「超能力」について 1
「超能力」とは何か
現代の科学的理論に反する「オカルト的現象」として、最も身近な現象は、「超能力」だと思います。今回は、これについてとりあげます。
「超能力」は大まかに、物理的手段によらずに、何らかの情報を受け取る「ESP」(超感覚的知覚)と、物理的手段によらずに、外界に何らかの現象を起こす「PK」(サイコキネシス)に分かれます。
「力」を「受ける」方と「出す」方という分け方も、できるかと思います。かつてテレビで、『ナイトヘッド』という、超能力を持った兄弟を主題としたドラマがありました。それを知っている人は、兄の直人が「出す方」を得意とし、弟の直也が「受ける」方を得意としていたことが、分かると思います。
「ESP」は、他人の思考や感情を読み取る「テレパシー」や、外界に関する何らかの情報を読み取る「透視」が典型的です。行方不明の人を探す「超能力捜査」というのが、テレビなどでもよく披露されますが、これは「透視」の例です。「PK」は、ショー的要素が強いですが、思念の力でスプーンなどの物体を変形させる、「スプーン曲げ」が典型的です。これは、かつてテレビで実演して、大きな話題となった、ユリ・ゲラーが広げたものです。
超能力については、「特別な人が示す特別な力」という見方も、根強くあります。しかし、実際には、後にみるように、(少なくとも潜在的には)誰にもあるというべきものです。たとえば、誰かのことをふと考えたら、ちょうどその人から電話がかかって来たとか、誰かが言う言葉が、予めかなり明確に分かってしまったという経験は、誰にもあることと思います。
あるいは、マージャンなどの賭け事や、スポーツなどの競技で、調子がいいときには、とても偶然とは思えない幸運が続くときがあります。そのようなときも、一種の超能力が働いているとしか思えないことがあります。
ただ、超能力は、現代では、科学的な理論に反する「あり得ない」ことか、あるいは、あっても、「まれで特別な現象」と思われているのが一般的です。それで、そのような方向で受け取られることはめったになく、ただの偶然だろうとして済まされたり、一瞬、不思議なことと思われても、特に注目されることもなく、忘れ去られることが多いでしょう。
そのように、超能力に対する見方が影響して、現代では、まだあまり一般的ではないですが、超能力に対する見方が変われば、もっと本格的に、「誰にもある身近なもの」と認識される可能性があります。
とりあげる意義
いずれにしても、「超能力」が、「オカルト」と呼ばれる領域の中では、最も身近で、親しみやすいものであるのは確かでしょう。
しかし、その「身近さ」「親しみやすさ」に反して、超能力が実際に存在するとなると、そのことが意味することを、真剣に考える限り、それは、「オカルト」全般にも関わる、重大な意味合いを帯びてきます。その意味でも、「オカルトの基本」として、まずとりあげるのに、ふさわしいものです。
まずそれは、「科学との関係」を、見直さざるを得なくします。超能力が現代の科学的理論に反するというのは、本当です。少なくとも、物質的な現象全般について、現在まで築き上げられて来た科学的理論では、説明できないのです。この科学的理論で、すべての現象が説明できるという立場をとる限り、超能力は「あり得ない」ことになります。
しかし、超能力があるということになると、逆に、現代の科学的理論の方が見直されなくてはならないことになります。それが見直されるということは、それに反するということで、これまで一蹴されていた、オカルト全般についても、大きな意味をもたらします。
超能力は、「霊」などとは異なり、現に生きている人間の能力であり、物質的なレベルで、その発現を確認することができ得るものです。つまり、科学と、少なくとも「接点」をもつものではあります。この点からも、特にとりあげる意味があります。
次に、現代の社会生活上の制度は、超能力がないことを前提にできあがっていますから、超能力があるということになると、さまざまな矛盾や問題が浮上します。
一つの例で言うと、透視やテレパシーがあるとすると、我々の個人的な生活が、他の者に知られることがないという、プライバシーの発想は、大きく揺らぐことになります。我々の生活だけでなく、そもそも、我々の脳または心の内部の思考すら、知られ得るということになるからです。
さらに、『私の体験から』という記事でもみた、「精神的な病」に関わるものもあります。精神的な病とされる、統合失調状態では、自分の考えが、「つつぬけている」とか、「さとられる」と訴える現象がよく起きます。これは、当然のように、「病気の症状」とされますが、テレパシーがあるとすると、一概にそうとは言えなくなります。実際に、テレパシーによって起こっている現象なのかどうかということが、問題となって来るのです。
また、様々な「妄想」にも同じことが言えます。統合失調状態では、かなり突飛な妄想が、確信されることがありますが、これも、超能力があるとなると、一概に「妄想」とは決めつけられなくなります。
こういった問題は、外界に影響を与えるPKになると、さらに強く現れます。たとえば、法律では、誰かを思念の力で阻害する、「呪い」などというものはないことになっています。たとえ、それを行って、本当に危害を及ぼしたとしても、罰されることはありません。しかし、PKがあるとすると、現実に、そういうことは、あり得ることになります。
前々回の記事で「魔女」についてみましたが、現代でも、人に不幸をもたらす「魔女」を、現実に恐れる理由は、あるということになります。つまり、かつての「魔女狩り」の再燃ということも、十分あり得ることになるのです。
もちろん、超能力があるとしても、その程度はどの程度のものか、わずかなものかもしれない、という問題はあります。しかし、原理的にあるということであれば、その程度も、初めから、制限されるとしなければならない理由はありません。
超能力には、病気を治すとか、煩わしい技術によらずに、自由に物質的なものを操るなど、様々に、「明るい」可能性をみることもできます。しかし、「魔女狩り」についてみたように、近代前後には、「オカルト」的なものに対する恐れが、異様に拡大しているのです。超能力についても、このような恐れの面からみられる可能性の方が優ると、十分予想されます。その点から言っても、、「オカルト的なもの」全般への波及をもたらさざるを得ないということです。
さらに、超能力は人間の「意識」がもたらす力とすれば、ことは、「科学」とか「制度」など、外面的なことだけではすまされません。生き方とか思想など、内面的な面においてこそ、大きな影響をもたらすはずです。それは、近代以降に、培われた生き方や思想を、根本的に変えてしまう可能性があるのです。
これら、超能力を問う意義として、ここにざっとみたことは、ほんの一例に過ぎず、また、個々の例に述べたことも、ほんの概要にしか過ぎません。次回、超能力が、実際に存在するのかどうかをみた後、再び、これらのことを、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
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