「境域の大守護霊」について
今回は、「境域の大守護霊」について述べます。前回にも、ある程度触れており、ざっと、みておくだけのつもりでしたが、「境域の小守護霊」との対比をはっきりさせるためにも、ある程度は詳しく述べることにしました。
「境域の小守護霊」は、過去の総決算としての自己が、自分の外に霊的な存在として、生み出されたものでした。その形姿は、「低次」の性質を反映して、「妖怪じみた」ものともなります。
それに対して、「境域の大守護霊」は、いまだ顕現せざる、未来の「進化」した自己が、外的な存在として現れ出たものです。それは、「高次」の性質を反映して、高貴で光輝く形姿をしています。ただし、準備なくこれと出会う者は、それに圧倒されて、「恐ろしい恐怖感」、「底知れぬ不安」を感じることにもなります。
こう対比すると、「低次の自我」(の現れ)=「小守護霊」、「高次の自我」(の現れ)=「大守護霊」という風に思われるかもしれません。しかし、シュタイナーは、あくまで、「良い面、悪い面を含めた」意味での、過去の総決算が「小守護霊」であり、未来のあるべき理想の姿が現れるのが、「大守護霊」だと言います。現にある「自己」としての「低次の自我」や「高次の自我」が、そのまま「小守護霊」や「大守護霊」というわけではありません。
ただ、シュタイナーは、「進化」または「霊的成長」ということを当然の前提にしているので、事実上、「小守護霊」は 「低次の自我」を多く反映し、「大守護霊」は「高次の自我」を多く反映することにはなるはずです。
「境域の小守護霊」は、その、ときに醜悪な形姿を通して、本人に自己認識を与え、いかにそれを、よき姿へと変化させなくてはならないか。そして、それを自らが導いていかなければならないか、を明らかにしていました。
それに対して、「境域の大守護霊」は、その変化の先にある、「理想」の姿を見せることによって、本人に、進むべき方向を導くものです。
「境域の小守護霊」は、霊界の境域に入って、思考・感情・意志の分裂が、「アストラル体」または「エーテル体」のレベルでなされる頃に出会われるのでした。それに対して、「境域の大守護霊」は、思考・感情・意志の分裂が、肉体レベルにまで及んだ頃に、出会われるとされます。
それは、思考・感情・意志の分裂が、より進むと同時に、高次の意識によって、それらの統制が、十分にできるようになった頃を意味します。あるいは、霊的な世界との合一が進んで、もはや感覚的なものに左右されることがなくなった頃、さらには、霊的な事象において、個人的なものを排して、客観的に判断できるようになった頃ともされます。
要は、「低次の自我」が、ほとんど克服されて、「高次の自我」が十分に働くようになった頃ということになると思います。それは、とりあえず、境域に入って間もなく出会われる可能性のある「小守護霊」と違って、相当のレベルまで進んで初めて、出会われるものということになるでしょう。
実際、シュタイナーは、これとの出会いも、「物語形式」で、綴っていますが、それは、次のようなものです。
おまえは感覚世界からの束縛を脱し、超感覚的世界の市民権を獲得した。今後は超感覚的世界から働きかけることができる。おまえは自分自身のためには、現在所有しているおまえの肉体を、もはや必要としない。おまえがこの超感覚的世界に住むことだけを求めるとすれば、もはや感覚世界の中に帰る必要はないであろう。
しかし私の姿を見なさい。そして今日までおまえが作り出してきたすべてのものに比べて、どれ程この私の姿が限りなく崇高に見えるか、あらためて考えなさい。おまえが感覚世界に生き、その中で獲得してきた能力によって、おまえは現在の完成段階にまで到達した。
しかし今からおまえは、解脱によって得た力をこの感覚世界のために役立たせねばならない。これまでおまえは自分自身の救済のみを計ってきた。解脱した今、感覚世界に住むすべてのおまえの仲間たちの救済のために働かねばならない。これまでおまえは一人の人間として努力してきた。これからは全体の中に自分を組み入れる必要がある。そしておまえだけではなく、感覚世界に生きる他のすべての人々をも、超感覚的世界へ導こうと努めねばならない、その過程でいつかはおまえも、私の姿と合一することができよう。
内容は明確であり、特に、説明は不要でしょう。もはや、この感覚世界から解脱し得るという状況での、進むべき方向の選択が問題となっているのです。
まるで、ブッダが悟った後、そのまま涅槃に入ろうとしたときに、人々を教え導くべく、説法をしてくださいと諭す、梵天との出会いのような話です。あるいは、大乗仏教で言う「菩薩」の道そのもので、いわゆる「不住涅槃」(あえて涅槃に入らない)のあり方そのののような話でしょう。
しかも、「境域の大守護霊」は、このような道に進まず、自らの「浄福感」のみを求めて、解脱しようとする方向は、「黒い道」であり、 結局は、人々が自分の上を通り過ぎて行き、自分はそこから閉め出されることになる、とまで言うのです。
実際、シュタイナーも言うように、その方向は、自己の利己的な欲望を適えることには違いないですが、「黒い道」とまで言うのには、首を傾げたくなるでしょう。
しかし、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『「霊的な方向」と「ルシファー」との関わり』でも述べたように、実は、このような誘惑は、霊的な方向を進もうとする者には、非常に強いもので、そこには、「ルシファー存在」の強力な働きかけもあるのです。シュタイナーも、本当に「誘惑」と言えるような「誘惑」は、実は、この誘惑のほかにはないと言います。
実際には、自己の欲望を突き進めるものでありながら、自分では、より高い段階へと進むものだと誤信されてしまうことも、厄介なことです。かつてのオウムにもあったように、カルト的な宗教団体には、つきものの出来事です。
これは、霊的な方向に進もうとするとき、必ず伴う大きな問題なので、「境域の大守護霊」が、光り輝く姿を見せつつ、そのような方向ではなく、全体を導く、より崇高な、進むべき道を指し示すことは、非常に重要なことと、シュタイナーも考えていることが分かります。
実際、この「境域の大守護霊」は、「キリスト」そのものだったことが分かるともされています。もはや、「高次の自我」という、個人的なものを超えた、集合的、あるいは全体的な(一種「神的」な)存在となっているのです。「高次の自我」として、ある段階に達したとしても、さらに、そのような段階にまで、進むべき方向が示されるということです。
ただ、繰り返すと、このようなことは、「低次の自我」がある程度克服されて、「境域の小守護霊」の姿がかなり変化し、「高次の自我」が十分働くようになった段階で、「小守護霊」に代わるようにして、「大守護霊」の姿が、いわば、非常に純化された形で、現れ出たものと解すべきです。
しかし、「境域の大守護霊」が、「自己の未来の姿」であるとすれば、それは、必ずしも、このように純化された形でなくとも、境域に入って、相当の時期に、その都度、現れ出る可能性はあります。それは、前回にもみたように、「境域の小守護霊」と重なるようにして、あるいはその背後に、垣間見られるということもあるのです。実際、私の場合はそうでした。
それで、「境域の守護霊」は、「恐るべき面」があると同時に、「高貴」で「崇高」な面も同時にのぞかせるので、私は困惑し、捉え難い思いもずっと持っていました。
シュタイナーの言うような、純化されたものだけが「境域の大守護霊」だと思っていると、やはり困惑するものがあると思うので、あまりそれに捕らわれずに、要するに、「自己の未来像」であり、「境域の小守護霊」と重なるように現れ出ることもある、ということを押さえておくことも必要と思われます。
いずれにしても、「境域の守護霊」は、全体として「自己」の生み出した、自己の鏡のような像なのであり、その醜悪な面は自己が導いて変えていき、崇高な面は、自己の未来像として、励みや導きの糸としていくことが、求められるということです。
« 「境域の守護霊」 との出会い | トップページ | 境域の守護霊との出会い―私の場合と「オルラ」の例 »
「境域の守護霊」カテゴリの記事
- 「境域の守護霊」を通して知る「生と死」の意味(2020.02.14)
- 境域の守護霊との出会い―私の場合と「オルラ」の例(2020.01.30)
- 「境域の大守護霊」について(2020.01.16)
- 「境域の守護霊」 との出会い(2019.12.26)
最近のコメント