シュタイナーが様々な側面から浮かび上がらせるように語る訳
記事『シュタイナーの「悪魔論」について』では、シュタイナーが端的、明解に語ることは少なく、様々な側面から多様に述べて、全体像を浮かび上がらせるように語ることが多いことも指摘していた。それで、シュタイナーの本を読んだとしても、単純明解に言いたいことが分からなかったり、特に講演集などでは、互いに矛盾することを述べていると感じられることも多いのである。
『アカシャ年代記より』では、このことの理由も述べられているので、それを引用しておこう。
「われわれは高次の世界に関する諸真実をどれ程さまざまの側面から考察しようとも、決してしすぎることはない。元来われわれはどんな側面からでもまったく乏しいスケッチしか描けないということをよくわきまえていなければならない。
同じ事柄をできるだけさまざまの側面から見ていくとき、そこから受けとる印象は、ますます生命に満ちた表象像になっていく。そしてただそのような表象像だけが、高次の世界へ参入しようとする人に役立つのであって、無味乾燥で図式的な概念では役に立たない。表象が生き生きしていればいる程、色彩豊かであればある程、ますます高次の現実に近づくことが期待できる。」
つまり、高次の世界に関する表象は、単純に一面的になされるべきではなく、様々な側面から多様に浮かび上がらせることによって、生命に満ちたものとなり、役に立つものになる。単純、明解に示されるような「無味乾燥で図式的な概念」では役に立たない、と言うのである。
それはまさしくその通りであろうし、私自身も、このブログにおいては、一面的に受けとられることを嫌い、単純、明解に語るというよりは、さまざまな観点から浮き上がらせるように述べることが多いことも指摘していた。
しかし、シュタイナーのように一定の評価を受け、よく知られた人物ならともかく、知られてもいない人物が、そのように曖昧とも受け取られる述べ方をしても、誰もその内容を理解しないし、理解しようともしないだろう。
そこで、私は、一方では、図なども用いながら、単純、明解に本質と思われることを示しておくことも重視している。それは、それのみでは「無味乾燥で図式的な概念」に堕すおそれがあるが、様々な観点から述べられたことと相まって、より理解を助けるものにはなってくれるはずである。
また、私も、ブログ『統合失調とは本質的にどういう状況か 』の方では、一面的にとられたり、誤解されるおそれはあっても、あえて分かりやすく端的、明解に語ることを重視した。そのようなことは、やはり必要なことと改めて感じている。
もちろん、シュタイナーも、無暗に様々な観点から多様に述べることだけをしているのではなく、ときには明確に語ることもするし、その必要も感じながらそうしているはずである。
『アカシャ年代記より』においても、当時から、そのような内容は非科学的で荒唐無稽な妄想を述べたものに過ぎない、という批判を多く受けていた。特に、当時は「科学」が信奉された時代なので、科学の方面からの批判が多かったわけだが、シュタイナーもそれについては、明解な答えを述べている。
それは、結局は、「物質的なものと霊的なものの関係」ということに帰するのだが、次のように述べているのである。
「すべての物質の物理的性質は、霊的なものを通してこそ、解明されうる。」
「君たちの現実は現実の一部分にすぎない。現実の他の部分には霊的な事実が存在する。そしてこの霊的な事実によってこそ、感覚的事実の経過は説明されうるものになる。」
記事『「宇宙人」と「霊的なもの」』で、図示していたように、「物質的なもの」と別の領域として「霊的なもの」があるのではなく、「霊的なもの」は、「物質的なもの」を包み込む関係にあるのである。従って、物質的なものの「表面」ではなく「本質」は、「霊的なもの」によってこそ真に解明されるものになる、ということである。


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