精神世界

2021年2月17日 (水)

お笑い系?宇宙人シャーの語り

チャネリングで降ろされる宇宙人といえば、日本で有名なのは、バシャールやアシュタールであろう。

ところが、最近は、チャネリングのできる人も増えて、さまざまな宇宙人が、人の体を借りて情報を発信するようになっている。もちろん、玉石混淆で、すべてが本物とは解せないが、中には、注目すべきものもある。

そんな中でも、異色でユニークな存在が、宇宙人シャーである。私と年齢も近い、インパクトあるおばさんが降ろしているのも、異色である。

まずは、最近のユーチューブの動画をあげておく(https://www.youtube.com/watch?v=Mx362eJyVTg) 。前に紹介した、レインボーチルドレンのまりなちゃんとの対談もある(https://www.youtube.com/watch?v=xMrl4G27bIg&list=PUfGB7AgCeD8fic0hykbWViA&index=32)。

「シャー」と言っても、別に勝俣の生き霊ではない(笑)。惑星ゼロというところから、次元転換して、地球に来ているそうだ。(「ただ座るだけ」というシンプルな座禅を伝えた、あの道元禅師も同じ出身というのにはちょっと衝撃!)

テンションの高いノリで、5歳児のしゃべりを入れたり、パフォーマンスを交えながら、ユーモアたっぷりにいろんなことを語る。まあ面白いし、ついつい引き込まれてしまう。

おばさんの井戸端会議に定番の、手を前に降っての「そーなのよ-、奥さん!」と、女子中高生のリアクションの定番、手に口を当てての「キャー!」が好きなようで、話の合間に、うまく入れて来る。それが、的確だし、身振りもよくとらえていて、感心してしまう(ときどき、「しょーなのよ、奥さん」って、5歳児のしゃべりでおばさんまねやってるのは、愛嬌(笑))。

地球人のことを、いろいろ興味をもってよく観察しているのが分かるし、その身振り、行動を面白がっているのだろう。

もちろん、まじめな話もときにはするし、それはそれで、奥深いことをさらりと言っている。

宇宙人というと、どうしても距離を感じて、警戒したり、あるいは崇拝する人もいるだろうが、シャーは、親しみやすさでは、随一だろう。

今はまだ、マイナーだろうけど、そのうちブレイクしても、おかしくないだろうと思う。特に、女性には人気が高まりそうだ。

そんなことを通して、宇宙人に対する見方が変わるとともに、宇宙人の語りにも耳を傾けてみようという人が増えるならば、結構なことだ。

私も、前の日記で書いたように、夢の中でだが、身体能力系?の異色の宇宙人と出会ったことがある。ペガサスから来たという、肩の筋肉が異様に張って、ジャミラのような格好をした、赤い肌の宇宙人である。自分が持っていた、宇宙人のイメージとあまりにも違うので、面食らったのだった。

このように、宇宙人と言っても、いろんなタイプがあることが、これからはますます知られて来ることになるのだろう。

  このような、チャネラーの降ろす宇宙人は、チャネラーの「解離した別人格」ではないかと思う人もいることだろう。確かに、そういう場合も、結構あるかもしれない。

しかし、バシャールなどはもちろん、シャーの場合にしても、とても、この世的な経験の結果としての「人格」の一部などとは、解せないのが明かと思う。ただし、何度か言っているように、「自己」の枠組みを大きくとれば、それは、ある意味で、そこから解離した人格という見方はできるものである。

「宇宙人」と言っても、そのような「大きな自己」または「高次の自己」(「ハイアーセルフ」とも言われる)そのものの現れと言えるような場合もあるし、そうでなくとも、多くの場合、その「自己」とのつながりにおいて、存在しているものであるのが普通だからである。

バシャールも、チャネラーであるダリルアンカの「未来生」ということで、まさに、「高次の自己」そのもののような存在である。シャーも、チャネラーは何人かの候補から選ばれたということだが、やはり、見るからに(笑)、両者の間に関わりを思わせるものがある。

 

※  3月17日 宇宙人シャーの本等

宇宙人シャーには、チャネラー雪下魁里著『宇宙で大人気のきみへ』(廣済堂出版)という本も出ている。ほぼ、全編にわたって、シャーの言葉が伝えられている。

ユーチューブの動画のように、お笑いキャラ炸裂(笑)とはいかないが、シャーらしく、とても分かりやすい言葉で、特にスピリチュアルな傾向のある人にというより、一般の多くの人に向かって、語られているのが特徴である。このように、宇宙人が、親しみやすく、一般の人に向けて語るというのは、今という時代が、可能にしたという面も大きいだろう。

話も、難しいことではなく、宇宙人の視点から、肉体をもつということ、従って、個の意識と感情をもつという地球の独自性が強調され、そのような地球に(自ら望んで)生まれた以上、それを思いきり楽しむ生き方をすることを勧めている。何も、分離意識を強めることを勧めているのではなく、結局は、そのように個の意識と感情を生き切ることが、すべては一つというワンネスへの方向を、確かにするということなのである。

地球にいると、そのような体験が、宇宙では得難い貴重な体験であることが分からないが、確かに、そうなのだろうと思うし、「それしかない」ということを、私も最近特に感じている。これは、バシャールやアシュタール、さくやさんの言うこととも、通じていることである。

なお、この動画(https://www.youtube.com/watch?v=guj4w0pqx7g)では、シャーの得意とする、「笑い」とは、「振動と振動をくっつける接着剤」で、相対性理論も笑いながらだと1秒で覚えられる!という、「相対性理論を超えた理論」(笑)を披露。

2020年12月19日 (土)

『無限との衝突』と「空なるもの」

スザンヌ・シガール著『無限との衝突』(ナチュラルスピリット)という本を読んだ。

女性による体験記で、ある日バス停でバスを待っているとき、突然「無限」または「空」と「衝突」し、以後「自分という基点」を永遠に失ったという。ロバーツの「自己喪失の体験」と似ているが、ロバーツの体験とは違いも多くある。また、「狂気」との関りは、ロバーツ以上に深く、私の「闇」または「虚無」との遭遇体験と、重なる部分も多い。

著者は、この体験をする前には、スピリチュアルな傾向があったわけでも、特に修行をしたわけでもないが、TM瞑想に関わったことがある。が、マハリシというよりも組織のあり方に疑問を持ち、スピリチュアルそのものにもよくない印象をもったまま、結局離れることになる。だから、この体験は、望むことも、予期するこもなく起こったもので、まったく理解できないのである。特に、「覚醒」の体験なら、喜びがあるはずだと思っているので、恐怖しか感じないこの体験は、なにものなのかといぶかるのである。

その後も、思考や感情という「マインド」の活動自体は存続するが、そこに「自己という基点」は一切なくなり、そのことが、非常な恐怖と混乱をもたらす。著者は、「病的なもの」との疑いももち、何人かのセラピストに相談に行くが、そこでは、セラピストが、その体験を恐怖の故に頭から認めず、自分の「精神分析」的な解釈にただ無暗に当てはめて、「解離性障害」などと病的な規定をし、(洗脳的に)セラピーを施していくというあり方に接し、そこにも多くの疑問をもち、やはり離れていく。

その後、著者は、覚醒や悟りに関する指導者(いまや欧米にもそのような人は多い)と多く会う機会を得、また仏教などとも出会うに従い、自分の体験が、覚醒をもたらす、「空」の体験そのものであることを受け入れるようになっていく。また、多くの指導者も、それが真正の覚醒体験であることを保証してくれる。

そのようなことから、著者は、「自己の基点」は失うが、あらゆるものが「空」の広大さそのものの現われであり、「一なるもの」であることにも目覚めていく。「自己の基点」は、元々なかったもので、「マイント」が生み出した「幻想」のようなものと悟るのである。そして、それまで、「空」の体験が、覚醒の体験なら、喜びをもたらさず、恐怖をもたらすことに疑問を感じていたが、その疑問も解け、静かな喜びをもたらすことになる。

その後、「空」と「一なるもの」の関係、「空」の体験後も、「マインド」そのものは存続し、思考や感情を失うものではないことなどの洞察と解説がかなり詳しく展開される。それらは、非常に鋭く、的確なものと感じられる。「マインド」の存続、特にネガティブな思考や感情の存続ということには、私も、多くの疑問をもっていただけに、大いに参考になった。

著者の体験は、かなり特異ともみられようが、ロバーツさらに私の場合と比較すると、より明確に浮き彫りになると思われる。

まず、ロバーツの場合と比較すると、「自己の完成」あるいは、「統一意識」というものを、経たうえで、起こったのではないことが、大きく違っている。その点では、私の場合と同じである。だから、より受け入れるのが難しく、より恐怖や混乱をもたらすのである。しかし、著者は、その後、「一なるもの」としての「統一意識」も経験し、結果として、それを受け入れることができるようになる。ただ、ロバーツの場合と比較すると、やはり、最後まで、不安定で、危うい感じは、つきまとう。

ただし、私の場合と違うのは、その体験によって、「自己という基点」そのものは、明確に失ったと感じ、その後もそれがずっと続いていることである。私は、体験時には、明らかに「自己の基点」を失ったが、その後は、それがなくなったわけではない(希薄なものとは化したが)と感じている。それは、やはり、その体験に至るまでの経過の違いによるということができる。

私は、その体験が起こる前に、「統合失調状態」という「狂気」そのもののような状態にあったが、著者は、その体験前は通常の状態にあり、体験の後、自己の基点を失ってから、「狂気」まがいの恐怖と混乱に陥ったのである。

私の場合、「空の体験」は、それら「統合失調状態」で起こったことを、「幻想」のようなものとして、解消する役をなしてくれた。が、著者の場合は、その体験によってこそ、「自己」の状態を失って、「狂気」めいた状態に陥ったのである。

結局、「空」の体験そのものは、いかようにもパターン化できないし、色づけできないということを、改めて感じる。こうなったら現れるとか、こうでなければならないなどということとは、無縁なのである。

それは、著者も言うように、ただ、本来の「ありのまま」の状態であり、ただ「マインド」の作り出した「自己」という幻想が、それが現れることを遮っているに過ぎない。その「マインドの遮り」が、取り払われる状態でなら、それがいつ現れても不思議はないのである。ただ、それをどのように体験し、消化し、受け入れるかは、人それぞれのあり方によるとしか言いようがない。「マインド」の抵抗が激しければ、「狂気」となり得るし、「マインド」の抵抗がなければ、喜ばしい体験として、その状態に安住していられるということにもなる。

また、それは、その体験が起こるまでの経過にもよる。私のように、「狂気」の状態の果てに体験した場合、それは、その「狂気」を吹き払う、「治癒」的な働きをなすことにもなるが、著者のように、いきなり体験すれば、その体験の「異常」さが際立って、「狂気」をもたらすことにもなり得る。

ただ、総じて言うならば、ロバーツの場合のように、まず「自己の完成」または「統一意識」に至って、その「自己」を全体として抜け落とすということになるのが、最も危険が少なく、十全な結果をもたらしやすいことにもなるだろう。ただし、それは、そうでなければならないのではなく、あくまで、「事実上」のことである。

私の説明では、「自己」の完成の方向は、「水平的方向」であり、「空」による「自己の喪失」は、「垂直的方向」である。ところが、人は、この「空」の体験も、「水平的方向」の延長上にあるものと、みなしてしまいやすい。それで、「空」の体験も、人格の成長の果てにあるものとか、当然に、肯定的な結果をもたらす、喜ばしい体験であるとみなしてしまうことになる。しかし、それは、「空」を恐れるがゆえに、まさに「マインド」が、そうあってほしいと思っていることを信じているだけのことである。ところが、垂直的方向の体験は、本来、そういったこととは、一切関わりないのである。

著者を取り巻く人たちの、無理解の反応や、その体験を「病的」なものとみなそううとするセラピストたちも、まさに、そのような反応をしているだけということである。この本は、それらの人たちの反応の問題をも、よく浮き上がらせている。

著者の本自体は、このように、この体験を肯定的に受け入れられるようになったところで終わっている。が、実は、編集者によると、著者は、その後、またいくらか混乱をもよおし、幼少期の頃の、虐待の記憶が戻って、それが自分の体験にも影響していることを認めるようになったという。そして、その後、脳腫瘍を患い、まもなく死亡したという。

このようなことは、先にみたように、「空」の体験が喜ばしいものであるべきという「マインド」の視点でみると、疑問や矛盾と感じるかもしない。しかし、私は、ある意味で、多くの「覚者」の最晩年に、何らかの形でつきまとう、ある種の「悲哀」あるいは「味」とすら思う。ブッダの最晩年にも、このような要素は漂っている。

繰り返すが、そのような要素があってはならないと思うのは、「マインド」であって、それは事実とは関わりない。

私も、本を読んでいるとき、著者の体験は、「解離」または「離人症」的なところがあると思ったし、恐らく「虐待」と関係しているのではないかと思った。それは、実際、そういう面があったのだろうが、これまでみて来たとおり、「空」の体験自体、「狂気」の状態と、すなわち、「解離」のような状況とも併存し得るのである。私の場合は、「統合失調」状況との併存だったが、著者の場合は、おそらく、幼少期の虐待の影響もあって、「解離」との関りが強かったということである。

そもそもで言うと、「一なるもの」といわれる、根源的な「絶対的な存在」自体、記事『「神」も「解離」する!?』でもみたように、自分を取り巻く「未知なるもの」を意識し、それを探索したいとの思いから、「解離」のようにして、多くの「分身」を作り出したのだった。

そもそも、「空なるもの」は、あらゆる存在にとって、「解離」と本質的な関りがあると言えるのである。著者の体験は、ある意味で、それを踏襲しているだけである。

(また、「死」の点について言うと、「空なるもの」は、人間の肉体という枠組みとは、どうしても、共存し難いものがある。それで、いずれは、肉体の「死」ということに、向かわしめるものがあると言える。)

ただし、ロバーツの場合は、「自己喪失」の前に「統一意識」を体験していたので、「自己喪失」をもたらす「空なるもの」には、「一なるもの」をも超えたものがあることを、感じとっていたと解される。「一なるもの」にとっては、「未知なるもの」としか言いようのない要素である。ところが、著者の場合は、「空」の体験後に「一なるもの」の体験をして、肯定的に受け入れたので、両者が同等のものとして、混同されている節がある。

「空なるもの」には、「一なるもの」を超えたものがあること、「一なるもの」には汲みせないものがあることを、十分意識できていれば、その体験には、「解離」のような現象との併存もあり得ることも、受け入れやすかったかもしれない。

 

2020年12月 4日 (金)

「レインボーチルドレン」たちの発信

スピリチュアルなことがらを含めて、大人顔負けの知見をもち、才能を発揮する、子供たちがいる。最近は、明らかにそういう子供たちが増えて来ているとみられる。もっとも、昔から、そういう子供はいて、「神童」などと呼ばれていた。

クリスタルチルドレン」とか、「レインボーチルドレン」などと言われるが、要するに、「水晶のように透明な」、あるいは「虹のように全体色において輝いた」オーラをもった子供と思えばよい。

本来、子供とはそういうものとも言えるが、現在の地球の社会に生まれれば、普通は、この社会の「闇」にいくらかとも染まって、そのような性質は失われていく。ところが、「クリスタルチルドレン」や、「レインボーチルドレン」は、そのような元々の性質を、ある程度の年令になっても、保持している子供たちと言うこともできる。

最近は、そのような子供たちが、本やYoutubeの動画などで、自ら情報を発信したりしている。ほかにもいるだろうが、私が目にしたもので、確かに、「本物」と感じられるものを、いくつかあげてみる。

Youtubeの動画では、

クラリオン星から地球に転生して来たという そうた君
https://www.youtube.com/watch?v=91ZxR2s4TNk など

子供の「中間生」記憶の研究で有名な、池川明医師との対談 まりなちゃん
https://www.youtube.com/watch?v=rM-FZixUq7s など

本では、

ドクタードルフィンこと松久正医師との対談 かほなちゃん 
かほなちゃんは、宇宙が選んだ地球の先生』(ヒカルランド )

Youtubeでの紹介 https://www.youtube.com/watch?v=_5x0c0iZI-U

すみれちゃん    『かみさまは小学5年生』(サンマーク出版)

このようなことができているのは、かつては、大人たちに、「つぶされた」子供たちも、最近は、必ずしもつぶされずに、いることができるようになったということでもある。その知見や才能を見出し、その考えを聴くことには、多くの人にとっても、意義があることを認める大人も、かなりいるのである。

逆に、そういった大人に、いろいろ吹き込まれて、かつぎ出され、いいように利用されているだけ、という見方をする人もいることだろう。しかし、上にあげたような子供たちは、明らかに、自分自身で、主体的に考えを述べているし、その知見や対話における対応は、とても取ってつけた様なものではない。つまり、周りの大人が、吹き込んで可能となるようなことではない。もともと持って生まれたか、自分自身で、本当に身につけたものと言うしかないのである。

話は、それぞれに興味深く、全体に、共通するところは、当然あるが、それぞれに、個性的な違いもある。中には、首をかしげたくなるようなこともあるが、それも、独特の視点から(言葉が足りないために、異様さが際立ったとしても)、ユーモアを交えて、述べられていることが分かる。

ただし、だからと言って、彼らの言っていることが、すべて本当のこととか、真実であるということにはならないことには、注意を要する。これは、チャネリングなどでも同様だが、「言葉」を通して発信する以上、その「翻訳上」、「表現上」の制約は受けるし、子供の場合、経験的にも、より多くの制約があるのは当然のことだろう。

しかし、子供だからこそ、訴える力が多くあるのも事実で、その辺りは、人それぞれ感じ取ってもらえばよい。

まりなちゃんが言っているように、今後は、こういった子供たちがますます増えて来て、社会の構造も、大きく変わる方向に行くのかもしれない。が、それに脅威を感じる大人も多くいるので、ことはそう簡単ではないのも確かなことだ。しばらく(数十年あるいは百年くらい)は、そのせめぎ合いのようなことが、続くことだろう。

2019年6月26日 (水)

『令和元年からの[地球:人類]』

記事『身近に入り込んでいる「宇宙人の技術」』などで何度かとりあげた、A・ジョルジェ・C・Rの新著『令和元年からの[地球:人類]』(ヒカルランド)が出ている。

著者は、日本在住のポルトガル人チャネラーで、内容は、全人類に向けてのものだが、日本を中心に述べられている。日本が中心になるのは、日本こそが、化学物質や電磁波情報システムによる人々のクローン化が、最も進んだ国だからでもある。

今回も、前著同様、容赦のない内容で、特に、電磁波情報システムによる人々のクローン化がいかに進んでいるか、徹底されようとしているかが述べられている。ネットやスマホを通して、情報を取り込むことは、その内容だけでなく、電磁的な情報システム自体を、肉体やエーテル体に刻み込むことであるのが強調される。その情報システムを通して、支配的な宇宙人の操作を受けやすくなるだけでなく、様々な障害を生じ、遺伝子的な変化も起こり、世代に伝えられていく。また、結果として、霊的なものへの興味や指向を失うのみならず、全体として、自己の霊的な部分そのものを、削ぎ落として行くことになるという。

「アセンション」については、あくまで地球の意志なのであり、アセンションするのは、地球なのであることが強調される。我々人類は、現状で、それに乗れない人の方が圧倒的に多く、乗れるとしても、10%に満たないという。それでも、地球は限界状況にあるので、もはや猶予はしようがないということである。

また、地球のアセンションに伴い、太陽や宇宙から、フォトンエネルギーやコズミックエネルギーなどのエネルギーの放射も増大する。アセンションとは、宇宙的な関わりにおいて生じる出来事でもあるのである。それらは、地球に、(浄化のため)異常気象や地震などの天変地異を引き起こす。異常気象や地震などの天変地異には、支配層や支配的宇宙人による人工的なものもあろうが、全体として、宇宙的な関わりの中で起こっていることの認識は、改めて必要と思われる。

もはや、その方向は後戻りできない状況にあって、今後6年のうちには、決定的なことが起こるとしている。

支配的宇宙人は、もちろんそれを阻止しようとするのだが、最終的には、「サイバー攻撃」を準備しているという。それは、単に、情報を撹乱するというのではなく、核エネルギー以上の威力を有する、電磁的な殺傷兵器で、情報システムを介して、一瞬にして多くの人を殺せるという。

私も、支配的な宇宙人は、最終的には、自暴自棄的に、破壊そのものを意図するようになることを懸念していたが、やはりそのような状況になって来たというほかない。

前回の『エイリアン インタビュー』もそうだし、これは最近の傾向なのであるが、地球のどうしようもない現状を、徹底的に暴き出す情報が増えている。これには、リサロイヤル他『プリズム・オブ・リラ』も言っていたように(※)、地球人に対しては、抑制的な表現では効果が発揮できず、より直接に、あえて恐怖を喚起する仕方で、訴えかけていくほかないというのが、最近の宇宙人たちの共通認識になりつつあるということが、影響しているだろう。

しかし、それは、実際に状況が、切迫したものになりつつあることの反映でもあるはずである。

何しろ、この書は、状況がいかに切羽詰まったものであるかということを、率直に、力強く、訴えかけているのである。

アセンションに向けては、我々に対して、何も難しいことを要求しているわけではなく、このような現状を認識して、支配的宇宙人の奴隷と化すのではなく、「霊性的なもの」への興味や指向を失わないで、向上して行くことを述べているだけである。端的には、「地球のアセンションにとって、邪魔にならない」ということなのだが、それが、現状の人間には、やはり「難しいこと」になってしまうのでもあろう。

※ 重要と思われるので、この部分を引用しておくことにします。

これまで宇宙人たちがとってきたあらゆる穏便な方法は、あまり功を奏しなかったと言えよう。一方、ここ数十年来、宇宙人たちが地球人に対して用いる基本的な戦略は、人類の覚醒を促す上で、従来の方法より深遠な可能性を秘めているようである。一部の宇宙人は、人類の恐怖心を煽る戦略をとりつつある。残念ながら私たち地球人は、肯定的なことより否定的なことを真実として受け入れる傾向を持つ。否定的なことを肯定していくという人類特有の認識の仕方が、これまで人類が否定してきた現実に、人類を同化させるための手段として使われ始めているのである。恐怖心には高い覚醒効果があるということになる。

ただし、端的に、恐怖と絶望を煽ることを意図とした、否定的な宇宙人によるチャネリング情報もあるので、その見分けには注意を要する。

チャネリング情報について

もっとも、私は、チャネリング情報に関しては、全面的にボジティブとか全面的にネガティブなどということはあり得ないという立場である。チャネラーは人間である以上、ポジティブな宇宙人とチャネルするときも、状態によりネガティブな存在の影響を受けたり、ネガティブな捉え方が「翻訳」に反映してしまうこともあり得る。一方、ネガティブな宇宙人の情報だからと言って、全面的に虚偽や悪意に出たものとは限らない。ポジティブな宇宙人、ネガティブな宇宙人という区分けも、決して単純にできるわけではない。せいぜい、全体として、どちらが勝るものであるかということが言えるだけである。

だから、チャネリング情報については、全面的に受け入れるとか、全面的に切り捨てるということではなく、内容そのものに注目したうえで、注意深く検討していくしかない。

しかし、私は、概括的に言うなら、チャネリング情報には、(自分自身の体験を消化していく際にも、大いに参考になったものがあり)人間の考察などより、はるかに有意義な内容のものがあることを認めるものである。もちろん、このプログでとりあげているようなものは、そのような内容を含むものと思ってもらってよい。

2019年4月12日 (金)

「日月神示」の言葉 3

今回は、『日月神示』の文庫版(電子書籍版)、一二三』(文芸社)を読んだので、前と同様、印象に残った言葉を2、3掲げておきます。

主意である、「神一厘の経綸」については、既に記事『「神一厘の経綸」について』 、『「神示」が語る「悪の仕組み」』で十分述べたので、ここにあげるのは、本筋からは外れるかもしれないが、特に印象に残った言葉となります。

記事『「日月神示」の言葉』、『「日月神示」の言葉2』のときと同様です。

 「食べないで死ぬことないぞ。食べるから死ぬのじゃぞ。」

最近は、「食べない人たち」()が、かなり表に出て、多く知られるようになっている。「食べるからこそ死ぬ」ことも、慢性病が異様に拡大した現在、「食」の問題が取りざたされて、頷けることにはなっている。だから、さほど衝撃的というわけではないかもしれないが、強烈に逆説が効いた言葉である。当時としては、受け入れ難いほど、衝撃的な言葉であったに違いない。

現在でも、「食べない人たち」がいるのは知っていても、やはり、普通は「食べなきゃ死ぬだろう」と思っている人の方が圧倒的に多いはずだ。現実に、途上国その他で、「食べられない」が故に、餓死している人も多いのでは、ということにもなるだろう。

しかし、「餓死」というのは、「食べない」ことが直接の原因ではないとも考えられる。たとえば、様々な環境的条件により、免疫系を衰えさせ、感染症を招くなどの理由が考えられる。「食べなければ死ぬ」という、文化的、社会的信念体系の影響も大きい。

とはいえ、私も、誰もが、そう容易く、「食べない人」になれるとも思えない。その意味では、「食べないで死ぬことない」というのは、「本来は」という、本質論上の話というべきものである。

それは、本来は、「誰もが超能力を持っている」というのとも、同じような次元の話で、それはそうでも、現実にそれを発揮する人は、少ないのである。

それにしても、実に、本質的なことを、見事に、さらりと、提示してくれている。

  「悪を食って暮らさねばならん時、近づいたぞ。悪に食われんように、悪を噛んで、よく消化し、浄化してくだされよ。」

これも、「食」に関する言葉。「悪」とは、「捕食者」とした場合、これも非常に逆説に満ちた言葉である。

本来は、「悪」が我々を食うのであるが、我々の方が、「悪」を食って暮らさねばならない時代が近づいたという。悪を「食う」とは、それを、他の神示の言葉に照らして言えば、悪を「抱き参らせる」ということであり、そのうえで、それをよく消化して、受け入れ、「浄化」していくということになろだろう。

とはいえ、本来、「悪」の方こそ、「捕食者」なのであるから、よほど注意して、噛んで食わないと、我々の方が食われてしまうことになりかねない。まあ、「食うか食われるか」というのは、本来の、自然状態では、当たり前のように行われている状況なのではあるが。

しかし、「悪」が我々の食糧源となるのであれば、これほど、食に恵まれた時代もまたとないといえよう。なにしろ、現代では、我々を取り巻く、そこら中が、「悪」であふれ返る状況なのだから。

そして、この「悪」を、皆で目出度く食いつくしたとき、1で述べられたように、我々も、晴れて「食べない人」となることができるのかもしれない。

  「そなたは、つまらんことにいつも心残すから、つまらんことが出てくるのであるぞ。心を残すということは、霊界との繋がりがあることぞ。」

これは、私も、よく経験することであるが故に、少しショックだった。かつては、そんなことはなかったはずだが、最近は、「つまらないこと」に「心を残す」と、ほとんどすぐさま、それが、何らかの形で、「出てきてしまう」ように思う。まるで、時間的猶予のない「カルマ」のようである。

たとえば、『「ハイブリッド」と「集団ストーカー」』という記事でも、「つまらないこと」に囚われて、それに「心を残した」途端、それをつくようにして、「ハイブリッド」と思われる存在に、「つまらない」「絡み」を受けたことを述べた。

「心を残す」ということは、「霊界との繋がりがある」ということで、「つまらない」ことは、「つまらない」(低級な)霊界に通じてしまうのである。そして、その「つまらない」ことをとっかかりにして、彼らの影響を大きく呼び寄せてしまう。その結果、「つまらない」ことが、拡大されて、現実に「出てきてしまう」のである。

まあ、こういうのが「すぐさま」出て来てくれた方が、その原因が自分の「思い」にあることが分かりやすいし、その修正もまた、しやすいことにはなる。

「つまる」ところは、「つまらない」ことに、心を残さないということである。

 

※ ここに、「食べない人」(ブレサリアン)に関する概括的な記事があるので紹介しておきます。

「ブレサリアン」には、心をぶれサリアンされた人も多いかもしれません(笑)。

私も、記事で述べたように、一連の体験中、20日間ほど一切食事をしなかったことがあります。が、これは、あまりにも張りつめた意識状態にあったため、「空腹感」が一切生じなかったのと、食事をとるという余裕(行動意欲)すらなかったことによります。

今思っても、一番つらい時期ではありました。まだ、「霊的なもの」の作用であるという確信も持てず、何がなんだか分からず、いいように振り回されていた時期です。

ただし、一日2箱ほどのタバコと2本ほどの缶コーヒーは必需品でした。「ブレサリアン」ではなく、「ニコチニアン」または「カフェイニアン」ということになりましょうか。いずれにせよ、最強、眞逆の「不健康状態」ですね。

しかし、この「食べない」状態を「理論上は」、続けられ得るということは、このとき十分実感したし、「空腹感」というのも、意識の問題であることを実感しました。

2018年4月 3日 (火)

宇宙人と地球人の「融合プロジェクト」について

宇宙人と地球人の「ハイブリッド」を作り出して、融合させる、「融合プロジェクト」などというのは、いかにも衝撃的に聞こえるものでしょう。

しかし、大分前から、散発的には、宇宙人による誘拐(「アブダクション」)体験者が、退行催眠下で話す話として、持ち上がっていたものです。「宇宙人の子供を妊娠」または「産んだ」などとして、テレビでも、センセーショナルにとり上げられることがあります。また、いくつかのチャネリング情報でも、語られていました。

ところが、最近、アブダクション事例の著名な研究者、デイヴィッド・ジェイコブスの『ヒトが霊長類でなくなる日 』(竹書房 )という本が出て、最近の事例が総合的にまとめられ、「融合プロジェクト」の全容をかなり詳しく浮かび上がらせています。

多くのアブダクション体験者を退行催眠にかけて、持ち上がった話や、自ら体験を思い出して語った人の話をまとめたものですが、かなり具体的で詳細な内容で、全体に共通性や一貫性があり、とても「作り話」などとは言えないものです。何らかの、物理的痕跡が残っている場合もあります。

アブダクション事例だけでなく、宇宙人関連の情報を総合的に判断すると、確かに、いく種かの宇宙人の間で、地球人との「ハイブリッド計画」、さらには「融合プロジェクト」が進められていることは、間違いないと思われます

アブダクション体験者(「アブダクティ)」が語る内容というのは、おおまかにいうと、次のようなものです。

アブダクティは、気がつくとUFOの中の実験台のようなところに寝かされ、宇宙人によって、精子や卵子を採取される。あるいは、単純に性交をされる場合もある。女性の場合、改めて、子宮に「ハイブリッド胚」を挿入され、一定期間後に胎児を取り出される。その後も何度か誘拐され、その胎児を育てるために何らかの役割をさせられる。さらに、成長したハイブリッドが地球人として暮らすために、さまざまな指導をさせられる場合もある。

アブダクティは、こういった出来事の記憶を消される場合が多いですが、何らかのきっかけで思い出したり、退行催眠によって、記憶をよみがえらせることになるのです。

誘拐する「宇宙人」というのは、いわゆる、「グレイタイプ」が多いですが、爬虫類的なレプティリアン、人間とそっくりのヒューマノイドなど、いろいろあります。
また、UFO内では、グレイダイプと似たものや、人間に似たものなど、さまざまなタイプの、また胎児から、大きく成長したものなど、さまざまな段階の「ハイブリッド」を見ています。

本では、この「宇宙人」については、次のようにまとめられています。

人間を誘拐する者たちのほとんどは、UFO内に暮らしている。そのいずれもがホモ・サピエンスと肉体的には似通っているが、その一方では、想像もできないほど強力な顕著に異なる知的能力を有している。彼らは精神感応力(テレパシー)で意思伝達を行う。「神経連動」によって、誘拐者は、恐怖、憎悪、愛情、性的反応といった多岐にわたる感情を引き出すことができる。
 アプダクティのほとんどは、誘拐されるときにはほぼ必ずと言っていいほど、何らかの形で神経連動の影響を受けている。同様に重要な点として、すべてのエイリアンは限られた距離からなら、神経連動なしに人間の思考や行動を操ることもできる。数センチ先から、あるいは額と額をつけながらアプダクティの目をじっとみつめて視神経を固定し、脳内のさまざまな神経部位を刺激することで、人は彼らの意のままにものを見て、考え、行動することになる。このたぐいまれなエイリアンの神経的、テレパシー的能力こそが、人類と彼らを区別する最も重要な要素である。

「神経連動」というのは、近距離で、直接意思により神経を操作することとは別に述べられているので、おそらく、何らかの技術と連動してなされる能力ということなのでしょう。このような「能力」ないし「技術」は、前回の記事でみたような、「ガスライティング」との関連でも重要なものです。

但し、宇宙人は、アブダクティの思考のすべてを読み取れるわけではないこと。アブダクティも、彼らの裏をかくような思考や行動をすることが、ときに可能なことは、指摘されています。つまり、限界はあるということです。

このようにして、作り出された「ハイブリッド」の段階には、先にもみたように、様々なものがあり、初期タイプ、中期タイプ、後期タイプと進むにしたがって、人間と似たものになります。

その最終段階とされる、「ヒューブリッド」について、本では、次のように述べられています。

ヒューブリッド(融合種)は、人類ハイブリッド化計画の最終到達点である。彼らは神経学的な側面を除き、あらゆる点で人間と区別できない。口頭で話したりテレパシーを使ったりして、人間の神経をコントロールできる。彼らの主要な役割はひとつ―それと悟られずに地球で暮らし、社会にうまくなじむことだ。アブダクション計画において、この目標は最後から2番目に重要である。ヒューブリッドは地球生活の諸側面について学習したあとでさえ、人間の生活の複雑さについてことのほか認識が甘いままであり、アブダクティの多大な助けを必要とする。しかし、学習も早く、社会的な複雑さにすぐに適応する。
 わたしは2種類のヒューブリッドを発見している。一人で暮らす「独立型ヒューブリッド」と、アパートメントを2,3人のヒューブリッドとシェアして暮らす集団型ヒューブリッドである。独立型ヒューブリッドが受け持つのは、彼らに人間社会の複雑さを数か月、ときには数年かけて教えるアブダクティである。
……初めのうちはあらゆるヒューブリッドが複雑な社会で生活していくのを助けてくれるアブダクティに依存しているが、社会化するにつれて助力を必要としなくなる。

このように、「ヒューブリッド」も、宇宙人の能力を受け継いで、テレパシー能力や思考、感情を操作する能力をもつようです。しかし、その能力にも限界があることが、次のように述べられています。

平常時のヒューブリッドはひとりの人間しかコントロールできずに、神経的な力の弱いヒューブリッドが一度に複数の人間をコントロールするのは難しいようだ。従って、ヒューブリッドが人間の集団に脅かされるときは、極めて脆弱である。逆に言うと、彼らは結束することにより、その脆弱さが軽減されることを知ってしまった。彼らは神経的なエネルギー資源を集約することで、手に負えない人間をより完璧にコントロールできるのだ。

このようにして、「ヒューブリッド」が、既に人間世界に送り込まれている、というのは、やはり衝撃的であり、信じ難い面もあります。テレパシー能力や思考、感情を操作する能力を受け継いでいるのも、脅威といえば脅威です。

しかし、次回述べるつもりですが、私も、ヒューブリッドに限らず、宇宙人や捕食者のような霊的存在であっても、確かに強力である一方で、そこに「脆弱性」のようなものは、常に感じます。言い換えれば、人間に対して、特にその「暴力性」に対する、かなり根源的な「恐怖」をもっているようだということです。それは、おそらく、我々が、馬や牛などの家畜動物に対してもつものと似ていて、普段従順のようでも、本気で反乱されたら敵わないといったものと思われます。

また、そのような人間に対する恐怖や、距離感のようなものは、まなじっかテレパシー能力や操作能力があるために、増長されているのだと思われます。

先の文では、ヒューブリッドは、人間生活の複雑さになじめずに苦労するが、いずれ適応して、なじんでいくと述べられていました。しかし、それは、言えるとしても、後にみるように、一部の「優秀な者」のみなのであって、多くは、とてもそのように人間世界に入り込めるものではないと思わざるを得ません。また、本でも、彼らの、人間世界になじめない苦労の様子が、ちょうど「自閉症」の人の苦労と似たようなものとして、多くとりあげられています。

私は、とても、これらの存在が、容易に人間世界に入り込めるとは思えないのです。その意味では、「融合計画」をそれほどおそれる必要はないということです。

とはいっても、多くの人は、人間を誘拐して、一方的に、このような計画を実行するなどは、我々としては、とても受け入れ難く、許せないと思うでしょう。実際、ジェイコブスも、この計画の全体を、「邪悪な宇宙人による地球乗っ取り計画」そのものとして捉えています

徐々に、宇宙人と地球人のハイブリッドを人間の世界に入り込ませ、融合させて行き、最終的には、地球そのものを乗っ取ることを目的としているということです。先に、ヒューブリッドを人間社会になじませるのが、「最後から2番目の目標」とされていましたが、最終的な目標は、このような「地球全体の乗っ取り」ということだからです。

目的については、後にみるように、様々なものがあり得るでしょうが、このように、ネガティブな宇宙人による、「邪悪」な意図による「融合プロジェクト」というのは、確かにあるようです。

ところが、一方、「チャネリング」系統の情報でよくいわれるのは、「アブダクション」や、「ハイブリッド」の形成というのは、実は、宇宙的には、太古の昔から、普遍的にある出来事であって、対象である地球人も、魂のレベルでは合意している事項であるということです

たとえば、私自身、初めに、チャネリング情報というものに、みるべき価値があることを認め、自分の一連の体験を顧みるときにも、大きく参照となった、ジーナ・レイク(のチャネルする存在)は、次のように言っています。(『アセンションへの道』ナチュラルスピリット)

混血の育成は、交配に関るETの種族を救うためでもなければ、人類を種族として改良したり救ったりすることが目的なのではありません。この手の交配は広大無辺な宇宙全体で普遍的に行われていることであり、例をあげれば地球の農業の交配と何ら変わるところがありません。
 遺伝子工学は、単に種の学習と進化の一端を担うものであり、それがみじめな失敗に終わる場合もあれば、偉大な発達につながることもあります。遺伝子工学の関係者たちが生命の遺伝子を操作する行為を非倫理的なこととみなさない一方、遺伝子操作という分野へのとり組み方や、研究の成果の利用法によっては、遺伝子操作は非倫理的な行為になると言わざるを得ません。あらゆる種族の科学者というものは好奇心に満ち、探求心にあふれ、学び、発見し、彼らはそれを実験という行為を通じて表現します。彼らはそのような実験を通じて重要な教訓を学び、知識や知恵を発達させていくのです。
 遺伝子操作によって作り出された混血の者は、地球からどこか別の場所に移動させられている場合がほとんどで、地球に残されているのはほんの少数に過ぎません。ですが、この少数の混血の者たちは、地球の大転換に関して大いなる責任を担うことになるでしょう。

変に、地球人にとっての利益を強調したり、自分らの行為を正当化せずに、客観的に、実験的な意味合いであることと、進化上の必然であることを示すのみであるのが、むしろ真実味を感じさせます。

現在、この「ハイブリッド」計画を主に進めているのは、ゼータ星人(いわゆるグレイタイプの宇宙人ですが、実際には、この中のネガティブなタイプが「グレイ」と称されているようです)とされています。彼らとしては、彼らの進化の方向として、感情を排除するということがあり、それが彼らの更なる進化を行き詰まらせたので、地球人の感情的要素を取り入れて、改善するということ。地球人にとっても、ゼータの様々な能力を取り入れることは、進化的に意味があることで、それに魂のレベルで同意する者に、このような計画が実行されているということです。

実は、チャネリングの走りとして有名な、エササニ星人のバシャールも、このようにして形成された「ハイブリッド」というのです。エササニ星自体が、地球人とゼータ星人のハイブリッドによる惑星ということです。といっても、現在の地球の時間からすれば、一つの「未来」であり、可能性としての「パラレルワールド」ということになります。

本にまとめられている体験談も、このゼータ星人によるものが多いようです。ジェイコブスは、全体を邪悪な意図によるものとみているのですが、これには、どうも、邪悪なものとそうでないものが、一緒にされ、混在されているように思われるのです

私も、このような、ハイブリッド計画というものは、にわかには、受け入れ難く、本当に、彼らの言うとおりに、そのままに受け取る気にはなりません。しかし、宇宙人と地球人とが接触する限り、このような「融合」は、起こり得ることと思わざるを得ません。地球上でも、文明と文明が接触して交われば、必然的に、融合ということが起こって来ました。「日本人」というのも、「縄文人」と「弥生人」のハイブリッドということになります。

それ以前に、そもそも、記事『「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-d8e8.html)などでみたように、人間自体が、宇宙人と地球上の類人猿の「ハイブリッド」として創造されたということもあります。もともと、人類が誕生するときに、宇宙人が存在したなら、そのようなことが行われていないとみる方が、無理なのです。そうでなくとも、生命の進化説として、細胞と細胞の「共生説」というのもあります。実際、生命の多様さとは、「ハイブリッド」ということを抜きにしては、考えられないものでしょう。

だから、ハイブリッド計画や融合計画自体が、「邪悪」なものとは、言えないと思います。ただし、事実上、文明と文明が接触し、このような計画が実行されるとき、優位にある方が主導権を握って行われるし、我々としては、いろいろと不利な立場におかれることも、必然と言わなくてはならないでしょう。

我々には、これらの存在との接触自体に、未知の恐怖がつきまとうし、どうしても、これまでの地球上でのあり方を否定され、侵害されているような思いがつきまといます。実際、アブダクション体験者の語りにも、それは反映されています。

ジェイコブスが、計画の全体を邪悪な意図によるものと解するのも、十分の理由があると思います。しかし、やはり、全体として、はっきりと邪悪な意図に出たものと、そうでないものとは、区別する必要があると思います。

実際、ジーナレイクも、ネガティブな宇宙人による、アブダクションやハイブリッド計画もあることが、次のように述べられています。

ネガティブなETによる誘拐は、被誘拐者との魂の合意なしに一方的に行われます。ですが、彼らによる誘拐も被誘拐者の成長に役立つことから、被誘拐者の魂はすくなくとも彼らによる誘拐を黙許しているのです。

「魂の合意」ということ自体、彼らの側の一方的な捉え方によるともいえ、本当だとしても、微妙な問題をはらみます。しかし、「邪悪」かどうかの一つの基準として、この「合意」ということが大きく関るべきなのは、少なくとも納得できることです。

「被誘拐者の魂自体が誘拐を黙許している」という言い方も、微妙ですが、これは、言い換えれば、それ故に、彼ら自体も、ネガティブな存在による誘拐を「黙認」しているということです。

これは、人間でも同じですが、一つの難しい問題として、「自由意思」を尊重するということがあります。他の種族の自由意思が尊重される限り、それが「邪悪」と判断される場合でも、極力、直接的な実力行使による阻止は控えられるべきことになるでしょう。もちろん、一切のルールを排すのでは、混沌とするだけだし、ルールが守られるためには、一定の罰則や実力による阻止も必要になることはあるでしょう。

しかし、この「アブダクション」と「ハイブリッド」計画には、地球人の成長に役立つ、教訓的な意味もあるので、あえて阻止はされていないということです。ただし、同時に、後にみるように、ネガティブな存在のこのような計画が、まともに機能するとは思われてもいない、ということもあるのだと思います。

実は、このようにして、他の存在によって、あえて阻止されていないということは、前回みた「集団ストーカー」戦略についても、言えるはずのことです。が、これについては、次回にみたいと思います。

このように、融合計画については、全体として進化の必然であるとしても、その中には、ネガティブな存在によるものがあるということは、確かのようです

ネガティブな存在の計画は、おそらく、彼らの存在自体の、生き残り計画でもあり、あるいは、彼らも、他の存在による全体としての融合計画を知っているでしょうから、それを阻止したい、彼らの都合のよいものに変えたい、という思いもあるのでしょう。

そして、最終的には、「乗っ取り」を意図しているということも確かにあるのでしょう。しかし、既に何度か述べたように、それが、可能とはとても思われません。

彼らが、人間の世界に入り込むのが、いかに大変かは、アブダクティの語りからも、よく伝わって来ます。先に、「いずれ適応する」と述べられていましたが、これは、ネガティブな存在ではない方のハイブリッドと思われ、しかも、その中でも一部の「優秀」な者について言えることのようです

私自身、次回みるように、そのようなハイブリッドかもしれないものと出会っていますが、やはり、普通に人間世界に適応できるというようなものではないと思われます。まして、彼らが、徐々に人間に取って代わるなどということは、考え難いことです。

但し、一つ、もし、記事『身近に入り込んでいる「宇宙人の技術」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-7e52.html)でみたような、「人間のクローン化」ということが、押し進められていくなら、それは実質上、このようなハイブリッドと変わらない地球人を、多く輩出することになります。そうすると、全体として、人間がハイブリッドに融合して行く地盤ができるということは考えられます。恐らく、彼らとしては、その両者を、狙っているのでしょう。

前回、あくまで「可能性」であり、今後の「展望」といいましたが、このように、わずかではあっても、既に、地球に、地球人として入り込んでいるネガティブな存在との「ハイブリッド」は、いるのかもしれません。

しかし、そのような存在が、とりあえず、人間に向けて、できそうなことと言ったら、これしかありません。それは、前回みたような、「集団ストーカー」戦略にいう「ガスライティング」ということです。

しかし、それについては、次回述べます。

2017年6月 3日 (土)

「シンクロニシティ」と「ビギナーズ・アンラック」

ユングは、初め、「シンクロニシティ」を、めったに起こらない特別なものとしたい傾向があったようだ。が、ユングの弟子が、「シンクロニシティ」は、そもそも内界(精神)と外界(物質)が「共時的」に結びついていることから、起こるのではないかと問うたのに対し、結局は受け入れることになったという。

「シンクロニシティ」が、内界(精神)と外界(物質)が「共時的」に結びついていることによって起こるのであれば、それはそもそも、頻繁に起こっていて何ら不思議のないものとなる。外界の出来事そのものには、因果律が当てはまるとしても、それを内界の「意味」との結びつきとしてみるときには、いくらでも「共時的」に起こり得ることになるからである。

この観点からすれば、いわゆる「運」や「つき」というのも、「シンクロニシティ」の一種となる。「運」や「つき」というものが実際に存在し、それは集約的に、連続して起こりやすいことは、誰もが体験していることのはずである。マージャンやパチンコなどのギャンブル、あるいはスポーツなどの競技に、それは特に顕著に現れる。人生そのものも、一種の賭け事の連続とすれば、「シンクロニシティ」的な「運」や「つき」の集大成ともいえる。

ユングが注目した、「易」というのも、そのような人生の運勢を、「陰陽の相」の「シンクロニシティ」的な現れという観点から、みようとするものである。

ただし、「運」や「つき」には、「マイナス」のものもある。そして、そのような「運」「不運」の「浮き沈み」は、周期的に起こりやすく、全体としてみると、平均化されて、「偶然」の確率に、確かに適っているようにみえることにはなる。しかし、個々の「運」や「つき」に着目する限り、偶然とはとても思えないものである。

この「運」や「つき」については、初心者がやたらと「つきまくる」という、「ビギナーズ・ラック」というものがある。マージャンで言えば、確率を無視して、(両面や多面ではなく)ペンチャンやカンチャンにもっていっているのに、ズボズボと積もって、大きな手ができるとか、傍からは危なくてみてられないような牌を切っても、全然当たらず、自分が積もったり、当たったりするなどのことが、連続して起こることである。これは、ときに、誰も止められない、手のつけられないものともなる。

初心者は、まさに、「シンクロニシティ」的な「運」をもたらしやすいといえる。これには、いくつかの理由が考えられる。

初心者は、始めたばかりなので、興味津津で、いい意味での緊張感をもって、そのゲームに関わり、没頭して楽しんでいる。まだマイナスのイメージがなく、「怖いもの知らず」で、プラスのイメージで、どんどん攻め進むことができる。直感も働きやすく、それに無意識のうちにも従って、滞りなく打つことができる。

要するに、「内界」に「肯定的」な関心と心情が作り出され、それに自然に没入しているので、「外界」の現象としても、それに関連する、「肯定的」な「シンクロニシティ」を引き寄せやすくなっているということである

ただし、初心者も、いつまでもそのような状態にあるわけではない。いずれ、向こう見ずな捨て方から、大きな手に振り込んで、痛い目をみたり、悪い待ち方で、全然積もらずに、やきもきしたりする。「内界」の調子のいい状態も維持できずに、いわゆる「つきのなさ」を、経験することになる。こういった経験から、牌の捨て方や手の進め方も、変えざるを得なくなり、大敗はしない、無難な打ち方になっていく。「初心者」を脱するということである。

しかし、「シンクロニシティ」とは、既にみたように、「プラス」のものばかりではなく、「マイナス」のものも多い。「運のない」こと、「つかない」ことばかりが、連続して起こるということもある。

マージャンでも、マイナスのイメージを持ち始めた頃には、こういうことか起こる。そもそも手配がバラバラ(国士にもっていくには、条件が悪すぎる)、ツモも酷い(待ちが来ず、むしろ崩したペンチャンとかに限って持ってくる)、やっとテンパったかと思えば、当たり牌をつかまされるなど、「不運」の連続を経験する。

そして、「ビキナーズ・ラック」ならぬ、「ビキナーズ・アンラック」というべきものもあるのである。初心者が、やたら「不運」の連続に陥ることだが、これは、
実は、「統合失調状況」とか「集団ストーカー被害」の状況にも顕著なのである。

まずは、「統合失調状況」とか「集団ストーカー被害」の状況は、「シンクロニシティ」が、通常の「運」とか「不運」にも増して起こりやすいことを確認しておく

「統合失調状況」や、それに近い「集団ストーカー被害」の状況では、自己と外界の境界が揺らぎ、内界と外界の区別が曖昧になって、互いに浸透しやすい。つまり、内界と外界の「共時的」な結びつきが、露わになりやすい状況なのである。言い換えると、それまては、「自我」や習慣的なものの見方によって、内界と外界が画然と区別されていて、そのような現象は抑えられ、または起こっても、あまり注目されることがなかった。ところが、そのようなあり方が揺らいで、内界と外界の境界が揺らぐのに伴い、そのような抑制が外れて、一気に「シンクロニシティ」が起こりやすい状況を招いたのである。

さらに、これは、「統合失調状況」に顕著だが、そのような状況では、単に個人的な無意識だけでなく、より深い層にある、「普遍的無意識」が活性化される。つまり、個人に関わるものだけでなく、民族や人類、さらには地球や宇宙といった、個人を超えたものに関わる「シンクロニシティ」をも招きやすくなるのである。つまり、強烈に印象に残る、特別な「シンクロニシティ」をももたらしやすくなる。

「初心者」というのは、ここでは、初めて、そのような「統合失調状況」や、それに近い「集団ストーカー被害」的な状況に入ることを意味している。このような状況は、この感覚的な世界と霊界の境界にまたがることなので、初めて、「霊界の境域」(またはその周辺)に入ることでもある。

そこでは、否定的な、恐怖に満ちた「シンクロニシティ」を、連続的に引き起こしやすいのである。たとえば、自分の内界にあること(思ったこと)が、偶然とは思えない仕方で、人の言動や外界の現象として、現れて出で来るなどのことである。「集団ストーカー被害」にいう、「つきまとい」や「仄めかし」も、ほとんどそういうものである。

これは、まさに、先にみた「ビキナーズ・ラック」とは真逆の事態が、生じているのだといえる。「統合失調状況」といった、自己と外界の境界が揺らぎ、失われる状況、「霊界の境域」といった、未知の状況に、初めて入ることは、非常な混乱と恐れをもたらす。マージャンの場合の、興味津々でウキウキする心情とは全く逆の、混乱と恐れに満ちた心情で、外界と関わるのである。そのような「内界」の心情とそれへの没入は、そもそも「シンクロニシティ」が起こりやすい状況にあって、それに関連する否定的な出来事を、実際に引き寄せやすくする。また、そのような出来事は、悪循環的に、内界の混乱と恐れを拡大し、さらにそれに関連する、外界の出来事を引き寄せる事態も強める。

さらに、このような状況は、「普遍的無意識」を活性化すると言ったが、そのような無意識の深い層の活性化は、同時に、その周辺へと深く抑圧された、個人的な「無意識」をも巻き込むようにして、活性化するのである。そのような無意識とは、過去のトラウマとか思い出したくない記憶、種々のコンプレックス、さらには(前世の)カルマなど、「否定的」なものであるのが普通である。

だから、心情的に、否定的なものを表面にもたらすだけでなく、そこで起こる「シンクロニシティ」も、このようなトラウマやコンプレックス、さらにカルマに関わるものをも誘発する。当然それらは、本人にとって、心に突き刺さるものとなり、さらに否定的な反応をもたらすものともなる。

「ビキナーズ・ラック」というのは、決して長続きせず、いずれ解消してしまうものだった。しかし、このような「ビキナーズ・アンラック」は、本格的な内界と外界の結びつきが露わになっていて、しかも強烈な悪循環を形成しているだけに、容易には解消しない。恐怖や混乱という心情は、肯定的な心情以上にとらわれをもたらしやすいということもある。場合によっては、次の生まで、脱し得ないこともあり得る。

しかし、本来、「シンクロニシティ」とは、肯定的なものであり得るのだし、周期性のあるものて、「ビキナーズラック」と同様に、いずれは解消するものである。さらには、プラスのものに反転する可能性のあるものである。

ただし、これには、混乱や恐怖という内界の反応自体、つまり、この「シンクロニシティ」という現象に対する態度自体が、大きく関わっていることには注意を要する。否定的な「シンクロニシティ」の連続には、否定的な「内界」のあり様が外界に反映されるということが関わっているので、その構造に気づいて、内界のあり様を変えていかなければならないのである。(

あるいは、既にみたように、他の存在による「シンクロニシティの演出」ということもあって、それらは意図的に作出されたものではあるが、やはり、内界の心情と無関係になされるものではない。いわば、内界の心情をとっかかりとして、それに乗っかかるようにして、起こされるものである。それは、たとえ「高次元的な技術」としてなされるものであっても、言えることで、そこは、単純に機械的な、「物理的な技術」とは異なっている。

この点では、「統合失調」的な「迫害妄想」も、「集団ストーカー被害」的な「被害者」という意識も、自分を一方的な「被害」の対象とし、外界の「悪意」の対象としてしかみないので、内界への注目を決定的に阻害している。そのようなことが、つまり、「被害者」という意識自体が、自分を「ビギナーズ・アンラック」の状態に、逃れ難く押しとどめているのも同然なのである

あるいは、無意識の活性化に伴い、トラウマやコンプレックス、カルマなどの否定的な情念が、出てくる以上、否定的なとらわれを生ずるのは致し方ない面がある。しかし、それらも、いずれは出るべきものなのであり、出るべくして出尽くして、いわば「浄化」されれば、それらへのとらわれも減少する。そうなれば、「シンクロニシティ」自体へのとらわれも、大きく減少し、本来の肯定的な「シンクロニシティ」として現れる可能性も増大するのである。

つまりは、「初心者」は脱し得るということであり、以後そのような領域や「シンクロニシティ」と関わるにしても、否定的なものの連続であったり、とらわれを生むようなものである必然性はなくなるのである

※ 「運」や「不運」の「流れ」は、「易」のいう「陰陽の相」などと同様、個人の力ではどうしようもない側面が確かにあるように、こういった否定的な「シンクロニシティ」の流れにも、個人の心のあり様では変えられない面も確かにある。それは、本来は、「集合的なもの」で、個人を超えたものだからである。このような時期には、「周期性」、つまり事態がいずれ好転することを信じて、忍耐強く「待つ」というのも、必要な過ごし方であろう。

しかし、このような状況で、本人において、できることがないわけではない。心のあり様が、ことさら、このような現象を拡大していることは確かなのであり、本人においてできるのは、そのようなものを、できる限り減少していくことしかないのである。

2017年5月20日 (土)

「シンクロニシティ」と出来事の因果的理由

記事『「共時性」と「魔術的因果論」』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2002/12/post-3e8b.html)の、上から5番目のコメントで、「面白いこと」があったとして述べたことは、「シンクロニシティ」の理解にとって重要なヒントになると思うので、まずはその部分を再掲しておきます。

鳥では、最近面白いことがあり、ハクセキレイと思われる白黒の鳥が、図書館の庭の木の下で、飛び上がろうとしては、下降する不思議な動きを繰り返していたので、私は、思わず、心で「飛べるの?」と聞いたのですが、するとその鳥は、いきり立ったように、私の前を横切るようにして、超低空(地上50㎝ほど)を凄いスピードで30mほど飛んで行きました。私は、思わず、心で「おっー!おっー!」と驚きの声をあげてました。「飛べるの?」は、鳥としてのプライドを刺激してしまったようです。こういう、「会話」が成り立っている(かのような)ときは、かなりはっきりと、相手に伝わったというカチッとした感覚があります。

多分、セキレイの生態についてある程度知っている人は、何を言っているんだ、そんなのは「妄想」の典型ではないか、と思ったかもしれません。

確かに、セキレイが木の下で、上がったり下がったりの、不思議な動きをしていたのは、多分餌となる虫を追いかけていたのだろうと思います。そして、超低空飛行で私の目の前をすごい勢いで飛んだのも、その虫が逃げたので、それを追いかけてのことなのでしょう。そのようなことが、ただ私の勝手な思いと重なるようにして、私の目の前で偶然に起こっただけというのが、普通の解釈かもしれません。

しかし、私が、気をもんで、「飛べるの?」と本気でセキレイに問いかけた瞬間、セキレイがそれに反応するかのように、私の目の前を、本当に驚くようなスピードで、猛烈に飛んで行ったのは事実であり、それが私にかなりの衝撃をもたらしたのも事実です。そして、私は、「飛べるの?」との思いが「会話」のように通じたということに関しては、今思っても、(単なる直感ではなく、これまでの多くの経験に照らして)間違いないだろうと感じています。

要するに、これは、私のセキレイへの関心や思い(問いかけ)と、セキレイの私の目の前での凄まじい超低空飛行が、同時的に起こった「シンクロニシティ」であると解せます

セキレイ自体は、あくまで、餌をとるという自分自身の習性に従って、つまり、ちゃんとした因果的な理由があって、低空飛行をしたのですが、それは、私の「飛べるの?」という問いかけに対する、見事な「答え」にも、同時になっているのです。つまり、意味において関連する出来事が、同時的に起こったというこどてす。

繰り返しますが、セキレイの超低空飛行には、それ自体の「因果的な理由」はあるのです。それを、同時に起こった、私の「問いかけ」と因果的に結びつけようとすると、私が問いかけた<から>、超低空飛行をしたとか、私に<見せるために>超低空飛行をしたとなって、「魔術的な因果論」になってしまうのです。要は、多分に「誇大妄想」的な「妄想」になってしまうということです(このコメントを書いた時点では、その傾向がいくらかあったことは、認めざるを得ません)。

これは、多くの「シンクロニシティ」の場合に言えることです。それ自体には、「因果的な理由」がある出来事が、ある「意味」において関連する別の出来事と、同時的に起こることなのであって、それらが、因果的に結びつくことではないのです。ただ、そのことによって、その「意味」が、まさに「意味ある」ものとして浮上するということです。あるいは、その「意味」こそが、その両者の出来事を、同時的に引き寄せたことになります。ただし、その「意味」にも、囚わてしまうようだと、それは多かれ少なかれ、「妄想」的な囚われに近づくことになるでしょう。

「集団ストーカー被害」の場合も、誰かが絶妙なタイミングで自分の近くを通り過ぎるなどの出来事に、まったくこれと同じ解釈がなされているということです。誰かがその者の近くを通り過ぎたのは、その誰か自身にとっては、何かしらの「因果的な理由」(買い物の途上、急いでいて、周りをあまり顧みていない状況など)があってのことで、それは、別にその者(被害者の側)とは何の関係もありません。しかし、それは、その者の関心や思いと、「意味」的には確かに結びつくものになり得るのです。

その者の関心や思いとは、自分は、「ストーカー的なまとわりつき」や「仄めかし」を受けているのではないかという、強い疑いであり、恐怖と怒りの感情を伴ったものです、そして、そのような、内心深くの、情動を伴った、強い思いは、実際に、絶妙なタイミングでの人の通り過ぎなどのことを、意味的に引き寄せて、同時的に起こらしめるものとなり得るということです。

場合によっては、それは本当に頻発し、明らかに偶然では考えられないほどのものともなり得ます(ただし、そこに何らかの存在の「演出」があり得ることも、何度も述べたとおりです)。しかし、そのようなものを、「魔術的因果論」的に、自分の思いと因果的に結びつけて、自分に「まとわりつく」ためにそのようなことをしているのだとか、自分の思考を盗んでいるから、そのようなことができるのだと考えると、「被害的」な「妄想」になってしまうということです。

あるいは、たとえ、それらを因果的に結びつけるまでに至らなくても、そのようなことが起こる「意味」に囚われて、自分を否定的に追い込めば、「妄想」とあまり違わないものになってしまうということです。

 5月22日

 ※ 「集団ストーカー 共時性」で検索してみると、最近は「共時性」に注目している被害者サイトが結構あることが分かる。いい傾向だと思うが、ただ、せっかく「共時性」に注目しているのに、従来の「集団ストーカー」の発想を引きずって、つまり「魔術的因果論」的な発想をしてしまって、自分と強く関係づけた、「被害妄想」的な解釈を脱していないものが多いのは残念と思う。

そんな中、ここ(http://ameblo.jp/un-clober/)は、読んでいてうれしくなった。「被害者」のサイトではあるが、明らかに「被害者」としての発想を脱しつつある。「集ストって奥深いよね」って言えること自体が、既に「集スト」的な囚われを脱しつつあることを示している。

その一番のポイントは、何より、こういった現象を演出する存在が、人間ではあり得ないことを、はっきりと悟ったことである。そして、その人間ではあり得ないことの、明快な理由がはっきりと示されているのもいい。

私も、一連の体験で、心の奥から、私を取り巻く存在が、「人間じゃない!」と叫ぶことがあって、人間ではないことが分かったことにより、最悪の状態を脱して、囚われが少なくなったことを述べた。本来は、そうではあり得ないのに、人間だと思うことから、変な混乱や怒りのようなものも生まれるのである。人間ではないことが分かったからと言って、すぐさま現象から解放されるわけではないが、ある意味の「開き直り」と「探求意欲」も生まれて、否定的な囚われは、減少するのである。

私のように、「統合失調」系(解体型)ではなく、「集団ストーカー被害」そのものの体験を通して、いたった考えであり、同じ「集団ストーカー被害」系の人には、より参考になるものがあると思うので、ぜひ参照してみてほしい。

2017年5月13日 (土)

「シンクロニシティ」とその「演出」

記事『最近のコメントの掲載』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-bff5.html )の、のめーるさんのコメントに対するコメントで、「シンクロニシティ」(共時性)に関して重要なことを述べていますので、まずは再掲しておきます。

よく分かりますし、それは私の考えとも近いものです。
非常に重要なことを指摘されていると思います。

「シンクロニシティ」は、自己の内界と外界が、もともと「共時的」に結びついているために起こることで、本来は、自分自身の「内界」で起こっていることにこそ注目すべき問題です。

ある状況下で、内界にあるものが特別に活性化されると、それに伴い、それと意味的に関連する出来事を、外界にも、同時に引き起こすことがあるということです。この「内界」とは、ユング風にいえば「普遍的無意識」ですが、のめーるさんのいうとおり、「カルマ」の渦巻く領域でもあり、さまざまな情動と結びついています。恐怖などの強い情動は、ますます内界を活性化させ、その恐怖することと関連する出来事を、ますます引き寄せることにもなります。

普段意識されない、そのような領域が活性化され、外界を巻き込むようにして、特別に意識に浮上するので、「シンクロニシティ」には、さまさまな感情的な囚われを生じやすいのです。だから、起こっている「外界」の出来事に振り回されず、自分の「内界」で起こっていることに注目し直すことが重要です。

しかし、「シンクロニシティ」には、さまざまの霊的または高次元的「存在」によって、「演出」された(まさに「仕組まれた」)ものも多いと思います。このような存在は、我々の「内界」と強く結びついているので、「内界」の活性化に絡んで、このような現象を演出しやすいのです。

「シンクロニシティの演出」には、さまざまな場合があり、「天使的」なものや、どうでもよいような取るに足りないものもありますが、否定的なというか、恐怖をもよおすようなものは、確かにアーリマンまたは捕食者的な精霊が「演出」している可能性が高いと思います。高次元的な存在にとっては、「時間」の性質が、この3次元的な領域とは異なるし、人間の心が簡単に読め、操作できるので、そういった「演出」は、簡単なことなのです。さらに、重要なことは、人を操作して、「現実の他人」を巻き込むような形での「演出」も、可能ということです。そこには、「カルマ」的な関わりもあり得ますが
、単に、人と人の間に、不和と軋轢を生み出そうとする戦略に過ぎないこともあるのです。

たから、重要なことは、「みかけ」に騙されて、その現実の他人そのものが「悪意」をもって攻撃を仕掛けているとか、「組織」の一員として仕掛けてきているなどとは思わないことです。「統合失調」の場合も、そう受け取ってしまうことは多いし、「集団ストーカー被害」の場合は、そういう観念が既に「できあがっている」ので、もはやそう解釈してしまうように、誘導されています。

ただ、のめーるさんも、その人間の発すると思えた「声」が「幻聴」であることを経験されているし、あるいは「見て」いたものも「幻覚」である可能性があるわけですが、「統合失調」の場合は、そのように、(内界の)より深い領域で、直接的な形で、アーリマンや捕食者的な精霊の影響を被りやすい状況にあるといえます。それで、混乱も深まり、「解体」または「崩壊」も起こりやすいわけですが、「集団ストーカー被害」の場合は、そこまでいかず、その点はかなり異なるようです。

しかし、共通する要素が多いのは、明らかなことと思います。

「…私に関する悪口が聞こえてきたので
勇気を出して確認したら幻聴に過ぎませんでした。」

直接確かめられるかどうかは、状況にもよるでしょうが、この「確認する」ということが重要です。それで、「声」が、その者自身の発する「物理的な声」でないことが確かめられたので、その人間そのものの悪意ある行為や仕掛けでないことも、確かめられたわけです。

この点は、むしろ「統合失調」の方が、そのような「深み」に陥っている、(のめーるさんのいう、「意識状態が変わって」いる)分、(しっかりと見極めるようにできさえすれば)さまざまに、認識を修正できる材料も多いといえるのです。

「集団ストーカー被害」の場合は、そもそも「霊的な領域」についての認識が欠けているし、起こっていることの「みかけ」に振り回されて、外界のことばかりに意識が行き、それを修正できないということになりやすいと思います。

なお、「シンクロニシティ」に関しては、あくまでも、「意味」において関連する出来事が同時的に起こることなのであって、一方が原因となって他方が結果として起こるのではないことを、確認しておくことも重要です。このような「「非因果的」な発想になじんでいないと、どうしても、それらの出来事を、原因-結果の因果律で結びつけようとしてしまいやすいのです。しかし、そうすると、それは、本来原因と結果で結びつかないものを、無理やり結びつけることで、「魔術的な因果論」となり、「妄想」の元となってしまいます。(記事『「共時性」と「魔術的因果論」 』  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2002/12/post-3e8b.html 参照) ()

たとえば、自分が何々した(何々と思考した)<から>、何々という出来事が起こったという風に、自分の行為や思考を原因として、出来事が起こったとすると、非常に誇大妄想的な発想になります。あるいは、自分の思考を誰か(何かの組織)が盗みみたから、そのような出来事が起こったという風に、被害妄想的な発想の元にもなります。

「シンクロニシティの演出」の場合は、確かに、そのように思考を読まれているからこそ可能な面があるのですが、それは人間を超えた存在だからこそ、可能なことです。

「シンクロニシティ」にも、内界と外界を含みこんだ、より大きな意味では、「原因」というよりも、「原理的な理由」があるとはいえるのですが、それは、個人的なものではなく、「集合的」さらには「宇宙的」なものというべきものです。だから、「個人的に受け取る」のは、適当ではありません。もし受け取るならば、「宇宙」はそういう風に(内界と外界が結びついて)できているとか、「宇宙」が自分の内界を反射するように、反映して見せてくれているとでも思うしかないでしょう。

しかし、「シンクロニシティ」に関しては、実際には偶然の出来事に過ぎないのに、それを関係妄想的に自分と関連づけて、「シンクロニシティ」だと思ってしまうことも、大きな問題です。あるいは、実際に、「シンクロニシティ」が起こってはいるが、それはほんの一部に過ぎないのに、一度そういうことが起こると、起こっている出来事を全部その方向で捉えてしまって、多くが「シンクロニシティ」だと思ってしまうことも、起こります。

そして、そのような出来事に、感情的に囚われてしまって、被害的、迫害的な「妄想」をもったり、それらを「集団ストーカー被害」という、行き渡った類型に当てはめて、解釈してしまうことも起こります。

先にあげたものは、実際に「シンクロニシティ」であることを前提にして、それに囚われないことを述べたものですが、これは、実際には、「シンクロニシティ」ではないものをそう解してしまうことで、「シンクロニシティ」のときと同じような囚われに陥ってしまう問題です。「シンクロニシティ」は、確かに人を混乱させる要素があるので、それがそのように「頻発」するとみなされれぱ、より大きな混乱をもたらすといえます。

「統合失調状況」では、自己と外界の境界が揺らぎ、曖昧になるので、「シンクロニシティ」が起こりやすい反面、実際にはそうでないのに、外界の出来事を自分と関連付けて、関係妄想的な解釈をしてしまうことも起こりやすいのです。そして、それは「集団ストーカー被害」の場合にも、ある程度あてはまるものと思われます。

だから、「シンクロニシティ」が起こっていると判断するには、慎重である必要があります。

実は、このようなものも、「シンクロニシティの演出」と同じくらい、「演出」に利用されるものとなり得ます。というよりも、アーリマンのような存在にとっては、このような錯誤を起こさせることは、実際に「シンクロニシティの演出」を行うこと以上に、重要な戦略なのです。「シンクロニシティの演出」のために、自分でいろいろと手をかけずとも、本人が自ら錯誤に陥って、「妄想」を膨らませてくれるので、こちらの方が、よほど「安上がり」で効果的な戦略といえるからです。

それには、「集団ストーカー被害」のような観念を広めて、他人の行いが、偶然ではなく、意図のあるものと、予期させておくことも重要だし、漠然とでも、何者かに攻撃を被っているかのような、潜在的な恐怖を植え込んでおくことも重要です。しかし、最も効果的なのは、一度でも、実際に、(かなり強烈な形の)「シンクロニシティ」を「演出」して、仕掛けておくことです。そうすれば、既に述べたように、実際には偶然である、他人の行いの多くも、「シンクロニシティ」と捉えて、囚われを膨らませてくれるのです。

いずれにしても、「シンクロニシティ」そのものに囚われないようにすれば、こういった「演出」にも囚われないことができるので、「シンクロシニティ」についてよく知っておくことは重要です。

※ こちらの記事でも、今回の記事を補足する、重要なコメントを述べていますので、再掲しておくことにします(一部抜粋)。

本当に、「統合失調的状況」というのは、このような「共時性」の宝庫だと思います。ほとんど起こることすべてに、「意味」があるように感じられます。それも、自分に関連した、「意味」です。だから、本当は、「関係妄想」をもつな、という方が難しいので、それを「あえて」共時性なのだと捉えることで、「妄想」を膨らませることを抑える必要があると思います。「統合失調的状況」においては、「共時性」が頻繁に起こることは、知っておかなくてはならない事実になるべきです。

私も、自分の思ったことが、テレビや新聞、通りがかりの人の話などに、即座に出て来るというのを体験しましたが、これなどは、自分の思考がつつ抜けているとか、盗聴されているなどという「妄想」に結びつきやすいので、特に注意が必要です。

最近の、「集団ストーカー」というのも、単なる「偶然」ではないとすれば、ほとんどこのような「共時性」によっていると思います。

「共時性」というのは、状況に陥ることによって、突然現れ出るのではなく、もともと、「すべて」は「共時的」につながっているが、日常的には、自我によって、外界と切り離されているという強い「感覚」があるために、普段は、露わにならないだけのものです。それが、状況に陥って、自我が揺らぎ、境界が不明確になったときに、突然現れ出たかのように、浮上するのだと思います。それまで、自己と切り離されていたはずの外界が、突然、自己と連続するかのように、つながりを感じられるため、そこで起こることが、一々、自己と「関係」するように意識されるのです。

ただ、そのことに、特別の「意味」をみようとするのは、不安定になった「自我」が、自己を補強するために望むことで、「妄想」のもとになると思います。このような、「未知」の状況が露わになっているときに、特別の「意味」をみないで、起こることを冷静に受け止めることは、難しいことですが、結局は、それしか手立てはないのだと思います。

2017年4月13日 (木)

「神一厘の経綸」について

前回みたように、「大日月地神示」は、霊界では、「神一厘の経綸」が既になされて、「悪の総大将」が降参し、今後は「ミロクの世」にいたることが確定したという。このことこそが、この神示が伝える最大のポイントなので、少しコメントしておきたい。

「悪の支配する世」となることが、9分9厘まで達成されて、覆しようのないところまで行ったそのときに、「神」による「グレンとひっくり返る」「経綸」がなされるというので、「神一厘の経綸」という。

「ミロクの世」とは、「金銭や物質的価値」で社会が治まる「悪の世」が終わり、人々が「愛と喜び」に満ちて、互いに奉仕する、「ユートピア」的な世となるということである。

さらに「日月神示」では、物質的世界が超えられて、「半霊半物質」の世界となることがいわれているし、「大日月地神示」では、「悪」など微塵も存在しない、「創造」の「元の元の世界」に戻ることがいわれている。

前回もみたように、これは、あくまで、この世の型となる「霊界」での「事実」であって、それがこの世にどのように反映されるか、いつ反映されるかは、この世の人や霊人のあり方次第ということになる。

「神示」は、「悪の仕組み」について、繰り返し語っているが、それは、この世では、「隠れたる悪魔」はまだまだ多く、その「悪の仕組み」が全うされるべく、これから本格化するので、それに搦めとられないように、という意図からである。

たとえば、「神示」には、

「オロシヤ(ロシア)もそろそろ大きく動くぞ。覚悟いたせよ。食う物貯えよ。無くなってゆくぞ。」とか、「メリカ(アメリカ)も変わるぞ。無くなるぞ。」

という言葉もある。まさに、現在の社会情勢そのままを映し取るかのような言葉であ.る。やはり、このような終末的な様相は、避けられないもののようである。

ただ、「悪の総大将」は既に降参して、これに関われないので、人や霊人は、「悪の仕組み」を理解して、自らを縛っている、その「悪の洗脳」をいかに解いていくかが、「改心」のポイントとされる。もはや、「悪との戦い」というよりも、「自分との戦い」ということである。

「神示」の源は、「悪」の親でもある、「元の元の神」(創造の神)を含む大霊団ということで、「悪」について非常に詳しいのが特徴である。しかし、反面、そのような「悪」の存在しない、「元の元の世界」をよく知るものでもあり、悪の「大あがき」の後も、最終的には、そこに戻ることを、宣言しているのである。

私も、一連の体験においては、「人間」を舞台にして、いかに「善と悪の戦い」が行われているかを、いやというほど目にした訳だが、これは、逆に、今の社会の「悪」というものが、いかにその結果としての「反映」であるかを、思い知らされるものともなった。それは、人間の「悪」というものが、取るに足りないという意味ではなく、それを無意味にするほどに、人間を超えた「悪」の影響力は強大ということである。

なので、霊界での「善と悪の戦い」が、「善」の勝利で終わるとするなら、今の社会の「悪」というものが、大きく変わること自体は、必然のことである。もちろん、それで、人のあり方が、すく様変わるわけではないが、「悪」の影響を受けなくなるだけで、大きな違いが生じるのである。

そして、記事でも何度か述べたように、私と関わった時点でも、「悪」の「限界」は、如実に感じ取られ、既に「たそがれ」てすらいたので、「善と悪の戦い」の結果が、「善の勝利」で終わること自体も、自然と受け入れられる。

だから、現在の状況とは相容れないようにみえても、いつかとか、どの程度かということはおいて、基本的に、その状況が終わり、「ミロクの世」に向けて、世界が変わっていくこと自体は、頷けるのである。

さらに、その後の、「半霊半物質」の世界へと移るということ(いわゆる「アセンション」=「次元上昇」)、「悪」の存在しない、「創造」の「元の元の世界」に戻るということも、大枠の流れとしては、頷ける。

しかし、たとえそれを受け入れたとしても、恐らく、多くの人が疑問に思うのは、それなら、なぜ「悪」などというものが創造されなければならなかったのか、ということであろう。

「神示」では、「悪のお役目」ということで、むしろ「悪」こそが、我々を鍛え、成長させたのであることを強調している(※1)。そして、今回の「経綸」も、「悪」を「排除」するのではなく、悪をも「抱き参らせる」のであり、そのような「役目」を終わらせ、「悪」をも「改心」させて、共に元に戻ることを意味している

私も、「悪」との関わりによってこそ、いかに多くを教えられ、成長させられたかを痛感するので、このことも、大枠として頷ける。

ただ、これは、「創造」の「元の元の世界」では、「悪」はなく、初めはよかったかもしれないが、それでは結局は、停滞を来たすようになり、立ち行かなくなったということを意味している。それで、「悪」を作る必要に迫られ、その状態に変化がもたらされるとともに、「悪」から学ぶことで、その停滞を超える可能性も生じたということである。

ただし、もし、そのような「悪」から学んだ結果として、いずれは、「元の元の世界」に戻ることができたとした場合、それは、もともと存在した、「悪」以前の「元の元の世界」、結局は停滞をもたらしてしまった世界と、異なることになるのだろうか。

それには、二つの可能性があると思う。
一つは、「悪」を知らずにいる世界とは本質的に異なって、「悪」を知ったうえで、それを超えて至りついた世界なので、神示も言うように、「いやさか」に栄える「永遠の世界」となる。

二つは、初めは、そのように思われたとしても、その状態が永遠に続くという保証はなく、いずれは停滞をもたらすことになり、結局は、「悪」を必要として、同じことを繰り返すはめになる。

いつとるとも知れぬ、「とらぬ狸の皮」に、「思わぬ欠陥があるのではないか」と、訝るような話だが、私は、後者である可能性が高いと思う。その点は、神示を大枠で受け入れつつも、疑問に思ってしまう点だ(※2)。

まあ、今回の話は、「今現在」の問題からは、大きくかけ離れた、「夢想的」な話として受け取ってもらって構わない。現実的には、前回もみたように、「現在」の「悪の仕組み」をいかに脱し、超えていくかということこそが、重大な問題なのだから。

※1 これに関わる神示をいくつかあげておく。

「魔物もこれまでご苦労であったなあ。そなたらがおったゆえに、霊、人ともに学び変わって来れたのであるぞ。」

「まだまだマコトの悪魔遣うぞ。悪魔も人苦しめる大事なお役目であるから、活かしておるのぞ。悪魔に魅入られるのは、それだけの因果そなたの腹にあるからぞ。とことん苦しまねば変われぬ者多いから、悪魔も喜ぶのぞ。」

「悪の中に隠しておるのぞ。悪も善も神の目からは無いのであるが、人民の目からはあるのであるぞ。必要であるのぞ。」

「悪の中に隠してあるとは、悪の心を理解いたし因果悟らねば、神心、掴めぬのじゃ。」

※2 4月29日

 この「疑問」について、一言で言うなら、「神示」もまた、シュタイナーなどと同様に、「霊的進化」という「水平的方向」についてのみを語り、「虚無」という「垂直的方向」についての視点には欠けている、ということである。それこそが、たとえそのような「進化」が達成されたとしても、いずれその「虚無」からの圧力を受けて、それが永遠の状態として完結するなどとは思わせないことの理由となっている。

しかし、「神示」の霊団が、本当に「垂直的方向」の視点を欠いているわけではないと私は思う。それは、いわば今の段階では、まったく「隠されている」のであり、今の段階で確かに必要とも思われる「神一厘の経綸」をも超えた、本当の「隠しごと」なのである。そして、それを解くヒントをあげるなら、それは、記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-3e86.html )、『「神」も「解離」する!? 』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-b513.html)で述べた、ブルース・モーエンの「創造の物語」にあると思う。

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