「境域の守護霊」 との出会い
記事『「霊界の境域」と「霊的鏡像」』((四回前の記事)で、「霊的鏡像」について述べ、それは、「自分自身の発した想念が、実体化して、鏡に反射するように、「霊界の境域」に現れ出たもの」と言いました。そして、「この「霊的鏡像」は、一方で、「ドッペルゲンガー」から「境域の守護霊」という、より強力な存在へ発展する」、「個々の思いとか、想念だけでなく、自己のもっと、本質的な性質を現すような存在となる」と述べました。
今回は、この「境域の守護霊」について述べます。
「境域の守護霊」は、上に示したように、自分自身が「霊界の境域」に生み出した存在です。個々の想念ではなく、自分自身の、過去の思考や行動の総決算のような、本性の全体的な現われです。ただし、すでに述べたように、自分自身が生み出したと言っても、自分と切り離されて、一個の独立的な存在となった以上、もはや「他者」的な存在となったとも言えます。実際に、出会ったときも、はっきりと、自分自身とは、別の存在と感じられます。ただ、どこか、自分に近しいものという思いは、常に伴います。(この「出会い」の具体的な状況については、次回、私自身の例として述べたいと思います。)
シュタイナーは、この「境域の守護霊」は、「思わず怖気立つような、妖怪じみた存在」として出会われるといいます。実際に、「恐るべき面」をもつものとして、出会われるのです。
「境域の守護霊」は、「守護霊」といわれますが、決して、自分自身を「護っ」ているわけではありません。「護る」とすれば、「霊界の境域」そのものを「護」り、あるいは「監視」しているのです。「霊界の境域」に入るのにふさわしくない者を、脅かしたり、試練を与えて、入らせないようにしているということです。
ちょうど、神社の門前における狛犬や、寺院の門前における仁王のような働きです。ただし、「霊界の境域」が危険に満ちた領域であることは、記事『「霊界の境域」の危険性』で、十分にみました。だから、その準備がない者を、そこに入らないように、追い帰すということは、結果として、その者自身も危険から護っていることにはなります。
「境域の守護霊」には、二種類あり、一つは「境域の小守護霊」、もう一つは「境域の大守護霊」です。後者の「大守護霊」についても、次回に述べますが、まず、「霊界の境域」で出会う可能性があるのは、前者の「小守護霊」なので、こちらを重点的に述べます。
シュタイナーによれば、「霊界の境域」に入って、思考、感情、意志の結びつきが、(エーテル体、アストラル体のレベルで)解け始めた頃に、この「境域の守護霊」と出会うと言います。思考、感情、意志の分裂については、記事『「霊界の境域」と「人格の分裂」』(三回前の記事)で、既に述べました。逆に、この出会いによって、人は、思考、感情、意志の自然な結びつきが、外れてしまったことを意識することになるのです。これは、非常に不安定な状態ですから、よほど意識を鍛えていて、強く保っていないと、もちこたえられない可能性も高くなります。
「境域の守護霊」との出会いについて、シュタイナーは、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(ちくま学芸文庫)p228以降に、物語形式で、大枠を述べています。シュタイナーにしては、とても分かり易く、心情的にも訴えかける内容のものですので、それを読んでもらうのが一番いいです。ここでは、その要点となることのみを、述べます。
「境域の守護霊」は、「過去の一切の良き面と悪しき面とが内部から取り出され、人格の外に出たもの」です。それまでは、内部に眠っていたものが、独立の存在として、外部に現れ出て、一つの客観的な「形姿」として、見られるものとなったのです。それが、「妖怪じみたもの」だとしても、それは、自分自身の(前世を含む)過去の行いの総決算として現れ出ているのです。つまり、自分自身の、自分でも知らなかった本性を、知ることそのものだということです。
記事「低次の自我」と「高次の自我」』(前々回の記事)で、「霊界の境域」を乗り越えるには、通常の「低次の自我」から、「高次の自我」へと移行することが問題であることを述べました。そして、「低次の自我」は、まさに低次の欲望や衝動を植え込まれているものであることを述べました。それは、「ルシファー存在」のような、悪魔的存在から由来しているものです。だから、それが、包み隠さず現れるとき、「妖怪じみた存在」となるのも、当然の面があるのです。
それまでは、そのような面と直面するだけの勇気も能力も欠いていました。しかし、「境域の守護霊」との出会いにおいて、そのような可能性が開かれたということです。
「境域の守護霊」は、過去の総決算ですが、同時に、今後の本人の思考や行いを反映して、刻々と変化していきます。ですから、この守護霊の姿を、光輝く壮麗な形姿に変えることが、その者の今後の課題となるのです。そして、この守護霊を、光輝く壮麗な形姿となし得た時、それは再び本人と合一するといいます。それは、まさに、「低次の自我」から、「高次の自我」への移行ということでもあります。
「境域の守護霊」は、まさに、このような移行の過程を、目に見えるものとして、はっきりと映し出すものともなるのです。
シュタイナーは、「境域の守護霊」は、「高次の自我」への移行を「妨害する」ものともなると言います。それは、悪魔的な本性をもったものだとしたら、当然のことといえます。ですから、自分自身が、「境域の守護霊」のそのような傾向に振り回されず、打ち勝っていかなくてはなりません。
しかし、「境域の守護霊」は、未だ十分には生まれざる、「高次の自我」を反映するものでもあります。それは、良くも悪くも、「自己」の全体を露わにする存在だからです。次回みる「境域の大守護霊」は、まさに、そのような「高次の自我」の現われです。しかし、「境域の小守護霊」にも、そのような面が、重なるようにして、現れないわけではありません。「境域の守護霊」が、今後の目指すべきあり様を、目に見せるように示すことで、導きになることもあるということです。
あるいは、少なくとも、それは、「低次の自我」の悪魔的面を克服して、「高次の自我」へと移行することは、可能であるということを、指し示していることにはなります。
このように、「境域の守護霊」との出会いの意味は、その存在の形姿を鏡のようなものとして、自覚的に、「高次の自我」への移行をなし、「霊界の境域」を乗り越えるということにあります。
しかし、「境域の守護霊」が生み出される前との関係で言うと、それは、記事『「霊界の境域」と「人格の分裂」』でみたように、それまではあった、様々な存在による、導きや支援を外されるので、それらの働きを、自分自身でなさなければならなくなったということです。「境域の守護霊」自体が導くことがあるとしても、それは、自分自身が生み出したものです。
要は、何かを頼るのではなく、主体的なあり方を、徹底しなければならなくなったということです。
それまではあった導きの一つとして、大きなものに、「カルマ」の働きがあります。それは、善い行いには良い結果を、悪い行いには悪い結果をもたらすことで示されましたが、時間的なラグも大きく、ただ内的に感得されるほかないものでした。しかし、それは、その後は、「境域の守護霊」を通して、即座に目に見えるものとなるので、もはや意識的、自覚的なものとなります。「カルマ」的な結果を、自分自身で生み出しつつ、克服していくべきものということになるのです。それは、いわば、「カルマを超える道」と言うこともできます。
次回は、「境域の大守護霊」について、簡単に述べたいと思います。
なお、「境域の守護霊」については、『狂気をくぐり抜ける』の方のプログでも、次のような記事で述べていますので、ぜひ参照してください。
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