精神医学

2021年3月16日 (火)

ウイルスによる感染症にも「病気」という見方が故の問題

前回、反精神医学者サースの言葉をとりあげつつ、精神疾患にいう「病気」とは、「隠喩」に過ぎないこと。しかし、これが、精神医学では、実体としてあるかのような、「病気」とみなされたことを述べた。

精神の領域において、このように、「病気」とみる見方がもたらす問題は、記事『「病気」という見方が故の問題』でとりあげた。

いくつか重要な点を再掲すると、

「本人も、周りの者も、その元にある状況という、実質的な面よりも、このような「病気」という「覆い」にこそ振り回され、支配されることになる。その元にある、状況と、主体的に関わる機会は奪われ、それが何であるのかについても、ほとんど学ぶ機会はない。」

「結局、全体として、「病気」という見方が、その実質を覆い隠す、強力な「覆い」として作用し、それ以上の考察を妨げ、思考を停止させる働きをなしているのである。」

「「病気」というのは、それ自体は、特に内容をもたない「観念」に過ぎない。しかし、それは、その元にある「訳の分からない」状況に、覆いをする強力な働きをする。そこで、「病気」という「覆い」が、それ自体、一つの、強力な「事実」のように機能し始める。その「覆い」は、元にある「訳の分からなさ」(未知性)を、幾分とも反映するから、それ自体が、「訳の分からない恐ろしさ」を孕み、膨らませる。

そうして、「病気」ということが、社会をあげて「治療」すべき、巨大な「害悪」と化す。この「恐るべき病気」という、それ自体において肥大した観念が、本人にも、周りの者にも、その実質と向き合う可能性を、阻害する。」
                                             

これは、「精神の領域」について述べたものだが、最近のコロナ騒動においてもみられるとおり、ウイルスによる感染症においても、十分当てはまることと言うべきである。

特に、「その「覆い」は、元にある「訳の分からなさ」(未知性)を、幾分とも反映するから、それ自体が、「訳の分からない恐ろしさ」を孕み、膨らませる。」というところは、多分に、「訳の分からなさ」(未知性)をはらむ、ウイルスによる感染症にも、まったく当てはまる。コロナ騒動の多くも、このことによってこそ、醸し出されている面が大きいのである。

そして、これは結局、精神の領域のみならず、身体医学的な領域においても、「病気」という観念は、実質を覆い隠す働きをし、さらに、それ自体が独り歩きして、「恐るべき病気」、「社会をあげて治療すべき病気」という「巨大な害悪」を作り出す、ということになることを意味している。

明らかに、社会は、「病気という観念」に振り回されているのである。

また、記事『「病気」ということの「イデオロギー」的意味』と、次の『「病気」ということの「イデオロギー」的意味2』では、精神の領域において、「病気」ということのイデオロギー的な意味を明らかにした。

それについても、重要な点を再掲すると、

「第一段階は、社会的に放置できない、一定のパターンの精神的状態を、医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである。この場合の「病気」は、必ずしも、身体医学的な意味の「病気」ではない。精神の「病気」であれ、何であれ、とりあえず、それを「病気」として、医学の対象に取り込み、「治療」の必要な「害悪」と、規定することが重要なのである。

次に、第二段階は、身体医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである。ここでは、もはや「病気」とは、単なる「病気」でも、「精神の病気」という曖昧なものでもなくなった。身体医学の対象と同じく、身体の病気なのであり、特に「脳の病気」とみなされたのである。そこで、精神薬のような薬物療法が、治療手段として主流となり、人手のかからない、合理的、マニュアル的な対処が可能となった。

第二段階では、身体医学に引き寄せて、それまで「精神の病気」とされたものは、実際には、「脳の病気」であり、精神薬という物質的手段により、治療されるものである、という「イデオロギー」が浸透されたのだった。

この「イデオロギー」を象徴するのが、前回もみた、「ただの病気に過ぎない」という言い方である。言い換えれば、それまでは、(精神の)「病気」としても、その原因や治療法など、謎めいたものを多く孕んだままであった。が、ここにおいて、「病気」ということで、一応とも「分かった」ことにされたのである。つまり、身体医学の領域に引き寄せることで、「病気」ということ自体が、謎めいた現象についての、一つの「結論」としての意味を帯び、それに基づいて、治療法などの対処の仕方も、明確に単純化されたのである。」

これも、精神の領域について述べたものだが、身体医学の領域についても、やはり当てはまるものと言うべきである。

精神の領域において、「身体医学の領域に引き寄せ」て、「病気という規定」をしたということで、「病気という観念のイデオロギー性」が露になったわけだが、そもそも、身体医学の領域において使われる、「病気という観念」自体が、既に「イデオロギー」的なものだった、ということである。

特に、「「病気」ということで、一応とも「分かった」ことにされた」ということ。「「病気」ということ自体が、謎めいた現象についての、一つの「結論」としての意味を帯び、それに基づいて、治療法などの対処の仕方も、明確に単純化された」ということは、身体医学の領域においても、まさになされたことなのである。

だからこそ、「病気」という観念が、実際に起こっていることの「実質」を、覆い隠す働きをなすことができるのである。

もちろん、この場合の「病気」とは、近代以降の西洋医学にいう意味の「病気」である。要するに、「病気」とは、身体という機械的なシステムに支障を来すことで、その原因は、内部的なものであれ、病原体のような外部からの侵入によるのであれ、「物質的なもの」であるということである。

従って、よく分からない、恐ろし気な「病気」も、表面上は、「病気」として「分かった」ことにされ、薬を中心とする「物質的な」治療法が確立される。あるいは、ただ、その「害悪」を取り除けばよいというだけのこととなる。それは、社会に、「安心」や「期待」をもたらすようでありながら、実際には、その「よく分からない」実質の多くの部分が、覆いをされ、隠されたままに残されているのである。

従って、もともとある「訳のわからなさ」(未知性)は、その隙間から、常に顔をのぞかせざるを得ないのである。それが、「病気」という観念にも反映されて、「恐るべき病気」「社会をあげて治療すべき病気」というような、騒々しい観念を膨らませていくのである。

そのようなことが、最近のコロナ騒動をみても、如実に浮きびあがっているのが分かる。

東洋では、もともと、「病気」という観念は、「気を病む」ということを意味していた。これならば、「気」という、身体と精神をつなぐ領域に目を向ける、的確なもので、「病気」というのも悪くないだろう。ところが、近代以降の「病気」という観念は、そのような見方を覆して、物質的なもの一辺倒の見方に変えてしまい、実際には、実質を覆い隠して、ただ、「病気」という観念を肥大化させて行き渡らせてしまうことになったのである。

 

2021年2月26日 (金)

『R.D.レインと反精神医学の道』と隠喩としての「精神の病」

R.D.レインについては、私も、「最も分裂病理解に近づいた一人」として、記事『「自己の脆弱性」/『ひき裂かれた自己』 』及び『「疎外」からの「逸脱」/『経験の政治学』』でとり上げている。

『「自己の脆弱性」/『ひき裂かれた自己』』では、主著である『引き裂かれた自己』をかなり詳しく解説し、それは、分裂気質の者のあり方を、これ以上ない程に内面深く切り込んで、鋭く分析していることを明かにしている。ただし、それは、否定的な面のみに偏り過ぎて、問題もあることを指摘した。

そして、『「疎外」からの「逸脱」/『経験の政治学』 』では、レインが、その問題を大きく修正し、分裂病体験は、「霊的な旅路」として、現状の行き詰まりの突破となり得ることを明確に示したことを、大きく評価した。そこには、レインの、「正常」といわれる状態こそ、現代の「疎外された社会」での適応状態に過ぎず、そこからの逸脱は、むしろ、その疎外された状態の突破の契機となる、という認識も大きく働いている。

とは言え、レインは、『引き裂かれた自己』でみた分裂気質の者のあり方を否定したわけではなく、分裂病体験の否定的側面も十分認めているのである。だから、決して、「狂気を美化」したのでもなく、分裂病が、単に、「家族や社会によって作られたもの」に過ぎないとしたわけでもない

このように、レインには、分裂病そのものへの深く鋭い視点が厳としてあり、その点で、他の反精神医学者とは一線を画す、ということも述べていた。

この度、ズビグニェフ・コトヴィチ著『R.D.レインと反精神医学の道』(日本評論社 )という本が出ていたので、読んでみた。これは、レインの思想の移り変わりや、その背景、他の反精神医学者との相違、キングスレイホールのような実践のあり様、レインへの批判などが、簡要にまとめられていて、参考になる。レインを読んだことがない人には、理解が難しいかもしれないが、読んだことがある人には、理解を深めてくれるものになるはずである。

著者の視点も、上のような私の考えに近く、大枠で納得できるものでもある。レインへの批判も紹介しつつ、それらの多くが、的を得ないものであることが、指摘されている。

主著『引き裂かれた自己』を高く評価する人は、後のレインの転換を、後退とみる人が多いが、決してそうとは言えないことも、指摘されている。ただし、著者が、後の転換の方を高く評価するのかどうかは、曖昧である。

病者と分け隔てなく共同生活をするキングスレイホールの実践も、失敗に帰したとみる人が多いが、レインにとっては、それは文字通り、社会の中での「実験的意味」だったので、何も、治療できることを標榜したわけではない。

晩年、レインは、分裂病の解説や治療からは離れて、詩人あるいは文学者に帰した観があるが、これも、レインにとっては、「分裂病者」よりも、「疎外された社会」の方が、絶望的に問題となっていたということで、理解できるはずである。

ところで、この本では、レインではないが、サースという反精神医学者の「病気」に対する見方が紹介されていた。サースは、レインのように、分裂病そのものへの深い切り込みはないようだが、「病気」という見方については、レイン以上に鋭い突っ込みがあったようである。

私の考えていたこととも重なる、重要なものなので、とりあげてみる。

サースは、「精神疾患」という言葉が隠喩に過ぎないと論じている。冗談の「趣味が悪い」(シック)とか経済が不振(シック)とかの意味でのみ、こころは病気(シック)となりうるのだ。」

端的に、「精神疾患」の本質をついた言葉と言うべきである。要するに、精神の病気というときの「病気」とは、身体医学で病気というときの「病気」を、精神の領域に比喩として借用した、「隠喩」に過ぎないということである。

例えば、経済が不振であるとか、冗談の趣味がよくないなどのときに、英語では、病気を意味する「sick(シック)」」が「隠喩」として使われるが、それと同じような意味で、精神の領域にも、「sick(シック)」 が使われるに過ぎないということなのである。

日本でも、同じように、「不調」とか、「具合が悪い」という意味で、「病気」や「病的」という言葉が、いろいろな方面で使われるから、これは理解しやすいことだろう。

何しろ、経済そのものや人の冗談に、何か実体として、「病気」というものがあるわけではない。それと同じように、精神の領域にも、「病気」なるものがあるわけではないのである。ただ、「隠喩」として使われているに過ぎないのだが、精神医学は、それを、実体としてあるかのように、みなしてしまったのである(あるいは、「敢えてみなした」のである)。

私も、「精神の病気」に言う「病気」とは、「たとえ」であるということを、記事で述べようと思っていたところなので、これは、まさしく、我が意を得たりというものであった。

ただ、私に言わせれば、そもそも「身体医学」にいう「病気」というのも、決して「実体」とは言い難く、相当に怪しい「観念」に過ぎない。ただ、仮に、身体医学に言う「病気」を認めたとしても、精神の領域でそれが使われるのは、その「隠喩」に過ぎないのだ、ということで理解してほしい。

 

2020年10月12日 (月)

一般の精神医学との相違を端的に示す図

「狂気」または「統合失調」について、一般の精神医学と私の説との相違を、端的に示す図を作ったので、掲げます。

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この図を通して、示したかったことは、「一般の精神医学」と「私の説」では、根本的と言っていい、方向性の違いがあるということです。それは、いかんともし難いもので、その溝は、以下に見るような、精神医学の前提が変わらない限り、埋めようがないものです。

一般の精神医学の前提は、「声」などの幻覚は、(客観的には)「存在しないもの」であるということです。それを、統合失調の者は、「存在する」もののように知覚するので、それ自体が、「病的」であり、病気の現われとしての症状だとするのです。

それが「病的」であるとは、それは、「虚偽」であり、「害悪」であり、「取り除かなければならないもの」ということです。そこで、その「原因」を探って、それを「取り除く」ための方法を、「治療法」として、確立しようとするのです。()

その原因を、「脳」の異常とみるのが、主流である、「生物学的精神医学」であり、それは精神領域の問題とするのが、精神分析や実存分析などの精神医学です。

主流である、「生物学的精神医学」では、現在も、統合失調者の脳や遺伝子に何らかの特徴をみつけることに血眼になり、それを「原因」とみなそうとします。しかし、本来、統合失調の者の脳や遺伝子に何らかの特徴がみつかったとしても、それが「原因」である必然性はないですし、そのことが、「病気」または「病理性」の証明になるわけでもありません。

ただ、「幻覚」とは「病的」なもので、「取り除かなくてはならない」もので、それは、「脳が原因」で生じているという前提を当然のものとして疑わないとき、そのような特徴が、「原因」として見出されたものとして、即断されてしまうのです。

それに対して、私の説は、「声」のような幻覚は、物質的な存在ではないが、「客観的に存在する」ものであるということです。図では、「非物質的存在」としていますが、「霊的存在」としてもいいです。

いずれにしても、それ自体は、存在するもので、それがあること自体が、「病的」なことでも、「取り除かなくてはならない」「害悪」でもないとみなします。

ただ、その客観的に存在するからこそ、人を捕らえる、大きな「力」を有する「幻覚」に、振り回されて、混乱し、あるいは、それに基づいて「妄想」を構築して、それを行動にも現すようであれば、確かに、「病的な振る舞い」となるということです。

そして、この場合は、「治療法」ではなく、「対処法」こそが問題なのであり、それは、「病的な振る舞い」をできる限り、抑えるということに尽きます。それには、「声」として現れている「幻覚」に、ただ振り回されるのではなく、見極めていき、その性質を十分に捉えることができるようにならなければなりません。何しろ、「取り除く」ことが問題なのではなく、「振り回されない」ことが問題なのです。

「声」は、客観的に生じているもので、現に「病的な振る舞い」を生じさせる、とりあえずの、はっきりした「原因」として、非常に重要な「とっかかり」です。それを、「見極める」ようにすることから、それまで知らないでいた、様々なものが、「見え」てきますし、さらにそれをとっかかりにして、それをもたらす内的な原因にまで踏み込むことも可能です。

「声」は、内的にあるものとの関連で生じているので、内的なものをみつめるきっかけにもなるのです。

それに対して、一般の精神医学は、ただ「幻覚」を取り除くことに一生懸命で、現に統合失調の者が、振り回されている、「幻覚」の内容に興味を示すことも、理解しようとすることもありません(ただの「虚偽」なので、その必要もないことになります)。それでは、なぜ、統合失調の者が、そんなにも、信じがたいほど、「振り回されている」のか、つまり、統合失調の者の陥っている状態そのものも、何ら理解しようとしないことになります。

今回は、一般の精神医学との相違を、端的かつ明確にするために述べているので、詳しくは述べないですが、結局は、その相違は、「声」=「幻覚」の捉え方が、180度異なることから、来ているということです。そして、それは、それが変わらない限り、溝が埋まらないような、根本的なことということです。

※ 11月2日 

 「幻覚」は、存在するのであろうと、存在しないものをあると知覚するのであろうと、「害悪」であることに違いないから、「取り除く」のが適切な処置であることは疑いない、と思う人も多いかもしれません。しかし、「幻覚または妄想という現象自体」を取り除くなどということは不可能なことで、「取り除く」(「修正する」というのも同じこと)とすれば、「幻覚や妄想を生む脳の部分または機能」ということになります。その発想は、結局は、ロボトミー(前頭葉摘出手術)と同じであり、幻覚や妄想を含む思考や感覚の働きの多くを「取り除く」ことにならざるを得ないのです。精神薬も、発想としては、その延長上にあるもので、実際に、幻覚や妄想というだけでなく、思考や感覚の多くの働きを鈍らせてしまうのです。

生物学的精神医学は、その精度をより精密にすべく、「原因」となる脳の部分や機能の探究を続けているのでしょうが、発想としては、やはりそれらの延長上にあるもので、厳密に「幻覚や妄想」という「害悪」だけを取り除くなどということは、あり得ないことです。

ところが、それでも、一般に、幻覚や妄想は、そのような「犠牲」を差し引いても、「取り除くべき」という、強い「忌避」の意識があるので、そのようなことが顧みられることはないというのが、現状です。この、「幻覚や妄想」に対する「忌避」の意識の背後には、「オカルト的なもの」への「忌避」の意識があるということも、何度も述べているとおりです。

 

2020年7月 1日 (水)

「常識」ではなく「共通感覚」からの逸脱

記事『「狂気」と「唯物論」』で、「組織に迫害される」などの「妄想」を信じることは、「何か、常識というか、一般の感覚を大きく逸脱して、「一線を超えてしまった」感じを与え」ると言いました。ここで、「常識というか、一般の感覚を大きく逸脱して」というのは、正確には、「常識<ではなく>、一般の感覚を大きく逸脱して」というのが正しいです。

「常識」というのは、実は、「妄想」というのと本質的には変わりなく、「一般に共有された妄想」とも言い得るものです。「妄想」というのは、端的には、一つの、「思い込み」であり、「決めつけ」ですが、それは「他の可能性を排除すべく、動機づけられ」て信じられる、ということがポイントでした。

「常識」というのも、まさに、そのように、「他の可能性を排除すべく、動機づけられ」るからこそ、あえて「形成」されるものです。そして、「決めつけ」的な作用を及ぼすのも同じで、一旦「常識」として形成されれば、周りの者にも、それこそが「正しい」ものとして、事実上押しつけられていきます。

ただ、それが、「妄想」のように、個人的なものではなく、他の多くの者と「共有」されているので、「妄想」とはみなされずに、強力に、その作用を発揮するのです。

だから、「妄想」の方も、そのように、他の多くの者に共有されて、「常識」のような位置へと近づくことを目指します。それで、ことさら人に訴えかけられるのですが、それゆえ、逆に、多くの者の、排除の抵抗を受けることにもなるのてす。

言い換えると、「常識」というのは、「感覚」レベルのものではなく、観念レベルで形成された、「固定化」されたものだということです。「組織に迫害される」などの「妄想」を聞いて、「おかしい」と感じるのは、このように観念的な「常識」によるのではなく、もっと「感覚的」なレベルでの(感性的な)反応と言うべきなのです。

中村雄二郎という哲学者は、『哲学の現在』(岩波新書)という本で、「常識」としてできあがったものは、固定化された融通の効かないものですが、その形成の元となるものに、「共通感覚」というものがあると言います。それ自体は、五感を超えた統合的、全体的な感覚で、「常識」として観念化される以前の、生きた働きです。「常識」という言葉の元となった、「コモンセンス」には、この意味があると言います。

「組織に迫害される」などの「妄想」を聞いて、「おかしい」と思うのも、このような意味の、「共通感覚」によると言っていいと思います。それは、必ずしも、明確に「観念化」して説明できないけれども、感覚的なレベルでは、「おかしい」ということを、明白に、動かし難いものとして感じるのです。

あえて、それを観念的な形に表現するとすれば、

1「組織に迫害される」と言うが、そんなことは、あり得るとしても、余程のことであるが、その者に、それだけの理由があるとはとても思えない。
2「組織」に迫害されるという方法が、そのような高度な組織のやり方としては、あまりにもちぐはぐで、現実離れしている。
3  何よりも、それだけ、普通はどう考えても「あり得ない」事柄を、単に可能性としてではなく、事実として、信じ切って疑わないのが、信じ難いことで、「おかしい」。

といったことになると思います。これは、統合失調的な 「妄想」だけでなく、最近の「集団ストーカー被害」を訴える人にも当てはまることでしょう。

ところが、「妄想」を訴える人は、自分の妄想を、「そういう組織には、それだけの技術があるのだから可能なのだ」というように、「観念的」なレベルで、つまり、「感覚」に訴えるのではなく、「常識」に寄せて、論理に訴える形で、説明しようとするのです。それで、ますます、多くの者にとっては、感覚的レベルとの齟齬が激しくなり、「おかしい」という思いを強めることになるのです。     

「妄想」が、このように「常識」に寄せて、観念レベルで訴えかけようとするのは、先にもみたとおり、必然のところがあり、まさに、「常識」に反すること、かけ離れてしまうことを、恐れるがゆえなのです。一見、常識から逸脱するようにみえても、実は、そうではなく、「常識」に適っているのだということを、躍起になって説明しようとするのです。

ところが、皮肉なことに、論理的に、常識レベルに訴えかけるほど、一般の「(共通)感覚」との齟齬を強めてしまう結果になるのです。

実を言うと、一般に対して、「常識に反する」という形の反応(反感)を呼び寄せるのは、私のように、統合失調の基礎には、「霊的なもの」が働いているなどという説明の方です。現在は、大分変わって来ましたが、まだまだ、「霊的なものがある」とか、さらに、それが「統合失調の基礎にある」などというのは、「常識」からは逸脱したものです。だから、このような説の説明は、「常識」として形成されているものの、観念や論理の危うさをついて、それを問い直すことを通じて、訴えかけるしかありません。

一方、一般の方も、このような説は、「常識に反する」ので、信じ難いとは思っても、「妄想」の場合のように、共通感覚的に、「おかしい」というのとは、また違った反応になります。

そして、この場合の「常識」というのは、記事『「狂気」と「唯物論」』でもみたように、「唯物論的な発想」ということになります。必ずしも、「唯物論」そのものとして、積極的に「物質的なものだけが存在する」と信じられているのではなくとも、その方向に沿うような、近代社会一般に浸透している発想です。

「組織に迫害される」というような「妄想」を訴える人は、感覚レベルでは、とにかく、これまでの日常に照らして、信じ難いような、「尋常でない」ことが身に起こっているということは、疑いようもなく感じています。それが、本当は、「常識」に反する、何か「未知」の事柄である可能性も、どこかで感じているはずなのです。

しかし、それを認めることができない故、それは、決して「常識に反する」のではなく、「組織による迫害」など、「常識」の延長上に理解できるものとして、「常識」を信じる側に、訴えかける必要があるのです。本当は、そうすれば、そうするほど、かえって、「無理」を押し通し、共通感覚的な「おかしさ」を招き寄せることになるのですが、それには、目をつぶって、そうする必要があるということです。()

「妄想」は、単純な「病気の症状」などではななく、このように、世間一般に信じられている、「常識」との関係で生じるもので、また、そこから逸脱することの恐れということが、深く影響していることを、改めて認識する必要があります。

「妄想」を訴えかける人、あるいは「集団ストーカー被害」を訴えかける人にアドバイスがあるとすれば、「組織による迫害」など、解釈または観念のレベルで、「決めつけ」的に訴えかけるのではなく、感覚レベルでどういうことが起こっているのか、まずはしっかりと説明することです。

普通は信じられないかもしれないが、「自分のことが周りの者に知られている」と<感じる>とか、行きかう人が、いろんなことを言ってくると<感じる>。あるいは、とても偶然とは思えない頻度で、人が自分につきまとっていると<感じる>などです。

恐らく、それを訴えても、「そんなのは気のせいだ」とか、「思い込みだ」と言われてしまう可能性が高いし、「病気だから病院に行った方がいい」(これは、「共通感覚的な反応」ではなく、まさに「常識という固定観念」による反応ですが)という人も出てくるでしょう。

「妄想」を訴えかける人は、このような反応が多いからこそ、そのレベルではなく、「常識」に寄せた、「組織による迫害」という解釈、観念のレベルで訴えようとするのですが、それが先にみたとおり逆効果で、ますます一般には、受け入れられることがなくなるのです。

感覚レベルで訴えかけることのリスクが高いのは、理解できますが、世間一般ということではなくとも、家族など、どうしても理解してほしい人には、そのレベルで、起こっていること、感じていることを、率直に訴え続けるしかないのです。多くの人でなくとも、ある一定の人たちは、(それを事実として認めるかはともかく)「そのような感覚を持っているがゆえに苦悩している」ということは、必ず理解してくれるものと思います。

いずれにしても、私に言わせれば、「妄想」を訴えかける方も、世間一般の方も、唯物論的な発想という「常識」の土俵の上で、やり合っていますが、それでは、互いにかみ合うことはなく、決して埒はあかない、ということです。

この場合には、唯物論的な発想という「常識」そのものを、問題とする必要があるのです。

※ 共通感覚的に「おかしい」ということを「共有」できず、逸脱してしまう理由を、動機のレベルから説明すれば、こういうことになります。しかし、感覚レベルでいえば、「妄想」の基礎にある感覚レベルでの体験には、強烈なリアリティを感じており、それが共通感覚的に「おかしい」ということを上回っているからです。このリアリティは、あくまで感覚レベルの体験にあるものですが、「妄想」として観念レベルに築かれたものに対して、働いてしまっているわけです。

 

2020年6月14日 (日)

「絶望の果てでの笑い」

船瀬俊介著 『できる男は超少食』に、面白い話があったので、紹介します。

「ひどいうつ病の男がいた。もう死にたくなって電車に飛び込もうとしたが、痛そうなのでやめた。ビルから飛び降りようと思ったが怖くてやめた。首を吊るのも苦しそうだ。そこで、何も食べずに餓死することにした。ところが、3日、4日と食べないうちに、不思議と心が澄み切ってきて、なぜだか生命力がわいてきた。そして、死ぬのが馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった。」

なんと、死ぬつもりの断食で、うつ病が治ってしまったのです。だから、うつ病患者に私はこうアドバイスしたい。
「自殺するなら断食に限りますよ!」

笑ってしまいますが、実は、私が統合失調状態から回復したのも、これに近い話と言えば言えるのです。

記事では、「闇との遭遇」あるいは「一体化」という、大層な出来事によるように書いていますが(それ自体は決してウソでも誇張でもないですが)、結局、本質的なところは、このような笑い話に近いというのが、偽らざるところでもあるのです。

「馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった」というのがポイントです。

私も、回復に向かう寸前の状況では、永遠に「悪魔」の呪縛から逃れることはできない。世界ももはや「終わり」を迎えようとしている。という、絶望的な気分になって、自殺を考える状態でした。自殺すれば、悪魔を「道連れ」にできるかのような幻想もありましたが、考えてみれば、そんな保証はあるはずもありません。結局は、自分もますます「あの世」で、呪縛されるだけで、解放される望みもなく、この「世界」も、だた空しく終わるだけということに気づかざるを得ませんでした。

そんなときに、「闇との遭遇」あるいは「一体化」が起きたのですが、それは、端的に言うと、私が「終わる」とか、「悪魔に呪縛される」とか言っていた「世界」そのものが、実は「無」だったということを示すものでもあります。それまで、いやというほど囚われていた「世界」の本質が、そのとき、その姿を如実に現わしたのです。その瞬間は、そのように、「知的」に認識したわけではありませんが、そのことは、一瞬の体感により、疑いようもなく、感じ取られたことです。

そして、私も、すべてが「馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった」のです。

そうしたら、それまで延々と悩まし続けられた、統合失調状態そのものが、どこかに行ってしまっていたのです。その瞬間は、それまでずっと呪縛され続けていた、どうしようもない状態が、まるで、何事もなかったことかのように感じられました。

その後も、たとえば、「声」や、「捕食者」のような存在の働きかけがなくなったわけではありませんが、そんなことは、大したことではなくなってしまったのです。少なくとも、それに囚われて、落ち込むということはなくなりました。

要するに、その内容や具体的な経緯は、どのようなものであれ、結局は、「絶望の果てでの笑い」ほど、回復の効果のあるものはないということですね。

 

2020年5月28日 (木)

「狂気」と「唯物論」

前回、前々回の記事で、「狂気」「感染症」「唯物論」というものには、「文明病」的な関わりがあることを述べました。

その中で、特に、「狂気」と「唯物論」との関わりについては、前々回の記事で、「「狂気」も「唯物論」も、近代社会以降爆発的に広まった、一種の「文明病」として、互いに絡み合うところがあるのも事実である」とだけ述べていました。しかし、これは、具体的にも、これまで述べて来たところから、明らかなことと思います。

今回は、これについて簡単に振り返りつつ、さらに考察してみたいと思います。

「統合失調的状況」において、まず、周りの者に、最も「狂気じみた」ものとして現れ出るのが、典型的な「妄想」、特に、「組織に狙われる」などの迫害妄想です。そのような「妄想」を信じること自体が、何か、常識というか、一般の感覚を大きく逸脱して、「一線を超えてしまった」感じを与えます。さらに、そのような妄想に基づいて、不安や恐怖、怒りの感情も露わに、奇妙な行動をとることは、まさに「了解」しようのない、「狂気じみた」ものを感じさせます。

しかし、そのような「妄想」の元には、一般にも通じる、「唯物論」的な発想があり、それが存続の危機を迎えているので、何とかそれを「護ろう」とする、強い「あがき」である場合が多いのです。

「唯物論」というのは、「世界」には、物質的なもののみが存在するという信念ですが、それは、対比的に言えば、近代以前に信じられた、「霊的なものは存在しない」という信念とも言い換えられます。つまり、個人的な信念であると同時に、時代的、集合的な信念で、近代社会特有の信念ということができます。まさに、高度に「文明」的な信念です。

「統合失調的状況」では、不審な内容の「声」を聞くなど、これまでの状況からは、「未知」としか言いようのない状況を迎えています。それは、これまでの、唯物論的な発想に基づく「世界」または「現実」そのものを、崩壊させかねないようなものなのですが、それを認めずに、何とか、これまでの「世界観」の延長上に、起こっていることを解釈しようとするときに、出て来るのが、「組織に狙われる」などの「妄想」なのです。

それは、「病気」でもなく、何か、「霊的なもの」の現われなどでもなく、「現実」の人間による、「組織」による行動で「なくてはならない」のです。その「組織」とは、権力的な組織力と高度な技術を備えたものなので、起こっていることの説明に適うとみなされるのですが、周りの者には、かえって、明白に、「無理」で「奇異」な内容となるものです。実際に、「無理」が押し通されている面があるからです。ところが、本人にとっては、許容される「唯一の可能性」なのであり、むしろ他の可能性を排除すべく、決定的に、「動機づけられ」つつ選び取られているのです。

実は、「病気」というのも、唯物論的な発想に基づくもので、本人の側の唯物論的な発想からしても、強烈に「現実的なもの」です。そのため、だからこそ、「病気ではない」ということの明らかな証として、「組織」という(唯物論的に)「現実のもの」を持ち出す必要があるということにもなります。

このように、「病気」という見方と「組織による迫害」という妄想は、唯物論を媒介にして、裏返しの関係にあるのです。

しかし、本人にとっての、真に差し迫った脅威は、それにあるわけではありません。それは、その者が陥っている、唯物論的な世界または現実そのものの崩壊という状況の方にあり、妄想の真の動機も、それを何とか押し止めようとする、「あがき」の方にあります。

結局、「狂気」を最も「狂気じみた」ものにしているのは、この、差し迫った恐怖に基づく、「あがき」であり、それをいかんともすることができないということにあるといえます。

もちろん、このような狂気は、唯物論的な信念以外の信念に基づいても起こり得ますが、唯物論的な信念を護持しようとして起こるものは、その信念にこそ基づいてる、一般社会との関係で、特別に熾烈かつ悲壮なものをもたらすのだと言えます。

それは、同時に、「唯物論」という信念自体が、既に、どこか「狂気じみて」おり、独特の「偏狭さ」をもつものだからでもあります。近代以前には、普通に信じられた「霊的なもの」を、近代という、ポッと出の人たちが、独特の時代感覚で、否定し切ったつもりになり、唯一の正しい信念であるかのように振る舞うというのは、恐ろしいばかりの、「偏狭さ」でしかあり得ないでしょう。

その「唯物論」という、既に狂気じみた信念を護ろうとして、起こされる「あがき」は、「狂気」が二重に重ねられたごとくに、殊更「狂気じみた」反応をもたらすということです。

※ 「組織に狙われる」という形の妄想をもつ人たちの多くは、おそらく、積極的に「唯物論」的な発想をもっているわけではないと言うかもしれません。しかし、漠然とした形で、霊的なものを否定しないという人たちも、霊的なものを積極的に認めているわけではなく、また、それに対する多くの恐怖を抱いているのが普通です。そこには、少なくとも、社会的に形成された、「唯物論」的な習性の影響が、大きく働いているというべきなのです。

 

2020年3月 3日 (火)

記事『どぶろっくと「妄想」』推奨

あまり読まれていないようですが、記事『どぶろっくと「妄想」』は、どぶろっくの妄想ネタを通して、統合失調的な妄想の元にあるものを、誰にとっても、率直に、分かりやすく、明らかにしていると思いました。

他の私の記事が、多少論理的に過ぎて、くどい感じがあるとすれば、この記事の端的な「分かりやすさ」は、かなり貴重のはずです。

どぶろっくは、最近、また、「大きな一物」を引っ提げて(笑)、リバイバルしているので、この機会に、改めて読んでもらえたらと思います。

特に、妄想の元にある「声」の特徴を、「ガチでリアルにヤバい」と言っているのが、適確で(笑)、重要なことです。その「声」を聞いた、率直な感じとしては、まさに、そのようにしか、表現しようのないものだからです。だからこそ、多くの人は、真に受けて、振り回されてしまうのです。

繰り返しますが、単純に、「ヤバい」のではなくて、「ガチでリアルにヤバい」のです。それは、「通常の人間」の出せるものではない、ということに気づいてほしいと思います。それに気づけるかどうかが、その後のあり様を大きく変える、分かれ目と言っても過言ではありません。

もちろん、それは「恐ろしい」ことには違いありません。それでも、どこかで、「ヤバイよ、ヤバイよ、ヤバイよ!」と、出川風に、(心で)つぶやきつつ、ちょっと距離を置いて、自分のおかれた、「あり得ない」状況を、興味をもって眺められるようになれれば、しめたものです。

2019年12月28日 (土)

『幽幻医学』

奥山輝実著『幻覚妄想と向き合う 幽幻医学 五次元波動へのパスポート』(ヒカルランド)を読んだ。

著者は、元脳外科医で、現在は自然医学に基づく独自の療法による開業医をしている者である。私は、『マイナスエネルギーを浄化する方法』(記事 参照)のときと同様、医師等の書いた、この手の「(軽い)スピリチュアル」風の療法には、警戒心を抱き、あまり読もうとしないのだが、幻覚・妄想を問題の中心に据えたもので、プロローグを読む限り、共感するところも多かったので、読むことになった。

結果として、それは、私のこのブログで説いてきたこととも、(視点は異なるものの)大きく重なるもので、大枠で、十分受け入れられるものだった。

むしろ、私も、旧来の精神医療のほか、この書でとりあげられるような症例の、「受け皿」がないことをずっと懸念していたが、それを一手に引き受けるようなことをなしていることには、率直な驚きがあった。

特に、プロローグの次の文書を読んでもらえば、現状の認識として、いかに私の述べてきたことと一致するか、分かると思う。

2018年は精神医療の嘘と闇が一気に暴かれ始めた年となりました。もう個性や才能を精神病だと決めつけて向精神薬漬けの廃人にしてしまうことが難しくなってきたのです。

精神医療の瓦解は素晴らしいことです。新しい世界の幕開きを実感できます。

しかし一方で、幻視や幻聴などの幻覚や妄想に悩む人たちが急増しているのも事実です。

旧来の向精神病薬では幻覚妄想は治せません。

それは症状を抑え込む対症療法だっただけでなく、脳機能も精神機能もズタズタに破壊して今生を再起不能にしてしまう恐ろしい薬物治療でした。減薬断薬するにしても、何年もの間、患者さん本人もその家族も地獄の苦しみを味わわなければならないこともしばしばでした。

そんな精神医療が消え去るのは大歓迎すべきことですが、「では、幻覚妄想をどう治療するの?」という受け皿がないことも事実です。

そのような状況で、これらの人たちの「受け皿」となるようなものが必要だが、その必要上生まれたのが、著者のいう「幽幻医学」ということである。

「幽幻」とは、字のごとく、「幽き幻」の領域という意味で、それは、「三次元領域」と、人類がこれから移行しようとしている「五次元領域」の、中間的な領域(のある部分)を表している。つまり、「幽幻病」とは、この物質的、感覚的世界と純粋な霊的世界(単に「物質的な領域」というだけでなく、霊的なものの「闇」の側面も越えた領域)との中間領域にはまり込むことで、起こっている様々な精神状態を表している。

それは、五次元領域に「ジャンプアップ」してみれば、「幻」であることが分かって、解消されてしまうものなので、「幽幻」領域の「病」と呼ばれているのである。後にみるように、私というより、シュタイナーのいう「霊界の境域」とも十分重なる

それで、その治療法というのも、五次元領域への「ジャンプアップ」を、支援するようなものが中心となっている。

著者には、『霊障医学』という本もあって、そちらの方では、ネガティブな「霊障」というものを多くとり上げていたが、この書では、「スピリチュアル」にある程度詳しい人なら、一見して「スピリチュアル」なものとの関わりで生じていると分かるような、混乱や問題が多くとり上げられている。

しかし、旧来の精神医療では、このようなものも、すべて「病気」として扱われて、精神薬が投与されることになるので、霊的な方向への移行の機会はつぶされてしまうのである。

ただ、この書では、『霊障医学』では、かなり具体的に示されている治療法については、あまり記されていないので、それを読まないと、具体的には捉えにくいかもしれない。

基本は、食事療法や生活養生。精神薬を飲んでいる場合は、減薬・断薬。前世に遡って、起こっていることの意味を知る、前世療法などで、しっかりと足のついたものである。霊的な世界への移行を支援すると言っても、この世での生活こそがまず問い直されるし、それを、おろそかにするものでは決してないということである。「霊障」についても、霊的なものを「祓う」という発想より、こちらの方が主である。

ただ、それらの療法は、現に「霊的な世界」からの支援でなされていることを、はっきりと述べているものもある。ブラジルやフィリビンなどには、このように霊界からの支援でなされる医療が多くあるが、この医師も、そのような役割を負っているようである。

(このように言うと、類似の症状に悩む人は、この医師に頼りたくなるかもしれないが、私としては、基本的に受け入れられ、共感できるものとは言えても、その効果を保証できるものでは、全くない。各自が、本を読むなり、情報を調べて、しっかりと判断してほしい。)

さらに、私の観点から、興味深いのが、あらゆる領域を越えた世界として、「空と無の世界」を語っていることである。それは、「龍神」の泳ぐ世界ということで、それに関する医療を、「龍神覚醒術」などとも言っている。()

先に、「五次元領域」は、「幽幻」的な現象を、まさに「幻」として、「解消」すると言ったが、こちらの「空と無の世界」は、「今このとき」をあるゆる領域から、根源的に「リセット」するとされている。

これについての文章を、あげておくと、次のようである。

幻覚妄想などの幽幻病には、この空と無の世界はとても役立ちます。過去生、未来生、平行次元に由来する幻覚妄想も、この空と無の世界で今の意識体から洗い流すことができるからです。軽い幽幻病なら無の世界にすべてを投げ入れて捨て去ってしまえば、今の意識体から消し去ることができます。

空と無の世界は時空間も多次元宇宙も超越したハブのような空間なので、どの時代にも、どんな星や銀河にも、どんな神々にもアクセスできます。

この世界もまた、私のいう「虚無、闇あるいは無限」の領域と、通じている。私の場合は、既に体験のところで述べたように、「五次元領域」というよりも、この「闇」の作用によって、「幽幻」領域の現象が幻であることを即座に知ることも、すべてが一旦「リセット」されることも、起こったのである。

このように、『幽幻医学』と、私のこれまでの述べてきたこととの通じる面は、次のように図にしてみると、分かり易いと思う。

「幽幻医学」の場合

Photo_20191228215201

 「霊界の境域」の乗り越えの場合

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 『龍神覚醒術』(三和書籍)も読んだ。
 治療法の中で浮かびあがって来た「龍神」や「神々」とのやりとりを、物語形式でつづったもので、とても面白く読めるし、興味深い。人生の節目における「選択」ということが、「平行次元」的な現実の分かれ目になることを、改めて意識させられる。
観音様が、さんざん「悪」の役割を果たし終えた人に、「よくやってくれました。また今度もよろしくお願いしますね。」(「そろそろ卒業しては?」という促しでもあるのだろう)」とやさしく迎え入れる場面は、感動的だった。
ここにいう「龍神」は、生まれたときから、一人ひとりについているとされる「龍神」で、一種の「守護精霊」といえる。それを、来るべき五次元世界への移行に向けて、目覚めさせることが必要ということだが、これは、ヨガでいう「クンダリーニの蛇」と通じるし、やはり、シュタイナーのいう「境域の守護霊」とも通じている。

2018年9月 9日 (日)

『精神に疾患は存在するか』

前回に続いて、精神医学関連の本の紹介になります。今回は、北村俊則著『精神に疾患は存在するか』(星和書店)という本です。

精神科医の書いたものですが、久しぶりに、精神医学の根本に関る部分を、鋭く問い直す、重要な書です。精神医学関連の出版社から出されている専門書風の体裁ですが、明解で読みやすく、説得力もあり、是非多くの人に読んでほしいものです。『関連基本書籍の抜粋』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-d140.html)にも、追加しています。

趣意は、要するに、「脳に器質的な障害があるわけでもない、精神の領域に、<疾患>なるものを認めるのは、根拠のあるものではない」ということです。

それは、ある意味、「当たり前過ぎるくらい当たり前」のことですが、精神医学の内部において、正面から、まともに、このことを認めることには、十分の意義があると思います。

このブログでも、「精神の領域に<病気>というものが、実体として存在するわけではない」ということを、何度も述べて来ました。「病気」というのは、社会的な観点からの一つの「評価」であり、「価値観」にほかなりませんが、それを、脳などの機能の「障害」として、固定するのは、そのような社会的な発想を、個体の内部の問題にすり替えようとする、「イデオロギー的」なものです。そして、それは、「優生思想」とも結びついています。

精神医学の外部からは、内海医師の本や、民俗学者赤坂憲雄の本などもとりあげて、このような見方については何度も触れて来たので、今さら特にとりあげる必要もないと思われるかもしれません。

しかし、先に述べたように、精神医学の内部から、しかも多くの研究をとりあげつつ、穏当かつ説得的に説かれた本書には、独自の意義があると思います。特に、精神医学に、何らかの形で関っている人には、必読ともいえる書です。

「精神疾患なるものがあるわけではない」ということの根拠は、大体、次のようなことです。

 「疾患」というものがあるなら、「ある」か「ない」かになるはずだが、精神疾患と言われるものの現れの実際は、一般の多くの人の間に連続的に広がっているもので、そこには境界があるわけではない

つまり、精神疾患とされるものも、体重や体温の数値と同じように、生理的な連続量の違いと、本質的には変わらない現象だということです。このことが、症状の分布をヒストグラムにした、多くの研究の分析から、明らかにされています。最近明らかにされたような、「自閉症スペクトラム」の場合と同様のことが、精神疾患そのものについても言えるということです。

多くの人も、「うつ」などでは、このことが納得しやすいと思います。しかし、「統合失調」となると、認め難いと感じる人も多いでしょう。確かに、「幻覚」や「妄想」などは、「あるかないか」の、特異な現象のようにもみえます。しかし、私も、記事『無意識レベルで「声を聞く」ということ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post-582d.html)で示したように、多くの人は無意識領域では「声」を聞いているのであり、ただ、それを意識することがほとんどないというだけです。それで、「妄想」というのも、極端な形では現れにくいというだけなのです。「統合失調状態になりやすい体質」というのは確かにありますが、それは、このような声を意識にのぼらせやすい(遮断しにくい)体質ということに過ぎません。

著者のあげる研究でも、統合失調の場合でも、その分布は連続的であることが示されています。

2  脳や遺伝子の研究から、ある精神疾患に対応するものとして、脳の(特異な)状態や遺伝子が見い出されることがある。しかし、その関連は「交絡」(一種の錯誤)である可能性があり、そうではなくとも、その関連というのが、「病理性」を証明することには何らならない

「交絡」というのは、ある事柄(A)と事柄(B)に相関があるようにみえる場合でも、実際には、それらとは別のある事柄(C)によって、AとBの事柄が生じていたために、そのようにみえたに過ぎないというものです。AとBの間に、実際に関連があるわけではないのです。

たとえば、「うつ」と脳の「海馬の減少」ということに、相関があるとされたことかありました。ところが、これは実際には、「うつ」も「海馬の減少」も、「虐待」という事態によって生じていることが明らかになって、本当に相関があったわけではないことが分かったという例が、あげられています。

「統合失調」の場合でも、「脳の特定の部位の委縮」などとの相関が見い出されたとされることがありますが、これなどは、「統合失調」と診断されたがために起こる様々な事柄との、「交絡」の可能性があります。

たとえば、精神薬の服用によるという可能性があるし、病院その他の周りの者の酷い扱いから来る、ある種の「虐待」の結果という可能性もあります。

また、そうでなくとも、脳の状態または遺伝子について、ある関連が見い出されたからといって、それがその「疾患」とされることの、「病理性」を証することにならないのは、明らかなことのはずです。ある「精神的」または「生理的」な状態に対応する、ある脳の状態または遺伝子の働きがあるということ自体は当たり前のことで、それが「病理性」の根拠となるものではないからです。

私も、記事『「怒り狂っている人」のたとえ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-ee25.html)で、これと同様のことを述べています。「怒り狂っている人」にも、脳の特異な状態は見い出されますが、それは疾患とはされないのです。

「疾患概念」は、初めから前提とされているのであって、要は、これらの関連は、初めから、精神疾患は「脳の機能的異常である」とか、「遺伝子の異常である」という見方のもとに、見い出されるときに、その見方を「裏付ける」ものであるかのように、みなされるだけなのです。科学史家トーマス・クーン風にいえば、特定の「パラダイム」を埋める「パズル合わせ」のようなものです。

ただし、それは、是非ともそうあらねばならないという、社会的な「要請」に基づいてなされるだけに、容易には覆えされないことであるのは、何度も述べたとおりです。実は、そちらの方こそ、本質的な問題なので、私はそちらの方こそをしつこく述べています。本書は、それを指摘しているわけではないですが、やはり、そのことを、浮き彫りにせずにはおかないはずです。

「うつ」「統合失調」その他の精神疾患とされる状態は、進化的には、適合した反応であった可能性がある

「うつ」にしても、「統合失調」にしても、本来は、生体を保護し、あるいは環境的な条件によっては、より適応的な反応であったという可能性が示されています。それが、ある度合いを超えたり、現在の社会的な環境との関係では、マイナスの状態として現れることもあるということです。そのような反応は、本来的な「疾患」とは呼べないものでしょう。

著者は、触れていませんが、統合失調の幻覚も、本来は、シャーマンの霊的な能力として、社会的に認められ、必要とされていたもののはずです。

4 それでは、「疾患」と呼ばれることの実質は何か。それは、「社会的不適応」あるいは、「社会的な少数者」の陥いる状態という可能性はあるが、必ずしもそうともいえない。そこには、「不適応」とか、「少数」という事実に関る事態とは別の、社会の「価値観」に基づく「評価」が入り込んでいるからである。実際に、「不適応」な現れをすることはあるが、それは個体内部の問題ではなく、社会的環境との相互作用の結果生じるものである

初めにも述べたことですが、要するに、「病気」とは、その状態を好ましくないとする、社会の側の「価値観」であり、「評価」以外の何ものでもないということです。私も、それが、実際に「不適応」を起こし、「少数者」の陥る、困難な状況となることがあるのは認めます。しかし、それを、「脳の問題」などとするのは、社会との関係を看過し、問題を個体の内部に押しつけて、「固定」しようとするものでしかないというべきです。

著者は、そのようなことから、「疾患」という見方は廃すべきとしています。実際にも、偏見や弊害を生み出すもとだからです。ただし、実際に、「不適応」という現れを起こしている以上、「治療」ということではなく、本人の意思に基づく「援助」は必要とします。さらに、本人が判断能力を失っているときには、「強制的」な援助も認められていいとしています。

この点は、「判断能力」の判定がいかようにも曲げられる可能性があるし、中途半端の感を免れません。しかし、いきなり精神医療をなくすこともできないとした場合、大枠的な方向性としては、「オープンダイアローグ」とともに、今後の精神医療のあり方として、有力な候補と思います

ただ、途中でも述べたように、現状では、「疾患」概念こそが、精神医療に根拠と権威を与えているのだし、その根拠と権威こそが、社会的には是非とも「必要」なものなので、残念ながら、それを廃することは、社会の考え方そのものが変わらない限り、難しいことでしょう。

2018年8月18日 (土)

『統合失調症がやってきた』/「後ろ」からの声

ハウス加賀谷の『統合失調症がやってきた』(イースト・プレス、幻冬舎こころの文庫)を読んだ。自分の陥っている状況を、あまり主観を入れ込まずに、客観的に、分かりやすく表現されていることには、率直に感心させられた。「統合失調」という状況について、考えるのにも、参考になるところが多くある。

ハウス加賀谷の統合失調状態については、前に、NHKの番組でとり上げられていたことに絡めて、記事『「統合失調症」という「アイデンティティ」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-faec.html)で、述べていた。そこで述べたことは、今回本で詳しい事情を知っても、ほとんどそのとおりだったということが、改めて確認できた。

特に、精神薬の服用に関して、加賀谷は、より酷くなったことを、「医師の指示に従わなかった」から、ということで言っていた。ごれは、飲まない方向でのことと思っていたが、今回の本で、状態が悪いときは、過剰に飲んでいた(ときには一回に200錠も)ということで、これでは、より酷い状態を招くのも当然のことと言わざるを得ない。

ただ、エビリファイに変えることで、一気に状態が好転したという点は、この薬の評判を聞いて、よくなることを期待して、自ら医師に薬を変えてもらうよう頼んだということである。それまで、意欲の減退した酷い状態が続いていたわけだが、ここで、本当にその状態から脱しようと、強く意欲したということである。それは、お笑いの世界への復帰を、強く望むということでもあった。その積極的で、前向きな思いが、薬を介して、プラシーボ的に強く作用したということが、みてとれるのである。

加賀谷の状態が、本当に「統合失調状態」といえるのかということにも、多少の疑問を呈していたが、本を読むと、確かに、「統合失調」に典型的な「幻聴」に悩まされていて、それを「現実」そのものと混同してしまったために、状態を酷くしていったことが分かる

加賀谷の「幻聴」は、「自分は臭い」ということに関るものである。異性を意識し始める、思春期の頃に、「自分は臭いのではないか」という疑いをもつこと自体は、かなりの人が経験することだろう。また、加賀谷は、父親がエリート社員ではあるが、家庭を顧みない典型的なダメ親で、母親が加賀谷に多くの期待をかけ、自由を与えられず、プレッシャーの多い環境で育っている。「自分を臭い」と思うのは、「自分」という存在の否定の感情がもとになっていて、そのような環境で育ったが故の、嫌悪感や自信のなさが強く影響している。しかし、そのようなこともまた、現代では、割と普通にあることといえる。

だから、「自分は臭い」という疑いを、強迫的にもつこと自体は、かなりの人に「了解」可能なことだろう。ただ、加賀谷の場合、普通と違っていたのは、単に、「聞えるような気がする」というのではなくて、実際に、それを現実の声と変わらない「声」として、ありありと聞いていたことである。

「統合失調」ということでいうと、やはりここが「分かれ目」で、そこには、体質の影響があるというしかない。ただし、それもまた、一時的な現象であり得る(記事『「狐に化かされる」こと/一時的な「幻覚」「妄想」状態』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-8560.html 参照)のだが、加賀谷の場合は、そうならず、それがより発展していったということである。

その「幻聴」の現れについては、加賀谷がかなり詳しく状況を説明しているので、特徴をよくみることができる。

初め、加賀谷は、教室の一番前の席にいたのだが、後ろで生徒が下敷きで煽いでいるので、自分が臭いからではないかと疑う。すると、その後、はっきりと、後ろから、「加賀谷君臭い」という声を聞く。その生徒の声で、現実と変わらない声としてである。

加賀谷は、驚くが、またしばらくすると、「臭い」という声がするので、後ろを振り返ると、誰も、全然そんなことを言っている素振りはない。しかし、前を向くと、また声が聞え、後ろを振り返ると、そんな素振りもないということを繰り返す。

このような声を、加賀谷は、全く「現実の声」と思っているので、自分が「臭い」ということに確信をもつようになる。誰が「臭い」ことを否定しても、その確信を変えられない。それで、医師に無理やりに頼み込んで、脇の手術まですることになる。それで、さすがに本人も、「臭い」のは消えたはずだと思ったが、その後も、教室で、後ろから「臭い」という声を聞くことになり、絶望的な気分になる。

そんなことから、精神科にかかることになるのだが、この声について、興味深いのは、常に、「後ろ」から聞えることである。一番後ろの席に座ったら聞えないはずだと思って、一番後ろの席に座ることができたときも、何と、誰もいないはずの「後ろ」から、声が聞えて来た。

この、「後ろからの声」というのが、私の観点からすると、とても興味深いのである。しかし、その前に、加賀谷は、これを「現実の声」そのものと解したわけだが、このような状況からすると、それが現実の声ではあり得ないことに気づく余地が、十分あったことを確認したい。

一つは、後ろを振り返ると何の素振りもなかったことで、普通は、そんなに即座に、言っている状態から、変わり身の変化をできるわけがない。もう一つは、一番後ろの席でも、誰もいない後ろから聞えてきたことである。これは、かなり「決定的なこと」のばすである。

本当は、この時点で、「現実の声ではない」と気づく余地があったが、加賀谷はそれでも、現実の声と疑わなかった。それは、その声が本当に現実同様、ありありとしているからだし、中学生くらいの年で、一般的にも、そのような声を現実でないものと疑うことは、難しいはずである。予め、そのような声があることを、知っていれば、その可能性もあっただろうが、普通は、中学生ぐらいで、そのような知識があるものではない。また、中学生でなくとも、それが「幻聴」であることを疑うのも、何か、「霊的なもの」であるのを疑うのも、怖いことなので、そのような考えは、抑圧してしまうのが普通である。

同時に、自分が、「臭い」ということは、自分という存在の「象徴」のような意味合い(一種の「アイデンティティ」)として、内心に強く疑われていたので、それを「正しく」指摘する声を聞くと、疑うことが難しかったのもあるだろう。

しかし、それにしても、この時点で、それが現実の声でないことに気づいていたら、その後、違う方向に行っていただろうことは確かなのである。

さて、「後ろからの声」についてたが、私も、声は、「人の背後」から聞えるということを言っていた。加賀谷の場合は、「自分の後ろ」だが、私も、「自分の後ろ」からの声もよく聞いた。私の場合、それは、「もう一人の自分」(シュタイナーでいえば「境域の守護霊」)というべき者の声で、「他者」の声は、他の人間の「背後」から聞こえていたのである。

人間は、目が前についていることとも関係して、「前」が「見える世界」とすれば、「後ろ」は「見えない世界」の象徴ともいえる。つまり、「霊的な世界」の象徴である

後ろの存在は、「背後霊」などという言い方がされるし、かごめかごめという遊びでも、「後ろの正面」を当てるのだが、これは、単なる「後ろ」ではなくて、本来、「霊的なもの」を意味していたはずである。今は、「遊び」という形として残っているが、元は、シャーマンの育成のための、イニシエーションのようなものだったと解されるのである。

シュタイナーのいう「境域の守護霊」とは、「この世界」と「霊的な世界」との「境界」に立ち、「霊的な世界」を守護する「番人」であった。そのような存在の立つ「境界」こそ、「自分の後ろ」であり、それは、背後に「霊的な世界」全体を控える、「入口」のようなところといえるのである。

ただ、加賀谷の場合、常に自分の「後ろ」から声を聞いていたのは、初め、教室の一番前にいたことと関係がある。「自分の後ろ」とは、「他者のいる場所」でもあったからである。

加賀谷は、他の者が自分をどう思っているかに囚われ、それが「後ろの声」として聞えた。だから、「他者の声」もまた、「自分の後ろ」からの声として聞くことになったのである。しかし、同時にそれは、漠然たる「霊的な世界」全体の「入り口」としての意味合いも重なっていたといえる。私の場合は、既に「入口」をかなり入り込んでいて、「霊的な世界」も、「自分の後ろ」と「他者の背後」というように、「分化」していたということである。

それにしても、一番後ろの席にいても、「後ろ」から声が聞えて来たのは象徴的である。それは、「現実の世界」の途切れる先の、「入口」としての、「霊的な世界」から聞える声だったことを、如実に示している

加賀谷の場合に限らず、このように、注意深く状況を観察すれば、その声が、たとえ現実の声と同じように聞えても、どこかしら「現実そのもの」から「ずれ」を起こしていて、「現実」そのものではあり得ないことが明らかになる面が、あるばすなのである。疑わしい「声」が聞えたときには、必ず、状況をよく観察してほしい。

いきなり、それを「霊的な世界」から訪れた声とは、解せないかもしれないが、「現実の声」そのものではないことには、十分気づけるはずである。

これからの時代には、多くの人が、是非とも、そう気づけるようになってほしいと思う。

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