カスタネダのドンファンシリーズで、「世界」あるいは「現実」とは何かということの、本質に関わる重要な概念に、「集合点の移動」というのがある。
まず、全体として、どういうことかを端的に示しておくと、次のようになる。
「世界」あるいは「現実」とは、外部に客観的に存在するものではない。それは、人間の内部にある、特定の「集合点」によって生まれた「知覚」により、構成されるものである。「集合点」は、いくらも移動し得るので、その移動により、「世界」あるいは「現実」というのは、いかようにも構成され得ることになる。
このように、客観的な世界が存在するわけではなく、「知覚こそが世界を作る」ということは、私も記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1 』、『同 2』などで、示して来た。そこでは、「ホログラフィックパラダイム」をとりあげ、霊的なものを含めて、あらゆるものが不可分に結びついた、(振動領域とも呼ばれる)暗在的な秩序から、個別的なものの存在する、みかけの顕在的な秩序を、ホログラフィ的に「開き出す」ものとして説明していた。
「集合点の移動」というのは、その(世界を)「開き出す」というときの、様々なあり様を、より具体的、実践的に、トルティックの「見る者」たちが、説明したものと受け取ることができる。
この点について、カスタネダの『意識への回帰』(二見書房)には、まとまった説明があるので、それをあげておく。(120頁)
「客観的世界など存在せず、見る者たちがイーグルの放射物と呼んでいるエネルギー場の宇宙が存在するだけだ。人間はイーグルの放射物でできていて、本質的には発光エネルギーの泡なのだ。人間は、放射物のごく一部を閉じ込められているまゆにつつまれている。意識は、私たちのまゆの外にある放射物が内部の放射物におよぼす間断なき圧力によって獲得される。意識が知覚を生むのだが、これはまゆの内部の放射物が対応する外部の放射物と連合したときに起こる。」
「次の真実は知覚が起こるということなんだが、それは、わしらのなかに、連合のための内部と外部の放射物を選択する集合点と呼ばれる仲介物があるからなんだ。わしらが世界として知覚する特別な連合は、わしらの集合点がまゆの上に存在する位置、その特別な点の産物なんだよ。」
「イーグル」というのは、全ての存在(意識)の源で、言うならば、「神」または「創造主」あるいは「宇宙意識」のようなものである。宇宙には、本来、そのイーグルの放射物(見る者には、「輝く繊維」として見える)である「エネルギー場」があるだけで、人間も、「まゆ」と呼ばれる殻(一種の霊的身体)によって、その放射物の一部を、内部に閉じ込めている。
その人間のまゆによって境界づけられた、外部と内部のイーグルの放射物が、人間のまゆの上にある、特定の「集合点」によって、「連合」することによって、知覚が生ずる。その知覚によって構成された世界を、我々は「世界」とか「現実」と呼んでいるということである。「世界」とは、特定の位置で「連合」する、「集合点」の産物であり、「集合点が移動」することによって、全く異なる「知覚世界」が構成されるのである。
このような、内部と外部を、エネルギー的に結びつける「集合点」と似たものとして、東洋医学のいう「経絡」や、ヨーガのいう「チャクラ」がある。ただし、「経絡」や「チャクラ」は、必ずしも、「知覚」ということと結びつけられていないし、存在する場所としても、違うもののようである。
「集合点」は、このように、本来「移動」し得るものだが、実際には、多くの場合、特定の位置に「固定」されている。それで、我々は、特定の、客観的な世界や現実があるもののように知覚し、解釈しているのである。
その「集合点の固定」をもたらすのは、(イーグルの「命令」という要素もあるのだが)世界を安定的なものとしてあらしめたいという、我々の恐怖や願望であり、それを支える、集合的な文化や社会慣行である。それはまた、それらを通して、自らの支配を貫徹しようとする、「捕食者」の働きかけでもある。
現在の、我々の「集合点」は、「物質世界」と言われる「世界」に固定されており、それは、「近代社会」という文化により、強固に支えられている。
ドンファンは、「呪術とは、要するに、<集合点の移動>なのだ」と言うが、そのような固定化された世界を打ち破り、通常は知られることのない、様々な世界を創出しつつ、探究し、極めるのが、呪術ということである。さらに、最終的には、それらの個々の世界の探究(つまり呪術)を超えて、内部のイーグルの放射物を全体として輝かせることで、全体意識を獲得し、「無限」と一体化するのが目的とされる。
この「集合点の移動」だが、これには、まゆの中での「水平方向」(横方向)の移動と「垂直方向」の移動がある。「垂直方向」の移動こそが、本来の移動で、それにより、全く別の世界が構築されるのだが、多くの場合、「水平方向」(横方向)の移動か起こってしまうと言う。それは、特定の位置に固定された、集合点からの「ずれ」でしかなく、その特定の集合点が生んだ知覚世界に参照される限りでの、知覚にしか過ぎない。
ドンファンは、一方で、集合点を固定させることで生じる知覚は、すべて「幻覚」ということを言う。それは、本来、イーグルの放射物という「エネルギー場」であるものを、特定の「世界」として構築したものだから、確かにそうなるであろう。この点は、世界を、一つの「ホログラフィ」の現れとみることとも同様である。
ただ、一般に言う意味では、この「集合点」の「水平方向の移動」こそが、「幻覚」なのだと言っている。
それは、「この世界に入り込んだ、別の世界」 には違いないのだが、全く別の世界の構築ではなく、我々が固定的に知覚している、日常的な「物質世界」に参照されて構成されたもので、いわば「がらくた」の寄せ集めに過ぎないからである。
私が述べて来たところで言うと、それは、「世界」が崩壊し、全く変容してしまうのではなく、日常世界は継続しているのだが、そこに異質な何物かが入り込んで、「変容」してしまったかのような状態と言える。しかも、その「異質な何物か」は、多くの場合、日常世界に引き寄せられて知覚され、解釈される。つまり、「日常的な物質世界に参照された限りでの、「がらくた」の寄せ集め」のようなものとなるのである。それが、「幻聴」などの「幻覚」や、日常世界に引き寄せられた、「組織に狙われる」などの「妄想」の基なのである。
ドンファンも、次のように言っている。
「集合点を水平方向に移動させているものは、理解できないものを見慣れたものによって説明しようとする、ほとんど避けることのできない欲求や必要性なのだ」
この「集合点の移動」についての、「水平方向」と「垂直的方向」というのは、私がいう、座標軸としての「水平方向」と「垂直方向」というのとも、多く重なるようである。
統合失調状況は、感覚的世界と霊的世界の境界である、「霊界の境域」に入り込むことで起こると言った。それは、ドンファンで言えば、通常の位置での「集合点の固定」が揺らいで、「移動」するが、「知覚の障害物を超え」(※)て、「垂直的」な移動をし、全く別の世界を構築するには至らない、中間的な状態である。それは、「集合点の移動」という観点からも、私が言うように、「水平的方向と垂直的方向に引き裂かれて、宙ぶらりんになっている状況」といえる。
「水平的方向」での移動が多ければ、通常の日常的世界の要素が多く継続するが、「垂直的方向」の移動に近づけば、通常の日常的世界の要素は多く崩壊するわけである。
トンファンでは、完全に「垂直的移動」が起こらない限り、「水平的移動」としているが、そこには、垂直的方向に近づく要素と、水平的方向にずれる要素の両方がある、ということも言えるのである。
このように、「集合点の移動」という観点から、「知覚」や「幻覚」について、捉え直してみると、より具体的に、また、外的なものに左右されず、より内的、主体的に、理解することができるだろう。
次回は、ミナミAアシュタールのいう「波動領域を変える」ということが、この「集合点の移動」ということに照らすと、より理解しやすくなることを述べたい。
※ この「知覚の障害物を超える(破る)」という概念も興味深いもので、ドンファンは、それを超えて、集合点の「垂直的移動」が起こると、通常は、「黒の世界」と呼ばれる世界が構築されるという。この「黒の世界」について、あまり詳しい説明はないが、それは、私の言う「実体として闇」と共通するようにも思われる。
また、最近の記事『『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い』で述べた、カスタネダが崖から深遠に向かって飛び込んだが、「意識の暗い海」に包まれて、生きて帰って来たというのも、「集合点の移動」という観点からは、物質世界を超えて、死ということのない、「黒の世界」を構築した結果ということになるようである。
この辺りは、かなり入り込んでいるので、いずれ、機会があれば、述べることにしたい。
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