その他

2020年1月13日 (月)

本年の情勢他/「幻」という意味

本年も昨年に引き続き、自然、人工の地球を取り巻く現象、国際情勢などあらゆる面で、激しい変動があると思われます。実は、大きな戦争が危惧される状況から、一応それを免れるという、綱渡り的な状況から始まったのは、昨年と同じなのです。

ただ、全体として、このような流れを乗り越えることさえできれば、少なくともこれまでよりは、よい方向に進んでいくと思われる兆候はいくらかあります。支配層の不正な行いが、これまでより表に現れやすくなり、隠せなくなっていることもその一つの現われです。

 

新年には、記事のぺージビュー数ランキングに変化があったとき、紹介していましたが、今回は、『NIGHT HEAD 」の世界』が2位に来ているという変化がありました。

NIGHT HEAD 」は、かなりマイナーなオカルト的内容のドラマですが、私も、オカルト的な仕立ての面でも、また、人間の「闇」の部分をつくという意味でも、鋭く「真実」をついたものと評していました。これに興味を寄せる人は、現在でもかなりいるということは、望ましいことですね。

 

もう一つ、前回『幽幻医学』にからめて、「物質的領域(三次元領域)」から純粋な「霊的領域(五次元領域)」に移行してみると、「霊界の境域(幽幻領域)」で起こることは、「幻」であったことが分かるので、それに伴う「病的」な状態も解消されてしまうということを述べました。

既に何度か述べていることなので、改めて言うまでもないとは思いますが、この「幻」という意味を、簡単に確認しておきます。

ここで「幻」というのは、「存在しない」ということでも、「現象として生起しなくなる」ということでもありません。その点では、精神医学が、あるいは一般に、「幻覚」というときの、「幻」とは意味がまったく異なっています。

「物質的領域(三次元領域)」から、「霊界の境域(幽幻領域)」で起こることをみるとき、それは「リアル」そのものです。むしろ、それは、「物質的領域(三次元領域)」で起こる出来事以上に、「リアル」と言っていいものです。

ただ、それも、「霊的領域(五次元領域)」(あるいは、根源的な「虚無または闇の領域」)に移行してみると、(その領域こそが、本質的にリアルなものであることが一瞬にして分かるので)、必然的に、「幻」であったと、「分かって」しまうのです。それは、観念的な意味ではなく、体験的に、全身を通して、嫌でも、即座に、分かるのです。

ですから、もはや、それに、囚われることも、振り回されるということもなくなります。「幻」ではなく、強力な「実体」だと思っていたからこそ、囚われ、振り回されていたのですから。

それに対して、精神医学、あるいは一般に、「幻覚」というときの「幻」は、「物質的領域」こそが「現実」であり、存在するすべてであるという信念から、それに該当しないものを、「幻」とみなすものです。現象そのものが、「現実」ではなく、存在しないものとして、切り捨てるのです。それは、観念的な「見方」に過ぎないので、実際に、体験的に、そのリアルさの渦中に飲み込まれている者を、納得させることなどできません。

だから、精神薬等で、無理やり現象を(見ることを)抑えて、それは「現実ではない」という見方を、「洗脳」していくしか手立てはありません。

これを図にすると、次のようになります。

物質的領域を越えた領域からみた「幻」

1

精神医学等のいう「幻」

2

2019年2月14日 (木)

UFOと人工衛星または火球の目撃

今の時期、空が澄み渡っていて、オリオン星座の星々とシリウスの輝きが強烈なので、たまに夜空を眺めるのですが…、

2月10日の夜6時過ぎ頃、灯油を汲みに出た5分ほどの間に、何と飛行機3機と人工衛星または火球2個を続けざまに目撃しました。

飛行機は普通に点滅しながら、空を飛んでいくのですが、その飛行機を見ていたら、その近くから、(私は急に出現したと思えたのですが)オレンジ色に光る物体が、飛行機とは違う方向に、ゆっくりと直接的に一定の速度で、飛行していきました。その間、光の明るさを変えていたのですが、明るくなったときは、金星よりも明るい位になっていました。

何だったのかと思っていると、しばらく後、今度は逆の方向から、初め赤っぽいぐらいの強烈な光が見えたので、火星かなと思っていると、それはゆっくりとやはり直接的に一定の速度で移動して、こちらの方向に近づいて来て、通り過ぎ、そのままやがて雲に隠れて見えなくなりました。

見えていた時間は、最初のは、10秒ほど、後のは20秒ほどと思います。音は一切ありませんでした。どちらも、かなり強烈な印象を残しましたが、方向変換や速度の変化はなく、直線的にスーッという感じで飛んで行ったので、UFOではないだろうと思いました。

この掲示板(https://www.web-nms.com/%E6%8E%B2%E7%A4%BA%E6%9D%BF/)に、#1495で、同じ日に報告されているものは、時間帯や場所にはズレがありますが、私の見たものとかなり似ています。私も、初め「火球」の類かなと思っていたのですが、調べてみると、ゆっくりと移動するものは稀のようで、人工衛星の可能性も高いようです。

それにしても、短い間に、立て続けに目撃するのはかなり珍しいことでしょう。

ただ、私は、過去には、UFOらしきもの(星かと思っていたら、急に速い速度で移動して消えた。何もないところに、急に強烈な輝きを見せたかと思ったら、徐々に気えて行ったなど)も何度か見ているし、はっきりとUFOでしかあり得ないものも、見ています。

それは、小学校5年のときで、やはり星を見るのが好きで、空を見上げていたときのことです。オレンジ色に強く輝く物体が急に出現し、流れ星くらいの速い速度で、全天にわたるように、らせん状のランダムな軌道を描きながら、飛行していき、途中、雲に隠れてまた出現したりしていたのですが、最後は雲に隠れてそのまま見えなくなりました。時間は、やはり20秒ほどでした。

典型的なUFOのように、方向変換をしたり、速度を変えたり、消滅してまた出現するということはなかったのですが、飛び方が異常であり、流星でも火球でも人工衛星でもあり得ないと思います。

図にすると、次のようです。

Ufo

当時私は、既に唯物的な発想をしていたので、超能力や霊などは絶対に認めませんでした。ただ、宇宙人の乗り物としてのUFOなら、物質的なものの発展の延長上に、あり得ないことではないと思っていました。

それで、UFOである可能性を感じ、興奮気味に、父親にもその話をしたのですが、まともに相手にされず、自分としても、大した根拠はないにも拘わらず、「あれは人工衛星だったのかもしれない」ということで、胸にしまい、表面上忘れるようになっていきました。

しかし、その後も、心の隅にはひっかかっていたようで、18才の頃、当時『UFOと宇宙』というUFOに関する雑誌があったのですが、それに興味を持って読むことになりました。その雑誌は、海外の科学者の論文なども翻訳して紹介している、かなり「高度」な内容のもので、それなりの説得力がありました。それで、私は、いずれ、UFOは確かに存在すると思うようになり、私の見たものも、UFOに違いないと思うようになりました。

また、この雑誌は、UFOだけでなく、超能力についての研究も載せていました。これについては、すぐに納得したわけではないですが、簡単には否定できないとは思うようになって行きました。これは、頑なな唯物論者だった私にとって、かなり画期的なことです。

私が、「オカルト」的な事柄に興味をもつようになっていったのは、このような経緯があったからです。多分、小学5年のときに、UFOを目撃していなければ、この雑誌を読むこともなかったと思うし、読んだとしても、半信半疑で終わりだったと思います。

だから、このときのUFO体験は、後の自分にとって、とても大きな影響を与えていることになります。ある意味、後の自分を象徴あるいは導くものだったとも言えるわけです

そして、今は、そのときのUFOは、宇宙人の乗り物である物体としのUFOではなく、一種の「霊的な現象」で、それが物理的な世界に投影されていたのだと思っています。雲に隠れるなど、物理的な「みかけ」は有していますが、印象として、そう感じるのです。そして、それは、明らかに、私に見せるために起こっていたと思います。

当時、私は、唯物的な発想をしていたので、文字通りの「霊的な現象」などは受け入れられず、たとえそのような現象に遭遇したとしても、単に拒絶するか、記憶から抹消していたでしょう。ただ、UFOについては可能性としては認めていたので、まずは、私にとって受け入れやすい、UFOという形をとって現れる必要があったのだと思います。まさに、「霊的」な領域への「導き」の一歩だったということです。

このUFOは、一般の典型的なUFOとは飛行の仕方が違っている、かなり特殊なものだったことも、それを示しています。

今回、ちょっと、そのときの体験を彷彿とさせるような現象に出会ったので、思い返してみました。しかし、今回見たのも、もしかしたら、そのときと同様の何らかの霊的な現象の投影物であるということも、考えられはしますね。

2018年11月11日 (日)

ムクドリの「乱舞」

約二カ月振りになります。これまで2カ月空けたことはなかったと思いますが、今後は、これくらいのペースになっていく可能性もあります。

「狂気」に関しては、いずれ、分かりやすくまとめたホームページを作成しますが、このブログの最近の二つの新しい記事と、そこで紹介した本の一つでも読んでもらえれば、実は、かなりのことが分かることを改めて言いたいです。もちろん、一般の精神医学関連の本などでは、とても得られないだけの、実質的または根本的なレベルでのことです。

今回は、大分前のことですが、ちょっと気になっていることを述べます。

それは、うちの家の庭や隣の家の屋根の上で、小鳥が大勢集まって、大声で騒ぎ立てながら乱舞していたことです。ムクドリと思われますが、スズメや他の鳥もいたように思います。私のいる部屋の窓の網戸のところに飛んで来て、鳴いたりもしていました。

ククドリは、集団で集まる習性があり、ネグラを探して乱舞することがあるのは知っています。実際、他の場所で何度かその様子を見たことがあります。しかし、この場所で、今まで一度もそんなことはなかったし、この後も、すぐいなくなり、その後そんなことは一度もありません。

そもそも、うちの家の周りには、かつてはよく小鳥が遊びに来ていましたが、最近はたまにカラスが来るくらいで、ほとんど見なくなっていました。また、ムクドリがネグラにするのに適した場所とも思われません。

そのときの鳥の鳴き声は、とても尋常なものとは思えず、飛び方もまさに「乱舞」で、何か異常なことが起こっているという警告のような感じがしました。私も、その間、とても不安をかき立てられました。

この出来事の後は、前以上に、鳥をみかけることが少なくなり、このときの大勢の鳥の乱舞の異常さを際立たせています。

前に、記事で、その隣の家越しの上空のケムトレイルの写真をアップしましたが、この場所は、散布機の通り道のようで、その後もよく出ます。

初め、私は、鳥たちの警告のようなものには、そのことが関係しているのかと思いました。ネグラを探しているというよりも、むしろ、「この場所はとてもネグラなどにはできない」ということを、警告しているかのようだったということです。

しかし、もしこれが本当に警告なのだとしたら、それはこの場所という、「ローカル」なレベルの話ではないというのが実際のところでしょう。一般に見られる、ムクドリのこの乱舞の行動自体に、地球全体の環境についての警告的な意味も含まれている、ということを感じます。

まあ、いずれにしても、鳥や昆虫に関して、かなり異常な事態が起こっているのは確かだし、私の周りにもよく起こるので、私はかなり慣れてはいます。

前に、記事でも、羽を落とした、クロオオアリの女王アリが私の部屋に仮死状態でいたり、オニヤンマが職場に入って来て私の周りを飛んだり(なんと、その数年後もう一度オニヤンマが入って来ました)など、かなり「異常」なことが起こっていることを述べました。

人によっては、これを、一種の「攻撃」のように感じる人もいるようですし、そういう面もないとは言えません。しかし、私は、やはり、全体として、異常な事態の「警告」のような感じがします。

チャネリング系統のものでも、「多くの動物が地球から撤退する選択をした」というのを読んだことがあります。確かに、本能的に優れる動物たちが、そう選択するとしても不思議はない状況でしょう。

昆虫にしても、鳥にしても、全体としての数は、明らかに減っているのですが、その中のちょっと「目立つ」存在が、殊更「示唆」的な行動や現れをして、注意を惹いているという感じです。

2017年10月 3日 (火)

「知ってはいけない」ことの危急版

知っている人も多いと思うが、矢部宏治著『知ってはいけない』(講談社現代新書)は、戦争を含めて、今後の岐路に関る重要な総選挙を控えたこの時期に、日本人が必ず読んでおくべき本と思う。(さらにいえば、より詳しい『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』も)

「知ってはいけない」とは、秘密にされているということでもあるが、それ以上に、一種の逆説で、本当は、「必ず知っておくべき」ことなのだが、日本人として、正面から認め難いことのために、「知ってはいけない」状態のままとなっているのである。

それは、日米安保条約に基づく日本の戦後体制のことで、簡単に言うと、日米地位協定によって、米国との安全保障上の問題は、日本の法律でもなければ、憲法ですらなく、日本の官僚と米軍との「密約」で取り決められることになっている、ということである。この密約は、憲法の上に位置するもので、日本の官僚は、地位の保全上、それに従うだけだから、実質上は、米軍が好きなように決められるものになっている。

具体的には、米軍は、日本の上空を、好きなように飛ぶことができる。日本のどこにでも、基地を作ることができる。実質、治外法権的な扱いを受ける。原発にも、日米原子力協定によって、基地の場合と同様のことがあてはまる。日本に対しては、国連の「敵国条項」が今でも生きている、などである。米軍は、日本の原発を攻撃対象として、いつでも破壊できるというオプションをもっているという、驚くべき事実もある。

しかし、最も重要な「知ってはいけない」ことを、一つ絞って言うなら、それは、「非常時には、米軍の指揮官が、自衛隊を自由に指揮することになっている」ことである。

日本は、「対米従属」とか、「米国の属国」ということが、これまでにも言われて来たし、かなりの人はそれを現実として受け止めているが、この書では、これらのことが具体的な資料を通して、明解で分かりやすい論述で、説得的に説き明かされている。それは、改めて突きつけられると、やはり衝撃的なことではある。

私も、東京にいたとき、米軍機のあまりにもの超低空飛行を経験し、それに驚くとともに、むしろ周りの人が、それに対して、怪訝な顔すらしないことに驚いたことがあって、実際どうなっているのかと思ったり、最近も、ケムトレイルに関して、米軍機が日本上空を自由に飛んで、まき散らしているのだとしたら、それを追究することは、事実上不可能になるではないかと、自国の領空を他国の軍機に、自由に飛ばれることの恐ろしさを、改めて感じたりもしていた。

しかし、それは、本当に、そのとおりになっているということだ。

安倍首相は、「憲法9条に自衛隊の存在を明記する」というが、それは、前に成立した安保法と先の「知ってはいけないこと」に照らせば、どういうことかと言うと、「非常時(と米軍が判断するとき)には、米軍が自由に指揮できる日本の軍隊を、憲法上はっきりと認める」ということになる。自衛隊の存在自体を、憲法上明記することは、曖昧な状態を排して、好ましいことではないかと考える人もいると思うが、とても、そんなことではない。米軍の都合で戦争できることを、憲法上も認めることに、直結するのである。

そして、新党「希望の党」も、憲法改正については、内容は明確ではないが、基本的に安倍と同じ路線に立っている。つまり、米軍の都合で戦争できる路線である。

選挙前に、これらのことは、最低限踏まえておかなくてはならない。

この書でも、それは「米軍」(実際には、「米軍」の背後の軍産複合体とか金融資本家とか、ネガティブな宇宙人も絡む「秘密政府」などの「支配層」であるが)の都合であって、「米国」そのものの都合ではないことが述べられている。トランプも、自国第一の範囲で、やはり同じように理解していることだろう。

そもそも、私も、これまで、「知ってはいけない」ことを、多々述べてきたわけだが、それは、本質的なことではあるが、多くの者にとって、あまりにも認め難いことの故、「知ってはいけない」ことのまま、今後も当分はあり続けることだろう。

ただ、今回述べたのは、「知ってはいけない」ことの危急版で、これについては、もはや「知らない」ことは、許されないことと思う。

2016年12月10日 (土)

最近のコメントの掲載

最近の、私の2つのコメントは、重要なものと思うので、ここに再び掲げておきます。

○記事『ブログ記事の更新とコメントについて』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-22cd.html)より

門真の事件等、犯罪の背後に統合失調症が絡むとみられることが多いが、実際には、病気だから、あるいは幻聴等の影響によって、そのような行動を起こすのではなく、それにはそれ相応の理由があることについて述べたもの。

前のコメントで、「幻聴をもつから、犯罪的または逸脱的な行動を起こすのではなく、そのようなことになるには、様々な内的、外的な要素が絡み合う」と述べました。が、そのような行動をもたらす、強力な外的要素を2つあげておきます。いずれも、動機そのものは、もともとの統合失調状況によって生まれたかもしれないが、それを実行するについての抑制を外してしまう方向に作用するものです。

1つは、強力な「憑依」を受けた場合。継続的というより、一時的な場合が多いでしょうが、その瞬間、意識を眠らされるので、抑制が利かないことが起こります。周りには、人格が豹変したような印象を与えます。本人も、その間の記憶がないことが多いはずです。その行動は本人のものではないともいえますが、動機そのものは、本人がもったはずで、また、そのような憑依を呼び寄せるのは、本人の側に事由もあるので、責任がないとはいえないはずです。

2つは、精神薬によって、脳が酷く撹乱された場合。精神薬は、麻薬、覚醒剤と同様、脳の働きを撹乱し、抑制を外して、危険な行動を起こさせることがあります。最近の、危険ドラッグ絡みの事件にもみられたとおりです。この場合にも、動機そのものは、本人がもった可能性がありますが、実行するについては、精神薬による影響が強く働いた可能性があります。また、その強力な作用により、「心神喪失」に陥るということもあるでしょう。本人が、「病気」によって、「心神喪失」に陥ったのではなく、精神薬によって、「心神喪失」に陥らされたということです。

しかし、こういった行動は、一般に、「病気」そのものから起こされるとみなされて、疑われないのが問題です。「統合失調」そのものに、そのようなイメージがつきまとっているからです。統合失調者の行為が、「心神喪失」にあるということで、責任が問われないのも、そのような「危険な者」を、いわば犯罪者からすら隔離して、病院に収容するためです。そのような処置は、統合失調者は、人格がなく(崩壊していて)、何をするか分からないというイメージを、強めることになるだけです。

さらに、精神薬が厄介なのは、アルコールの場合と同様、1つ目の「憑依」をもたらす契機ともなることです。両者の影響が加重することになるのです。そして、この場合にも、そのような結果として起こったことは、「病気」によるものとみなされてしまうことになります。

このテーマについては、またいずれ、プログ記事か、ホームぺージにまとめるときに、もっと詳しくとりあげたいと思います。

○『「ふと見た」瞬間に遭遇する現象』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-4588.html)より

「集団ストーカー」について、まとめを兼ねて、本質をついた標語3部作を作ったので、掲げておきます。

1 「集団で 仄めかしする ストーカー 無理でなくとも 無意味です」
2 「集団で 仄めかしする ストーカー あるとみせれば しめたもの」
3 「集団で 仄めかしする ストーカー オバケの類で 演出し」

これは、『「集団ストーカー」という厄介な問題』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9e9f.html)以降の「集団ストーカー」に関する記事を読んでもらえば、真をついたものであることが、分かるはずのものなので、あえて解説はしていません。で、是非そうしてほしいのですが、3部作にしたこと、その順序にも理由があることには、簡単な説明をつけておいた方がいいでしょう。

1では、「集団ストーカーの被害者」と称する人たちが主張するような、特定の者の、「一挙手一投足」を徹底的に監視し、執拗なまでに「つきまとう」ような、「集団ストーカー」なるものは、人間の集団や組織による行いとしては、「あり得ない」ことを端的に示しています。「無理でなくとも」とは、実際には、「無理に限りなく近いが、たとえ無理とまではいえなくとも」ぐらいのニュアンスです。「無意味」である以前に、ほとんど「無理」なのです。何しろ、「人間による行為としては、あり得ない」のです。

しかし、2では、にも拘わらず、人間の集団や組織による、「集団ストーカー」なる行為があると思わせたい、一定の勢力があることを示しています。その勢力には、人間の支配層も含むが、人間を実質支配する存在も含みます。それによって、実際に、一定の人たちが、人間の集団による「集団ストーカー」を受けていると信じて、恐怖と混乱に陥ることになるからです。また、それがもとで、人と人の間に軋轢と確執を深めることができるからです。

しかし、「集団ストーカー」の「リアリティ」とは、単に、上のようなことだけで生じているわけではありません。「集団ストーカー」とは、自分に起こっていることに対する、一つの「解釈」ですが、その解釈にリアリティをもたせるような、「感覚」というものは、実際に生じているのです。

3では、そのような感覚は、人間ではなく、「オバケの類」が「演出」していることを明らかにしています。「オバケの類」という言い方は、多少、それに振り回されることの「滑稽さ」を強調していう狙いもありますが、要するに、低級な「自然霊」のことであり、昔「狐や狸に化かされる」といわれたときの「狐」や「狸」と同じことです。ただし、現代的には「宇宙人」も含みます。決して、侮れる存在ということではありません。

「演出」の方法は、多くありますが、要するに、それらの存在から、何らかの「示唆」や「攻撃」は実際に受けており、その何か攻撃めいたことを「受けている」という「感覚」は実際にあるということです。それが、「被害」を受けていること全般の基礎として作用しますが、問題は、それを人間の行動と「解釈」して、少しも疑わないことです。(人間を「使う」場合もありますが、その場合でも、背後で演出しているのは、やはりそれらの存在です。)

昔の人は、「狐や狸に化かされた」と気づいて、それ以上深みにハマらなかったのは、一種の「知恵」でした。現代人は、これらのことを「迷信」として捨て去ったつもりで、実際には、それにいいように振り回されるほど、「滑稽」なことになってしまったのです。

2015年9月 5日 (土)

二つのちょっとした出来事

1  「虐待をみかけたら、児童相談所へ。電話番号は、189(いち早く)」というポスターをみかけた。が、これってよくみたら、背後に医薬業界の姿があからさまに見えてませんか。

189(イ・ヤ・ク=医薬)…ですから!  (※)

「捕食者」またはその息のかかった組織のやり方として、お得意の「自己顕示を示唆的にも紛れ込ませずにはいられない症候群」が、とうとうここにも表れ始めた?

2  前のときは、バツ印一つだった(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-35eb.html )が、今度は同じ場所に、二重のバツ印が…。

103351

これは二重のダメ出し?

ちなみに、私は、バツ1でも、バツ2でもありません。

※ 9月10日  

あと、189 = 1+8+9 = 18 = 666 (6+6+6) なんて、カパラ的遊びもできますが…。

2015年2月28日 (土)

3度のメシ

どうでもよいことですが、また、サンドウィッチマンにやってほしい「ネタ」が浮かんだので、披露しておきます。

タイトルは、 「3度のメシ」

伊達  「それにしても良く食うなあ。お前」
冨澤  「そうですか? 実は私、3度のエッチよりメシが好きなもので…」

伊達  「なんだよ、それ! 普通逆だろ。それに、なに、3度のエッチが標準みたいになってんだよ。」
冨澤  「いや。私、メシは3度とは限らないんですよ」

伊達  「それじゃ、エッチは3度と限るみたいだろ」
冨澤  「最近は、メシが3度じゃない人も増えてますよ」

伊達  「それは、健康のこと考えて減らしてんだよ。お前は、どうみても3度より増えてるだろう」
冨澤  「いやあ。分かりますか? でも、エッチは本当に3度ですよ。」

伊達  「知らねえよ! ていうか、どんだけ標準なんだよ、それ」
冨澤  「誰が決めたかは、私も知りませんけどね」

伊達  「お前以外いねえだろ! 誰も、決めてねえんだよ。そんなの」

おあとは…、よろしいですか?
「3度のメシ」というのも、こんな感じで決まったのかもしれないですね。

2014年8月 7日 (木)

内海医師の「アホ」論 

内海医師の、このブログの記事(http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-324.html)は、傑作でした。これだけ、「アホ」連発してウケるのは、アホの坂田以来のことではないでしょうか♪もちろん、面白いだけでなくて、ちゃんと、一級の「アホ」論になっています。

私も、「フーミン」は嫌いではないですが、「グーミン」は嫌いだし、「ユーミン」もあまり好きではありません。フーミンのバスロマンのCMはよくても、あの色はあまりに毒々しいと思っています。そんなこんな(?)で、「自分はアホではない」と思っている「アホ」は嫌いですが、「同じアホなら踊らにゃそんそん」的なノリで踊っちゃう人は、憎めません。

統合失調状況というのは、「愚かさの集大成」であるということを、かつて私は述べました。それはこれ以上ないというほど、人間が「アホ」になる状況ということです。むしろ、追い詰められて、本性の「アホさ加減」が、いやというほど出てしまう状況ともいえます。それは、単なる「アホ」というより、「ドアホウ」と言ってもよく、普通の「アホ」には、とても理解できない、輪をかけた「アホさ加減」です。

この「ドアホウ」には、内海医師のいう「大アホ」にみるような、反転した意味合いは、ほとんどなく、本当にただの「ドアホウ」なのです。が、もし、その「ドアホウ」が、その「底」から、「くぐり抜け」られた場合には、それは「大アホ」へと、さらには「大大アホ」へと反転し得るような、要素は秘めていますやはり、「アホ」は「死ななきゃ治らない」のです。

しかし、人は、統合失調状況にまでいたらなければ、「アホ」にならないのでは、決してありません。それは、現に多くの人が、証明してくれています。「アホではない」と思っている「アホ」が多い状況では、人びとのあいさつは、こうするのがいいでしょう。「あんたかてアホやろ、うちかてアホや、ほなさいなら !」

※もちろん、分かる人には分かると思うが、自分自身の「アホ」さ加減と、総体としての人間の「アホさ」加減を肌身にしみて理解していないと、「変わる」などということはあり得ないということです。

統合失調状況は、この「アホさ」加減をいやというほど思い知るいい機会ですが、必ずしも、誰もが通らなければならないということではありません。それは、気質にもよりますので。しかし、何かしら、類似の状況を通らずして、本当に「アホさ」加減を知るということもまた、あり得ないことのばすです。ある意味で、統合失調状況こそ、「アホにとっての最後の希望」とも言えるわけです。

2013年7月19日 (金)

もう一句

「人は死なない」などと言うが、

「私」はもちろん死ねるし、「自己」も死ぬ。

「魂」だって、死ねる。

本当に死なないのは、「空なるもの」

すなわち「虚無」だけ。

2013年7月14日 (日)

「ちょっと一句」的な話

「心の病に薬はいらない」 ←そのとおり、まちがいない。
                    しかし、薬を飲んでしまったら、

「薬の病に心はいる」     ←その「薬の病」は、やはり「心」でなおすしかない。

「病の薬に心はない」      ←結局、これが結論。

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