精神医学

2024年4月 7日 (日)

ビンスワンガー、木村敏の例を通して具体的にみる

ここで、例として、ハイデガーの思想に依拠しつつ、現存在分析の方法を創始した著名な精神病理学者ビンスワンガーの捉え方を、少しとりあげてみたい。

ハイデガーは、世界の中に投げ出されてある、「世界--存在」としての人間のあり方を問題にするので、フッサールの現象学以上に、実存主義的な傾向が強い。世界の根底に「虚無」を見るような見方を継承しているということだが、しかし同時に、ハイデガーは、そこに自由または主体性の根拠もみており、だからこそ、人間は常に「開かれて」あり、それを超えて行く可能性があるのだともしていたようである(ハイデガーについては、いずれ『存在と時間』をじっくり読んでみるつもり)

しかし、それが人間にとって大変な営為であることに変わりなく、そのようなあり方に「挫折」して行き詰まり、根底の「虚無」に絡めとられたような状態に陥る者もある。ビンスワンガーは、それこそが、「統合失調状態」だとしていたようである。

『精神分裂病』という本の序文にまとめられたものによると、それは、次のよう言われている。

1 病者は、世界に適合して生きることができず、その体験世界は一貫性を失う。

2   この非一貫性を補填しようとして、奇矯な(思い上がった)理想形成を試み(たとえば自分が世界の中心にいるといった妄想などを形成して)、この理想形成と現実とのギャップに直面してその二者択一に迫られる。

3   病者は、ついにはこの二者択一という危機状況に耐えられず、現実から逃避し、自己決断を放棄して自らのすべてを他者にゆだねてしまう。

そうやって、自己という「主体」を失うことが、「世界-内-存在」としてのあり方に挫折をもたらすということだろうが、このこと自体は、分裂気質の者が、「分裂病的状況」に入っていく契機を、鋭くついていると言うべきである。(※1)

世界に適合できず、体験世界の一貫性を失うからこそ、そのような日常世界の様相が壊れ、根底の虚無を開くことになるのだし、分裂気質の者が、現実性の薄い、思い上がった理想形成に邁進しつつ、現実とのギャップに引き裂かれることを繰り返すのは、分裂気質の者の特徴として、これまで何度も述べて来た。ユング派的に言えば、「永遠の少年」であり、坂口安吾は、精神病院で分裂病者に接してすぐに、分裂気質の者のこの特徴に気づいている。(記事『『精神病覚え書』について』参照。) 

そして、そのようなあり方に行き詰まり、ついには自己の決断(主体性)を放棄するように投げ出すことが、分裂病的状況に入っていく決定的契機になることは事実なのである。

また、ビンスワンガーは、「現存在の失敗の三様式」として、「奇矯(思い上がり)」、「ひねくれ」、「わざとらしさ」をあげているが、これも、鋭い指摘で、興味深い。

「思い上がり」は、「奇矯な理想」というだけでなく、「誇大妄想」にはもちろんはっきり現れ出るし、「迫害妄想」にも、その裏面として潜むものである。「ひねくれ」は、世界あるいは集団への不適合故に、自己の反動あるいは防衛反応として、おのずと身につけられたものということができる。「わざとらしさ」は、にも拘わらず、分裂気質の者が世界や集団に対して、ぎごちなく(他者をまねるようにして)適合的な態度をとろうとするときに、どうしても出てしまうものである。

これらのビンスワンガーの指摘は、一見分裂病者を揶揄するかのようだが、確かな視点ではあるのである。

また、「わざとらしさ」はともかく、「思い上がり」や「ひねくれ」は、まさにシュタイナーの言う「ルシファー的な性向」そのものであることにも、注目される。

ただ、松本雅彦『精神病理学とは何だろうか』も指摘するとおり、ビンスワンガーのこれらの「了解」は、いかにも否定に偏った見方であろうし、これらの了解が、どのように分裂病者の「治癒」に結びつくのかも、見えてこない。

シュタイナーは、「ルシファー的な性向」に対して、「アーリマン的な性向」が働くことによって、ルシファー的な傾向は、いわば刈り取られ、結果として均衡がもたらされると言うのだが、まさにそのように、「分裂病的な状況」そのものに着目すれば、その過程自体に、具体的な治癒的な働きが伴っているとも言えるのである。

しかし、ビンスワンガーには、「分裂病的状況」という「水平的方向」への視点がないため、そのような理解は欠いているのである。

また、ビンスワンガーは、「幻覚」や「妄想」について、「無気味なもの」という言い方で、それらをもたらす何ものかを「予感」しているようではあるが、それ以上に、「実体的なもの」としては踏み込まないため、「幻覚」や「妄想」について、具体的な了解に至ることはないようである。

しかし、「分裂病的状況」にあっては、本人は、それらの現象によってこそ、その状況に閉じ込められているようなものなので、その状況を脱け出すという現実的な問題に照らせば、それらの現象を、いくらかでも具体的に了解することが必要である。実際に、「虚無」に絡めとられるというだけでなく、「水平的方向」において、「実体的な存在」の影響を受けて惑わされているということの自覚なくしては、具体的に、そこからの脱け出しということは、難しいのである。

そこでも、垂直的な方向の問題は、依然残るだろうが、まずは、水平的な方向への閉じ込めから抜け出せない限り、そのような問題に対処する可能性も見出せないのである。

ビンスワンガーの「了解」が、具体的な治癒に結びつかないのは、そのような視点を欠いているからと言うほかないだろう。

前回述べたように、「垂直的な方向」については、鋭い視点から見据えていて、分裂病者のあり方に一定の鋭い「了解」がもたらされているが、「水平的方向」の視点を欠いているので、それが十分具体的にならず、効果を発揮しないのである。

もう一人、木村敏の例を挙げたいが、木村については、既に記事『「あいだ」の病/『心の病理を考える』』と次の『「あいだの病」とその「乗り越え」』で、十分と言っていいほどに論じていた。R.D.レインとともに、分裂病の理解に最も近づいた一人として、その意義を認め、しかし、やはり足りない面があることを、指摘していたのである。

ただ、今回改めて、気づいた面もあるので、それを補足する意味でも、少しとりあげてみたい。

木村は、分裂病を、対象としての人や関係からではなく、「あいだ」という観点から捉え、その「あいだ」がうまく機能していないために、自己が成り立っていかないのだとした。その「あいだ」には、「水平的方向」と「垂直的方向」があり、垂直的方向では、「ゾーエー」と呼ばれる普遍的生命との関係で、自己の「個別化の原理」が阻害されている。この「ゾーエー」は、「絶対他者」ともいうべき、自己の根底に働くもので、本来「虚無」とも言い得るものだが、木村は、あくまで「生命の源泉」という視点から、肯定的に捉えている。そのため、それを特に意識することなく、無自覚的にも、「アクチュアル」に生きている一般の者に対して、そこからいわば疎外されることになってしまう分裂病者という対比になっている。

私は、記事『「あいだの病」とその「乗り越え」』で、木村も、そのように「正常人」と対比する視点から、やはり分裂病者に対しては、否定に偏する見方になっていることを指摘した。しかし、『異常の構造』(講談社現代新書)という著書で、木村は、「正常」と「異常」について次のように明確に述べている

「私たちが自明のこととして無反省に受けとっている「正気」の概念は、みずからが拠って立っている常識的合理性を脅かすいっさいの可能性を、「狂気」の名のもとに排除することによってのみ存続しうるような、きわめて閉鎖的で特権的な一つの論理体系を代表するものにすぎないことが明らかとなった。」

「つまり分裂病を「病気」とみなす見方のうちには、暗黙のうちに、さきに述べた「多数者」と「常態」との読みかえがおこなわれ、「異常」から「病的」への意味変更がおこなわれているのである。そこには、異常をなんとかして合理化することによって異常に対する不安をまぬがれようとする、人間の知恵がはたらいているのかもしれぬ。あるいはまた、分裂病を病気とみなしてこれに「治療」を加えることにより、異常を排除する「正常者」のやましさがすこしでも軽減するからなのかもしれない。」

ここでは、「正常」と「異常』というのは、「多数者」と目される側からの、いわば恣意的な区別に過ぎず、その「正常」の根拠としての「常識的合理性」を守るための、「排除」の論理に過ぎないことが、はっきり述べられている。だから、木村は、決して、「正常」を肯定的に、「異常」を否定的に捉えているということではないことが、改めて確認される。

しかし、また次のようにも述べられている。

「しかし、だからといって私たちはどうやって常識的日常性の立場を捨てることができるのか。それはおそらく、私たち自身が分裂病者となることによる以外、不可能なことだろう。私たちは自分が「正常人」であるかぎり、つまり1=1を自明の公理とみなさざるをえないでいるかぎり、真に分裂病者を理解し、分裂病者の立場に立ってものを考えることができないのではないか。」

「私たちにできるのはたかだかのところ、この常識的日常性の立場が、生への執着という「原罪」から由来する虚構であって、分裂病という精神の異常を「治療」しようとする私たちの努力は、私たち「正常者」の側の自分勝手な論理にもとづいているということを、冷静に見きわめておくぐらいのことにすぎないだろう。」

つまり、分裂病に対してこれだけ身を寄せる木村にしても、やはり「正常人」の側として、常識的日常性の立場を捨てることができない限り、分裂病者を真に理解することはできないと認めているのである。

木村の「あいだ」の観点からの理解は、非常に鋭いと思うし、その「根底」に働くものへの「絶対他者」的な視点は、他の精神病理学者(特に西洋の)にはない、独特のものがある。それは、日本人ならではの、「おのずから」と「みずから」の一致という伝統的なあり様を、改めて顧みさせるものでもある。

しかし、その木村にしても、やはり「水平的方向」の理解を欠いているために、真に具体的な理解にはなっていないと言うべきだし、それは、先にみたように、本人自身も認めるところということなのである。

このことは、結局、多くの精神病理学者に当てはまるはずのことで、ヤスパースが試みたように、あるところまで「了解」できても、それ以上は「了解」できないという「壁」を認めざるを得ないということである。そしてそれは、そのような「壁」などないかのように、安易に「了解」を標榜する者などより、よっぽど謙虚で率直な態度と言うべきなのである。

ヤスパースも、「実体的意識性」ということに初めに注目した者であり、どこか、手の届き難い「未知のもの」を予感していたからこそ、「了解」の壁を強く感じざるを得なかったのではないかと思う。ただし、その壁を、「客観的な説明」に頼ることで補えるかのようにみなしたことには、やはり、そのような発想も、中止半端に抑制されてしまったことを感じざるを得ない。

いずれにしても、ここには、私が前々回述べたような、また木村が言うような、実際に経験した者と経験していない者との「壁」が、確かに横たわっている。それは、近代という時代の現時点においては、確かに、「容易には」越えがたい壁なのである。

しかし、私が、「水平的方向」ということで、述べている事柄は、決して今後誰にも理解できない事柄なのではない。それは繰り返し述べているように、「近代」が「神」や「合理性」以前に強力に排除した事柄なので、そのことを真に顧みるなら、それを改めて掘り起こし、理解の俎上に載せることもできないことではない。

特に、そのような事柄は、先住民文化の「シャーマニズム」として現に普遍的に生きられて来たものであり、現在もかなりの程度残されていることを考えると、そこから改めて学び直せるものは多くある。

「了解」の壁は、そのような方向が見直されていく限り、意外と越えられるものとなることも予想されるのである。

 

※1 「世界-内-存在」という言い方は、「世界の内に投げ出されてある」という実存状況を表すとともに、次のような意味合いも含むものと思う。

通常、自己と世界は別にあり、自己の外に世界というものがあると思っている。しかし、「世界-内-存在」とは、世界と自己とが別にあるものではなく、同時的に、結びついてあることを示している。だから、「世界-内-存在」のあり方が挫折し、主体性を失うことは、自己の崩壊であるとともに、即世界の崩壊でもあり、世界の崩壊は、即自己の崩壊を意味することになる。
 
そのような状況が、分裂病者の陥る状況を、本質的、抽象的に鋭く言い表しているのは、まさしくそのとおりである。しかし、それが、病者の陥った、個々の具体的な状況を十分に言い表すものとは言い難いであろう。

2  4月15日 

精神病理学に欠けている見方をもう一つあげると、それは「西洋近代」を相対化するような文化的視点だと思う。病的状態とそうでない「正常」の状態の差異を、「垂直的」な方向の実存的なあり方に即結びつけてしまい、その差異が「近代社会」という文化のシステムによって作られるという面をみることに欠いていたのである。この点は、西洋近代以外の文化を「遅れた」もの、「過去のもの」とみる視点が一般に浸透していて、他の文化を対等な「異文化」として顧みる余地がほとんどなかった当時の時代状況として、致し方ないものはある。

そのようなことは、文化人類学など、先住民文化を、西洋近代とは異なる「異文化」として学ぶという視点が出て来て、やっと可能になったことである。実際、「シャーマニズム」等、先住民文化から学ぶことによって、統合失調状態のかなりの部分を見えやすいものにすることができるのだが、この点は、次回に再び述べようと思う。

2024年3月24日 (日)

「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 2

一般の精神医学は、統合失調の者の言動が「了解不能」ということで、(特に脳の)「病気」として分かったこと(説明されること)にしていると述べた。

たとえば、精神科医のこのサイトでも、統合失調症が病気(疾患)とされることの根拠を問うなら、結局は、その者の言動が「了解不能」ということにあるとしている

しかし、そのように、他の者に「了解不能」とみなされる言動をとると、「精神病」と認定され、強制入院等の措置がとられる可能性があるというのは、考えてみれば恐ろしいことのはずである。もちろん、実際には、病気の症状として経験的に類型化されたものと照らして、判断されるわけだが、最終的な根拠が、「了解不能」ということにあることは、そこにかなり多くの影響を与えないはずがないのである。

精神病理学の先駆者とされるヤスパースは、統合失調症について、当時の「了解不能」の「脳の病気」で「治療不能」という一般的な見方に疑問をもち、現象学の方法をもって何とか、主観的な「感情移入」による「了解」に迫ろうとした。さまざまな前提と抽象によってこそ成り立つ、表面的な「客観的説明」などではなく、具体的に、主観レベルで「了解」できるものとしようとしたのである。

しかし、結局、ヤスパースも、あるところまでは「了解」できても、その先は「了解不能」であり、そこには、一般の「客観的な説明」を頼らざるを得ない、とせざるを得なかったようである。

ただ、その後の精神病理学は、ヤスパースのような妥協的な態度ではなく、何とか「了解」に迫ろうとする方向をそれぞれに探って行った。

前回私は、精神病理学の、「意識に現れたまま」を捉えようとする「現象学的な方法」に共感するということを述べた。

しかし、精神病理学のもう一つの大きな特徴は、近代的理性(による抽象的な原理や本質の理解)に疑いが挟まれて後の、個々の現実的、具体的な行き方を問題とする、「実存主義」的な態度にあるということも言える。

人々は、ニーチェが、「近代は、神を殺して、無を崇拝することになった」と言ったように、かつての神への信仰を失い、その神の性質を継承する「近代的理性」も疑われて、その隙から世界に顔を覗かせた「無」と直面せざるを得なくなった。

たとえば、パスカルは、「この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐怖させる。」と述べているが、それは、まさに、世界の根底に「虚無の深遠」をかいま見ていることの表現と言える。そして、これは、フッサールやハイデガー、サルトルなど、その後の実存哲学者たちにも、共通する感覚である。パスカルやキルケゴールなど、改めて神への信仰に至った者も多いが、それにしても、それは、世界の根底に「虚無の深遠」をみるところからこそ、始まっているのである。

精神病理学もまた、このような実存主義的な感覚を継承しているものが多い。だから、多くの精神病理学者にとって、「自己」がうまく成り立たって行かず、世界の根底たる「虚無」に搦め捕られたかのような、統合失調の者は、決して他人事ではなく、「了解」が全く不能なものでもない。そのような状態に陥った者を通して、改めて自分の生き方も問われてくるという意味で、「了解」への意欲をかき立てられるものでもある。

私は、世界の根底にある「虚無」に近づく方向を、「垂直的方向」としていたが、まさに、精神病理学の多くは、この垂直的方向から、統合失調を見据える目を、それなりに持っているのである。

だから、私が精神病理学に共感する部分というのは、実際には、この面にこそよっていると言える。

ただし、前回も述べたように、精神病理学は、(虚無の侵入を防ぐような、自己が成り立ちにくいなど)「統合失調状況に入って行く契機」をよく捉えているが、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものとは言えない。たとえ、部分的に明らかにするものがあるとしても、それは不十分なのである。それは、「水平的方向」の理解を欠いているからである。

「水平的方向」というのは、この場合、実際に「実体的」なものとして作用する、「霊的、オカルト的」な面を意味している。「統合失調状況」では、それまでの感覚的な領域での体験を超えた、新たな未知の要素が、実際に入り込み、それが「実体的」にその者に影響を与えるということが起こるのである。

このような新たな要素こそが、実際に「統合失調状況」に入り込んでいる者を捕らえて、惑わし、混乱させているのである。そして、そのような面こそが、人々に、恐怖を抱かせ、「了解不能」との思いをもたせるのである。あるいは、「了解不能」として、それ以上それに関わることを拒否する態度をもたらすのである。

そのようなものは、近代が、神への信仰以前に、「魔女狩り」の沸騰をもたらした元凶たる「悪魔的」で「おどろおどろしい」ものとして切り捨て、タブー化したものにほかならない。だから、 もはや「了解」の基盤もなく、しかも、その恐怖から、「了解」の舞台に上げることすら忌み嫌われるのである。

近代の理性に対して多くの疑問を付す精神病理学も、残念ながら、このような面においては、やはり近代の心情を受け継いでおり、そのような「霊的、オカルト的」な面、あるいは「水平的な面」にまでは着目しないので、「了解」といっても、十分に具体的なものにはならないのである。

次回は、著名な精神病理学者ビンズワンガーなどの例をあげて、もう少し具体的にみてみたい。

2024年3月 2日 (土)

「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 1

「精神病理学」については、哲学的で晦渋なイメージがあって、興味があっても、とっつきにくいと思っている人が多いであろう。それは、確かにそう言える面があり、だからこそ敬遠されて、表面上「分かりやす」く、一般化しやすい、生物学的な精神医学の方に、多くの注目や期待が寄せられることにもなるのだろう。

私自身も、精神病理学には晦渋なイメージはあったが、最近、松本雅彦著『精神病理学とは何だろうか』(星和書店)や、松本卓也著『症例でわかる精神病理学』(誠信書房)という、明解で分かりやすく書かれた本を読んでみて、改めて、「統合失調」と「精神病理学」について確認できたことがある。(この二つの本は、それぞれよく書かれた本で、「精神病理学」に興味があるなら、ぜひ読んでみてほしい。)

それは、端的に言うと、次のとおりである。

まず前提として、「統合失調」を巡る問題とは、結局は、「了解」を巡る問題であるということ。そして、「精神病理学」は、一般の(生物学的)精神医学とは異なり、「了解不能」とするのではなく、それに鋭い視点から迫ろうとしていて、それぞれにみるべきものがあるということ。しかし、残念ながら、それは結局は、「統合失調状況に入る契機」を明らかにするものであっても、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものではない、ということである。

このことは、前から述べていたことではあるが、今回改めて、強く確認されたので、それについて述べる。

まず初めに、私自身の立場をはっきりさせておくと、私にとっては、自分の体験からして、「統合失調」には「了解しかできない」ということになる。

「統合失調」に陥る人にも、さまざまなパターンや現れの違いがあるだろうから、「了解しかできない」というのは、おこがましいようだが、そこには本質的なレベルで共通の要素があるのは確かで、そこが具体的に「了解」できれば、それらの違いも、十分「了解」的に推察できてしまうのである。

精神科医のあげる症例や本人の手記などを読んでも、自分の体験に照らして、「あの状況でこのような反応をしてしまっているからこうなるのだな」等の理解が、具体的に、できるのである。

精神病理学でいう「了解」は、客観的な「説明」ではなく、主観的に「感情移入」して「了解」できることを言うのだが、もちろん、そのような状況での「出口の見えない」「どうしようもない」苦悩を体験しているから、同じような状況にある者に対して、いやでも「感情移入」的な理解になる。

ところが逆に、自分がそのような体験をする前を振り返ってみれば、「統合失調」に対して特に知識があったわけではないが(一通りのイメージは持っていた)、そこには、「了解などできない」という確かな壁ないし断絶が、はっきりとあったと言える。それは、(「分裂気質」というものに対して親近性は感じていたのだが)自分が実際に「統合失調」という状態に陥ることは、とても現実的に考えられることではないという思いと、言い換えることもできる。

現在でも、「統合失調」には、実際に体験してみないと分かり様のない面が、多分にあると思わざるを得ない。体験していない者に「了解」してもらうことなど、期待しようがないと思わざるを得ないところがあるのである。

だから、精神病理学が、自ら体験したわけでもないのに、それなりに鋭く、「了解」に迫ろうとするものがあることには、感心と驚きの方が大きいのである。少なくとも、「了解不能」として切り捨てて、「脳の病気」として「分かった」ことにし、薬で治療すべきものとする生物学的精神医学とは、大きな違いである。

精神病理学は、近代が前提として立てる発想に疑問を付し、それらをかっこに入れて、「意識に現れるままを観察する」という「現象学」の方法に則るものが多い。特に、デカルトが立てた「近代的自我」とか心身二元論的な発想を予めの前提としない。だから、「統合失調」を単純に、「自我の崩壊」とか、心身二元論の発想に基づく、「脳の病気」などとはみない。

フロイト的な精神分析についても、無意識という意識に現れていないものに対する「解釈」に過ぎないということで、取り入れないものが多い。

そうした中で、それぞれに、近代社会の中で「正常」とみなされる者を含めて、人間が生きるということはどういうことかを探って行き、その中のある種「逸脱」的な生き方をしてしまっている「統合失調」の者の意識のあり様を、何とか「了解」していこうとするのである。

それは、初めに述べたように、それぞれにみるべきものがあるし、「統合失調に陥る契機」としては、本質を明らかにするものがかなりある。

しかし、この点については、次回に具体的に述べることにし、今回は、私の場合との相違についてさらにはっきりとさせておきたい。

私は、「統合失調状況」そのものは、「霊界の境域」などとも言ったように、この世界に通常の感覚においては捉えられない「霊的」な領域のものが侵入し、両者が混交している状況であるとした。そこには、はっきりと、それまでの(通常の感覚に基づく)体験とは異なる「未知」の要素が入り込み、特に「自我」が弱いわけでもなくとも、混乱させる要素が多くあるのである。

精神病理学は、近代の前提とする発想を疑い、かっこに入れるのだが、それは、「霊的」または「オカルト」的なものにまでは向けられていない。つまり、これまでみて来たように、近代が内的な「排除」の欲求に基づいて、「霊的」「オカルト的」なものを存在しないことにしたという発想までを問うものではない。だから、精神病理学では、「統合失調状況」にそのような新たに侵入した「未知」の要素までをも、みようとすることがない。

それで、「統合失調状況」というのも、結局は、「統合失調に入る契機」の延長で(多くは自己の成り立ちにくさや未熟なあり様のため)、混乱が極まった状況とみることになるのである。中には、新たな「未知」の要素を何らかの形で示唆するようなものもあるが、それは、「霊的」「オカルト的」とみなせるようなものではない。

ただし、それには、精神病理学が、「意識に現れたままを観察して記述する」という「現象学」の方法に則ることから来る、当然の限界もあると言える。「無意識」の領域すら、意識に現れないものの「解釈」として切り捨てるのだから、多くの者には意識に現れているわけではない、「霊的」「オカルト的」なものの存在や働きなど、認めることができないのは当然ということにもなる。

しかし、この点は、「それ」が「現に意識に現れた者」の側からすれば、全く異なることになる。私は、まさに体験のさ中でも、様々な妄想的解釈や葛藤の果てにだが、最終的には、「意識に現れたままを観察する」ことしかできないことに気づき、それを実践することにした。それは、どうしてもつきまとう、混乱や迷いの中での、危ういものではあっただろうけれども、まさに、意識せずとも、「現象学」的な方法を実践していたのと同じことになる

また、「無意識」領域で体験していたものについても、何度か述べたように、「思い出す」という仕方で意識に上るものになったから、それは、まさに「意識に現れるままを観察」することを可能にするものとなったのである。

先に言ったように、それらは、当時の体験のさ中においては、かなり危うい、不確かな面も多かったかもしれない。しかし、それは、現在においては、それらを通り越して通常の意識状態にある中において改めて観察されたり考察されたうえで、様々な統合失調に対する考えとも照らし合わせて提示されているもので、私としては、まさに「現象学的な方法」そのものと言えるのではないかと思う。その意味でも、精神病理学には、親近性を感じるのである。

ただし、先に言ったように、統合失調を体験したわけでもない精神病理学者の「了解」との間には、壁や断絶をも感じざるを得ないのは事実である。そしてそれは、致し方のないことでもある。

しかし、多くの人は、統合失調を体験したわけではないので、同じ立場から、精神病理学を通して、「統合失調」を「了解」しようという意図を共有することは、しやすいと思う。「了解」しようという意思を失い、「了解不能」ということで、「分かった」ことにしてしまえば、もはや一般に浸透している、生物学的な精神医学を「妄信」するしか途がなくなると思う。

そこで、最初にあげた精神病理学の基本的な本や、このブログで取り上げた、R.D.レインの『引き裂かれた自己』や、特に、新書という形にまとめられた、木村敏の『心の病理を考える』などの本を、ぜひ読んでみてほしいと思う。

もちろん、私のこのブログの記述に、十分の共感や理解を感じられる人がいるなら、それに越したことはないのであるが。

次回は、精神病理学のいくつかの説をとりあげつつ、もう少し具体的に述べてみたいと思う。

 

2024年2月 9日 (金)

「シャーマン的巫病」と「統合失調」の相違 まとめ

前に、記事『6 他の「幻覚」の場合との比較』や、『「成人儀礼」としての分裂病』で、統合失調状況は、シャーマンの候補者がシャーマンになる前に体験する、「シャーマン的巫病」と酷似すること。しかし、さまざまな理由で、その「巫病」を「死と再生のイニシエーション」として乗り越えることができずに、その状況をさまようことに終始してしまう状態であることを説明した。

精神科医でユング派の分析家でもある武野俊弥という著者の、『分裂病の神話』(新曜社)という本で、ほぼ同様のことが、非常に的確にまとめて説明されていたので、今回はそれを紹介したい。

このところ、精神病理学の本を読んでいたのだが、それぞれ、「統合失調状況に入る契機」の説明としては、鋭いものがあり、本質に迫ろうとするものがあるが、「統合失調状況そのもの」の説明には届かないのを、いぶかしく思っていた(この点については、次回にでも改めて述べる)。

この本では、さすがに、「統合失調状況」を、あくまで「普遍的無意識」としてだが、自我を越えたものの現れとみて、それとどのように関わるかという視点をもつユングの意義を、改めて確認することになった。この本の著者の、多少割り切り過ぎる傾向はあるものの、分かりやすく的確な説明も、そう思わせることに寄与した。

他にも、統合失調全体について、とりあげる意義のあるものがいくつかあるが、それはいずれの機会にして、今回は、「シャーマン的巫病」との関係についてのみ述べる。この点に関しては、ユングというよりも、先住民文化の「シャーマニズム」という伝統にこそ、統合失調の本質を明らかにする大きな要素が、含まれているわけだが。

まずは、「シャーマン的巫病」では、分裂病の場合と同様の「解体のモチーフ」が現れるが、その意味がユングの普遍的(集合的)無意識に照らして次のように述べられる

「この断片化すなわち人格の完全な分裂・崩壊は象徴的には死に相当するが、その象徴的な死はまた宇宙が創造される以前の混沌(カオス)、すなわち宇宙の創造に先立つ名状しがたい無定形な状態への象徴的な回帰と等価でもある。つまり象徴的な混沌(カオス)への回帰は新たな創造への準備でもある。ユング心理学のことばで表現すると、この混沌状態は、無意識の蒼古的な構成要素すなわち集合的無意識を体験する機会をわれわれに与え、それによって無意識を統合する可能性をわれわれにもたらしてもくれる。」

シャーマンは、その状態を「死と再生のイニシエーション」として乗り越えることで、病的状態が克服されるが、統合失調症(分裂病)では、その状態が越えられることがないために、病的状態に終始してしまうことについて、次のように述べられる。

「シャーマンの入巫の病の場合、解体ないし分解、すなわち象徴的な死のモチーフにひきつづいて再生のモチーフが現れ、それが優位を占めるようになる。そしてその再生のモチーフは、病に引きつづく本来のイニシエーションを儀礼をとおして現実のなかに実現させる。他方分裂病の場合、再生ないし新生のモチーフはほとんど見いだされることも現実化されることもない。」

つまりは、分裂病の場合は、解体ないし分解をもたらすような、死のモチーフはあっても、再生のモチーフがなく、その状態から抜け出せないでいる、ということである。

そしてその理由についても、次のように述べられている。

「シャーマンは二つの世界、すなわち意識の世界と無意識の世界、あるいは外的現実の世界と内的イメージの世界の両方に住み、両者のあいだを自由に行き来している。シャーマンは二つの世界の価値と妥当性を同等に認めつつ、しかもその二つの世界を混同させないところにその卓越性がある。他方、分裂病者はこれら二つの世界を混同させ、あるいはそのどちらか一方だけにしか住めない。」

「シャーマンは能動的かつ任意に精霊を「見」そして「話しかけ」る。一方分裂病者は精霊の声を受動的に「聞き」、そしてしばしば不本意にそうすべきでないときに精霊を「見」あるいは「感じて」しまう。すなわちシャーマンは自ら精霊の世界(無意識の世界)に能動的かつ意識的に関わり、分裂病者は受動的かつ盲目的にその世界に巻き込まれとらわれてしまっている。」

「より高次の存在として再生されるためには、シャーマンはその解体のさなかにあっても自らの基本的アイデンティティだけはけっして失ってはならないのである。…分裂病者では再生のしいずえとなるべきこの骨の種子、すなわち基本的アイデンティティですら破壊的解体の対象となりそれを失ってしまう。」

「分裂病者の場合は、集合的無意識と出会うだけで、それとの創造的で相互的な関係はけっして確立しない。それゆえにいつまでも分裂病のままにとどまらざるをえないことになる。このような関係性の欠如がまさに分裂病の中心病理といえるのである。」

ただし、私も、このような違いが生じることには、そもそも伝統文化では、シャーマンを育てるためのノウハウが保持され、周りが集団的にそのような文化を共有していることが大きいことを指摘していた。著者も、そのような文化的理由にも、触れられている。

ただ、それにしても、先の著者の指摘のように、文化的理由はあるにしても、統合失調になる人は、そのような普遍的無意識の「元型」的な現れとうまく関わることができず、飲み込まれてしまうだけの、「自我の弱さ」や、「未熟さ」を抱えている場合が多いことは確かであろう。

しかし、ユングも言うように、普遍的無意識の「力」は、自我に対して強力に働くので、自我が強ければ、影響を受けないというものではけっしてない。シャーマンの候補者でも、巫病を経験した者が皆シャーマンになれるのではなく、それを本当に克服した一部の者がなれるのである。

ただ、自我が弱い場合は、その克服がより難しくなり、結果として、統合失調状況にさまようことになる可能性も高まるということは、間違いないであろう。

著者も、もはや文化あるいは集団として、そのような事態に関わって行く道は閉ざされているし、現代には必ずしもふさわしくもないので、いかに個人として、普遍的無意識と関わり、「個人神話」を生きて行くかが問題としている。ユング派の精神療法も、そのような視点から構成されている。

しかし、この「普遍的無意識」という捉え方も、それに飲み込まれないための距離の取り方としては意義がある(自我を越えたものでも、「無意識」という理解において、「他者」的な恐怖を緩和しつつ関わることができる)のは事実である。が、私は前から言っているように、実際の、統合失調状況をより具体的に理解し、乗り越えていくためには、やはり、先住民文化の「シャーマニズム」そのまままの、「霊的」な捉え方(精霊等の存在を実際に存在する「実体的」なものとして捉える)が必要になる、と思わざるを得ないのである。

なお、イニシエーションの具体的な内容については、記事『「<癒し>のダンス」』や『ぼくのイニシエーション体験』に詳しいので、参照してほしい。

 

2023年12月24日 (日)

『病める心の記録』再読及びメモ

前回同様に、西丸四方著『病める心の記録(中公新書)も、大分前に読んで内容を忘れかけていたので、読み直した。

こちらは、ヒロシという日本の統合失調から回復した者の記録であり、『分裂病の少女の手記』に劣らず、インパクトのある内容である。また、精神科医である西丸の解説が、非常に分かり易く、的確と思うので、その意味でも貴重である。

今回も、感想と考えたことをメモ風に書き留めておくだけにするので、本の内容の説明自体はほとんどしないことにする。本を読んでいない人には、理解できないことが多いだろうが、了承されたい。

ヒロシは15歳のときに統合失調の発病により「発狂」し、精神病院に収容され、薬物治療をも含む治療で回復したが、著者との出会いを通じて、その体験の記録が表されることになった。

 『分裂病の少女の手記』は、垂直的な方向の「虚無」の色合いが濃く、「深み」のあるものだったが、その分「単調」との見方もできる。ところが、こちらは、「闇」や「人間ロボット」など、垂直的方向の色合いもあるものの、様々な「現実」の出来事と重なり合いながら、水平的な方向への展開があって、小説のような「物語」性がある。現実と夢想が交錯しながら進展し、どこまでが現実で、どこからが非現実なのか分からないような、まさに一つの「夢幻的な体験」なのである。

私の場合は、この両面があったので、両方ともよく理解できるし、共感できる。特に、一連の体験の前半は、このような「夢幻的体験」が多くを占めていた。

この記録は、西丸の補助もあってだろうが、文学者のような読ませる文章で、よくその時点での思考や感情、自分に現れ出たままの「出来事」を再現しており、引き込まれる要素が多い。そもそもが、著者にも現実か非現実か区別のできない、一種の「中間的現象」なのであって、それを回復後も忠実に再現的に表現していることから、そのような内容になっているとも言える。

『分裂病の少女の手記』が、サルトルの『嘔吐』にも似た、一つの「実存的体験」だとすれば、こちらは、記事『「幻覚世界」を表した本 2-統合失調的「夢幻世界」』で述べた、ヘッセの小説『荒野の狼』に出て来る「魔術劇場」そのものの体験である。

ケンジというミステリー好きの少年が、より幻想性を煽り、ヒロシの体験を媒介した面があるのだが、このケンジは、やはりヘッセの小説『デミアン』のデミアンの役を果たしているかのようである。

ヒロシが恐れ、迫害妄想の中心となる骨董屋の旦那に「食われる」という妄想など、統合失調体験につきものの、「捕食者」的な面もある。徐々に追い込まれて行き、ついには「発狂」して、裸で骨董屋の家に侵入し、病院に連れていかれるまでの、思考過程の描写は、非常に迫真的である。病院に連れて行かれてからの、医師や看護婦とのやり取りと、その者らを敵の一味とみるヒロシの妄想のありようの記述も、とてもリアルである。

治癒に向かった面については、病院で医師が、自分はロボットになったと思っているヒロシに、「苦しんで、抵抗していたとき、君は本当の自分だったんじゃないか」、「大変だが、本当の自分を取り戻そう」と言ったことが、大きなきっかけになっている。病院においても、「失われた自分」を取り戻せるように力づけられるか、無視や虐待的な扱いにより、それがますます壊されていくかが、一つの大きなポイントなのだと言える。

また、治癒に向けて、決定的なきっかけになったのが、寺の和尚が渡してくれた「聖書」と、とりわけ北原白秋の詩集『雀の生活』なのである。それを読んで、ヒロシは、「ロボットが、雀になり、犬になり、人間になった」と感じる。そして、ヒロシは、「雀に餌をやるのを忘れていた」という大きな気づきを得る。

この「雀」について、西丸は、「治癒におもむけば、本当の自分はどこにでもいる、<青い鳥>であることを見出す。」「…自然の小さな一部の雀に餌をやる、自然の一部の自分である。」と言っている。まさに、「雀」は、自然の一部である小さき「生命」の象徴であり、それに餌をやることでこそ、育てられるものなのだ。

この記録の最後も、「ぼくは雀に餌をやるのを忘れていたんだ」という言葉で、閉じられている。

私も、夢幻的な体験のさ中、アニマと名づけた精霊と交錯する形で、「雀」と出会うことで、大きな癒しを得たし、今も「小鳥」との不思議な縁は感じているから、この事態の重要性がよく分かる。ユングの患者も、エジプトの神話に出て来る黄金虫の話をしているときに、窓をたたく黄金虫と出会って、それが治癒に向けて大きく影響しているが、まさに、一種の「共時性の体験」と言える。

西丸の、この事例についての解説は、その他の点でも、とても的確だと思うし、統合失調一般についても、とても分かり易く、的確な説明をしているのも見逃せない。

そもそも、精神病については、次のように言われている。

「精神病のなかにこそ本当の人間を見つけることができることがある。…人間の心の奥にひそむ希望、恐れ、自覚が、精神病になると非常にはっきりした形をとって出現する。それは健康な人間に思いも及ばないような形をとる。象徴的に非常に誇張される。それで私たちにはそれの示す意味がよくわからないとさえ思われる。」

「精神病の世界はなんと美しく、汚なく、哀しいものであるかがわかる。美しく、汚なく、哀しいのは人間の普遍的な性質であるが、精神病においては、それがカリカチュア的に誇張され、象徴的に比喩されて私たちの目の前に現れてくるのである。」

私も、記事『人工的に「分裂」を作り出すことは可能か』で、この極限的な状況で現れ出るのは、誰もが持つ人間の「愚かさの集大成」のようなものと言っていた。「愚かさ」というのは、実際に、その面が特に強調的に現れるのに違いないが、春日武彦著『私たちはなぜ狂わずにいるのか』に引き寄せる形で述べたからでもある。西丸の言うように、実際には,美しく、汚なく、哀しい、人間のあらゆる面が、誇張されて現れるのだと言える。

ただし、それは、単に「極限状況」だからと言うのではなく、日常的には表に現れない「オカルト的」な面も絡む「未知の状況」だからこその、独特の反応なのである。

このような反応を、「了解不能」などとして、手に負えない「病気」のように決めつけることは、それこそ「愚かな反応」と言うべきである。

また、西丸の説明で、非常に分かり易いのは、このような精神病の世界は、日常の意識の力が弱まるので、それを形成する「バックグラウンド」から浮かび上がるものが前景に出て来て、現実と重なるようにして現れ出ることから来るもの、と言っていることである。

「バックグラウンド」とは、我々の認識や判断、行動などの材料となる、精神活動の裏側に横たわっているもので、そこには、過去の経験、希望、恐れ、期待、欲望などが、混沌として潜んでいる。目が覚めてしっかりしているときは、現実の状況に合うように、その混沌から材料が適格に選ばれるが、日常の意識が弱まると、夢の中のように、この「バックグラウンド」の混沌としたものが現れ出て来る。

そして、「バックグラウンドのものが、現実世界のかたちをとって出て来る。」あるいは、「外界のものを認識するときに、バックグラウンドからよけいなものがひょいと飛び出して付着する。」ということになる。それが、「幻覚」や「妄想」のもととなるわけである。

この「バックグラウンド」を、フロイト流の「無意識」、あるいはユング風の「無意識」、さらには、シュタイナーや私のように、「霊的、オカルト的な背景」をも含ませてみるかで、その内容はかなり違って来る。しかし、ごく一般化して大まかに言えば、西丸の言うように、「バックグラウンド」のものが現れるということで、よく理解できるはずのものである。

西丸がバックグラウンドとして、どのようなものを想定するかは分からないが、いずれにしても、それは、なにか訳の分からない、「了解不能」のものが、現れ出ているのではなく、誰にもある「バックグラウンド」が、混沌の様相のままに、誇張されて出て来ているだけである。

ただ、「バックグラウンド」が強く現れ出るのは、単に「日常の意識が弱まった」だけでなく、経験上理解できない「未知の状況」を迎えているので、積極的に「バッググラウンド」をフル回転して活性化することで、何とかその状況を理解しようと、躍起になっているのである。

そこにどうしても起こってしまう、「飛躍」や「矛盾」が、「了解不能」との見方をもたらすのだろうが、「未知の状況」を迎えていることに思いが及べば、その反応の全体を「了解」することは、けっして難しくないはずである。

西丸も、「未知の状況」にあることまで、積極的に認めるものではないにしても、感性的に、それとなく、そのような状況にあることをつかんでいるものと解される。

このように、体験者の体験の記録としても、それを通しての「統合失調」の説明としても、とても分かり易くて意義のある本なのだが、残念ながら、現在は、品切れになっているようである。是非、文庫などの形で、復刊してほしいものである。

 

2023年12月11日 (月)

『分裂病の少女の手記』再読及びメモ

大分前に読んでいたので、内容もほとんど忘れてしまっていた、セシュエー著『分裂病の少女の手記(みすず書房)を読み直した。

最初読んだときのようなインパクトはなかったが、主観に偏らない客観的で印象的な記述で、体験がつづられており、統合失調体験者の手記として、貴重な記録だと改めて思った。もちろん、私自身の体験と似たところも多く、共感し、頷けるところが多い。

今回は、その感想と考えたことをメモ風に書き留めておくだけにするので、本の内容の説明自体はほとんどしないことにする。本を読んでいない人には、理解できないことが多いだろうが、了承されたい。

ルネは、18歳のとき、統合失調症を発病し精神病院に入院したが、心理療法士である著者の献身的な、精神療法的な治療によって回復した。当時は、薬物療法がまだ始まる前で、統合失調は回復不能であるように思われていたので、この事例は多くのインパクトを与えたようだ。

精神医学者の間では、心理療法士の精神療法で回復したということが信じられず、この事例を統合失調ではないと疑う人もいるようだが、幻覚や妄想、さらに世界の変容などを伴う、明らかに、統合失調的な体験である。そして、むしろ、薬物などではなく、「的確な」精神療法が施されたからこそ、回復できたというべき事例である。

ルネは、母からまともに乳も与えられず、基本的な生命的欲求がかなえられていない。だから、著者の言うように、生命的な欲求が満たされていないことが、自我の解体をもたらした第一の原因というのには理由がある。そして、ルネが幼児的退行を起しているときに、母の代わりをして、その基本的欲求を満たしてあげたこと、幼児が世界に適応していくのと同じ様に、投射や模倣という「象徴的な実現」の方法を通して、新たに世界との関りをもたらしていったことは、全く的確な方法だったと言える。

ラカンは、統合失調の原因として、父との関りを通して、第三項的な「言語」の世界へと移行できなかったことを理由にあげるが、ルネの父も、虐待まがいの扱いをしていて、確かにその意味での不適応も起こしている。しかし、ルネの場合は、明らかにそれ以前の母との問題が大きく、それだけに不適応度も大きい。

そのような場合は、ルネ以外の事例でもままあるだろうし、幼児への退行というのは、私もそうだが、統合失調状況では、多くの場合に起こることだろうから、「象徴的実現」という方法は、かなりの場合に有効なものと思われる。ただ、事実上、あまりに大変だし、個人の能力にかかることで、やり方を間違えれば、むしろより酷い状態を招いてしまいかねないということはある。

ルネの体験で、興味深いのは、ルネが「光の国」や「組織」と呼ぶ、非現実的で圧倒的な、機械仕掛けの世界の体験である。ルネは、それを、たとえば次のように表現している。

「それはむしろ、現実界に対抗する一つの世界、無慈悲な、目もくらむ、影になる場所もあたえない光が支配し、果てしもない広漠たる空間や、無限に続く、平べったい、鉱物的な、冷たい月光に照らされた、北極の荒地のように荒涼とした国でした。このはりつめた空虚さの中で、すべてのものは不変であり、不動であり、凝結し、結晶していました。物体は意味もない幾何学的立方体として、そこここに配置された舞台の小道具のようでした。

 人々は薄きみ悪く振り返り、身振りをし、意味もなく動いていました。その人たちは無慈悲な電光におしひしがれ、果てしもないプランに従って、ぐるぐる回転している幽霊のようでした。そして私は、—私はその光のもとに、切り離され、冷え切って、裸にされ、目的もなく、失われてしまっていました。真鍮の壁がすべての人や、すべてのものから私をひき離していました。」

著者は、このような事態を、自我の解体による「幻覚」ないし「妄想」としかみないので、そこに取り立てて意味を認めてはいない。しかし、これは、まさに、私が述べて来た、(「不適応」による自我の揺らぎにより露になった)「霊界の境域」がこの世界へと重なるように侵入し、世界が変容してしまっている状況であるのが分かる。

これは、多かれ少なかれ、統合失調状況に入った人が体験するものと言えるが、垂直的方向の「虚無」に彩られる面が強いという意味で、私の体験した状況とかなり近い。実際、ルネは、水平的方向よりも、垂直的方向により進んで行って、「虚無」を間近にしていたものと解される。

ルネは、不適応のため、なまじっか、世間的なものを身に着けなかっただけに、水平的方向への妄想に絡めとられる度合いが少なかったのだと言える。水平的な方向の妄想は、起こっている事態を、世間的なものへと適合する形へ解釈することから生じるからである。それで、ルネの体験は、水平的方向の「陳腐な」妄想に終始する一般の事例より、よほど深い、「統合失調らしい」体験になっていると言える。

訳者もあとがきで、ルネの体験を、サルトルの『嘔吐』に記載された体験と非常に似ていると言っているが、まさに、一つの「実存的な体験」である。

垂直的方向の深みに入ることは、破壊性が強く、解体がより進む事態であることには違いない。しかし、同時に、「死と再生」の「イニシエーション」的な過程も起こりやすいのである。ルネが、幼児まで退行しつつも、回復できたというのは、まさに、一つの「イニシエーション」的な過程が成就したということである。

さらに言うと、これはまた、記事『「幻覚世界」を表した本 1-天国と地獄』で示した、オルダス・ハクスリーが自己の幻覚剤の体験を通して理解する、統合失調の世界そのものと言える。

ハクスリーは、幻覚剤によって、「事物そのものが、内から光り輝くような、強烈なリアリティと意味のもとに蘇る」という、禅の悟りにも似た体験をしたのだが、その体験を通して、それが恐怖のもとに受け入れられないときには、その体験は反転し、まさに統合失調的な地獄的体験となる、とした。

ルネの、強烈なリアリティを伴う、怖れに満ちた、「光の国」の記述は、まさにそのようなものであるのが分かるだろう。

あるいは、同じ記事で、ジョン・C・リリーが、やはり禅の悟りとも似た、天国的な体験の裏返しとして被った、地獄的な体験、「コズミックコンピューター」の世界とも非常に近い。それは、「宇宙」を、「いかなる意味も愛も人間的価値もまったくないこの巨大な宇宙的陰謀、このエネルギー物質のコズミック・ダンスにおける従属的プログラム」として見る体験だったが、ルネの表現するものと、非常に近いのが分かる。

まさに、それらは、強烈なリアリティの体験ではあるが、それが、恐怖のため(著者の言うように、「生命的な感情」を欠いたためでもあるが)、自己を脅かす、無機的な、「悪意に満ちたもの」として迫って来るのである。それこそが、ルネの体験した「光の国」であり「組織」であったと言える。

ルネは、「光の国」や「組織」を、この世界やこの世界の住人である人間を通して現れるものとしては見ていたが、「現実界に対抗する世界」と表現されているように、この世そのものの現実とは、単純に同一視していなかったとみられる。また、その「組織」の一味の「声」を聞いたりするのだが、それも、単純にこの世の者の現実の声そのものとして聞いたのではないと言っている。

これらのことも、ルネが回復できたことの大きな理由と言える。私は、「声」と「現実の物理的声」を区別できることが、統合失調状況で無暗にさまようことにならないための、大きな要因となると言っていたが、ルネはこのことを、自然となしていたのである。

前回、統合失調体験は、「切り離された個」としての意識で、「関係と繋がりのもとにある世界」を見たり感じたりすることで起こると言ったが、ルネの「光の国」の記述にも、「切り離された」という表現が何度か出て来るように、やはりこの要素があるのが分かる。

ルネは、「切り離された個」としての周りの集団の世界に適応できなかったのだから、「切り離された個」としての意識はほとんど身に着けなかったものと言える。しかし、それでも、やはりその「切り離された個」の意識は、少なくとも、潜在的には、内部に醸成されていたと言え、それが、本来は、「切り離されていない」、繋がりの世界であるはずの、「光の国」の体験のリアリティに照らされる形で、より強調されて、投影的に現れ出ていたのが分かる。

但し、通常の「切り離された個」がとるような、それを守るための防衛的な妄想に終始するような方向には、行かなかったということである。

何しろ、ルネは、母や父との健全な関係がなかったため、言語的な秩序や世間的なものを身に着ける度合いが少なかったのだが、むしろ逆説的に、だからこそ、垂直的方向の体験を比較的「純粋」にし、水平的な方向にさまようことにはならなかった。そして、著者のような精神療法家と出会い、その献身的な努力により、幼児的な退行から、新たに再生して、この世的なものと関わり適応していく方向へと、回復することができた。

もちろん、それは、喜ばしいことに違いない。そうでなければ、ルネはこの世界への適応の道を断たれて、途方に暮れるしかなかったであろう。しかし、ルネが適応することになったこの世界とは、「切り離された個の世界」であり、それは、ルネが体験した、「光の国」や「組織」において、強烈なリアリティに照らし出され、強調的に反映されることとなった世界でもある

ある意味において、ルネはそのような世界へと、帰って行ってしまったのである。私としては、そこに、幾分の、皮肉な結果をみないわけにはいかない。

2023年4月23日 (日)

「電磁波」により、「統合失調」を作り出すことは可能か

15年近く前の記事、『人工的に「分裂」を作り出すことは可能か』で、人を極限状態に置くことなどによる人工的な方法で、統合失調状態を作り出すことができるかを論じた。

結論的には、春日武彦著『私たちはなぜ狂わずにいるのか』も言うように、一時的に統合失調と類似の幻覚・妄想状態は作り出せても、継続的に、真に統合失調状態に陥らせることはできないということだった。同著書によれば、「かりそめの発狂」ということである。

そこでは、覚醒剤中毒、睡眠の極度の遮断、長期の拘禁状態、感覚の遮断などを例として挙げていたが、最近の「テクノロジー犯罪」などでも取りざたされる、電磁波による攻撃というものは挙げていなかった。

電磁波によって、脳内に何らかの「声」を聞かせる技術というものは、論理的にはでき得るものだろうし、現在では、状況とか、条件によっては、技術として実用することも、可能と言い得るのかもしれない。

しかし、たとえそのような技術があったとして、それを人間の脳に放射したとしても、やはり、「一時的に統合失調と類似の幻覚・妄想状態は作り出せても、継続的に、真に統合失調状態に陥らせることはできない」という結論に変わりはない、と言うべきである。

多くの記事、さらに前回の記事でも述べていたように、「声」というものは、単に人間の声というみかけがあるだけでなく、真に捕らわれを生む、ヌミノーゼ的な無気味さを帯びた独特のものである。また、記事、『人工的に「分裂」を作り出すことは可能か、でも述べていたように、こちらの内心の反応に応じて、的確に、効果的に、攻撃的な対応をしてくるものである。たとえ、内心の反応を、電磁波を通して読むというような技術を加味したとしても、そのようなことが的確に、継続的にできるというのは、全く現実的ではない。(たとえ、そのようなことができたとしても、真にヌミノーゼ的な無気味さは、醸し出せるものではない。)

もちろん、聞こえるはずのない声が聞こえ、それが継続すれば、かなりの混乱状態には陥るだろうし、そのことを周りの者や、精神科医にでも漏らせば、それは「統合失調の症状だ」と言われてしまう可能性はある。

しかし、それは、真に統合失調に陥った者とは、異なる反応だということである。

要は、統合失調の幻聴というものは、単に「声」を聞くだけのものではないのだが、「統合失調=幻聴の声を聞く」、と短絡的に捉えてしまうと、「声」を聞かせることで、統合失調がもたらせるというような発想も、生まれてきてしまうのだと言える

そして、それは何度も言うように、「統合失調=病気」という捉え方と、裏腹の関係にある。たとえば、「テクノロジー犯罪」を主張するような場合は、実際に、「声」を聞いている可能性が高いので、それが一般には、「病気」と捉えられることを前提にして、そうではなく、「電磁波による攻撃」なのだとする必要に迫られるのである。

無理もない面も多いが、どちらの方向からも、「統合失調の声」について、あまりに知られなさ過ぎるということを、改めて感じざるを得ない。

2023年4月 5日 (水)

「実体的意識性」と「ヌミノーゼ」

統合失調状態では、「そこに確かに存在している」という、「実体的意識性」の感覚が生じ、それが起こっていることにリアリティを与える重要な要素になることを、記事『実体的意識性」と「オルラ」』「などで示した。

「実体的意識性」は、視覚や聴覚などの知覚に伴って生じることもあるが、それ自体が一つの独自の感覚として生じるものである。

たとえば、何か、ある「実体」のようなものが、見える形で、知覚されている場合は、そのような感覚が起こっても不思議ではない。ところが、見える形では、知覚されていなくて、「声」だけか聞こえるような場合にも、そこに、「何者かが実際にいる」という感覚を、強く伴うことが多いのである。さらに、「声」としては、知覚されなくとも、そばに、「何者かが実際にいる」という感覚だけが、強く生じるという場合もある。

但し、本人が、その「実体的意識性」を、実際に、「何者かがいる」という感覚として、意識するとは限らない。たとえば、実際に目の前にする人間がいる状況で、「声」を聞くような場合には、その人間を声の出所として意識するので、何か他のものがいると、あえて意識することは起こりにくい。だから、「実体的意識性」として意識することはないにしても、それは、その聞いている「声」に、何か特別の力を感じるという形で、感じられるということにもなる。

その場合にも、「声」に力を感じるもとになっているのは、「実体的意識性」であると言うべきなのである。

このように、統合失調状態では、単に幻覚が起こるのではなく、「実体的意識性」が伴うことによって、強烈なリアリティが生じるのである。だからこそ、それに捕らわれるということも起こる。また、それについての解釈である、妄想を強く確信するのも、そのような「実体的意識性」が、もとになっているのである。

統合失調の者は、「病識がない」などと言うが、それは、この感覚レベルで起こっている、「実体的意識性」とそのリアリティについて、全く理解しないからである。「統合失調=幻覚・妄想」という、短絡的な捉え方だと、そういう見方にもなってしまう。

統合失調状態では、単に、幻覚や妄想が生じるのではなく、そこに「実体的意識性」が伴うことによって、リアリティが生じているということが、ポイントなのである。

ただ、私は、この「実体的意識性」という言葉も、統合失調の者の強い捕らわれを言い表す言葉としては、不十分だと思う。

統合失調状況では、単に、そこに「何者かがいる」という感覚が生じるというのではなく、それが、何か、「ただならぬもの」、「特別のもの」、「未知のもの」であることを、強く感じさせるものとなるからである。

記事『2 「妄想」「幻覚」の特徴とされるもの』で、笠原著『精神病』がとりあげる、統合失調症の「幻聴」のいくつかの特徴をあげたが、その中の「超越性を帯びる」というのが、まさにこれを示している。

また、「リアリティ」を生じると言ったが、この「リアリティ」には、日常的に知覚する、通常の事物や存在以上のものがあるので、体験している本人にとっては、捕らわれずにいるのは難しいような性質のものなのである。

このような性質を言い表すのには、ルドルフ・オットーが、『聖なるもの』(岩波文庫)という本で用いた、「ヌミノーゼ」(体験または感情)というのが、適当だと思う。

「ヌミノーゼ」というのは、キリスト教のような「高等宗教」の神から、先住民文化の精霊やマナ(霊力)のようなものまで、あらゆる「聖なるもの」の体験の根底にある感情として、捉えられたものである。崇拝の対象としての、「神」や「精霊」というのは、そのような感情のもとに、作り上げられた観念なのであり、抽象的なものであるが、この言葉は、その根底にある具体的な体験または感情を、事実として、取り出しているのである。

「神」や「聖なるもの」というと、崇拝をもたらす神聖な感情というイメージになるが、実際には、「聖なるもの」には、恐れをもたらす、負の側面もあり、それこそが、崇拝をもたらす場合にも、根源的な感情として潜んでいる。従って、「ヌミノーゼ」というのは、「おそれをもたらすと同時に、ひきつけられ、魅惑される」、両義的な感情なのである。

日本の江戸期の国学者、本居宣長も、

「其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、」

と述べている。この言葉も、「カミ」が、観念的、抽象的なものではなく、我々を取り巻く具体的なもので、悪しきもの、怪しきものを含めた、畏怖をもたらす特別なもの全般を指すことを、よく示している。

オットーは、「薄気味悪く怖るべきもの」、「妖怪的なもの」という言い方で、この「ヌミノーゼ」感情の底に潜む負の面を、言い表している。

統合失調状況で起こる、「実体的意識性」というのも、まさにこのような意味の、「妖怪的なもの」を伴うことが多いのである。それは、先に述べたように、「ただならぬもの」、「特別のもの」、「未知のもの」であるにしても、どこか、「薄気味悪く」、「おどろおどろしい」ものを際立たせている。だからこそ、恐怖の感情とともに、否定的な捕らわれをもたらさずにはおかないのである。

統合失調の場合、恐らく、単に「実体的意識性」というよりも、このように、より具体的に踏み込んで、「ヌミノーゼ」体験、または「ヌミノーゼ」感情として捉えた方が、理解されやすいであろう。

前回、近代社会のシステムは、「オカルト的なもの」を排除したがゆえに、統合失調状態に陥った者も、「病気」として「排除」する必然性を生じたと言った。この「オカルト的なもの」を、言い換えるならば、「ヌミノーゼ的なもの」と言うこともできる。

近代社会は、「聖なるもの」全体を、実質的には、「排除」したも同然だが、その崇拝という面や、観念的、抽象的で、(近代社会のシステムにとって)利用でき、あるいは無害な面は、各種の「宗教」に取り込ませた。

しかし、その根底なす、実質的な面、すなわち、真に危険で、システムを揺るがしかねない、「ヌミノーゼ」の面は、「病気」という形で、本当に、「排除」したのである。「聖なるもの」の根源をなすものこそが、「病気」として排除されたことにより、「宗教」というのも、骨抜きにされたのである。

しかし、現在においても、統合失調という現象には、「病気」と呼んだところで、そこからはみ出す面が、常にどこか顔を覗かせている。すなわち、「ヌミノーゼ」的なものが、依然として醸し出されることを、決して止めたわけではないのは、明らかである。

2023年3月20日 (月)

近代社会のシステムと「病気」という必然性

前回、統合失調状態は、一種の「(覚めない)催眠状態」と言えることをみた。

通常の催眠ならば、催眠術士が、「3つ数えると覚める」、「手をたたくと覚める」等の暗示を与えることで、覚めることまで導いてくれる。ところが、統合失調状態では、催眠をかけた側も、こんな暗示を与えるわけがないので、自ら「催眠」に陥っていることに気づくことでしか、そこから脱する方途はない。

そのためには、統合失調状態というのが、一種の「催眠状態」で、その状況では「起こっていることが真実」としか思えないことも、暗示によって誘導されて、そのように思わされているのだ、ということを、あらかじめ、漠然とでも、知る可能性がなければならない()

周りの者にとっても、統合失調状態が、一種の「催眠状態」であることを理解できれば、必要以上に混乱することはないことになる。

ところが、このような見方を阻害しているのが、「統合失調」は「病気」であり、「精神医療によって治療すべきもの」という、一般に浸透している常識である。

この常識も、恐怖や不安に基づく、集団での一種の「催眠状態」によって、誘導されていることを前回みた。

しかし、記事『「病気」ということの「イデオロギー」的意味』などでみたように、この「病気」という見方は、近代社会が作り上げた強固なシステムの一環として、なされているものである。それは、近代社会のシステムを保持するために、強力な役割を果たしているのであり、容易には突き崩し難いものということである。

だから、近代社会のシステムにとって、「病気」という見方が「必然」であり、それを覆せば、近代社会のシステムの維持自体が、難しくなる、ということを、大まかにでも理解しなければ、「病気」という見方に捕らわれずに、統合失調の本質を理解しようとすることも、難しいことになる。

このように、大げさでも何でもなく、統合失調状態を理解しようとすること、あるいは、その状態から本当に抜け出ようとすることは、近代社会というシステムそのものを問題にすることなのだ、ということの、自覚も必要である。

そうしなければ、「統合失調」という「謎めいた病気」は、永遠に暗躍し、近代社会のシステムを裏から支え続け、本人にとっても、何とかその状態をごまかしたり、その害を弱めたりすることができるのが、関の山ということになるのである。

近代社会のシステムにとって、「病気」という見方が「必然」であることを、簡単に図で示したので、それを掲げる。

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これまで何度も述べて来たことで、説明は不要と思うが、簡単に説明を付すると、

近代社会は、魔女狩りという悪夢の再現を阻止したいがために、それまでの文化を彩った、「オカルト的なもの」を排除するということを、基盤にしてできあがっている。だから、「オカルト的なもの」の影響をにおわせ、社会のシステムから逸脱するものは、ことごとく「排除」されねばならない。それは、社会システムを維持するための、「必然」なのである。

「医学」から借りて来た、「病気」という観念も、初めは、体よく「排除」するために便利だったから使われたものと言える。

ところが、単純に「排除」するのではなく、「病気」として社会の中で抱え込むことは、医療や製薬業界から利益を吸い上げる、支配層にとっても、大きなうまみとなるし、「排除」というあり方を、見かけ上ごまかすことにもなる。

それで、記事『精神的な「病」と「医療化」()』でみたように、「病気」ということが、単なる「レッテル」としてだけでなく、近代社会のシステムを維持するうえでも、重要な要として機能するようになったのである。

そのとき示した図を、再び掲げる。

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こういったことの全体を、俎上に上らせない限り、「病気」ということに捕らわれずに、「統合失調」の理解を得ようとすることは、難しい。

しかし、逆に、「病気」ということの「イデオロギー」性や、社会にとっての「必然性」が見えてくれば、その覆いが剥がされて、「統合失調」の本質は割と見えてきやすいものになる、ということも言えるのである。

 

※ 日本でも、近代以前には、記事『「狐に化かされる」こと/一時的な「幻覚」「妄想」状態』でみたように、「狐に化かされる」ということで、こういった状態に陥ったことを自覚する方途があり、結果として、一時的な幻覚・妄想状態で抜け出ることができていた。

この「狐に化かされる」というのは、狐(という精霊的存在)に、「催眠」にかけられて、幻覚・妄想状態に陥る、ということを、端的に示すものといえる。

 

2023年3月15日 (水)

幻覚・妄想と催眠状態としての統合失調

幻覚が起こり、妄想を信じ込む統合失調状態については、「霊界の境域」に入り込み、そこから抜けられなくなるということを中心にして、説明した。

また、幻覚・妄想状態については、LSDなどの幻覚剤摂取や、恋愛妄想に捕らわれている状態が、誰もが体験できる近い状態であることを説明した。

しかし、もう一つ、誰もが連想しやすい、これらに近い、身近な例をあげることができる。それは、催眠術にかかった状態、あるいは、もっと広く、催眠様の状態である

自分自身が、催眠術にかかった経験のある人は、少ないかもしれないが、テレビのショーなどで、催眠にかかった人の言動を見たことのある人は、多いことだろう。催眠にかかった人は、催眠術士に暗示をかけられると、ないはずのものが見えたり、見えるはずのものが見えなくなったり、自分が有名人であると本気で信じて行動したり、身体の自由が利かなくなったりする。

また、催眠術士というものを通して、直接かかる場合でなくとも、被暗示性が高まる催眠様の状態というのは、比較的誰もが、日常において広くかかり得るものである。

セールスなどのテクニックや、テレビ、ネットの広告なども、人の被暗示性が高まる催眠様の状態を利用して、なされる面がある。新入社員の研修や軍隊、カルトなどの帰属意識を高める「洗脳」は、まさに催眠状態を利用してなされる。

もっと言うと、我々一般の信じる「常識」というのも、集団の中で、被暗示性が高まることで、信じられ、浸透して行くのである。

催眠状態というのは、一種の「変性意識状態」で、何か特定の事柄や人物に捕らわれ(魅惑され)、意識がそれに固定され、日常の意識が狭まって、被暗示性が高まる、一種独特な意識状態である。普段の自分からすれば、普段は抑制されて表に出て来ない、「無意識のある部分の自分」、あるいは「もう一人の別の自分」が表に出るような状態とも言える。

その状態では、通常の判断力も弱まり、普段であれば信じないようなことも、容易に信じてしまう。はたから見れば、あり得ないようなことでも、容易に信じて、実際に、行動してしまうのである。あとで、催眠から覚めたときには、本人もなぜそんな行動をとってしまったのか、とても理解できない。

催眠状態で信じることは、強い力を発揮して、忘れたはずの、幼少期の頃のことを思い出したり、通常はできないはずのことが、できたりもする。日常の自分を超えた、体験をもたらすのである。だから、自己実現のための、セラピーや、催眠療法として、病気治療に利用されたりもする。

超心理学のESPカード透視実験では、催眠状態でできると信じた人のヒット率が、有意に上がることも、確認されている。

「意識が狭まる」と言ったが、これはある意味、日常の抑制意識が緩まることでもあるので、本来の、より広い意識が表に出て来ることでもあるのである。

統合失調状態というのも、基本的に、これら催眠状態と同なのである。

催眠状態に陥っているゆえに、通常の判断力を失い、幻覚を見たり聞いたりし、普通は信じられないようなことを信じ込んでしまうということである。それが、非常にネガティブな形で現れてはいるが、「病気」などと言う必要は、まったくないのである。

ただし、通常の催眠にかかっている人は、遅かれ早かれ、その状態から覚める。戻るべき日常の自分というものが、あるのである。だから、催眠にかかって、異常な行動に出る状態というのも、一時的なもので終わる。ところが、統合失調状態に陥っている者は、長い間、その状態から覚めることができないのである。

それには、いくつか理由があって、まずは、陥っている催眠状態の性質が、通常のものより強力で、長期にわたるので、容易に戻れるようなものではないということがある。一方で、その者の戻るべき自分というのも、もともと弱いということ、あるいは、戻るべき自分が、壊れかかっていて、もはや戻れる状態ではないということがある。

通常の催眠は、催眠術士が習得した技術によって、暗示にかけることによって起こるが、一般の催眠術士は、モラルとしても抑制されていて、悪意をもって、恐怖や不安につけ込むような形で、長期的にかからせるということはない。また、人間の催眠術士では、そうしようとしたとしても、かなりの限界がある。

ところが、統合失調状態では、まさに、悪意をもって、恐怖や不安につけ込む形で、人間よりも心理操作に長け、四六時中つけまとうことのできる、「見えない」存在によって、陥らされるのである。

一般に、統合失調状態が、催眠にかかった状態と思われないのは、この点が理解されないことによっているだろう。

一般の催眠は、催眠術士という「目に見える」存在がいて、それに暗示をかけられることで生じることが、はっきり分かる。ところが、統合失調状態には、特定の目に見える「誰か」として、暗示にかける存在が、(客観的には)見当たらないのである。しかし、統合失調状態に陥る者は、自覚的に意識する場合はほとんどないとは言え、何らかのし方で、そのような存在から、悪意をもって、強力に暗示をかけられていることが多いのである。

ただ、先に例をあげたように、一般の催眠の場合も、必ずしも、催眠術士がいなくとも、暗示にかかる場合は多くある。統合失調状態の場合もそうで、強い恐怖や不安に捕らわれている場合、疑心暗鬼になって、何であれ、その者にとっては、暗示をもたらし、催眠状態を導くきっかけになり得るのである。

さらに、記事『「恐怖心」が引き寄せる現象』でも見たように、強い恐怖や不安は、自分に起こる現象そのものも、共時的に引き寄せ、さらには、「現実」そのものを変容させてしまうほどのことにもなる。催眠の場合でみたような、日常を超えた信じ難い現象が、より強力な形で、しかもネガティブな形で、起こるということである。

実際には、このような現象にも、暗示をかける他者的な存在が関わっている場合が多いのだか、必ずしも、そのような存在を想定しなくとも、強力な催眠に陥ることがあるのは、理解できるはずである。

それにしても、一般には、統合失調状態は、催眠ではとても理解できないほど、常識から逸脱しているように思われてしまう。実際、だからこそ、「病気」というレッテルが張られるのである。

しかし、先に触れたように、「常識」というのもまた、集団的に陥っている、「催眠」状態というべきものなのである。意識は、狭められ、それに強く捕らわれているから、それに反すること、そこから逸脱するものは、異常で、病的なことに思えてしまう。それを、「病気」とみなして、「治さなければならない」こととすること自体が、(統合失調とは違った方向から)恐怖や不安によって誘導された、催眠状態によって、促されているということである。

「催眠」ということを、単に表面的にではなく、もう少し深くつっこんで理解できるなら、統合失調状態も、その一例にほかならないことが、分かるはずである。

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