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2020年6月 3日 (水)

「捕食者」という存在の実質と限界

しばらく間があいてしまいましたが、今回は、「捕食者」という存在の実質と限界について述べようと思います。

 

「捕食者」という存在については、前回、基本的なことを大体述べましたし、プログ『狂気をくぐり抜ける』の方でも、「狂気」をもたらす大元ということで、何度もとりあげ、相当つっこんだ解説をしています。たとえば、前回もあげたように、記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』 、『捕食者」という理由』などがあります。ですので、前回の記事と、それらを参照してもらえば、十分理解できることとは思います。

 

ただ、何度も言うように、「捕食者」という存在は、「オカルト」の基本にとって抜かせない重要な事柄なので、こちらでは、より一般的に、分かりやすく説明したいと思います。

 

前回みたように、「捕食者」とは、「我々が発する意識のエネルギー、特に「恐怖」や「不安」などのネガティブな感情的エネルギーを食料源にしている存在」です。そして、その「恐怖」や「不安」などの感情的エネルギーを絞り取るため、社会的にも、個人的にも、さまざまな働きかけをしています。その働きかけは、戦略的で徹底しており、人間からすれば、冷酷そのものです。それは、「恐怖」や「不安」などのネガティブな感情をもたらすことに向けられていますから、当然、人間にとって、「恐ろしい」こと、「不安になる」ことが仕掛けられます。

 

そのために、人間は、楽しく、喜びにあふれた生を送りたいと思っても、そうはならず、ネガティブな感情から、逃れることができないでいるのです。

 

我々は、そのような働きかけを「悪」として、「破壊」を意図するもののように解してしまいますが、そうではなく、「恐怖」や「不安」という感情そのものを生み出すことを意図しているのです。我々にとっては、まずは、それに気づくことが、決定的なことであり、彼らという存在についての、本質をつかむことになります。そして、彼らを、殊更怖がることからも開放される、というより、それでも怖がることは、進んで、彼らの餌食になろうとすることに他なりません。

 

人間は彼らの食料源ですから、人間を破壊してしまうことは、彼らが望むことではありません。ウイルスのように、人間に「寄生」しているということであり、あるいは、「依存」していると言ってもいいです。つまり、そこにこそ、彼らの大きな限界もあるのです。これについては、また改めて述べることがあろうかと思います。

 

何しろ、彼らが、言って来ることや、仕掛けて来ることは、徹頭徹尾、「恐怖」や「不安」という感情を生み出すための「戦略」なのであって、真実のものでも、特別に意味があるものでも、ありません。「恐ろしい」ことでも、「不安をかき立てる」ことでも、それらを本気にしたり、真に受ける必要はないということです。(ただし、完全なウソ、虚偽だけでは、効果を発揮しにくいので、真実が交ぜられるということはあります。みかけは、真実を含むものであることも多いので、注意が必要ということです。)

 

それにしても、このような存在の仕掛けなど、想像もつかない。具体的にどういったものなのかと、いぶかるかもしれませんが、前回も述べたように、既に現在の高度産業社会そのものが、そのような仕掛けによって、できあがっている社会です。

 

貨幣、金融等の経済的な制度、教育やメディアを通しての社会的洗脳、物質主義的な価値観や医療システムなど、全てが、人間の支配層を介しているとはいえ、彼らのもたらした仕掛けと言えます。あるいは、最近もしょっちゅう問題となる、戦争やテロ、大掛かりな事故、さらには、自然現象とされてしまいますが、一部の地震や異常気象、そして、現在の新型コロナウイルス騒動もそうです。つまり、我々が、日々周りにみているもの、既に前提としてあるものの多くがそうなのです。

 

これらは、それによってもたらされる直接の害悪よりも、不安や恐怖を煽ること自体が意図されているのです。こういった事柄は、一つ一つが決定的なまでの破壊的効果を生むというよりも、何かが来たら、次は何と、次々に起こされ、一向に休まる暇もなく、収束しないことに気づかれると思います。そのように、継続的に恐怖や不安の種を発生させ続けることこそ、彼らの戦略なのです。

 

個別的なところで言うと、私が体験したような、霊界の境域での遭遇や、「声」を通しての働きかけがあります。これらは、必ずしも、「捕食者」そのものではなく、某かの霊的存在を通してなされることが多いですが、その背後には、彼らがいることも多いのです。執拗な、攻撃的内容、暗示的なほのめかし、幻覚的現象の創出などが多いですが、どれも、恐怖、それも尋常でない恐怖を、継続的にもたらすことが図られています。

 

最近では、「集団ストーカー」という現象もそうで、「声」とは限らず、通りがかりの人間などを利用して、様々な「嫌がらせ」的な仕掛けがなされます。最近は、「統合失調」のような、古典的な仕掛けから、このような方法に移行していることも窺わせるものです。

 

ただし、このような個別的な働きかけも、決して、特別な者に特別に仕掛けられたというものではなく、本当は、誰にも、なされているものです。ただ、多くの場合、それを意識することがほとんどない、というだけなのです。意識することがなければ、意識レべルで恐れることもないですが、 無意識レベルでは、何らかの反応が生じている可能性が高いです。少なくとも、何らかの、ネガティブな思考のもとになっていることが多いのです。

 

こう言っても、現在ほとんどの人が、このような存在を認めないでしょうが、既に、人間は、いやというほど、このような存在の支配下にいるのです。それでも、このような存在を否定することは、私には、皮肉を通り越して、滑稽にすら思われます。ただし、既にみたように、唯物論的な発想そのもの、従って、彼らの存在を知られないように「隠す」ことも、彼らの戦略の一部なので、その戦略がよく効いている結果とはいえます。

 

先に、「捕食者」としての、彼らの本質をつかめば、それほど恐れることはないと言いました。それは、本当であり、彼らの戦略から逃れる第一歩です。しかし、彼らには、人間を超えた力や、狡猾な知性があるのも事実です。そして、現に、そのような存在に、いやというほど支配されて、どうしようもない状態にいる現状は、まともに認識する必要があります。そこから脱することは、決して容易なことではないのです。これについても、また改めて述べたいと思います。

 

既に述べたところから、「捕食者」という存在は、特定の固有の存在というよりも、「捕食者的な型」をもった、ある一群の存在ということが分かると思います。その意味では、シュタイナーのいう「アーリマン存在」と同じです。実際、両者は、重なるところが多いです。これらは、「霊的な存在」とみられると同時に、次元を超えた「宇宙人」とみることもできます。「レブティリアン」というのが、その典型です。

 

ただし、「レプティリアン」説で有名なデーヴィッド・アイクも、最近は、「レプティリアン」(爬虫類系の宇宙人)を特別視することから離れて、それも、元々の「大いなる認識」から逸脱した、「捕食者」的な存在または原理の、一つの現れに過ぎないという見方に変わって来ています。もちろん、そちらの方が正しいと言うべきです。

 

このように、「捕食者」という認識が、まだまだ少ないとはいえ、一定程度広まって来ていることは、望ましいことと言えます。

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