本年は、コロナより断然怖い、(チップ挿入の疑いもある)ワクチンの義務化、強制化の動きが本格化するので、昨年に引き続き(というより、本年こそ)大変な年になることは間違いないでしょう。
ウイルスを使った騒動は、地域的な戦争の火種よりも、世界規模での働きかけができ、支配層にとって、ずっと効果のある「仕掛け」として、味を占めた感もあります。そうすると、今後も、コロナに限らず、似たことが何度も繰り返される懸念もあります。
そのような結果として、自由が徐々に制限され、管理が徹底されて、「超管理社会」に向けての本格的な流れが、変えようのないものとして、実現されてしまうことも考えられます。
各人が、しっかりした覚悟をもって対処しないと、その流れに逆らうことは難しいかもしれません。
しかし、支配層も、自分らの支配、管理を失うことの、差し迫った恐れと焦りの故に、そういったあがきをしているので、ここをくぐり抜ければ、全体として、変化の兆しも見えて来ると思います。
昨年のページビュー数ベスト5にも、大きな変化があったので、報告しておきます。
1 「『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産」
2 「「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」」
3 「「注文の多い料理店」の犬の怪」
4 「ニーチェと「狂気」」
5 「記事『どぶろっくと「妄想」』推奨」
自分で言うのも変ですが、いずれも衝撃度の高い、濃い内容のものなので、妥当というか納得のいくものになっています。私的には、直に、「狂気」「統合失調」について書かれた記事も、もっと読まれてほしい思いはありますが、5は、かろうじてそういった記事の一つです。
とは言え、いずれの記事も、「狂気」に関わるものではありますし、一般に、「狂気」「統合失調」についての記事よりも、興味をそそるのは当然のことでもあるでしょう。
1は、モンローの本に出てくる、人間に対する宇宙の「捕食」的なエネルギーシステムを分かり易く解説し、さらにそのような「宇宙の創造」ということの意味を原点から考え直すもの。それが、必ずしも、「捕食者」という存在によらずとも、人間が「狂気」に陥らざるを得ない根本的な事情を、明らかにすることにもなっています。
2は、シュタイナーの「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」との対比を私の観点から改めて捉え直し、それが「狂気」、特に「統合失調」とどのように関係するかを明らかにしたもの。
3は、宮沢賢治の有名な物語が、単なるファンタジーなどではなく、ユーモアを交えつつ、「捕食者」的なものを明らかに示すとともに、異次元的な現象、特にそれが現実に入り込んで、現実をかく乱する、「中間的な現象」を見事に結晶化していることを明らかにしたもの。
4は、ニーチェの「動機の心理学」と言われる、「鋭過ぎる」暴きの思想が、学問を初めとする人間の営為をことごとく暴き尽くすとともに、自ら、それを超えようとして、それが適わず、「狂気」に陥ったとみられることを明らかにしたもの。
それぞれ、容易に結論めいたものの出せない、根源的な問題提起になっていると思います。あまり、この問題に深く捕らわれると、「狂気」に陥って戻れなくなること請け合いの問題でもありますが…(笑)。
※1 ニーチェの例をみても分かるように、ここでは、「知の限界」というようなことが、「狂気」の状況となることを述べました。
これは、「統合失調」についても言い得ることです。ただし、この「知の限界」は、主観的または文化的な規定が大きく影響します。現代においては、「唯物論」という規定が、「統合失調」における「知の限界」に関わっています。その「限界」に関わる「未知」の現象に見舞われたとき、「知」がそれを認めずに「あがく」とき、「統合失調」的な反応をもたらすということです。これは、「集団ストーカー被害」においても、また言えることです。
※2 なお、私の一連の体験を綴った、記事『20 「宇宙の死」へ』 に、脱落している部分があることに気づいたので、その部分を挿入しておきました。
6行目の「私の場合」から、22行目の「ないではなかった。」までの部分です。
一連の体験の流れの中で、アーリマン存在の影響が大きく減退するとともに、「宇宙の死」、「虚無との遭遇」へと向かう契機となる重要な部分ですので、改めてここで報告しておきます。
(短いですが、この部分がないと、読んだ人は、唐突に流れが変わったように感じて、戸惑ってしまったことでしょう。どうもすみませんでした。)
※3 記事『量子力学の観測問題」と「意識」1』、『「コラム的に」』、『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1』で参照としてリンクしていたサイトが移動したため、リンクできない状態でしたが、改めてリンクし直しました。分かり易い説明と思うので、ぜひ、参照ください。
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