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2020年2月14日 (金)

「境域の守護霊」を通して知る「生と死」の意味

前回までに述べていませんが、「境域の守護霊」との出会いの重要な意義の一つに、「生と死」の意味を知るということがあります。「境域の守護霊」との出会いを通して、「死と生」の意味が、これまでとは違った相貌のもとに、新たに、浮かび上がるのです。

 

物質的な身体をもってこの世に生きる以上、我々には必ず、「死」というものがつきまといます。我々の「生」には、必然的に「死」が伴っているのです。それは、「生きる」ということの意味を、問わしめることにもなります。

 

しかし、物質的、感覚的な「この世」のみが存在するものである、と思っているとしたら、この「生きる」ということの意味には、どうしても確たるものを見出し難いと思います。

 

ところが、「霊界の境域」の体験、あるいは「臨死体験」など、何らかの霊的な体験をすると、我々は、我々の本質が物質的なものではなく、霊的なものであることを知ることになります。それは、この世的な意味の「死」が、すべての終わりを意味するのではないことを、知らしめてくれるのです。

 

しかし、そうすると、今度は、また違った意味で、「生と死」の意味が、問われることになります。我々は、本来、霊的なものであるにも拘わらず、なぜ、あえて物質的な身体をもって、死を先に見据えつつ、この世に生きることになるのか、ということです。

 

「境域の守護霊」には、「底知れない」面があると言いましたが、それは、まさに、「死」そのものを体現しているかのようです。実際、「境域の守護霊」との出会いは、「死」を間近に迫るものとして意識させ、その「死」を通して、「死」の意味を知らしめる、という面があるのです。シュタイナーも、「境域の守護霊」は、「死の天使」でもあると言っています。

 

前回みたモーパッサン(『オルラ』の主人公)も、「オルラ」との出会いにおいて、強烈に死を意識し、最後には、「自分自身が死ぬのだ」という言葉を残しています。(モーパッサンは、実際に、その後精神を患って病院に入院し、まもなく、死んでしまったようです。)

 

この出会いは、単純に、「死」の意味を考えるということでは、とても適わない、実際の「死」の体験を与えてくれます。ただし、その間近に迫る「死」を、どのように通り越すかは、我々自身にかかっています。モーパッサンのように、「境域の守護霊」の認識がない場合、混乱と恐怖によって、それも、難しいことになるかもしれません。

 

しかし、その「死」の体験を通り越すことができれば、我々はその体験から、「死」の意味をくみ取り、同時に、「生」の深い意味を、新たに蘇らせることができることにもなります。

 

とは言え、このような「死の意味」や「生の意味」は、重層的な「深み」をもっているので、とても、一義的に、言葉で言い表せるものではないでしょう。あるいは、一種、「直感的」なものとて、認識されるに止まることも多いでしょう。

 

しかし、ここでは、シュタイナーが、「境域の守護霊」を通して得られる、「生と死」の意味として述べている、決定的な要素をあげておきます。まず、「死の意味」ですが、シュタイナーは、端的に次のように言います。

 

死とは、かつての超感覚的な世界が、もはや自分自身によってはそれ以上前進できない地点にまで到達してしまったことの表現以外の何ものでもない

 

超感覚的、霊的な世界と言えば、この世的な苦悩とは縁のない、楽で自由な世界というイメージもあるでしょう。ところが、決してそうなのではなく(というより、むしろそうであるからこそなのですが)、結局は停滞し、にっちもさっちも行かず、行き詰ってしまった。そのことこそ、「死」の起源であり、後にまで引きずる、「死」のモチーフというのです。それは、この世においてではなく、霊的な世界においてこそ、生じたということなのです。

 

そして、そのように行き詰った霊的世界は、全体としての「死」を避けるため、新たに、感覚的、物質的な世界への移行を必要としたのです。それは、なぜ、霊的な世界から、この感覚的、物質的な世界が創造されねばならなかったのか、ということの端的な説明ともなります。同時に、初めにあげた、本来、霊的な本質をもつ人間が、なぜあえて、この世に生きなければならないのか、ということの端的な答えともなるものです。つまり、それこそが、新たに蘇る「生の意味」ということです。

 

シュタイナーは、人間が、この感覚的な世界で必要な能力を獲得し、不完全さを克服して、自らを完全なものとして完成させることが(この感覚的な世界を超え出るというだけでなく)、停滞した霊的な世界をも、全体として、進化、発展させることにつながなると言います。これは、既にこれまで述べて来た、「境域の守護霊」を通して示される、自己を完成させるという道そのものですし、それこそが、「境域の守護霊」との出会いの意義そのものなのです。

 

「境域の大守護霊」は、自己のみを、感覚的世界から解脱させようとする方向は、「黒い道」として、牽制することを述べました。このようにみて来ると、それも頷けるものとなると思います。自己のみが、感覚的な世界から解脱して、霊的な世界へと進んだとしても、それたけでは、このような霊的な世界全体の停滞の解消と発展には、資すものではないからです。自己のみではなく、あくまで、感覚的な世界の全体が、そこを超え出て、霊的な世界全体を発展させるのでなければなりません

 

私も、シュタイナーが述べているこのような、「生と死の意味」には、概ね同意しますし、「境域の守護霊」との出会いのときに、すぐさま同じような認識を得たわけではないですが、確かに、似たような認識は持ちました。

 

この体験をする前は、この世から逃げたい志向が強く、霊的な世界にも「憧れ」に近いものがありましたが、この体験を通して、霊的な世界にも、行き詰まりや「死」があることは感じ取りましたし、この世に生きることの意味が、新たに自覚されることにもなりました。

 

シュタイナーも、

 

感覚的に把握しうる世界の本当の価値が、修行以前よりも、もっと深く認識でき、評価できるということは、霊界に参入した者の体験内容のもっとも重要な部分である

と言っています。

 

ただ、私は、シュタイナーとまた違った観点として、「境域の守護霊」は、単に「死」というだけでなく、むしろもっと根源的な「虚無」、「闇」または「無限」を反映するものでもあるということをも、感じ取っています。「境域の守護霊」の「底の知れなさ」は、まさに、そのような根源的なものを反映するところから来ていると思うのです。

 

そうすると、「死」の意味合いも多少変わって来るのですが、しかし、それは、ややこしくなるので、ここでは述べず、また機会があれば述べることにします。

 

なお、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方では、このような「虚無」「闇」または「無限」について、かなり詳しく述べ、それは、最後に触れた問題にも及んでいますので、興味ある方は、そちらを参照ください。

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