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2020年1月30日 (木)

境域の守護霊との出会い―私の場合と「オルラ」の例

今回は、「境域の守護霊」との出会いの実際の例として、私の場合と、モーパッサンの小説『オルラ』に描かれた、「オルラ」の例をみてみます。

 

私の体験は、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『 12 初めの「引き金」体験 』から、『22 「闇」ないし「虚無」との接触』までに詳しく述べられています。「境域の守護霊」のことは、記事『14 「幻聴」から「幻視」へ』当たりから、述べています。

 

記事では、この存在のことを、「背後の存在」と呼んでいます。実際、場所としては、自分の背後にいるものとして感じることが多く、また、常に自分と近しいものであることは感じていました。ただし、常に背後にいたわけではなく、別の場所で、遭遇したこともあります。

 

ある時期から、その存在を直に「感じる」、「声を聞く」ということは、しょちゅう起こっていましたが、姿形を視覚的に「見る」ということは、それほど多くはなかったと思います。

 

シュタイナーは、「妖怪じみた姿」として出会われると言いますが、確かに、映画『ゴーストバスターズ』に出て来るゴーストのような、不気味な姿で現れることはよくありました。一方、私自身の昔の姿(ただし、身長は1メートル少しかない)で、出会ったこともあり、何と、当時普段着として愛用していたウインドブレーカーを着ていました。

 

もちろん、恐ろしい面はあるのですが、私の場合、恐怖をそれほど感じなかったのには、明白な理由があります。それは、この存在との出会いに先だって、他の存在が、明らかに他者的で、悪魔的な存在として、現れ出ていたからです。(記事では、「アール」及び「ルーシー」と呼んでいます。)そのような存在との出会いが、明白に恐怖をもよおすものだったので、それとの対比で、それほど恐怖を感じることなく済んだということです。

 

私は、いろいろ攻撃を仕掛けて来る、他者的な存在を、「敵」とみなしていて、それとの対比で、背後の存在を、「味方」とみなす、というより、決めつけていました。そのような恐ろしい状況では、(さらに敵を増やすことなどしたくなく)とても、そうしないではいられなかったというのもあります。

 

しかし、既にみたように、常に「自分に近い」ものを感じていた、言い換えると、どこか「安心できる」ものを感じていたのは事実です。ただし、自分自身そのものではないのは明白で、はっきりと、自分とは別である、一つの生きた存在ということは、意識させられます。

 

「声」としても、自分が言いそうなことを言うのではないし、性格等も、かなり違います。恐ろしい面はありますが、非常に、いたずら好きな、「トリックスター」的な面があり、ユーモアがあるのです。「アニマ」と呼んだ、妖精的な存在も、よく一緒にいたのですが、その存在とは、よく子供のように戯れていました。

 

ある意味、「愚か」でどうしようもない風でもありますが、私は、それを、「余裕」と解していて、このような存在が味方ならば、きっと大丈夫だ的な見方もしていました。かと思うと、前回の記事でもみたように、非常に高貴で、崇高な面が背後に透けて見えることもあるのです。これは、「大守護霊」としての面が、現れ出ていたと思われます。何しろ、容易には捉え難い、多面的な存在なのです。

 

多分、私も、このような存在と、初めに出会っていたら、恐怖の方が先だっていたと思います。実際に、後に、悪魔的な存在とは、ある程度「決着」がついて、それほど怖いと思わなくなった頃には、この存在の、「底の知れなさ」のようなものがみえて来て、逆に、こっちの方が恐ろしくなって来たということがあります。他者的な存在を呼び寄せたのもこの存在で、むしろ、実質的に支配さえしているのではないかという疑いも持ちました。

 

私は、当時は、「境域の守護霊」などというものは知らなかったし、「自分自身が生み出した存在」とも思っていませんでした。ただ、繰り返すように、「自分自身に近しい存在」というのは常にあったのと、ある種の「守護霊的な存在」というのは、希望的にも、持ち続けていました。しかし、いずれにせよ、実際には、「分からない」としか言いようのないもので、その「分からなさ」が、恐怖をもたらす面は、常にありました。(これは、当時出会っていたすべての存在について言えることですが、この存在については、特にそれが言えるのです。)

 

今現在はと言うと、この存在については、やはり、シュタイナーのいう「境域の守護霊」というのが、ピッタリ来ます。何か、他の存在というよりも、やはり、私自身の生み出した存在で、過去と未来の、自己の全体を反映するものということで納得ができます。やはりこれも、他の他者的な存在と比較することで、なし得る認識ということができます。

 

シュタイナーは、「境域の(小)守護霊」は、自らが導かなければならないと言いますが、私は、ほとんどそれができてはいませんでした。と言っても、決して振り回されたのではなく(これも、他者的な存在に十分振り回されていたので、この存在については、そうならなかったに過ぎない面がありますが)、一種「傍観」するような感じでいたことが多いです。

 

ちなみに、この「境域の守護霊」は、現在も身近に存在しているし、声を聞くことも多いです。ただ、相変わらず、一種「傍観」するようなことが多く、私から働きかけることはほとんどないし、向こうも、特に私に対して、どうこうしようということもないような関係です。恐ろしい面もほとんどなく、かといって、特に高貴な面を見せるでもなく、とても安定していると言えば言える状態です。

 

今後、どのように発展して行くかは、未知数ですが、ともに、成長に向かっていると信じたいです。

 

次に、モーパッサンの「オルラ」の例をみてみます。

 

モーバッサンの怪奇小説『オルラ』は、「境域の守護霊」との鬼気迫るような出会いを、迫真的に描き出しています。モーパッサンは、実際に精神を患って、入院したのですが、この「オルラ」との出会いは、事実に基づく部分が多くあると感じます。私の例との対比でも、とても興味深いものがあります。

 

モーパッサン(以下「主人公」)は、ある時から、非常な違和感とともに、何かある存在が身近にいて、自分を乗っ取ろうとしているような感覚に襲われます。そして、その姿が見えるわけではないですが、水を入れておいた水差しに、水がなぜかなくなっていたり、食事を置いていた机から、なぜか牛乳だけなくなっているような体験をします。主人公は、とても怯えますが、何か他の見えない存在がそうしたのだとはとても信じ難く、自分が夢遊病状態に陥ったのだとして、納得しようとします。

 

また、バラ園に行くと、自分が持ったわけでもないのに、バラが一輪上に持ち上げられて、目の前でもぎ落とされるのをはっきりと見ます。主人公は、非常に驚き、恐れますが、これも幻覚なのだとして何とか納得しようとします。ところが、もはや自分の意志というものが失われていき、何者かに乗っ取られている感覚は、疑いないものとなって来ています。

 

その後、あらゆる超自然的存在について、調べるべく、本を読んでいましたが、うとうとしていると、机の上の本が勝手にめくれていくのを、はっきりと見ます。そして、もはやこのときは、自分ではなく、他の見えない存在が本を読んでいるのを、はっきりと感じ取ります。そして、その存在が、自分のことを「オルラ」と名乗ったように感じます。

 

それは、かつて「地の精、生霊、神霊、仙女、妖怪」など、あらゆるおぞましい形で呼ばれていたものですが、その実態がつかめていなかった存在です。しかし、こうして自分の前に現れた「オルラ」は、もはや人間にとって代わる存在で、人間が牛や馬に対してしていたように、人間を所有し、奴隷にし、しかも食するものと感じます。

 

主人公は、この存在を殺さない限り、自分が殺されると思いますが、この存在には体がないので、殺すことはできないことに気づきます。そして、最後に、「ということは自分自身が死ぬのだ」という言葉を残して、この小説は閉じられます。

 

この「オルラ」は、非常に恐ろしいものに仕立て上げられていますが、多くの点で、私の場合と共通するものがあります。主に、「背後にいる」ように感じられるのも、いたずら好きな、「トリックスター」的な面も、私の場合と共通しています。主人公は、「自分を乗っ取る」と言っていますが、実質、自分と近い存在のはずなのです。

 

主人公は、このオルラについて、初めは、漠然と存在を感じるだけですが、それに、様々に想像を膨らまし、また、いろんなものを投影して、とても恐ろしいものに仕立て上げてしまったのです。

 

しかし、実際に、この存在が、主人公に仕掛けたことをみてみると、それは、超常的なものであるのは確かとしても、ある種「ユーモア」に満ちた、トリックスター的な「悪戯」というべきものが多いのです。

 

水差しの中の水や牛乳だけを、なぜか飲んだり、バラを持ち上げて主人公の前でもぎ落としたり(これらは、主人公の意志を読んで、先取的に行ったものと解せます)、あらゆる超自然的な存在のことの書かれた本を、自らが読むというのも、皮肉を含んだ、「悪戯」的な行為と言えるでしょう。

 

ただし、私も、このような存在を、近くに感じるだけで、恐ろしいのがよく分かるし、他者的な存在が、明白に現れ出ていない分、この存在に、恐怖する面が一身に浴びせられ、さらに、「悪魔的」な存在の性質まで、投影されていたのが分かります。

 

私も、先に他の存在に出会っていなかったら、これに近いことになっていたような気もします。

 

ただ、このような結果に陥ったのは、「オルラ」が何かしたからだと言うよりも、主人公が、自ら恐怖に突き動かされて、思考と想像を膨らませて、「自爆」して行ったのです。自分に近い存在ではなく、完全な他者的な存在として、自分を乗っ取るものと思ってしまったからです

 

このような存在を、「境域の守護霊」として認識できることが、いかに重要なことかが分かるでしょう。

 

しかし、それは、まさに、「境域の守護霊」としてみれば、「霊界の境域」に入る準備がなく、ふさわしくない者を、追い返したということになるのだと言えます。

 

なお、『狂気をくぐり抜ける』の記事、『「実体的意識性」と「オルラ」』でも、このオルラとの出会いについて述べていますので、そちらも参照ください。

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