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2020年10月

2020年10月 1日 (木)

「共時性(シンクロニシティ)」-概観と重要性

「共時性(シンクロニシティ)」もまた、「オカルト」にとって、基本的で重要なことがらの一つてす。割と誰でも体験するものでありながら、それが意味することは、「オカルト」にとって、深く重要なことを指し示してもいるからです。

「共時性(シンクロニシティ)」とは、一般に、「因果的にはつながりがない、意味において関連する複数の出来事が、同時的に起こること」です。「意味のある偶然の一致」などとも言われます。

「偶然の一致」と言われますが、偶然とはとても考えられないものを含みます。つまり、物理法則の範囲を超えた、「超常的」な出来事の一とみなし得るのです。だからこそ、強く印象づけられることにもなります。それで、この現象は、通常の物理法則を超えたもの、つまりは、「オカルト的なもの」を、意識させるきっかけにもなりやすいのです。

「超能力」についての記事でも触れましたが、誰かのことを考えたら、ちょうどその人から、電話が来た、とか、あることについて気にかけていた(知りたいと思っていた)ら、ちょうどそのことが、読んでいる記事などに載っていた、などのことは、割と誰でも頻繁に経験することでしょう。

ただ、この概念を提唱した心理学者のユングは、初め、この現象を、一般的なものではなく、深層心理的な関連のもとに起こる、特別な意味合いのものと考えました。個人的な無意識の奥にある、「普遍的無意識」が活性化したことにより、その象徴的(元型的)な意味が、外界と結びついて、特別に現れ出たものとしていたのです。それは、「聖なるもの」といった感覚に近く、人生の方向性においても、大きな示唆をもたらすものです。

たとえば、ユングが治療していた患者が、古代エジプトの神話的な存在である「黄金虫」の夢を見て、とても印象的だったことをユングに話していると、ちょうどそのとき、それと似た黄金虫が、治療室の窓を叩いて来たということがありました。2人はそれに驚きますが、以後、それをきっかけに、(その象徴的な意味合いのとおり)治療が進んだということです。

しかし、ユングは、晩年、弟子から、「共時性は、内界と外界が共時的に結びついていることから、必然的に起こるのではないか」という指摘を受けて、それを認めることになりました。つまり、「共時性」そのものは、特別の現象ではなく、内界と外界の結びつきとして、常に起こっている、一つの「原理」ということです。

(物理的な)「外界」では、時間的な原因と結果の関係で示される、「因果律」という原理が働きます。しかし、心的な「内界」と「外界」の関係は、時間的な因果律ではなく、つまり、どちらかが原因となるというものではなく、意味において、同時的に、「共時性」の原理で、結びつくものとしたのです。

「外界」あるいは「物質的なもの」と、「内界」あるいは「心的なもの」が、どのような関係にあるのかというのは、古来からの哲学的問題でしたが、それに一つの解答をもたらすことにもなっています。

現代に行き渡る、通常の「唯物論」では、「物質的なもの」が、「心的なもの」の原因とみなされます。特に、「脳」が、「心的なもの」の原因とされることになります。反対に、「唯心論」では、「心的なもの」こそが、「物質的なもの」を作り出した原因とされます。この見方も、現代にも、かなり根強く残っています。

ところが、「共時性」の原理は、「物質的なもの」でもなく、「心的なもの」でもなく、その奥には、それら両者を超えた働きがあり、それが両者を、意味において同時的に結びづけているとするのです。

それは、とりあえず、「心的なもの」と「物質的なもの」の、どちらかが原因となるわけではないですが、「意味」において結びつくのですから、「心的」な要素が、主要な位置に来ることは明らかです。ユングとしては、個人的な意識や無意識ではなく、「普遍的無意識」または、それを通して「元型」という、個人を超えた、超越的ともいえるものが、働くことを想定したわけです。しかし、「心的なもの」一般もそれに関わる以上、次回以降にみるように、そこに、個人的な思考や意識が、関与するという可能性も、十分考えられることなのです。

それは、スピリチュアルの方面で、いわゆる「引き寄せの法則」とか、「思考が現実を作る」といわれることに、関わってくるのです。

さらに、「心的なもの」が、「物質的なもの」と、「共時性」の原理で結びついているということは、「内界」も「外界」も含めた、あらゆる存在が、本来一つのものとしてつながっていることを、示唆しています。「心的なもの」が、単に個人の意識や無意識ではなく、普遍的なものとすれば、一見切り離されているように見える、個々の人も、また、その普遍的なものを通して、我々の知覚する個々の物質も、本来、一つにつながっているということになるはずなのです。

このことは、やはり、スピリチュアルの方面で、すべては「一なるもの」(ワンネス)として、つながっている、といったことに関わって来ます。

このように、「共時性」の原理は、理論的な面でも、「オカルト」に関わる、さまざまな問題を引き起こします。

しかし、「共時性」に関しては、何よりも、実際的な面が重要です。

そもそも「内界」と「外界」が「共時的」に結びついているのであれば、外界において、内的な意味と結びつく事柄が同時的に起こることは、それほど不思議ではないことになります。従って、誰でも、また、頻繁に起こり得ることになります。

同時に、それは、特別に、重要な意味をもつものとは、限らないことにもなるのです。通常は、「偶然の一致」ということで、顧みられない出来事の多くが、実際には、「共時性」の現れということは、常にあり得るのです。また、我々が、普通「運」と呼ぶものも、「共時性」の一つの現れということに、十分なり得ます。

つまり、実際に、我々が、多く体験する事柄、日常的に体験しているが、普段顧みない現象が、実際には、そのような、「オカルト的なもの」と関わる現象である、という可能性があるということです。通常は、唯物的な発想のため、覆い隠されていますが、「共時性」に着目することで、「オカルト的なもの」が、意外と身近なものであることが、改めて認識されると思います。

ただし、このような「共時性」は、ユングが考えたように、プラスの面だけでなく、マイナスの面もあることには注意が必要です。

ボジティブな意味で、内界と外界が結びつき、それが現象をアレンジするのはいいですが、反対に、ネガティブな意味で、内界と外界が結びつき、それが現象をアレンジする場合には、その意味にかなった、ネガティブな現象が生起します。しかも、往々にして、人は、ネガティブなことがらにこそ囚われ、感情的にも巻き込まれて、それを循環的に繰り返し、そこから逃れ難くなりがちなのです。

具体的には、次回以降にみますが、こういったいわば不幸の連鎖は、割と起こりやすいことであり、それを避けるためにも、「共時性」への注目は、必要なことと思われるのです。

また、「共時性」は、先にみたとおり、因果律ではなく、原因と結果の関係ではないのですが、因果的な解釈に慣れている我々は、往々にして、この現象が起こったとき、因果的に原因と結果の関係で解釈しがちです。そうすると、たとえば、心に思っていることが、何事か、または誰かを通して、まさに現れ出たような場合、自分の心が(盗聴などの方法で)読まれている<から>、そんな現象が起こったのだと、被害妄想的な解釈をすることにつながります。

あるいは、逆に、自分が思っていることがらが、まさに外界にも。何らかの形で現れ出たようなとき、自分には、特別の「力」がある<から>、そのような現象を起こせたのだと、誇大妄想的な解釈をしてしまうことにもなります。

さらには、先にみたように、「共時性」は、内界と外界がつながっているために起こるのですが、この現象は、確かに、内界と外界のつながりを意識させ、それらが切り離されているという、それまでの認識からは、異常で逸脱した事態と感じられます。それは、恐ろしいことでもあり、「閉じられた」ものとしての自己が、安定的な基盤を失って、いわば周りに拡散したり、あるいは、周りから操作されるというような、不安定な状態をもたらします。

これらは、統合失調との関わりを連想されるでしょうが、まさにそのとおりで、統合失調という、予期せぬ、「霊界の境域」への侵入状況は、「共時性」が頻繁に起こる状況でもあるのです。そこで、「共時性」をそれと認識して、それに必要以上に囚われないようにするためにも、「共時性」については、ひととおりの知識を得ておく必要があると思われるのです。

今回は、一通り概観するにとどめましたが、次回以降は、さらに具体的に、こういったことにも踏み込んでいきたいと思います。

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