2023年10月31日 (火)

「オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか」の記事紹介

ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方で『「オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか」』の記事を6回にわたって連載したので、紹介しておきます。

 

オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 1 —「血取り」「膏取り」と「迷信撲滅運動」 ~ オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 6-総括及び結論 まで

 

なお、この記事の前提となる記事をその前にいくつかあげているので、そちらも合せてお読みいただけると、より理解しやすいと思います。

 

『精神病の日本近代』―「憑く心身」から「病む心身」へ
『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』 まで

 

こちらのブログでも、このような論点については、何度か述べていますが、これらの記事は、「オカルトを否定する世界観の根本的変化」が起こった経緯や背景を、より詳しく明らかにしようという意図があります。

 

最後の記事では、その理由を端的に明らかにしていますが、それは、こちらのブログでも何度か述べたように、嫌悪と恐怖をもたらす、「おどろおどろしい」「オカルト的なもの」を否定したかったからだ、ということに尽きます。

 

「オカルト的なもの」が否定されて、近代社会の基盤をなす「世界観」が生まれたのですが、そのような「虚偽」の欲求に基づく社会は、結局は「虚偽」にしか行きつかないことも明らかにしています。

2021年6月23日 (水)

「タブーの意識とオカルト」の記事紹介

ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方で、「タブーの意識」と「オカルト」に関する3回の記事を投稿していますので、紹介しておきます。

 

「タブー」の意識とオカルト 1
「タブー」の意識とオカルト 2

「タブー」の意識とオカルト 3

 

「オカルト」には、嫌悪の感情とタブーの意識がつきまとうことは、こちらでも何度も述べていることですが、今回の記事は、「タブー」とは何かということに溯って、かなり根源的な考察をしているものです。

 

〇「タブー」には、もともと両義的な意味があったことと、現代にもはびこるタブーの意識。
〇近代は、「オカルト的なもの」を一般的に排除したが故に、「タブー」の本来の意味を失って、もっぱら「恐れにより避ける」という、否定的なタブーの意識の拡大をもたらしたこと。
〇「タブー」は、もっぱら守られるだけでなく、その「侵犯」によってこそ、停滞が破られ、「聖なるもの」に近づくことや、隠された「真実」に触れることができること。
〇「オカルト」に嫌悪の感情とタブーの意識がつきまとう、根源的な理由。
〇「生け贄」こそが、原初の「排除」として「タブー」を生んだという可能性。
〇近代という秩序を生むための、「オカルト的なもの」の排除こそ、まさに、それまで信仰していた「神々」の「生け贄」であり、強力なタブーを生んだこと。

 

などのことを明らかにしています。

 

いったんは葬り去られた、「オカルト的なもの」を捉え直すということは、このような意味での「タブーの侵犯」であり、大変なことには違いありません。ですが、現在の停滞状況の突破と、無意味なタブーのはびこりを押し止どめるためには、是非とも必要なものであるということです。

2021年4月28日 (水)

科学とオカルトに関する2冊の復刊本

科学とオカルトに関わる重要な本で、品切れになっていた本が、最近文庫化されて復刊されているので、紹介しておきます。

 

1 村上陽一郎著 「科学史・科学哲学入門」 (講談社学術文庫) ( 旧『科学・哲学・信仰』(第三文明社レグルス文庫))

 

著者は、著名な科学史家で、科学史と、「近代科学」とは何かということを概略的に述べたものです。明解で分かりやすく説明されていると思います。

 

「近代科学」とは、普遍的なものではなく、「西洋近代」という文化的な文脈のもとに出て来た、一つの「ものの見方」であるということ。従って、それは、実質的に、「哲学」や「信仰」と異なるものではない、ということが趣意となります。

 

直接オカルトと関わるわけではないですが、「技術」と結びついた、「科学技術」というものは、「魔術」との関わりで生じているので、もともとの出自は、大きく関わるものがあります。

 

この辺りは、記事『「魔術」と「科学技術」 』でも述べたとおりです。

 

もう少し詳しく言うと、近代科学は、「聖俗革命」によって生まれたということが一つのポイントです。注意すべきは、「聖俗革命」とは、単純に、「聖なるもの」が「俗なるもの」に取って代わられたということではありません。自然と人間を峻別し、自然を超越する唯一の神を認める、キリスト教のような一神教的な背景のもとに、その「神」の位置が、「人間」に取って代わられたということです。

 

つまり、自然と人間を峻別する発想、自然を超越した唯一絶対の神が、唯一の法則のもとにすべてを統べている、というような西洋文明独自の発想は、「聖俗革命」の後も受け継がれ、それが近代科学の発想のもとになっているのです。

 

ただ、「神」の位置が、人間へと取って代わられ、人間が、神の万能の理性に発する「知」によって、その法則を捉えつつ、自然を知り、操作するのが、「科学」という営為だと考えられたのです。

 

この辺りも、先の記事で、要点は述べています。

 

「科学」は、一つの「ものの見方」ですが、このような一神教的な発想のため、他のものとは違って、唯一の正しいものと見做されやすいのです。それが、他の見方を排除するように作用しやすいし、「オカルト」的なものを否定する見方にも、それは反映されています

 

しかし、実質は、一つの「ものの見方」である以上、「哲学」や「信仰」といったものと、本質的に区別できるものではないということです。

 

ただし、もちろんですが、だからと言って、そんな「科学」は無意味だとか、役に立たないということには、なりません。

 

「科学」を、一つの「ものの見方」として、相対化して捉えたうえで、その有用性を認めて(その範囲を確定することは必要かもしれません)、役立てて行くことはできることです。

 

 

2 河合隼雄著 「宗教と科学の接点」 (岩波現代文庫)

 

そもそも、ユングは、目に見えない「オカルト」的なものを、「普遍的無意識」という形で、心理学に取り込んでいました。日本におけるユング派の心理学者であった、故河合隼雄氏も、科学によって、「オカルト」的なものを否定する一般的な見方に対して、科学との接点は意識しつつ、「オカルト」的なものにも目を向ける発言をよくしていました。

 

また、この本出版の当時は、「ニューエイジ」や、「ニューサイエンス」という、これまでの物質主義的な発想を超える、新たな発想が広がりつつありました。そのような背景もあり、この本では、正面から、かなり大胆に、そのような「宗教と科学の接点」に関わることを、論じています。

 

内容としては、「たましい」や「死」、「共時性」などがとり挙げられています。どれも、このブログとの関わりでも重要な事柄と言えますが、特に、「共時性」について、かなり詳しく分かりやすく解説しているのが、記事『共時性(シンクロニシティ)」-概観と重要性』以降の記事との関わりで、重要です。

 

「たましい」については、必ずしも、「魂」という実体としてではなく、内界(心)と外界(自然、物質)の奥で、両者を結びつける働きとして、(明確には分からないながらも、そのままに)仮定しておくことを提案しています。

 

内界(心)と外界(自然、物質)が、意味において結びついて起こる「共時性」についても、そのような「たましい」による「布置」と、みることができます。記事でも述べましたが、注意すべきは、それは(通常、外界がそうであるように)単純に、原因と結果の関係で、つまり「因果律」で結びつくのではないということです。

 

これを、因果的に解釈してしまうと、「偽の因果律」となって、「魔術」的因果論になってしまうことが、例を挙げて示されています。たとえば、古来、彗星の出現と帝王と死が共時的に起こることが注目されましたが、これを、彗星が現れたから、帝王が死んだ。あるいは、さらに、彗星が現れると、帝王が死ぬという風に解釈すると、「偽の因果論」になるのです。

 

しかし、実際に、「共時性」現象に出会うと、我々は、どうしても習性で、因果的に解釈することで、落ち着けようとしますから、これは、本当に注意していなければならないことです。

 

さらに、これも記事でも述べていますが、「共時性」は、その現象をどう受け止めるかという、「主体的な関わり」こそが重要となることが強調されます。それを偶然ではなく、共時性と受け止めることによって、主体のコミットメントが生じ、自己を取り巻く「世界」との関わり方も、変わるのです。

 

さらに、「共時性」は、内界と外界の結びつきによって起こる現象ですから、主体(内界)がどう受け止めるかによって、現象の方も変わって来るということが言えます。

 

総じて言うと、我々は、「我々の心から切り離された(客観的な)外界」という発想をもって、通常外界をみていますが、それが、通用しなくなるのが、「共時性」現象とも言えます。「内界と外界の結びつき」に気づかせてくれる現象ということです。

 

また、このことは、先の1でみた、「人間と自然が峻別される」ことを前提とする、近代科学の発想が、実際には、普遍的なものではないことを露わにするものとも言えます。

 

このような発言を続けられていて、かなり影響力もあった、河合氏が亡くなったことは、日本にとって、大きな痛手となったことを、改めて感じます。科学とオカルトは、最近ますます分断され、やみくもに対立するのみで、両者の接点を問題にできる人が、ほとんどいなくなっていると思うからです。

2020年12月30日 (水)

次回以降の投稿についてのお知らせ

前回、次回は「輪廻転生」の問題を述べると言いましたが、この問題は、そう単純ではなく、「時間」の問題や、「輪廻の主体」をどうみるかという問題とも絡む、かなり難しい問題です。私自身、現時点の考えはありますが、明確にふに落ちる形で提示できるか心許ないので、もう少し、自分なりに煮詰めてから、投稿したいと思います。

場合により、数カ月あるいはもっとかかる可能性もあるので、ご了承ください。

このブログで扱う、「オカルトの基本」の問題としては、このほかに、あと、「パラレルワールド」の問題を予定しています。

ところが、この問題も、「時間」とともに、「量子力学の観測問題」や、「意識と現実」の問題とも絡む、難しい問題なので、やはり、しばらく時間をかけてじっくり取り組みたいと思います。

いずれ、この2つの問題は、「オカルトの基本」の問題として抜かせないものと思うし、最後にとり上げるにふさわしい問題とも思うので、自分なりにしっかりした形で、提示するつもりではいます。

2020年12月 4日 (金)

「共時性現象」の受け止め方

前々回にも、「共時性現象(シンクロニシティ)」の受け止め方が問題となることについて、簡単に述べました。今回は、この点について、まとめて述べたいと思います。

 

「共時性現象」は、その受け止め方によって、現象自体も変わって来るほど、「受け止め方」こそが重要な問題と言ってもいいものです。もちろん、「受け止め方」によって、その現象に関わる者の精神状態や理解も大きく左右されます。

 

「受け止め方」によって、現象自体が変わって来るのは、前回もみたとおり、要するに、受け止める側の「意識」が、現象の発生や継続に、作用することになるからと言えます。そもそも、「共時性現象」は、(様々なレベルにおける)「意識」により、「意味」的に関連する出来事が「引き寄せ」られて、同時的に起こるものでした。ですので、「受け止める」、「注目する」、「解釈する」という、本人の「意識」の作用(その「結果的な意味」)も、現象に対してフィードバック的に、影響を与えることになるのです。

 

このことは、単純に、共時性現象が起こったときに、それに「注目する」かどうかによっても、かなり違って来ます。それだけで、その現象は、繰り返し、起こる傾向があるのです。さらに、それに強い印象をもち、感情的な反応を伴えば、それはなおさら、強化されます。

 

それは、その現象に注目したことにより、繰り返し起こるのではなく、注目しないでも、たまたま、まれな現象として、繰り返し起こっていたものに、注目したが故に気づかれたというに過ぎない、という見方もあり得ます。しかし、私も、注目することで、明らかに、連続的に起こるようになるということを、何度も体験していますし、ユングや、その研究者河合隼雄も、そのことを示唆していました。

 

本当に、単純な例では、たとえば、ある数字に特別に注目するだけで、その数字を身の回りに目にすることが、明らかに、連続して、増えるということが起こります(何か、世界相手に、ゲームをしているような感覚に陥ります)。皆さんも、是非試してみてください。これは、マージャンやその他のギャンブルでも、よく起こることで、むしろ、ギャンブルにおいては、あえて、そのように意図して、その数字を「引き寄せる」ということが、(無意識にも)行われるものとみることができます。

 

そして、前々回も述べたように、「霊界の境域」に入り込んだときには、「共時性現象」は頻発し、このような、「受け止め方」によって、現象自体が変化する傾向も、如実に感じ取れるものとなります。

 

そのような現象は、たまに起こるということであれば、特に影響を受けることもないでしょうが、そのように頻発するときには、混乱したり、振り回されて、よからぬ精神状態に陥ることにもなりがちです。ですから、そのような場合は、どのように受け止めるかが、殊更重要なことにもなります。

 

多くの人が、日常的にしているように、そのような現象を、単なる「偶然」として、受け流すという方途もあり得ます。後にみるように、「共時性現象」を、否定的、恐るべきものと受け止めれば、その現象自体も、実際に、そのような傾向を帯びて、それが繰り返される可能性があります。それで、下手に「共時性現象」などと受け止めるぐらいなら、「偶然」として受け流す方が、賢明ということもできます。

 

しかし、「共時性現象」は、前々回みたとおり、日常を超えた、「オカルト」的な現象を身近に感ずるよい機会だし、これまでの常態化した「世界」の受け止め方を変え、新たなものをもたらす機会にもなります。また、「霊界の境域」に入り込んだときのように、それが、明らかに、偶然とは考えられないというほどに、頻発するときには、もはや、偶然ということで、受け流すことは難しくなるでしょう。

 

従って、そのようなときは、「共時性現象」をそれとして受け止めたうえで、それに囚われることなく、振り回されないようにするという方向に向かうことが、建設的です。そして、その受け止め方によって、その現象の現われ自体を、良い方向に変えていける可能性があることを知ることも重要です。

 

「共時性現象」を、それとして受け止めるということは、前々回も述べたように、その現象を、単純な因果律の延長上に解釈することを止め、因果律を超えた別の原理が働いたものとして受け止めるということです。

 

単純な因果律の延長上に解釈した場合、前々回の例でいくと、たとえば、「心に思っていることが、何事か、または誰かを通して、まさに現れ出たような場合、自分の心が(盗聴などの方法で)読まれている<から>、そんな現象が起こったのだと、被害妄想的な解釈をすることにつながる」ということがあります。あるいは、「逆に、自分が思っていることがらが、まさに外界にも、何らかの形で現れ出たようなとき、自分には、特別の「力」がある<から>、そのような現象を起こせたのだと、誇大妄想的な解釈をしてしまう」ことにもなります。

 

どちらも、それが頻発する状況では、妄想的に凝り固まってしまって、かなり危険な状態をもたらし得ます。

 

このような場合には、「理由は何にせよ」、「意味的に関連する出来事が、同時的に起こったに過ぎない」ということ。そして、「単純な因果律を超えた原理が働いた」のだと、まずは率直に認めることが必要なのです。

 

前回もみたように、「共時性現象」にも、それが起こる「原理的な理由」はあって、それは、(種々のレベルにおける)「意識」にこそあると言えるのですが、それは、物理的な世界における「因果律」、特に、単純な「一義的」な因果律とは異なります。そこを、短絡的に、因果的に解釈すると、上のような、「妄想」につながる解釈をし、囚われを生むことになるのです。

 

しかし、先にみたように、「意識」の作用が元であるとすると、その現象自体に対する、自分自身の「受け止め」方もまた、現象自体に影響を与えることになり得ます(頻繁に起こる状況では、それを自ら確かめることもできるはずです)。そのことを自覚して、その受け止め方自体を、できる限り、肯定的、建設的なものにしていくということが必要になるのです。

 

「共時性」は、「意味」において関連する出来事が同時的に起こるのですから、その「意味」というのを、よい兆候として、肯定的に受け止めるか、または、悪い兆候として、否定的に受け止めるかということが問題となります。

 

そもそも、「共時性現象」は、頻発して起こると、恐怖をもたらすものがあるので、悪い兆候として、あるいは、自己に対して、攻撃的なものとして、否定的に受け止められる可能性が高まります。否定的な受け止め方は、感情的な要素も伴って、より強化されがちなので、その否定的な受け止め方自体が、現象に影響し、さらに否定的な現れを繰り返し、循環されるようになる傾向もあるのです。

 

このことに関連して、一つの典型的な例として、このような現象を、「集団ストーカー」の被害を受けている、と解釈するものがあります。

 

人などと、不自然な形(自分の内心にとって特別なタイミング)で、出会うことなどが重なると、自分に誰かが、つきまとっているというような感覚に陥ることにもなります。そして、それを、集団としての組織が、嫌がらせのために、ストーカー行為をしていると解釈するようなことも起こるのです(最近は、ネットでも、多くの「被害報告」が挙げられていることにもよります)。

 

そして、そのような解釈にはまり込むと、その「被害」は、延々と繰り返されて、止まない傾向があります。

 

これなどは、(単なる誤認でないとすれば)、偶然を超えた「共時性現象」が元になっている可能性があり、それを否定的、攻撃的なものとして受け止めてしまったために、まさに、その否定的な現れを、実際に強化して、繰り返し現れるようにしてしまったものと解されます。

 

ですので、「共時性現象」は、できる限り、肯定的、建設的なものとして受け止めることが望ましいのです。明らかに、否定的なものがあるときでも、肯定的、建設的な受け止め方ができれば、その方向に変わってくる可能性もあります。

 

たとえば、前々回あげた、ユングの「黄金虫」の例でも、「黄金虫」の夢を、何か奇妙な、攻撃的な現われとして、受け取る可能性もあったはずです。しかし、それを、「癒し」に関わる、神話的、象徴的な意味として受け取ったことが、(患者自身にも)作用し、「癒し」へ向けた、よい結果を「引き寄せ」たとも考えられます。

 

ただし、そのように、あえて、肯定的に受け止めることなどをしないでも、殊更、否定的に受け止めなければ、その現象が繰り返されることもないとして、受け流すような態度を身につけることも必要でしょう。むしろ、「共時性」として受け止めたうえで、あえて「意味」を詮索したりしないで、ただそのまま受け止めておくことの方が、現象に拘らないようにするうえで、望ましいとも言えるのです。私自身は、そのようにしています。

 

現在は、この世界自体が大きく揺らいでいる(ある意味「霊界の境域」と化している)ので、このような現象は、一般にも、ますます頻発して来ると思われます。そのような現象は、何か特別なことではなく、自然なこととして、受け止めることの方が、適切になって来ると思われるのです。

 

以上、要するに、「共時性現象」は、因果律を超えた現象とはっきりと受け止めつつも、それには囚われず、受け流し、あるいはできる限り、肯定的、建設的に受け止めるようにすることが望ましいということです。

 

次回は、難しい問題として、触れるだけにしていた、「輪廻転生」の問題を述べたいと思います。

 

※ もう一つ、「共時性現象」を受け止めるときの、ポイントとなる見方をあげておきます。それは、「現実」というものは、「確定的」なものではなく、「流動的」なものである。あるいは、「一つ」のものではなく、「多様にある」という見方です。

 

現実が、確定的なものとして、一つしかないものであるならば、意味において関連する事柄が、同時的に起こるなどということは、(「現実を変えてしまう」事柄なので)起こり得ない、という見方にもなります。これは、共時性現象自体が、受け入れ難く、恐ろしいものと感じる基盤となります。

 

これについては、記事でも、たとえば、『「量子」と「霊的なもの」』で、実際には、現実とは、観測以前に確定しているものではないことを述べました。量子のレベルでは、このことが認められていても、なかなか日常の現実において、このことを認めることは難しいとも言えます。しかし、共時性を受け止めるにおいても、現実について、このような柔軟な見方をしておくことは、大きく作用すると思われるのです。

 

なお、『狂気をくぐり抜ける』の方の、記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1,2』では、さらに踏み込んで、現実は知覚と別にあるのではなく、「知覚自体が現実を作る」ということも述べていますが、これも「共時性」の受け止め方に大きく影響する見方なので、ぜひ参照ください。

2020年11月 3日 (火)

「共時性」と「引き寄せ(思考が現実を作る)の法則」

今回は、「共時性(シンクロニシティ)」の現象は、スピリチュアルの方面で、「引き寄せの法則」ないし「思考が現実を作る」といわれることと関わって来ることをみます。

 

前回みたように、「共時性(シンクロニシティ)」は、内界と外界が、共時的に結びついていることから、原理的に起こるものでした。内界の心的なものが、外界の物質的な現象と、意味において、同時的に結びついて起こるのです。これは、言い換えれば、内的な「意味」が、外界の現象を「引き寄せる」ということになります。

 

内界において、ある「意味」が、情動を伴って、活性化すると、その「意味」と関連する出来事が、実際に「引き寄せられる」のです。

 

ただし、ユングによれば、その作用は、個人的な意識ではなく、その奥(「心的なものと物質的なものを超えた領域」)にある、「普遍的な無意識」によるのでした。従って、引き寄せる「意味」というのも、単純な言語的な意味というより、普遍的な無意識に特有の、「神話的、象徴的な意味」になります。

 

前回あげた、「黄金虫」の例でも、その、「癒し」に関わる、神話的、象徴的な意味が、外界にも(患者自身にも)作用し、「引き寄せ」られているのでした。

 

しかし、ユングにおいても、普遍的な無意識は、我々の個人的な意識や無意識と、互いに関わり合って、働くものです。従って、我々の個人的な意識のあり様や受け止め方によって、「共時性」という現象の起こり方も、変わって来.るのです。

 

その範囲で、ユングにおいても、個々人の意識、思考が、外界の出来事を、共時的に、「引き寄せる」ことを認めていた、と言うことができると思います。

 

ところで、前に、記事『「霊」とは何か』において、物質的なものを越えた領域は、「霊的なもの」として認識できることをみました。共時性を起こす、「物質的なものと心的なものを越えた領域」というのも、本来、この「霊的な領域」とみなすべきです。「物質的なもの」を超えた、「霊的な領域」と捉えることで、「引き寄せ」という現象が、流動的、包括的な「霊的な領域」から、固体的、限定的な「物質的な領域」へと、具現化される過程も、より具体的に理解できることになります。

 

ただ、ユングは、あくまで、心理学者として、「霊的な実体」とはせずに、「心理的」な規定をしたのです。

 

しかし、記事でもみたように、「霊的なもの」も、「霊」「魂」「体」の三要素に分割でき、その本質をなすのは、「霊」とすると、結局は、(心的な)「意識」そのものなのです。ただし、この「意識」は、個人的な個々の意識から、もっと深く、普遍的なレベルの意識まで、すべてを貫き通しているものです。最も深い意味では、ユングの考えたような、人類に共通の「普遍的な無意識」というのを超えて、より広大な、「宇宙大」の、あらゆる存在の根底に働く、根源的な「意識」と解されるのです。

 

ただ、記事『「量子」と「霊的なもの」』でも触れたように、その根源的な「意識」は、我々の個々の意識の「大元」であり、本来は、我々の意識と一つのものとも言えるものです。スビリチュアルの方面で、「一なるもの(ワンネス)」ということが言われるのも、そのようなことに基づいています。

 

結局、「共時性」とは、このように、様々なレベルを含む、「意識」の作用により、起こるということができます。「それは、最も、根源的な「意識」のレベルから、我々の個々の意識のレベルまで、様々なあり方で、いわば、それに「ふさわしい」あり方で、起こるということです。

 

通常は、ユングも言うように、我々の意識または思考が、直接起こすというのではなく、それが、それを超えた「普遍的な意識」と通じることにより、結果として、「引き寄せられる」ということができます。我々の意識の側からすると、いわば「他力」的な面が多くあります。

 

しかし、場合によっては、我々の個々の意識、思考が、直接、「主体的」に、「共時性」を「引き寄せる」かのような現象もあるのです。そうなると、これは、もはや、「引き寄せる」というよりも、「思考が現実を作る」と言った方がふさわしいことになります。あるいは、これは、ほとんど、我々の思考、願望を直接実現させる、「魔術」ということにもなります。

 

しかし、本来、我々の個々の「意識」も、根源的、普遍的な「意識」と通じているものとすれば、それは、起こっておかしくないものだし、むしろ、起こることの方が「本質的」なことなのです。

 

前に、記事『「生き霊」と「想念形態(エレメンタル)」』で、思考というものは、「想念形態」として霊的世界で実体化し、それが物質的な世界へも影響を与えることをみました。ただし、あやふやで曖昧な思考は、実体化しにくく、強い影響をもちませんが、明確に練られた、統制された思考は、実体化する力も強くなります。つまり、「思考が現実化する」ことをもたらしやすくなるのです。

 

あるいは、「引き寄せ」または「思考の現実化」は、「意識」のもたらす波動(周波数)が、共通の要素を引きつける(共鳴させる)ために、起こるという理解もできます。この観点からは、波動(周波数)として、より明確で、安定的に形成されたものが、「引き寄せ」または「思考の現実化」を起こしやすいことになります。

 

ただし、この「波動」は、「霊的なもの」を含めて初めて捉えられるような性質のものであって、現在捉えられている、「物理的な波動」ということで、理解できるものではありません。(但し、量子力学などは、比喩的に多くの示唆をもたらすものではあります)。

 

このように、「引き寄せ」ないし「思考が現実を作る」ということは、とりあえず、実際にあることですが、スピリチュアルの方面で言われるほど、簡単で、単純なことではないのが分かると思います。

 

それは、「意識」の作用と言っても、自己を超えた大きな意識の作用であることから、単に、現にある自己の欲望の実現であるようなことまでを、広く含むのです。

 

また、人間の意識、思考とは、単純に、一面的ではないので、ある思考または欲望をもっているとしても、それに反するような欲望を同時にもっているということも多くあります。あることを望んでいるようで、無意識の奥では、反対のことを望んでいるとすれば、その反対のことの方が実現するということにもなります。

 

さらに、前回も触れたように、人間は、ボジティブな思考よりも、ネガティブな思考に囚われやすいので、ネガティブな思考の方が、感情をも巻き込んだうえ、強力化しやすく、そちらを現実化することの方が、どうしても多くなると言えます。

 

さらに言うと、「意識」には、さまざまなレベルがあると言いましたが、記事『「霊」とは何か』でもみたように、人間のほかにも多様な「霊的存在」がおり、それらの「意識」もまた、「共時性」を起こす一つの要因となります。これらの存在は、人間と違い、時間(従って、因果律)に縛られていないので、より共時性を起こしやすいのです。中には、意図的に共時性を起こすことで、人間を惑わすような存在もいます

 

記事『「捕食者」という存在の実質と限界』などで述べたように、「捕食者」という存在は、まさに、このような現象を起こすことで、人間を混乱させ、それをネカティブに受け止めさせることで、さらにネガティブな思考や感情を継続的に強化させようとします。

 

「共時性」ないし「引き寄せ」、「思考の現実化」には、このように、様々なレベルのものがあるので、まずはそのことを認識することが必要です。それには、ボジティブな面もあれば、ネガティブな面もあります。また、多様な「霊的な存在」に通じる面もあります。従って、安易に、「引き寄せ」や「思考の現実化」を望むのが、適当とは思われません

 

ただし、「引き寄せ」、「思考が現実を作る」こと自体は、事実と言えるで、それを自ら自覚し、それが望ましい方向に実現化するように働きかけることは、適当なことと言えるでしよう。

 

次回は、前回も触れた、「共時性」や「引き寄せ」の受け止め方の問題について、もう少し、具体的にみてみることにします。

2020年10月 1日 (木)

「共時性(シンクロニシティ)」-概観と重要性

「共時性(シンクロニシティ)」もまた、「オカルト」にとって、基本的で重要なことがらの一つてす。割と誰でも体験するものでありながら、それが意味することは、「オカルト」にとって、深く重要なことを指し示してもいるからです。

「共時性(シンクロニシティ)」とは、一般に、「因果的にはつながりがない、意味において関連する複数の出来事が、同時的に起こること」です。「意味のある偶然の一致」などとも言われます。

「偶然の一致」と言われますが、偶然とはとても考えられないものを含みます。つまり、物理法則の範囲を超えた、「超常的」な出来事の一とみなし得るのです。だからこそ、強く印象づけられることにもなります。それで、この現象は、通常の物理法則を超えたもの、つまりは、「オカルト的なもの」を、意識させるきっかけにもなりやすいのです。

「超能力」についての記事でも触れましたが、誰かのことを考えたら、ちょうどその人から、電話が来た、とか、あることについて気にかけていた(知りたいと思っていた)ら、ちょうどそのことが、読んでいる記事などに載っていた、などのことは、割と誰でも頻繁に経験することでしょう。

ただ、この概念を提唱した心理学者のユングは、初め、この現象を、一般的なものではなく、深層心理的な関連のもとに起こる、特別な意味合いのものと考えました。個人的な無意識の奥にある、「普遍的無意識」が活性化したことにより、その象徴的(元型的)な意味が、外界と結びついて、特別に現れ出たものとしていたのです。それは、「聖なるもの」といった感覚に近く、人生の方向性においても、大きな示唆をもたらすものです。

たとえば、ユングが治療していた患者が、古代エジプトの神話的な存在である「黄金虫」の夢を見て、とても印象的だったことをユングに話していると、ちょうどそのとき、それと似た黄金虫が、治療室の窓を叩いて来たということがありました。2人はそれに驚きますが、以後、それをきっかけに、(その象徴的な意味合いのとおり)治療が進んだということです。

しかし、ユングは、晩年、弟子から、「共時性は、内界と外界が共時的に結びついていることから、必然的に起こるのではないか」という指摘を受けて、それを認めることになりました。つまり、「共時性」そのものは、特別の現象ではなく、内界と外界の結びつきとして、常に起こっている、一つの「原理」ということです。

(物理的な)「外界」では、時間的な原因と結果の関係で示される、「因果律」という原理が働きます。しかし、心的な「内界」と「外界」の関係は、時間的な因果律ではなく、つまり、どちらかが原因となるというものではなく、意味において、同時的に、「共時性」の原理で、結びつくものとしたのです。

「外界」あるいは「物質的なもの」と、「内界」あるいは「心的なもの」が、どのような関係にあるのかというのは、古来からの哲学的問題でしたが、それに一つの解答をもたらすことにもなっています。

現代に行き渡る、通常の「唯物論」では、「物質的なもの」が、「心的なもの」の原因とみなされます。特に、「脳」が、「心的なもの」の原因とされることになります。反対に、「唯心論」では、「心的なもの」こそが、「物質的なもの」を作り出した原因とされます。この見方も、現代にも、かなり根強く残っています。

ところが、「共時性」の原理は、「物質的なもの」でもなく、「心的なもの」でもなく、その奥には、それら両者を超えた働きがあり、それが両者を、意味において同時的に結びづけているとするのです。

それは、とりあえず、「心的なもの」と「物質的なもの」の、どちらかが原因となるわけではないですが、「意味」において結びつくのですから、「心的」な要素が、主要な位置に来ることは明らかです。ユングとしては、個人的な意識や無意識ではなく、「普遍的無意識」または、それを通して「元型」という、個人を超えた、超越的ともいえるものが、働くことを想定したわけです。しかし、「心的なもの」一般もそれに関わる以上、次回以降にみるように、そこに、個人的な思考や意識が、関与するという可能性も、十分考えられることなのです。

それは、スピリチュアルの方面で、いわゆる「引き寄せの法則」とか、「思考が現実を作る」といわれることに、関わってくるのです。

さらに、「心的なもの」が、「物質的なもの」と、「共時性」の原理で結びついているということは、「内界」も「外界」も含めた、あらゆる存在が、本来一つのものとしてつながっていることを、示唆しています。「心的なもの」が、単に個人の意識や無意識ではなく、普遍的なものとすれば、一見切り離されているように見える、個々の人も、また、その普遍的なものを通して、我々の知覚する個々の物質も、本来、一つにつながっているということになるはずなのです。

このことは、やはり、スピリチュアルの方面で、すべては「一なるもの」(ワンネス)として、つながっている、といったことに関わって来ます。

このように、「共時性」の原理は、理論的な面でも、「オカルト」に関わる、さまざまな問題を引き起こします。

しかし、「共時性」に関しては、何よりも、実際的な面が重要です。

そもそも「内界」と「外界」が「共時的」に結びついているのであれば、外界において、内的な意味と結びつく事柄が同時的に起こることは、それほど不思議ではないことになります。従って、誰でも、また、頻繁に起こり得ることになります。

同時に、それは、特別に、重要な意味をもつものとは、限らないことにもなるのです。通常は、「偶然の一致」ということで、顧みられない出来事の多くが、実際には、「共時性」の現れということは、常にあり得るのです。また、我々が、普通「運」と呼ぶものも、「共時性」の一つの現れということに、十分なり得ます。

つまり、実際に、我々が、多く体験する事柄、日常的に体験しているが、普段顧みない現象が、実際には、そのような、「オカルト的なもの」と関わる現象である、という可能性があるということです。通常は、唯物的な発想のため、覆い隠されていますが、「共時性」に着目することで、「オカルト的なもの」が、意外と身近なものであることが、改めて認識されると思います。

ただし、このような「共時性」は、ユングが考えたように、プラスの面だけでなく、マイナスの面もあることには注意が必要です。

ボジティブな意味で、内界と外界が結びつき、それが現象をアレンジするのはいいですが、反対に、ネガティブな意味で、内界と外界が結びつき、それが現象をアレンジする場合には、その意味にかなった、ネガティブな現象が生起します。しかも、往々にして、人は、ネガティブなことがらにこそ囚われ、感情的にも巻き込まれて、それを循環的に繰り返し、そこから逃れ難くなりがちなのです。

具体的には、次回以降にみますが、こういったいわば不幸の連鎖は、割と起こりやすいことであり、それを避けるためにも、「共時性」への注目は、必要なことと思われるのです。

また、「共時性」は、先にみたとおり、因果律ではなく、原因と結果の関係ではないのですが、因果的な解釈に慣れている我々は、往々にして、この現象が起こったとき、因果的に原因と結果の関係で解釈しがちです。そうすると、たとえば、心に思っていることが、何事か、または誰かを通して、まさに現れ出たような場合、自分の心が(盗聴などの方法で)読まれている<から>、そんな現象が起こったのだと、被害妄想的な解釈をすることにつながります。

あるいは、逆に、自分が思っていることがらが、まさに外界にも。何らかの形で現れ出たようなとき、自分には、特別の「力」がある<から>、そのような現象を起こせたのだと、誇大妄想的な解釈をしてしまうことにもなります。

さらには、先にみたように、「共時性」は、内界と外界がつながっているために起こるのですが、この現象は、確かに、内界と外界のつながりを意識させ、それらが切り離されているという、それまでの認識からは、異常で逸脱した事態と感じられます。それは、恐ろしいことでもあり、「閉じられた」ものとしての自己が、安定的な基盤を失って、いわば周りに拡散したり、あるいは、周りから操作されるというような、不安定な状態をもたらします。

これらは、統合失調との関わりを連想されるでしょうが、まさにそのとおりで、統合失調という、予期せぬ、「霊界の境域」への侵入状況は、「共時性」が頻繁に起こる状況でもあるのです。そこで、「共時性」をそれと認識して、それに必要以上に囚われないようにするためにも、「共時性」については、ひととおりの知識を得ておく必要があると思われるのです。

今回は、一通り概観するにとどめましたが、次回以降は、さらに具体的に、こういったことにも踏み込んでいきたいと思います。

2020年8月21日 (金)

「自我の発達」や「均衡」という行き方との関係

これは、本来、かなり込み入った問題ですが、ここでは、疑問に思う人のために、参照になる程度に、簡単に、触れておくだけにとどめます。

 

1 「自我の発達」との関係 「捕食者の心を脱する」という行き方は、普通一般に言われる、「自我の発達」ということとは反するように思われるでしょう。「自我の発達」が望ましいことだとすれば、「捕食者の心を脱する」ことは、望ましくないことになります。普通に言われる「自我の発達」とは、現代の社会に適応するためのものなので、「捕食者の心」を中心にできている、現代の社会にとっては、確かに沿わない方向に行くことになるのです。

 

しかし、本来、「自我」ということには、今まで述べた、「捕食者の心」と「元々の心」の両方が含まれているとみなすことができます。「元々の心」を発達させるという意味では、「自我の発達」は、やはり必要なことと言えるのです。

 

前に、「低次の自我」と「高次の自我」について述べましたが、「捕食者の心」と「元々の心」は、必ずしも、そのままそれに重なるわけではありません。「元々の心」も、現実に発達していないと、「高次の」働きができるわけではないからです。

 

かなり割り切った言い方ですが、「捕食者の心」=(自我ではなく)「エゴ」と捉えると、分かりやすくなると思います。他者との関係で、保身、優位に立つこと、収奪などのために、自分自身を重視して行く心です。しかし、これは、本当には、「自分自身を重視」するものとは言い難いものです。自分自身の本来の意向というよりも、他者や社会との関係で、そうならざるを得なくして、そうなっているようなものだからです(もともと、他者から、植えつけられたものなので、そうなってしまうのも必然ということができます。まさに「奴隷」ということです)。

しかし、普通に「自我の発達」というときは、こういう面を多く含むのです。

それに対して、「元々の心」は、他者や社会との関係というのではなく、単純に、自分自身の経験のために、「主体性」を発揮して行く心と言えます。ただ、現状では、「捕食者の心」に乗っ取られているために、その「主体性」を発揮できない状態になっているということです。

 

「元々の心」=「主体性」、「捕食者の心」=(一見主体的であるようで、実は)「他者依存性」というのが、ポイントです。

 

「自我の発達」ということには、本来、このような「主体性」の発達ということも、含められるべきものです。

 

ドンファンの説明では、「捕食者の心」を脱して、初めて、「元々の心」、つまり、真の主体性を発達させることができる、という意味合いが強いです。確かに、「捕食者の心」がその邪魔をするので、「捕食者の心」を脱しないと、「元々の心」を発達させることは難しいでしょう。

 

しかし、私は、「捕食者の心」を脱してからでないと、「元々の心」を発達させることができないとは思いません。つまり、「捕食者の心を脱する」という方向を見据えつつ、それと併行して、「元々の心」を発達させることも可能ということです。「捕食者」という存在を認識し、「捕食者の心」に、意識的、自覚的になれれば、「捕食者の心」の邪魔には気づきつつ、「元々の心」をある程度発達させることは、可能と思うのです。

 

また、「捕食者の心」を脱するまでは、「元々の心」を発達できないとすれば、まさに、ドンファンの言うように、「元々の心」は全く使い物にならない無力な状態のままなので、たとえ「捕食者の心」を脱することができたとしても、その後、やっていけるかどうかは疑問ということになるでしょう(その意味では、ドンファンの説明は、多少誇張の面があります)。

 

要するに、「自我の発達」は、通常は、「捕食者の心」の発達を意味するので、「捕食者の心」を脱する行き方と相入れないのは、とりあえず本当です。しかし、真の「主体性」の発達という意味では、決して矛盾せずに、共存することも可能ということです。あるいは、むしろ、積極的に、共存させて行く方が望ましいということです。

 

2 シュタイナーの「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」との関係
シュタイナーの「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」という行き方も、一見、「捕食者の心」を脱する行き方とは相入れないようですが、「自我の発達」の場合と同様、実際には、共存可能の面があります。

 

シュタイナーの行き方については、ここでは改めて説明しませんので、それについては、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の以下の記事を参照してください。

 

「ルシファー的な性向」と「アーリマン的な性向」について→記事『「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」』。「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」について→記事『「分裂気質」と「均衡」という行き方』さらに、ドンファンの「捕食者の心」を脱する行き方と必ずしも矛盾しないことについて→記事『ドンファンの言葉―「捕食者」を脱する道』。

 

「捕食者の心」が、シュタイナーのいう「アーリマン的な性向」と多く重なることは、これまでも何度か述べて来ました。実際そうで、反対に、シュタイナーのいう「ルシファー的な性向」には、「元々の心」と重なる面があります。ただし、「ルシファー的な性向」も、外部的に植えつけられたものなので、「エゴ」的な欲望や高慢さという意味では、「捕食者の心」と重なる面もあります。

 

このように、「捕食者の心を脱する」とは、「アーリマン的な性向」と「ルシファー的な性向」の多くを脱することになるので、それらの均衡を図るというあり方とは、相入れないようにも思われます。しかし、結果としてみると、「均衡」とは、過剰な部分をそぎ落とすということなので、それらを「脱する」ということとそう違うわけではありません。

 

また、「自我の発達」の場合と同様、「捕食者の心」を脱したとしても、「元々の心」を発達させて行かなくてならないので、その発達の方向は、事実上、「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」ということと、そう違わないことにもなるのです。「元々の心」の発達は、真の「主体性」の発達と同時に、捕食者や、捕食者的な社会との関係でなされる以上、「ルシファー的な性向」の「アーリマン的なものとの(妥協ではなく、主体的な意味での)折り合い」という面をもつからです。

 

このような、「元々の心」の発達というのは、結局、「自己の完成」とも言えますが、それは、事実上、「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」というのと、違わないものになるということです。

 

(但し、それも「終わり」ではなく、バーナデット・ロバーツによれば、さらに、そこから、「虚無への溶解」ということが起こるとされ、ドンファンでも、「無限との一体化」ということが言われます。)

 

ただ、その行き方には、かなりの違いがあるのは事実で、シュタイナーのいう「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」というのは、既にあるものの、均衡を図るという意味で、より穏当で、一般向きと言えます。こちらの方が合うという人は、その方法でいけばいいと思います。

 

「捕食者の心を脱する」という行き方は、「捕食者」というものを如実に経験し、それを脱したいという動機づけをもった人に、最適の行き方と言えます。ただ、前回も述べたように、「捕食者」の活動が特別に高まっている現在、こちらの行き方の方が、一般的にもふさわしくなりつつあるという面はあると思います。

2020年8月 6日 (木)

「捕食者の心」を脱すること

既に述べたように、「捕食者の心」は、現に、我々自身の心と化しているものです。そのような、「捕食者の心を脱する」ということは、いかに途方もないことか、分かると思います。

 

それは、我々自身の「心」となっているものを、手放すということを意味するからです。我々にも、「元々の心」が、ないわけではありませんが、それは、ドンファンも言うように、敗北して隅に追いやられて、ほとんど「使いものにならない」ものになっています。「捕食者の心を脱する」とは、そのような、「か弱い心」で、この世知辛い世の中を、生きて行くことを(意志することを)意味するのです。

 

それで、前回は、「捕食者の心を脱する」ということはとりあえずおいても、捕食者の働きかけに対処し、その影響を極力少なくしていくことは、現実的に必要という観点から、述べました。

 

しかし、そのような捕食者への対処は、本来は、「捕食者の心を脱する」ということと結びついてこそ、意味をなすものです。それには、長いプロセスが必要だとしても、一応は、そのような方向を、見定めておかなくてはなりません。

 

それで、今回は、「捕食者の心を脱する」ということについても、一とおり、述べておくことにします。

 

前回も紹介した、『狂気をくぐり抜ける』の記事『ドンファンの言葉―「捕食者」を脱する道』でも詳しく述べられていますが、まずは、ドンファンの説明を中心に、より分かりやすく述べます。

 

「捕食者の心」とは、何かを「する」ときの心であり、要するに、心に様々な喧噪をもたらす、「騒ぎ立てる心」ということができます。それは、「あーでもない、こーでもない」と、「内的な対話」を通して、心に働きかけて来て、心を忙しくさせます。それが、我々の日々の悩みや葛藤のもととなり、捕食者に「食われる」もととなります。

 

それで、ドンファンは、この「内的対話を止める」ということから、「捕食者の心を脱する」道が始まるとします。それは、「すること」に対して、「しないこと」とも呼ばれます。一種の「沈黙」の状態であり、「内的静寂」の状態です。座禅やヨーガ、その他の「瞑想」によって、達せれる状態と言っていいと思います。

 

このような「内的対話が止まる」状態、「静寂」の状態は、初めは、一時的なものですが、それでも、その瞬間、「捕食者の心」は、耐え切れなくなって、「逃げ去って」いるのです。「捕食者の心を脱した」状態が、一時的にであれ、実現しているということです。それで、普段、我々がそうだと思っている心は、本来の心ではなく、「外から来たもの」ということが分かることが重要です。「外から来たもの」なので、それを脱することは、不可能ではないことも、分かるのです。

 

私も、瞑想しているときなど(それに限らず、集中が高まっているとき、深く共感する本を読んでいるときなど)には、このことを感じることが、多くあります。たとえば、それまで心が動揺し、胸に痛みを感じるような状況にあったときも、「内的対話が止まる」状態では、それらが、きれいさっぱりなくなってしまうのです。それまであったはずの、「痛み」ですら、嘘のように、なくなっていることは驚きです。

 

しかし、ドンファンも言うように、初め、そのような状態は、長くは続かず、「捕食者の心」も、すぐに戻って来ます。心も静寂ではなくなり、「内的対話」がまた始まるのですが、そうすると、一旦はなくなったはずの、動揺する心や、なんと、胸の「痛み」すら、ちゃっかりと、戻って来てしまっているのです。

 

しかし、これらのことから、本当に、それらは、本来あるものではなく、自分自身が、囚われから作り出しているのであることが分かります。「脱し得るもの」であることが分かる、ということです。

 

ドンファンは、そのようなプロセスが繰り返されることによって、徐々に、「捕食者の心」の影響力は、弱まっていくのだと言います。そして、いすれは、永遠に逃げ去ることになると言うのです。つまり、「捕食者の心が脱せられる」ということです。

 

しかし、ドンファンは、その日は、実に「悲しむべき日」だと、逆説的なことを言います。そのドンファンの言葉をあげてみます。

 

実に悲しむべき日だ!なぜって、おまえが自分自身の装置に頼らざるを得なくなる日なのに、その装置は無に等しいときているんだからな。どうすれはいいのか教えてくれる人は誰もいない。おまえが慣れ親しんいる無能な精神に指図してくれる外部起源の心は、もうどこにも残っていない。……なぜならば、われわれに属する本物の心は、それはまたわれわれの経験の総体でもあるのだが、長い長い期間を支配されつづけた結果、臆病になってすっかり自信を喪失し、あてにならないものになってしまっているからだ。
           
わしの個人的な見解を言わせてもらえば、本当の闘いはその瞬間から始まるのだ。それ以外はすべてそのための準備に過ぎん

 

初めに述べたように、「捕食者の心を脱する」ということは、敗北して隅っこに追いやられている、「か弱い」「元々の心」だけで、やっていくということを意味するのです。

 

それまでは、「捕食者の心」が、良かれ悪しかれ、社会や人との対応においても、一定の役割をなしていました。それは、多くの人との共通部分でもあったので、ある意味で、その部分でこそ、社会的な連帯や、人との共感もできていたわけで、「社会的な適応」の基礎でもあったわけです。また、何かあったときには、その心が、「攻撃的」な意味で、防御をなすものでもありました。

 

そういったものを失うということは、それまでの、「捕食者の心」に頼った生き方を止めて、全く違った生き方を、自ら築いて行かなければならないということです。それは、社会的には、ある意味で、「逸脱した」生き方になります。

 

それはまた、「捕食者」との関係でも、新たに、「元々の心」だけで、対処して行くということをも意味します。「捕食者の心」は、「捕食者」と通じているもので、奴隷になるということと裏腹にですが、その直接的な攻撃から護るものでもありました。それを失うということは、「捕食者」の攻撃も、より直接的になり、強化されるということです。

 

そのようなことが、「捕食者の心を脱する」ということを、途方もないことにし、誰もが望めることではないものにしています。むしろ、実際には、誰もが、あえて、「望まない」ものになっているということです。

 

ドンファンも、「捕食者」は、完全に「目に見えない」というわけではないので、多くの者は、子供の頃に、捕食者を何らかの形で「見て」いるが、その恐怖により、記憶からは抹消するのだと言います。(私も、子供の頃、当時は、もちろん捕食者とは意識しませんでしたが、後に捕食者と分かる存在と、「金縛り」という形で出会い、非常に恐怖したことがあります。)

 

その後も、多くの者は、意識はしないにしても、無意識領域では、捕食者について、何らかの「知識」をもっており、強く恐怖しているので、それを「脱する」などということは、望むべくもないということです。

 

だから、「捕食者の心を脱する」には、まず何よりも、「捕食者」という存在について、無意識にではなく、意識的、自覚的に知ることが前提になります。無意識では、知り得なかった、決して、恐るべき存在というだけではない面も含めてです。前回も紹介した、『狂気をくぐり抜ける』の記事『まとめ-「補食者」について』の 「6 その「克服」、あるいは影響を「脱する」ことに向けては、彼らを、「補食者」として、あるがままに認めて、「受け入れる」ことが第一歩である。」でも、「捕食者を捕食者として受け止める」ことこそが、「脱すること」の始まりの一歩であるとしていました。

 

「捕食者の心を脱する」こと自体が、このように大変な道なのですが、しかし、たとえ脱することができたとしても、それはある意味で、本当の、「始まりの一歩」なのだと、ドンファンは言うのです。そして、前回述べたような、「捕食者に対する対処」ということも、改めて立ち返って来ることになります。「捕食者」の方でも、それで攻撃を止めるわけではなく、むしろ強化されてくるからです。

 

ドンファンは、その対処の手立ては、端的に、「予期せぬ事態にあっても、ひるむことなく立ち向かう能力」と言っていました。それも、「強い」からではなく、「畏敬の念に満ちている」からこそです。(攻撃的な心である)「捕食者の心」なしに、それに対処するには、それしかないということになるのです。

 

さらに、既にみたように、社会的、対人的な意味でも、「元々の心」だけで生きて行くことは、困難な道になります。

 

私も、『狂気をくぐり抜ける』の方で述べたように、一連の体験のピークには、「闇との接触」ということが起こり、それは、「捕食者の心」を、永遠にではないですが、単に一時的にというのでもなく、「逃げ去らせる」ことになりました。

 

それで、当分は、静寂で、悩みや葛藤からは解放された状態が続いたのですが、社会的、対人的には、「弱々しい」「元々の心」だけでやって行くという、困難な事態を経験しています。私は、それを「リハビリ」とも言っていましたが、本当に、全く「生まれ変わった」ような状態で、「右も左も分からない」状態から、つまり、ほとんど赤ちゃんに等しいような状態で、一からやり直すというようなものでもありました。

 

捕食者の攻撃も、前のように継続はしないのですが、ときどきのものが、前以上に強烈になった面があり、新たに対処が大変になった面があります。しかし、特に、社会や他の人間との関係や折り合いに、とても苦労することになったのです(その背後に、捕食者がいるという意味では、それも捕食者との関係の一面と言えますが)。

 

(現在は、それらがある程度身についたという面と、恐らく、「捕食者の心」もいくらか戻って来てしまっているので、それほど苦労することはなくなっていますが…)

 

いずれにしても、現に我々自身の心となっている、「捕食者の心を脱する」ということは、途方もないことのようではありますが、決して不可能なことではありません。前回述べたように、現在は、「捕食者への対処」が、誰しも必要な時代になっているとすれば、やはり、いずれは、「捕食者の心を脱する」という方向性を、見据えたものにする必要があると思います。

 

既にみたように、たとえ、「捕食者の心を脱する」ことができたとしても、それは、「新たな生」の始まり、「本当の闘い」の始まりを意味し、「捕食者への対処」も、相変わらず必要ということにはなります。それは、意気を消沈させるようなことかもしれませんが、ドンファンがそれを強調するのは、文字通り「逆説」の面もあります(それが「ゴール」ではないことの強調)。そして、もし、時代的に、多くの者ではなくても、ある一定の人たちが、そのような方向に進めたとしたら、それまでの社会も、大きく変わることになります。そうすると、「捕食者の心を脱した」後の「新たな生」も、それほど困難なものとはならないで済むと思うのです。

 

次回は、「捕食者の心を脱する」ということと、いわゆる「自我の発達」ということ。さらに、シュタイナーのいう「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」ということとの関係についても、触れておきたいと思います。

2020年7月17日 (金)

「捕食者」への対処

「捕食者の心」を脱することについては、『狂気をくぐり抜ける』の記事『ドンファンの言葉―「捕食者」を脱する道』で、ドンファンの言葉をあげながら、述べています。ドンファンの説明では、「捕食者への対処」と「捕食者の心を脱する」ことが、一体的に述べられています。

 

しかし、次回改めてみるように、「捕食者の心を脱する」とは、途方もないことで、誰もが望み得ることでもないので、ここでは、まず、「捕食者への対処」を、その前提となることとして、より一般的な観点から、述べたいと思います。

 

前回も触れたように、「捕食者は宇宙の本質的な一部」であり、「宇宙の探測装置としての人間に働きかける」ものです。人間が「宇宙の探測装置」であるとは、宇宙は、人間の経験を通して、自分自身の認識を得る(ものとして造った)ということです。捕食者も、そのような人間に働きかけることで、結果的には、宇宙の自己認識を助ける働きを担っているということができます。

 

ともあれ、捕食者も、シュタイナーのいう「アーリマン存在」と同様、宇宙的意義があるからこそ存在しているということです。

 

その意味でも、捕食者は、だたの邪悪な、「悪魔」的存在とみて、恐れたり、なきものにしたいなどと思うことは、無意味です。捕食者には、闇雲に反発したり、排除しようとすればよい、というものではないということです。

 

ドンファンも、捕食者は、宇宙の本質的な一部として、「ありのままに認めて受け入れる」ことを前提に、いかに、「奴隷」状態となることなく、影響を脱して行くかを問題にしているのです。

 

捕食者の「奴隷状態とならない」とは、要は、捕食者に、「いいように食われない」ということです。ドンファンは、「捕食者の口に合わない」ようになることと言います。

 

既にみたように、捕食者は、恐怖などの「ネガティブな感情エネルギー」を食糧源とし、そのために、戦略的に働きかけている存在です。なので、その働きかけに乗って、恐怖あるいは混乱し、怒り、絶望感などのネガティブな感情を、継続的に供給してくれる者ほど、「口に合う」ことになります。先に触れたように、無闇に反発することも、「ネガティブな感情」の裏返しであり、捕食者にエネルギーを供給することになることには、注意を要します。

 

何しろ、このように、「捕食者の口に合わなくなる」とは、捕食者の働きかけがあっても、それに乗って、「ネガティブな感情エネルギー」を、供給しなくなる、ということに尽きます。

 

ドンファンは、これを端的に、「予期せぬ事態にあっても、ひるむことなく、立ち向かう能力」と言っています。それも、「強い」からではなく、「畏敬の念に満ちている」からこそ、と言うのです。

 

捕食者の戦略は、まさに、「予期せぬ」こと、こちらの予測に反し、混乱するようなことを仕掛けて来るので、「予期せぬ事態にあっても、ひるむことなく、立ち向かう」というのは、全く頷けることです。それが身につけば、捕食者の戦略的な働きかけにも、たじろがず、恐怖などの「ネガティブな感情エネルギー」を供給することもないからです。そればかりか、これは、人生を生きるうえで、一般的にも、大きく作用するはずのことです。

 

ただ、「強い」からではなく、「畏敬の念に満ちている」からというのには、注目されます。「強い」というのは、一見望ましいようですが、むしろ、「捕食者の心」の発展の方向に沿うものと言うべきです。「攻撃」または「戦い」の発想の延長にあるもので、それは、やはり、「ネガティブな感情エネルギー」の裏返しという面があるのです。

 

「畏敬の念に満ちている」というのは、捕食者に限りませんが、先にみたように、「捕食者」という存在についても、基本的なところで、「受け入れ」ているということ、その意義を認めているということになります。無闇な反発や、攻撃、戦いの発想で、対処しないということです。そのように、真に「異形の念に満ちて」いれば、「奴隷」になることもない、ということだと思います。

 

このような、ドンファンの説明は、かなり「途方もない」ことのように思われるかもしれませんが、それは、最初に言ったように、既に我々の心となっている、「捕食者の心」を脱するということと、結びつけられて言われているからです。

 

しかし、一般的にも、捕食者の奴隷状態とならずに、対処するということは、誰しも必要になることのはずで、その場合にも、これは、基本に据えられるべき視点だと思います。

 

だた、これを、もう少し、一般的に言い直せば、捕食者の働きかけなど、「気にしない」でいられるようになる、ということになるでしょう。影響を受けず、「気にしない」でいる人からは、捕食者もエネルギーを収奪できないので、離れて行くことになります。

 

しかし、これが難しいことであるのは、実は、捕食者という存在を知れば、知るほどという面もあるのです。捕食者なる存在を知らないうちは、捕食者の働きかけにも気づかないことが多く、生来、ポジティブで楽天的な人は、そのまま気にもかけないで過ごすことも多いはずです。

 

ところが、捕食者という存在を知れば、どうしても、それを意識してしまい、恐怖の思いは強まります。人間にとっては、未知の存在であり、人間を超えた存在であることは間違いないからです。「知らぬが仏」ということは、この場合にも、大いに当てはまります。

 

しかし、この『オカルトの基本を学ぶ』というブログの意図を、最初の記事で述べたように、現在は、もはや、そのような領域のことを、知らずにいることを通すことで、くぐり抜けるのは、難しい状況になっていると思います。捕食者は、単に、個人的にではなく、全体として、人間そのものや社会にも働きかけており、個人的には、大して影響を受けないようにみえる場合でも、知らずのうちに、人間そのものや社会そのものが、大きく貶められています。

 

そこで、今後は、各人が、捕食者という存在を知ったうえで、その影響を、より受けない方向に、自覚的に進むことが必要と解されるのです。

 

私は、捕食者の「恐ろしい」面についても述べましたが、「捕食者の限界」や「弱点」となることについても、多くを述べました。捕食者は、決して、人間が対処し得ない、全能の存在ではないので、それらを総合したうえで、捕食者の影響を受けなくなること、あるいは、少なくとも、より少なくして行くことは、可能なのです。

 

初め、捕食者について知り、様々な働きかけについて、知るようになると、それまで予想しなかったことだけに、驚きと混乱も強くなることとは思います。しかし、捕食者について知ることは、世界や宇宙について、より深く知ることにつながりますし、捕食者の影響を脱する動機づけにもなることです。捕食者そのものについても、知ることが増えれば、いずれ、その影響を受けなくなることは可能ということも、実感できるようになると思います。

 

むしろ、捕食者を知らないでいることこそ、捕食者に、やりたい放題にさせる、土壌になっていると言えます。実際、捕食者は、自分らについて、人間に知られないことも、戦略の一部としているのです。

 

次回は、さらに進んで、我々の「捕食者の心」を脱するということについて、みてみます。

 

なお、捕食者に対する対処法として、ここに述べたことは、捕食者そのものではなく、「捕食者的な心」の発展した、人間の「エネルギーバンパイア」の、いじめその他の、陰湿な働きかけにも言えることです。

 

 「捕食者への対処」については、『狂気をくぐり抜ける』の記事『まとめ-「補食者」について』の、<6 その「克服」、あるいは影響を「脱する」ことに向けては、彼らを、「補食者」として、あるがままに認めて、「受け入れる」ことが第一歩である。>でも、改めて、かなり詳しく、まとめ的な説明をしているので、是非参照ください。

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