「霊界の境域」と「霊的鏡像」
シュタイナーは、「霊界の境域」で初めに遭遇する霊的な現象は、「霊的鏡像」であると言います。
前回もみたように、思考、想念というものは、「霊界の境域」では、一つの生命のように、「実体化」して現れるものになります(「想念形態」(エレメンタル))。自分自身の発した想念が、実体化して、鏡に反射するように、「霊界の境域」に現れ出たものが、「霊的鏡像」です。
「鏡に反射する」というように、これは、外部や他者に向かって発せられたものも、自分自身に向かって来るように現れ出ます。たとえば、恐怖や、攻撃性をもって発した想念は、自分自身に、恐れをもよおすような、また自分自身を攻撃して来るようなものとして、跳ね返ってくるのです。しかも、それは、一つの生きた存在のように(たとえば、動物の姿や人の姿として)、現れ出るのです。
シュタイナーは、「霊的鏡像」ということを知らずに、「霊界の境域」でこのようなものに出会うと、それを他者的な存在として捉えてしまって、恐れをなし、混乱してしまうので、注意を促しているのです。それが、自分自身の発したものであるとに気づけば、自分の思考、感情を制御することで、それらの現象を抑えることができます。
また、それだけでなく、「霊界の境域」で起こることを、客観的に観察し、見極めて行くには、まず、自分自身の発する「霊的鏡像」をそれとして認識することが、不可欠のことになります。「霊的鏡像」は、ただ単独に現れるというよりも、様々な霊的現象にかぶさるように、あるいは、それらに影響するものとして、作用します。
自分自身が、発している思考、想念が、外界に現れる霊的現象に大きく影響するのです。たとえば、恐れや攻撃性をもって接していれば、「霊的鏡像」と同じように、その現れ出る現象そのものも、それを反映して、恐ろしいものとして現れ出てしまいます。(あるいは、そのような想念をエネルギー源にしている存在も多いので、実際に、その存在をより強力なものに、拡大させてしまいます。)
「霊界の境域」では、自分自身が発している「霊的鏡像」が、様々に影響して、外界の景観をもたらしているのです。ですから、その「霊的鏡像」を、自分自身の発するものとして正しく認識し、それを排すようにして、初めて、外界の「客観的な」現象と向き合うことができるということです。
さらに、「霊的鏡像」というのは、結局、自分自身の、それも、多くは、自分でも意識しない、本性のようなものです。
「霊界の境域」では、それが、一つの外的な像として現れ出るので、それを認識することは、結局、自分自身を認識することです。つまり、「霊的鏡像」を通して、(自分でも知らない)自分自身を知ることが、可能になるということです。シュタイナーは、「霊的なもの」の認識を高めて行くには、「自己認識」を通して、自分自身を統制して行くことが、重要ということを強調します。「霊的鏡像」は、そのための、貴重な材料ともなってくれるのです。
ただし、実際に「霊界の境域」に入ったときに、現れ出たものの、何が、「霊的鏡像」で、何が「他者の想念形態」で、何が、「他の霊的存在」なのかということは、そう簡単に判明するわけではありません。
まず、初めに「霊界の境域」に入ったときには、そこで見たり、感じる「知覚」も、細分化されず、曖昧なところが多いのです。ある程度、「知覚」が細分化されて、明確になるまでは、「漠然たる感じ」として、すべてが、同じように、あるいは、混然一体となって、感じられると思います。
また、初めに「霊界の境域」に入ったときには、どうしても「恐怖」の感情が先立つので、「霊界の境域」で出会う存在も、それを反映したり、それにつけ込むような存在が多くなります。「霊的鏡像」であろうと、「他者の想念形態」であろうと、「他の霊的存在」であろうと、それらは似たようなものとなり、要するに、「恐れをもよおさせる」、「攻撃的なもの」として迫って来るのです。それで、それらの見分けも、難しくなります。
ただ、前回もみたように、「想念形態」は、それに捕らわれず、無視できるような態度でいれば、いずれは、自然に勢いを衰えさせて、消滅してしまうものです。これは、自分の「霊的鏡像」であろうと、「他者の想念形態」であろうと、同じと解されます。(ただし、次回みるように、一時的な想念の現れである「霊的鏡像」ではなく、もっと本質的な、自己の性質あるいは、存在そのものの現れというべき「ドッペルゲンガー」や「境域の守護霊」になると、そのように消滅してしまうものとは言えません。この点については、次回にみます。)
ところが、「他の霊的存在」となると、無視するような態度でいれば、攻撃力を減退はしますが、その存在そのものが、衰えたり、消えて行くということはありません。そして、ある程度の経験を通して、自己の感情的な抑制がつくようになると、「霊的鏡像」の覆いもとれて、「他の霊的存在」の性質も、客観的に現れやすくなります。そのようにして、「想念形態」と「他の霊的存在」の見分けは、かなり明白に、つくようになると言えます。
それにしても、まず、「霊界の境域」で、初めに出会うものは、自分自身の「霊的鏡像」である可能性が高いことを、予め知っておくことは重要です。あるいは、何か、客観的な現象が現れ出ているとしても、そこには、自分自身の「霊的鏡像」が影響を与えていることを知ることが、重要なのです。そして、その自分自身の発するものを正しく認めて、それに捕らわれず、それを排したうえで、外界を客観的に見極めるようにすることが、必要なのです。
私の場合も、初め、霊界の境域で、襲いかかって来るものは、漠然として、あやあやだったものが、段々と知覚的にも細分化して、明確化してくるようになりました。あやふやだったり、不鮮明なものは、表に現れなくなりましたが、最終的に、もっと強力で、明白な他者的な存在が現れ、それに取り巻かれるようになりました。
私は、「霊的鏡像」というものは知りませんでしたが、心理的な「投影」ということは十分意識していて、初め、漠然と襲って来るものは、この自分自身の思いの「投影」ではないかと疑っていました。これらは、実際、本当に、何らかの実体であるかのように襲って来ていたのですが、「心理的な投影」という可能性を、かなり後まで、捨てずにみていたために、それほど酷く、捕らわれずにいることができたと思います。
シュタイナーのいう「霊的胸像」のような理解には、なかなかいたりませんでしたが、実質的には、それに近い考えを抱いていたと思うのです。実際、それは、シュタイナーのいう、「霊的鏡像」だったと解されます。
しかし、それらへの捕われが薄れ、より明確に知覚が細分化し出すと、後に、それは、例えば特定の友人のような、明確な他者として現れ初めました。それは、「他者の想念形態」だったと思います。そして、最終的には、もっと明白な形で、もはや、人間的なものとは解し得ない、他者的な「霊的存在」そのものとして現れ出したのです。(このあたりの経過は、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の前半に詳しいので、参照ください。)
初めの現われに、それほど酷く捕らわれることなく、さらに深みに入って行った訳で、その深みでは、もはや、疑いようのない形で、他者的な霊的存在が立ち現れたのです。「霊的鏡像」ということを知っていれば、もう少し、混乱少なく、これらの過程を踏むことができたと思います。(初めの現われに酷く捕らわれてしまうと、より深みには入らない代わりに、それらに捕らわれた混乱から抜け出せないことにもなります。シュタイナーの意図するような、「霊界の境域を超える」ということには、全くつながらないことになるということです。)
このように、個々的な「霊的鏡像」は、いずれ弱まる、儚い存在と言えるのですが、この「霊的鏡像」は、一方で、「ドッペルゲンガー」から「境域の守護霊」という、より強力な存在へ発展すると、シュタイナーは言います。個々の思いとか、想念だけでなく、自己のもっと、本質的な性質を現すような存在となるからです。しかし、それについては、次回述べます。
※ シュタイナーの「霊的鏡像」についての記述は、特に『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(ちくま学芸文庫)の178ページ以降に詳しいです。
その中から、いくつか重要と思われるものを引用しておきます。
「この形象世界全体の内部には、特別の種類の形姿も存在する。それははじめ人間の影響をほとんどまったく受けつけない形姿である。
……この部分が何に由来するのかは、修行者が自分自身を観察したとき、はじめて明らかになる。すなわちこの霊的形姿は修行者自身が生み出したものに他ならないのである。自分が行い、欲し、望むとき、それがこれらの形姿となる。」
「ちょうど自分の周囲を鏡で囲まれた人が、自分の姿をあらゆる側面から、よく見ることができるように、高次の世界の中では人間の魂的本性が鏡像となって、その人間の前に立ち現れてくる。」
「このような体験を持つ場合、もしあらかじめ以上に述べた霊界の本質が理解できていなかったとすれば、修行者自身の魂の内部を映し出している外部の霊的形姿は、まるで謎のように思えるであろう。彼自身の衝動や情熱の諸形姿なのに、それがあたかも動物や、時には人間の姿となって現れてくる。」
「魂の特性もまた鏡像のような現われ方をする。外にある何かに向けられた願望は、その願望を抱く人自身のところへ向う形姿として現れる。人間の低い本性に基づく情欲は動物のような姿をとって、人間に襲いかかってくる。」
「静かな自己反省を通して自分の内部に精通しようとしなかった人は、このような鏡像を己の姿であるとは認めたがらず、それを自分と異質な外的現実の一部分と見做すであろう。またはそのような鏡像に接して不安に陥り、その姿が見るに耐えなくなり、それを根拠のない空想の産物であると思い込もうとするかもしれない。」
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