関連書籍

2011年11月20日 (日)

関連基本書籍の抜粋

※「関連書籍」は、今後、入れ替えまたは増えていく可能性があります。

私の観点から、統合失調症の理解に大きく役立つと思われる書籍を抜粋してみた。

これらは、「基本的な」部分の理解に役立つと思われるもので、特定の踏み込んだ領域に関するものではない。また、比較的知れわたったもので、入手が容易、かつ読み易いものに絞っている。

ただし、あくまで、このブログで述べているような、私の観点からのものなので、一般的には、特殊と感じられるものも含まれるかもしれない。

記事で言及したものもあれば、記事では触れていないものもある。

〇 『精神分裂病の世界』  宮本忠雄著    (紀伊国屋書店)                        

4314001895    多少古いが、統合失調症の一般的な解説書としては、これがよいと思う。統合失調症者の内面世界にまで踏み込んで、よく分かりやすく記述されているし、さまさまな観点から、統合失調症にまつわる問題が浮きぼりにされている。単なる「解説書」というよりは、「統合失調症」について考える、ヒントの書でもある。しかし、そもそも「統合失調症」というのは、社会の中における一つの「問題」として生起しているので、本来、こういう形のものしか、あり得ないとも言えるのである。また、「実体的意識性」という、統合失調症にとって、欠かせないはずのものを、重視しているのもいい。

関連記事; 「実体的意識性」と「オルラ」
      http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-b854.html

『統合失調症--精神分裂病を解く』   森山公夫著   (ちくま新書)

これまでの既製の観点に縛られず、著者独自の視点で、統合失調症について考察し、捉え直した力作。「迫害妄想」を中心にして、「パラノイア段階」、「幻覚・妄想段階」、「夢幻様段階」という、段階的な発展として、統合失調症を捉えている。現象として現れる面を見る限り、著者の捉え方は、的を得た、正しいものと思われる。しかし、実際には、内面で進行している事態を重視すると、この「発展」段階は、むしろ、既に内面にあるものが、表面に浮上する過程として捉えるべきことは、記事でも述べた。つまり、「パラノイア」ないし「妄想」が発展して、「夢幻様」になるのではなく、「迫害妄想」というのは、既に内面にある「夢幻様状態」が、表面に生起するのを防衛するべく、生じているものとみなすべきなのである。 

関連記事; 9 「妄想」の発展・深化段階
      http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post-1ba0.html

〇  『精神病を知る本』 (宝島社文庫)所収
物語としての精神分裂病」、「精神病にとって「治る」とはどういうことか
 赤坂憲雄著

民俗学が専門の学者だが、精神病、特に「精神分裂病」について、精神医学の「外部」から、その枠を超えて、思想面を中心に、全体としてよく総括されている。内容も、鋭く、的確と思う。「物語としての精神分裂病」では、歴史的背景を踏まえて、精神医学が「物語」の創作者として、根源的に批判されている。「物語」として、特に、「内因性の神話」と「主体喪失の物語」がとりあげられる。これらの「物語」により、「精神分裂病」という、精神医学が治療すべき「病気」が作り上げられ、「分裂病者」という、主体ないし人格のはく奪された人物像が生み出されたのである。そして、その「物語」を解体したうえで、その内実が何であるかについても、一歩踏み出している。決して、「分裂病」は家族や社会により、政治的に作られたという、単純な「反精神医学」ではない。残念ながら、「オカルト」的なものにまでは及んでいないが、精神医学の内部からでは、とてもできない、現在望み得る、全体的視野からの、「精神病」の概観といえる。「精神病」を再考するとき、是非このような概観から始めたい。

「治療」ではなく、「癒し」こそが問題とする、「治る」とはどういうことかの論考も、優れている。「癒し」に向けての過程は、「イニシエーション」であるという視点も示されている。

関連記事; 「物語としての精神分裂病」他

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-07b5.html

 

 〇  影の現象学  河合隼雄著   (講談社学術文庫)

 私が一連の体験を通り過ぎた後、初めに読んだ本がこの本だった。それには、一連の体験で、「影(カゲ)」という言葉が、私にとって重要な「ターム」になっていたこともある。ここで述べられる「影」の概念は、ユングのもので、自我にとって、「未知」である、心の未分化な全体を指している。その「未分化」な「暗い」「影」が、心に深く分け入ることによって、「アニマ」や「セルフ(自己)」などの「元型」として、分化されていく過程を、河合隼雄が、分かりやすく解説している。もちろん、これらは、あくまで、心理学的な、「心」の現象の現れとしての説明である。しかし、自分の体験にとっても、十分当てはまる要素が多く、深く納得し、一種の「カタルシス」を感じた。但し、私は、あくまで、これらの「元型」的なものを、霊的な「実体」として受け取る限りで、深く受け入れられたのである。 

ユングは、晩年「幽霊体験」により、人間の「霊」の存在する可能性を否定できなくなったことは述べた。(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-f47c.html )私は、ユングは、さらにその後、こういった「元型」的な存在についても、人間の場合同様、「実体」として存在する可能性を考慮し始めたのではないかと、密かに思っている。    
                                 

〇  『モーパッサン短編集<3>』(「オルラ」)       (新潮文庫)

なぜ知ったかは忘れたが、この本も、一連の体験の後、割とすぐに読んだもの。やはり、深く、心の琴線に触れ、「カタルシス」になった。『分裂病の少女の手記』(みすず書房)など、統合失調症に陥った者が書いた手記はいろいろとある。モーパッサンも精神を患い、統合失調症と診断されたのだが、「オルラ」は小説ながら、統合失調症に陥った者の、「恐怖」と「焦燥」に満ちた思考過程が、迫真的に描かれている。こういったものは、統合失調症者が書いた手記にも、なかなかないもので、貴重なものである。具体的なレベルで、自分の体験が、決して、「特殊なもの」ではないことを、感じ取れるのも大きい。但し、この「オルラ」という存在そのものは、通常、統合失調症者が出会う「他者」的な存在というよりは、「自己」の一側面である、「境域の守護霊」と解されることは、記事に述べたとおり。

関連記事;  「実体的意識性」と「オルラ」
             http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-b854.html

〇  『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』   ルドルフ・シュタイナー著                                   (ちくま学芸文庫)

この書は、シュタイナーが本などに述べているような、「超感覚的世界」の認識を獲得するには、一定の方法に従って、「瞑想」等の「行」をすることが必要であることを述べたものである。しかし、その過程で、「霊界」の扉が開かれ始めた頃に起こる(「霊界の境域」での)、様々な現象や危険性について、かなり詳しく述べられている。その意味で、「望まず」して、そのような状況に陥った、統合失調症の者にも、参考になることろが大である。特に、霊的現象として、通常まずは、「自分自身の霊的鏡像」を見ることや、モーパッサンの「オルラ」のように、「恐るべき」ものとして、「境域の守護霊」との出会いが生じることなどである。何しろ、霊的なものについては、単純に、それまでの「現実」についての解釈が通用しないことを、多く教えてくれる。また、その過程で生ずるとされる、「人格の分裂」(思考・感情・意志の分裂)というのは、そのまま、シュタイナーの「統合失調症論」としても読める。

関連記事;   「霊的なもの」の「視覚的映像」の場合
              http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-0247.html

             「統合失調症」という名称

        http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-e246.html

〇  『太陽の秘儀』      キリアコス・C・マルキデス著    (太陽出版)

4884691873  キプロスのヒーラーであるダスカロスが、人間の「現実」を作り出し、影響を与えているものとして、「エレメンタル」(想念形態)というものが、いかに重要なものかを述べたもの。その一例として、「統合失調症」の場合についても、かなり詳しく述べられている。(第二章「狂気の構造と神秘家」)「霊能者」または「ヒーラー」と言われる者が、「統合失調症」についてまとまった考えを述べたものは少ないので、貴重である。「エレメンタル」(想念形態)というのは、「想念」が、霊的レベルで「実体化」したもので、シュタイナーの「霊的鏡像」というのと、ほぼ同じである。日常的には、こういったものが、影響を及ぼすことは、なかなか実感できないが、「霊界の境域」では、確かに、自己の「思い」や「恐怖」といった「感情」が、即座に、「現実」に跳ね返って来るのを、実感できる。だから、「霊界の境域」では、「恐怖」や「欲望」に彩られた「妄想」は、それ自体が、「現実」を生み出す元とも言えるのである。また、「恐怖」などの感情は、この「エレメンタル」も、次に述べる「捕食者」的な精霊も、強力に活性化させる、触媒のような役割を果たす。ダスカロスも言うように、「エレメンタル」に対処するには、「闘う」のではなく、「相手にしない」で「無視」すること(自分自身が、「感情的に反応」せずにいられるようになること)が重要なのである。

関連記事;   ダスカロスの「統合失調症論」との関係
        http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-8fa5.html

        「分裂病」と「エレメンタル」(生き霊)
        http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post-8aca.html

『マイナスエネルギーを浄化する方法』   小栗康平著   (ランダムハウス講談社) 

 (新版 症例X-封印された記憶』 ジービー)

    まず、精神科医の著者が、片岡という霊能者のセラピーを通して、「憑依」なる現象が実際に存在し、その「浄霊」が、明白な効果をもたらすことを認識していく過程が述べられる。そして、著者は、そうであるならば、それを治療法としても生かすべきと考え、片岡と協力して、「憑依霊」を「浄霊」し、あるいは、その基となっている、「マイナスエネルギー」を浄化していくための方法を編み出していく。私自身予想した以上に、いたって、真摯な内容である。

ただ、著者自身断っているように、これらは統合失調症の場合を含んではいない。主に、医学的には、「解離性障害」と診断される場合に関するものである。しかし、統合失調症は、「解離性障害」と紛らわしい部分も多く、実際には両者が混交する場合も多いと思われる。そこで、統合失調症を理解するためにも、「解離性障害」というものを、(「霊的側面」を含めて)一応知っておくことは必要と思われる。(なお、後の『人格解離』という本では、さらに詳しく「内在性解離」について述べられている。)

また、実際に、精神的な疾患に、霊的なものが関わるとすれば、精神科医と霊能者の協力というのは、今後の重要なテーマとなる。著者と片岡の例は、普通はなかなか実現しがたい、そのような例のモデルケースとしても、参照すべき点は多いはずである。

関連記事;   『マイナスエネルギーを浄化する方法』
             http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-7dc0.html

             「人格解離」
             http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-5f44.html

○ 『大笑い!精神医学』   内海聡著    (三五館)

 25428107_10001            「精神医学」の問題、否定されるべき理由を、これ以上ないというくらい、明解に分かりやすく説いた本。薬物療法を中心とする、現代の精神医学を否定するものだが、薬の害悪という目に見える部分だけを否定しているのではなく、あくまで、「精神医学」という枠組みそのものを、全体として否定しているのである。つまり、精神的なある状態を、「病気」として医学の対象とし、治療の対象とするという発想そのものが、根拠のないものであり、搾取のもとであり、害悪であるということである。

私も、一連の体験中に、このような状態の理解は、精神医学では絶対に「ムリ」と見定めたことから、すべての考察が始まっている。だから、観点は違う点もあるが、「精神医学」を否定する点では、多くの点で一致している。何しろ、「精神医学という発想」そのものを、問い直すことが必要なのだが、これはそうするのに格好の本なので、ぜひ参照にしてほしい。

関連記事;  『大笑い!精神医学』  

     http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-633c.html               

       『大笑い!精神医学』対『もう少し知りたい統失の薬と脳』  

    http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-e17a.html                           

○ 『精神医療に葬られた人びと』   織田淳太郎著    (光文社新書)

調査の意味を含めてだろうが、バセドウ病で精神病院に入院した著者の体験記。精神医学や精神医療というよりも、隔離・拘禁の施設としての精神病院ということを、終始問題にしているし、その実際や歴史などがよく概観できる。日本では、入院患者が異常に多く、「社会的入院」といわれる、引き取り手がいないため、退院できずにいる、長期入院患者が多い実情や理由も考察される。初めは、同じように、精神病院への隔離・拘禁を旨としていたが、地域での治療に切り替えられた欧米の場合との対比もされる。また、特に、日本の、近代的精神病院移入前の、地域による共同体的な民間療法が紹介され、いかにそれが否定され、隔離・拘禁の精神病院へと移行していったかが、かなり詳しく述べられているのは貴重である。それは、一過性の、治る状態としての「憑き」から、治らず、社会的に危険とみなされる「病気」への移行でもある。

○ 『精神に疾患は存在するか』   北村俊則著    (星和書店)

精神科医によるものだが、「精神疾患」という概念そのものを問い直し、脳に器質的な障害のあるわけでもない、精神の領域に、「疾患」というものがあるとすることには、根拠がないことを、率直に認める書。「精神疾患」という概念を前提としての治療や施策は、差別と弊害をもたらして来たので廃止してよいとする。過激のようだが、多くの研究に基づいて、説得的かつ穏当に説かれており、至極真っ当な内容といえる。

もちろん、「症状」として現れる現象そのものは認めていて、それは、本来、進化的には適合的だったものが、現代の社会との相互作用により、負の現れをするようになったものとする。精神薬の効果も否定しておらず、「治療」というより、「援助」の施術は必要としており、精神医学そのものの全面否定ではない。それにしても、現代の精神医学が、精神医学の権威も必要性も貶める、このような発想を認めるはずはないのだが、現在とり得る、とりあえずの行き方として、このような発想ぐらいは標準になってほしいものである。

関連記事; 『精神に疾患は存在するか』

  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-27a5.html

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