精神世界

2025年9月27日 (土)

シュタイナーが様々な側面から浮かび上がらせるように語る訳

記事『シュタイナーの「悪魔論」について』では、シュタイナーが端的、明解に語ることは少なく、様々な側面から多様に述べて、全体像を浮かび上がらせるように語ることが多いことも指摘していた。それで、シュタイナーの本を読んだとしても、単純明解に言いたいことが分からなかったり、特に講演集などでは、互いに矛盾することを述べていると感じられることも多いのである。

『アカシャ年代記より』では、このことの理由も述べられているので、それを引用しておこう。

「われわれは高次の世界に関する諸真実をどれ程さまざまの側面から考察しようとも、決してしすぎることはない。元来われわれはどんな側面からでもまったく乏しいスケッチしか描けないということをよくわきまえていなければならない。

同じ事柄をできるだけさまざまの側面から見ていくとき、そこから受けとる印象は、ますます生命に満ちた表象像になっていく。そしてただそのような表象像だけが、高次の世界へ参入しようとする人に役立つのであって、無味乾燥で図式的な概念では役に立たない。表象が生き生きしていればいる程、色彩豊かであればある程、ますます高次の現実に近づくことが期待できる。」

つまり、高次の世界に関する表象は、単純に一面的になされるべきではなく、様々な側面から多様に浮かび上がらせることによって、生命に満ちたものとなり、役に立つものになる。単純、明解に示されるような「無味乾燥で図式的な概念」では役に立たない、と言うのである。

それはまさしくその通りであろうし、私自身も、このブログにおいては、一面的に受けとられることを嫌い、単純、明解に語るというよりは、さまざまな観点から浮き上がらせるように述べることが多いことも指摘していた。

しかし、シュタイナーのように一定の評価を受け、よく知られた人物ならともかく、知られてもいない人物が、そのように曖昧とも受け取られる述べ方をしても、誰もその内容を理解しないし、理解しようともしないだろう。

そこで、私は、一方では、図なども用いながら、単純、明解に本質と思われることを示しておくことも重視している。それは、それのみでは「無味乾燥で図式的な概念」に堕すおそれがあるが、様々な観点から述べられたことと相まって、より理解を助けるものにはなってくれるはずである。

また、私も、ブログ『統合失調とは本質的にどういう状況か 』の方では、一面的にとられたり、誤解されるおそれはあっても、あえて分かりやすく端的、明解に語ることを重視した。そのようなことは、やはり必要なことと改めて感じている。

もちろん、シュタイナーも、無暗に様々な観点から多様に述べることだけをしているのではなく、ときには明確に語ることもするし、その必要も感じながらそうしているはずである。

『アカシャ年代記より』においても、当時から、そのような内容は非科学的で荒唐無稽な妄想を述べたものに過ぎない、という批判を多く受けていた。特に、当時は「科学」が信奉された時代なので、科学の方面からの批判が多かったわけだが、シュタイナーもそれについては、明解な答えを述べている。

それは、結局は、「物質的なものと霊的なものの関係」ということに帰するのだが、次のように述べているのである。

「すべての物質の物理的性質は、霊的なものを通してこそ、解明されうる。」

「君たちの現実は現実の一部分にすぎない。現実の他の部分には霊的な事実が存在する。そしてこの霊的な事実によってこそ、感覚的事実の経過は説明されうるものになる。

記事『「宇宙人」と「霊的なもの」』で、図示していたように、「物質的なもの」と別の領域として「霊的なもの」があるのではなく、「霊的なもの」は、「物質的なもの」を包み込む関係にあるのである。従って、物質的なものの「表面」ではなく「本質」は、「霊的なもの」によってこそ真に解明されるものになる、ということである。

2025年9月15日 (月)

『アカシャ年代記より』とシュタイナーが「土星紀以前」には触れない訳

シュタイナーの「宇宙進化論」については、記事『シュタイナーの「悪魔論」について』でも述べたように、私自身かなりの疑問があるので、あまり信じていないし、このブログでもほとんど述べることはなかった。しかし、この度『アカシャ年代記より』(国書刊行会)を読んでみると、大分イメージも変わった。

簡潔で抽象的と思える表現ながら、『神秘学概論』を補う部分も大分あり、「土星紀」とか「太陽紀」「月紀」「地球紀」ということの意味もより明確になった。地球紀のアトランティスやレムリアの記述もそれなりに分かりやすい。

何しろ、それらが多くの真実を含んでいるとして、全体としては、現在の地球に人間ができるまでにはなんと多くの存在が関り、宇宙的な状態の変化のプロセスを経て来たことか、という感慨を感じた。

いずれにしても、シュタイナーの「宇宙進化論」は、あくまで「霊的な観点」から、特に人間の構成要素の「進化」という点に焦点を当てて述べたもので、個々の具体的な出来事や物語的要素はほとんどないから、決してシンプルに分かりやすいものではない。多くのチャネリングものの語る、宇宙人との関係での、分かりやすく、ある種物語的な「宇宙や地球の進化」と関連づけて理解することもなかなかできにくい。

いずれ、そういうことも機会があれば述べてみたいが、今回は、『アカシャ年代記より』に、これまでにも何度か述べて来た、シュタイナーの方法論自体について、かなり明確に語っているところがあったので、それについて述べておきたい。

まずは、シュタイナーが『アカシャ年代記より』でもそうだが、宇宙の進化、人間の進化を「土星紀」の記述より初めて、「土星紀以前」については問わないことの理由

「土星紀」というのは、人間は深い眠りにあり、現在の地球で言えば「鉱物」のような状態にある。もちろん、人間より進化した存在は多くいて、それらが人間に様々な影響を与えて進化していくのだが、それ以前には、人間はどのような状態にあったのか、あるいはどのように創造されたのか。人間に影響を与える存在はどのように創造され、進化して来たのか。そういうことは一切述べられないのである。

端的に言うと、「宇宙はどのように創造されたのか」、「そもそもなぜ創造ということが起こったのか」ということには、一切触れられないのである。私がシュタイナーの宇宙進化論に疑問を感じるというか、今一つしっくり来ないのも、その部分が欠けていることも大きな理由の一つといえる。

少し長いが、それについてシュタイナーが述べているところを引用する。

「進化のこの三状態に先行する一切は暗闇の中に閉ざされており、神秘学的探求の光をその中へ投げかけることは、今のところまだできないのである。なぜなら神秘学的探求は思弁や単なる概念操作によるのではなく、実際の霊的経験によるものなのだから。われわれの肉眼が果てしない地平線上の特定範囲しか見ることができず、地平線を超えた彼方までは視界を拡げることができないように、「霊眼」もまた特定の時間的制限内にしかその視野を拡げることができないのである。神秘学は経験に基づき、そしてその経験内に甘んじる。

「宇宙の本当の始まりには何があったのか」、「なぜ神はそもそも宇宙を創造したのか」、そのような事柄を探求しようとすると、単なる概念による穿鑿にすぎなくなってしまう。神秘学徒に必要なのは、むしろ認識の特定の段階に達したら、このような問いをもはや立てないことなのである。なぜなら霊的経験の内部で、この地球上での使命の達成に必要なことは、すべて人間に開示されるからである。忍耐強く神秘学徒たちの経験領域の中に没頭する者は、人間が自分に必要な問いのすべてを、霊的経験の範囲内で、満足させることができる、ということを知るであろう。……

――けれどもまた「宇宙の起源」についての上述の問いや、その他同種の問いが決して人間に解明できない問いである、と主張するつもりもまったくない。人間はそうすることができる。しかし人間がそうしうるには、より身近な霊的経験内で開示される認識内容を、先ず手に入れなければならない。そうすればこれまでとは異なる仕方でこれらの問いが立てられるということを、人は認めるようになるであろう。」

つまり、神秘学的探求つまり「霊的認識」による探求は、実際に霊眼により体験されことに依拠するので、「闇に閉ざされた」「土星紀以前」には踏み込むことはできない。無理にそうしようとすれば、単なる概念操作の穿鑿にすぎなくなって、かえって有害となると言うのである。

このようなことは、私がこれまで述べて来た「水平的方向」と「垂直的方向」ということに関わって来る。シュタイナーが専ら「水平的方向」の進化ということに関わり、「垂直的方向」の視点はほとんどないことを指摘しつつ、ところどころ垂直的方向への鋭い視点も感じられることを指摘して来た。

ここでも、「土星紀以前」は「闇に閉ざされている」と言い、霊的なものの光で照らすことのできないものと言っているが、それは、やはり創造の原点に関わる、根源的なものとしての「虚無」または「闇」を意識すればこそであろう。

「垂直的方向」に関すること、特に根源的な「虚無」や「闇」は、「霊眼」においてもそうだろうし、言葉や知性において捉えられるようなものではないのは確かと言える。ミナミAアシュタールのアシュタールも、「<>そのものについては分からない」と言っているように、人間を超えた存在にとっても、それは分からないことのようである。

しかし、シュタイナーが一方で、それらの問いは、「人間に解明できない問い」ではなく、「そうすることができる」と言っているように、人間は、少なくとも、それらの問いの解明への「展望」を持つことはできると思うし、現在においては、むしろ「それも必要」なのではないかと思う。

「進化」というのも、ある根源的な目的あるいは設定のようなものがあって初めて明確に言えることだし、シュタイナーのいう「進化」というのも、「土星紀以前」に触れられないことで、今一つ明確にならない面がつきまとうと思う。

「虚無」そのものを「体験」することはできないだろうが、私の場合もそうだったように、それにぎりぎり近づく、実体的な面としての「闇」は、体験できるものと言うべきである。そういったことから、「垂直的方向」への完全な「理解」は難しくても、ある程度の「展望」を持つことはできるはずだし、現在においては、必要になって来ていると思うのである。「統合失調」に関しても、その展望は、大きな意味を持つことは、何度も述べて来た。

もちろん、それは、一つの「展望」であって、「解明された事柄」ではないことは意識しつつ、より深めていくことを怠ってはならないだろう。

そういうわけで、私は、シュタイナーの「水平的方向」に関する記述も大いに重視するが、「垂直的方向」への視点も必要なものと解しているのである。

 

2025年8月17日 (日)

「大いなるすべて」と「宇宙人」「天使」等の存在に関するサーシャの言葉

何度も述べてきたことだが、今後ますます、「人間以外の知的生命」の存在が現実の問題として大きく浮上して来るだろう。

それは、人間同様地球上の物質的次元に存在する動物等の生命のことではなく、「目に見えない」次元の存在、あるいは「地球上で生育したのではない宇宙起源」の存在のことである。

しかし、記事『「宇宙人」と「霊的なもの」』でも指摘していたように、これら両者の存在は、互いに重なるところがあり、明確に区別できるような代物ではない

我々人間が、我々物質的な存在の延長上に「宇宙人」というものを捉えると、宇宙人も「物質的存在」であり、「霊的な存在」とは異なるものとみなしてしまうが、実際には、我々物質的な存在の延長上に宇宙人が存在する保証など少しもなく、むしろ我々物質的な存在の方が宇宙的には「特殊」のあり方である可能性が高いのである。

最近は、「次元」という見方も浸透し、宇宙人は、4次元あるいは5次元的な存在として捉える人も多くなっているから、天使や精霊等の「霊的存在」と必ずしも区別がつけがたいものであることも、大分理解されるようになってきている。4次元、5次元は、3次元、すなわち物質的なあり方をも含むから、「物質的な現われ」をもなし得る存在として認識されるわけである。

とは言え、まだまだ一般には、「宇宙人」と「霊的存在」との違いを当然のように思う人、あるいは、宇宙人は物質的存在の延長に存在し得ても、「霊的存在」は存在し得ないと考える人も多いことだろう。

こういった視点とは少し違う視点からだが、前々回もあげたプレアデス人サーシャの言葉に、「大いなるすべて」と「宇宙人」や「天使」等の存在についての的確な言葉があるので、それもあげておきたい。(リサ・ロイヤル+キース・プリースト著 『宇宙人遭遇への扉』(徳間書店)より)

「私たちの視点からすると、宇宙人、天使、そして「大いなるすべて」(「神」や「存在の源」と考えても結構です)との間には何の違いもありません。多様な存在を分類してレッテルを貼ったり、格づけをしたりするのは私たち宇宙人ではなく、あくまで人間です。同様に、「宇宙人と天使はまったく違う存在だ」と思い込んでいるのも人間です。

人間にとって、「大いなるすべて」のように形而上的な実在を認識することは、宇宙人を認識することよりはるかに難しいことです。宇宙人を認識することは、「神」や「創造」を理解する上での一つの段階なのです。つまり、宇宙人や天使といった存在は、人間が「大いなるすべて」に回帰する旅の過程で遭遇する「旅人」に過ぎないとも言えます

地球外にも意識的な存在がいることを自分に教えるために、人間は「宇宙人」という存在を自分たちの現実に引き寄せたとも言えます。こうした視点からすると、宇宙人、天使、聖霊、神などの存在は、人間にある気づきをもたらすための方便だと言えるのです。人間がいったん地球外にも「意識」が存在している事実を受け入れると、宇宙人や天使などへのこだわりは次第に薄れるでしょう。」

「大いなるすべて」とは、「神」や「存在の源」と考えてもよいとされているように、我々と別にあるものではなく、本来はすべての存在の源であり、当然、我々そのものの源でもある。そのような視点を重視すれば、「宇宙人」や「天使」等の霊的存在、あるいは人間という区別には、大した意味はない。しかし、人間は現在それを見失っているのが現実の状態であるので、そこに帰る旅の過程として、媒介となるような、宇宙人や天使等の存在との出会いがあるということである。

確かに、霊的とか物質云々とか次元がどうのこうのという以前に、この観点からすれば、本質的に、「宇宙人」や「天使」等の違いに拘ることは、意味のないことになるだろう。

 

2025年8月 3日 (日)

たつき諒氏の予言ととりあえずの結果の受け止め方

何回かにわたって、たつき諒氏の20257月大災難の予言についてとりあげたが、本年の7 月も終わり、無事8月を迎えたので、この予言の結果と受け止め方についてとりあえず述べておくことにしたい。

まず一般的な受け止め方として言うならば、たつき諒氏の予言は「外れた」という受け止め方をされてしかるべきであり、そうされて仕方のないことだと思う。

7月5日という具体的な日時をあげ、大枠としても「7月」という枠をあげて、大々的な「宣言」をしていたのだから、今後近いうちによほどこの予言に沿う形の災難でも起こらない限り、「外れた」という事実は、本人の責任において引き受けるしかないはずのものである。日時をはっきり示したことで、良くも悪くも「センセーショナル」な効果を呼んだのだから、それが(たとえ「見かけ上」であっても)外れたときには、その外れた責任を引き受けるリスクは、当然覚悟しておくべきだからである。

この期間には、7月に入る前から、トカラの群発地震があり、730日にはカムチャッカの巨大地震があったが、それをもってこの予言の内容が当たったと受け取ることには無理がある。「ほんとうの大災難」として、少なくとも東日本大震災より大きい災難が予告されていたのであるから。

ただし、これまで述べてきたように、たつき諒氏の予言を「その時点で起こり得る最悪の事態を想定した警告」として受け取った場合に、実質的な観点から、トカラ群発地震やカムチャッカの巨大地震等、この7月に起こったことを、その方向での想定の変化の現われとして受け止めることはできると思う。私自身は、たつき諒氏の予言がどうこうということは別にして、このように受け止めることができると思っている。

この点について、やはりこれまでとりあげてきたプレアデスのメッセージで、とても的確に述べられており、さらにこの予言やトカラ群発地震、カムチャッカ巨大地震など起こったことの「宇宙的な意味」について、かなり説得的な説明をしているメッセージがあるので、あげておきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=vlSjJ-YTmH4

たつき諒氏の予言については、予言当時の様々な状況から「このまま行ったら起こり得る可能性の一つ」を捉えていたが、その後の我々自身の集合意識のあり方の変化、太陽活動その他の宇宙的な活動の影響などにより、状況が変わって、トカラの群発地震やカムチャッカの巨大地震としてより穏やかな形で実現することになったとする。

トカラ群発地震については、「トカラの法則」とよばれる現象で、トカラは地球のエネルギーの開放が起こるときに最初にその兆候が起こる場所とされる。それが単純な物理的な理由ではなく、そこからは少し離れたカムチャッカという場所に連動して、カムチャッカ巨大地震を呼び起こすことになったということである。

これまでにも述べられていたように、このような現象は地球自身の変化のために必要な現象で、宇宙的な働きかけもありつつ、人類の集合意識(抑圧された感情エネルギーを含む)との関りで起こることである。それは、我々の受け止め方次第で、非常にポジティブな方向への変化を促すものとされる。

少し長いが、とても分かりやすく説得力のある説明であり、いわゆるアセンションということとどのようにつながるのかの説明もわかりやすくされているので、ぜひ一度、全部をしっかり聞いてみることをお勧めする

2025年7月12日 (土)

「終末的予言」と「天変地異」についてのプレアデス人サーシャの言葉

前回、前々回の記事で述べた、一種の「終末的な予言」や「天変地異」に関して、私の見た夢やこれまで述べて来たこととも大いに関わる、重要な事柄が述べられているプレアデス人の言葉があるので、今回はそれを紹介しようと思う。

それは1993年に出版された「宇宙人遭遇の扉」(徳間書店)という本にあるもので、リサ・ロイヤルのチャネルするサーシャというプレアデス人の言葉である。少し長いが、まずそれを掲げておこう。

「もし地球上のすべての人間が、自分のフィーリングを自由に表現して、創造的な自己表現を行えば、地球は健全な状態を維持することができます。なぜならば大地のエネルギーは妨害されることなく、人間を通して流れるからです。

しかし残念ながら、地球上の大半の人間は感情を抑圧して、自由な自己表現をしていません。こうして表現されるべきエネルギーの出口がふさがれて蓄積されると、徐々にプレッシャーが高まります。これがある臨界点まで達すると、地球はバランスを回復するために、天変地異を起してエネルギーを解放しようとします。つまり、人間による感情や自己表現の抑圧にこそ天変地異の原因があるのです。まさに人間は地球の生態系の一部です。

現在、あなたが現実で目の当たりにしている現象は、すべて人類が抑圧してきた問題ばかりです。何千年もの間、集合意識の奥深くに閉じ込められてきたものが、現実のレベルに浮上しつつあるのです。これは惑星規模の浄化です。

破滅的な天変地異や戦争が地球を見舞うという世紀末的な予言は確定的なものではありません。新しい世界が到来するためには、古い世界が破滅的な形で滅びなければならないという考え方には、あくまでも古い観念が反映されています。なぜなら、現実はあなたの考え方次第で変わり得るからです。人類は必ずしも天変地異や戦争を通して教訓を学ぶ必要はありません。世界の現実の創造者である人類は、あらゆる可能性を選択することができます。私たちの視点からすると、これからの「天変地異」は主に心の中に起こるでしょう。

まず、地球の天変地異といわれるものは、人間と無関係に起こるわけではなく、人間による感情や自己表現の抑圧により内部深くに溜り、滞ったエネルギーの解放のために、起こされるという重要なことが指摘されている。

私も、記事『「アーリマン」と「火地球」』や『「火」の両義性と「クンダリニー」』などで、アーリマン存在との関わりをみつつ、人間の情念が霊的レベルで地球の深部に働きかけることで、地震や噴火などの天変地異が起こることを指摘していた。それは、私自身の一連の体験を通して「地球」と関わったときの実感でもあった。

その意味では、そのような天変地異が「自然」のものであろうが、「人工的、人為的」なものがあろうが、やはり人間の集合的な情念が根本にある点においては、変わりはないわけである。

しかし、同時に、そのような天変地異は、たとえ終末的な予言のようなものでビジョンとして(真実に)見られたものであっても、決して確定的なものではなく、人間が時々刻々に「現実」を作り出していることに鑑みれば、実現する必然性があるわけではない

ただ、そのためには、我々自身が、そのような現実を作り出しているという事実に気づき、そのあり方を変えていく必要があるだろうし、既に地球の内部に溜まったエネルギーは何らかの仕方で解放される必要があるだろう。

しかし、今の時点では、率直のところ、そのような方向に行けるだけのものが人間にあるとはとても思えないというのも、私の感じるところである。

さらに、最後に指摘されている、「これからの「天変地異」は主に心の中に起こるでしょう」というのが、私にとってとても興味深かった。

実際、前回も述べたように、私自身も「津波」の夢を連続してみたが、それは、「無意識の奥深くで巻き起こされる、心を飲み込む<津波>」のようなものとして、実現したのだった。それは、まさに「心の中で起こる<天変地異>」にほかならなかったのである。

そして、恐らく、今後も、私と同じように、この「心の中で起こる<天変地異>」は多くの人に起こされることと思われるのである。

ただし、ユングも言うように、普遍的な無意識という「心の中」で起こる出来事は、決して「外的な事象」と無関係ではなく、互いに「共時的」に結びついている。つまり、集合的レベルで、多くの者が「心の中で起こる<天変地異>」を経験するようになると、それは外的事象にも何らかの形で反映され、実際の「天変地異」に結びつく可能性はやはりあるということである。

サーシャも、「主に」と言っている点に注意しなければならない。

 

2025年6月21日 (土)

最近のプレアデスからのメッセージいくつか

ブレアデス系のチャネリングものとしては、記事『「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」』で、バーバラ・マーシニアックの『プレアデス+かく語りき』(太陽出版)について述べていた。

これは、プレアデスのイメージからすれば、宇宙の根本創造神や、「捕食者」といった本質的なことについてもかなり突っ込んだ記述のある鋭い内容のものだった。

「プレアデスのイメージ」というのは、端的に「真実」や、本質的なことを述べるというよりは、抽象的に、あるいは中途半端に、皮相と感じられることを述べていることが多い、というのが私的にはあったのである。ただし、これには、ジーナ・レイクの『テオドールから地球へ』によると、プレアデスは、もともとネガティブなことを述べることを嫌う、また、かつて地球人に助けを与えるという意味で、干渉し過ぎたという反省があり、その後あまり干渉しないようにしているという方針が影響しているのかもしれない。

ただ、ユーチューブなどをみても、このところ、プレアデス系のメッセージをあげるものがかなり増えているようである。

相変わらず抽象的で具体性に欠けると思われるものもあるし、それには、プレアデスの名を借りて、自らの思想を述べているだけのものもあると思われる。しかし、中には、端的に、またかなり具体的に突っ込んで、地球上の現在の危機について述べ、同時にそのことが地球に新たな転換をもたらす可能性について述べているものがある。毎日のようにかなりの量のものが発信され、内容も、ちょっと人間レベルで普通に述べられるものを超えていると感じられるだけのものがある。

実際、現在の地球の状況として、それだけ危機が迫っているというのは、疑いのない事態ではあるだろう。

今回は、そのメッセージのいくつかを紹介してみたい

https://www.youtube.com/watch?v=QKaF3tZwoQk

ディーブステートと言われる支配層の実態と、日本の政治家の名前もあげつつ、日本の政治家との関りが具体的に述べられている。政治とどのように関わるか、また、外的な政治よりも、内的な自己自身の変革の方が全体の変化についての鍵となることも述べられている。

 

2 https://www.youtube.com/watch?v=Jlsw6_nCL5U

特にトランプ大統領を巡って、レプティリアンを含む宇宙人とアメリカ政府との関係について述べられる。様々な宇宙勢力の影響は、単純に光と闇という風に二分化できない複雑なものであることも述べられている。

 

3 https://www.youtube.com/watch?v=er01nkoUnfo

漫画家たつき諒の有名な75日の大災害の予知夢について述べている。

その可能性について否定はしていないが、もちろん未来は確定していないから、そのまま実現するかどうかは(プレアデスと言えども)分からない。予言として注目され過ぎると、我々の意識がそれを呼び込んでしまうという面もある。ただ、このプレアデスのメッセージでは、備えるという実際的行為をするとともに、そのような事態は、決してマイナス面だけでなく、地球の転換の重要な契機であることを認識することも強調されている

ある意味、プレアデスらしい抽象性または中途半端性は感じるが、確かにそうであるとしか言えないものがあるのも確かなことだろう。

 

6月23

上にあげたものと異なる存在によるものだが、たつき諒の見た75日の大災害のビジョンに関するメッセージをもう一つあげておきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=Q4idvy9j1bs&t=12s

 

たつき諒の見たビジョンとこの存在自身が見たアカシックレコードの情報が多くの点で一致すること、私もブログで述べてきた「境界の消失」という現象(物質的領域と霊的領域の境界あるいは自己の内界と外界の境界が喪失する、「霊界の境域化」ともいうべき現象)がこの出来事を通して起こること、それらは混沌とした状況をもたらすが、地球の危機的な状況の転換のために必要な出来事であり、それらをどのようにして乗り越えていくことができるかということなどが、上にあげたメッセージ以上に具体的で有用な示唆のもとに述べられている。

7月13日

上にあげた動画は削除されているので、新たに7月12日に、たつき諒の予言とシンプソンズのアニメに込められた予言とを絡めながらその意味について語った新しい動画をあげておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=Y9_FLnh_CFY

 

2024年6月16日 (日)

アフリカ ズールー族のシャーマンが語る、地球とレプティリアンの歴史

これまで何度も、地球では、「捕食者」または「レプティリアン」が人類を管理、支配してきており、現代の社会もその一つの強力な現われであることを述べて来た。
 
今回は、地球とレプティリアンの歴史について、ほぼ同様のことを語る、アフリカ ズールー族のシャーマンの話を元に構成された動画を紹介したいと思う。
 

 

このシャーマンは、デーヴィッド・アイクとも交流があり、彼の思想に大きな影響を与えた人物でもある。

かつては、人類に「見える」(物理次元的に認識し得る)存在であったのが、「見えなく」なったことについては、ミナミAアシュタールは、レプティリアン側の「戦略」として、「見えない領域」に隠れて操作するようになったことをあげているが、私も同じ考えである。

このシャーマンは「ワクチン」の影響を語っているが、確かに、ワクチンが霊的な能力を失わせる面はあるし、そのような人類の側の質の低下が、「見えなく」なったことの一要因とも言える。ただ、その場合、その前提として基本にあるのは、これまで述べてきたように、遺伝子操作であると言うべきである。

また、このシャーマンは、レプティリアンが食する人類の発するエネルギーについて、「脳波の周波数」という言い方をしているが、「霊的なもの」が現在以上に認められ難かった当時、できるだけ多くの人が受け入れやすい、「物質的」な表現で語ろうとしていたことをうかがわせる。

何しろ、カスタネダのドンファンが語る情報とともに、先住民族のシャーマンが語る「捕食者」ないし「レプティリアン」の情報として、貴重なものと思う。

2022年11月 9日 (水)

「死の体験」は、この世界の特権!?

前回、「イニシエーション」における「死と再生」の過程においては、「死の体験」こそが、重要な鍵となることを述べた。「再生」ということも、「死の体験」があってこそ、起こり得るのである。

実を言うと、このような「死の体験」は、物質次元に強く制限された、(地球上の)この世界でこそできる、「特権」と言えるのではないかと思う。霊的世界や他の次元の世界では、「死」そのものがないわけではないにしても、「イニシエーション的な死」の体験、あるいは「死の深み」の体験は、なかなかできないと思われるのだ。

私自身、記事『「自ら望んで地球に生まれる」ということ』で述べたように、「死の体験」を(深いレベルで)することを目的に、この世界に生まれて来たという思いがある。

物質次元を超えた領域で生きていた、金星人のオムネクも、記事『「次元降下」して地球に生きる「金星人」』でみたように、、金星では、あらゆる望みがすぐに適い、満たされてはいるが、変化に乏しく、退屈であるため、あえて、地球のような制限の多い世界に転生する者もいることを述べていた。

実際、物質次元を超えた領域では、現実に、「死を体験」する機会などは、めったにないはずである。あるいは、死を意識することすら、めったにないのかもしれない。オムネク自身は、「カルマの精算」と「地球人の教化」を理由に上げていたが、地球に物質化して生まれたのには、「死の体験」を望んだということもあったのだと思う。

「死」には、「深み」があり、それぞれのレベルに応じた「死の体験」があるし、結果として、さまさまなレベルに応じた「再生」もあるのだった。

その「再生」、あるいは「水平的方向」からみれば、それまでの自己に死んで、新たに生まれるわけだから、それは、結局、「進化」につながるわけである。

地球などより高次元の領域は、満たされた領域である分、そこに満足して、このような「進化」を起こすということは、難しいことにもなる。そこで、あえて、このような「進化」を目指して、地球に生まれるということも起こるのだろう。

シュタイナーも、地球に生まれる意義は、「霊的進化」にあるとしていた。

しかし、「死」そのものの「深み」の体験、あるいは「垂直的方向」という点からみても、このような体験をできるのは、「死」ということが身近にあり、「闇」に満ちていて、「深淵」がいわば、常に「開いて」いる、この世界の特権と言えるのだと思う。

他の領域では、このような「深淵」を覗く機会もほとんどなく,その「深淵」には、「闇」または「虚無」か控えている、ということを認識することも、ほとんどないと思われる。

宇宙人系統のチャネリングでも、「進化」は語っていても、このような根源的な「闇」や「虚無」について語られることは、ほとんどない。ミナミAアシュタールのアシュタールも、「無のことは分からない」と率直に述べている。

ただ、アシュタールは、原初の存在である「絶対無限の存在」が、「私とは何か」を意識したことから、その探求のため、全ての「創造」が始まったとしている。「私とは何か」を意識するということは、漠然とでも、周りに蠢く「私ならぬもの」(他者)を意識することを意味する。だから、「私とは何か」を探るとは、その周りの「私ならぬもの」=「絶対無限の存在をも超えた、究極の「無」とでも言うべきもの」を何ほどか意識し、知ろうとすることをも、含むことになる。

記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』でもみたように、原初の存在を取り巻く「大いなる未知」、すなわち「虚無」の探索こそ、全ての創造の始まりであり、目的だとすれば、その探索に向けては、地球のような、「死の深みの体験」のできる世界は、貴重であるということも言えるのである。

 

2022年10月14日 (金)

「深淵に飛び込む」ことと「深淵としての霊界の境域」

記事『『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い』で、カスタネダが、今後進むべき道の決定的な選択をするために、ドンファンから、崖から「深淵に飛び込む」という苛酷な課題を与えられたことを述べた。

カスタネダは、この課題を実行し、その深淵に迫る過程で、「意識の暗い海」または「無限」と遭遇して、それに包まれることで、死を回避し、自宅のベッドまで移動(テレポート)していたのだった。それは、「集合点の移動」という観点からは、集合点を移動することで、「黒の世界」といわれる、死ということのない、全く別の世界を構築した結果なのだった。

通常、崖から深淵に向かって飛び込めば、死を免れないから、このようなことは狂気の沙汰とも思われようが、実は、これと類似の儀礼や修行は結構ある。

たとえは、バンジージャンプというのは、バヌアツのペンテコスト島で行われる成年儀礼を起源とするもので、この儀礼は、成年を迎える人を蔓に巻き付けて、高い木組みの櫓から地面目がけて飛び込ませるものである。私も映像を見たことがあるが、バンジージャンプとは違って、実際に地面に体がつくほどのもので、命の保証などないというべきものである。現在は、蔓で巻き付けて行うが、かつては、もっと危険な方法で行われていた可能性がある。

このように、「深淵」に飛び込むことで、現実に「死」と直面し、「死」を知ること、さらには、その過程で、成人としての決意と選択が促されるわけである。

日本の修験道でも、吉野・大峯の「西の覗」といわれる行場で行われる儀礼または修行があり、断崖絶壁の崖から縄でつるして「深淵」を覗かせることで、自己を見つめさせるというものがある。これも、現在は、命綱で安全が図られているが、かつては、もっと危険な方法であった可能性がある。

現実に、「死」と直面することで、「深淵」にあるものと遭遇することでこそ、その目的が達せられるからである。

カスタネダのなした課題は、それにしても、常軌を逸しているが、これらの儀礼ないし修行の究極の形態と解せば、理解できないことではないだろう。この場合には、単に、「死」または「深淵」に遭遇するだけでなく、何ほどかそれを「超える」ということがなされない限り、命を失うという状況にまで、追い込まれるわけである。

本当に、物理次元で、こんなことがなされたのか分からないが、記事で述べたように、ドンファンが、カスタネダに対し、事前に、「お前は、この課題の後この世界に戻ることの合意がなされた」と言っていたことは、興味深い。これは、カスタネダに対し、命の保証をしたものとも解され、この時点で、カスタネダは、ドンファンにほぼ全面的な信頼を寄せていたから、この言葉は、カスタネダがこの課題を実行する動機づけとして、大きく作用したと解されるのである。

この深淵に飛び込むという課題において、「死ぬのではないか」という疑いがよぎれば、ます間違いなく、死んでしまうことだろう。カスタネダは、「高められた意識状態(変性意識の状態)」にあったこともあって、そのような疑いを取り払うことで、この課題を実行し、成功させることができたと思われる。

ところで、シュタイナーの『秘教講義1』(春秋社)という本では、「霊界の境域」を超えることは、「深淵」と向き合って、それを超えることであり、それを様々な警告を与えつつ、促して行くのが、「境域の守護霊」の役目であるという視点が、述べられている。

私は、前に、シュタイナーは、「水平的方向」の進化ということばかりを述べ、「垂直的方向」の深化ということには、ほとんど関わらないということを言った。しかし、この本を読むと、シュタイナーも、垂直的な方向の「深淵」ということを、強く意識していたのが分かる。ただ、その「深淵」は、あくまで、「超えられる」べきもので、それ自体を深く掘り下げるという視点は、なかったようではある。

シュタイナーも、「深淵を超える」ことで、「霊界の境域を超える」ことができるとしていたのである。それは、ドンファンのいう「集合点の垂直的方向の移動」に相当するものと言える。

前回、地球が5次元に焦点化したので、「波動領域を変える」ことは起こりやすくなったと述べた。しかし、物質的なものを完全に超えるには、やはり、このような意味で、「深淵を超える」ことは、依然として必要と思われるのである。

この「霊界の境域を超える」ときの「深淵」とは、カスタネダが崖から飛び込むことになった、「深淵」とも通じている。つまりは、「死」そのものであり、「無限」であり、「虚無」である。これは、「霊界の境域」をさまよう、狂気の者が予感し、あるいは遭遇する、「虚無」なのでもある。

私は、記事「「霊界の境域」の「図」」において、その境域は、あらゆる領域の根底に潜む、「虚無」の噴出口であるということを述べていた。「深淵」というのは、まさに、その境域に噴出する「虚無」そのものと言っていい。()

カスタネダは、その「深淵」としての「無限」と一体となったり、超えたわけではないが、少なくとも、「無限」に遭遇して、それに包まれ、肉体的な死を免れるという特異な体験をした。それは、「無限」との、一時的な一体体験を経て、戻って来た体験とも言える。

また、それは、私の一連の体験の最後に起こった、「闇に包まれる」体験とも、非常に似たものである(私の場合、物理的に移動することはなかったが、身体が消えるという感覚は、確かにあった)。カスタネダにとっても、それは、決定的な意味をもつ体験となったに違いないのである。

※ この「霊界の境域の図」では、感覚的領域と霊的領域を〇で囲んでいるが、これを立体的な球とみなしてほしい。そして、感覚的領域の淵に立って、霊的な領域との境にある底を覗いている状況を想像してほしい。それが、崖に立って、深淵を覗き込んでいる状況と同じということである。単に、「象徴的」に同じなのではなく、実際に、深淵に飛び込み、「死」と直面することは、感覚的な領域の淵に立って、「虚無」の渦巻く、霊的な領域との境界に飛び込むのと、実質的に同じことを意味するのである。

2022年9月28日 (水)

「集合点の移動」と「波動領域を変える」

今回は、ミナミAアシュタールのいう「波動領域を変える」ということを、前回みた「集合点の移動」と照らし合わせてみると、より理解しやすくなることを、述べたい。

ミナミAアシュタールも、我々の現実は、「思考が作り出したホログラム」であり、本来の波動領域が、思考の共振により、制限されて、(凝固するように)現れ出たものであるとしている。つまり、客観的、固定的な現実があるわけではなく、世界とは、我々が作り出した「知覚世界」なのだという点で、基本的には、前回みた、ドンファンや、ホログラフィックパラダイムの見方と同じである。

具体的に、世界を作り出すのは、ドンファンでは、「意識」とされ、それは、人間のまゆの上にある、「集合点の移動」により、なされるのであった。ミナミAアシュタールの場合は、世界を作り出すのは、「思考」とされ、それは、思考を、どのような領域に「フォーカス(焦点化)」するかによって、なされるとしている。

ドンファンは、積極的な意図を重視するので、「意識」としているが、ミナミAアシュタールでは、より人間の一般的な場合に沿う言い方で、「思考」としていると思われる。つまり、あえて意図的に世界を作り出すのではなくとも、我々の、日常の思考のあり方が、その都度、「世界」を作り出しているということである。そして、この「思考」には、意識的な思考だけでなく、より深いところで働く、無意識的な思考も含んでいる。

ただし、ミナミAアシュタールも、いきなり、個人が勝手に、バラバラの世界を作り出すというのではなく、地球の「共有意識」により、また、世界を固定して、支配を貫徹したい、レプティリアンの思考操作により、我々の「共通の世界」が作り出されるとしている。この点も、ドンファンの言う、「集合点の固定」ということと、同じである。

そして、ミナミAアシュタールのいう、思考の「フォーカス(焦点化)を変える」ということを、エネルギー的に、霊的身体の観点からみると、ドンファンのいう、「集合点の移動」になると思われるのである。逆に言えば、ドンファンのいう「集合点の移動」というのも、思考の「フォーカス(焦点化)を変える」ということによって、割と容易に、なされてしまうものということになる。

ただし、これには、注意すべき点がある。

「波動領域を変える」というのも、本来は、「次元」そのものを変えることを意味し、この物質世界からは、消えて見えなくなることである。これが、ドンファンの言う、本来の「集合点の移動」で、前回説明したように、「集合点の垂直方向の移動」となる。

しかし、ミナミAアシュタールは、現在の地球では、地球の共有意識が変化し、5次元的な領域に焦点化したので、この点に、変化が生じたとする。「思考のフォーカス」を変えるだけで、「波動領域が変わ」り、お互いに交わることがなく、物質的身体は伴ったまま、「見えなくなる」と言うのである。(但し、固定的にそうなるのではなく、思考が変われば、違いに、移行は可能である。)

これにより、大枠として、これまでどおりの思考を続ける者と、これまでの思考を変えて、そこから離れる者とで、世界が別れることになるが、これが、いわゆる「二極化」ということである。

これまでの、共有意識の「固定的なタガ」が緩まって、人間各人が、それぞれ別の世界を構築しやすくなっているということでもある。「二極化」というのは、その途中段階の、あり様とも言える。

このような、「思考のフォーカスを変える」というのは、本来は、前回みたドンファンの説明では、「集合点の水平方向の移動」あるいは、それにも当たらないような、「微妙な揺らぎ」ということになると思われる。

しかし、地球の共有意識が変わったために、それは、実質、「集合点の垂直方向の移動」に近いような、効果をもたらすものになったということである。

ドンファンも、「集合点の移動」には、「地球の応援」、すなわち、地球のエネルギー的な援助が、大きく関わることを述べていた。だから、この「地球の応援」が、全体として高まったならば、一般に、「思考のフォーカスを変える」ということで、「集合点の移動」が起こりやすくなったとしても、不思議なことではない。

そして、それは、特別の修行などではなく、日常における「思考のフォーカスを変える」ということで、レプティリアンの思考操作を脱することも、我々の現実を変えるということも、起こりやすくなったということを意味する

ただし、この思考には、先にみたとおり、「無意識的な思考」も含むので、我々に染みついている、無意識にしている思考の習慣に気づき、それを超えて行くことが重要な鍵となる。

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