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2019年12月 4日 (水)

「低次の自我」と「高次の自我」

前回、「霊界の境域」では、人格(思考・感情・意志)が分裂するので、それまでの自我ではなく、新たに目覚める「高次の自我」によって、統合されなくてはならなくなることを述べました。

この、「それまでの自我」というのは、新たに目覚める「高次の自我」に対して、「低次の自我」とも言われます。今回も、「境域の守護霊」について述べる前に、この「低次の自我」と「高次の自我」について、簡単に説明しておくことにします。

「低次」とか「高次」 というのは、多分に「価値的」な表現で、抵抗のある人もいるかと思います。その場合は、より客観的に、「狭い(限定された)自我」と、「広い(限定の少ない)自我」ということで、捉えればよいと思います。あるいは、「日常的な自我」と「それを超えた自我」と言ってもいいでしょう。スピリチュアリズムでは、「小我」と「大我」などとも言われます。

いずれにしても、通常の「自我」は、この物質的な世界に生まれて、この世界を規定する、文化的信念体系の中で育ちます。それは、非常に狭く、様々な限定を受けるものにならざるを得ません。特に、近代社会は、知的には、高度なものとみなされていますが、「霊的なもの」を否定する文化なので、「霊的なもの」を前にしたときには、その狭さが、大きく浮き彫りになります。近代社会以前でも、この物質的な世界に生まれる以上、多かれ少なかれ、狭さがありますが、近代社会では、それがより際立つことになるのです。

現代において、まさに、「霊界の境域」という、それまでの世界とは異なる、より広い世界に入ることは、そのような自我の狭さを、如実に、露にしてしまいます

シュタイナーは、「霊界の境域」では、「高次の自我」による新たな統合のために、人格が分裂するという、「目的的」な表現をしていました。確かに、「目的」という観点からは、そのとおりと言えます。しかし、「霊界の境域」で、人格が分裂するのは、それまでの自我では、狭すぎて、とても対応できなくなるからでもあるのです。

それまでの自我は、「霊界の境域」という未知の状況に入ると、混乱し、行き詰まり、一種の限界を迎えます。私の実感で言うと、それは、自我にとっては、明らかに、「死」が差し迫っているという感覚です。もはや、それ自体としては、やっていけなくなったことを、如実に感じ取るのです。そして、思考・感情・意志の統合力を、大きく失うのです。だから、霊界の境域では、思考・感情・意志が分裂するのは、「必然の流れ」と言うこともできます

もちろん、自我も、それに抵抗し、様々にあがいて、「狂気」そのものの様相を呈します。しかし、いずれは、実際に、何らかの意味で、「死」を受け入れざるを得なくなります。そして、最終的には、潜在していた、「高次の自我」を目覚ましつつ、そちらの方に、自らの働きを譲り渡さなくてはならなくなるのです。

「高次の自我」とは、そのように、「霊的なもの」をも受け入れることのできる、より器の広い自我であり、同時に、より強い統合力を発揮し、主体的な働きのできる自我です。

とは言え、そのような移行の過程は、実際には、なかなかスムーズに行くものではありません。特に、望まずして霊界の境域に入った場合は、それが、失敗に終わる場合もままあります。だから、シュタイナーは、自覚的な修行に基づいて、通常の自我を鍛えつつ、霊界の境域に参入する必要を強調するのです。

ただし、自覚的な修行に基づいてなされた場合にも、このような移行は、そう簡単に、一遍になされるものではありません。場合によっては、劇的に、一時になされることもあるかもしれませんが、通常はそうです。

それで、この「低次の自我」から「高次の自我」への移行というものは、それぞれの要素が、様々な葛藤や、せめぎ合いを経つつ、長い時間をかけて、なされることになります。もちろん、一生を越えて、次の生まで持ち越されることもあります。

「境域の守護霊」というのは、自分自身の「本性」の、霊的な現れなのですが、これら「低次の自我」と「高次の自我」の様々な要素が、様々に交錯して現れることになります。ですから、それは、かなり、複雑な様相を呈することにもなります。先に、「低次の自我」は、この世における「日常的な自我」と言いましたが、実際には、この世だけでなく、前世のものも含みます。それで、ますます複雑なものともなるのです。

さらに、シュタイナーが、あえて、「低次」の自我というのは、それが、まさに「低次の欲望や情動」によって、突き動かされることがあるからです。通常の自我に、このような面があることは、誰しも認めざるを得ないと思います。この「低次の欲望や情動」は、シュタイナーによれば、「ルシファー存在」という、「悪魔的存在」によって植え付けられたものです。

それで、「高次の自我」への移行には、そのような、低次の要素が、越えられる―あるいは、シュタイナーは、むしろ、相対する「アーリマン的」な要素との均衡がなされることと捉えるのですが―、必要があることになります。「高次の自我」への移行と言っても、一筋縄では行かないことが、分かると思います。

私自身も、この「低次の自我」の性質が、人一倍強い?故に、なかなか、「高次の自我」への移行がうまくいかず、苦労している面があります。

いずれにしても、「境域の守護霊」とは、このような移行の過程に関わるもので、その移行の過程を、目に見えるように、見せてくれるものとも言えるのです。それについては、次回に述べます。

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