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2020年3月25日 (水)

「悪魔」という捉え方の問題

記事『様々な「霊的存在」― 特に「悪魔的存在」 』で、物質的身体をもたない、霊的な存在には、人間以外にも多くの存在がいること。そして、その中には、当然「悪」なる存在もいることをみました。また、それらは、物質的な次元とは、次元を異にする、「宇宙人」として捉えることも可能であることをみました。最近では、「レプティリアン」とか「オリオン人」といわれる存在が、これに当たります。

 

これらは、現実に、我々の世界に強く働きかけているからこそ、問題にする意味があるので、単に抽象的に存在するか否かなどと論じることに、意味があるわけではありません。

 

特に、現代の状況は、このような存在による影響が、かつてないほど強まっている時代と言えます。このことは、様々な方面で言われますが、度々とりあげるシュタイナーも、現代は、特に、「アーリマン存在」という、悪魔的存在に支配される時代といいます。

 

アーリマン存在は、物質的なものの背後で、(つまり「霊界の境域」から)働きかける存在で、本来、霊的な存在である人間を、物質的、機械的なものへと貶めようとします。産業革命以後の「技術」は、アーリマン存在によって、(インスピレーションを通して)もたらされたとものとされます。物質的なものが極限にまで発達し、あらゆるものが機械化された、現代の高度産業社会は、端的に、「アーリマン化した社会」ということが言えるのです。

 

また、これまで、「霊界の境域」 について、かなり詳しくみて来たのは、そこでは、アーリマン存在の働きかけが、個々人への個別的な働きかけとしても、強力になるからです。

 

私も、「霊界の境域」に、予期せずも入り込み、そこで、さまざまな存在と遭遇しましたが、特に、この存在から強い働きかけを受け、酷い恐怖や混乱を味わいました。しかし、その時点で、霊的なものの存在することは、十分肯定していた私も、このような存在がいるということは、なかなか信じ難く、認め難いものがありました。このような存在を、それとして認めるのには、相当の時間がかかっています。

 

ですから、一般に、このような存在が信じられないものであることは、よく分かります。

 

しかし、この経験を通して、私自身は、その存在を、疑いの余地なく、明白に、知ることになったのだし、それを通して、そうでなければ得難い、多くの知識を得たのも事実です。

 

そして、現代は、我々の世界そのもの、つまり、この「物質的な世界」という枠組みそのものが、大きく揺らいで、霊的な世界との混交をもたらしつつある時代です。だから、「霊界の境域」というのは、何も特別な状況ではなく、我々のこの世界そのものが、そのように化しつつあります。多くの人が、個別的なレべルでも、このような存在と出会う可能性が、高まっているということです。

 

そのような状況では、この存在のことを知ることは、是非とも必要なことになっていると思います。既に述べましたが、私が、「スピリチュアル」ということよりも、「オカルト」を重視するのも、このような存在の強い影響を、意識してのことです。

 

この存在については、これまでにも、多くのことが、言われて来ました。特に、近代以前には、むしろ、このような存在が存在することは、多くの人に、「常識」として知られていたのです。そして、それは、多くの場合、「悪魔」という呼ばれ方がしていました。特に、一神教の世界では、善なる「神」に対立するものとして、そう呼ばれ、非常に恐れられるとともに、「おどろおどろし」く、奇怪なイメージも、大きく膨らまされて来ました。

 

既にみた「魔女狩り」も、そのような見方が一般に浸透していた背景に、起こったことです。

 

しかし、この「悪魔」という捉え方は、多くの点で問題と思います。

 

このような存在が、人間の側からみれば、「悪」として意識されることは本当です。しかし、その「悪」は、どうしても、人間の側がもつ観念の押しつけでしかなく、その存在自体の本性を、明らかにするものではありません。

 

また、それは、時代や文化によっても、大きく移り変わるものです。特に、一神教の文化圏では、善なる「神」ということを強調し、または宣伝するためにこそ、「悪魔」の観念やイメージが、膨らまされて来たことがあります。それは、ことさら、「おどろおどろしい」ものとされ、恐怖や敵意をもつように誘導され、神への信仰へと向けさせるのに利用されたということです。

 

「魔女狩り」というのも、そのような教会や異端審問所の大きな働きかけのもとに、起こっています。

 

ところが、非一神教的な文化圏や先住民文化では、「悪魔」や「魔」という捉え方がされるにしても、それは、「悪」の視点一辺倒ではなく、ときに、共同体の秩序を保ったり、成長を促す、「善」なる働きも認められています。つまり、「両義的」な面があるのです。これは、より「真実」に近い捉え方と言っていいですが、やはり、その文化の「悪」の観念に捕らえられているところがあることは、否定できません。

 

実際に、このような存在に出会うという状況から言っても、「悪魔」という捉え方、特に、一神教的な影響を受けた捉え方では、ことさら、恐怖や混乱を深めることにしかならないと思います。その存在そのものというよりも、「悪」という観念や「悪魔」についてのイメージによって、自ら押し潰されてしまうということです。

 

私自身、このような存在が、「悪魔」である可能性をみてからは、そのような傾向が強くありました。このような存在が、現に自分がみたとおり、世界を牛耳っている状況では、地球は終わると思ったし、私自身、永遠に地獄に捕らえられると思いました。

 

また、前々回の記事でみたように、モーバッサンの『オルラ』も、自ら、自分のもった「悪魔」的な観念に、押し潰されてしまったよい例です。「境域の守護霊」と思われる「オルラ」に対して、多分に、実質、これまで「悪魔」としてみられて来たものを、「投影」してしまったからです。

 

これらは、本当に、人間の側が、この存在に出会ったときに、(やむに止まれず)もたらしてしまうことなのであって、この存在そのものから、明白に露になったものではありません。この存在そのものの実質は、そう簡単に、露になるものではなく、初めは、何しろ、人間にとって、「未知なる存在」としてしか、受け止めようのないものです。そのうえで、徐々に、時間をかけて、見極めて行くしかないものということです。

 

ところが、このように、「未知なる存在」として、そのまま受け止めるのは、人間にとって、容易なことではありません。どうしても、自分が既にもっている、観念やイメージを押しつけることで、とりあえずの「理解」を得ようとします。

 

そのようなときに、「悪魔」という観念は、決して「真実」を明らかにしないばかりか、その場の状況としても、恐怖と混乱をもたらすだけで、建設的な働きをしないのです。

 

シュタイナーも言っているように、このような存在は、それと出会ったことにより、初めて、存在したのではありません。既に、ずっと存在していたものを、たまたま、そのとき、自分も知ったというに過ぎません。それが、どんなに「恐ろしい」ものと思ったとしても、既に、その存在の働きかけのもとに、(「知らぬが仏」で)自分もそれまで、「普通に」生きて来たのです。その状況は、その存在を現に見、知ったからと言って、急に変わるものではありません。

 

つまり、このような存在がいるといっても、ことさら、恐怖したり、混乱したり、大変なことと、騒ぎ立てたりすることは、意味のないことということです。「悪魔」という捉え方は、そのようなことに、拍車をかけるだけです。 

 

そこで、私は、これからは、これらの存在を、これまでの観念やイメージから離れて、新たに捉え直す必要があると解します。そして、それらは、「捕食者」として捉えることが、適当と考えています。ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方では、既にこれについては、相当詳しく、述べていますが、次回はこれについて述べることにします。

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