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2019年5月 9日 (木)

「量子」と「霊的なもの」

記事『相対性理論との関係』では、「相対性理論」を参照にして、「時間・空間を超える」という面から、「物質的なもの」と「霊的なもの」の関係をみました。

 

今回は、「量子論」を参照にして、物質の本質である「量子」ということと、「霊的なもの」との関係を、ざっとみておきたいと思います。

 

私自身、かつて10代の終わり頃、「霊」などというものは全く信じられなかったのですが、ある工学博士の書いた、量子と霊の振る舞いが似ているということを述べた本を読んで、少し考えを変えさせられたことがあります。

 

霊が信じられないというのは、「物質」というものが、明白に存在を確かめ得る、確たる存在としてある、という思いによっていました。物質というものを、そのようなものと思っていたので、それとの対比で、「霊」なるものは、余りにも曖昧かつ、不確かなものなので、存在することなど確かめられるはずもなく、そもそも、存在するなどとは、とても思えないものだったのです。

 

しかし、物質というものが、その本質である、量子というレベルでは、決して確たる存在とは言えないことが分かると、その見方も揺らぐことになります。それは、決して、「霊」なるものを、積極的に認める理由となるものではありませんが、少なくとも、「簡単には否定できない」ということは、顧みさせるものとなったのです。

 

量子というのは、とりあえず、電子などの素粒子ということですが、その電子は、教科書などで、よく、原子の中心の原子核を雲のように取り巻く図として描かれます。そして、その「存在確率の高い」ところが、黒く濃く描かれ、「存在確率の低い」ところは、薄く描かれます。電子という一個の素粒子が、そのように明確な位置や存在を示さないで、雲のように、「漠然と」取り巻いているというのは、どういうことなのか、私は、全然分かっていませんでしたし、それが重大な問題であるとも思っていませんでした。

 

しかし、そのとき読んだ本では、一応の量子力学的な説明がされていて、それがかなり重大で、本質的な問題であることを知ることになりました。

 

これは、簡単に言ってしまうと、要するに、電子というものは、位置と運動量を同時に測定することができないので、位置と運動量を確定できず、雲のように、全体に広がっているものとして、捉えるしかないということなのです。そして、それは、「技術的」な問題ではなく、「原理的」なものだということです。つまり、どのように観測の精度を上げても、原理的にそうなるということです。これを「不確定性原理」といいます。

 

「雲」のようにと言いましたが、電子は、「波」として、全体に広がっているとも捉えられます。ただし、その波は、「電磁波」や「水の波」とは違って、実体のあるものの振幅ではなく、「確率の波」という抽象的な(波動関数として数学的に表現できるだけの)ものなのです。

 

先ほど、「存在確率の高い」ところは、黒く濃く描かれると言いましたが、それは、観測した場合に、そこで電子がみつかる可能性が高いところということです。波として広がっているといっても、観測により、特定の位置に電子をみつけることは可能なのですが、それは「確率的」にしか予測できないことになります。「観測以前」には、あくまでも、「波」として、全体に広がっているという捉え方をするしかありません

 

このように、電子というものが、明確なあり様を示す、確かな存在というよりも、雲のように、漠然と取り巻いているというものであるならば、それは幽霊にかなり近いものとも言えます。また、電子は、ある場所にあったものが、一瞬にして、他の場所に移動して、現れることもできます。これを「量子テレポーテーション」と言います。これなども、まさに幽霊そのものの振るまいと言っていいでしょう。

 

記事『相対性理論との関係』では、「物質的な領域のぎりぎりの境界にある」のが、「光」だと言いました。これは、「電磁波」という観点からみたものですが、「素粒子」というレベルでは、光に限らず、あらゆる物質が、霊的な領域に近づいて、「ぎりぎりの境界にある」とも言えるのです。物質が、霊的なものと似た振る舞いをするということです。

 

このような、量子の問題は、実は、「観測されるもの」と「観測するもの」の問題とも言うことができます。

 

先にみたように、量子とは、観測以前には、存在確率の波で示されるしかないものですが、観測すれば、特定の場所に位置を示すこともできます。つまり、波のように全体に広がっていたものが、一瞬にして、ある場所に粒子としての姿を現すのです。波として振舞っていたものが、一瞬にして粒子として姿を現すということは、「波」が一瞬にして、消えて、一点に収縮したということになります。これは、「波束の収縮」と言われ、量子力学の波動関数自体からは、導けない事態です。

 

このようなことが、信じ難いものであることは、たとえば、シュレディンガーの提示した、「シュレディンガーの猫」という思考実験に照らすと、より明らかになります。

 

放射性物質の崩壊は、ミクロの現象なので、量子力学的な確率に従いますが、ある時間に2分の1の確率で崩壊する放射性物質を用意します。そして、箱の中に、この放射性物質と、その崩壊を感知すると毒を出すような仕掛けを施した装置を、猫とともに入れておきます。そこで、ある時間に、放射性物質が崩壊すると、猫は死んでしまうことになりますが、箱を開けて観測する以前には、猫はどうなっているかというものです。

 

箱を開けて観測すれば、もちろん、猫が生きているか死んでいるかは確定します。しかし、観測以前には、放射性物質は、崩壊する確率と崩壊しない確率が2分の1同士の重ね合わさった状態として存在するとしか言えません。電子が、存在確率の波として、広がっているとしか言えないのと同じことです。そうして、その重ね合わせの状態を、マクロの装置や物質も引き継ぐとすると、猫は、「生きている状態と死んでいる状態の重ね合わさった状態」にあるということになるのです。しかも、それが、観測すると同時に、一瞬にして、生きているか死んでいるかに決定されたということになります。

 

まさに、「波束の収縮」ということの、信じ難い性質が、浮き彫りになることでしょう。

 

このような、波束の収縮ということが醸し出す問題は、「量子力学の観測問題」とも言われます。それをどう合理的に解釈するか、様々な説は出されていますが、決定的なものはありません。しかし、「観測問題」と言われるとおり、これは、「観測」(物事を「観る」、「認識する」)ということの本質は何かという問題とも関っていることは、確かと思われます。単に、「観測されるもの」としての客観的な対象の内部の問題ではなく、観測する側の「主体」との関わりの問題であり、最終的には、「意識」との関わりの問題ということです。

 

相対性理論においても、観測者の位置ということが問題となります。ただし、それは、物質的な過程そのものを、独立したものとしての「主体」が問題となると言うものではありません。あくまで、事象に対する観測者の相対的な位置の問題です。しかし、この「観測問題」では、単に、観測者の「位置」ということではなく、物質的な過程そのものからは独立することとなる、観測主体の本質そのものが、問題となっているものなのです。

 

実際、「観測問題」の解釈として、「意識説」というのもあります。これは、フォン・ノイマンやウィグナーによって提出された説で、量子力学全般の中では、主流ではないですが、一定の説得力があることは確かと言うべきものです。

 

その論の基本は、マクロの物質といえども、量子の集合体ですから、量子力学の過程から独立したものではあり得ず、量子力学的な波束を収縮させることはできない、ということにあります。つまり、観測において、波束を収縮させるようなものは、量子力学からは独立した(物質的な過程から独立した)存在としての、「意識」しかあり得ないということです。

 

この辺りのことは、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『「量子力学の観測問題」と「意識」1』に、ある程度詳しく検討しているので、是非参照ください。

 

ともあれ、「意識」というのは、記事『「霊」とは何か』でもみたように、「霊的なものの本質」というべきものです。つまり、「意識」との関わりというのは、「霊的なもの」との関わりでもあり、物質的なものと霊的なものの交わる、「境界的」な事象を浮かび上がらせるものと言えます。だから、量子の観測という事態において、物質的なもののぎりぎりの境界的なあり様が露わになるというのは、頷けることのはずです。

 

ただし、この意識というのを、人間のものに限るとみると、矛盾や疑問が多くなります。実際、最終的に、人間の意識が観測するまで、現象が確定しないとは、とても考え難いことです。同記事でみたように、物質的なものと霊的なものは、画然と区別されるというよりも、互い混交しているというべきものです。あらゆる物質が、霊的な要素も含んでいるということです。

 

たとえば、猫にも、ある意味の「意識」があり得るし、あるいは、観測装置などのマクロの物質にも、ある意味の「意識性」が働いているとみる余地があります。また、人間以外の霊的な存在は、多く想定でき、そのような存在の意識も関与している可能性があります。根源的には、宇宙そのもの、あるいは、「神」の意識というものも想定できます。

 

いずれにしても、そのような、全体的な展望のもとでなら、観測問題の波束の収縮は、「意識」が引き起こすものと言っていいものと思います。

 

そういうわけで、量子という物質の本質レベルでは、通常の物質というものの理解を超えた、物質としての境界的なあり様、つまり、霊的なものとの境界的なあり様が、露わになるところがあるのです。さらには、霊的なものの本質である、「意識」との関係を、浮かび上がらせるものがあるのです。相対性理論の場合とは別の観点から、というよりも、より本質的なレベルで、物質的なものと霊的なものとの関係を、露わにするものがあるということです。

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