精神世界

2022年11月 9日 (水)

「死の体験」は、この世界の特権!?

前回、「イニシエーション」における「死と再生」の過程においては、「死の体験」こそが、重要な鍵となることを述べた。「再生」ということも、「死の体験」があってこそ、起こり得るのである。

実を言うと、このような「死の体験」は、物質次元に強く制限された、(地球上の)この世界でこそできる、「特権」と言えるのではないかと思う。霊的世界や他の次元の世界では、「死」そのものがないわけではないにしても、「イニシエーション的な死」の体験、あるいは「死の深み」の体験は、なかなかできないと思われるのだ。

私自身、記事『「自ら望んで地球に生まれる」ということ』で述べたように、「死の体験」を(深いレベルで)することを目的に、この世界に生まれて来たという思いがある。

物質次元を超えた領域で生きていた、金星人のオムネクも、記事『「次元降下」して地球に生きる「金星人」』でみたように、、金星では、あらゆる望みがすぐに適い、満たされてはいるが、変化に乏しく、退屈であるため、あえて、地球のような制限の多い世界に転生する者もいることを述べていた。

実際、物質次元を超えた領域では、現実に、「死を体験」する機会などは、めったにないはずである。あるいは、死を意識することすら、めったにないのかもしれない。オムネク自身は、「カルマの精算」と「地球人の教化」を理由に上げていたが、地球に物質化して生まれたのには、「死の体験」を望んだということもあったのだと思う。

「死」には、「深み」があり、それぞれのレベルに応じた「死の体験」があるし、結果として、さまさまなレベルに応じた「再生」もあるのだった。

その「再生」、あるいは「水平的方向」からみれば、それまでの自己に死んで、新たに生まれるわけだから、それは、結局、「進化」につながるわけである。

地球などより高次元の領域は、満たされた領域である分、そこに満足して、このような「進化」を起こすということは、難しいことにもなる。そこで、あえて、このような「進化」を目指して、地球に生まれるということも起こるのだろう。

シュタイナーも、地球に生まれる意義は、「霊的進化」にあるとしていた。

しかし、「死」そのものの「深み」の体験、あるいは「垂直的方向」という点からみても、このような体験をできるのは、「死」ということが身近にあり、「闇」に満ちていて、「深淵」がいわば、常に「開いて」いる、この世界の特権と言えるのだと思う。

他の領域では、このような「深淵」を覗く機会もほとんどなく,その「深淵」には、「闇」または「虚無」か控えている、ということを認識することも、ほとんどないと思われる。

宇宙人系統のチャネリングでも、「進化」は語っていても、このような根源的な「闇」や「虚無」について語られることは、ほとんどない。ミナミAアシュタールのアシュタールも、「無のことは分からない」と率直に述べている。

ただ、アシュタールは、原初の存在である「絶対無限の存在」が、「私とは何か」を意識したことから、その探求のため、全ての「創造」が始まったとしている。「私とは何か」を意識するということは、漠然とでも、周りに蠢く「私ならぬもの」(他者)を意識することを意味する。だから、「私とは何か」を探るとは、その周りの「私ならぬもの」=「絶対無限の存在をも超えた、究極の「無」とでも言うべきもの」を何ほどか意識し、知ろうとすることをも、含むことになる。

記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』でもみたように、原初の存在を取り巻く「大いなる未知」、すなわち「虚無」の探索こそ、全ての創造の始まりであり、目的だとすれば、その探索に向けては、地球のような、「死の深みの体験」のできる世界は、貴重であるということも言えるのである。

 

2022年10月14日 (金)

「深淵に飛び込む」ことと「深淵としての霊界の境域」

記事『『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い』で、カスタネダが、今後進むべき道の決定的な選択をするために、ドンファンから、崖から「深淵に飛び込む」という苛酷な課題を与えられたことを述べた。

カスタネダは、この課題を実行し、その深淵に迫る過程で、「意識の暗い海」または「無限」と遭遇して、それに包まれることで、死を回避し、自宅のベッドまで移動(テレポート)していたのだった。それは、「集合点の移動」という観点からは、集合点を移動することで、「黒の世界」といわれる、死ということのない、全く別の世界を構築した結果なのだった。

通常、崖から深淵に向かって飛び込めば、死を免れないから、このようなことは狂気の沙汰とも思われようが、実は、これと類似の儀礼や修行は結構ある。

たとえは、バンジージャンプというのは、バヌアツのペンテコスト島で行われる成年儀礼を起源とするもので、この儀礼は、成年を迎える人を蔓に巻き付けて、高い木組みの櫓から地面目がけて飛び込ませるものである。私も映像を見たことがあるが、バンジージャンプとは違って、実際に地面に体がつくほどのもので、命の保証などないというべきものである。現在は、蔓で巻き付けて行うが、かつては、もっと危険な方法で行われていた可能性がある。

このように、「深淵」に飛び込むことで、現実に「死」と直面し、「死」を知ること、さらには、その過程で、成人としての決意と選択が促されるわけである。

日本の修験道でも、吉野・大峯の「西の覗」といわれる行場で行われる儀礼または修行があり、断崖絶壁の崖から縄でつるして「深淵」を覗かせることで、自己を見つめさせるというものがある。これも、現在は、命綱で安全が図られているが、かつては、もっと危険な方法であった可能性がある。

現実に、「死」と直面することで、「深淵」にあるものと遭遇することでこそ、その目的が達せられるからである。

カスタネダのなした課題は、それにしても、常軌を逸しているが、これらの儀礼ないし修行の究極の形態と解せば、理解できないことではないだろう。この場合には、単に、「死」または「深淵」に遭遇するだけでなく、何ほどかそれを「超える」ということがなされない限り、命を失うという状況にまで、追い込まれるわけである。

本当に、物理次元で、こんなことがなされたのか分からないが、記事で述べたように、ドンファンが、カスタネダに対し、事前に、「お前は、この課題の後この世界に戻ることの合意がなされた」と言っていたことは、興味深い。これは、カスタネダに対し、命の保証をしたものとも解され、この時点で、カスタネダは、ドンファンにほぼ全面的な信頼を寄せていたから、この言葉は、カスタネダがこの課題を実行する動機づけとして、大きく作用したと解されるのである。

この深淵に飛び込むという課題において、「死ぬのではないか」という疑いがよぎれば、ます間違いなく、死んでしまうことだろう。カスタネダは、「高められた意識状態(変性意識の状態)」にあったこともあって、そのような疑いを取り払うことで、この課題を実行し、成功させることができたと思われる。

ところで、シュタイナーの『秘教講義1』(春秋社)という本では、「霊界の境域」を超えることは、「深淵」と向き合って、それを超えることであり、それを様々な警告を与えつつ、促して行くのが、「境域の守護霊」の役目であるという視点が、述べられている。

私は、前に、シュタイナーは、「水平的方向」の進化ということばかりを述べ、「垂直的方向」の深化ということには、ほとんど関わらないということを言った。しかし、この本を読むと、シュタイナーも、垂直的な方向の「深淵」ということを、強く意識していたのが分かる。ただ、その「深淵」は、あくまで、「超えられる」べきもので、それ自体を深く掘り下げるという視点は、なかったようではある。

シュタイナーも、「深淵を超える」ことで、「霊界の境域を超える」ことができるとしていたのである。それは、ドンファンのいう「集合点の垂直的方向の移動」に相当するものと言える。

前回、地球が5次元に焦点化したので、「波動領域を変える」ことは起こりやすくなったと述べた。しかし、物質的なものを完全に超えるには、やはり、このような意味で、「深淵を超える」ことは、依然として必要と思われるのである。

この「霊界の境域を超える」ときの「深淵」とは、カスタネダが崖から飛び込むことになった、「深淵」とも通じている。つまりは、「死」そのものであり、「無限」であり、「虚無」である。これは、「霊界の境域」をさまよう、狂気の者が予感し、あるいは遭遇する、「虚無」なのでもある。

私は、記事「「霊界の境域」の「図」」において、その境域は、あらゆる領域の根底に潜む、「虚無」の噴出口であるということを述べていた。「深淵」というのは、まさに、その境域に噴出する「虚無」そのものと言っていい。()

カスタネダは、その「深淵」としての「無限」と一体となったり、超えたわけではないが、少なくとも、「無限」に遭遇して、それに包まれ、肉体的な死を免れるという特異な体験をした。それは、「無限」との、一時的な一体体験を経て、戻って来た体験とも言える。

また、それは、私の一連の体験の最後に起こった、「闇に包まれる」体験とも、非常に似たものである(私の場合、物理的に移動することはなかったが、身体が消えるという感覚は、確かにあった)。カスタネダにとっても、それは、決定的な意味をもつ体験となったに違いないのである。

※ この「霊界の境域の図」では、感覚的領域と霊的領域を〇で囲んでいるが、これを立体的な球とみなしてほしい。そして、感覚的領域の淵に立って、霊的な領域との境にある底を覗いている状況を想像してほしい。それが、崖に立って、深淵を覗き込んでいる状況と同じということである。単に、「象徴的」に同じなのではなく、実際に、深淵に飛び込み、「死」と直面することは、感覚的な領域の淵に立って、「虚無」の渦巻く、霊的な領域との境界に飛び込むのと、実質的に同じことを意味するのである。

2022年9月28日 (水)

「集合点の移動」と「波動領域を変える」

今回は、ミナミAアシュタールのいう「波動領域を変える」ということを、前回みた「集合点の移動」と照らし合わせてみると、より理解しやすくなることを、述べたい。

ミナミAアシュタールも、我々の現実は、「思考が作り出したホログラム」であり、本来の波動領域が、思考の共振により、制限されて、(凝固するように)現れ出たものであるとしている。つまり、客観的、固定的な現実があるわけではなく、世界とは、我々が作り出した「知覚世界」なのだという点で、基本的には、前回みた、ドンファンや、ホログラフィックパラダイムの見方と同じである。

具体的に、世界を作り出すのは、ドンファンでは、「意識」とされ、それは、人間のまゆの上にある、「集合点の移動」により、なされるのであった。ミナミAアシュタールの場合は、世界を作り出すのは、「思考」とされ、それは、思考を、どのような領域に「フォーカス(焦点化)」するかによって、なされるとしている。

ドンファンは、積極的な意図を重視するので、「意識」としているが、ミナミAアシュタールでは、より人間の一般的な場合に沿う言い方で、「思考」としていると思われる。つまり、あえて意図的に世界を作り出すのではなくとも、我々の、日常の思考のあり方が、その都度、「世界」を作り出しているということである。そして、この「思考」には、意識的な思考だけでなく、より深いところで働く、無意識的な思考も含んでいる。

ただし、ミナミAアシュタールも、いきなり、個人が勝手に、バラバラの世界を作り出すというのではなく、地球の「共有意識」により、また、世界を固定して、支配を貫徹したい、レプティリアンの思考操作により、我々の「共通の世界」が作り出されるとしている。この点も、ドンファンの言う、「集合点の固定」ということと、同じである。

そして、ミナミAアシュタールのいう、思考の「フォーカス(焦点化)を変える」ということを、エネルギー的に、霊的身体の観点からみると、ドンファンのいう、「集合点の移動」になると思われるのである。逆に言えば、ドンファンのいう「集合点の移動」というのも、思考の「フォーカス(焦点化)を変える」ということによって、割と容易に、なされてしまうものということになる。

ただし、これには、注意すべき点がある。

「波動領域を変える」というのも、本来は、「次元」そのものを変えることを意味し、この物質世界からは、消えて見えなくなることである。これが、ドンファンの言う、本来の「集合点の移動」で、前回説明したように、「集合点の垂直方向の移動」となる。

しかし、ミナミAアシュタールは、現在の地球では、地球の共有意識が変化し、5次元的な領域に焦点化したので、この点に、変化が生じたとする。「思考のフォーカス」を変えるだけで、「波動領域が変わ」り、お互いに交わることがなく、物質的身体は伴ったまま、「見えなくなる」と言うのである。(但し、固定的にそうなるのではなく、思考が変われば、違いに、移行は可能である。)

これにより、大枠として、これまでどおりの思考を続ける者と、これまでの思考を変えて、そこから離れる者とで、世界が別れることになるが、これが、いわゆる「二極化」ということである。

これまでの、共有意識の「固定的なタガ」が緩まって、人間各人が、それぞれ別の世界を構築しやすくなっているということでもある。「二極化」というのは、その途中段階の、あり様とも言える。

このような、「思考のフォーカスを変える」というのは、本来は、前回みたドンファンの説明では、「集合点の水平方向の移動」あるいは、それにも当たらないような、「微妙な揺らぎ」ということになると思われる。

しかし、地球の共有意識が変わったために、それは、実質、「集合点の垂直方向の移動」に近いような、効果をもたらすものになったということである。

ドンファンも、「集合点の移動」には、「地球の応援」、すなわち、地球のエネルギー的な援助が、大きく関わることを述べていた。だから、この「地球の応援」が、全体として高まったならば、一般に、「思考のフォーカスを変える」ということで、「集合点の移動」が起こりやすくなったとしても、不思議なことではない。

そして、それは、特別の修行などではなく、日常における「思考のフォーカスを変える」ということで、レプティリアンの思考操作を脱することも、我々の現実を変えるということも、起こりやすくなったということを意味する

ただし、この思考には、先にみたとおり、「無意識的な思考」も含むので、我々に染みついている、無意識にしている思考の習慣に気づき、それを超えて行くことが重要な鍵となる。

2022年9月12日 (月)

「集合点の移動」と「知覚世界」、「幻覚」

カスタネダのドンファンシリーズで、「世界」あるいは「現実」とは何かということの、本質に関わる重要な概念に、「集合点の移動」というのがある。

まず、全体として、どういうことかを端的に示しておくと、次のようになる。

「世界」あるいは「現実」とは、外部に客観的に存在するものではない。それは、人間の内部にある、特定の「集合点」によって生まれた「知覚」により、構成されるものである。「集合点」は、いくらも移動し得るので、その移動により、「世界」あるいは「現実」というのは、いかようにも構成され得ることになる。

このように、客観的な世界が存在するわけではなく、「知覚こそが世界を作る」ということは、私も記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1 』、『2』などで、示して来た。そこでは、「ホログラフィックパラダイム」をとりあげ、霊的なものを含めて、あらゆるものが不可分に結びついた、(振動領域とも呼ばれる)暗在的な秩序から、個別的なものの存在する、みかけの顕在的な秩序を、ホログラフィ的に「開き出す」ものとして説明していた。

「集合点の移動」というのは、その(世界を)「開き出す」というときの、様々なあり様を、より具体的、実践的に、トルティックの「見る者」たちが、説明したものと受け取ることができる

この点について、カスタネダの『意識への回帰』(二見書房)には、まとまった説明があるので、それをあげておく。(120頁)

「客観的世界など存在せず、見る者たちがイーグルの放射物と呼んでいるエネルギー場の宇宙が存在するだけだ。人間はイーグルの放射物でできていて、本質的には発光エネルギーの泡なのだ。人間は、放射物のごく一部を閉じ込められているまゆにつつまれている。意識は、私たちのまゆの外にある放射物が内部の放射物におよぼす間断なき圧力によって獲得される。意識が知覚を生むのだが、これはまゆの内部の放射物が対応する外部の放射物と連合したときに起こる。」

「次の真実は知覚が起こるということなんだが、それは、わしらのなかに、連合のための内部と外部の放射物を選択する集合点と呼ばれる仲介物があるからなんだ。わしらが世界として知覚する特別な連合は、わしらの集合点がまゆの上に存在する位置、その特別な点の産物なんだよ。」

「イーグル」というのは、全ての存在(意識)の源で、言うならば、「神」または「創造主」あるいは「宇宙意識」のようなものである。宇宙には、本来、そのイーグルの放射物(見る者には、「輝く繊維」として見える)である「エネルギー場」があるだけで、人間も、「まゆ」と呼ばれる殻(一種の霊的身体)によって、その放射物の一部を、内部に閉じ込めている。

その人間のまゆによって境界づけられた、外部と内部のイーグルの放射物が、人間のまゆの上にある、特定の「集合点」によって、「連合」することによって、知覚が生ずる。その知覚によって構成された世界を、我々は「世界」とか「現実」と呼んでいるということである。「世界」とは、特定の位置で「連合」する、「集合点」の産物であり、「集合点が移動」することによって、全く異なる「知覚世界」が構成されるのである。

このような、内部と外部を、エネルギー的に結びつける「集合点」と似たものとして、東洋医学のいう「経絡」や、ヨーガのいう「チャクラ」がある。ただし、「経絡」や「チャクラ」は、必ずしも、「知覚」ということと結びつけられていないし、存在する場所としても、違うもののようである。

「集合点」は、このように、本来「移動」し得るものだが、実際には、多くの場合、特定の位置に「固定」されている。それで、我々は、特定の、客観的な世界や現実があるもののように知覚し、解釈しているのである。

その「集合点の固定」をもたらすのは、(イーグルの「命令」という要素もあるのだが)世界を安定的なものとしてあらしめたいという、我々の恐怖や願望であり、それを支える、集合的な文化や社会慣行である。それはまた、それらを通して、自らの支配を貫徹しようとする、「捕食者」の働きかけでもある。

現在の、我々の「集合点」は、「物質世界」と言われる「世界」に固定されており、それは、「近代社会」という文化により、強固に支えられている。

ドンファンは、「呪術とは、要するに、<集合点の移動>なのだ」と言うが、そのような固定化された世界を打ち破り、通常は知られることのない、様々な世界を創出しつつ、探究し、極めるのが、呪術ということである。さらに、最終的には、それらの個々の世界の探究(つまり呪術)を超えて、内部のイーグルの放射物を全体として輝かせることで、全体意識を獲得し、「無限」と一体化するのが目的とされる。

この「集合点の移動」だが、これには、まゆの中での「水平方向」(横方向)の移動と「垂直方向」の移動がある。「垂直方向」の移動こそが、本来の移動で、それにより、全く別の世界が構築されるのだが、多くの場合、「水平方向」(横方向)の移動か起こってしまうと言う。それは、特定の位置に固定された、集合点からの「ずれ」でしかなく、その特定の集合点が生んだ知覚世界に参照される限りでの、知覚にしか過ぎない。

ドンファンは、一方で、集合点を固定させることで生じる知覚は、すべて「幻覚」ということを言う。それは、本来、イーグルの放射物という「エネルギー場」であるものを、特定の「世界」として構築したものだから、確かにそうなるであろう。この点は、世界を、一つの「ホログラフィ」の現れとみることとも同様である。

ただ、一般に言う意味では、この「集合点」の「水平方向の移動」こそが、「幻覚」なのだと言っている。

それは、「この世界に入り込んだ、別の世界」 には違いないのだが、全く別の世界の構築ではなく、我々が固定的に知覚している、日常的な「物質世界」に参照されて構成されたもので、いわば「がらくた」の寄せ集めに過ぎないからである。

私が述べて来たところで言うと、それは、「世界」が崩壊し、全く変容してしまうのではなく、日常世界は継続しているのだが、そこに異質な何物かが入り込んで、「変容」してしまったかのような状態と言える。しかも、その「異質な何物か」は、多くの場合、日常世界に引き寄せられて知覚され、解釈される。つまり、「日常的な物質世界に参照された限りでの、「がらくた」の寄せ集め」のようなものとなるのである。それが、「幻聴」などの「幻覚」や、日常世界に引き寄せられた、「組織に狙われる」などの「妄想」の基なのである。

ドンファンも、次のように言っている。

「集合点を水平方向に移動させているものは、理解できないものを見慣れたものによって説明しようとする、ほとんど避けることのできない欲求や必要性なのだ」

この「集合点の移動」についての、「水平方向」と「垂直的方向」というのは、私がいう、座標軸としての「水平方向」と「垂直方向」というのとも、多く重なるようである。

統合失調状況は、感覚的世界と霊的世界の境界である、「霊界の境域」に入り込むことで起こると言った。それは、ドンファンで言えば、通常の位置での「集合点の固定」が揺らいで、「移動」するが、「知覚の障害物を超え」()て、「垂直的」な移動をし、全く別の世界を構築するには至らない、中間的な状態である。それは、「集合点の移動」という観点からも、私が言うように、「水平的方向と垂直的方向に引き裂かれて、宙ぶらりんになっている状況」といえる。

「水平的方向」での移動が多ければ、通常の日常的世界の要素が多く継続するが、「垂直的方向」の移動に近づけば、通常の日常的世界の要素は多く崩壊するわけである。

トンファンでは、完全に「垂直的移動」が起こらない限り、「水平的移動」としているが、そこには、垂直的方向に近づく要素と、水平的方向にずれる要素の両方がある、ということも言えるのである。

このように、「集合点の移動」という観点から、「知覚」や「幻覚」について、捉え直してみると、より具体的に、また、外的なものに左右されず、より内的、主体的に、理解することができるだろう。

次回は、ミナミAアシュタールのいう「波動領域を変える」ということが、この「集合点の移動」ということに照らすと、より理解しやすくなることを述べたい。

  この「知覚の障害物を超える(破る)」という概念も興味深いもので、ドンファンは、それを超えて、集合点の「垂直的移動」が起こると、通常は、「黒の世界」と呼ばれる世界が構築されるという。この「黒の世界」について、あまり詳しい説明はないが、それは、私の言う「実体として闇」と共通するようにも思われる。

また、最近の記事『『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い』で述べた、カスタネダが崖から深遠に向かって飛び込んだが、「意識の暗い海」に包まれて、生きて帰って来たというのも、「集合点の移動」という観点からは、物質世界を超えて、死ということのない、「黒の世界」を構築した結果ということになるようである。                                                               

この辺りは、かなり入り込んでいるので、いずれ、機会があれば、述べることにしたい。

2022年8月 2日 (火)

「ボタン一つで朝になる」の言葉再考

記事『ボタン一つで…』では、一連の体験時に、身近に接した、「アニマ」と名づけた存在の印象に残る言葉をとりあけた。それは、「そのうちボタン一つで朝になるのよ」という、シュールなものだった。

それは、私が、現在の文明は、「何でもボタン一つでできる便利さを追求した結果、荒廃した」みたいなことを考えていた折りに、発せられたものである。私は、当時、これらの存在の発する言葉を、文字どおり真に受ける(即物的に解す)傾向があったから、これは、近いうちに、「人工太陽のようなものができ」て、文字通り、「ボタン一つで朝になる」ということを言っているのだと思った。

しかし、記事では、それを、振り返って、それは、「何でもボタン一つで」という我々の浅はかな考えを皮肉って、できるわけのない、「シュール」なことを述べた、諧謔のようなものだったのだろう、と述べていた。

このように、これらの存在が、皮肉めいた言葉を好み、よく発するのは確かである。しかし、そのような解釈には、どこか、しっくり来ないところがあったのも事実である。

そんな折り、最近、『よひとやむみな』の中に、次のような言葉をみつけて、ハッとした。

ボタンひとつで世界は動くぞ。

人間同士でつながって、込み入ってしまった霊線を、人から神へと付け替えるぞ。

身魂を磨けば、自ら付け替えることが出来るのぞ

ここでも、「ボタン一つで」という言葉がとられている。それは、「一瞬にして」という意味の比喩で、やはり、我々が、何でもボタン一つで解決しようとすることに対する、皮肉の意味合いが込められているようではある。しかし、そこでは、むしろ、全体として、明らかに、そのような意味合いを超えたことが、示されている。人間のいう「ボタン」などという機械的なものではなくて、それを超えた、一瞬の「神」の仕掛けで、宇宙そのものが動く(ひっくり返る)という、「魔法」のようなことを意味しているのである。

つまり、「大峠」という、「暗闇」の時代が、神の経綸により、一瞬にして「明ける」ということの一例が示されているのである。

私は、アニマの発した言葉を思い出し、それにも、やはりこのような意味合いが込められていたのではないかと、思わざるを得なかった。アニマは、捕食者的な精霊とは違って、天使的な面も持ち合わせている。そして、この言葉は、単なる「皮肉」にふさわしくなく、淡々としてはいたが、優しく包み込むように、言われていたのである。

私は、当時、「夜」そのものと言うべき、「暗闇」の状態から、永遠に抜け出せる望みもない状態をさまよっていた。実際、それは、「宇宙の死」といった、「世界の終わり」に向けて、確実につき進む過程にあった。

しかし、私に関する限り、その過程は、最終的には、実体として押し寄せた「闇」に包まれることによって、一瞬にして、吹き飛ばされ、「明けた」のである。積極的に、「光」に覆われたというような意味合いは薄いが、少なくとも、それまで当たり前のように続いた「夜」は、嘘であったかのように、一瞬にして、「明ける」ことになった。つまり、「朝」になったのである。

アニマの言葉の、「ボタン一つで」というのが、一つの比喩なら、「朝になる」というのも、「物理的に朝になる」ことではなく、やはり、一つの比喩と解した方が、適当かもしれない。つまり、「そのうちボタン一つで朝になる」とは、(今は、明けることのない夜だとしても)そのうち、「一瞬にして夜が明け、朝になる」ということを、予告していたものと解される。そして、それは、私に関する限り、そのまま実現した。

しかし、この言葉は、私だけに向けられた、個人的なものとは、とても思えないのである。私が、現在の人間の文明のことを、考えていたときに、発せられた言葉であるのも、そのことを物語っている。

つまり、『よひとやむみな』と同様、現在の地球の人間全体について、言われているものとも思われるのである。

地球全体、特に日本が、本格的な「夜」に向かうのは、前回述べたように、これからのことである。だから、その「夜」が明けて、「朝になる」とは、まだまだこれからのことで、今はまだ、現実味の薄いものかもしれない。

しかし、それが本格化したときには、改めて、この言葉が、思い起こされるだろうし、それが、本当のことを述べていたことに、気づかされることになる日が来るのかもしれない。

2022年6月30日 (木)

『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い

カスタネダの『無限の本質』は、遺作にふさわしく、最後の場面もとても印象的である。それは、何を隠そう、統合失調と思われる精神異常者との出会いで終わっているのである。

その出会いを語るためには、それまでの流れを簡単に振り返らなければならない。

カスタネダは、ドンファンら呪術師たちが、「無限」と一体となる最後の旅をするべくこの世界を去って、一人残されることになる。しかし、カスタネダも、ドンファンから、最後の旅をするべくこの世界を去るか、それまでの道を一人でさらに進むべくこの世界に戻るかの、最終的な選択をする課題を与えられる。その課題とは、高い崖から谷底の深淵に向かって、飛び込むという過酷なものである。

その、死が間近に迫る極限状況における「内的沈黙」の状態で、最終的な決断がなされなければならない、とされるのである。

しかし、ドンファンには、それがなされる前に、既にお前は、ここに残る合意がなされたと言われる。実際、カスタネダは、崖から谷底の深淵に向かって飛び込むことになる。すると、次の日、カスタネダは、その場所から遠く離れたカルフォルニアの自宅で寝ている自分を発見する。

崖から飛び込んだにも拘わらず、死んではおらず、しかも、物理的にはあり得ない時間で、その場所から、自宅に移されたことになるのである。

つまり、いずれにせよ、ドンファンの言うとおり、カスタネダは、この世界を去ることにはならず、この世界に戻されたのである。

何か、ヘルマンヘッセの『荒野の狼』に出てくる「魔術劇場」のような「夢幻的」な話に聞こえようが、カスタネダとしては、確かに物理的な次元で、谷底に飛び込んだという自覚がある。そして、その間、「無限」と向き合ったという自覚があり、「意識の暗い海」といわれる、その本質的な要素に包まれて、死を避けられ、自宅に戻されたと解すことになる。

実際、物理的次元で行われたのか、これも「カラスになって空を飛んだ」ときと同様、一種の「中間的現象」なのか、分からないが、いずれにしても、「無限」と遭遇したという点が重要だ。

ドンファンのように、「無限と一体となる旅」に出ることはできないが、少なくとも、「無限」の体験をしたのであり、それだけでカスタネダにとっては、十分過ぎるほど衝撃的なことだった。

カスタネダは、一人残されたが、それは、もはやただの人としてではなく、「無限」を体験し、戻って来た者として、もはや、「この世ならぬ」者としてだった。

そんなとき、カスタネダがいるレストランに、近くの病院に通っている精神異常者が入って来た。その者は、カスタネダを見るなり、大声で叫んで逃げ出した。カスタネダは、この者が一体自分に何を見たのか、聞きたくて、追いかけたが、その者は一層大声で叫んで、逃げてしまった。

カスタネダは、レストランの人に「どうしたの?」と聞かれて、こう言った。

「友達に会いに行っただけさ」

そして、この遺作の最後は、次のようにして閉じられる。

「この世でたったひとりの友達なんだ」私は言った。それは真実だった。もしも「友達」を、人が纏っている覆いの中身を見抜き、その人が本当はどこから来たのかを知ることができる人間と定義できるならば。

統合失調と思われる精神異常者こそ、「無限」と出会って戻って来たカスタネダを、よく見抜くことのできる者だったということだ。なぜなら、この精神異常者もまた、「無限」との何らかの遭遇をして、その恐ろしさを知り、この世にありながら、この世ならぬあり方をしている「友達」だから。

私は、初めにこの本を読んだとき、自分の体験した「捕食者」についての見事な説明に驚いたのみならず、この最後の場面にも大きな衝撃を受けた。

そして、今は大げさに感じるけれども、次のような妄想じみた思いも抱くことになった。

かくして、カスタネダのドンファンシリーズは、狂気の者との出会いにおいて、幕を閉じた。それは、今後カスタネダを理解するのは、狂気の者のみであるということ、さらには、カスタネダを引き継ぐことのできる者がいるとしたら、狂気の者でしかあり得ないということを意味している。

その「狂気の者」とは……、自分でしかあり得ないのではないか?

 

2022年6月 3日 (金)

「捕食者」に出会っていなかったら、その存在を信じていたか

私が、一連の体験を通して、捕食者に出会っていなかったら、現在、捕食者の存在を信じていたかということを、たまに考える。

結論から言うと、本当には信じていなかった可能性があり、信じるとしても、半信半疑、よくても7割方くらいの感じでだろうと思う。

私は、一連の体験をする前に、カスタネダシリーズを読んでいたから、捕食者について記された遺作『無限の本質』は、捕食者の体験をしていなかったとしても、読むことになっただろう。

それまでのカスタネダシリーズには、小説的な色付けや誇張を感じつつも、「真実を含む」という確かな手応えも感じていてた。だから、『無限の本質』の捕食者についての記述にも、信じ難い思いは持ちつつ、それなりのリアリティを感じたことと思う。それでも、それを本当に信じることは難しく、半信半疑か、そうでなくとも、どこか自分の日常からはかけ離れた、遠い世界の話のような感じで、受け取っていたと思うのだ。

だから、私は、多くの人にとって、捕食者のことが受け入れられなかったり、今一つ、「ピンと来ない」、「なじめない」という感じをもつのは、自然のことと思うし、理解もできる。そして、それについて、とやかく言う気も起こらない。

むしろ、直接体験したことがないにも拘わらず、捕食者のことを、固く信じることのできるという人がいるなら、その人は、固定観念に縛られない、柔軟で、直感力の優れた人だと思う。

もっとも、現在は、私が体験した頃(既に31年前)に比べれば、捕食者に関する情報や、レブティリアンに関する情報も多くあり、それらが、現実に起こっている様々な出来事との関係でも、受け入れられやすくなっているのは、間違いないことだろう。

それにしても、捕食者の存在を受け入れるということは、人間以外の、非物質的な知的存在を認めるということ。それも人間にとって苦痛な、人間の上に立ち、支配する存在を認めるということ。さらに、我々を縛る、善悪の観念を離れて、宇宙的なエネルギー循環の観点から、他の存在を認めるということを意味している。これは、広く行き渡っている、一般的な固定観念からの何段階かの飛躍によって、初めて可能になることなので、容易なことではないはずである

私自身、記事で述べたように、捕食者に直接出会った当初は、非常な衝撃と驚きを感じ、ある個性と実体をもった、確たる存在であることは、疑い様がなかったが、それがいかなる存在であるのか、容易に判断できなかった。

ただ、物質的な身体を持たない存在であることは、明らかであったし、その尋常でない攻撃的な性質や強力な威圧感、言って来ることの、人間とは思えない内容などから、それが人間以外の存在であることも認めざるを得なくなった。それで、いわゆる、「魔」、あるいは「悪魔的な存在」と解するほかなかったわけだが、それにしても、そのように解するまでにも、かなりの紆余曲折を経ることになったのである。

そして、それまでは、それらの存在が、当然地球上のものと思っていたわけだが、接して行くにつれ、どうもそれらは、地球的なものという枠組みを越えた、もっと宇宙的なものであることが、察せられるようになった。

また、接するにつれ、それらの存在は、私だけでなく、多くの人にも影響を与え(多くの人も無意識領域では、それらの存在に服従していて)、言わば人の上に君臨する存在であることも分かって来た。

しかし、一方で、それまでは、恐怖と無力感のもとに接していたのだが、あるとき、私の怒りが爆発し、断固たる態度をとると、それまでの強力な攻撃性を失ったように感じたことや、明らかに、私の恐怖をエネルギーとして吸収することで活性化しているのを、肌で感じるということがあった。それで、それらの存在は、どうも、思っていたほど恐れる存在ではないことを感じとることになった。

さらに、その時点では、それまでの信じがたい体験を通して、「善とか悪」とかいうことも、自明なものではなくなっていて、これらの存在も、単純に「悪」なのかどうかも分からなくなっていた。

そのようなことを通して、この存在を、単純に「魔」とか「悪魔的存在」として受けとることはできなくなったのである。

ただ、当然ながら、捕食者なる概念はもっていなかったので、「捕食者」として捉えたわけではないが、実質的には、捕食者という概念が当てはまるのに近い形で、それらの存在を捉えるようになっていたのだった。

だから、後に、この存在のことを、見事に説き起こす、カスタネダの『無限の本質』を読んだときは、本当に、ひっくりかえるほど、衝撃を受けた。(ディービッド・アイクも、私と同様、捕食者の体験をしていて、それをどう捉えていいか思い悩んでいたとき、この本と出会って、あまりに自分の体験を見事に説明するものだったので、本当に椅子から転がり落ちるほど、衝撃を受けたという。)

私は、その前に、シュタイナーの「アーリマン存在」と「ルシファー存在」という二系統の悪魔的存在論に出会っていて、そこで説明されていることは、私の出会った存在の中に、確かに二系統の性質の異なる存在があるのを、見事に説明するものだった。

しかし、カスタネダの『無限の本質』での捕食者の説明は、それ以上に、私の体験していた存在を、ことごとく、ふに落ちる形で、見事に、説き明かしてくれていたのである。それで、それらの存在は、「捕食者」として捉えるのがふさわしいと、心底、納得することができた。

そういうわけで、私は、現在では、自分自身の、捕食者として捉えるのがふさわしい存在との出会いを通して、「捕食者」なる存在を、疑いもなく信じている、というより、それは、「自明の事実」となったのである。

しかし、その存在を証明することなどは、当然できないし、自分自身のそこに至るまでの紆余曲折を顧みても、他の者にそのことを納得させたり、説き伏せたりなどはできないこともよく分かる。だから、そのようなことには興味はないし、そうするつもりもない。

ただ、今後、捕食者のことが、多くの人にとっても、事実として受け入れざるを得なくなる可能性は、十分あると見込んでいる。恐らく、宇宙人「レプティリアン」としてだろうが、彼らの行動があまりにもあからさまで、表に現れて来るものになれば、その存在が、確たるものとして知られるようになる可能性は十分考えられるのである。

また、ミナミAアシュタールもよく言うように、現代の閉塞した、ピラミッド社会から離れたいと思う場合には、ピラミッド社会の頂点に、捕食者的なレプティリアンが存在していることを認めずしては、とても無理なことと思う。ただ表面的に、政権や社会の体制などを変えたとしても、その頂点にレプティリアンがいること自体が変わらなければ、実質何も変わりはしないからだ。

そのためには、捕食者としてのレプティリアンについて、それなりに多くを知り、その支配を脱する方法を学ぶ必要が出て来るということである。

さらに、このブログで主題として扱っている統合失調や、最近の集団ストーカー被害の問題にしても、そこに多大の影響を与えている捕食者について知ることがなければ、それを本当に脱することは、到底適わないというべきである。それらの、酷く混乱した状態は、捕食者による攻撃や戦略によって、そこに陥らせて、抜け出せなくすることで起こっているので、正面から捕食者の存在を認めたうえで、その影響を脱することを考えない限り、本当には難しいからである。

特に、集団ストーカー被害は、その観念からして、そこに引き入れる捕食者の戦略であることが理解できないと、永遠に人間による集団ストーカーを訴えるだけで、一向にらちがあかないことになる。

そういうわけで、現在においては、捕食者のことが知られる必要性―むしろ「必然性」と言った方が適当だが―が高まっていることには、疑いないだろう。

2022年5月 6日 (金)

「捕食者」と「レプティリアン」

「捕食者」というのは、人間の感情エネルギーを食糧とする存在を広く含んでいる。「霊的存在」、「異次元的存在」、「宇宙人」などである。「捕食者」という括りは、(人間に対しての)存在のあり方の「型」を捉えたもので、個々の存在の種類や性質には関りがないものなのである。

一方、「宇宙人」というのは、その存在の起源や生育の過程が、地球ではなく、地球以外の宇宙にあることに着目してつけられたものである。地球は、物理的次元にあるので、その延長上に「宇宙人」も物理的存在のように解されることが多いが、実際には、「霊的」または「物理次元を超えた存在」である場合が多いことは既に述べた。(そのため、実際には、地球上の「霊的存在」との区別にも微妙なところが出てくるが、一応の区別はできる)

そのような「宇宙人」の中の「捕食者」的存在の代表が「レプティリアン」であることも、これまでの記事で何度か述べて来た。

最近は、この「レプティリアン」ということで、私が「捕食者」として示してきたものを、具体的に表すことが多いようである。「捕食者」というのが、存在の「型」を表すものとして、多少「抽象的」なところがあるとすれば、具体的な存在として、現に我々に対峙するものであることをはっきり示すのには、その方が適しているともいえる。

記事『「捕食者」についての本―『無限の本質』』で示したように、「捕食者」についての最も詳細で本質的な説明は、カスタネダの『無限の本質』になされている。

一方、捕食者としてのレプティリアンについては、デービィッド・アイク(『ムーン・マトリックス』など)、プレアデス系のチャネリングものである、バ−バラ・マ−シニアックプレアデス+かく語りき』、ミナミ・A・アシュタール(ブログ や『新・日本列島から日本人が消える日』)などに詳しい。

これらは、レプティリアンが、人間の発する特に恐怖等のネガティブな感情エネルギーを食糧としていて、そのために人間を組織的に管理・支配し、常にネガティブな感情を起こさせる施策をとっていることをかなり詳しく説明している。さらに、レプティリアンと人間との関りを、宇宙及び地球の歴史から説き起こし、人間の上に君臨するようになった経緯も明らかにしている。

特に、ミナミ・A・アシュタールは、現在の状況を踏まえて、それらがいかにピラミッド社会の頂点にいるレプティリアンとの関りで生じているかを、分かり易く説明していて貴重である。

カスタネダのドン・ファンも、「捕食者」が、人間の感情エネルギーを捕食するために、人間を組織的に管理・支配していること、「捕食者」は「宇宙の深奥」からやって来て、我々を乗っ取ったことを述べているから、これらは、ドン・ファンの説明とも十分重なるものである。

また、これらは、レプティリアンが、地球で人間を遺伝子操作的に作り出したものとし、人間のいわば「生みの親」(創造者)なのだとする。『プレアデス+かく語りき』では、その遺伝子操作の内容を、12本のDNA対を切って、2対とし、人間の本来持っていた(超感覚的な)能力を大幅に削減したうえ、自分らの遺伝子を組み込むことで、従順で、支配に適する存在にしたと説明する。

このことも、ドン・ファンでは、人間を支配する最大の戦略は、「人間に捕食者の心そのものを与えた」ことだとして説明されていた。「捕食者の心を与える」ということを、現代的な技術の方面から説明すると、「遺伝子操作」ということになるわけである。

ドン・ファンでは、人間がいかに「捕食者」に支配されているか説明がされつつ、それを脱する方法についても述べられていた。これについても、特にミナミ・A・アシュタールでは、「そっと離れる」、「波動領域を変える」という言い方で、説かれている。

ドン・ファンでは、その方法は、端的には、「内的対話を止める」、「予期してもいない困難な事態に平然と立ち向かって行く能力」ということで言われていた。後者は、捕食者に敵対するのではなく、「(捕食者のことを宇宙の一部として受け容れつつ)畏敬の念をもってひるまずに立ち向かう」ということであった。

この点も、ミナミ・A・アシュタールでは、「ぼーっとする時間をとる」、「(対立するのではなく)無関心でいる」、「感情的に巻き込まれずに、俯瞰してみる」、「(引かないで)すーっと立つ」という風に、共通することが、より分かり易く、親しみやすい言葉で説明されている。

このように、最近の、地球上の支配の頂点にいる捕食者的な存在として、レプティリアンという宇宙人を受け止めるという行き方は、より具体的で、(特定の者ではなく)誰もの「現実状況」(利害)と密接に関わるものであり、よりイメージしやすく、受け止めやすいという意味でも、適切なものと思われる。

現在は、コロナ騒動にしても、ウクライナ戦争にしても、レプティリアンの戦略が、より「分かり易い」形で、目に見えるようになっているから、よりこれらの捉え方が、現実味をもって捉えられるようになっている。

UFOなどの目撃例が飛躍的に増え、米国防省が研究機関の新設を発表したように、「宇宙人」そのものが、我々にとって現実的な関心の対象になりつつあることにも、適っている。

そして、これらは、これまでみて来たように、カスタネダのドン・ファンの「捕食者」の説明とも、十分通じているものなのである。

もちろん、これまでのように、「捕食者」として捉えることでも、十分要を果たすし、レプティリアンの本質をより理解する手立てになるが、「捕食者」という捉え方には、今一つ馴染めないでいる人は、先に上げたような本やブログなどを通して、具体的にレプティリアンとしての捉え方をしてみるとよいだろう。

2022年2月 6日 (日)

新たな神示『よひとやむみな』

記事『「神示」が語る「悪の仕組み」』で、日月神示の現代版とも言える新たな神示、『大日月地神示』を紹介した。  

ところが、最近もう一つ、同様の新たな神示が出されていることに気づき、読んでみた。穂乃子著『よひとやむみな』(ナチュラルスピリット)という本である。

穂乃子というのは、神示を降ろした側の存在で、瀬織津姫ということである。「日月神示」では、クニトコタチノ神とされていたが、(当時は明かせなかったものの)それは、実際には、瀬織津姫だったのだという。神示を媒介した人は、公開されていない。

内容的には、『大日月地神示』同様、確かに、『日月神示』につらなる内容で、訴えかける力も強く、十分頷けるものがある。端的で明確な、分かり易い表現になっているのも、同様である。「日月神示」の言葉を、より現代的に述べ直しているところも多い。

初め、『大日月地神示』に比べて、よりマイルドで、若者や女性にも受け入れられやすいものと思ったが、やはり、同様の強烈さは、随所に現れている。

特に、強調されるのは、「日月神示」で言われた、すべてが「グレンとひっくりかえる大峠」が、今まさに起こっているのであることを、強く訴えかけていることである。そして、それを乗り越えるための「身魂磨き」を強く求めている

現在は、「日月神示」で言われた「北から来る」とか、「世界中総がかりで攻めてくる」ということが、まさに起こらんとしている状況である。今年は本当に、疑いないほどに、それが迫っていることを、改めて感じさせる年になっている。

神示では、「一日に10万人死すようになったら、いよいよと思え」と言う。

タイトルの『よひとやむみな』とは、「世の人が皆止む」ということである。の度の大峠は、人間の世界だけでなく、三千世界(霊界、神界を含めた全世界)の大洗濯で、「天地が混ぜこぜ」のところまで、即ち、創造の大元のところまで帰らなければ、なされない。だから、その過程では、「よひとやむみな」ということが起こることにもなる。

カスタネダのドンファンも、「世界を止める」ということを言っていて、それは、「それまでの世界を組み立てていた流れを止める」ことを意味した。まさにそれが、すべての者に起こる状況ということである。

神示では、これに関して、次のようなことが言われている。

すべては無(ム)から有(ウ)まれ、有(ウ)から無(ム)まれる。

ウムを組み立てて、力が生まれる。

この度の大峠は、ムにならねば越せん。

「無(ム)になる」とは、すなわち「皆止む」ということである。

また、そのときの状況が、次のように幾分過激に示される。

いよいよとなったら、地震、雷ばかりでない。人々みな、頭が真っ白になり、「これはなんとした事ぞ」と口を開けたまま、どうする事も出来んようになる。

四つん這いになって、着る物も無く、獣となって、身動きできん者、自ら死を選ぶ者と二つにはっきり分かれる。

そのほかにも、私的にも、印象に残る言葉が多くあった。

たとえば、新たな世界は、人間界だけでなく、動物界も変えることが、次のように言われる。

動物界は、人間界の鏡ぞ。

五六七の世となれば、トラと羊が共に眠るぞ  

また、かつての「まことの神の国の民」の「死」とは、次のような、うらやましいものであったということが、述べられている。

昔は、残さず天に帰ったのじゃ。身体さえも残さずに逝ったのであるぞ。逝く時期も分かっていた

葬式も墓石も要らんかった。周りの者は、感謝を込めて見送った。そこには、悲しみや別れを惜しむ気持ちより、

感謝と喜びで満ちておったのじゃ。誰も死を恐れてはおらんかった。病で死ぬ者もおらんかった。それがまことの神国の民であった。

「身魂磨き」に関しては、次のようなことが言われる。

我が無くてもならず、我が有ってもならず。

我のない純粋な意識が主、我は従じゃ。

我は使うもので、使われるものではない。

我から離れることで、我でできる以上のことができるのじゃ 

我は、なくすものではなくて、我のないところから、使うものだと言う。我がなくては、何の「お役目」もできないのである。

我のない純粋な意識は、「中心」にあって、そこに意識がいれば、周辺の我の感情、エゴに巻き込まれずに、それらを観察し、理解することができる。そうして、それらに癒しをもたらし、慈悲や知恵へと変容させることができる。

しかし、

そなたたちの意識が周辺にある限り、エゴは止まれん。頭も身体も口も耳も、常に動かそうとする

悪の仕組みは、人間を止まれんようにすることぞ

さらに、

巨大な宇宙の内部は、すさまじい高速で螺旋を描きながら、絶対無、絶対空という根源神に向かって進んでおる。大宇宙の進化じゃなあ

心を無にして、空に生きよ。絶対無、絶対空である大宇宙の進化を意識した神人となれよ

先にも、「有と無による世界の組み立て」の言葉をあげたが、さらに「空」とか「絶対無」という根源的なことが、言われているのも大きな特徴である。

このように、この神示では、「大峠」を超える過程に重点を置いていて、「身魂磨き」の重要性を中心に述べている。「うれしうれし」の「ミロクの世」に移行することに重点を置いた、『大日月地神示』の最近の神示とは、ニュアンスを異にする部分も多い。

それぞれの需要の違いから、このように二つに分かれて、神示がくだされるようになったとみることもできよう

2021年2月17日 (水)

お笑い系?宇宙人シャーの語り

チャネリングで降ろされる宇宙人といえば、日本で有名なのは、バシャールやアシュタールであろう。

ところが、最近は、チャネリングのできる人も増えて、さまざまな宇宙人が、人の体を借りて情報を発信するようになっている。もちろん、玉石混淆で、すべてが本物とは解せないが、中には、注目すべきものもある。

そんな中でも、異色でユニークな存在が、宇宙人シャーである。私と年齢も近い、インパクトあるおばさんが降ろしているのも、異色である。

まずは、最近のユーチューブの動画をあげておく(https://www.youtube.com/watch?v=Mx362eJyVTg) 。前に紹介した、レインボーチルドレンのまりなちゃんとの対談もある(https://www.youtube.com/watch?v=xMrl4G27bIg&list=PUfGB7AgCeD8fic0hykbWViA&index=32)。

「シャー」と言っても、別に勝俣の生き霊ではない(笑)。惑星ゼロというところから、次元転換して、地球に来ているそうだ。(「ただ座るだけ」というシンプルな座禅を伝えた、あの道元禅師も同じ出身というのにはちょっと衝撃!)

テンションの高いノリで、5歳児のしゃべりを入れたり、パフォーマンスを交えながら、ユーモアたっぷりにいろんなことを語る。まあ面白いし、ついつい引き込まれてしまう。

おばさんの井戸端会議に定番の、手を前に降っての「そーなのよ-、奥さん!」と、女子中高生のリアクションの定番、手に口を当てての「キャー!」が好きなようで、話の合間に、うまく入れて来る。それが、的確だし、身振りもよくとらえていて、感心してしまう(ときどき、「しょーなのよ、奥さん」って、5歳児のしゃべりでおばさんまねやってるのは、愛嬌(笑))。

地球人のことを、いろいろ興味をもってよく観察しているのが分かるし、その身振り、行動を面白がっているのだろう。

もちろん、まじめな話もときにはするし、それはそれで、奥深いことをさらりと言っている。

宇宙人というと、どうしても距離を感じて、警戒したり、あるいは崇拝する人もいるだろうが、シャーは、親しみやすさでは、随一だろう。

今はまだ、マイナーだろうけど、そのうちブレイクしても、おかしくないだろうと思う。特に、女性には人気が高まりそうだ。

そんなことを通して、宇宙人に対する見方が変わるとともに、宇宙人の語りにも耳を傾けてみようという人が増えるならば、結構なことだ。

私も、前の日記で書いたように、夢の中でだが、身体能力系?の異色の宇宙人と出会ったことがある。ペガサスから来たという、肩の筋肉が異様に張って、ジャミラのような格好をした、赤い肌の宇宙人である。自分が持っていた、宇宙人のイメージとあまりにも違うので、面食らったのだった。

このように、宇宙人と言っても、いろんなタイプがあることが、これからはますます知られて来ることになるのだろう。

  このような、チャネラーの降ろす宇宙人は、チャネラーの「解離した別人格」ではないかと思う人もいることだろう。確かに、そういう場合も、結構あるかもしれない。

しかし、バシャールなどはもちろん、シャーの場合にしても、とても、この世的な経験の結果としての「人格」の一部などとは、解せないのが明かと思う。ただし、何度か言っているように、「自己」の枠組みを大きくとれば、それは、ある意味で、そこから解離した人格という見方はできるものである。

「宇宙人」と言っても、そのような「大きな自己」または「高次の自己」(「ハイアーセルフ」とも言われる)そのものの現れと言えるような場合もあるし、そうでなくとも、多くの場合、その「自己」とのつながりにおいて、存在しているものであるのが普通だからである。

バシャールも、チャネラーであるダリルアンカの「未来生」ということで、まさに、「高次の自己」そのもののような存在である。シャーも、チャネラーは何人かの候補から選ばれたということだが、やはり、見るからに(笑)、両者の間に関わりを思わせるものがある。

 

※  3月17日 宇宙人シャーの本等

宇宙人シャーには、チャネラー雪下魁里著『宇宙で大人気のきみへ』(廣済堂出版)という本も出ている。ほぼ、全編にわたって、シャーの言葉が伝えられている。

ユーチューブの動画のように、お笑いキャラ炸裂(笑)とはいかないが、シャーらしく、とても分かりやすい言葉で、特にスピリチュアルな傾向のある人にというより、一般の多くの人に向かって、語られているのが特徴である。このように、宇宙人が、親しみやすく、一般の人に向けて語るというのは、今という時代が、可能にしたという面も大きいだろう。

話も、難しいことではなく、宇宙人の視点から、肉体をもつということ、従って、個の意識と感情をもつという地球の独自性が強調され、そのような地球に(自ら望んで)生まれた以上、それを思いきり楽しむ生き方をすることを勧めている。何も、分離意識を強めることを勧めているのではなく、結局は、そのように個の意識と感情を生き切ることが、すべては一つというワンネスへの方向を、確かにするということなのである。

地球にいると、そのような体験が、宇宙では得難い貴重な体験であることが分からないが、確かに、そうなのだろうと思うし、「それしかない」ということを、私も最近特に感じている。これは、バシャールやアシュタール、さくやさんの言うこととも、通じていることである。

なお、この動画(https://www.youtube.com/watch?v=guj4w0pqx7g)では、シャーの得意とする、「笑い」とは、「振動と振動をくっつける接着剤」で、相対性理論も笑いながらだと1秒で覚えられる!という、「相対性理論を超えた理論」(笑)を披露。

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