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2021年4月28日 (水)

科学とオカルトに関する2冊の復刊本

科学とオカルトに関わる重要な本で、品切れになっていた本が、最近文庫化されて復刊されているので、紹介しておきます。

 

1 村上陽一郎著 「科学史・科学哲学入門」 (講談社学術文庫) ( 旧『科学・哲学・信仰』(第三文明社レグルス文庫))

 

著者は、著名な科学史家で、科学史と、「近代科学」とは何かということを概略的に述べたものです。明解で分かりやすく説明されていると思います。

 

「近代科学」とは、普遍的なものではなく、「西洋近代」という文化的な文脈のもとに出て来た、一つの「ものの見方」であるということ。従って、それは、実質的に、「哲学」や「信仰」と異なるものではない、ということが趣意となります。

 

直接オカルトと関わるわけではないですが、「技術」と結びついた、「科学技術」というものは、「魔術」との関わりで生じているので、もともとの出自は、大きく関わるものがあります。

 

この辺りは、記事『「魔術」と「科学技術」 』でも述べたとおりです。

 

もう少し詳しく言うと、近代科学は、「聖俗革命」によって生まれたということが一つのポイントです。注意すべきは、「聖俗革命」とは、単純に、「聖なるもの」が「俗なるもの」に取って代わられたということではありません。自然と人間を峻別し、自然を超越する唯一の神を認める、キリスト教のような一神教的な背景のもとに、その「神」の位置が、「人間」に取って代わられたということです。

 

つまり、自然と人間を峻別する発想、自然を超越した唯一絶対の神が、唯一の法則のもとにすべてを統べている、というような西洋文明独自の発想は、「聖俗革命」の後も受け継がれ、それが近代科学の発想のもとになっているのです。

 

ただ、「神」の位置が、人間へと取って代わられ、人間が、神の万能の理性に発する「知」によって、その法則を捉えつつ、自然を知り、操作するのが、「科学」という営為だと考えられたのです。

 

この辺りも、先の記事で、要点は述べています。

 

「科学」は、一つの「ものの見方」ですが、このような一神教的な発想のため、他のものとは違って、唯一の正しいものと見做されやすいのです。それが、他の見方を排除するように作用しやすいし、「オカルト」的なものを否定する見方にも、それは反映されています

 

しかし、実質は、一つの「ものの見方」である以上、「哲学」や「信仰」といったものと、本質的に区別できるものではないということです。

 

ただし、もちろんですが、だからと言って、そんな「科学」は無意味だとか、役に立たないということには、なりません。

 

「科学」を、一つの「ものの見方」として、相対化して捉えたうえで、その有用性を認めて(その範囲を確定することは必要かもしれません)、役立てて行くことはできることです。

 

 

2 河合隼雄著 「宗教と科学の接点」 (岩波現代文庫)

 

そもそも、ユングは、目に見えない「オカルト」的なものを、「普遍的無意識」という形で、心理学に取り込んでいました。日本におけるユング派の心理学者であった、故河合隼雄氏も、科学によって、「オカルト」的なものを否定する一般的な見方に対して、科学との接点は意識しつつ、「オカルト」的なものにも目を向ける発言をよくしていました。

 

また、この本出版の当時は、「ニューエイジ」や、「ニューサイエンス」という、これまでの物質主義的な発想を超える、新たな発想が広がりつつありました。そのような背景もあり、この本では、正面から、かなり大胆に、そのような「宗教と科学の接点」に関わることを、論じています。

 

内容としては、「たましい」や「死」、「共時性」などがとり挙げられています。どれも、このブログとの関わりでも重要な事柄と言えますが、特に、「共時性」について、かなり詳しく分かりやすく解説しているのが、記事『共時性(シンクロニシティ)」-概観と重要性』以降の記事との関わりで、重要です。

 

「たましい」については、必ずしも、「魂」という実体としてではなく、内界(心)と外界(自然、物質)の奥で、両者を結びつける働きとして、(明確には分からないながらも、そのままに)仮定しておくことを提案しています。

 

内界(心)と外界(自然、物質)が、意味において結びついて起こる「共時性」についても、そのような「たましい」による「布置」と、みることができます。記事でも述べましたが、注意すべきは、それは(通常、外界がそうであるように)単純に、原因と結果の関係で、つまり「因果律」で結びつくのではないということです。

 

これを、因果的に解釈してしまうと、「偽の因果律」となって、「魔術」的因果論になってしまうことが、例を挙げて示されています。たとえば、古来、彗星の出現と帝王と死が共時的に起こることが注目されましたが、これを、彗星が現れたから、帝王が死んだ。あるいは、さらに、彗星が現れると、帝王が死ぬという風に解釈すると、「偽の因果論」になるのです。

 

しかし、実際に、「共時性」現象に出会うと、我々は、どうしても習性で、因果的に解釈することで、落ち着けようとしますから、これは、本当に注意していなければならないことです。

 

さらに、これも記事でも述べていますが、「共時性」は、その現象をどう受け止めるかという、「主体的な関わり」こそが重要となることが強調されます。それを偶然ではなく、共時性と受け止めることによって、主体のコミットメントが生じ、自己を取り巻く「世界」との関わり方も、変わるのです。

 

さらに、「共時性」は、内界と外界の結びつきによって起こる現象ですから、主体(内界)がどう受け止めるかによって、現象の方も変わって来るということが言えます。

 

総じて言うと、我々は、「我々の心から切り離された(客観的な)外界」という発想をもって、通常外界をみていますが、それが、通用しなくなるのが、「共時性」現象とも言えます。「内界と外界の結びつき」に気づかせてくれる現象ということです。

 

また、このことは、先の1でみた、「人間と自然が峻別される」ことを前提とする、近代科学の発想が、実際には、普遍的なものではないことを露わにするものとも言えます。

 

このような発言を続けられていて、かなり影響力もあった、河合氏が亡くなったことは、日本にとって、大きな痛手となったことを、改めて感じます。科学とオカルトは、最近ますます分断され、やみくもに対立するのみで、両者の接点を問題にできる人が、ほとんどいなくなっていると思うからです。

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