf )

さらに、先に見たような、体脱体験中に、物理的現実と符合する事実を報告するなどの例は、とても幻覚では説明できません。ただし、これも、肉体から離脱した「魂」によるのではなく、「超ESP仮説」のように、一種の「超能力」のなせる技である、と解する立場もあるのですが。

 

何しろ、「科学的」に厳密にいうならば、現在のところ、臨死体験が意味することについて、明確な結論は出ていないというしかないでしょう。ただし、科学界の主流は、先にみたとおり、臨死体験を、脳が生み出した幻覚とみなします。しかし、それでは説明できない場合が、あまりに多くあるのは明らかというべきです。

 

こういったところが、臨死体験の研究の概要ですが、臨死体験の例は、現在も非常に増えていて、かなり興味深い例も出て来ています。次回は、それも紹介しつつ、私なりに考察を試みたいと思います。

 

前世記憶の研究


次に、「前世記憶」の研究です。

 

後に、7,8才位になると、自然と記憶を失ってしまうことも多いのですが、幼年期に、「前世の記憶」を思い出して、詳細に語るという現象があります。欧米や日本など、輪廻転生または前世が信じられていない文化では、それも、何かの間違いとして、特に注目されずに、やり過ごされてしまうことが多いでしょう(ただし、最近は、注目されることも多くなっています)。ところが、インド圏のような、輪廻転生が信じられている文化では、その現象に注目され、実際にその語ることが、事実と符合することが確かめられるという事例も、多く存在しています。

 

バージニア大学のイアン・スティーヴンソンは、そのような「前世の記憶」を語る子供の例を、できる限り科学的に研究することで、事実に迫ろうとしました。そして、実際に、前世の存在を仮定するのでなければ、説明がつかないという事例が、多く存在することを明らかにしています。(『前世を記憶する子供たち』 21.8 角川文庫版が出版されていることに気づいたので報告しておきます。)

 

前世の記憶として語られた内容が、事実に符合するといっても、何らかの方法で、その子供がその事実を知ったという可能性は、当然あります。たとえば、親や親族などが、自分では覚えていなくとも、その前世とされる者のことを過去に語っていて、子供が何らかの仕方でそれを記憶していた、ということなどが考えられます。しかし、そのように、親や周りの者が、通常の仕方では知り得ないような内容のことを、詳細に語って、後に特別の調査により、事実と符合することが分かったという事例も多く存在します。

 

『超心理学読本』の著者である、笠原敏雄が、このようなスティーヴンソンの研究の概要を簡単にまとめたものが、ここにあります。( 前世の記憶を持つ子どもに関する研究について (246.ne.jp) )

 

スティーヴンソンの研究を引き継ぐタッカーは、より調査のしやすい、欧米の子供の例においても、詳細に前世の記憶を語る子供の事例を報告しています。たとえば、アメリカの事例で、第二次大戦時に、戦闘機に乗って戦闘に参加したが、日本軍により撃ち落とされたという記憶を詳細に語る、ジェームズ君の事例があります。これは、その記憶の内容を疑う父親により、詳細に事実関係が追究されて、逆に真実と符合するものが多くあることが判明したというもので、非常に興味深いものです。たとえば、ここに、その事例が紹介されています。(前世を科学的に検証するタッカー博士 と 前世の詳細な記憶を持つ少年 〜前世が存在する決定的証拠〜 - シャンティ・フーラの時事ブログ (shanti-phula.net) )

 

このようなものは、もはや単純に、記憶錯誤とか、潜在的に知り得た記憶を語ったに過ぎないなどの説明は、つかないでしょう。ただし、「前世の記憶」であると結論するのは、「前世」ということの意味内容が、十分具体的で明確でないこともあり、難しいのも確かでしょう。

 

ただ、最近は、「前世」ではなく、「中間生」と呼ばれる、死んでから、生まれ変わるまでの間の、(霊界での)生についての記憶を語るというものも、出て来ています

 

記憶を遡る退行催眠によって、「中間生」の記憶が語られるというものもあって、その内容にはみるべきものがあるのですが、その場合には、術者の影響が入り込んでいる可能性を排除できません。しかし、自然に思い出して「中間生」の記憶を語る例もあり、日本でも、産婦人科医池川明は、そのような事例を多く体験し、紹介しています。(『子どもは親を選んで生まれてくる』。なお、講演の動画 「子供は親を選んで生まれてくる」 池川明先生講演会。胎内記憶の原点。 - YouTube )

 

このような「中間生」というものが間にあるとすると、死後の生との関係で、「生まれ変わり」とか、「前世」ということについて、ある程度一貫した、具体的なイメージをもつことも、可能かもしれません。

 

いずれにしても、いきなり「前世」の存在そのものを認めることは難しくとも、これら「中間生」や「前世」の記憶というものが、自分のものという明確な意識のもとに、詳細に語られ、事実と符合することもあることを考えると、死後も何らかの形で、同一性をもって残る、「霊」または「魂」のようなものを想定することには、十分の理由がある、とは言えると思います。

 

以上、「臨死体験」と「前世記憶」という2つの研究について概観しました。これらは、今後の研究においても、さらなる発展が見込まれるもので、注目されるところです。

 

次回は、これらを参照しつつ、さらに「霊」について総合的に考察してみたいと思います、。

2018年9月13日 (木)

「霊」とは何か

「霊」の見方

 

「霊」は存在するのでしょうか。しかし、「霊は存在するか」と漠然と問うても、そもそも「霊とは何か」というのは、結構難しい問題です。この場合も、「存在する」とはどういうことか、ということが問題となります。少なくとも、「物質的なもの」と同じ意味で、「存在する」というのではないことは明らかだからです。

 

とはいえ、あまり、このような問題に拘るのも、得策ではありません。以下、一通り、「霊」の意味するところを、みておくことにしましょう。

 

「霊」は、辞書でみると、「たましい」、「魂」、「精神」を意味するとされています。まあ、これは、「心の深くにあると想定される何らかの実体」というものを、広く漠然と指す意味に解してよいでしょう。

 

しかし、普通は、「霊」というと、人間の死後、その者の生前の特徴をもって現れ出る「霊」、すなわち「幽霊」のことを指すと思われます。「霊」は、人間の死後も、つまり、肉体がなくなった後も残る何物かであることが、前提とされているのです。先の、「心の深くにあると想定される何らかの実体」というのとも、「死後にも残るもの」ということで、通じることになります。「霊」は、死後は消滅する、「肉体」とは区別されるものという意味を、特にもっているということもできます。

 

同じような意味合いで、「魂」という言い方もよくされますが、「霊」と「魂」は、本来は同じ意味ではなかったようです。それは、中国でも、西洋(「スピリット」と「ソウル」)でも同じです。

 

そもそも、このような、人の心にある「実体」を、「一つのもの」のようにみなすのは、近代人の発想に過ぎません。人には、一つのまとまった、分割できない「自我」がある、という発想です。しかし、たとえば、古代エジプトでも、「霊」には、「バー」と「カー」という二つのものがあり、中国でも、「魂」と「魄」という二つのものがあるとされていました。そして、「バー」や「魂」は、天に帰り、「カー」や「魄」は、地に帰ると解されていました。

 

「バー」や「魂」は、より肉体から離れた、純粋に「精神的」要素の強い「霊」の部分で、「カー」や「魄」は、より肉体に近い、(「物質そのもの」ではないが)「物質的要素」の強い「霊」の部分ということがいえます。「魂」と「魄」で言えば、「魂」は「陽の気」で、「魄」は「陰の気」ということもいわれます。

 

さらに、先住民の文化やアイヌなどでは、「霊」には、二つどころか、多くがあり、かなりややこしいものがあります。ただ、もともと、生まれながらに多くあるというより、後に、「憑く」という形で、取り込まれるものもあるようです。

 

シュタイナーなどの「オカルト」説では、「霊」「魂」「体」の三分説というのが
よくいわれます。「霊」というのは、純粋な「意識」の部分で、「魂」というのは、「霊」と「体」をつなぐ、中間的な部分、「体」というのは、「肉体」的な部分です。ただし、この「体」は、「物質的な肉体」に限らず、「エーテル的」、「アストラル的」なものが、あるまとまりをなして、まとわれるという形の、「体」も含みます。

 

このように、肉体以外の「体」を認めるわけですが、一般に、幽霊などが目撃されるときも、生前の肉体とそっくりの「体」をまとっていることから、理解できると思います。「幽体離脱」などでも、肉体にそっくりの体が離れるということが言われ、また、体験者には、そのとおり実感されます。

 

何しろ、「三分説」では、これらの「霊」「魂」「体」の三部分が、互いに絡み合って、全体として人間の個体を、構成しているとみるのです。

 

いずれにしても、「霊」とは、単純に「一つのもの」とは言えないということを、確認しておくことは必要です。近代人には、違和感があるでしょうが、自分の中にも、相入れない心の要素が多くあること、「多重人格障害」などの例でみるように、多くの人格が現れ出ることもあることを顧みれば、納得できないことではないでしょう。

 

とすれば、「死後に残る霊」といっても、必ずしも、一つのものとは限らないわけです。また、「スピリチュアリズム」においては、「類魂」と言って、死後の魂は、同じ魂のグループに融合すると解するものがあります。この場合は、むしろ、死後の霊が融合して、生前のような、一つのものではなくなる可能性があるわけです。

 

また、「霊」は、一つのものではないとすると、自分の中の、一部の霊が、生きている間にも、「抜け出る」ということもあり得るわけです。「生き霊」といわれるものがそうで、それが他人に憑くということもあるとされます。

 

「物質的なもの」と「霊」

 

先に触れたように、「霊」というのは、「肉体」つまり、「物質的なもの」に対する言葉ということも、重要な視点です。前に、スピリチュアリズムは、「物質的なもの」に対抗する意味合いをもって、出て来たことを述べました。まさに、「物質」ではなく、「霊」をこそ重視するからです。

 

ただし、「物質的なもの」と「霊的なもの」が、画然と区別されるかというと、そんなことはないのです。

 

たとえば、「幽霊」というのも、物質的なものと同じように現れることがあります。『呼び覚まされる 霊性の震災学』でも、まったく普通の乗客と同じように、しゃべり、触れることができるので、タクシードライバーが、メーターを倒して普通に載せると、途中で消えてしまったという「幽霊」の話が載っています。私も、経験がありますが、見かけ上、まったく生きている、普通の人間と変わらない幽霊もあるのです。ただし、いずれ、消滅したり、既に死んでいる人であることが分かることから、「幽霊」と判明するのです。

 

「物質的なもの」と「霊的なもの」が、画然と区別されるかのようにみなす発想も、近代に始まるといえます。デカルトの「物心二元論」というのが、その象徴でしょう。スピリチュアリズムも、科学など、物質的なものについての知見が重ねられて、「物質的なもの」というのがある程度明確になって、初めてそれに対抗する「霊的なもの」が、重要なものとして認識されたということができます。

 

ところが、近代以前には、「霊的なもの」といっても、「物質的なもの」と明確に区別されず、不可分のようにみなされていたのが分かります。それは、「物質」についての知見が、あまりなかったからということもありますが、しかし、全体としては、より真実そのままを捉えていたことになります。

 

先の、「バー」と「カー」や「魂」と「魄」の発想も、そのような「物質的なもの」と結びついた「霊的なもの」をはっきりと認める発想です。

 

しかし、「霊的なもの」が「物質的なもの」のように現れ出ることがあることを、理解するには、「霊的なもの」と「物質的なもの」の関係を、ある程度はっきりさせておくことも必要でしょう。

 

いずれ詳しくみますが、簡単に述べておくと、シュタイナーなどの「オカルト説」では、「霊的なもの」が「物質的なもの」を包含し、「霊的なもの」が凝縮されて、「物質的なもの」として現れ出るという発想をします。先の、物質的なものとして現れる幽霊も、そのような見方によって、理解できます。幽霊以外にも、ポルターガイスト現象や、ラップ音など、物質的な現象を起こす「霊」は多くありますが、それにも、同様の発想ができます。スピリチュアリズムでは、「エクトプラズム」という、半物質的な霊的エネルギーを使って、「物質化」がなされると解します。

 

人間以外の存在と「霊」

 

しかし、人間に「霊」というものがあり、死後も残るのだとしたら、人間以外のものにも、そのような霊がある可能性があることになるはずです。それは、人間以外の動物ということに、とりあえずはなります。しかし、人間の霊が、肉体がなくても、霊だけで存続できるとすれば、もともと肉体がなくても、霊だけで存在しているものもいるのではないか、ということが問題となります。

 

実際、昔からいわれた、人間以外の「精霊」や「神々」「妖怪」なども、そういった存在です(先にみたように、「物質化」して現れることはあります)。一神教にいう「神」もまた、そういうものともいえます。「霊」を認めるとなると、このような、昔から信じられた存在を、認める可能性も出てくることになります。というより、「霊」を認めるなら、人間だけにしか認めないという方が、むしろ不自然なことになるでしょう。

 

「霊」が「存在する」ということ

 

初めに述べたように、このような「霊」が「存在する」とした場合、それは、「物質的なもの」と同じ意味で「存在する」ということではありません。たとえば、幽霊の場合、姿かたちが、一部分だけだったり、半透明に透けていたり、大きく変形していたりと、「物質的なもの」では不可能な現れ方をしたりします。また、先にみたように、「物質的なもの」と同じ現れをすることはあったとしても、いずれ消えてしまうなど、「物質的なもの」そのものとはみなせないことになります。

 

このようなものは、「物質的なもののみが存在する」という見方からすれば、「存在する」とはいえないものとなるでしょう。逆に言えば、「霊」を認めるということは、「物質的なもの」とは別のものが「存在する」ことを、認めるということです。「存在する」ということの意味合いそのものに、大きな変更を加えることになるということです。「世界観」としても、大きな変更になるのは、当然のことでしょう。

 

ただし、「霊」も、「物質的なもの」と結びついている範囲で、科学の対象にはなり得るとも言えます。実際に、霊についても、科学的にアプローチしようという試みは、超能力の場合と同様に、あります。次回は、それについてみることにします。

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