精神世界

2017年6月 3日 (土)

「シンクロニシティ」と「ビギナーズ・アンラック」

ユングは、初め、「シンクロニシティ」を、めったに起こらない特別なものとしたい傾向があったようだ。が、ユングの弟子が、「シンクロニシティ」は、そもそも内界(精神)と外界(物質)が「共時的」に結びついていることから、起こるのではないかと問うたのに対し、結局は受け入れることになったという。

「シンクロニシティ」が、内界(精神)と外界(物質)が「共時的」に結びついていることによって起こるのであれば、それはそもそも、頻繁に起こっていて何ら不思議のないものとなる。外界の出来事そのものには、因果律が当てはまるとしても、それを内界の「意味」との結びつきとしてみるときには、いくらでも「共時的」に起こり得ることになるからである。

この観点からすれば、いわゆる「運」や「つき」というのも、「シンクロニシティ」の一種となる。「運」や「つき」というものが実際に存在し、それは集約的に、連続して起こりやすいことは、誰もが体験していることのはずである。マージャンやパチンコなどのギャンブル、あるいはスポーツなどの競技に、それは特に顕著に現れる。人生そのものも、一種の賭け事の連続とすれば、「シンクロニシティ」的な「運」や「つき」の集大成ともいえる。

ユングが注目した、「易」というのも、そのような人生の運勢を、「陰陽の相」の「シンクロニシティ」的な現れという観点から、みようとするものである。

ただし、「運」や「つき」には、「マイナス」のものもある。そして、そのような「運」「不運」の「浮き沈み」は、周期的に起こりやすく、全体としてみると、平均化されて、「偶然」の確率に、確かに適っているようにみえることにはなる。しかし、個々の「運」や「つき」に着目する限り、偶然とはとても思えないものである。

この「運」や「つき」については、初心者がやたらと「つきまくる」という、「ビギナーズ・ラック」というものがある。マージャンで言えば、確率を無視して、(両面や多面ではなく)ペンチャンやカンチャンにもっていっているのに、ズボズボと積もって、大きな手ができるとか、傍からは危なくてみてられないような牌を切っても、全然当たらず、自分が積もったり、当たったりするなどのことが、連続して起こることである。これは、ときに、誰も止められない、手のつけられないものともなる。

初心者は、まさに、「シンクロニシティ」的な「運」をもたらしやすいといえる。これには、いくつかの理由が考えられる。

初心者は、始めたばかりなので、興味津津で、いい意味での緊張感をもって、そのゲームに関わり、没頭して楽しんでいる。まだマイナスのイメージがなく、「怖いもの知らず」で、プラスのイメージで、どんどん攻め進むことができる。直感も働きやすく、それに無意識のうちにも従って、滞りなく打つことができる。

要するに、「内界」に「肯定的」な関心と心情が作り出され、それに自然に没入しているので、「外界」の現象としても、それに関連する、「肯定的」な「シンクロニシティ」を引き寄せやすくなっているということである

ただし、初心者も、いつまでもそのような状態にあるわけではない。いずれ、向こう見ずな捨て方から、大きな手に振り込んで、痛い目をみたり、悪い待ち方で、全然積もらずに、やきもきしたりする。「内界」の調子のいい状態も維持できずに、いわゆる「つきのなさ」を、経験することになる。こういった経験から、牌の捨て方や手の進め方も、変えざるを得なくなり、大敗はしない、無難な打ち方になっていく。「初心者」を脱するということである。

しかし、「シンクロニシティ」とは、既にみたように、「プラス」のものばかりではなく、「マイナス」のものも多い。「運のない」こと、「つかない」ことばかりが、連続して起こるということもある。

マージャンでも、マイナスのイメージを持ち始めた頃には、こういうことか起こる。そもそも手配がバラバラ(国士にもっていくには、条件が悪すぎる)、ツモも酷い(待ちが来ず、むしろ崩したペンチャンとかに限って持ってくる)、やっとテンパったかと思えば、当たり牌をつかまされるなど、「不運」の連続を経験する。

そして、「ビキナーズ・ラック」ならぬ、「ビキナーズ・アンラック」というべきものもあるのである。初心者が、やたら「不運」の連続に陥ることだが、これは、
実は、「統合失調状況」とか「集団ストーカー被害」の状況にも顕著なのである。

まずは、「統合失調状況」とか「集団ストーカー被害」の状況は、「シンクロニシティ」が、通常の「運」とか「不運」にも増して起こりやすいことを確認しておく

「統合失調状況」や、それに近い「集団ストーカー被害」の状況では、自己と外界の境界が揺らぎ、内界と外界の区別が曖昧になって、互いに浸透しやすい。つまり、内界と外界の「共時的」な結びつきが、露わになりやすい状況なのである。言い換えると、それまては、「自我」や習慣的なものの見方によって、内界と外界が画然と区別されていて、そのような現象は抑えられ、または起こっても、あまり注目されることがなかった。ところが、そのようなあり方が揺らいで、内界と外界の境界が揺らぐのに伴い、そのような抑制が外れて、一気に「シンクロニシティ」が起こりやすい状況を招いたのである。

さらに、これは、「統合失調状況」に顕著だが、そのような状況では、単に個人的な無意識だけでなく、より深い層にある、「普遍的無意識」が活性化される。つまり、個人に関わるものだけでなく、民族や人類、さらには地球や宇宙といった、個人を超えたものに関わる「シンクロニシティ」をも招きやすくなるのである。つまり、強烈に印象に残る、特別な「シンクロニシティ」をももたらしやすくなる。

「初心者」というのは、ここでは、初めて、そのような「統合失調状況」や、それに近い「集団ストーカー被害」的な状況に入ることを意味している。このような状況は、この感覚的な世界と霊界の境界にまたがることなので、初めて、「霊界の境域」(またはその周辺)に入ることでもある。

そこでは、否定的な、恐怖に満ちた「シンクロニシティ」を、連続的に引き起こしやすいのである。たとえば、自分の内界にあること(思ったこと)が、偶然とは思えない仕方で、人の言動や外界の現象として、現れて出で来るなどのことである。「集団ストーカー被害」にいう、「つきまとい」や「仄めかし」も、ほとんどそういうものである。

これは、まさに、先にみた「ビキナーズ・ラック」とは真逆の事態が、生じているのだといえる。「統合失調状況」といった、自己と外界の境界が揺らぎ、失われる状況、「霊界の境域」といった、未知の状況に、初めて入ることは、非常な混乱と恐れをもたらす。マージャンの場合の、興味津々でウキウキする心情とは全く逆の、混乱と恐れに満ちた心情で、外界と関わるのである。そのような「内界」の心情とそれへの没入は、そもそも「シンクロニシティ」が起こりやすい状況にあって、それに関連する否定的な出来事を、実際に引き寄せやすくする。また、そのような出来事は、悪循環的に、内界の混乱と恐れを拡大し、さらにそれに関連する、外界の出来事を引き寄せる事態も強める。

さらに、このような状況は、「普遍的無意識」を活性化すると言ったが、そのような無意識の深い層の活性化は、同時に、その周辺へと深く抑圧された、個人的な「無意識」をも巻き込むようにして、活性化するのである。そのような無意識とは、過去のトラウマとか思い出したくない記憶、種々のコンプレックス、さらには(前世の)カルマなど、「否定的」なものであるのが普通である。

だから、心情的に、否定的なものを表面にもたらすだけでなく、そこで起こる「シンクロニシティ」も、このようなトラウマやコンプレックス、さらにカルマに関わるものをも誘発する。当然それらは、本人にとって、心に突き刺さるものとなり、さらに否定的な反応をもたらすものともなる。

「ビキナーズ・ラック」というのは、決して長続きせず、いずれ解消してしまうものだった。しかし、このような「ビキナーズ・アンラック」は、本格的な内界と外界の結びつきが露わになっていて、しかも強烈な悪循環を形成しているだけに、容易には解消しない。恐怖や混乱という心情は、肯定的な心情以上にとらわれをもたらしやすいということもある。場合によっては、次の生まで、脱し得ないこともあり得る。

しかし、本来、「シンクロニシティ」とは、肯定的なものであり得るのだし、周期性のあるものて、「ビキナーズラック」と同様に、いずれは解消するものである。さらには、プラスのものに反転する可能性のあるものである。

ただし、これには、混乱や恐怖という内界の反応自体、つまり、この「シンクロニシティ」という現象に対する態度自体が、大きく関わっていることには注意を要する。否定的な「シンクロニシティ」の連続には、否定的な「内界」のあり様が外界に反映されるということが関わっているので、その構造に気づいて、内界のあり様を変えていかなければならないのである。(

あるいは、既にみたように、他の存在による「シンクロニシティの演出」ということもあって、それらは意図的に作出されたものではあるが、やはり、内界の心情と無関係になされるものではない。いわば、内界の心情をとっかかりとして、それに乗っかかるようにして、起こされるものである。それは、たとえ「高次元的な技術」としてなされるものであっても、言えることで、そこは、単純に機械的な、「物理的な技術」とは異なっている。

この点では、「統合失調」的な「迫害妄想」も、「集団ストーカー被害」的な「被害者」という意識も、自分を一方的な「被害」の対象とし、外界の「悪意」の対象としてしかみないので、内界への注目を決定的に阻害している。そのようなことが、つまり、「被害者」という意識自体が、自分を「ビギナーズ・アンラック」の状態に、逃れ難く押しとどめているのも同然なのである

あるいは、無意識の活性化に伴い、トラウマやコンプレックス、カルマなどの否定的な情念が、出てくる以上、否定的なとらわれを生ずるのは致し方ない面がある。しかし、それらも、いずれは出るべきものなのであり、出るべくして出尽くして、いわば「浄化」されれば、それらへのとらわれも減少する。そうなれば、「シンクロニシティ」自体へのとらわれも、大きく減少し、本来の肯定的な「シンクロニシティ」として現れる可能性も増大するのである。

つまりは、「初心者」は脱し得るということであり、以後そのような領域や「シンクロニシティ」と関わるにしても、否定的なものの連続であったり、とらわれを生むようなものである必然性はなくなるのである

※ 「運」や「不運」の「流れ」は、「易」のいう「陰陽の相」などと同様、個人の力ではどうしようもない側面が確かにあるように、こういった否定的な「シンクロニシティ」の流れにも、個人の心のあり様では変えられない面も確かにある。それは、本来は、「集合的なもの」で、個人を超えたものだからである。このような時期には、「周期性」、つまり事態がいずれ好転することを信じて、忍耐強く「待つ」というのも、必要な過ごし方であろう。

しかし、このような状況で、本人において、できることがないわけではない。心のあり様が、ことさら、このような現象を拡大していることは確かなのであり、本人においてできるのは、そのようなものを、できる限り減少していくことしかないのである。

2017年5月20日 (土)

「シンクロニシティ」と出来事の因果的理由

記事『「共時性」と「魔術的因果論」』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2002/12/post-3e8b.html)の、上から5番目のコメントで、「面白いこと」があったとして述べたことは、「シンクロニシティ」の理解にとって重要なヒントになると思うので、まずはその部分を再掲しておきます。

鳥では、最近面白いことがあり、ハクセキレイと思われる白黒の鳥が、図書館の庭の木の下で、飛び上がろうとしては、下降する不思議な動きを繰り返していたので、私は、思わず、心で「飛べるの?」と聞いたのですが、するとその鳥は、いきり立ったように、私の前を横切るようにして、超低空(地上50㎝ほど)を凄いスピードで30mほど飛んで行きました。私は、思わず、心で「おっー!おっー!」と驚きの声をあげてました。「飛べるの?」は、鳥としてのプライドを刺激してしまったようです。こういう、「会話」が成り立っている(かのような)ときは、かなりはっきりと、相手に伝わったというカチッとした感覚があります。

多分、セキレイの生態についてある程度知っている人は、何を言っているんだ、そんなのは「妄想」の典型ではないか、と思ったかもしれません。

確かに、セキレイが木の下で、上がったり下がったりの、不思議な動きをしていたのは、多分餌となる虫を追いかけていたのだろうと思います。そして、超低空飛行で私の目の前をすごい勢いで飛んだのも、その虫が逃げたので、それを追いかけてのことなのでしょう。そのようなことが、ただ私の勝手な思いと重なるようにして、私の目の前で偶然に起こっただけというのが、普通の解釈かもしれません。

しかし、私が、気をもんで、「飛べるの?」と本気でセキレイに問いかけた瞬間、セキレイがそれに反応するかのように、私の目の前を、本当に驚くようなスピードで、猛烈に飛んで行ったのは事実であり、それが私にかなりの衝撃をもたらしたのも事実です。そして、私は、「飛べるの?」との思いが「会話」のように通じたということに関しては、今思っても、(単なる直感ではなく、これまでの多くの経験に照らして)間違いないだろうと感じています。

要するに、これは、私のセキレイへの関心や思い(問いかけ)と、セキレイの私の目の前での凄まじい超低空飛行が、同時的に起こった「シンクロニシティ」であると解せます

セキレイ自体は、あくまで、餌をとるという自分自身の習性に従って、つまり、ちゃんとした因果的な理由があって、低空飛行をしたのですが、それは、私の「飛べるの?」という問いかけに対する、見事な「答え」にも、同時になっているのです。つまり、意味において関連する出来事が、同時的に起こったというこどてす。

繰り返しますが、セキレイの超低空飛行には、それ自体の「因果的な理由」はあるのです。それを、同時に起こった、私の「問いかけ」と因果的に結びつけようとすると、私が問いかけた<から>、超低空飛行をしたとか、私に<見せるために>超低空飛行をしたとなって、「魔術的な因果論」になってしまうのです。要は、多分に「誇大妄想」的な「妄想」になってしまうということです(このコメントを書いた時点では、その傾向がいくらかあったことは、認めざるを得ません)。

これは、多くの「シンクロニシティ」の場合に言えることです。それ自体には、「因果的な理由」がある出来事が、ある「意味」において関連する別の出来事と、同時的に起こることなのであって、それらが、因果的に結びつくことではないのです。ただ、そのことによって、その「意味」が、まさに「意味ある」ものとして浮上するということです。あるいは、その「意味」こそが、その両者の出来事を、同時的に引き寄せたことになります。ただし、その「意味」にも、囚わてしまうようだと、それは多かれ少なかれ、「妄想」的な囚われに近づくことになるでしょう。

「集団ストーカー被害」の場合も、誰かが絶妙なタイミングで自分の近くを通り過ぎるなどの出来事に、まったくこれと同じ解釈がなされているということです。誰かがその者の近くを通り過ぎたのは、その誰か自身にとっては、何かしらの「因果的な理由」(買い物の途上、急いでいて、周りをあまり顧みていない状況など)があってのことで、それは、別にその者(被害者の側)とは何の関係もありません。しかし、それは、その者の関心や思いと、「意味」的には確かに結びつくものになり得るのです。

その者の関心や思いとは、自分は、「ストーカー的なまとわりつき」や「仄めかし」を受けているのではないかという、強い疑いであり、恐怖と怒りの感情を伴ったものです、そして、そのような、内心深くの、情動を伴った、強い思いは、実際に、絶妙なタイミングでの人の通り過ぎなどのことを、意味的に引き寄せて、同時的に起こらしめるものとなり得るということです。

場合によっては、それは本当に頻発し、明らかに偶然では考えられないほどのものともなり得ます(ただし、そこに何らかの存在の「演出」があり得ることも、何度も述べたとおりです)。しかし、そのようなものを、「魔術的因果論」的に、自分の思いと因果的に結びつけて、自分に「まとわりつく」ためにそのようなことをしているのだとか、自分の思考を盗んでいるから、そのようなことができるのだと考えると、「被害的」な「妄想」になってしまうということです。

あるいは、たとえ、それらを因果的に結びつけるまでに至らなくても、そのようなことが起こる「意味」に囚われて、自分を否定的に追い込めば、「妄想」とあまり違わないものになってしまうということです。

 5月22日

 ※ 「集団ストーカー 共時性」で検索してみると、最近は「共時性」に注目している被害者サイトが結構あることが分かる。いい傾向だと思うが、ただ、せっかく「共時性」に注目しているのに、従来の「集団ストーカー」の発想を引きずって、つまり「魔術的因果論」的な発想をしてしまって、自分と強く関係づけた、「被害妄想」的な解釈を脱していないものが多いのは残念と思う。

そんな中、ここ(http://ameblo.jp/un-clober/)は、読んでいてうれしくなった。「被害者」のサイトではあるが、明らかに「被害者」としての発想を脱しつつある。「集ストって奥深いよね」って言えること自体が、既に「集スト」的な囚われを脱しつつあることを示している。

その一番のポイントは、何より、こういった現象を演出する存在が、人間ではあり得ないことを、はっきりと悟ったことである。そして、その人間ではあり得ないことの、明快な理由がはっきりと示されているのもいい。

私も、一連の体験で、心の奥から、私を取り巻く存在が、「人間じゃない!」と叫ぶことがあって、人間ではないことが分かったことにより、最悪の状態を脱して、囚われが少なくなったことを述べた。本来は、そうではあり得ないのに、人間だと思うことから、変な混乱や怒りのようなものも生まれるのである。人間ではないことが分かったからと言って、すぐさま現象から解放されるわけではないが、ある意味の「開き直り」と「探求意欲」も生まれて、否定的な囚われは、減少するのである。

私のように、「統合失調」系(解体型)ではなく、「集団ストーカー被害」そのものの体験を通して、いたった考えであり、同じ「集団ストーカー被害」系の人には、より参考になるものがあると思うので、ぜひ参照してみてほしい。

2017年5月13日 (土)

「シンクロニシティ」とその「演出」

記事『最近のコメントの掲載』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-bff5.html )の、のめーるさんのコメントに対するコメントで、「シンクロニシティ」(共時性)に関して重要なことを述べていますので、まずは再掲しておきます。

よく分かりますし、それは私の考えとも近いものです。
非常に重要なことを指摘されていると思います。

「シンクロニシティ」は、自己の内界と外界が、もともと「共時的」に結びついているために起こることで、本来は、自分自身の「内界」で起こっていることにこそ注目すべき問題です。

ある状況下で、内界にあるものが特別に活性化されると、それに伴い、それと意味的に関連する出来事を、外界にも、同時に引き起こすことがあるということです。この「内界」とは、ユング風にいえば「普遍的無意識」ですが、のめーるさんのいうとおり、「カルマ」の渦巻く領域でもあり、さまざまな情動と結びついています。恐怖などの強い情動は、ますます内界を活性化させ、その恐怖することと関連する出来事を、ますます引き寄せることにもなります。

普段意識されない、そのような領域が活性化され、外界を巻き込むようにして、特別に意識に浮上するので、「シンクロニシティ」には、さまさまな感情的な囚われを生じやすいのです。だから、起こっている「外界」の出来事に振り回されず、自分の「内界」で起こっていることに注目し直すことが重要です。

しかし、「シンクロニシティ」には、さまざまの霊的または高次元的「存在」によって、「演出」された(まさに「仕組まれた」)ものも多いと思います。このような存在は、我々の「内界」と強く結びついているので、「内界」の活性化に絡んで、このような現象を演出しやすいのです。

「シンクロニシティの演出」には、さまざまな場合があり、「天使的」なものや、どうでもよいような取るに足りないものもありますが、否定的なというか、恐怖をもよおすようなものは、確かにアーリマンまたは捕食者的な精霊が「演出」している可能性が高いと思います。高次元的な存在にとっては、「時間」の性質が、この3次元的な領域とは異なるし、人間の心が簡単に読め、操作できるので、そういった「演出」は、簡単なことなのです。さらに、重要なことは、人を操作して、「現実の他人」を巻き込むような形での「演出」も、可能ということです。そこには、「カルマ」的な関わりもあり得ますが
、単に、人と人の間に、不和と軋轢を生み出そうとする戦略に過ぎないこともあるのです。

たから、重要なことは、「みかけ」に騙されて、その現実の他人そのものが「悪意」をもって攻撃を仕掛けているとか、「組織」の一員として仕掛けてきているなどとは思わないことです。「統合失調」の場合も、そう受け取ってしまうことは多いし、「集団ストーカー被害」の場合は、そういう観念が既に「できあがっている」ので、もはやそう解釈してしまうように、誘導されています。

ただ、のめーるさんも、その人間の発すると思えた「声」が「幻聴」であることを経験されているし、あるいは「見て」いたものも「幻覚」である可能性があるわけですが、「統合失調」の場合は、そのように、(内界の)より深い領域で、直接的な形で、アーリマンや捕食者的な精霊の影響を被りやすい状況にあるといえます。それで、混乱も深まり、「解体」または「崩壊」も起こりやすいわけですが、「集団ストーカー被害」の場合は、そこまでいかず、その点はかなり異なるようです。

しかし、共通する要素が多いのは、明らかなことと思います。

「…私に関する悪口が聞こえてきたので
勇気を出して確認したら幻聴に過ぎませんでした。」

直接確かめられるかどうかは、状況にもよるでしょうが、この「確認する」ということが重要です。それで、「声」が、その者自身の発する「物理的な声」でないことが確かめられたので、その人間そのものの悪意ある行為や仕掛けでないことも、確かめられたわけです。

この点は、むしろ「統合失調」の方が、そのような「深み」に陥っている、(のめーるさんのいう、「意識状態が変わって」いる)分、(しっかりと見極めるようにできさえすれば)さまざまに、認識を修正できる材料も多いといえるのです。

「集団ストーカー被害」の場合は、そもそも「霊的な領域」についての認識が欠けているし、起こっていることの「みかけ」に振り回されて、外界のことばかりに意識が行き、それを修正できないということになりやすいと思います。

なお、「シンクロニシティ」に関しては、あくまでも、「意味」において関連する出来事が同時的に起こることなのであって、一方が原因となって他方が結果として起こるのではないことを、確認しておくことも重要です。このような「「非因果的」な発想になじんでいないと、どうしても、それらの出来事を、原因-結果の因果律で結びつけようとしてしまいやすいのです。しかし、そうすると、それは、本来原因と結果で結びつかないものを、無理やり結びつけることで、「魔術的な因果論」となり、「妄想」の元となってしまいます。(記事『「共時性」と「魔術的因果論」 』  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2002/12/post-3e8b.html 参照) ()

たとえば、自分が何々した(何々と思考した)<から>、何々という出来事が起こったという風に、自分の行為や思考を原因として、出来事が起こったとすると、非常に誇大妄想的な発想になります。あるいは、自分の思考を誰か(何かの組織)が盗みみたから、そのような出来事が起こったという風に、被害妄想的な発想の元にもなります。

「シンクロニシティの演出」の場合は、確かに、そのように思考を読まれているからこそ可能な面があるのですが、それは人間を超えた存在だからこそ、可能なことです。

「シンクロニシティ」にも、内界と外界を含みこんだ、より大きな意味では、「原因」というよりも、「原理的な理由」があるとはいえるのですが、それは、個人的なものではなく、「集合的」さらには「宇宙的」なものというべきものです。だから、「個人的に受け取る」のは、適当ではありません。もし受け取るならば、「宇宙」はそういう風に(内界と外界が結びついて)できているとか、「宇宙」が自分の内界を反射するように、反映して見せてくれているとでも思うしかないでしょう。

しかし、「シンクロニシティ」に関しては、実際には偶然の出来事に過ぎないのに、それを関係妄想的に自分と関連づけて、「シンクロニシティ」だと思ってしまうことも、大きな問題です。あるいは、実際に、「シンクロニシティ」が起こってはいるが、それはほんの一部に過ぎないのに、一度そういうことが起こると、起こっている出来事を全部その方向で捉えてしまって、多くが「シンクロニシティ」だと思ってしまうことも、起こります。

そして、そのような出来事に、感情的に囚われてしまって、被害的、迫害的な「妄想」をもったり、それらを「集団ストーカー被害」という、行き渡った類型に当てはめて、解釈してしまうことも起こります。

先にあげたものは、実際に「シンクロニシティ」であることを前提にして、それに囚われないことを述べたものですが、これは、実際には、「シンクロニシティ」ではないものをそう解してしまうことで、「シンクロニシティ」のときと同じような囚われに陥ってしまう問題です。「シンクロニシティ」は、確かに人を混乱させる要素があるので、それがそのように「頻発」するとみなされれぱ、より大きな混乱をもたらすといえます。

「統合失調状況」では、自己と外界の境界が揺らぎ、曖昧になるので、「シンクロニシティ」が起こりやすい反面、実際にはそうでないのに、外界の出来事を自分と関連付けて、関係妄想的な解釈をしてしまうことも起こりやすいのです。そして、それは「集団ストーカー被害」の場合にも、ある程度あてはまるものと思われます。

だから、「シンクロニシティ」が起こっていると判断するには、慎重である必要があります。

実は、このようなものも、「シンクロニシティの演出」と同じくらい、「演出」に利用されるものとなり得ます。というよりも、アーリマンのような存在にとっては、このような錯誤を起こさせることは、実際に「シンクロニシティの演出」を行うこと以上に、重要な戦略なのです。「シンクロニシティの演出」のために、自分でいろいろと手をかけずとも、本人が自ら錯誤に陥って、「妄想」を膨らませてくれるので、こちらの方が、よほど「安上がり」で効果的な戦略といえるからです。

それには、「集団ストーカー被害」のような観念を広めて、他人の行いが、偶然ではなく、意図のあるものと、予期させておくことも重要だし、漠然とでも、何者かに攻撃を被っているかのような、潜在的な恐怖を植え込んでおくことも重要です。しかし、最も効果的なのは、一度でも、実際に、(かなり強烈な形の)「シンクロニシティ」を「演出」して、仕掛けておくことです。そうすれば、既に述べたように、実際には偶然である、他人の行いの多くも、「シンクロニシティ」と捉えて、囚われを膨らませてくれるのです。

いずれにしても、「シンクロニシティ」そのものに囚われないようにすれば、こういった「演出」にも囚われないことができるので、「シンクロシニティ」についてよく知っておくことは重要です。

※ こちらの記事でも、今回の記事を補足する、重要なコメントを述べていますので、再掲しておくことにします(一部抜粋)。

本当に、「統合失調的状況」というのは、このような「共時性」の宝庫だと思います。ほとんど起こることすべてに、「意味」があるように感じられます。それも、自分に関連した、「意味」です。だから、本当は、「関係妄想」をもつな、という方が難しいので、それを「あえて」共時性なのだと捉えることで、「妄想」を膨らませることを抑える必要があると思います。「統合失調的状況」においては、「共時性」が頻繁に起こることは、知っておかなくてはならない事実になるべきです。

私も、自分の思ったことが、テレビや新聞、通りがかりの人の話などに、即座に出て来るというのを体験しましたが、これなどは、自分の思考がつつ抜けているとか、盗聴されているなどという「妄想」に結びつきやすいので、特に注意が必要です。

最近の、「集団ストーカー」というのも、単なる「偶然」ではないとすれば、ほとんどこのような「共時性」によっていると思います。

「共時性」というのは、状況に陥ることによって、突然現れ出るのではなく、もともと、「すべて」は「共時的」につながっているが、日常的には、自我によって、外界と切り離されているという強い「感覚」があるために、普段は、露わにならないだけのものです。それが、状況に陥って、自我が揺らぎ、境界が不明確になったときに、突然現れ出たかのように、浮上するのだと思います。それまで、自己と切り離されていたはずの外界が、突然、自己と連続するかのように、つながりを感じられるため、そこで起こることが、一々、自己と「関係」するように意識されるのです。

ただ、そのことに、特別の「意味」をみようとするのは、不安定になった「自我」が、自己を補強するために望むことで、「妄想」のもとになると思います。このような、「未知」の状況が露わになっているときに、特別の「意味」をみないで、起こることを冷静に受け止めることは、難しいことですが、結局は、それしか手立てはないのだと思います。

2017年4月13日 (木)

「神一厘の経綸」について

前回みたように、「大日月地神示」は、霊界では、「神一厘の経綸」が既になされて、「悪の総大将」が降参し、今後は「ミロクの世」にいたることが確定したという。このことこそが、この神示が伝える最大のポイントなので、少しコメントしておきたい。

「悪の支配する世」となることが、9分9厘まで達成されて、覆しようのないところまで行ったそのときに、「神」による「グレンとひっくり返る」「経綸」がなされるというので、「神一厘の経綸」という。

「ミロクの世」とは、「金銭や物質的価値」で社会が治まる「悪の世」が終わり、人々が「愛と喜び」に満ちて、互いに奉仕する、「ユートピア」的な世となるということである。

さらに「日月神示」では、物質的世界が超えられて、「半霊半物質」の世界となることがいわれているし、「大日月地神示」では、「悪」など微塵も存在しない、「創造」の「元の元の世界」に戻ることがいわれている。

前回もみたように、これは、あくまで、この世の型となる「霊界」での「事実」であって、それがこの世にどのように反映されるか、いつ反映されるかは、この世の人や霊人のあり方次第ということになる。

「神示」は、「悪の仕組み」について、繰り返し語っているが、それは、この世では、「隠れたる悪魔」はまだまだ多く、その「悪の仕組み」が全うされるべく、これから本格化するので、それに搦めとられないように、という意図からである。

たとえば、「神示」には、

「オロシヤ(ロシア)もそろそろ大きく動くぞ。覚悟いたせよ。食う物貯えよ。無くなってゆくぞ。」とか、「メリカ(アメリカ)も変わるぞ。無くなるぞ。」

という言葉もある。まさに、現在の社会情勢そのままを映し取るかのような言葉であ.る。やはり、このような終末的な様相は、避けられないもののようである。

ただ、「悪の総大将」は既に降参して、これに関われないので、人や霊人は、「悪の仕組み」を理解して、自らを縛っている、その「悪の洗脳」をいかに解いていくかが、「改心」のポイントとされる。もはや、「悪との戦い」というよりも、「自分との戦い」ということである。

「神示」の源は、「悪」の親でもある、「元の元の神」(創造の神)を含む大霊団ということで、「悪」について非常に詳しいのが特徴である。しかし、反面、そのような「悪」の存在しない、「元の元の世界」をよく知るものでもあり、悪の「大あがき」の後も、最終的には、そこに戻ることを、宣言しているのである。

私も、一連の体験においては、「人間」を舞台にして、いかに「善と悪の戦い」が行われているかを、いやというほど目にした訳だが、これは、逆に、今の社会の「悪」というものが、いかにその結果としての「反映」であるかを、思い知らされるものともなった。それは、人間の「悪」というものが、取るに足りないという意味ではなく、それを無意味にするほどに、人間を超えた「悪」の影響力は強大ということである。

なので、霊界での「善と悪の戦い」が、「善」の勝利で終わるとするなら、今の社会の「悪」というものが、大きく変わること自体は、必然のことである。もちろん、それで、人のあり方が、すく様変わるわけではないが、「悪」の影響を受けなくなるだけで、大きな違いが生じるのである。

そして、記事でも何度か述べたように、私と関わった時点でも、「悪」の「限界」は、如実に感じ取られ、既に「たそがれ」てすらいたので、「善と悪の戦い」の結果が、「善の勝利」で終わること自体も、自然と受け入れられる。

だから、現在の状況とは相容れないようにみえても、いつかとか、どの程度かということはおいて、基本的に、その状況が終わり、「ミロクの世」に向けて、世界が変わっていくこと自体は、頷けるのである。

さらに、その後の、「半霊半物質」の世界へと移るということ(いわゆる「アセンション」=「次元上昇」)、「悪」の存在しない、「創造」の「元の元の世界」に戻るということも、大枠の流れとしては、頷ける。

しかし、たとえそれを受け入れたとしても、恐らく、多くの人が疑問に思うのは、それなら、なぜ「悪」などというものが創造されなければならなかったのか、ということであろう。

「神示」では、「悪のお役目」ということで、むしろ「悪」こそが、我々を鍛え、成長させたのであることを強調している(※1)。そして、今回の「経綸」も、「悪」を「排除」するのではなく、悪をも「抱き参らせる」のであり、そのような「役目」を終わらせ、「悪」をも「改心」させて、共に元に戻ることを意味している

私も、「悪」との関わりによってこそ、いかに多くを教えられ、成長させられたかを痛感するので、このことも、大枠として頷ける。

ただ、これは、「創造」の「元の元の世界」では、「悪」はなく、初めはよかったかもしれないが、それでは結局は、停滞を来たすようになり、立ち行かなくなったということを意味している。それで、「悪」を作る必要に迫られ、その状態に変化がもたらされるとともに、「悪」から学ぶことで、その停滞を超える可能性も生じたということである。

ただし、もし、そのような「悪」から学んだ結果として、いずれは、「元の元の世界」に戻ることができたとした場合、それは、もともと存在した、「悪」以前の「元の元の世界」、結局は停滞をもたらしてしまった世界と、異なることになるのだろうか。

それには、二つの可能性があると思う。
一つは、「悪」を知らずにいる世界とは本質的に異なって、「悪」を知ったうえで、それを超えて至りついた世界なので、神示も言うように、「いやさか」に栄える「永遠の世界」となる。

二つは、初めは、そのように思われたとしても、その状態が永遠に続くという保証はなく、いずれは停滞をもたらすことになり、結局は、「悪」を必要として、同じことを繰り返すはめになる。

いつとるとも知れぬ、「とらぬ狸の皮」に、「思わぬ欠陥があるのではないか」と、訝るような話だが、私は、後者である可能性が高いと思う。その点は、神示を大枠で受け入れつつも、疑問に思ってしまう点だ(※2)。

まあ、今回の話は、「今現在」の問題からは、大きくかけ離れた、「夢想的」な話として受け取ってもらって構わない。現実的には、前回もみたように、「現在」の「悪の仕組み」をいかに脱し、超えていくかということこそが、重大な問題なのだから。

※1 これに関わる神示をいくつかあげておく。

「魔物もこれまでご苦労であったなあ。そなたらがおったゆえに、霊、人ともに学び変わって来れたのであるぞ。」

「まだまだマコトの悪魔遣うぞ。悪魔も人苦しめる大事なお役目であるから、活かしておるのぞ。悪魔に魅入られるのは、それだけの因果そなたの腹にあるからぞ。とことん苦しまねば変われぬ者多いから、悪魔も喜ぶのぞ。」

「悪の中に隠しておるのぞ。悪も善も神の目からは無いのであるが、人民の目からはあるのであるぞ。必要であるのぞ。」

「悪の中に隠してあるとは、悪の心を理解いたし因果悟らねば、神心、掴めぬのじゃ。」

※2 4月29日

 この「疑問」について、一言で言うなら、「神示」もまた、シュタイナーなどと同様に、「霊的進化」という「水平的方向」についてのみを語り、「虚無」という「垂直的方向」についての視点には欠けている、ということである。それこそが、たとえそのような「進化」が達成されたとしても、いずれその「虚無」からの圧力を受けて、それが永遠の状態として完結するなどとは思わせないことの理由となっている。

しかし、「神示」の霊団が、本当に「垂直的方向」の視点を欠いているわけではないと私は思う。それは、いわば今の段階では、まったく「隠されている」のであり、今の段階で確かに必要とも思われる「神一厘の経綸」をも超えた、本当の「隠しごと」なのである。そして、それを解くヒントをあげるなら、それは、記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-3e86.html )、『「神」も「解離」する!? 』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-b513.html)で述べた、ブルース・モーエンの「創造の物語」にあると思う。

2017年4月 1日 (土)

「神示」が語る「悪の仕組み」

記事『「日月神示」の言葉 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-6f3c.html)で、「日月神示」という神示を紹介した。が、最近は、これの現在向け「更新版」というべきものも降ろされているようだ。本では、神人著『大日月地神示』(野草社)に載せられているし、フェイスブック(https://ja-jp.facebook.com/groups/kamihito.hihumi/)でも、降ろされ続けている神示が公開されている。(

印象では、確かに、「大本神諭」や「日月神示」に連なる神示であることが、十分感じ取れる。実際、神示によれば、神人という人は、岡本天命の生まれ変わりということである。

「大本神諭」や「日月神示」では、時代の制約を受けて、曖昧ではっきりしない内容も多かったが、この神示は、率直かつ明確に語られているのが特徴である。特に、「弥勒の世」に向けて、「すべてがひっくり返る」「神一厘の経綸」がなされるときが、「今現在」であることが、はっきりと語られている

というよりも、「神一厘の経綸」は既になされて、「悪の総大将」は、「霊界」では、「降参」して他の星へと移されており、地球は「弥勒の世」へと向かうことが確定しているという。ただし、それが現実に「この世」に反映するのは、まだまだこれからのことであり、「隠れている悪魔」が大暴れするのも、これからが本番である。

このような「大峠」を超えて、「改心」した者は、「うれしうれし」の世となるが、そうでない者は、やはり他の星へと移されて、改心するまで苦しみ続けるという。「弥勒の世」といっても、誰もがそれに与るのではなく、一種の「棲み分け」が行われるということである。

ともあれ、「この世」的には、まだまだ「悪の仕組み」が行き渡っている状況であることに変わりはない。そして、神示の後半では、その「悪の仕組み」というものが、どのようなものであるかが、かなり詳しく語られている。それは、私がこれまで述べてきたこととも共通するし、非常に的確な表現で、訴えかける力も強く、貴重なものと思う

それで、それらを、いくつか紹介し、簡単なコメントをつけておきたいと思う。

「長い間続いてきた悪魔の仕組みは、霊人、肉体人、皆々恐怖に縛り付け洗脳いたし、偽りの教えを思い込ませ、自ら貶めさせる魂胆であったぞ。ゆえに皆の弱い所をしつこくしつこく疲れ果てるまでえぐり続け、洗脳いたし楽しんで来たぞ。」

「悪魔の仕組みは、恐怖を植え付け僕となれば救ってやると申しながら、不安を植え付け続け、真の喜びから遠ざけて、守護霊殿の声も届かぬようにいたすやり方してきたのじゃ。不安に支配された人は、喜びを感じ難くなり、生きる気力を奪われ、悪魔の奴隷らの容れ物となってしまい、長きに渡り貶められてきたのじゃ。仲良き者たちの信頼関係や他を愛する思い、喜びを、あの手この手で壊してきたのじゃ。己を正当化いたし、情に訴えかけ、いいように洗脳いたしてきたのじゃ。」

「悪魔は霊団、人民みな洗脳いたし、荒れ果てた地は、皆々神々のせい人のせいにいたして、地の民ら共倒れ自滅させ、初めから地を乗っ取る策略であったのじゃぞ。」

「悪魔」は、人間だけでなく、人間に影響を与える「霊人」や「神々」を含めて、あるいはそれらを通して、「洗脳」してきたこと。それは「恐怖」や「不安」に縛り付け、「偽りの教え」を信じ込ませることによって、なされること。そして、なりよりも、「悪魔」は、自らの(直接的な)行為によって、人間を破滅し、支配するのではなく、人間が「自ら貶める」ように導き、人間同士を争わせて、「共倒れ」させることによって、なすこと。それ(を見ていること)こそが、彼らの「喜び」である、というのがポイントである。

このように、「自ら貶める」ことによってこそ、「破滅」させること、そのために、人間の弱点を「しつこくしつこく疲れ果てるまでえぐり続ける」ことは、「統合失調状況」や「集団ストーカー被害」についても、まったく当てはまることである。が、これについては、最後のところでもう一度述べよう。

なにしろ、「悪魔」は、このように、人間の内にある「弱点」をつくことによってこそ、力を行使できる。「弱点」とは、要するに、「欲」であり「エゴ」ということでもある。神示も言うように、

「そなた、我出すから騙されるのぞ。騙されるには騙されるだけのもの、腹に在るからぞ。」

多くの者は、「悪魔」がこのように人間を操るということについて、なんら実感をもって捉えられないのでもあろう。しかし、それは、我々が、日常的に考えたり、感じたりする「思考」や「感情」のレベルで、既になされていることが、次のように語られる。

「人民、己が操られておること信じられんであろうなれど、悪魔は簡単に人を操れるのであるぞ。悪魔の力どれほど強いか、ずる賢いか、人民知らんのぞ。負の感情与え続け、好き放題に操っておるのぞ。そなたは己が何ゆえにそう思うか、問うてみよれ。その思いはどこから来ているのか、考えてみよれ。」

また、先に述べたように、「悪魔」らの行いが、これから本格的に強まるのであることが、次のように述べられる。

「これまで人民の中に隠れておりた悪魔らが追い詰められて、いよいよ捨て身でかかりておるから、人民、褌締め直して、皆々手合わせて乗り越えねばならんのぞ。」

さらに、具体的に物質的なレベルを通して、なされる「悪魔」の力の介入についても述べられている。

「悪魔に遣われておる人民は訳も分からず毒造りては、空から撒いて人苦しめ、水に撒いて生き物苦しめ、天から仕掛け雨風動かし、地に仕掛け地揺らし、人に入れて身体苦しめ、思考に入りて操りて、人民知らぬゆえやりたい放題好き勝手いたしてきた」「電気から魔力入り込みますぞ。人の意識操りに来ますぞ。負の念送り続け、人民自滅させる仕組みぞ。」

「空から毒を撒く」とは、「ケムトレイル」のことであろうし、「雨風動かし」「地揺らし」とは、気象兵器や地震兵器のことであろう。また、「電気から魔力入り込む」とは、スマホやネットなど、情報機器を通して、送り込まれる「負の念」のことであろう。

ただ、地震については、「東日本大震災」についても、直接的な言及はなく、一方で、地の神が「大難を小難に変えるために起こす」という神示もある。

私自身も、記事『「アーリマン」と「火地球」  』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-cb26.html)でも触れたように、地震というのは、さまざまな力の複合的な現れであり、「東日本大震災」でも、これらの両面があったものとみている。

「悪魔は人食うのじゃ。人の血飲んで喜んでおるのじゃぞ。人の子の血肉、ご馳走にいたすゆえ、昔から人民に生け贄求めて来たのじゃぞ。今も世界中におりますのじゃぞ。人民に人肉、獣肉食わせて僕といたしたのは悪魔であったのぞ。」

「悪魔」という言い方をしているが、神示自体、「善と悪」とは、本質的には存在しないものであり、ただ人間にとっての必要上、仮に存在するものに過ぎないと述べている。そして、この神示では、「悪魔」の本質が、「捕食者」的なものであることが、かなり衝撃的な形で、包み隠さず述べられている。

「悪は一や三を、五にでも八にでもすり替えて思わせるやり方好むから、人民殿、見極める眼、心の眼、鍛えに鍛え磨かねば、すべて悪く思うようにされてしもうて、自ら悪の僕と化して、悪想念広げるようになりますから、気つけねばならんのでありますぞ。」

これもまた、「悪魔」が人間を「洗脳」し、「自ら貶める」やり方を、具体的に述べている貴重なものである。

要するに、実際になされていることが、1や3であるのを、5や8だと思わせることによって、人間を恐怖と絶望へと追いやり、破滅させるということである

これは、巷の「陰謀論」にもよくみられることだし、「統合失調」や「集団ストーカー被害」の「妄想」にも、まったく当てはまることである。特に、「集団スートーカ被害」は、まさにこの方法による破滅のさせ方の、典型といえる。

私に言わせれば、「集団ストーカー被害」には、1すらない、0であるものを、10あるように「思わされ」ている場合も多い。ただ、実際に「1や3」の行いが、「霊人」や「他の人間」などを使うことによって、なんらかの方法でなされることはある。しかし、もはやそれで、「被害者」は、自分に起こる「5や8」というよりも、「10」の現象が、そのような「自分に向けられた攻撃行為」だと思うように仕向けられる。しかも、それを、「集団ストーカー」という「悪魔」が用意した「偽りの教え」で、解釈してしまうのである。そして、その「悪想念」を自ら広めることによって、結果的に「悪」に加担してしまうのである。

※ 6月11日

1月15日付けの最新の神示も、意識と脳の関係や魔の戦略など、重要な内容がつまっておるぞ。ぜひとくとお読みくだされ(笑)。

以下その一部を紹介。

意識とは、異次元の者ら関わりて人民に伝え動かして来たものでもありますぞ。これまでの八分は悪魔らの筋書き通り人民致して来たものじゃ。靈が居らぬと思い込ませたのも、魔の仕組みぞ。ゆえに悪魔らは、したい放題の世でありましたのじゃ。

意識とは、脳が作り出す世界ではないのぞ。脳が意識の世界を見せているのであるぞ。あべこべでありますのじゃ。肉体無くとも靈体となれば意識の世界見えますのじゃぞ。

2016年3月25日 (金)

「宇宙人」と「霊的なもの」

「宇宙人」というが…、

そもそも「宇宙人」という言い方で、現在の我々がイメージするような、地球外の星に生息する生命体を言い表すようになったのは、近代以降のことである。そして、それには、「技術」の発展ということも、大きく関わっている。

様々な観測技術の発展によって、宇宙の天体に関する「知識」が知られるようになり、それが、それまでの天体に対する見方を変えた。つまり、「天体」というものは、「物質的なもの」として捉えられるようになった。その結果、その天体に住む生命体がいるとすれば、それも、「物質的なもの」とみるのが、当たり前のようになったのである。

それ以前には、「宇宙」ないし「天体」は、現在にいう意味での「物質的なもの」とはみなされなかった。ただし、それは、後にみるように、即、「霊的なもの」とみなされたわけではない。それは、我々や我々の身の回りにあるものを越えた、「聖なるもの」とみなされたのであり、その「組成」がどうのこうのというより、我々を「越えた」ものであることが強調されたのである。

それを、現代の見方に当てはめれば、やはり「物質的なもの」を越えた、「霊的なもの」という面を含むことにはなるだろう。

しかし、そもそも、「霊的なもの」とは「物質的なもの」に対置される言葉であって、「物質的なもの」というのが明確に規定される限りで、それとの対比で、捉えられるものである。だから、近代以前には、「霊的なもの」というのも、また、明確にイメージされたわけではない。

近代以前にも、「幽霊」のようなものは、人の死後、つまり肉体というものを失った後に現れるので、肉体をもたない、「霊的なもの」という見方は、一応されていただろう。しかし、その他の「自然霊」、神々や精霊などは、必ずしも、「霊的なもの」として意識された訳ではないし、そのようにみる基盤もなかった。また、それらは、必ずしも、「見えないもの」なのではなく、現代で言えば、「物質的なもの」としてのあり方をし得るもの、あるいは、「物質的なもの」と同じく、明確に現れるものでもあった。

たとえば、「狐や狸に化かされる」ということが言われたが、この「狐」や「狸」は、「精霊」としての「狐」または「狸」を意味する。しかし、それは、「物質的なもの」と同じようなあり方をし得るもので、かつては、「物質的」な「動物」としての「狐」や「狸」と、特に区別されたわけではなかったはずである。

人々が、空に仰ぐ、「天体」というのも、同じことで、それは、まさに「神々」そのものであり、もちろん、その天体に住む存在も、「神々」であったのである。それは、「物質的なもの」としてのあり方をし得るもの、あるいは、「物質的なもの」と同じく、明確に現れるものであるが、同時に、「物質的なもの」を越える、「霊的なもの」でもあったわけである

このような捉え方は、直感的で、素朴なものではあるが、現代の「宇宙人」という捉え方より、むしろ、真実を捉えているというべきである。

近代以降の見方は、物質的な観測技術に基づいて、それに捕らえられるものを、「物質的なもの」として「理論的」「概念的」に構成したのである。(「物質」または「物質的なもの」とは、「理論」または「概念」なのであって、「事実」そのものでないことには、改めて注意を要する。)それは、我々が、それまで「仰ぎ見」、「畏怖」したきた「宇宙」を、「知的」に理解する可能性を開き、また、それを応用することで、「技術」がさらに、発展することを示した。

それが、ある程度成功したので,我々はその方向を強く押し進めた。「宇宙」が、そのような「物質的なもの」のみで構成されているとすれば、我々は、「宇宙」にあるすべてを知的に理解し、「あらゆるもの」をコントロールすることができるようになる。そのような奢りと、希望的観測から、ついには、「物質的なもの」が「宇宙のすべて」とみなされるようになったのである。いわゆる、「唯物論」的発想である。

しかし、もちろん、このような捉え方では、すべてを捉え切れないという見方も、一方には存在した。そして、そのような見方は、「物質的なもの」には含められない、「見えないもの」、「心」や「魂」など、物質的な法則には収まらないものを、「霊的なもの」として、捉えることになった。

この「霊的なもの」という捉え方も、「物質的なもの」という捉え方が、明確にされたことにより、それとの対比で、出てきたものである。そして、それは、本来、未分化であり、一体のものとして捉えられていたものを、二つのもの、または領域に、分断したことをも意味する。「物質的なもの」と「霊的なもの」というのが、別々のものとして、あるかのような見方は、こうして、新たにもたらされた、ということである。

また、「霊的なもの」というのは、「物質的なもの」に対抗するように、前面に出された面があるので、そこには、「物質的なもの」に対して、「対抗的」な発想が含まれることにもなる。たとえば、「物質的なもの」を「俗なるもの」(価値のないもの)とし、「霊的なもの」を「聖なるもの」(価値あるもの)とみなすような見方である。

しかし、これは、近代以前の、「物質的なもの」と「霊的なもの」が未分化である状況での、「聖なるもの」の捉え方とは、明らかに異なっている。また、あまりにも、単純で、非現実的な発想であるのが、明らかである。

いずれにしても、「霊的なもの」という捉え方自体が、「物質的なもの」という近代に特有な見方の発想を、何らかの形で、引きずり、含んでいるということである。それは、近代以前の発想とも異なるし、少しも、自明なものというわけではないのである。

要するに、「物質的なもの」といい「霊的なもの」というのも、宇宙の中の地球という、ごく限られた地域での、しかも、その中の、「近代」という特定の時代と地域になされた、あまりにも、特殊な区分けに過ぎないのである。それは、その時代や、地域に特有の、「文化」そのものであり、さまざまな「思惑」や「希望」に塗り込められた発想ということである。

現在普通にみられる、「宇宙人」というイメージは、「宇宙人」を「物質的なもの」の延長上に捉えているが、それは、そのように限られた、特殊な発想を前提とするものに過ぎない。もちろん、だからと言って、それらを「霊的なもの」とみなせばいいということではないのは、上にみたとおりである。

いずれにしても、「物質的なもの」と「霊的なもの」という区分けを含めて、そのような見方には、根本的な見直しが必要なのである

前に、記事『「分裂病」と「アブダクション体験」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-fc30.html)でもみたように、実際に、「UFO」や「宇宙人」についての、観測や遭遇の事例をみると、それらは、確かに、「物質的なもの」としての「みかけ」を有している。それは、一般の「霊的な現象」として知られるものとは、一見異なっているようにみえる。

しかし、「UFO」や「宇宙人」も、「物質的なもの」としての性質を、明らかに無視する行動をとる。たとえば、物質的なものを貫通したり、形を変えたり、瞬間的に移動したり、消滅したりなどである。それらは、「霊的なもの」の性質に近いものである。

一方で、「幽霊」や「自然霊」など、「霊的な存在」として知られるものも、「物質的なもの」の性質に反する行動をとる反面、「物質的なもの」としての現れを示すことがある。

たとえば、『呼び覚まされる霊性の震災学』にもとりあげられている、タクシードライバーの遭遇する「幽霊」は、物質的な存在と区別できない仕方で現れる。人間と同様に話し、接触もできるし、人間と同様に乗車する。それで、ドライバーも、記録やメーターに残すことになる。ところが、しばらくすると、いつの間にか、座席から消えているのである。『呼び覚まされる霊性の震災学』では、彼女へ贈り物を届けようとして、そのまま死んだらしき青年の、手にもっていた贈り物が、座席に残されていて、今もドライバーに保管されているという話が載っている。

この「幽霊の置き土産」ともいえる「贈り物」などは、「物質化現象」そのものであり、もはや「物質」そのものというべきものである。

私自身も、記事『「幻覚」という「判断」について 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d631.html)で述べたように、「物質的なもの」そのものとして現れ出た、「幽霊」としか考えられないものに、出会ったことがある。それは、一般の「幽霊」のイメージからすると、本当に驚くべきもので、初め、「幽霊」と気づく余地はなく、生きている人間とほとんど変わらないのである。

このように、「肉体」を失った、人間の「幽霊」ですら、「物質的なもの」と変わらない現れをすることがある。ましてや、「自然霊」など、強力なエネルギーをもった存在は、「物質的なもの」として現れる力も、ずっと強いのである。「幽霊の贈り物」でみたような、「物質化現象」も、より多く起こすし、ときに、「物質」そのものとして、自らの「身体」を残すこともある(カッパのミイラなども、本物であれば、その一例といえる)。先にみたように、「精霊」が、実際に存在する、「狐」や「狸」と同一視されていたとしても、不思議はないのである。

私も、一連の体験では、これら「自然霊」による、「物質化現象」に、何度か出くわしている。本当に、「物質」として現れ、そのまま残るし、そのものとして使用することもできるのである。「声」なども、「物理的なもの」であるかのように現れ出るものだし、実際、「幽霊」においてすら、「声」が録音されたということがある。

このように、「物質的なもの」と「霊的なもの」は、本来、画然と区別されるものではない。「宇宙人」も、「霊的な存在」と異ならず、「霊的なもの」としての性質をもち得るし、「霊的な存在」も、「物質的なもの」としての性質を示し得るのである

さらにいえば、先の記事でもみたように、そもそも、地球でいう「霊的存在」というのも、元々は「宇宙」から来た存在であるが、地球に適応して、そのようなあり方をしているに過ぎないという可能性もある。「宇宙人」と「霊的存在」とは、明確に区別できるような存在ではない、ということである。

ただし、これまで、記事でもそのように扱って来たように、地球においては、「物質的なもの」と「霊的なもの」を、一応区別される領域であるように扱うことには、それなりの意味もある。既にみたように、地球においては、「物質的なもの」というのが、かなり明確に捉えられていて、日常的には、その領域に捕らえられている、といってもいいような、現実があるからである。

その場合、「物質的なもの(または領域)」と「霊的なもの(または領域」の関係を示すならば、とりあえず、記事『「霊界の境域」の「図」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-fb4c.html)の図で示したように、互いに丸で囲まれた、異なる領域として示すことができる。その関係だけを、新たに図に示すと、次のようである。

1_3ただ、これは、我々が、日常的には、「物質的な領域」に、いわば閉じ込められているという現実の状況があるため、「霊的な領域」に関わる事態が生じた場合には、まずは、その境界ないし交わる部分としての、「霊界の境域」が、重要なものとして浮上する、ということを示すことに、意義があったのである。「統合失調状況」も、まさに、その重要な一例であった。

ところが、本当に、「物質的なもの(または領域)」と「霊的なもの(または領域」の関係を、それ自体に即して示すなら、本来、それらは別々の領域ではなく、全体として一つものであることを示す必要がある。その場合、「物質的な領域」とは「霊的な領域」に比べて、明確に捉えられる分、限られた領域なのであって、本来、全体としての「霊的な領域」に含まれる、一部であるということになるのである。それを、図に示すと次のようになる。

2

あるいは、「物質的なもの」というのも、「霊的なもの」の一つの現れなのであり、「霊的なもの」がより凝縮してできたもの、ということもできる。シュタイナーも、ほぼそのような捉え方をしている。

「霊的な領域」を、「物質的な領域」より高次元の領域として、その関係を、「次元」の違いで表わすことも可能ではあろうが、それは、「高次」「低次」ということから、誤解をもたらしやすいものでもある。むしろ、漠然とはしているが、「物質的な領域」を、物質の三態に比すならば、「固体」のような、固定的な状態、「霊的な領域」を、「液体」または「気体」のような、流動的な状態として、ある一つのものの「状態」の違いとして捉えるのも、一方法だろう(「密度」という捉え方は、それに近い)。

いずれにしても、地球においては、前者のように、別の領域として捉える方が、「現実的」で、日常的な感覚には、沿っているが、本来は、後者のように、一つのものの別の側面に過ぎない、というよりも、一方が他方を包摂する関係にある、ということなのである。

そして、「宇宙人」というものを、地球の限られた視点からではなく、そのものとして捉えようするなら、やはり、この後者の見方で捉えなければならない。そうすると、「宇宙人」は、「物質的なもの」としてのみかけや性質は有しているが、本来、それを「越えた」、「霊的な領域」に属すものということになる

もちろん、先にみたように、この「霊的なもの」というのも、「物質的なもの」との対比で出てきた概念であり、その限りで、やはり、「地球」的な制約を含むといわねばならない。しかし、我々は、「宇宙人」を捉えると言っても、事実上、「地球」という立ち位置から、捉えるしかないのであり、その中で、できる限り、正確に捉えようするしかないのである。その場合、とりあえず、「物質的なもの」と「霊的句なもの」の関係を、よく見定めたうえで、その関係を通して、捉えておくしかないと思われる。

「霊的」という言葉を避けて、「非物質的領域」とするとか、「次元」や「密度」などの捉え方で、捉えることも可能ではあるが、私は、それでは、現代の「唯物的」発想による捉え方と、それほど違わないことになるのではないかと思う。新たな、捉え方を模索するとしても、少なくとも、これまで「霊的なもの」として捉えられてきたものを、十分汲み取ったうえで、なされるのでなければ、本当に内容のあるものは見込めない。

その意味では、私は、「宇宙人」についても、あえて、「霊的なもの」という捉え方をすることに、意味があると思っているし、むしろ、それを強調することが重要と思っている。

ただし、「宇宙人」といっても、種類は様々であり、地球の物質的存在とあまり変わらないような存在から、「物質的なもの」をはるかに越えて、純粋に「霊的なもの」として存在しているようなものもあるだろう。「物質的なもの」を「超えた」、「宇宙人」といっても、その「物質的なもの」と関わる度合いは、様々であり得るということである。

そして、そのような「宇宙人」も、「物質的なもの」と関わる限り、やはり「技術」というものと、何らかの関わりをもつということになるはずである。

次回は、この「宇宙人の技術」について、さらに「霊的なもの」との関わりで述べてみたい。

2015年8月24日 (月)

シュタイナーの「人智学」について

シュタイナーについては、記事『シュタイナーの「悪魔論」について』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-fee0.html)でも述べたとおり、私の興味は、全体の「神秘学」ないし「霊学」にも及んでいるが、基本的に、中心は、自分の体験によく符合し、他には見い出すことのできない、「2系統の悪魔論」ということになる。「統合失調」に絡めて参照にしたのも、この「悪魔論」が多かった。

しかし、最近の記事『シュタイナーの精神病論3―「幻覚」と「妄想」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-054b.html)で、「アーリマン」に対抗する「判断力」は、「神智学を研究する」ことで養われるということ、さらに、シュタイナーは、この「神智学」を「自分の霊学」の意味で言っているのに違いないことを述べた。

また、シュタイナーは、「カルマ」的結果としての、病気などに代えることのできるものとしても、「神智学」を真剣に学ぶことをあげている。つまり、「神智学」を学ぶことで、深いところから、霊的な認識を自分に作用させることで、「カルマ」的結果を受け取るのと、同じ意味のことをなすことができるということである。

このように、シュタイナーの霊学を学ぶこと自体の重要性を明らかにしたので、改めて、シュタイナーの霊学について、どのような性質のものなのか、一とおり述べておこうと思う

シュタイナーの霊学は、「人智学」とも呼ばれる。これは、ブラバッキーなどによって伝えられた、特定の霊的知識体系としての、「神智学」を受け継ぎつつ、それに対抗して、新しく立てられたものである。「神智学協会」には、当時シュタイナー自身、指導者として関わっていたのだが、シュタイナーは、その組織を離れて、自らの「人智学」を打ち出すことになる。その直接の理由は、まだ少年だったクリシュナムルティを、協会が、世界教師として、一種の救世主として仰ぎ出したからである。

当時、存在した霊的知識体系としては、まず、「スピリチュアリズム」があったが、これは、高級霊と称する霊的存在が、霊媒を通して語った、「霊界通信」を知識の内容の中心としている。同様に、「神智学」も、大師(マスター)と呼ばれる、超越的存在ないし人類の指導者が、仲介者を通して語った教えを、内容の中心としている。

それらには、確かに、人間的なものを越えた「きらめき」がみられる部分があるのも、事実である。そのような、人間的なものを越えた「きらめき」は、人々を魅了し、ひきつけるものがある。しかし、それらは、人間的なものによって、確かめられたり、咀嚼されたものではない。

そのような要素が、無批判に受け入れられれば、幻想的な熱狂や耽溺を生み、地上生活を疎かにさせる。あるいは、人間を越えたと思われるものへの、「崇拝」を膨らませ、クリシュナムルティを救世主として仰ぐようなことを起こさせる。(最近の記事でも述べたように、要するに、ルシファー的な誘惑が入り込みやすいということである。)

シュタイナーは、「神智学」の「神」を「人」にして、「神智学」の、そのような「神的な要素」を、「人間的なもの」に変えるべく、「人智学」を打ち立てたのだといえる。それは、シュタイナーの、あくまで、人間的な超感覚的能力と人間的な思考能力または論理によって、咀嚼され直した、「神智学」ということである

それは、ある意味で、「神的なもの」を「人間的なもの」に、引き降ろしたのである。だから、そこには、「スピリチュアリズム」や「神智学」にはあったかもしれない、超人間的な「きらめき」は、もはやほとんどみられない。シュタイナーの語りや文章は、基本「味気」がなく、「つまらない」ものである。また、シュタイナーは、「分からない」ことは、基本「分からない」ままに、放置する。「スピリチュアリズム」や「神智学」のように、上段から、一方的に、結論めいたことを言い放ったりはしない。

また、霊的なものの実像を浮き上がらせるのは、あくまで、「人間的な論理」を通してである。それは、本来、「そのもの」を端的に言い表すには、相応しいものではなく、様々な観点から切り込むことで、何とか全体像を浮かび上がらせるという,迂遠な方法で、迫るしかないものである。結果としても、どこか曖昧で、端的には捉え難い、もどかしさを感じさせるものにならざるを得ない。

このように、霊的知識体系としては、必ずしも、インパクトのあるものでも、「面白み」のあるものでも、学びやすいものでも、ないのである。恐らく、多くの人は、シュタイナーの「霊学」を学ぼうとしても、そのような感想をもち、とっつきにくいと思うことだろう。

さらに、シュタイナーの特徴は、私も注目したように、独自の「2系等の悪魔論」であり、「悪魔論」としても、他のものと比べて、かなり具体的で、深く踏み込んだ内容のものである。シュタイナーは、霊的な認識や実践においても、これら「悪魔」的存在の影響がいかに強く働くかを強調し、それらの性質(自らの内部に働く性質でもある)をよく認識して、その影響を避けつつ、実践していくことを重視するのである。その意味では、とても慎重なものであり、また、道徳的な態度を要求するなど、ある意味、説教臭いものでもある。霊的な真実に向って、直截に突き進んでいくといった性質のものではない。

一般には、霊的知識を学ぼうとするとき、非日常的で未知なものである、「霊的な真実」について、単刀直入に知りたいと思うことであろう。あまり興味の湧かない「悪魔論」とか、その影響を避けるための、道徳性や判断力など、煩わしい限りのものに違いない。そういう点からも、シュタイナーの霊学は、一般に取り入りやすいものとは思えない。

その点は、いかんともし難いが、ただ、「統合失調状況」なり、何らかの、「霊界の境域」に関わる「恐ろしい」体験をした者は、シュタイナーの言っていることが、いかに的確かを、身にしみて感じることになるはずである。また、そういう、(その他の部分はかっこに入れておき)自分が、本当に体験的に納得できることを、受け取っていくという態度で接するならば、むしろ、シュタイナーのように、地道ではあるが、人間的に咀嚼された内容のものの方が、しっかりと身についていくということも言えるのである。

私自身そうであり、何度も言うように、全体として、シュタイナーの言っていることを受け入れているわけではない。特に宇宙進化論(地球進化論)の部分などは、むしろ、「神智学」を引き継ぐ部分が多過ぎるのが問題で、「神智学」からもっとはっきりと離れて、自分の感覚と論理に忠実に独自に打ち立てた方が、いいものになったはずなのである。

いずれにしても、多くの人とって、シュタイナーを読んでみたいという思いはあっても、なかなかとっつきにくくて、そうできないというのが現実でははないかと思う。

そこで、私の一つの提案は、一般に、主要著書とされる、『神智学』や『神秘学概論』、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』ではなく、『シュタイナーのカルマ論』を読んでみることである。この書では、他に比べて、割と、明確に語るということがなされているし、内容も濃く、「カルマ」という問題を通して、シュタイナーの考えの全体像も、ある程度みえるものになっている。「カルマ」は、誰もが興味のある問題と思うし、病気などを通して、強い関心をもつ人もかなりいるはずである。

私も記事で、この書をとりあげている(『シュタイナーの精神病論2及び3』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-6351.html, http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-054b.html)が、それも大いに参照になるはずである。それで、さらに読みたくなれば、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』などを読めばいいのである。これは、自ら自覚的に霊的な認識を獲得するための、修行の方法を示した書だが、「霊界の境域」でどんなことが生じ、それに対処するにはどんな方法があるのか、という視点から読むことも可能である。

何しろ、「霊的なもの」に真剣に関わろうとする者、あるいはそうせざるを得なくなった者にとって、他のものでは得難いものが、多くあることは確かである。

2015年8月 1日 (土)

「カルマを超える」ことと「野狐禅」

前回及び前々回、「カルマを超える」ということを述べた。しかし、それは、あくまで、「カルマ」を「カルマ」とはっきり認識して、「原因」を見定め、その自らの無意識的な行為を自覚にのぼらせ、「カルマ」を通して修正しようとしたことを、自ら意識して、自己教育的になすことができるようになるということだった。

だから、それは、もはや「カルマを受けない」とか、「カルマに落ちることがない」などということではない。また、それは、「カルマ」ということを、軽んじているのではなく、むしろ、厳粛に受け止めるからこそ、可能になることである。

このことに関して、禅の公案に、「百丈野狐」という面白い話がある、ここに簡潔にまとめられたものがあるので、参照されたい。(http://www.geocities.co.jp/Beautycare/7975/m-002.htm)

百丈和尚の説法のあと、一人の老人が、かつて弟子に、「修行を完成した人、つまり悟った人は、因果に落ちることはあるのか」と聞かれて、「不落因果」(因果に落ちることはない)と答えたために、野狐の身にされてしまったというのである。

その老人は、何と答えれば良かったのか分からないので、百丈に同じ質問をすることになった。すると、百丈は、「不昧因果」(因果に昧からず、あるいは、因果に昧まされず)と答えた。その意を悟った老人は、瞬時に、野狐の身を脱することができた。

「因果」とは、まさに「カルマ」のことであり、老人は、悟った者は、もはや「カルマに落ちない」などと、「思い上がっ」て、誤ったことを言ったために、野弧の身にされてしまった。まさに、図らずも、「カルマ」を受けてしまったのである。

この質問に関する「正解」は、「不昧因果」、つまり、「カルマに暗からず」、あるいは「カルマに眩まされず」だった。これは、どちらにしても、要するに、「カルマ」を「カルマ」とはっきり見定めて、それに明るいが故に、それに眩まされたり、囚われることがない、ということである。その意味を悟った老人は、まさに、自らの思い上がりを修正して、長年の「カルマ」の結果を脱することができたのである。

この公案は、「野狐禅」という言葉のもとになっているものである。「野狐禅」とは、一般に、「生半可に悟った気になっている禅」のことを、言う。しかし、「野狐」とは、人を化かしたりする、悪賢い「妖狐」、つまり「精霊」としての狐を指すのであり、単に「生半可」ということでは、済まないものがある。それは、もっと、本質的に、「邪悪な力」を帯びた、「思い上がり」なのであり、強く誘惑されたものである。

要するに、それは、「ルシファー」の働きそのものであり、「野狐禅」とは、ほかならぬ、「ルシファー禅」のことなのである。禅でも、「魔境」という言い方をするが、前回もみたように、「宗教体験」や「悟り」のような、内面の変化に深く関わる事にこそ、「ルシファー」の影響力も強まって、それに囚われる者を増やしめるのである。実際、単刀直入に、「悟り」を目指す「禅」ほど、「ルシファー」の影響を受けやすいものもないと言えるだろう。

一般のイメージとしても、禅または禅の和尚には、「暴力的」とも言えるような、「邪悪さ」や「思い上がり」のイメージがつきまとうのではないか。日蓮なども、「禅天魔」と言って、当時の禅のあり様を貶した。「天魔」とは、まさに「ルシファー」のことであり、「禅」は「ルシファー」に支配された邪悪な宗教というのである。

禅者である道元も、このような事態を憂いていたようで、晩年、「十二巻本正法眼蔵」の中の「深信因果」という巻で、「因果」の問題を集中的にとりあげている。まず、「百丈野狐」の話をあげつつ、悟った者は「因果に落ちない」という発想が、いかに外道の誤ったもので、禅の悟りとは無関係であるかを、力説している。さらに、様々な禅の師匠の説をあげて、「因果に落ちない」どころか、「因果」を「深く信じる」ことこそが、禅の基本であることを、説いているのである。それは、どこか、経典をたくさんあげつつ、阿弥陀仏の本願を信じることがすべてと説く、親鸞に近いものを感じさせる。およそ、禅者らしくないといえば言えるのである。

それは、それだけ、「野狐禅」的なあり方を憂いていたということで、「ルシファー」的な「思い上がり」の怖さを、身にしみて、感じ取っていたのだろう。

いずれにしても、前回みたとおり、「カルマ」の元には、「ルシファー」の影響が強く働いているのだった。だから、「カルマ」を軽んじることは、「ルシファー」の働きを軽んじることになり、結局は、それに捕えられることを意味する。「カルマ」については、ただそれだけを云々するのではなく、その元にある、「ルシファー」の働きをも深く見定めることが、必要になってくるというべきなのである

2015年7月18日 (土)

「霊的な方向」と「ルシファー」との関わり

前回、人間のカルマや病気は、欲望や利己性など、「ルシファー存在」の本質が、人類に植え込まれたという、普遍的な事実に端を発することをみた。「アーリマン存在」との関わりも、この、内側からの「ルシファー的」な性向に基づいてこそ起こるので、「アーリマン的」な影響の結果もまた、この事実に発しているといえるのである。

「ルシファー的性向」は、このように、人類に普遍的な性向とはいえ、個々人における現れは、その者の生き方や時節、さらに、時代や文化などの影響により、様々であり得る。ある時、ある時代には、強く現れないで、平穏な人生が送れたとしても、ある時、ある時代には、強く現れ、「病気」などのカルマ的な結果をもたらすこともある、ということである。

そして、この「ルシファー的な性向」の一つの特徴は、実は、「霊的な方向」に進めば進むほど、強まる可能性もより高まる、ということにあるのである

「ルシファー」とは、本来「光」の存在なのであり、人間にとっては、地上的なものを離れた、「霊的な輝き」に、強い羨望と、希求をもたらす。それは、一つの原動力ではあるのだが、しかし、一方で、地上生活を疎かにさせ、幻想的な耽溺をもたらし、実質、高慢なエゴを膨らませるだけのことにもなる。

旧「オウム」のようなカルト宗教に、このことが顕著だが、前回みたように、「ニューエイジ」や「スピリチュアル」にも、このような、「ルシファーの誘惑」という傾向は多分にみられる。

一般には、欲望や利己性というと、むしろ、「物質的」な、この地上生活に特有のことと思われるかもしれない。しかし、実際には、そのような「物質性」から、「霊的な方向」に目覚めるほどに、むしろ、このような誘惑が強まることに、注意しなければならないのである

現代の社会は、唯物論か支配している社会といえるが、この「唯物論」が、ある意味、このような意味の欲望を、制限してきた面がある。「唯物論」も、「アーリマン的」な影響力の結果なのであり、当然、物質的なものや金銭、権力など、この世的な欲望を膨らませる元になる。しかし、それは、所詮、「私」という存在が、この世において生きている限りの、一時のものであり、「私」が死ねば、もはや意味を失う。そうであるならば、それは、もともと意味のないものともいえるのである。そのような、ある種の「ニヒリズム」が、「唯物論」にはつきまとい、その欲望に、全面的にかけさせるだけの情熱には、欠かせるのである。

ところが、「私」は死後においても存続し、物質とは異なった、価値あるものということになると、事情は変わってくる。物質的なものであれ、霊的なものであれ、「私」という存在がかける、欲望や情熱も、制限されないものになるのである。それは、地上的な限界を打ち破って、どこまでも、駆け巡っていく可能性を孕む。しかし、実質は、「私」というエゴを、地上生活でなし得た以上に、無限に膨らませるだけの結果ともなるのである

ところで、物質的支配の行き届いた、現代の世界の「支配層」の人々は、やはり「唯物論」の信奉者なのであろうか。私は、決して そんなことはないと思う。もちろん、彼らは、人々を、彼らの支配下に置き続け、他の可能性などないと思わせるために、人々に向っては、「唯物論」を押し広めてきた。しかし、自らは、単に、この世限りの存在ではなく、「永遠」の存在として、人々に君臨するためにこそ、強い意志と情熱をもって、人々に対する「支配」を実行して来たのである。それは、人間的なものを越えた、「悪魔的」な知恵と結びついた、本物の「悪魔主義」といえ、単に「ルシファー」的な欲望を越えて、「アーリマン」的な支配力にまで達している。だからこそ、ときに、一般の者には、不可解なほどの力を発揮できるのである。

ところが、物質的なものの限界も、霊的なものについての情報も、広く知れ渡った今後は、多くの人々も、もはや「唯物論」に支配されるだけの時代とは、なり難い。いやでも、「霊的なもの」に目覚める人々は、増えて来るということである(※2)。しかし、それは、望ましい方向性とは、一概に言えない。同時に、これまで「唯物論」によってこそ抑えられていた、「ルシファー的」な欲望や傲慢な利己性を、解放させる方向でもある。そのような方向は、「支配層」の支配を何ら脅かさないばかりか、むしろ助長さえするだろう。

このように、「ルシファー的」影響力の増大は、今後の一般的な傾向の問題となるはずである。それは、当然、前回述べたような、「精神的な病」というカルマ的な結果の増大をももたらす。今までは、そういったものと無縁のように思えた人―従って、前回の私の論にもあまり現実感をもてなかった人―にとっても、今後はそうとは限らなくなることを意味している。

ところで、シュタイナーは、一般的な傾向というよりも、特定の個人において、「霊界参入」が深まるにつれて、「ルシファーヘ的な性向」が強くなる可能性について述べている。それを引用してみよう。

(物質界の背後の霊界に参入するときは、「アーリマン」による幻影の力が強まるが)魂の内部に強く沈潜しようとするときは、ルシファーの力が特別大きくなります。私たちが、神秘家として、好運にも魂の内部に没頭できたとき、その前に予め自分の性格の中にある高慢や虚栄心などに対抗する手段を見い出しておかなかったなら、神秘家として生きながら、内部から魂に働きかげるルシファーの誘惑に陥ってしまうでしょう。神秘家は道徳的な修行をしませんと、神秘体験をもつようになればなるほど、大きな危険にさらされてしまうのです。これまで以上にルシファーの影響の揺り戻しを受けて、いっそう虚栄心のある、高慢な人になってしまうのです。ですから、どんな場合にも、現れてくる虚栄心、自己顕示欲、誇大妄想、高慢な心の誘惑に対する対抗手段を予め獲得できなければなりません。そして謙虚さを失わず、下座の行に励まなければなりません。神秘道を歩む人にとって、これはとりわけ必要なことなのです。                  (『シュタイナーのカルマ論」』 p.138)

このように、今後は、一般的にも、個人的にも、霊的な方向への関わりが増すほど、ルシファーの影響や誘惑も強まってくる、ということになる(※1)。だから、これまでは、あまり意識されなかったとしても、今後は、それに対する対処法も、意識して身につける必要がある。

引用文からも分かるとおり、その対処法というのは、シュタイナーは、やはり、この地上生活でこそ身につけられた、「道徳的な力」以外にはないという。それは、「謙虚な態度で、自分を過大評価しないこと」とも言い換えられる。これは、実際、これまでにも述べてきた、「統合失調状況」(「霊界の境域」での出来事)に対する対処法そのものであり、「個人的に受け取らないこと」など、「関係妄想」に対処する方法そのままでもある。今後は、そのことの意味が、より強く、普遍的なものとして、要求されてくるということである。

※1  このように、個人的にも、一般の方向としても、霊的な方向に進むことは、より葛藤や闘いを強め、試練に満ちたことになる、というのは、前に紹介した「ナイト・ヘッド」の、主要なテーマでもあったのだった。もっとも、そのような、霊的な方向に行くが故の混乱や堕落は、人類は既に「歴史」上、「アトランティス」において経験済みのことなのでもあった。だから、ポイントは、やはり、そのアトランティス後の、地上生活において、かつてのような堕落を乗り越えられるだけのものを身につけたか否か、ということになるのだろう。 

※2  しかし、これだけ物質的な方向の限界が見え、霊的な情報が行き渡っているのに、全体として霊的な方向に踏み出さないことこそ、上に述べたような、霊的な方向に進むことに伴う危険性の予感を、多くの者が潜在的にも嗅ぎ取っていることの表れなのかもしれない。それは、アスランテイスの集合的な記憶によるのかもしれないし、あるいは、現代の唯物的世界観のタガが外れることで、訳のわからないものが無際限に解放されてしまうという、漠然たる恐怖に過ぎないのかもしれない。しかし、いずれにしても、全体として、いずれは、そのような方向に踏み出さざるを得なくなることは、もはや必然の流れといえると思う。

2015年7月 7日 (火)

シュタイナーの精神病論3―「幻覚」と「妄想」

「病気」というのは、「カルマ」的な結果といえることを前回みた。しかし、それは、前世でのあり方を修正し、克服するため、自ら意志的に選ばれたものでもあった。だから、「病気」は、「カルマ」の結果であるとともに、それを修正し、克服する機会でもある。

一方、この「病気」への傾向には、人類全体としての、「ルシファー存在」や「アーリマン存在」との関わりが大きく作用しており、それは、「人類のカルマ」という面も併せもっていた。つまり、「病気への傾向」は、人類の誰もが共通して持つ、普遍的なものであり、たまたま、ある生において、特定の誰かがある「病気」になり、他の者はならなかったとしても、それは単に、その生において、「機が熟して」いたかどうかの違いに過ぎないのである。

だから、「病気」を、単に個人的な「悪いカルマ」として、自分とは切り離された、他人事のようにみなすことは、全く無意味である。

そのようなことを踏まえて、今回は、特に「精神的な病」について、より詳しくみていくことにする。

「精神的な病」は、肉体にまで作用する、精神的な印象や感情によって、引き起こされるといえる。が、シュタイナーは、意識化された印象は、抵抗にあうため、肉体に強く作用しないが、意識にのぼらない、無意識的な印象こそが、肉体に強く作用して、より「病気」のもとになるという。たとえば、幼児期に受けた印象というのは、記憶にものぼりにくく、意識化されにくいが、むしろ、肉体には強く作用して、「神経症」などの原因となる。

また、それは、前回みたような、死後の「カマロカ」期において、前世の行為を俯瞰するときに受けた印象についても、いえることである。それは、現世に生まれた後は、忘却され、意識にのぼらないことがほとんどだが、無意識レベルでは、肉体に強く、また深く作用し続け、ときに「精神病」などの病気の原因となるのである

「カマロカ」期の印象は、現世における幼児期の体験以上に、強烈なもので、より肉体に強く作用し、「重い病気」をもたらしやすいのである。だから、「神経症」は、現世に原因を見い出せるとしても、「精神病」は、現世に原因を見い出すことができないのが普通で、前世の行為の「カルマ」的な結果というべき場合が多いのである。

これらのことは、「治る病気」「治らない」病気ということとも関わってくる。「精神病」もそうだが、「重い病気」は、事実上「治らない」ことも多い。それは、「その生」の範囲においては、克服し得るだけの条件が整っていないこと、言い換えれば、一つの生だけでは克服し難い、それだけ強い「カルマ」的影響の現れであることを物語っているわけである。

このような「病気」への傾向は、「ルシファー存在」と「アーリマン存在」との関わりという観点からみると、まず「アストラル体」に「ルシファー存在」の影響が植えつけられ、人間に、欲望と情念から発する、利己的な行為がもたらされたことに発していた。次に、それが「アーリマン」の影響を招き、「エーテル体」に影響を受けて、外界についての正しい認識が阻害され、誤謬と、虚偽への傾向をもたらした。そして、それらの結果が、「アストラル体」と「エーテル体」に刻まれることで、「肉体」の条件が規定され、「病気」を招く「虚弱」な身体をもたらしたのである。(シュタイナーは、これらの段階を、次のように簡単にまとめている。すなわち、まず、軽薄で、表面的な人生→次に、虚偽への傾向→次に、病的な体質ということである。)

この「ルシファーの影響」と「アーリマンの影響」は、それぞれ、「ルシファー的な病気」と「アーリマン的な病気」をもたらすということもできる。

「ルシファー的な病気」は、「アストラル体」の異常であり、「痛み」を伴うものである。「痛み」は、「異常」を自覚させ、修復のきっかけを与える点で、むしろ好ましいもの(ルシファーに反対する勢力が与えたものという)とされる。

それに対して、「アーリマン的な病気」は、「エーテル体」の異常で、それは肉体により深く入り込んだ、悪性の強いものである。それは、「痛み」も伴わずに、つまり、意識化するきっかけも与えずに、深いレベルで進行し、器官を弱らせ、遂には崩壊に導くのである。ただし、器官が崩壊することは、それ以上深く「アーリマンの影響」を受け続けることから、解放させるという意味では、好ましいことでもある(これもアーリマンに反対する勢力の影響という)。

シュタイナーは、このような「アーリマン的な病気」の例として、幻視や幻聴などの「幻覚」と、迫害妄想に代表される、「妄想」をあげているのである。それはまさに、「統合失調状況」そのものである。ただ、シュタイナーは、それを「分裂病」という言い方で示すことは、していない。前々回もみたように、実際、シュタイナーが、「分裂病」をどういうものとして捉えていたか不明なのだが、何しろ、それは結果的に、「分裂病」以外のなにものでもないものを、明らかに示すことになっているのである。

これまでに何度もみてきたように、シュタイナーも、幻視や幻聴などの「幻覚」は、「アーリマン」がもたらすものという。それは、一種の「見霊能力」ではあるのだが、実質、「見せかけ」の幻影であり、要するに、外界(霊的世界を含む)についての「正しい認識」から外れた、「誤謬」なのである。

このような「アーリマン」の影響は、「ルシファー」の影響が強く現れ出ているところに生じるのだった。たとえば、自分を誇大視した、傲慢な意識であり、まさに、「アーリマン」は、そのようなものにつけこんで、あたかも、その者にだけ特別に与えられたかのような、「意味ありげ」な「幻影」を与えるのである。内部にある、「ルシファー的」な欲望や幻想に引っかけ、それを元にしてこそ、「アーリマン的」な「幻影」が成り立つということである。だから、「アーリマン」の強い影響が働いているということは、自己の内に、「ルシファー」的な欲望や思い上がりが強くある、ということなのである。

あるいは、「迫害妄想」に結びつくような、「攻撃的」で「恐怖」に満ちた「幻覚」は、これらと違うかのような印象を与えるかもしれない。しかし、そのような場合にも、自己の誇大視や、利己的な幻想がどこかに潜んでおり、「迫害」の意識は、その裏返しとして生じているという面が、必ずあるものである。

そして、そのような、「迫害妄想」に代表される「妄想」もまた、「アーリマン」の影響によるものである。シュタイナーは、「妄想」に捉えられた者に対しては、この世的な「論理」でもって、それが誤りであることを説得しようとしても、無意味であることを強調する。それは、前世の「カルマ」から来るもので、「エーテル体」に刻まれた性質を通して、「誤謬」が強く意識に反映されるからである。この世的な「論理」は、「エーテル体」の作用を修正し得るものではなく、むしろ、「妄想」を根拠づけることに、利用されるだけである。

要するに、その者は、「幻覚」や「妄想」を通して、「アーリマン」的な力に捕らえられて、逃れ難く、その「虚偽」「誤謬」の世界に絡め取られているのであるそして、それは、「ルシファー的」な影響を、内に強く抱えていたことの、「カルマ」的な結果であるということである

私は、「妄想」は、破壊的な状況に対する「防衛反応」だとも言った。それは、壊れかかった「自我」を、「補償」する働きをなすからである。しかし、その「妄想」が、「妄想」として、殊更、迫害とか誇大とかの方向に、いわば「色付け」されるのは、やはり、「アーリマン的」な影響に強く捕らえられているからというほかない。

このような「幻覚」や「妄想」に囚われ、「アーリマン的な力」の影響に強くさらされ続けれれば、シュタイナーのいうように、「器官」を弱らせ、さらに崩壊させることにもなっても不思議ではない。この場合の「器官」とは、「脳神経」器官のことになる。つまり、幻覚、妄想への囚われの果てに、脳の働きがシャットアウトされ、精神的には、もはや死んだような、荒廃した状態をもたらすことにもなり得る。

シュタイナーは、このような「幻覚」や「妄想」に対する対処―すなわち、「アーリマン的な力」に対する対処―は、「この地上生活で育成された」「健全な判断力」以外にないという。この「判断力」こそが、「幻覚」を「幻覚」、「妄想」を「妄想」と気づかせて、軌道を修正させるということである。それは、「アーリマン」の力をも、たじろがせるものという。

ただし、この「健全な判断力」とは、先のような「この世的な論理」や「一般的な常識」などでないのは当然である。これは、たとえば「幻覚」を、「霊的な知覚」と認識したうえで、それにも拘わらず、一種の「幻影」と見抜かせるだけのものでなければならない。そこには、「この世的な論理」や「一般的な常識」では届かない、「霊的なもの」に対する判断も含まれてくるのである。

また、「この判断力」は、「妄想」に囚われている状態を、愚かなことと、はっきりと気づかせるものでもある。先にみたように、「この世的な論理」では、とても説得できないような、「カルマ」に突き動かされた「妄想への囚われ」をも、気づかせるだけのものということである。それはまた、そこに、いかに、「ルシファー的」な、自己の過大視や傲慢さが潜んでいるかを、自覚できるものということでもある。

シュタイナーは、この「判断力」について、「神智学の研究によって鍛えられた判断力と識別能力」とも言っている。「神智学」とは、より一般的に言えば、「霊的な事柄に関する系統だった知識」のこと(※)で、要するに、そのような研究を通して、真に身につけられた、判断力と識別能力いうことになる。

ただし、ポイントは、それが、「地上生活で育成される」、というところである。一般に、「霊的な方面への希求」は、地上生活を軽視し、地上生活から足が離れたものになりやすい。「霊的なもの」を「地上的なもの」より、高級なものとみなし、そういうものに関わる自分を、高級なものとみなしたりするからである。「ニューエイジ」や「スピリチュアル」といわれるものにも、この傾向が顕著である。それは、実際、「ルシファー」の誘惑なのであり、それでは、幻想を膨らませこそすれ、健全な判断力が育つわけもないのである。

シュタイナーは、「地上生活」を重視したうえで、それを通して本当に鍛えられた、堅実な研究態度が、そのような「判断力」を身につけさせるというのである。

それは、同時に、「意識」と結びついた、健全な「自我」の発達ということでもある。たとえば、「幻覚」というものは、半ば催眠に近い、半意識的な状態で起こることが多い。しかし、そのような半意識的な状態こそ、「アーリマン的」な影響力をますます助長するのである。シュタイナーは、そこに、意識と結びついた「自我」を介入させることが重要という。そのような「自我」は、まさに、この「物質的」な「地上生活」を通してこそ、身につけられ、発達されるわけだが、それを、そのような「霊的な領域」にも、持ちこせるようになることが重要なのである。

霊的な認識を高めるためにこそ、地上的、または物質的な経験が必要となる」というのが、シュタイナーの「霊的進化」の発想の基礎に、常にある。それは、当然、「物質的なもの」を軽視しないという態度ともなり、前々回みたように、「精神的な病」についても、「物質的な基盤」を看過しないということに、つながってくる。

さらには、先にみたように、「意識」にのぼらない、「無意識的な過程」こそ、病的な働きを強めるのだったが、そこに、「意識」が本当に介入できれば、その過程を逆にたどって、それを「意識的な過程」に変えることができる。つまり、無意識的な「カルマ」の働きを、霊的な認識を通して、「自覚」にもたらし、それを、意識的な働きかけを通して、同等の意味のことを、別の仕方で成就させるということである。そこでは、もはや、「病気」という結果を、必要としなくなる。「病気」を通して、修正したり、乗り越えようとしたことを、自らの意識の力で、「自己教育」として、なすことができるようになる、ということである

これは、要するに、前世の死後に意図したり、志向したことを超えて、現世での経験と学びを通して、「カルマ」を乗り越える可能性を身につけたということになる。

このように、「カルマ」とは、決して、硬直で、融通のきかない法則なのではなく、同等の「意味」のものに置き換えたり、乗り越えたりすることも可能なものなのである。

ちなみに、私自身は、一連の体験時には、強くカルマの影響ということを、意識せざるを得なかった。記事にも、自分は、仏伝に出てくるアングリマーラの生まれ変わりではないかという思いに、囚われたと言った。「悪魔」などという存在に、四六時中つけまとわれるとは、それだけの深い縁があるということで、よほど前世で悪い行いをしたに違いないと思ったからである。

それは、もちろん、極端な発想だが、「カルマ」という点では、そのとおりと言え、実際、その後には、ある程度はっきりと、それに関する前世のビジョンが浮かび上がったりもした。ただし、「悪魔」(=「ルシファー」及び「アーリマン」)との関わりという点では、それは人類に普遍的なものであることが、当時は理解できておらず、今では、たまたま、その関わりを強く意識する機会に見舞われたに過ぎないことが、よく理解できる。とはいえ、「アーリマン」との関わりについては、自分が「ルシファー的な傾向」が強いことと、それは、前世から引き継いでいる傾向に違いないことは、十分自覚している。また、そういった一連の過程全体は、結局、自分自身が志向して、もたらしたものであることも、自覚している。

※ 8月16日

 ただし、「神智学」ということで、シュタイナーの本当に言いたかったことは、あくまで「自分の霊学」であるのは間違いないだろう。つまり、一般の霊的知識体系は、「スピリチュアリズム」にしても「神智学」にしても、ルシファーに捕えられやすい性質をもっているが、ルシファーやアーリマンについて本当に深く研究され、その影響を周到に避けつつ、それを乗り越えることをも内容としている、「私の霊学」ということである。

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