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2016年10月10日 (月)

ブログ記事の更新とコメントについて

次のブログ記事では、「物質と意識の関係」についての一連の記事のまとめをしておこうと思う。それで、とりあえず一段落つくので、前に話していた、「統合失調」及び精神医学関連の記事を、ホームページに分かりやすくまとめ直すことにとりかかりたいと思う。

ブログの記事の更新も、もちろんしていくつもりですが、今後は、多分月1度くらいの頻度になると思います。

また、コメントは、これまでも、事後承認のようなところがありましたが、今後は、ブログをみる機会も減ることもあり、承認制にさせてもらうことにします。了承下さい。

2016年3月 7日 (月)

次回の記事について

「霊的なもの」との関係での、「宇宙人」や「宇宙人の技術」についての記事は、これからの時代にとっての、重要性に鑑み、当初考えていたよりも、詳しくやることにしました。本なども読みたいものがあるので、記事の投稿には、今しばらくかかることになります。

とはいえ、既に概要は、これまでの記事で述べていることですので、興味のある人は、次の記事などを、読んでいてもらえると、有り難いです。

「 「公開プロジェクト摘要書」について 」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-2f57.html)
「 「人間の支配層の陰謀」と「地球外存在」の影響 」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-9948.html
「「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」 」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-d8e8.html
「「モルゲロン病」」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-52f0.html)

このブログの記事は、多少「マニアック」になっていく傾向にあります。「狂気」ないし「統合失調」については、現在、ホームペーシに改めてまとめ直すことを考えていて、基本的なことは、そちらで述べ直そうと思っています。

もちろん、このブログ記事でも、最初の方では、「狂気」ないし「統合失調」について、基本的なことから詳しく説き起こしていますし、今後も、「狂気」ないし「統合失調」関連のことも、述べていくつもりではいます。

2016年1月13日 (水)

2015年 ぺージビュー数ベスト5

大分前に、本ブログ記事の、ぺージビュー数ベスト5を載せたことがあった(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-13da.html)。今回は、2015年全体での、ぺージビュー数ベスト5位を紹介してみたい。

1 「集団ストーカー」という厄介な問題
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9e9f.html

2  幻聴の「声」と「テレパシー」
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post-ea5f.html

3  「次元降下」して地球に生きる「金星人」
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-873a.html

4 「 統合失調症」という「アイデンティティ」
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-faec.html

5 「人格解離」
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-5f44.html

1位は、「集団ストーカー」の問題が、意外に多くの関心をもたれていることを物語っている。もっとも、これに関心を寄せるのは、一般の多くの者というよりも、自分自身が、「集団ストーカー」の被害者ではないかと、疑いを持つ者に多いのだろう。

ネット上には、「集団ストーカーの被害者」として、「集団ストーカー」なるものが、現実にあることを、もっともらしく訴えかけるサイトが多い。それらは、また、かなりの程度「類型化」されてもいる。それで、何らかの「関係妄想」を持ち始めた人はもちろん、周りの人の自分にする行動や態度に、不信感を持ち始めた人も、その「類型化」されたパターンに、自分の場合もあてはまる、と思ってしまったとしても、それほど不思議ではない状況になっているといえる。

引きこもりなどにより、社会との接点を失う人が増えていること、また、「無縁社会」ともいうように、互いに切り離された個人が、疎外感をもってばらばらに生活している状況も、このような「妄想」を助長する理由になっているだろう。

現代は、分裂気質の者ならずとも、「他者」あるいは、その集合である「集団」というものが、謎めいたものとなり、不気味な恐ろしさを、醸し出していると感じられる状況なのである。

この記事では、「集団ストーカー」について特に述べたが、もうひとつ「テクノロジー犯罪」なるものも、かなり「類型化」された形で示されており、統合失調との関わりも、より大きいものである。近いうちに、それをまた、とりあげるつもりである。

2位は、「声」を聞いてしまっている人には、必ず読んでほしい記事の一つで、私としてはうれしいものだ。「テレパシー」というのは、「声」を聞く人が、その「声」が、他者の現実の「物理的な声」そのものではないと気づいたときに、必ず可能性として考慮するはずのものである。それは、実際、特定の他者のものと区別し難いほどにリアルなものなので、当然の考えである。

しかし、この記事では、「テレパシー」と受け取ることは、実質上、他者の「物理的な声」そのものと受け取ることと、変わらないことであるのを強調している。結局は、特定の「他者」に、「声」を通して現れる「攻撃」や「意図」を、丸ごと委ねてしまっているからである。それでは、その者に対する、敵愾心や軋轢を、無闇に強めるだけである。

実際には、本当に、その者が恐怖を感じている対象は、そのような現実の他者には収まらない、「わけの分からない」要素であり、「人間を越える」と思われる要素のはずなのである。それは、そのままに受け取るべきであり、そこから、認識も開けてきて、対処の仕方も学ばれる可能性がある。それを、現実の他人(もちろん組織や集団にも)に、被せてしまうことでは、何も事態は解決しないのである。

また、たとえ、そこに、他人の「テレパシー」というものが、実際に入り込んでいたとしても、それを気にすることは、無意味であることも強調した。それは、その本人すら、知らない、「無意識」の事情により、たまたま発せられたものに過ぎないからである。あるいは、それは、他の存在により、仕掛けられたものである可能性もあるのである。

なお、この記事では、のめーるさんが多くのコメントを展開していて、ページビュー数が高いのは、その影響もあると思われる。

3位も、私としては、かなり意外であった。多分、私と同様、宇宙人といえば、太陽系外の惑星を想定していた人にとって、「金星人」というのはインパクトがあったのだろう。それも、単なるコンタクトストーリーなどではなく、本人自身が、この「アセンション」が叫ばれる時代に、「逆アセンション」(次元降下)し、地球人化して、生活をともにしているというのであるから。その後のオムネクは、あまり表に現れず、静かに生活しているようだが、多分、このような事実を伝えただけでも、十分のインパクトを残したと言えると思う。

ちなみに、ネットでは、この「逆アセンション」(「次元降下」)を、「ウォークイン」や「転生」と勘違いしている人も見受けられるが、これは、それらとは別もので、一種丸ごとの「物質化」なのである(「ウォークイン」や「転生」なら、それほど珍しいことではない)。ただ、その「物質化」の型として、実際に存在して、入れ替わるように死んだ地球人が象られているのと、一時的なものではなく、死ぬまで解けないものとして、実質、地球人の身体とほとんど変わらないものになっているということなのである。いずれにしても、特殊な事態であるのに変わりなく、そのインパクトももちろん大きいことだろう。

4位も、かなり意外なものである。これは、タイトルのままに、「統合失調症」と「アイデンティティ」という問題が、興味を引いたのか、具体的な記事の内容により、ページビュー数が高くなったのか、知りたいところである。

(「うつ」の場合は、それ以上に、「アイデンティティ」と結びつきやすいだろうが)一般には、忌避されそうな、「統合失調」の場合も、そう規定することが、不安定で、希薄な「アイデンティテイ」を補うことになって、むしろ好ましいものとして、欲される場合がある。そして、それが、治癒的な効果につながることがある、ということを述べた。あるいは、「統合失調状況」という、訳のわからない状況に宙ぶらりんになることは、オカルトじみた恐怖が実際伴うので、観念的に、それから離れられるという意味でも、「統合失調症」なる「病気」と捉えられる方が、まだしもである、ということもある。

また、後半では、ハウス加賀谷の場合について、少し詳しく述べているので、それが興味を引いたということがあるのかもしれない。

5位は、「解離」に間するもの。『人格解離』という本への興味ということもあろうが、前回も、『「解離性幻聴」との相違』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post-e7a3.html()が入っていて、今回も、6位であることを考えると、「解離」そのものについての興味が、相当高まっていることを思わせる。あるいは、「統合失調」と「解離」は、似たところが多いので、その違いに、現実的な興味を寄せる人も多いことであろう。

「統合失調」と「解離」の違いには、私も、様々な観点から注目してきた。基本は、「全体として、明らかにまとまりを欠く」「統合失調」と、個々の「人格」は、一通りのまとまりを有しているが、いくつかの「人格」に「分断」されてしまっている「解離」の違いである。聞く「声」も、明らかに「他者」として、自己の根底を脅かすほどに迫ってくるものと、他者的でありながら、どこか自己に近いものとして感じられるものとの違いがある。

いずれにしても、「自我」なるものが、不可分の、まとまりをもったものとしてあるのが、「正常」の状態で、どちらも、違った仕方での、そこからの逸脱として捉えられている。しかし、「統合失調」と「解離」の問題、あるいは、最近における、それらの増加は、「自我」なるものは、不可分の、まとまりをもったものというのは仮の姿でしかなく、本当は、まとまりを欠き、分断もされるのが、本来の姿かもしれないことを、暗示しているということもできる。そして、それらは、その「自我」の奥にあると想定される、「魂」や、その原初における「創造」の問題をも、浮かび上がらせるものとなる。このような問題は、これまでにも触れられて来たが、近いうちに、さらに踏み込んでみたい。

なお、『人格解離』という本自体は、「解離」でも、外的には完全に分離していない、「内在性解離」というものがとりあげられている。また、「憑依」との違いという、興味深い問題も、正面からとりあげられている。『症例X』という本とともに、この著者の本は、もっと読まれてしかるべきものと思う。

2015年9月19日 (土)

「 」について

私のブログの記事では、「 」が多く使われている。別に気にも留めない人も多いだろうが、中には、読んでいて気になる人、あるいはウザく思う人もいるかもしれない。

私自身、ときには、無意識に使っていることに気づくこともあり、あまり意図のはっきりしないものもあるかと思うが、一応、意味があって使っているので、今回は簡単にその説明をしておくことにしよう。

まず、これには、単純に、文字の連なりの、見た目に「変化」をつけて、読みやすくするという意図もあって、無意識で使っているような場合は、この意味合いになることが多いだろう。

しかし、実質的な意味としては、大体次の4つくらいの意味合いになるかと思う。

1つは、「いわゆる」という意味合いで一般的にこういう言い方がされるということを、特に言い表わしている。それは、一般にそのように言われていて、意味内容も、その言葉自体によって、ある程度規定されてしまうような場合に、その言葉を使わざるを得ないにしても、それは、一般に言われているままに使うのではないということを、特に注意したいときに多く使っている。

たとえば、「統合失調」とか「自閉」とかが典型的な例で、こういうのは、はっきり言って、「」抜きで使う気になどなれない。むしろ、このようなものは、「統合失調症」とか「自閉症」とかの言葉が、「実体」を作り出しているというべきもので、実際には、そんなものが存在するわけではないのに、そのような言葉を使うことで、あたかもその「実体」があるかのように、錯覚されてしまうような性質のものである。

しかし、既に、一般に、浸透してしまっているし、「症」を抜いて、「統合失調」とか「自閉」で使うなら、そのような、あるパターンを示す「現象」そのものは、一応あると言っていいものなので、「」つきでなら、使えるということで使っているのである。

「幻覚」や「妄想」も、やはり「」抜きで使うことは、できにくいものである。「幻覚」や「妄想」という「現象」そのものは、とりあえずあると言えるにしても、
その実質的意味内容は、明らかに、一般的または医学的なものとは違うものになるからである。

これらの場合ほど、はっきりしたものではなくとも、実は、一般に使われる言葉で、これに似たものは多いと言うべきである。ある「概念」というものは、その言葉が作られ、使用されることによって、現実の存在としてあらしめられてしまうことが多いということである。だから、厳密にそのようなことを気にすれば、ほとんどの言葉というものが、「」つきで使われなければならないことになる。

しかし、身のまわりにある、単なる物や、日常的な行いなどに、いちいちそんな「けち」をつけて、「」をつけるなどというのも、キリがないし、滑稽なことでもある。だから、それは、特に「意味内容」に注意したいときなど、自分なりに気になる範囲で、使っている。多分、「」の使い方で、一番多いのは、これになると思う。

次に2つは、逆に、あまり一般に使われない言葉を、特に意図して使ったり、あるいは、私が特にそのように呼ぶというものに、注意を促す意味合いで使う場合である。これには、特に説明はいらないであろう。

たとえば、「捕食者」とか「霊界の境域」などである。

次に3つは、「強調」や「注意の喚起」の意味合いで使っている。強調したい文章については、太字を使っているので、語や言葉の強調では、「」を使うことにしている。本では、文の上や横の点で示されるようなことである。

また、「注意の喚起」は、1や2とも重なる面があるが、ここでは、特定の意味内容など限定した意味合いでなくて、もっと一般的で軽い、注意の喚起である。

次に4つは、これも読みやすくするためと言えるが、言葉の意味をひとまとめにくくるような場合である。数学で言えば、(2+4)×5の ()の意味合いと同じものである、

たとえば、「幻覚や妄想は捕食者の影響によって起こる」という事実は、未だほとんど知られていない。などの使い方である。「事実」も、そんな言葉は、実体があるか怪しいので、一般的には、「」に入れたくなるが、この場合は、逆に、「ふつうに」事実なのだということで、「」に入れない方が、インパクトや逆説的な意味合いが強まっていいだろう(?)。

まあ、しかし、これらの意味合いというのは、あくまで、大体のことであって、別に厳密に使い分けているわけではないし、初めに言ったように、見た目としての読みやすさの意味合いも大きい。だから、読まれるうえでは、あまり気にはしないでもらっていい。

ただ、もし気になるようであれば、上のような意図もあることに心を留めてもらえば、より理解も深まることと思うし、私としては、ありがたいことである。

2015年5月 7日 (木)

『ブログの趣旨』の追加

新しく、新設ページとして、『ブログの趣旨』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/shishi.html 右サイドバー最上部)を追加しましたので、どうぞ参照下さい。

特に、初めてこのブログをご覧になる方、どのような趣旨のブログなのか判じかねている方は、このページから読まれることによって、ある程度の目安がつくかと思います。強い違和感、拒否感のある方は、自分の感情に素直に従って、読むのは控えられた方が、よろしいかと思います。

なお、これまで、ときどき記事の最後に案内していた、全体の序論的、総論的な役割を果たす記事『総まとめ(旧「闇を超えて」より』も、その中に組み込んで、参照してもらうようにしています。

2015年1月10日 (土)

今後の研究テーマ

新年だからというわけではないが、自身のためのメモとしても、今後の研究テーマを掲げておく。

1  「自閉」と「統合失調」の関係

これは、私自身の問題でもあり、一般にも、「発達障害」と「統合失調」は類似するものがあり、診断上も混同されるなど、多くの問題を引き起こす。その意味でも重要なテーマである。最近の記事で、これについては大分明らかにできたが、特に「自閉」に関しては、さらに考察の余地があり、「統合失調」との関係も、さらに深く探求したい。、

2   人工的な技術と狂気/「BMI」と「テクノロジー犯罪」など

人工的に統合失調を作り出すことは可能かを論じた記事(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post-bd17.html )で、現状では不可能だが、将来的に技術的には可能かもしれないことを述べた。技術は日々飛躍的に進歩し、最近も話題となったように、「BMI」(ブレイン・マシン・インターフェース)ようなものも実用化されている。妄想も、時代を反映するから、かつての単純な「CIAに狙われる」から、「テクノロジー犯罪」のように、高度に技術的なものに進歩するのも理由がある。多少勉強も必要だが、これらのことを、改めて論じておきたい。

3  脳と意識の問題/「通常の知覚」と「幻覚」

かつても、最近の記事でも、「通常の知覚の危うさ」については述べたが、「通常の知覚」と「幻覚」の違い、またはそれらの本質について、脳科学の知見も参照しながら、さらに深く考察しておきたい。また、脳と意識の問題は、精神医学(精神疾患)の問題とも、大きく関わるので、現在の段階で考えられることをまとめておきたい。

4  「物質の本質」と「霊的なもの」

記事( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-e343.html )で触れたように、物質の本質とは何かという問題も、さらに深く論じてみたい。「霊的なもの」とは、「物質的なもの」との対比で言われるものだし、物質とは何かという問題とも、大いに関係している見方である。できれば、手垢にまみれた「霊的」という言葉を使いたくないが、現状では、いたしかたない。しかし、物質とは何かの問題が深められることによって、霊的なものという見方も、違った形に捉え直せる可能性がある。これらのことも考察してみたい。

多少欲張り過ぎかもしれないが、私もあと数年で、念願の「リタイア」を果たせる予定なので、その暁には、静かに、自然と戯れることを楽しみとしながら、余生を送りたいと思っている。それで、これらの考察は、この機会にやっておきたいのである。

ただ、いろいろ勉強もしながらの考察になるので、ペースとしてはゆっくりとしたものになるだろう。もちろん、記事の内容がこれらに限定される趣旨ではない。

2014年11月17日 (月)

前の記事のコメントに関して/簡単な総括

コメントありがとうございます。前の記事では、コメントが多く、長くなりましたので、記事を新たにして、簡単な総括に変えさせてもらうことにします。

みるくゆがふさんの言うとおり、私は「人格障害」(〇で字を伏せませんが、伏せたくなる気持ち分かります。名前=言葉が、実体を作り上げているようなものですから)にしても、「統合失調症」にしても、「病気」とは捉えていません。というよりも、「病気」かどうかなどということは、「無意味」ということです。「病気」であるか、ないかという発想をする時点で、既に、精神の領域に、「病気」というものが実体としてあるかのような発想を、持ち込んでいることになります。「病気」というものの見方が、実態を掛け離れて、むしろ問題を膨らませていることについては、記事「「病気」という見方が故の問題  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-78d9.html」を参照下さい。

「人格障害」とよばれるものについて、簡単に述べますが、私の考えを一言で言うと、人格=障害というものです。「人格」といものがある限り、人は、「障害」であらざるを得ないものです。ただ、人によって、あいるは他人や社会との関係によって、それが強く出やすい場合と、そうでない場合があり、それが強く出て、社会との間に問題を起こしている状態が、事実上、「人格障害」とよばれているというだけです。「人格」が「障害」なのですから、それを、根本的に治すことなど、「人格」がなくならない限り、あるいは、もはや人格を必要としなくなるのでもない限り、あり得ません。ただ、事実上、それが強く出ないような状態に、改善するということが、あり得るというだけです。それにしても、人格そのものの問題である以上、容易にそんなことができるはずもなく、他人が安易に「助ける」などということも、できるはずのないことです。

「統合失調症」と「人格障害」の関係について、簡単に述べると、統合失調では、未知の状況に陥り、人格が崩壊しかかるような、「危機の状態」に陥ります。その局面では、まさに、人格の「障害」としての面が、いやというほど露わになります。人格が、崩壊を前にして、足掻き、そのどうしようもない面(私は、「愚かさ」とも表現しましたが)が、いやでも表に出て来るからです。だから、「統合失調症」と「人格障害」に、このような意味で、重なる面があるというのは本当です。(もちろん、他のどんな「病い」も、人格と関わる以上、「人格障害」と重なる面はあります。)しかし、それは、人格の「愚かさ」を、脱するためには、必要なプロセスと考えます。内に潜伏したまま、表に出ないことには、それが、抜けて行くこともあり得ないわけですから。ただし、その場合、それらの「愚かさ」をしっかりと自覚していることが必要で、ただ無自覚に反応しているだけでは、一旦は抜けたようにみえても、また同じように戻って来て、住み着いてしまうでしょう。

私は、「くぐり抜ける」という言い方で、これらのプロセスのことを述べていますが、それは、確かに、容易にできることではなく、またさまさまな条件が作用することでもあり、成功するという保証があるものではありません。ただし、私としては、自分の体験に即しても、このような方向での、「治癒」ということを、第一に考えないわけにはいきません。それには、そのような「障害」の状態を、無理やり押さえ込もうとしたり、改善させようとするのではなく、ただ根気強く、抜け出ていくのを、「見守る」ような態度も必要になって来ます。人が、まともに、直視するこもできないような、どうしようもない醜態を、その人が露わにしているとしてもです。これは、はっきり言って、常人には、無理なことであり、私にも、恐らく無理でしょう。(加藤清医師のすごさは、こういったことに関わります。)だから、私は、できる限り、人の手をかけないでも、そのようなプロセスに向けて、自分でできる最低限のことを、アドバイスするしかないし、それはそれで、本当に実行されるなら、相当に有用なものであることを、訴えかけていくしかないことになります。

そういうわけで、私のこのブログで述べていることは、一般の精神医学でいわれていることとは、掛け離れているし、精神医学の方からみれば、「トンデモ」か「オカルト」として、唾棄すべきものでしょう。そのことは、自覚していますので、私は、そうであっても少しも構わないし、むしろ、そうあってくれた方が、やりやすいです。たから、私のブログが、精神科医に読まれる必要というのもありませんが、ただ、精神薬に関わる精神科医は、『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』ぐらいは、読んでほしいと思います。

なお、私の、このような基本的な考え方、このブログの趣旨については、前にやっていた「日記」で、総まとめをした記事(総まとめ(旧「闇を超えて」より)http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.htmlに、ほぼ述べられていますので、是非とも、そちらを読むようにして下さい。今後、コメントをされる方は、こちらを読んでからにしてもらうと幸いです。

※ なお、コメントでは、「人格障害」のことが話題になって、記事そのものの内容に関することには一切触れられていませんが、前回の記事も、通常の知覚と幻覚が、本質的には区別できないことを述べた重要なものですので、コメントや今回の記事とは切り離して、独立に読まれるよう望みます。

2014年10月11日 (土)

『精神医療に葬られた人びと』の追加等

1関連基本書籍の抜粋』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-d140.html)に、織田淳太郎著 『精神医療に葬られた人びと』(光文社新書)を追加しました。

精神医学や精神医療というよりも、隔離・拘禁の施設としての「精神病院」をテーマにしたもので、自ら入院した体験などを通して、その実情や歴史が、分かりやすく概観できるので、貴重なものと思う。私的には、日本の近代的病院移入前の、共同体的な民間療法が紹介され、それが否定されて、隔離・拘禁の精神病院へと移行していく過程が、かなり詳しく述べられているのもよかった。

2 『「集団ストーカー」という厄介な問題』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9e9f.html)には、多くのコメントがついたこともあり、簡単に概観的なまとめをしておきます。

「集団ストーカ」にしても、「テクノロジー犯罪」にしても、自分の内面に起こっている、ある「異様な感覚」の原因を、物理的な外界に、無理やり探し求める「解釈」をしている点では同じです。その点では、「CIAに狙われる」などの、典型的な「妄想」と何ら変わらないものです。ただ、その「妄想」の内容が、ネットのような情報技術の進歩と情報を煽る勢力の影響により、ある程度洗練され、具体的に定型化される形で、かなりの者に共有されるものになってきたというだけのことです。

しかし、その外界に原因を求めることの「無理」は、どうしても、その内容に、矛盾や飛躍、異様な印象として、出て来ざるを得ないものです。

もちろん、だからと言って、その原因は、「病気」にあるというのも、ただのイデオロギーに過ぎず、いわば、外界に原因を求めることから来る社会的害悪を、葬り去ろうとするものに過ぎません。両者の見方は、互いに反目し合う、対抗関係にあるといえます。

それでは、その原因を、直ちに、霊的なものに求めるのがいいのかというと、必ずしもそういうことではありません。私が常に言っているのは、内面に、何か攻撃を仕掛けられているかのような、異様な感覚を生じた場合、いきなり外界に原因を探るのではなく、その感覚そのものにもっと注意を集中して、じっくり見極めるようにするということです。そのような「見極め」によって、曖昧だったり、漠然としていた印象も、それなりに明確になってくるので、その時点で、始めて、原因を探ることもできるようになるということです。

そのような方向で、内面への注視が習慣づけられれば、自ずと、外界への一方的な志向は抑えられ、すぐに外界に原因を探ろうとする傾向は、抑えられます。そして、内面に起こっていることが、ある程度明確になってくるのに従って、その原因を外界に求めることの無理も明白になってきます。

そのような結果として、私としては、自ずと、霊的なものに原因を探るしかないと思わずにはいられなくなると思うのですが、もちろん、それは人それぞれでしょうし、もし違う理解に至る方途があるというなら、それを示してもらえばいいことです。

いずれにしても、外界に原因を求めることの「無理」と、それこそが、問題を拡大していることには、いい加減気づくべきだし、反対に、「病気」ということで、分かったことにして、葬り去るのも、いい加減止めてほしいと思います。もう一度言うと、両者は、互いに反目し合う、対抗関係であると同時に、互いに助長し合う、依存関係にもあるのです。

2014年9月 5日 (金)

「最近のコメント」の追加

右サイドバーに、「最近のコメント」を追加しました。

初めは、全然なかったのですが、いつの間にか、結構コメントを頂くようになり、かなり前の記事につくことも多くなったので、追加しました。

コメントは、読者の方の感想や疑問、類似の体験なとが聞ける貴重なものがありますし、私のコメントも、それに応じて、記事では表れていない重要なことが述べられたり、違う視点から分かりやすく説明されたものも多いです。

もう少し前から、追加しておけばよかったですね。

2014年8月21日 (木)

「図一覧」について

本ブログの右サイドバーに、「図一覧」という項目があって、その文字または下の図をクリックすると、今まで記事につけた図の一覧が表示されるようになっている。

この図たちは、文字では理解しにくいような事柄も、目で見て感覚的にパッと分かりやすいように書いたものなので、とても参考になると思う。あるいは、むしろ、興味のある事柄について、図から入ってもらって、記事を呼んで、理解を補充してもらうのも、いい手かと思う。重要な事柄にこそ、図を付けているので、それらは、すべて、重要なものである。

以下に、特に重要で、また、図にこそ大きな意味があると思われるものを、いくつかあげておく。

まずは、『霊界の境域1』(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/gif2.html

これは、「この世」=感覚的領域=物質的世界、「あの世」=超感覚的領域、霊的世界というものは、それぞれに〇で囲うことのできるような、ある枠組みをもった、秩序的世界であること。「統合失調状況」に関わる「霊界の境域」というのは、その狭間の、中間的領域で、秩序的枠組みには収めがたい、混沌たる領域であること。しかし、それが故に、その根底には、「虚無」という、一切の枠付けを超えた、「根源的」なものが控えた領域であること、が、一目で分かるようになっている。

また、『霊界の境域2』(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/gif3.html

では、さらに、「あの世」=霊的世界の内部を、いくつか階層に分けることによって、それらの霊的世界の階層または領域と、「霊界の境域」との関係が、一目で分かるようになっている。「霊界の境域」は、たとえば、「アストラル下層領域」などともいわれる、「低次の領域」と、重なり合うように存在しているのは確かである。そこには、「低級自然霊」ともいわれるような、霊的存在も多くいる。しかし、一方で、そのような一切の階層性や、枠組みを超えた、「虚無」を根底に控える領域なのであり、一種「両義的」な領域なのである。「統合失調状況」の分かりにくさは、「霊界の境域」の、そのような「両義性」にもよっているのである。「スピリチュアル」系で、これを単純に、「アストラル下層領域」や「霊界の低次の領域」と同一視する見方もあるが、それでは、「統合失調状況」の複雑、多様なあり様は、捉えられないということである。

次に、「深浅様々なレベルにおける死と再生」(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/1.html

これは、「イニシエーション」(試練を含む儀礼)というものは、「死と再生」の過程を含むが、それを、「水平的方向」と「垂直的方向」の座標軸に位置付けると、非常に理解しやすいものになること。「死と再生」といっても、「垂直的方向」の深みに応じて、それには、様々な深浅のレベルがあり得ること。さらに、その例として、「成人儀礼」や「シャーマンの巫病」、「悟り」、「解脱または自己喪失」をあげ、それぞれにおいて、「自我」または「自己」の何が「死」に、何が「再生」するのかを、簡単に明らかにしたものである。

加藤清がいうように、「病気」を乗り越えることも、一つの「イニシエーション」の過程である。しかし、それが、具体的にどのようなものになるかは、まさに、深浅どのレベルで「死と再生」が起こるかによる。「統合失調」の場合、少なくとも、「成人儀礼」と同様のレベルで(これは、多くの「病気」で起こることといえるが)、さらに、「シャーマンの巫病」や「悟り」のレベルで、「死と再生」が起こり得る。ただし、これらは、単純に、同一視できるものではないので、その中間的な、さまざまなバリエーションはあり得る。

次に、『精神的な「病」と「医療化」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/photo_9.html

これは、社会との関係で、(精神科の)「病院」がなしていることを、一目で、分かるように示したものである。図で、一目瞭然なので、特に、説明は不要であろう。製薬会社、さらに支配層が、「利益」を吸い上げるシステムであることも、示されている。「統合失調症」を想定したので、社会から逸脱した者を、「統合失調状況に陥った者」に限定したが、多種様々な「病気」が発明されている現在、そのように限定する必要もないだろう。「例外」として、一応とも社会に復帰する者も、見込まれているのが「ミソ」で、これがなければ、いくら何でも、このシステムを、「治療」のシステムと呼ぶことは不可能である。

今回、新たに、「統合失調」ということを、端的に明らかにする、図を追加しておいた。

統合失調状況と反応

Photo

これは、妄想や錯乱など、統合失調症の症状とされるものは、「統合失調状況」にける、壊れかかった「自我」の、(防衛的な)「反応」であることを明確にするものである。

ある「状況」に対する、「反応」なのだから、「結果」として生じているのであり、それだけをとりあげても、らちが空かないものである。ただし、その「反応」は「目に見える」ものでも、「状況」そのものは、「目に見えない」ものであるから、その「状況」を理解し、捉えようとすることは、容易ではない。

この「反応」に伴って、脳に何らかの異常がみられることもあろうが、それは、あくまで、その反応に伴って、脳のレベルで生じている現象というに過ぎない。それ自体も、「反応」なのだから、全体として、「結果」であり、「原因」なのではない。また、そのこと自体が、何ら本質的な意味をもつのでもない。

「自我」の図は、「日常的状況」では、一応安定を保っている「自我」が、「統合失調状況」という未知の状況に陥り、捕食者的な存在から攻撃を受けるなどのことにもより、外殻にひびが入り、外界との境界性を失い、壊れかかっていることを表している。

妄想や錯乱は、そのような壊れかかった「自我」が、何とか自己を保とうとする、防衛的な「反応」であり、ある種絶望的な、「あがき」である。それは、はたからみても、了解不能の、「愚か」で、馬鹿げた行いにしかみえないし、実際、そうであると言うしかない。

鍵は、そのような「反応」をもたらす、「状況」というものに、どれだけ、理解や共感を寄せられるかである。そこを、「病気」ということで、穴埋めしようとしても、無理であり、逆効果である。

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