野性の熊と出会ったこと
メディアでは、最近連日のように熊との遭遇や、熊に人間が襲われた事件が報道されている。人間の居住域の街中まで侵入して来て人々を騒がせる事例も多い。熊が冬眠に入る前で餌を多く必要としていること、最近の熊は人間を怖がらなくなっているのは分かるが、それにしてもここに来て急に、全国規模で明らかに異常な数の熊の出没である。報道による限り、明らかな熊の攻撃性の高まりと狂暴化が感じられるのも異常としか言いようがない。
実は私もそんな中、割と最近(10月の半ば頃と思ったが)生まれて初めて野生の熊と出会うことになった。それも一日に2度である。
記事『『遠野物語』の衝撃』で、遠野の近くの高原が好きでたまに行くことを述べていたが、その高原に行く途中の道路で1回、その帰りの道路で1回それぞれ別の熊に出会っているのである。
高原には牛の多くいるだだっ広い牧場があるのだが、かなりの山道であるし、既に熊との遭遇事件はかなり報道されていた頃で、熊と出会ってもおかしくないという予感はあったし、行くのは控えようかとも思った。しかし、そこは冬になれば行けなくなるところだし、今後ますます事件が増えて、行くのを控えなければならなくなると思ったので、当分は行けなくなる前にやはり行くことにした。
そうしたら、案の定、高原に向かう行きの山道の途中で、前方2、30メートル先にかなり大きな熊が道にいるのを発見した。車なので怖い思いはほとんどなかったし、「ああ本当に会ってしまった」という一種の感動が先だった。私は車を停めてしばらく見ていようと思ったが、熊はこっちを見ると、割とすぐスコスコと道から離れてやぶの中に入っていってしまった。
実は、記事でも述べたように、この高原に行くときは、いろいろな動物と出会うだけでなく、牧場の牛ともちょっと信じがたいようないろいろな交流が毎回ある。前回は、たぬきと鹿と出会っていて、今回の熊の振る舞いはちょうど前回のたぬきと同じですぐさまスコスコとやぶに隠れて行ったものだった。
そして、今度は帰り(行きとは違う道だが)、また前方今度は10メートルくらいの割と近くに一匹の子熊を発見した。道路の脇の方にいて、私の車と並行して走るかのような体勢も見せていたが、私は車を停めて観察していた。このときは、子熊だけにかえって何をするか分からない恐れも少し感じたが、熊は道路わきをしばらく走って行って、その後やぶの中に消えて行った。軽く走っている感じだったが、思った以上のスピードには驚かされた。
そしてこのとき、実は自分が熊に向かって「襲って来るなよ」と、口ではなく内心の声でだが言っていたのをはっきり自覚した。私は、前に記事にも書いたと思うが、動物などに内心の声で話しかけていたことを後で「思い出す」ことは実は割とよくあって、その前にも立派な角の生えた雄鹿と道路で出会ったときも、やはり「襲って来るなよ」と話しかけていた。雌鹿や子鹿はまず出会えばあわてて逃げて隠れるが、さすがに雄鹿は簡単には隠れようとしないので、やはり本気で向かって来られたら厄介だという思いがある。
ただ「襲って来るなよ」というのは、決して強い攻撃的な「口調」ではなくて、諭すような感じの柔らかい言い方で、実は相手に伝わっていたのかどうかも分からない。(こういうとき、相手に伝わったと思うときは割としっかりした感覚がある)。ただ、自分がそのような声を発していることで、それになりに怖れを感じてたんだなというのは、改めて分かることになった。
動物に限らないが、こういうときは、恐れから行動してしまうことが一番まずい。恐れの感情は何らかの形で相手に伝わるし、相手をも巻き込んでしまうだけのエネルギーがある。相手の攻撃性をことさら誘発してしまうということである。
記事『分裂病的「攻撃性」の「誘発」とは』でも述べたように、恐れからする受動的構えは、分裂病的状況においても、「声」の主体だったり、関わる人間に対して攻撃性を誘発してしまう。ミナミAアシュタールは、このことを「エネルギーを引く」と表現して、やはり攻撃性を誘発するまずいあり方であることを述べている。これが分裂病的事態であると何であるとを問わず、事態をさらにとどめなく悪化してしまうことになるのだ。
このことは、熊などの野生動物と出会ったときにも全く同じことと言える。
完全に恐怖を感じないようにすることは難しいが、恐怖のこのような効果を普段から意識していれば、恐怖の感情は自分である程度観察しつつ制御でき、すぐさま恐怖の感情から行動をしないようにすることはできるようになる。
私のように「襲って来るなよ」と話しかけることが、よい効果をもたらすのかどうかわからないが、自分なりに恐怖を和らげる効果を生み出しているのは確かだろう。
いずれにしても、こちらが恐怖の感情から行動しないようにしていれば、野性の熊といえどもそうはやたらに人間を襲って来ることはないはずだというのが、このとき熊と出会ったときの自分の改めて感じたことでもあった。
(ただ私はこのとき車の中にいたからできたことで、もし車の中にいないで肌身のまま、しかも身近に急に熊と出会ったなら、また違った反応をしていたかもしれないというのはある。)
ところが、最近の熊の異常な頻出や人間への攻撃性の高まりは、やはり「異常」なところがあるようで、どうもそう簡単に、そのようなことで済ますことはできそうもないのは確かなことのようなのである。
最近とりあげているプレアデスの存在やミナミAアシュタールもその背後に支配層の意図があることを言及している。次回はそれについて述べよう。





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