精神世界

2016年3月25日 (金)

「宇宙人」と「霊的なもの」

「宇宙人」というが…、

そもそも「宇宙人」という言い方で、現在の我々がイメージするような、地球外の星に生息する生命体を言い表すようになったのは、近代以降のことである。そして、それには、「技術」の発展ということも、大きく関わっている。

様々な観測技術の発展によって、宇宙の天体に関する「知識」が知られるようになり、それが、それまでの天体に対する見方を変えた。つまり、「天体」というものは、「物質的なもの」として捉えられるようになった。その結果、その天体に住む生命体がいるとすれば、それも、「物質的なもの」とみるのが、当たり前のようになったのである。

それ以前には、「宇宙」ないし「天体」は、現在にいう意味での「物質的なもの」とはみなされなかった。ただし、それは、後にみるように、即、「霊的なもの」とみなされたわけではない。それは、我々や我々の身の回りにあるものを越えた、「聖なるもの」とみなされたのであり、その「組成」がどうのこうのというより、我々を「越えた」ものであることが強調されたのである。

それを、現代の見方に当てはめれば、やはり「物質的なもの」を越えた、「霊的なもの」という面を含むことにはなるだろう。

しかし、そもそも、「霊的なもの」とは「物質的なもの」に対置される言葉であって、「物質的なもの」というのが明確に規定される限りで、それとの対比で、捉えられるものである。だから、近代以前には、「霊的なもの」というのも、また、明確にイメージされたわけではない。

近代以前にも、「幽霊」のようなものは、人の死後、つまり肉体というものを失った後に現れるので、肉体をもたない、「霊的なもの」という見方は、一応されていただろう。しかし、その他の「自然霊」、神々や精霊などは、必ずしも、「霊的なもの」として意識された訳ではないし、そのようにみる基盤もなかった。また、それらは、必ずしも、「見えないもの」なのではなく、現代で言えば、「物質的なもの」としてのあり方をし得るもの、あるいは、「物質的なもの」と同じく、明確に現れるものでもあった。

たとえば、「狐や狸に化かされる」ということが言われたが、この「狐」や「狸」は、「精霊」としての「狐」または「狸」を意味する。しかし、それは、「物質的なもの」と同じようなあり方をし得るもので、かつては、「物質的」な「動物」としての「狐」や「狸」と、特に区別されたわけではなかったはずである。

人々が、空に仰ぐ、「天体」というのも、同じことで、それは、まさに「神々」そのものであり、もちろん、その天体に住む存在も、「神々」であったのである。それは、「物質的なもの」としてのあり方をし得るもの、あるいは、「物質的なもの」と同じく、明確に現れるものであるが、同時に、「物質的なもの」を越える、「霊的なもの」でもあったわけである

このような捉え方は、直感的で、素朴なものではあるが、現代の「宇宙人」という捉え方より、むしろ、真実を捉えているというべきである。

近代以降の見方は、物質的な観測技術に基づいて、それに捕らえられるものを、「物質的なもの」として「理論的」「概念的」に構成したのである。(「物質」または「物質的なもの」とは、「理論」または「概念」なのであって、「事実」そのものでないことには、改めて注意を要する。)それは、我々が、それまで「仰ぎ見」、「畏怖」したきた「宇宙」を、「知的」に理解する可能性を開き、また、それを応用することで、「技術」がさらに、発展することを示した。

それが、ある程度成功したので,我々はその方向を強く押し進めた。「宇宙」が、そのような「物質的なもの」のみで構成されているとすれば、我々は、「宇宙」にあるすべてを知的に理解し、「あらゆるもの」をコントロールすることができるようになる。そのような奢りと、希望的観測から、ついには、「物質的なもの」が「宇宙のすべて」とみなされるようになったのである。いわゆる、「唯物論」的発想である。

しかし、もちろん、このような捉え方では、すべてを捉え切れないという見方も、一方には存在した。そして、そのような見方は、「物質的なもの」には含められない、「見えないもの」、「心」や「魂」など、物質的な法則には収まらないものを、「霊的なもの」として、捉えることになった。

この「霊的なもの」という捉え方も、「物質的なもの」という捉え方が、明確にされたことにより、それとの対比で、出てきたものである。そして、それは、本来、未分化であり、一体のものとして捉えられていたものを、二つのもの、または領域に、分断したことをも意味する。「物質的なもの」と「霊的なもの」というのが、別々のものとして、あるかのような見方は、こうして、新たにもたらされた、ということである。

また、「霊的なもの」というのは、「物質的なもの」に対抗するように、前面に出された面があるので、そこには、「物質的なもの」に対して、「対抗的」な発想が含まれることにもなる。たとえば、「物質的なもの」を「俗なるもの」(価値のないもの)とし、「霊的なもの」を「聖なるもの」(価値あるもの)とみなすような見方である。

しかし、これは、近代以前の、「物質的なもの」と「霊的なもの」が未分化である状況での、「聖なるもの」の捉え方とは、明らかに異なっている。また、あまりにも、単純で、非現実的な発想であるのが、明らかである。

いずれにしても、「霊的なもの」という捉え方自体が、「物質的なもの」という近代に特有な見方の発想を、何らかの形で、引きずり、含んでいるということである。それは、近代以前の発想とも異なるし、少しも、自明なものというわけではないのである。

要するに、「物質的なもの」といい「霊的なもの」というのも、宇宙の中の地球という、ごく限られた地域での、しかも、その中の、「近代」という特定の時代と地域になされた、あまりにも、特殊な区分けに過ぎないのである。それは、その時代や、地域に特有の、「文化」そのものであり、さまざまな「思惑」や「希望」に塗り込められた発想ということである。

現在普通にみられる、「宇宙人」というイメージは、「宇宙人」を「物質的なもの」の延長上に捉えているが、それは、そのように限られた、特殊な発想を前提とするものに過ぎない。もちろん、だからと言って、それらを「霊的なもの」とみなせばいいということではないのは、上にみたとおりである。

いずれにしても、「物質的なもの」と「霊的なもの」という区分けを含めて、そのような見方には、根本的な見直しが必要なのである

前に、記事『「分裂病」と「アブダクション体験」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-fc30.html)でもみたように、実際に、「UFO」や「宇宙人」についての、観測や遭遇の事例をみると、それらは、確かに、「物質的なもの」としての「みかけ」を有している。それは、一般の「霊的な現象」として知られるものとは、一見異なっているようにみえる。

しかし、「UFO」や「宇宙人」も、「物質的なもの」としての性質を、明らかに無視する行動をとる。たとえば、物質的なものを貫通したり、形を変えたり、瞬間的に移動したり、消滅したりなどである。それらは、「霊的なもの」の性質に近いものである。

一方で、「幽霊」や「自然霊」など、「霊的な存在」として知られるものも、「物質的なもの」の性質に反する行動をとる反面、「物質的なもの」としての現れを示すことがある。

たとえば、『呼び覚まされる霊性の震災学』にもとりあげられている、タクシードライバーの遭遇する「幽霊」は、物質的な存在と区別できない仕方で現れる。人間と同様に話し、接触もできるし、人間と同様に乗車する。それで、ドライバーも、記録やメーターに残すことになる。ところが、しばらくすると、いつの間にか、座席から消えているのである。『呼び覚まされる霊性の震災学』では、彼女へ贈り物を届けようとして、そのまま死んだらしき青年の、手にもっていた贈り物が、座席に残されていて、今もドライバーに保管されているという話が載っている。

この「幽霊の置き土産」ともいえる「贈り物」などは、「物質化現象」そのものであり、もはや「物質」そのものというべきものである。

私自身も、記事『「幻覚」という「判断」について 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d631.html)で述べたように、「物質的なもの」そのものとして現れ出た、「幽霊」としか考えられないものに、出会ったことがある。それは、一般の「幽霊」のイメージからすると、本当に驚くべきもので、初め、「幽霊」と気づく余地はなく、生きている人間とほとんど変わらないのである。

このように、「肉体」を失った、人間の「幽霊」ですら、「物質的なもの」と変わらない現れをすることがある。ましてや、「自然霊」など、強力なエネルギーをもった存在は、「物質的なもの」として現れる力も、ずっと強いのである。「幽霊の贈り物」でみたような、「物質化現象」も、より多く起こすし、ときに、「物質」そのものとして、自らの「身体」を残すこともある(カッパのミイラなども、本物であれば、その一例といえる)。先にみたように、「精霊」が、実際に存在する、「狐」や「狸」と同一視されていたとしても、不思議はないのである。

私も、一連の体験では、これら「自然霊」による、「物質化現象」に、何度か出くわしている。本当に、「物質」として現れ、そのまま残るし、そのものとして使用することもできるのである。「声」なども、「物理的なもの」であるかのように現れ出るものだし、実際、「幽霊」においてすら、「声」が録音されたということがある。

このように、「物質的なもの」と「霊的なもの」は、本来、画然と区別されるものではない。「宇宙人」も、「霊的な存在」と異ならず、「霊的なもの」としての性質をもち得るし、「霊的な存在」も、「物質的なもの」としての性質を示し得るのである

さらにいえば、先の記事でもみたように、そもそも、地球でいう「霊的存在」というのも、元々は「宇宙」から来た存在であるが、地球に適応して、そのようなあり方をしているに過ぎないという可能性もある。「宇宙人」と「霊的存在」とは、明確に区別できるような存在ではない、ということである。

ただし、これまで、記事でもそのように扱って来たように、地球においては、「物質的なもの」と「霊的なもの」を、一応区別される領域であるように扱うことには、それなりの意味もある。既にみたように、地球においては、「物質的なもの」というのが、かなり明確に捉えられていて、日常的には、その領域に捕らえられている、といってもいいような、現実があるからである。

その場合、「物質的なもの(または領域)」と「霊的なもの(または領域」の関係を示すならば、とりあえず、記事『「霊界の境域」の「図」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-fb4c.html)の図で示したように、互いに丸で囲まれた、異なる領域として示すことができる。その関係だけを、新たに図に示すと、次のようである。

1_3ただ、これは、我々が、日常的には、「物質的な領域」に、いわば閉じ込められているという現実の状況があるため、「霊的な領域」に関わる事態が生じた場合には、まずは、その境界ないし交わる部分としての、「霊界の境域」が、重要なものとして浮上する、ということを示すことに、意義があったのである。「統合失調状況」も、まさに、その重要な一例であった。

ところが、本当に、「物質的なもの(または領域)」と「霊的なもの(または領域」の関係を、それ自体に即して示すなら、本来、それらは別々の領域ではなく、全体として一つものであることを示す必要がある。その場合、「物質的な領域」とは「霊的な領域」に比べて、明確に捉えられる分、限られた領域なのであって、本来、全体としての「霊的な領域」に含まれる、一部であるということになるのである。それを、図に示すと次のようになる。

2

あるいは、「物質的なもの」というのも、「霊的なもの」の一つの現れなのであり、「霊的なもの」がより凝縮してできたもの、ということもできる。シュタイナーも、ほぼそのような捉え方をしている。

「霊的な領域」を、「物質的な領域」より高次元の領域として、その関係を、「次元」の違いで表わすことも可能ではあろうが、それは、「高次」「低次」ということから、誤解をもたらしやすいものでもある。むしろ、漠然とはしているが、「物質的な領域」を、物質の三態に比すならば、「固体」のような、固定的な状態、「霊的な領域」を、「液体」または「気体」のような、流動的な状態として、ある一つのものの「状態」の違いとして捉えるのも、一方法だろう(「密度」という捉え方は、それに近い)。

いずれにしても、地球においては、前者のように、別の領域として捉える方が、「現実的」で、日常的な感覚には、沿っているが、本来は、後者のように、一つのものの別の側面に過ぎない、というよりも、一方が他方を包摂する関係にある、ということなのである。

そして、「宇宙人」というものを、地球の限られた視点からではなく、そのものとして捉えようするなら、やはり、この後者の見方で捉えなければならない。そうすると、「宇宙人」は、「物質的なもの」としてのみかけや性質は有しているが、本来、それを「越えた」、「霊的な領域」に属すものということになる

もちろん、先にみたように、この「霊的なもの」というのも、「物質的なもの」との対比で出てきた概念であり、その限りで、やはり、「地球」的な制約を含むといわねばならない。しかし、我々は、「宇宙人」を捉えると言っても、事実上、「地球」という立ち位置から、捉えるしかないのであり、その中で、できる限り、正確に捉えようするしかないのである。その場合、とりあえず、「物質的なもの」と「霊的句なもの」の関係を、よく見定めたうえで、その関係を通して、捉えておくしかないと思われる。

「霊的」という言葉を避けて、「非物質的領域」とするとか、「次元」や「密度」などの捉え方で、捉えることも可能ではあるが、私は、それでは、現代の「唯物的」発想による捉え方と、それほど違わないことになるのではないかと思う。新たな、捉え方を模索するとしても、少なくとも、これまで「霊的なもの」として捉えられてきたものを、十分汲み取ったうえで、なされるのでなければ、本当に内容のあるものは見込めない。

その意味では、私は、「宇宙人」についても、あえて、「霊的なもの」という捉え方をすることに、意味があると思っているし、むしろ、それを強調することが重要と思っている。

ただし、「宇宙人」といっても、種類は様々であり、地球の物質的存在とあまり変わらないような存在から、「物質的なもの」をはるかに越えて、純粋に「霊的なもの」として存在しているようなものもあるだろう。「物質的なもの」を「超えた」、「宇宙人」といっても、その「物質的なもの」と関わる度合いは、様々であり得るということである。

そして、そのような「宇宙人」も、「物質的なもの」と関わる限り、やはり「技術」というものと、何らかの関わりをもつということになるはずである。

次回は、この「宇宙人の技術」について、さらに「霊的なもの」との関わりで述べてみたい。

2015年8月24日 (月)

シュタイナーの「人智学」について

シュタイナーについては、記事『シュタイナーの「悪魔論」について』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-fee0.html)でも述べたとおり、私の興味は、全体の「神秘学」ないし「霊学」にも及んでいるが、基本的に、中心は、自分の体験によく符合し、他には見い出すことのできない、「2系統の悪魔論」ということになる。「統合失調」に絡めて参照にしたのも、この「悪魔論」が多かった。

しかし、最近の記事『シュタイナーの精神病論3―「幻覚」と「妄想」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-054b.html)で、「アーリマン」に対抗する「判断力」は、「神智学を研究する」ことで養われるということ、さらに、シュタイナーは、この「神智学」を「自分の霊学」の意味で言っているのに違いないことを述べた。

また、シュタイナーは、「カルマ」的結果としての、病気などに代えることのできるものとしても、「神智学」を真剣に学ぶことをあげている。つまり、「神智学」を学ぶことで、深いところから、霊的な認識を自分に作用させることで、「カルマ」的結果を受け取るのと、同じ意味のことをなすことができるということである。

このように、シュタイナーの霊学を学ぶこと自体の重要性を明らかにしたので、改めて、シュタイナーの霊学について、どのような性質のものなのか、一とおり述べておこうと思う

シュタイナーの霊学は、「人智学」とも呼ばれる。これは、ブラバッキーなどによって伝えられた、特定の霊的知識体系としての、「神智学」を受け継ぎつつ、それに対抗して、新しく立てられたものである。「神智学協会」には、当時シュタイナー自身、指導者として関わっていたのだが、シュタイナーは、その組織を離れて、自らの「人智学」を打ち出すことになる。その直接の理由は、まだ少年だったクリシュナムルティを、協会が、世界教師として、一種の救世主として仰ぎ出したからである。

当時、存在した霊的知識体系としては、まず、「スピリチュアリズム」があったが、これは、高級霊と称する霊的存在が、霊媒を通して語った、「霊界通信」を知識の内容の中心としている。同様に、「神智学」も、大師(マスター)と呼ばれる、超越的存在ないし人類の指導者が、仲介者を通して語った教えを、内容の中心としている。

それらには、確かに、人間的なものを越えた「きらめき」がみられる部分があるのも、事実である。そのような、人間的なものを越えた「きらめき」は、人々を魅了し、ひきつけるものがある。しかし、それらは、人間的なものによって、確かめられたり、咀嚼されたものではない。

そのような要素が、無批判に受け入れられれば、幻想的な熱狂や耽溺を生み、地上生活を疎かにさせる。あるいは、人間を越えたと思われるものへの、「崇拝」を膨らませ、クリシュナムルティを救世主として仰ぐようなことを起こさせる。(最近の記事でも述べたように、要するに、ルシファー的な誘惑が入り込みやすいということである。)

シュタイナーは、「神智学」の「神」を「人」にして、「神智学」の、そのような「神的な要素」を、「人間的なもの」に変えるべく、「人智学」を打ち立てたのだといえる。それは、シュタイナーの、あくまで、人間的な超感覚的能力と人間的な思考能力または論理によって、咀嚼され直した、「神智学」ということである

それは、ある意味で、「神的なもの」を「人間的なもの」に、引き降ろしたのである。だから、そこには、「スピリチュアリズム」や「神智学」にはあったかもしれない、超人間的な「きらめき」は、もはやほとんどみられない。シュタイナーの語りや文章は、基本「味気」がなく、「つまらない」ものである。また、シュタイナーは、「分からない」ことは、基本「分からない」ままに、放置する。「スピリチュアリズム」や「神智学」のように、上段から、一方的に、結論めいたことを言い放ったりはしない。

また、霊的なものの実像を浮き上がらせるのは、あくまで、「人間的な論理」を通してである。それは、本来、「そのもの」を端的に言い表すには、相応しいものではなく、様々な観点から切り込むことで、何とか全体像を浮かび上がらせるという,迂遠な方法で、迫るしかないものである。結果としても、どこか曖昧で、端的には捉え難い、もどかしさを感じさせるものにならざるを得ない。

このように、霊的知識体系としては、必ずしも、インパクトのあるものでも、「面白み」のあるものでも、学びやすいものでも、ないのである。恐らく、多くの人は、シュタイナーの「霊学」を学ぼうとしても、そのような感想をもち、とっつきにくいと思うことだろう。

さらに、シュタイナーの特徴は、私も注目したように、独自の「2系等の悪魔論」であり、「悪魔論」としても、他のものと比べて、かなり具体的で、深く踏み込んだ内容のものである。シュタイナーは、霊的な認識や実践においても、これら「悪魔」的存在の影響がいかに強く働くかを強調し、それらの性質(自らの内部に働く性質でもある)をよく認識して、その影響を避けつつ、実践していくことを重視するのである。その意味では、とても慎重なものであり、また、道徳的な態度を要求するなど、ある意味、説教臭いものでもある。霊的な真実に向って、直截に突き進んでいくといった性質のものではない。

一般には、霊的知識を学ぼうとするとき、非日常的で未知なものである、「霊的な真実」について、単刀直入に知りたいと思うことであろう。あまり興味の湧かない「悪魔論」とか、その影響を避けるための、道徳性や判断力など、煩わしい限りのものに違いない。そういう点からも、シュタイナーの霊学は、一般に取り入りやすいものとは思えない。

その点は、いかんともし難いが、ただ、「統合失調状況」なり、何らかの、「霊界の境域」に関わる「恐ろしい」体験をした者は、シュタイナーの言っていることが、いかに的確かを、身にしみて感じることになるはずである。また、そういう、(その他の部分はかっこに入れておき)自分が、本当に体験的に納得できることを、受け取っていくという態度で接するならば、むしろ、シュタイナーのように、地道ではあるが、人間的に咀嚼された内容のものの方が、しっかりと身についていくということも言えるのである。

私自身そうであり、何度も言うように、全体として、シュタイナーの言っていることを受け入れているわけではない。特に宇宙進化論(地球進化論)の部分などは、むしろ、「神智学」を引き継ぐ部分が多過ぎるのが問題で、「神智学」からもっとはっきりと離れて、自分の感覚と論理に忠実に独自に打ち立てた方が、いいものになったはずなのである。

いずれにしても、多くの人とって、シュタイナーを読んでみたいという思いはあっても、なかなかとっつきにくくて、そうできないというのが現実でははないかと思う。

そこで、私の一つの提案は、一般に、主要著書とされる、『神智学』や『神秘学概論』、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』ではなく、『シュタイナーのカルマ論』を読んでみることである。この書では、他に比べて、割と、明確に語るということがなされているし、内容も濃く、「カルマ」という問題を通して、シュタイナーの考えの全体像も、ある程度みえるものになっている。「カルマ」は、誰もが興味のある問題と思うし、病気などを通して、強い関心をもつ人もかなりいるはずである。

私も記事で、この書をとりあげている(『シュタイナーの精神病論2及び3』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-6351.html, http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-054b.html)が、それも大いに参照になるはずである。それで、さらに読みたくなれば、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』などを読めばいいのである。これは、自ら自覚的に霊的な認識を獲得するための、修行の方法を示した書だが、「霊界の境域」でどんなことが生じ、それに対処するにはどんな方法があるのか、という視点から読むことも可能である。

何しろ、「霊的なもの」に真剣に関わろうとする者、あるいはそうせざるを得なくなった者にとって、他のものでは得難いものが、多くあることは確かである。

2015年8月 1日 (土)

「カルマを超える」ことと「野狐禅」

前回及び前々回、「カルマを超える」ということを述べた。しかし、それは、あくまで、「カルマ」を「カルマ」とはっきり認識して、「原因」を見定め、その自らの無意識的な行為を自覚にのぼらせ、「カルマ」を通して修正しようとしたことを、自ら意識して、自己教育的になすことができるようになるということだった。

だから、それは、もはや「カルマを受けない」とか、「カルマに落ちることがない」などということではない。また、それは、「カルマ」ということを、軽んじているのではなく、むしろ、厳粛に受け止めるからこそ、可能になることである。

このことに関して、禅の公案に、「百丈野狐」という面白い話がある、ここに簡潔にまとめられたものがあるので、参照されたい。(http://www.geocities.co.jp/Beautycare/7975/m-002.htm)

百丈和尚の説法のあと、一人の老人が、かつて弟子に、「修行を完成した人、つまり悟った人は、因果に落ちることはあるのか」と聞かれて、「不落因果」(因果に落ちることはない)と答えたために、野狐の身にされてしまったというのである。

その老人は、何と答えれば良かったのか分からないので、百丈に同じ質問をすることになった。すると、百丈は、「不昧因果」(因果に昧からず、あるいは、因果に昧まされず)と答えた。その意を悟った老人は、瞬時に、野狐の身を脱することができた。

「因果」とは、まさに「カルマ」のことであり、老人は、悟った者は、もはや「カルマに落ちない」などと、「思い上がっ」て、誤ったことを言ったために、野弧の身にされてしまった。まさに、図らずも、「カルマ」を受けてしまったのである。

この質問に関する「正解」は、「不昧因果」、つまり、「カルマに暗からず」、あるいは「カルマに眩まされず」だった。これは、どちらにしても、要するに、「カルマ」を「カルマ」とはっきり見定めて、それに明るいが故に、それに眩まされたり、囚われることがない、ということである。その意味を悟った老人は、まさに、自らの思い上がりを修正して、長年の「カルマ」の結果を脱することができたのである。

この公案は、「野狐禅」という言葉のもとになっているものである。「野狐禅」とは、一般に、「生半可に悟った気になっている禅」のことを、言う。しかし、「野狐」とは、人を化かしたりする、悪賢い「妖狐」、つまり「精霊」としての狐を指すのであり、単に「生半可」ということでは、済まないものがある。それは、もっと、本質的に、「邪悪な力」を帯びた、「思い上がり」なのであり、強く誘惑されたものである。

要するに、それは、「ルシファー」の働きそのものであり、「野狐禅」とは、ほかならぬ、「ルシファー禅」のことなのである。禅でも、「魔境」という言い方をするが、前回もみたように、「宗教体験」や「悟り」のような、内面の変化に深く関わる事にこそ、「ルシファー」の影響力も強まって、それに囚われる者を増やしめるのである。実際、単刀直入に、「悟り」を目指す「禅」ほど、「ルシファー」の影響を受けやすいものもないと言えるだろう。

一般のイメージとしても、禅または禅の和尚には、「暴力的」とも言えるような、「邪悪さ」や「思い上がり」のイメージがつきまとうのではないか。日蓮なども、「禅天魔」と言って、当時の禅のあり様を貶した。「天魔」とは、まさに「ルシファー」のことであり、「禅」は「ルシファー」に支配された邪悪な宗教というのである。

禅者である道元も、このような事態を憂いていたようで、晩年、「十二巻本正法眼蔵」の中の「深信因果」という巻で、「因果」の問題を集中的にとりあげている。まず、「百丈野狐」の話をあげつつ、悟った者は「因果に落ちない」という発想が、いかに外道の誤ったもので、禅の悟りとは無関係であるかを、力説している。さらに、様々な禅の師匠の説をあげて、「因果に落ちない」どころか、「因果」を「深く信じる」ことこそが、禅の基本であることを、説いているのである。それは、どこか、経典をたくさんあげつつ、阿弥陀仏の本願を信じることがすべてと説く、親鸞に近いものを感じさせる。およそ、禅者らしくないといえば言えるのである。

それは、それだけ、「野狐禅」的なあり方を憂いていたということで、「ルシファー」的な「思い上がり」の怖さを、身にしみて、感じ取っていたのだろう。

いずれにしても、前回みたとおり、「カルマ」の元には、「ルシファー」の影響が強く働いているのだった。だから、「カルマ」を軽んじることは、「ルシファー」の働きを軽んじることになり、結局は、それに捕えられることを意味する。「カルマ」については、ただそれだけを云々するのではなく、その元にある、「ルシファー」の働きをも深く見定めることが、必要になってくるというべきなのである

2015年7月18日 (土)

「霊的な方向」と「ルシファー」との関わり

前回、人間のカルマや病気は、欲望や利己性など、「ルシファー存在」の本質が、人類に植え込まれたという、普遍的な事実に端を発することをみた。「アーリマン存在」との関わりも、この、内側からの「ルシファー的」な性向に基づいてこそ起こるので、「アーリマン的」な影響の結果もまた、この事実に発しているといえるのである。

「ルシファー的性向」は、このように、人類に普遍的な性向とはいえ、個々人における現れは、その者の生き方や時節、さらに、時代や文化などの影響により、様々であり得る。ある時、ある時代には、強く現れないで、平穏な人生が送れたとしても、ある時、ある時代には、強く現れ、「病気」などのカルマ的な結果をもたらすこともある、ということである。

そして、この「ルシファー的な性向」の一つの特徴は、実は、「霊的な方向」に進めば進むほど、強まる可能性もより高まる、ということにあるのである

「ルシファー」とは、本来「光」の存在なのであり、人間にとっては、地上的なものを離れた、「霊的な輝き」に、強い羨望と、希求をもたらす。それは、一つの原動力ではあるのだが、しかし、一方で、地上生活を疎かにさせ、幻想的な耽溺をもたらし、実質、高慢なエゴを膨らませるだけのことにもなる。

旧「オウム」のようなカルト宗教に、このことが顕著だが、前回みたように、「ニューエイジ」や「スピリチュアル」にも、このような、「ルシファーの誘惑」という傾向は多分にみられる。

一般には、欲望や利己性というと、むしろ、「物質的」な、この地上生活に特有のことと思われるかもしれない。しかし、実際には、そのような「物質性」から、「霊的な方向」に目覚めるほどに、むしろ、このような誘惑が強まることに、注意しなければならないのである

現代の社会は、唯物論か支配している社会といえるが、この「唯物論」が、ある意味、このような意味の欲望を、制限してきた面がある。「唯物論」も、「アーリマン的」な影響力の結果なのであり、当然、物質的なものや金銭、権力など、この世的な欲望を膨らませる元になる。しかし、それは、所詮、「私」という存在が、この世において生きている限りの、一時のものであり、「私」が死ねば、もはや意味を失う。そうであるならば、それは、もともと意味のないものともいえるのである。そのような、ある種の「ニヒリズム」が、「唯物論」にはつきまとい、その欲望に、全面的にかけさせるだけの情熱には、欠かせるのである。

ところが、「私」は死後においても存続し、物質とは異なった、価値あるものということになると、事情は変わってくる。物質的なものであれ、霊的なものであれ、「私」という存在がかける、欲望や情熱も、制限されないものになるのである。それは、地上的な限界を打ち破って、どこまでも、駆け巡っていく可能性を孕む。しかし、実質は、「私」というエゴを、地上生活でなし得た以上に、無限に膨らませるだけの結果ともなるのである

ところで、物質的支配の行き届いた、現代の世界の「支配層」の人々は、やはり「唯物論」の信奉者なのであろうか。私は、決して そんなことはないと思う。もちろん、彼らは、人々を、彼らの支配下に置き続け、他の可能性などないと思わせるために、人々に向っては、「唯物論」を押し広めてきた。しかし、自らは、単に、この世限りの存在ではなく、「永遠」の存在として、人々に君臨するためにこそ、強い意志と情熱をもって、人々に対する「支配」を実行して来たのである。それは、人間的なものを越えた、「悪魔的」な知恵と結びついた、本物の「悪魔主義」といえ、単に「ルシファー」的な欲望を越えて、「アーリマン」的な支配力にまで達している。だからこそ、ときに、一般の者には、不可解なほどの力を発揮できるのである。

ところが、物質的なものの限界も、霊的なものについての情報も、広く知れ渡った今後は、多くの人々も、もはや「唯物論」に支配されるだけの時代とは、なり難い。いやでも、「霊的なもの」に目覚める人々は、増えて来るということである(※2)。しかし、それは、望ましい方向性とは、一概に言えない。同時に、これまで「唯物論」によってこそ抑えられていた、「ルシファー的」な欲望や傲慢な利己性を、解放させる方向でもある。そのような方向は、「支配層」の支配を何ら脅かさないばかりか、むしろ助長さえするだろう。

このように、「ルシファー的」影響力の増大は、今後の一般的な傾向の問題となるはずである。それは、当然、前回述べたような、「精神的な病」というカルマ的な結果の増大をももたらす。今までは、そういったものと無縁のように思えた人―従って、前回の私の論にもあまり現実感をもてなかった人―にとっても、今後はそうとは限らなくなることを意味している。

ところで、シュタイナーは、一般的な傾向というよりも、特定の個人において、「霊界参入」が深まるにつれて、「ルシファーヘ的な性向」が強くなる可能性について述べている。それを引用してみよう。

(物質界の背後の霊界に参入するときは、「アーリマン」による幻影の力が強まるが)魂の内部に強く沈潜しようとするときは、ルシファーの力が特別大きくなります。私たちが、神秘家として、好運にも魂の内部に没頭できたとき、その前に予め自分の性格の中にある高慢や虚栄心などに対抗する手段を見い出しておかなかったなら、神秘家として生きながら、内部から魂に働きかげるルシファーの誘惑に陥ってしまうでしょう。神秘家は道徳的な修行をしませんと、神秘体験をもつようになればなるほど、大きな危険にさらされてしまうのです。これまで以上にルシファーの影響の揺り戻しを受けて、いっそう虚栄心のある、高慢な人になってしまうのです。ですから、どんな場合にも、現れてくる虚栄心、自己顕示欲、誇大妄想、高慢な心の誘惑に対する対抗手段を予め獲得できなければなりません。そして謙虚さを失わず、下座の行に励まなければなりません。神秘道を歩む人にとって、これはとりわけ必要なことなのです。                  (『シュタイナーのカルマ論」』 p.138)

このように、今後は、一般的にも、個人的にも、霊的な方向への関わりが増すほど、ルシファーの影響や誘惑も強まってくる、ということになる(※1)。だから、これまでは、あまり意識されなかったとしても、今後は、それに対する対処法も、意識して身につける必要がある。

引用文からも分かるとおり、その対処法というのは、シュタイナーは、やはり、この地上生活でこそ身につけられた、「道徳的な力」以外にはないという。それは、「謙虚な態度で、自分を過大評価しないこと」とも言い換えられる。これは、実際、これまでにも述べてきた、「統合失調状況」(「霊界の境域」での出来事)に対する対処法そのものであり、「個人的に受け取らないこと」など、「関係妄想」に対処する方法そのままでもある。今後は、そのことの意味が、より強く、普遍的なものとして、要求されてくるということである。

※1  このように、個人的にも、一般の方向としても、霊的な方向に進むことは、より葛藤や闘いを強め、試練に満ちたことになる、というのは、前に紹介した「ナイト・ヘッド」の、主要なテーマでもあったのだった。もっとも、そのような、霊的な方向に行くが故の混乱や堕落は、人類は既に「歴史」上、「アトランティス」において経験済みのことなのでもあった。だから、ポイントは、やはり、そのアトランティス後の、地上生活において、かつてのような堕落を乗り越えられるだけのものを身につけたか否か、ということになるのだろう。 

※2  しかし、これだけ物質的な方向の限界が見え、霊的な情報が行き渡っているのに、全体として霊的な方向に踏み出さないことこそ、上に述べたような、霊的な方向に進むことに伴う危険性の予感を、多くの者が潜在的にも嗅ぎ取っていることの表れなのかもしれない。それは、アスランテイスの集合的な記憶によるのかもしれないし、あるいは、現代の唯物的世界観のタガが外れることで、訳のわからないものが無際限に解放されてしまうという、漠然たる恐怖に過ぎないのかもしれない。しかし、いずれにしても、全体として、いずれは、そのような方向に踏み出さざるを得なくなることは、もはや必然の流れといえると思う。

2015年7月 7日 (火)

シュタイナーの精神病論3―「幻覚」と「妄想」

「病気」というのは、「カルマ」的な結果といえることを前回みた。しかし、それは、前世でのあり方を修正し、克服するため、自ら意志的に選ばれたものでもあった。だから、「病気」は、「カルマ」の結果であるとともに、それを修正し、克服する機会でもある。

一方、この「病気」への傾向には、人類全体としての、「ルシファー存在」や「アーリマン存在」との関わりが大きく作用しており、それは、「人類のカルマ」という面も併せもっていた。つまり、「病気への傾向」は、人類の誰もが共通して持つ、普遍的なものであり、たまたま、ある生において、特定の誰かがある「病気」になり、他の者はならなかったとしても、それは単に、その生において、「機が熟して」いたかどうかの違いに過ぎないのである。

だから、「病気」を、単に個人的な「悪いカルマ」として、自分とは切り離された、他人事のようにみなすことは、全く無意味である。

そのようなことを踏まえて、今回は、特に「精神的な病」について、より詳しくみていくことにする。

「精神的な病」は、肉体にまで作用する、精神的な印象や感情によって、引き起こされるといえる。が、シュタイナーは、意識化された印象は、抵抗にあうため、肉体に強く作用しないが、意識にのぼらない、無意識的な印象こそが、肉体に強く作用して、より「病気」のもとになるという。たとえば、幼児期に受けた印象というのは、記憶にものぼりにくく、意識化されにくいが、むしろ、肉体には強く作用して、「神経症」などの原因となる。

また、それは、前回みたような、死後の「カマロカ」期において、前世の行為を俯瞰するときに受けた印象についても、いえることである。それは、現世に生まれた後は、忘却され、意識にのぼらないことがほとんどだが、無意識レベルでは、肉体に強く、また深く作用し続け、ときに「精神病」などの病気の原因となるのである

「カマロカ」期の印象は、現世における幼児期の体験以上に、強烈なもので、より肉体に強く作用し、「重い病気」をもたらしやすいのである。だから、「神経症」は、現世に原因を見い出せるとしても、「精神病」は、現世に原因を見い出すことができないのが普通で、前世の行為の「カルマ」的な結果というべき場合が多いのである。

これらのことは、「治る病気」「治らない」病気ということとも関わってくる。「精神病」もそうだが、「重い病気」は、事実上「治らない」ことも多い。それは、「その生」の範囲においては、克服し得るだけの条件が整っていないこと、言い換えれば、一つの生だけでは克服し難い、それだけ強い「カルマ」的影響の現れであることを物語っているわけである。

このような「病気」への傾向は、「ルシファー存在」と「アーリマン存在」との関わりという観点からみると、まず「アストラル体」に「ルシファー存在」の影響が植えつけられ、人間に、欲望と情念から発する、利己的な行為がもたらされたことに発していた。次に、それが「アーリマン」の影響を招き、「エーテル体」に影響を受けて、外界についての正しい認識が阻害され、誤謬と、虚偽への傾向をもたらした。そして、それらの結果が、「アストラル体」と「エーテル体」に刻まれることで、「肉体」の条件が規定され、「病気」を招く「虚弱」な身体をもたらしたのである。(シュタイナーは、これらの段階を、次のように簡単にまとめている。すなわち、まず、軽薄で、表面的な人生→次に、虚偽への傾向→次に、病的な体質ということである。)

この「ルシファーの影響」と「アーリマンの影響」は、それぞれ、「ルシファー的な病気」と「アーリマン的な病気」をもたらすということもできる。

「ルシファー的な病気」は、「アストラル体」の異常であり、「痛み」を伴うものである。「痛み」は、「異常」を自覚させ、修復のきっかけを与える点で、むしろ好ましいもの(ルシファーに反対する勢力が与えたものという)とされる。

それに対して、「アーリマン的な病気」は、「エーテル体」の異常で、それは肉体により深く入り込んだ、悪性の強いものである。それは、「痛み」も伴わずに、つまり、意識化するきっかけも与えずに、深いレベルで進行し、器官を弱らせ、遂には崩壊に導くのである。ただし、器官が崩壊することは、それ以上深く「アーリマンの影響」を受け続けることから、解放させるという意味では、好ましいことでもある(これもアーリマンに反対する勢力の影響という)。

シュタイナーは、このような「アーリマン的な病気」の例として、幻視や幻聴などの「幻覚」と、迫害妄想に代表される、「妄想」をあげているのである。それはまさに、「統合失調状況」そのものである。ただ、シュタイナーは、それを「分裂病」という言い方で示すことは、していない。前々回もみたように、実際、シュタイナーが、「分裂病」をどういうものとして捉えていたか不明なのだが、何しろ、それは結果的に、「分裂病」以外のなにものでもないものを、明らかに示すことになっているのである。

これまでに何度もみてきたように、シュタイナーも、幻視や幻聴などの「幻覚」は、「アーリマン」がもたらすものという。それは、一種の「見霊能力」ではあるのだが、実質、「見せかけ」の幻影であり、要するに、外界(霊的世界を含む)についての「正しい認識」から外れた、「誤謬」なのである。

このような「アーリマン」の影響は、「ルシファー」の影響が強く現れ出ているところに生じるのだった。たとえば、自分を誇大視した、傲慢な意識であり、まさに、「アーリマン」は、そのようなものにつけこんで、あたかも、その者にだけ特別に与えられたかのような、「意味ありげ」な「幻影」を与えるのである。内部にある、「ルシファー的」な欲望や幻想に引っかけ、それを元にしてこそ、「アーリマン的」な「幻影」が成り立つということである。だから、「アーリマン」の強い影響が働いているということは、自己の内に、「ルシファー」的な欲望や思い上がりが強くある、ということなのである。

あるいは、「迫害妄想」に結びつくような、「攻撃的」で「恐怖」に満ちた「幻覚」は、これらと違うかのような印象を与えるかもしれない。しかし、そのような場合にも、自己の誇大視や、利己的な幻想がどこかに潜んでおり、「迫害」の意識は、その裏返しとして生じているという面が、必ずあるものである。

そして、そのような、「迫害妄想」に代表される「妄想」もまた、「アーリマン」の影響によるものである。シュタイナーは、「妄想」に捉えられた者に対しては、この世的な「論理」でもって、それが誤りであることを説得しようとしても、無意味であることを強調する。それは、前世の「カルマ」から来るもので、「エーテル体」に刻まれた性質を通して、「誤謬」が強く意識に反映されるからである。この世的な「論理」は、「エーテル体」の作用を修正し得るものではなく、むしろ、「妄想」を根拠づけることに、利用されるだけである。

要するに、その者は、「幻覚」や「妄想」を通して、「アーリマン」的な力に捕らえられて、逃れ難く、その「虚偽」「誤謬」の世界に絡め取られているのであるそして、それは、「ルシファー的」な影響を、内に強く抱えていたことの、「カルマ」的な結果であるということである

私は、「妄想」は、破壊的な状況に対する「防衛反応」だとも言った。それは、壊れかかった「自我」を、「補償」する働きをなすからである。しかし、その「妄想」が、「妄想」として、殊更、迫害とか誇大とかの方向に、いわば「色付け」されるのは、やはり、「アーリマン的」な影響に強く捕らえられているからというほかない。

このような「幻覚」や「妄想」に囚われ、「アーリマン的な力」の影響に強くさらされ続けれれば、シュタイナーのいうように、「器官」を弱らせ、さらに崩壊させることにもなっても不思議ではない。この場合の「器官」とは、「脳神経」器官のことになる。つまり、幻覚、妄想への囚われの果てに、脳の働きがシャットアウトされ、精神的には、もはや死んだような、荒廃した状態をもたらすことにもなり得る。

シュタイナーは、このような「幻覚」や「妄想」に対する対処―すなわち、「アーリマン的な力」に対する対処―は、「この地上生活で育成された」「健全な判断力」以外にないという。この「判断力」こそが、「幻覚」を「幻覚」、「妄想」を「妄想」と気づかせて、軌道を修正させるということである。それは、「アーリマン」の力をも、たじろがせるものという。

ただし、この「健全な判断力」とは、先のような「この世的な論理」や「一般的な常識」などでないのは当然である。これは、たとえば「幻覚」を、「霊的な知覚」と認識したうえで、それにも拘わらず、一種の「幻影」と見抜かせるだけのものでなければならない。そこには、「この世的な論理」や「一般的な常識」では届かない、「霊的なもの」に対する判断も含まれてくるのである。

また、「この判断力」は、「妄想」に囚われている状態を、愚かなことと、はっきりと気づかせるものでもある。先にみたように、「この世的な論理」では、とても説得できないような、「カルマ」に突き動かされた「妄想への囚われ」をも、気づかせるだけのものということである。それはまた、そこに、いかに、「ルシファー的」な、自己の過大視や傲慢さが潜んでいるかを、自覚できるものということでもある。

シュタイナーは、この「判断力」について、「神智学の研究によって鍛えられた判断力と識別能力」とも言っている。「神智学」とは、より一般的に言えば、「霊的な事柄に関する系統だった知識」のこと(※)で、要するに、そのような研究を通して、真に身につけられた、判断力と識別能力いうことになる。

ただし、ポイントは、それが、「地上生活で育成される」、というところである。一般に、「霊的な方面への希求」は、地上生活を軽視し、地上生活から足が離れたものになりやすい。「霊的なもの」を「地上的なもの」より、高級なものとみなし、そういうものに関わる自分を、高級なものとみなしたりするからである。「ニューエイジ」や「スピリチュアル」といわれるものにも、この傾向が顕著である。それは、実際、「ルシファー」の誘惑なのであり、それでは、幻想を膨らませこそすれ、健全な判断力が育つわけもないのである。

シュタイナーは、「地上生活」を重視したうえで、それを通して本当に鍛えられた、堅実な研究態度が、そのような「判断力」を身につけさせるというのである。

それは、同時に、「意識」と結びついた、健全な「自我」の発達ということでもある。たとえば、「幻覚」というものは、半ば催眠に近い、半意識的な状態で起こることが多い。しかし、そのような半意識的な状態こそ、「アーリマン的」な影響力をますます助長するのである。シュタイナーは、そこに、意識と結びついた「自我」を介入させることが重要という。そのような「自我」は、まさに、この「物質的」な「地上生活」を通してこそ、身につけられ、発達されるわけだが、それを、そのような「霊的な領域」にも、持ちこせるようになることが重要なのである。

霊的な認識を高めるためにこそ、地上的、または物質的な経験が必要となる」というのが、シュタイナーの「霊的進化」の発想の基礎に、常にある。それは、当然、「物質的なもの」を軽視しないという態度ともなり、前々回みたように、「精神的な病」についても、「物質的な基盤」を看過しないということに、つながってくる。

さらには、先にみたように、「意識」にのぼらない、「無意識的な過程」こそ、病的な働きを強めるのだったが、そこに、「意識」が本当に介入できれば、その過程を逆にたどって、それを「意識的な過程」に変えることができる。つまり、無意識的な「カルマ」の働きを、霊的な認識を通して、「自覚」にもたらし、それを、意識的な働きかけを通して、同等の意味のことを、別の仕方で成就させるということである。そこでは、もはや、「病気」という結果を、必要としなくなる。「病気」を通して、修正したり、乗り越えようとしたことを、自らの意識の力で、「自己教育」として、なすことができるようになる、ということである

これは、要するに、前世の死後に意図したり、志向したことを超えて、現世での経験と学びを通して、「カルマ」を乗り越える可能性を身につけたということになる。

このように、「カルマ」とは、決して、硬直で、融通のきかない法則なのではなく、同等の「意味」のものに置き換えたり、乗り越えたりすることも可能なものなのである。

ちなみに、私自身は、一連の体験時には、強くカルマの影響ということを、意識せざるを得なかった。記事にも、自分は、仏伝に出てくるアングリマーラの生まれ変わりではないかという思いに、囚われたと言った。「悪魔」などという存在に、四六時中つけまとわれるとは、それだけの深い縁があるということで、よほど前世で悪い行いをしたに違いないと思ったからである。

それは、もちろん、極端な発想だが、「カルマ」という点では、そのとおりと言え、実際、その後には、ある程度はっきりと、それに関する前世のビジョンが浮かび上がったりもした。ただし、「悪魔」(=「ルシファー」及び「アーリマン」)との関わりという点では、それは人類に普遍的なものであることが、当時は理解できておらず、今では、たまたま、その関わりを強く意識する機会に見舞われたに過ぎないことが、よく理解できる。とはいえ、「アーリマン」との関わりについては、自分が「ルシファー的な傾向」が強いことと、それは、前世から引き継いでいる傾向に違いないことは、十分自覚している。また、そういった一連の過程全体は、結局、自分自身が志向して、もたらしたものであることも、自覚している。

※ 8月16日

 ただし、「神智学」ということで、シュタイナーの本当に言いたかったことは、あくまで「自分の霊学」であるのは間違いないだろう。つまり、一般の霊的知識体系は、「スピリチュアリズム」にしても「神智学」にしても、ルシファーに捕えられやすい性質をもっているが、ルシファーやアーリマンについて本当に深く研究され、その影響を周到に避けつつ、それを乗り越えることをも内容としている、「私の霊学」ということである。

2015年6月25日 (木)

シュタイナーの精神病論2-「カルマ」について

前回に引き続いて、シュタイナーの精神病論の観点3、 「カルマ」及び「ルシファーやアーリマンとの関わり」について述べたい。これは、観点1,2と比べても、「精神病」について、最も霊的なレベルを掘り下げた観点からの考察になる。そこでは、「カルマ」という、これまであまり触れて来なかった観念が、中心的な働きをなす。そこで、今回は、この「カルマ」について、概観しておくことにしたい。

シュタイナーも、(前回述べたように、普段はあまりしないことだが)『シュタイナーのカルマ論』(春秋社)の中で、「カルマ」について、ある程度明確な理解を与えるべく、要点を概説することをしている。「カルマ」については、特に当時の西洋人にとっては、なじみのない、曖昧な言葉であったし、人によって理解も異なるものだったからである。

シュタイナーは、「カルマ」とは一言で言えば、「霊的な因果法則」だという。つまり、原因と結果の法則である。ただし、それは「霊的」レベルに働くもので、物理的な因果法則とは異なる、独自のものである。その法則には、いくつかの要素がある。それらをあげると、

まず、「反作用性」、つまり、結果が、他のものではなく、それを引き起こした原因そのものに、立ち返ってくるのであること。ただし、その結果が返ってくる「原因」とは、その結果を引き起こした「原因」と同一の存在でなければならない。いわば、「同一性」ということである。さらに、その結果は、自分自身が意図したこととは、別のところで、客観的に生じていること。言い換えれば、本人自身からは「見えない」レベルで、「因果法則」が働くものであることである。

「カルマ」とは、元々古代インドで言われたもので、「行為」とか「業」ということを意味した。それは最もシンプルには、1の「反作用」の意味で、その「行為」の結果が「業」として、自分自身に返ってくることといえる。要するに、「行為」とは、誰に、あるいは何に対するものであれ、それは「宇宙」に対するものといえ、その「宇宙」は、いわば鏡のようなものとして、その行為を反射して、本人に返すということが、最もシンブルな理解の仕方と思う。

物理的な法則にも、「作用・反作用の法則」というのがあって、ある物体に力を作用させれば、それと同じだけの反作用を受ける。これは、「カルマ」を理解するうえで、非常に参考となるものである。だたし、それは、物理的法則のように、「目に見える」ものではない。3で述べられたように、自らの意図と関わりないところで、働く反作用を受けるのである。また、その「行為」には、「思い」というものも含まれる。ダスカロスも、「エレメンタル」(想念形態)が、それを発した者に返ってくることが、「カルマ」の基盤となると言っているが、「思い」も霊的にはエネルギー的基盤があるので、そうなるのである。

また、それは、「物理的因果法則」のように、一対一の対応をする、一義的で融通の利かない法則なのでもない。後にみるように、「意味」的に置き換えの可能なもので、同等の意味を有する他の結果に置き換えたり、さらには、法則そのものを乗り越えたりすることも可能なものである。

「カルマ」の一つの重要なポイントとして、2に述べた「同一性」ということがあるが、これは、「輪廻転生」の発想と絡むことになる。「原因」の結果が、それを引き起こした存在の生前に、その存在に返ってくるなら、問題はないが、この法則は、宇宙的な規模で働くもので、そのような短い時間単位の中で働くことを想定していない。つまり、その結果を引き起こした「原因」が、死んで、転生した後に結果を受けることを想定しており、その「転生」ということを通じて、「同一性」ということが満たされるのである。つまり、前世の行為の結果が、その存在の死後、転生した後に返ってくることになるが、その場合も、その存在には、「同一性」があるからこそ、「カルマ」となるということができるのである。

そのようにして、「カルマ」は「輪廻転生」ということと、密接に結びつくことになる。古代インドでもそうだったが、この点は、シュタイナーでも同じなのである。また、現在でも、一般にそのようなものとしてイメージされていることが多い。

ただ、この「輪廻転生」ということの理解の仕方は様々であり、それにより、「カルマ」の理解も、大きく変わってくることになる。シュタイナーの「カルマ」論の特色も、この「輪廻転生」の理解の仕方と結びついているといえる。

シュタイナーでは、地球の場合に限ると断っているが、「個別的な魂」のようなものが、輪廻の主体として、死後も生まれ変わり、「転生」するという理解である。だから、前世の行為を行った「原因」の存在と、来世で結果を受ける存在は、「主体」として継続性があり、同一と考えるのである。(私自身は、この点にはかなり疑問もあるのだが、一般的な受け取り方として、とりあえずこのように解しておくことは可能とは思っている。)(※)

さらにシュタイナーでは、この「転生」は、自ら「主体的」になされるものとみなされる。つまり、死後から新たな誕生までの期間に、自ら主体的に計画したうえで、なされるということである。その基盤は、「カマロカ期」とよばれる、死後に「アストラル」界で、生前の自分の行為を客観的、俯瞰的に回想する時期にある。そのような時期には、生前の狭い視野の意識とは異なり、全体を俯瞰する「高次の意識」が働き、生前の行為を反省して、来世で償ったり、行為のあり方を修正してバランスを図りたいという衝動を生じる。そのような衝動が、「魂」(アストラル体)に刻まれ、来世の肉体の条件を規定し、あるいは、生まれる環境を規定する。そのようなことが、来世での「カルマ」の基礎になるのである。

だから、シュタイナーでは、「カルマ」の法則自体が、とても「主体的」なもので、受動的、「運命的」なものではなく、自ら、自分の行為を修正しようとする意志に基づくものとされるのである。この点は、古代インドや、現代の一般の理解とはかなり異なっている。

ただし、「カルマ」とは、宇宙の法則なのであって、単に「個人」の法則なのでもなければ、「人間」の法則なのでもない。「人間」についても、個人レベルでの「カルマ」があるとすれば、もっと集合的な「民族」や「人類」レベルでの「カルマ」もある。これらは、交錯しており、「民族」レベルや「人類」レベルでの「カルマ」を、「個人」が受けることもあるのである。

さらに、人間以外の「神々」や、「地球」や「宇宙」そのものにも、「カルマ」はある。それらが、複雑に交錯し合って、「カルマ」が生じているということである。単純に、個人の意志による「カルマ」に還元できるものでもなければ、民族や人類レベルの「カルマ」や、神々や地球、宇宙レベルの「カルマ」を、受動的、他律的に被ってしまうというものでもないのである。

だから、「カルマ」が主体的なものとして自ら選びとられるものと言っても、そこには、もともと「神々」や「宇宙」の法則として設定されたものという面もある。
これらは、重なり合って存在しているのであり、それを理解するには、前に記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-3e86.html)で述べていた、「創造された創造者」という発想を参照するのがいいかもしれない。

つまり、「カルマ」とは、そもそも「創造」という行為があってこそ、それに伴って生じたものであり、人間を越えたレベルで、「創造者」によって設定されたという面が確かにある。しかし同時に、「創造された創造者」として、「創造者」の一面を有する「人間」によって、自ら、選びとり直された(いわば「再創造」された)ものでもあるということである。

何しろ、このように、「カルマ」は他律的なものではなく、「主体的」な法則で自ら選びとっているというのが、シュタイナーの「カルマ論」の一つの重要な特色である。それは、西洋近代の「自我」の発想と通じる面があり、シュタイナーも、そのような発想を通り越しているからこそ、それを取り込んでいるという面もある。

また、これまでみてきたように、シュタイナーでは、輪廻転生が、「霊的進化」という目的と結びついているから、そこに「主体」の意味が強く前面に出てくるのも当然といえる。シュタイナーの「霊的進化」とは、個別的な存在として、物質界での経験を積み重ねることで、霊的な認識を高めるということなので、そこには、「輪廻転生」が当然組み込まれて来る。とともに、それは、目的的なもの、かつ主体的なものとなることになる。また、同時に、それは、非常に物質的に焦点化された、地球という環境における、一つの特殊な「実験」のような意味合いを帯びることにもなる。

さらに、シュタイナーの、「霊的進化」の目的の一つは「自由」ということであり、「カルマ」というものも、その自由を前提とするものである。自由意志つまり選択の自由があるからこそ、「カルマ」を受ける余地があるのであり、そうでなければ、そもそも「カルマ」を受けることには意味がない。言い換えれば、人間は、「悪」の方向に誤る可能性があるからこそ、「カルマ」を受けてそれを自覚し、主体的に修正する可能性も生じるのである。

ただし、シュタイナーは、「カルマ」を受けることに「自由」があるのではなく、それを乗り越えることにおいて、初めて「自由」が達成されるということを強調する。つまり、誤る可能性を越えて、もはや「カルマ」を受けなくなること、「カルマ」など必要としなくなることが「自由」なのである。「カルマ」は、法則であるとともに、越えられるべきものともなるのである。

また、シュタイナーは、「カルマ」の前提となる、「悪」の可能性を人間に与えた存在として、ルシファー存在やアーリマン存在との関わりを重視する。ルシファー存在は、人間の「アストラル体」に自らの本質の一部である、「低次の自我」を植え付け、欲望や激情から行動するように仕向けた。これは、カスタネダのドンファンが、「捕食者」によって、「外来の心」が植え付けられたということのシュタイナー的な捉え方である。

それによって、人間は、「悪」に陥る可能性とともに、「カルマ」を引き受ける基盤を作った。そして、そのようなルシファー的な影響が、今度は、アーリマン存在の影響を外部から被る可能性を招き寄せた。前に述べたように、アーリマン存在は、ルシファー的なものが現れ出ているところに、ハエのように集るのであり、その影響を刈り取るのである。そのようにして、人間は、アーリマン的な「虚偽」、「幻想」を生きるようになったとともに、欲望と激情から発する行為が、虚しく刈り取られるという、絶望を味わうこととなった。

こういった、内面からの、ルシファー的影響と外界からのアーリマン的影響が、人間に、「悪」の可能性とともに、「カルマ」をもたらす基盤となる。ルシファー存在の影響は、「アストラル体」に刻まれ、アーリマン存在の影響は「エーテル体」に刻まれる。いわば、人間は、不調和な霊的身体を引き受けて、転生を繰り返すことになる。それは、肉体を条件づけるものとなり、さまさまな「病気」をもたらすことにもなる。

だから、シュタイナーによれば、「病気」というのは、「カルマ」的結果の中でも、最たるものである。言いかえれば、その「病気」を通して、「カルマ」が修正され、ルシファー存在やアーリマン存在の影響を乗り越える可能性も与えられる。すなわち、「自由」の可能性である。

「病気」については、様々な「病気」が論じられるが、「精神的な病」についてもまた、論じられている。それは、「統合失調」状況そのものでもある。次回は、そのような「精神的な病」と「カルマ」の関係及び、ルシファー存在とアーリマン存在の関わりを、具体的にみてみたい。

最後に、既に、これまでみてきたことから明らかのはずだか、「カルマ」について、現在多くみられる誤解について、簡単に解いておきたい。

最もよくみられる誤解は、「カルマ」とは、前世になした「悪い行い」に対する「罰」のようなもので、甘んじて受けるべきもの、あるいは、受けさせて然るべきものというものである。これは、「カルマ」を、受動的な「運命」または「宿命」のようなものとして、受け取ることによるものだし、さらに、融通の効かない、硬直な法則として受け取ることにもよっている。こういうものが、少なくとも、シュタイナーの主体的で、「意味」的に等価なものに置き換え可能なもの、さらに「乗り越える」べきものとしての「カルマ」論とは、全く異なるものであることは、明らかである。

さらに、この誤解は、「カルマ」が個人的なものばかりでなく、人類レベルや宇宙レベルのものと交錯していることを、看過している。「個人のカルマ」に帰せられない、「不幸」な出来事は、いくらも起こり得るが、これは、すべてを、「個人のカルマ」に帰す発想によっているということである。

また、「カルマ」とは、その結果として起こっていることに対して、どう対処するかということも、また「原因」として、含み込んでいるものである。言いかえれば、現に起こっている出来事に、どう対処するかということが、不断に、「カルマ」として原因を作り出すことにもなるのである。だから、「カルマ」だということで、ただ人にそれを受けさせるような、冷淡な態度は、それ自体が、新たな「カルマ」を作っていく元にもなる。

しかし、私は、このような誤解は、そもそも「カルマ」の問題である以前に、「病気」なら「病気」という結果を、「悪いもの」と決めつける見方の方に存していると思う。それが、「悪いもの」と決めつけるから、「カルマ」という「罰」が働いたという見方を引き寄せるので、「悪いもの」という見方が、「カルマ」の見方をも、規定しているのである。

それは、あらゆる「病気」に言えるが、「精神的な病気」については、特にそれが顕著である。むしろ、「悪い」という見方こそが、それを「病気」として固定的に位置づけることに、大きく作用しているのである。

このようなあり方も、ある意味、現代の人間の「カルマ」そのものとも言えるが、「カルマ」とは、決して「悪いもの」であることを前提とするものではないことは、確認しておいてほしい。

※ 8月17日

「輪廻転生」の捉え方というのは、本当に踏み込もうとするなら、「魂」または「自我」とは何か、そもそもどのように「創造」されたのか、という問題と密接に絡む、容易ならざる問題である。 そこで、いずれ、それについて、結論めいたことというよりも、考え方の基本や問題点の指摘をしておきたいと思う。

2015年6月14日 (日)

シュタイナーの「精神病論」1

これまでにも、何度か参照にして来たシュタイナーの「精神病論」(統合失調論)だが、今回は、一通り、まとめてみることにしたい。 

シュタイナーは、一般に、あるテーマについて、あまり要点をまとめる書き方や話し方をせず、著作や講演ごとに、さまざまな角度から述べることで、全体像を浮かび上がらせようとすることが多い。それは、霊的な事柄について、短絡的に、捉えられることを恐れるためだろうが、要点がつかみにくく、著作も多数にのぼるので、全体像をつかもうとするのは大変なことである。

「精神病」に関しても、私はよくは知らないが、著作や講演で触れられているものは多いはずである。また、「精神病」については、確かに、多くの観点から見られてしかるべき事柄であり、実際シュタイナーも、ときに相反すると思えるような、大きく違った視点から述べていることもある。だから、注意しないと、シュタイナーの「精神病」に関する考えを、ある著作を読んで、一面的に捉えてしまう恐れがある。しかし、一方、だからと言って、それらの多くの著作をいちいち追っていたら、きりがないし、焦点がぼやけるという欠点もある。

そこで、私は、次の3つの観点に絞って、まとめるのがよいと思う

1は「物質的基盤」という観点。2は「霊界の境域での体験」という観点。3は
「カルマ」及び「ルシファーやアーリマンとの関わり」という観点である。

これらは、それぞれ代表する著作と対応しており、3つの観点との対応を示すと、次のようになる。

1  「物質的基盤」という観点―『病気と治療』(イザラ書房)
2  「霊界の境域での体験」という観点―『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(ちくま学芸文庫)(以下『いかにして』と略)
3  「カルマ」及び「ルシファーやアーリマンとの関わり」という観点―『シュタイナーのカルマ論』(春秋社)

まず、1について

これについては、記事『「分裂病」と周辺領域の病との混乱』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-acc7.html)でも簡単に触れていた。シュタイナーは、この書で、「精神病」について、「精神病は、実際には精神病ではない。精神は病気になることはないから」ということを述べている。つまり、肉体的なものの方に、原因があると言うのである。また、「精神分裂病」という病名をはっきりあげたうえ、「幼児期に、(神経を阻害する)よくないものを食べたのが原因」とも述べている。(ただし、それがどのように働くかについては、多分に霊的な面もみている。)

霊的なものを重視するシュタイナーとしては、全く意外な観点である。だが、これは、文字通りに解するには問題がある。まず、初めの「精神は病気にならない」の「精神」は(「ガイスト」の訳として)「霊」と読むべきものである。シュタイナーも、病気とは、人間の4つの構成要素間の不調和から生ずると言っているので、霊的なものと肉体的なものとの関わりに起こる「魂」ないし「精神」は、病むことになるはずである。ただし、「霊」そのものが病む訳ではないという意味では、そのとおりと言え、それ故、「精神病」においては、肉体という「物質的基盤」の方に、原因の多くがかかることがあるということは、確かに言えることだろう。

また、「精神分裂病」については、「青年期かそれ以降に痴呆化すること」と述べており、「早発性痴呆」という当時の言われ方そのままの理解で述べている。当時としては、「精神分裂病」の概念も、曖昧であり、人により、捉え方も大きく異なっていた。私は、シュタイナーがここで想定していたのは、今の「統合失調症」も含み得るにしても、どうも、それとは違ったものではなかったかと思う。恐らく、今で言う「自閉症」や「知的障害」の方を、主に念頭においていたのではないかと思う。

いすれにしても、当時から、神経を阻害する物質の影響を重視していたのは、慧眼だし、私も、前回の記事でも述べたが、「統合失調」についても、その影響が大きく働くことは確かと思う。

何しろ、シュタイナーは、次に述べるように、精神病や統合失調症を全体として見る限り、決して、肉体や物質的な原因ばかりを重視していたわけではない。
       
しかし、この書では、肉体的、物質的原因について、特に注意を促していることは確かである。そこで、ここでのシュタイナーの記述は、「精神病」あるいは「統合失調症」については、一般に、精神的な面にばかり注意がいきがちだが、「肉体的、物質的なものに、原因の基盤がある」こと、それも「食物等の後天的な影響」を、看過してはならない、ということを強調した、という風に受け止めるのが、適当と思う。

実際、脳、神経に脆弱性を抱えていれば、それは、統合失調状態を招きやすい基盤となるし、その状態での耐性も弱くなる。それは、先天的な遺伝という形でも起こり得るが、シュタイナーが述べているように、後天的な影響という形でも、起こり得るものである。この点は、「精神病」を生得的なものとみる立場からも、精神的なものとみる立場からも、一つの盲点のようになっているので、看過してはならないということだろう。

しかし、このような、物質的な基盤のみでは、「精神病」や「統合失調症」に陥る一定の条件は、明らかにできても、具体的に、それに陥るメカニズムは、理解できるものにならない。また、そればかりを重視するのでは、現代の精神医学と何ら異ならず、薬などの物質的治療手段を正当化するのと変わりないことになる。

実際、次に見るように、シュタイナーは、霊的な面においても、多くの理解の可能性を与えているのである。

次に2について

これについても、記事で何度も述べ(たとえば『「霊界の境域」と「思考・感情・意志」の「分裂」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post-deb9.html)、関連書籍の『いかにして』のところでも、簡単に触れている。この『いかにして』は、あくまで、自ら主体的に行う、霊的な修行において、感覚的な世界から霊的な世界へ移行する際に、その「境界」的な領域で起こることを、説明しているものである。そこでは、特に「精神病」や「統合失調症」のことが、テーマとして述べられている訳ではない。

しかし、そのような霊的修行の実践者が、初めに、「霊界の境域」に参入するときに、起こるさまざまな現象や、それが招く混乱は、あまりに「統合失調」の場合と、共通している。たとえば、「霊界の境域」では、霊界の客観的な性質が見える以前に、自らの想念が、「霊的鏡像」として跳ね返ってくるなどのことである。だから、それについての認識がないと、自らの想念が投影されたものを、「現実」そのものとして受け取ってしまい、混乱し、あるいは誤謬(妄想)のもととなるのである。

さらに、「人格の分裂」という章では、まさに、「分裂病」そのままのことが述べられている。「霊界の境域」にそれなりに深く参入する頃には、「人格の分裂」すなわち、「思考・感情・意志」の分裂が起こるという。それは、もともと、人間の構成上、宇宙的な作用力により統合されていたものだが、この段階においては、分裂するので、それぞれが、ばらばらになり、それらのバランスが取れていないと、どれかが勝手に暴走することになる。まさに、「分裂病」においてみられるままの、異常な事態が起こるのである。ただし、それは、自然な統合を超えて、高次の自我にり、新たな(主体的な)「統合」を果たす契機として、必要なものである。「思考・感情・意志」に支配されず、自由に使えるものにするということであり、それが、霊的な領域にさらに深く入って、認識を高めるためには、必要な過程というのである。

繰り返すが、これらは、霊的な修行により、自ら意図して、「霊界の境域」に参入しようとする場合について、述べたものである。

しかし、「霊界の境域」には、さまざまな理由から、意図せずに、つまり「望まずに」入ってしまう場合もある。特に、体質的に、霊媒体質であったり、自我が希薄であったり、脳が脆弱であったりする場合には、そういうことも起こりやすい。シュタイナー自身は、この書において、特にそのようなことは想定していないが、その場合にも、シュタイナーが述べているようなことは起こるのである。それはまさしく、「統合失調」状況そのものであり、予期もなく、「望まずに」入っているだけに、意図して入る場合以上に、混乱と病的事態は、拡大されるのである

先にみたように、シュタイナーが、「分裂病」について、どのようなイメージをもっていたかは不明で、恐らく、この場合は、シュタイナー自身のイメージとは合致していなかったのかもしれない。が、それは、期せずして、「分裂病」に陥る過程を、非常に具体的に示す、格好のものとなっているのである

そこで、この書の「霊界の境域」に入ることで何が起こるかを記述した部分は、シュタイナーの「統合失調症論」として受け取ることが、十分可能なのである。さらに、そのような状態にどのように対処すべきかも、意図的に入る場合と本質的な違いがある訳ではないので、大きく参考になるものかあるのである。

次回は、これまであまりとりあげていなかった観点である3について、少し詳しく述べようと思う。

2014年10月 3日 (金)

「恐怖心」が引き寄せる現象

前回の記事のコメントで、「集団ストーカー」などの観念を信じ込んで、「恐怖心」を膨らませることは、その恐怖心自体が、信じたことに沿うような現象を引き寄せてしまうので、怖いことだと述べた。これまでも、「恐怖心」がさまざまな現象を呼び寄せることについては、何度か述べて来た。それは、「統合失調状況」においては、特に顕著で、知覚世界そのものの変容をもたらし、未知の現象を様々に顕現させる。さらに「捕食者」のような存在との絡みにより、止めなく「地獄」のような世界を展開させることになる。

ここで、改めて、この「恐怖心が引き寄せる現象」というのは、具体的にどういうものなのか、いくつかのパターンに分けて、まとめてみたい。

1  「幽霊の正体見たり枯尾花」という句があるとおり、恐怖心をもって、何かを恐れていると、そうでないものも、その恐れているものに見えてしまうということが起こる。これは、次の2のように、知覚そのものが、変容して、そういうものを見てしまうということではなく、本来、違うものなのだが、それを、そうであるように、錯覚してしまうということである。実際には、灰色の普通のセダンの車を、いかにも、秘密の組織の匂いのする、黒塗りの、リムジンのような車と見間違えたり、誰かと出会うことを恐れていると、ちょっと似たような人は、その人に見えてしまうなどのことである。(この場合、本当にその本人と出会ってしまうのは、5の共時性の問題となる。)

また、恐怖心をもっていると、視野狭窄になり、多くのものの中から、その恐怖心に沿うようなものばかりを、知覚として、拾い上げてしまうということも、これに含ませていいだろう。たとえば、前回の「集団ストーカー」なども、実際には、全然「タイミング」がよくない人の横切りや、「カルト」的でないナンバーの車が、多くあるのに、それらには目が行かず、自分が恐怖心をもってこだわっているようなものばかり、知覚として拾ってしまい、それが偶然ではないと感じてしまうということがある。

統合失調状況でも、まだ深く、状況に入り込んでいないような初期の段階で、このようなことが起こりやすい。そして、それが、ますます恐怖を助長し、深く状況に入って行くことを、促してしまうのである。

2  強烈な恐怖心が継続するようになると、意識状態に変容を来たし、見るものや、聞くものの、つまり知覚そのものに、変容を来たすようになる。幻覚剤などでも、意識の変容により、さまざまな幻覚世界を見るようになるが、同じことが、統合失調状況に深く入っていくと起こるのである。これらの幻覚世界は、自分自身の、内心にある感情や信念が投影されて出て来ることも多い。つまり、恐怖心をもって恐れていることが、実際に、知覚として、リアルな形で、出て来てしまうということが起こる。単なる、錯覚ではなく、実際に、一つの知覚として出てくるということである。

意識の変容した状態が続くと、日常性から離れて、霊的世界との境界である、「霊界の境域」へと入り込ませることにもなる。「霊界の境域」では、このような、内心の投影物そのものが、ひとつの実体として、存在するようになる。(「想念形態」や「エレメンタル」と呼ばれる)だから、それは、物質そのものではないものの、リアルな存在物と言っていいものである。決して、「誤った知覚」としての、単純な幻覚などではない。

統合失調状況では、このようなリアルな幻覚を元にして、妄想が生じる。ところが、この妄想を、強い恐怖心とともに確信していると、さらに、その妄想に沿うような、知覚つまり、幻覚を生じるのである。たとえば、特定の誰かに迫害されているという迫害妄想では、その誰かが、実際に自分を攻撃して来るような声を聞いたりする。

この、幻覚から妄想、妄想から幻覚という相乗効果により、それらは止めなく発展して、容易には、抜け出せない「幻覚-妄想世界」を作り出す

3  「恐怖心」は、さらに、捕食者的精霊や捕食者などの存在を自分の周りに呼び寄せる。恐怖心は、彼らの「餌」のようなものだからである。人が二酸化酸素を発していると、それに引き寄せられて、蚊が寄って来るようなものである。蚊に囲まれれば、ブンブンとうるさく、不快だが、同じように、このような存在に取り囲まれるだけでも、違和感や圧迫感を感じ、何か、未知のものにつきまとわれ、監視されているような感覚を生じる。そして、恐怖は助長され、ますます迫害妄想的な発想をするようになる。

4  捕食者的精霊や捕食者などの存在は、実際に、人の内心を読み、それにつけ込むような、効果的な形で、様々に攻撃をしかけてくる。また、内心の恐怖に沿うような、様々な幻覚的な知覚を生み出すことができる。つまり、2のような知覚の変容を、さらに効果的に演出できるし、5の共時性のような現象も、演出できる。

それにより、恐怖心はさらに止めなく拡大していき、相乗効果で、それらの存在は、ますます活気づく。もはや、その恐怖心は、未知のものに対するというより、ほとんどホラー的なものにまで拡大される。ここに至って、一種の「地獄世界」が、現出される。

5  強い恐怖心とともに、ある信念を持っていると、外界の物理的な現象そのものにも、「共時性」を引き起こし、関連するような出来事を、引き寄せることが起こる。1でみたように、それは、単なる偶然に過ぎないものを、意味ある関連として、錯覚している可能性もある。が、実際に、内面世界と物理世界は、共時的に結びついているので、単なる偶然を超えて、そのような現象を引き寄せる可能性はあるのである。これは、物理的外界に生じている現象だけに、内心の問題では済まされないし、外界そのものに関わる、「妄想」のもとになりやすい、厄介なものである。

これは、恐怖心という感情の力は、いかに強いもので、「現象」を引き起こす原動力になるかということであるし、心の深い部分での、信念や思考は、いかに「現実」を作り出す力を秘めたものであるかということでもある。もちろん、逆に、ポジティブな思考が、ポジティブな現実を引き寄せるというのも、一つの真実ではある。しかし、そのような思考は、往々にして、ネガティブな発想と裏腹に結びついていることが多く、逆に、そのネガティブな側面を引き寄せることにもなる。

このように、「恐怖心」は、さまざまな現象を呼び寄せるものである。本来、恐怖の感情は、生物が、危険を察知し、自己を守るために、必要なものである。また、恐怖は、意識を覚醒させる力にもなり、もし恐怖という感情がなければ、恐らく人は、決して覚醒することはないだろうと思わせる。

しかし、恐怖が、過剰な形で発展していくとき、上にみたような現象を呼び寄て、真に「恐るべき」世界を現出させ、そこから抜け出せなくさせる。実は、恐怖という感情こそ、真に「恐怖すべき」ものであるかのようである。

2014年9月 1日 (月)

オショーのカスタネダ評について

オショー(ラジニーシ)は、『TAO 永遠の大河』という、最近再出版された本で、カスタネダのドンフンァンとの交流の物語りについて、語っている。

それによると、オショーは、その99パーセントがフィクションであるが、残りの1パーセントの「真実」は、とても貴重なものだという。また、フィクションの部分も、とても「ビューティフル」だし、オショー自身は、気に入っているという。

私も、最初にカスタネダを読んだときには、ほぼ同じような感想をもった。つまり、全体としてフィクションであるが、重要な「真実」が語られているというものだ。

しかし、今は、このオショーの見方は、違っていると思う

オショーがこれを述べたのは、始めに出版されたときの、1975年以前だから、カスタネダの本は、初めの3冊程しか出ていなかった時点である。

カスタネダの初めの3冊の本は、カスタネダ自身が、メスカリンのような幻覚剤を用いるなどして、変性意識状態に入り、そこで体験したことを「思い出し」ながら、述べたものと、ドンファンから聞いた教えを述べたもので成り立っている。

この時点での、カスタネダの「理解」は、非常に限られたものであり、自分の変性意識状態での体験も、ドンファンの教えも、その限られた「理解」の視点から、それに沿う範囲で、語られたものだ。だから、変性意識状態での体験、ドンファンの教えそのものは、たとえ「真実」であったとしても、大きく限定され、また変形されて、伝えられている。それは、その時点では、全体として、「フィクション」と評価されても仕方のないものである。

具体的には、カスタネダ自身も述べているとおり、そもそも変性意識状態での体験を、正確に「思い出す」ことは、大変なことであり、その「思い出す」過程にも、想像や誤解が入り込む余地はいくらもある。さらに、それを、言語的に、空間・時間の枠に収めて、表現しようとするとき、そこには、それ自体が、無理を含んでいるので、何かしら、創作的要素を入り込ませてしまう余地は多い。

この時点での、カスタネダは、オショーも言うとおり、メスカリンなどの幻覚剤に頼って、変性意識状態の体験をすることが多く、それはこれまでにもみて来たとおり、自己の「投影」を多く含むものだ。ドンファンも、その見たままの「体験」より、自分がどう感じるかが重要と指摘しているが、カスタネダは、どうみても、その体験に圧倒され、「振り回され」ていた。

だた、ドンファンが、そのような体験をさせた意図は、この時点では、カスタネダが、世界を、自分のそれまでに身につけた、「知覚世界」、「信念体系」によってしか見ていないので、それを打ち壊すことにこそ、重点があった。西洋近代人である、カスタネダにとって、「世界」は、合理的で、決まり切ったものであり、日没時の影や風が、それ自体、「生き物」のように「力」をもつものではなく、カラスや風が、人の言うことに、「同意」したりするものではなかった。ドンファンは、ことさら、そのようなことを強調し、自分でも、そのような奇怪で、謎に満ちた「世界」を演出してみせ、カスタネダを混乱と恐怖に陥らせる。そのうえで、幻覚剤等により変性意識に入らせているのであり、それは、カスタネダにとって、これまでの見方を根底から覆す、強烈かつ破壊的な体験になる条件が、整えられていた。

しかし、カスタネダ自身は、それがもたらす、自分の「世界の崩壊」より、その体験の「意味」自体に多く拘って、自分なりの解釈を施して表現した。そこに、「フィクション」的要素は、膨らむ余地が多くなったし、ドンファンの教えも、正しく伝わるものとなったわけではない。

さらに言えば、カスタネダには、そのように、理解が限られていたことのつじつま合わせ的な意味もあるが、全体をより面白くするため、多少の創作的要素を混入させる「色気」も発揮していたことがうかがわれる。

しかし、それでも、1%というのは、全体を「フィクション」とみるが故の過小評価だが、そこに、オショーも「真実」を見い出すほどのものが、入り込んでいた。

そして、その「真実」については、カスタネダ自身、4冊目以降の本で、より本格的に、迫ることができるようになっている。それは、自分のそれまでの「世界の崩壊」が、より本格化して、異なる見方が可能になったのと、それまでに体験したことの意味が、より身について来たことにもよる。「思い出し」の精度も、それらが身につくにつれて、より高まるのである。ドンファンの教えについても、それまで「思い出し」得なかったものが、思い出せるようになり、また、意味をなさなかったものが、意味をなすようになる。

そのようにして、4冊目以降、初めて、よりドンファンの教えに即す形で、本格的に、「真実」の探求が始まったのである。もちろん、それも、そのときどきの理解の範囲に応じてであり、純粋に「真実」が伝えられているというものではない。また、そのような、突っ込んだ探求により、より、複雑になった面はあり、それゆえ、初めの頃の、見かけの、分かりやすい「ビューティフル」さは、失われた面がある。それでも、最後の遺作では、「無限」や「捕食者」という根源的なことを、正面から問題にするというほどに、全体の理解は進んでいたのである。

私は、この4冊目以降の探求の方に重点をおいて、全体をみるなら、カスタネダとドンファンの交流の物語りについては、半分以上が、「真実」であったとみていいと思っている。もちろん、ドンファンの存在ということも、含めてである

※ デーヴィッド・アイクは、『無限の本質』の、ドンファンによる「捕食者」の説明を読んで、椅子から転げ落ちたという。自分が体験したり、考えたりしていたことの説明として、これ以上に的を得たものはなかったからだ。私も、これを読んだときは、座って読んでいたので、転げ落ちはしなかったが、何センチか上に飛び上がってしまった♪。もし椅子で読んでいたら、同じように、転げ落ちていたことだろう。

前の記事でも、一連の体験において、フィクションだと思っていた、カスタネダの言ったり、体験していることが、いかに本当であるかを思い知らされたことを述べていた。しかし、その後に出された、『無限の本質』の「捕食者」論は、さらにそれに輪をかけて、そのような体験の本質的な部分についても、的確な説明を与えるものだったので、衝撃も一入だった。

アイクとともに、そのようなものが、ただの「フィクション」ではあり得ないことを、改めて強調しておきたい。

2014年6月12日 (木)

「アンビリーバー」としての「ビリーバー」

超能力や心霊、UFOなどについて,その存在を信じるものを、「ビリーバー」などと言って、揶揄したり、軽蔑したりすることがある。

しかし、実は、そのように、「信じる」者を「ビリーバー」などと言っている者は、その者こそ、「アンビリーバー」としての「ビリーバー」であることに、気づいてもいないようだ。「ビリーバー」が、一応、「信じる」ものや、「信じる」という態度を自覚しているのに対して、「アンビリーバー」としての「ビリーバー」は、自分の「信じる」ものや、「信じる」という態度を自覚してもいないとすれば、こちらの方が余計たちが悪い。       

まず、本当に、客観的かつ科学的に、これらの存在について言うなら、「ある」とも「ない」とも決められないというのが、実際のところである。超能力に関しては、超心理学の統計的手法によって、存在が「証明されている」とみることも可能だが、「再現性」という厳密な物質科学的方法を重視する限り、そこまで言うことは、無理ということにもなる。

そもそも、このような「物質科学」的方法で証明されるものとは、「物質」という概念に則るものだけであるとすれば、超能力や心霊、UFOなど、その範疇に収まらないものの影響を前提とするものを、「物質科学」的方法で証明すること自体が、無理のあることになる。しかし、このような方法では、逆に、超能力や心霊、UFOなどが「ない」ことも証明できないわけで、そうである限り、超能力や心霊、UFOなどがない、とも決められないわけである。

                                              
どちらにも決められないということは、どちらの可能性もあるということで、私は、本当に、どちらの可能性にも本当に開かれている、中立的態度を保てる人がいるとすれば、その人は尊敬に値すると思う(※)。しかし、残念ながら、そういう人は、今までにいた試しがなく、どちらかはっきり分からない、と思っている人も、大抵は、どちらかに重心をかけていて、片方の可能性には、多かれ少なかれ、心を閉ざしているものである。人間は、生きている限り、何ものかを「信じる」ものであり、何ものかを「信じる」以上は、それと抵触する見方は、「信じない」ものである、ということだ。

信じる者を「ビリーバー」などと言う者は、自分は、「信じない」者なのだと思っている。しかし、実際には、自分は、何ものかを「信じている」からこそ、その見方とは抵触する、超能力や心霊、UFOなどが「信じられない」のである。

それらの者は、自分は、「科学」を「信じている」と言うだろう。しかし、既にみたように、科学そのものは、これらのものを、あるともないとも決められない。だから、実際には、「科学」を「信じている」のではなくて、「(物質)科学の方法によって証明できるものだけが、存在するものである」ということを「信じている」のである。言い換えれば、「宇宙」には、「(物質)科学の方法によって証明できないものなど、存在しない」と「信じている」ということである。

端的に言えば、「唯物論」を「信じている」ということであり、さらに言うなら、「宇宙は、人間の頭によって、共通の理解と操作のできるように、人間の都合に合わせてできている」と「信じている」ということにもなる。(実際には、このように言うことによって、いかにそんなことが、「ありそうもない」ことであるかが、明らかになるはずなのだが)

結局は、「アンビリーバー」も、何かを「信じる」という点では、「ビリーバー」と、「同じ穴のムジナ」なわけである。そして、既に述べたように、それは、自分が、何を「信じている」かを自覚しない点において、あるいは、自分は「信じない」者であるかような「幻想」を抱いている点において、「ビリーバー」よりたちが悪い

私自身は、これまでの記事をみても分かるとおり、超能力や心霊、UFOどころか、人間以外の「精霊」や「捕食者」のような「悪魔的存在」も、存在するのが「当たり前」のこととしているわけだから、当然「ビリーバー」に入るのだろう。これらは、私にとっては、「体験的事実」そのものなわけだが、これを、「科学的に証明」することはできない以上、一般的、客観的には、「信じる」者ということになっても、仕方がない。

ただし、これは、「存在する」とはどういうことか、「ある」とはどういうことか、という問題になるが、さらに、本質的に問い詰めたとき、それらが「存在するとは言えない」、という視点もまた、同時にもっている

つまり、もし、物質的なものが存在する、と言うなら、それと同じレベルにおいて、超能力や心霊、UFOさらに、人間を食べる「捕食者」も、「存在する」と言わざるを得ない。しかし、物質的なものも、本質的には、「存在するとは言えない」、という視点に立つなら、また、超能力や心霊、UFOさらに、人間を食べる「捕食者」も、本質的には、「存在するとは言えない」ということになる。

昔、テレビで、「マジカルバナナ」というクイズ番組があって、それに「ある」「なし」クイズというのがあった。これは、「何々にはある」「何々にはない」という例示を順次出していって、では、何々には?「ある」か「ない」かを当てるものである。

「ある」とされているものと、「ない」とされているものの共通の性質を探していって、それを、問題の「何々」に当てはめることによって、「ある」か「ない」かの正解が出る。

これを見て、私は、このクイズは、実に、「ある」とか「ない」とか言うときの、本質をついているなと思った。つまり、「ある」とか「ない」とかは、絶対的に言えるものではなくて、常に「ある観点」から、「相対的」にしか、言えないのである。その「ある観点」(共通の性質)を、見い出すというのが、このクイズの意図となっているわけである。

もし、「絶対的観点」というのがあるとしたら、それは「空」(「虚無」)の観点というしかなく、その観点からは、「ある」「なし」クイズそのものが成り立たなくなる。つまり、すべては「ある」とも「ない」とも、言えないものになってしまうのである。

※ これ(http://www.skept.org/yota/psk2.html)などは、「懐疑論」に立つことを明らかにしているが、肯定的な実験や議論を公平に検討したうえでのものであり、かなり「尊敬に値する」ものの例だと思う。決して、本音の部分で「中立的立場」に立つとは言っておらず、「否定」の方に傾きつつも、感情論ではなく、あくまで理性的に「真実」を追及していきたいが故に、「肯定」の立場にも十分な目を向ける、というものである。しかし、このようなものにお目にかかることは、非常にまれである。

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