精神医学

2025年6月 8日 (日)

『精神の幾何学』と「分裂病ファントム論」について

安永浩という精神科医の「分裂病ファントム論」については、一応知ってはいたが、あまり適切な解説がされていなかったためもあり、特に興味を持つことはなかった。論の趣旨は、分裂病の体験空間(ファントム空間)を幾何学的に表現することで捉えようとするものなのだが、晦渋なイメージがあり、とっつきにくいものがある。おそらく、多くの人もそのように思うことだろう。

ところが、このたび、『精神の幾何学』という本が文庫化(ちくま学芸文庫)されているのを知り、第Ⅲ部の精神病理学的事象を読んでみた。そうすると、その幾何学的表現そのものはともかく、分裂病を捉えよう(了解しよう)という基本的な方向性においては、十分納得できるものがあり、共感するところも多いものだった。

そこで、今回は、その詳しい説明や幾何学的表現についての解説をするつもりはないが、基本的な方向性と全体の論旨について簡単に紹介し、コメントしておこうと思う。

記事『「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 1』 『2』で、多くの場合、「「精神病理学」は、一般の(生物学的)精神医学とは異なり、「了解不能」とするのではなく、それに鋭い視点から迫ろうとしていて、それぞれにみるべきものがある。しかし、残念ながら、それは結局は、「統合失調状況に入る契機」を明らかにするものであっても、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものではない」、ということを述べていた。

「統合失調状況そのものを明らかにするものではない」、というのは、多くの精神病理学者も、統合失調状況そのものは「自己」の壊れた結果的な現われに過ぎず、それ自体に意味があるもの、あるいは何か理解のための新たな要素が加わるものではないと考えているからと思われる。R.D.レインすら、初期にはそのような傾向があったのである。

ところが、安永は、そのような態度をとらず、分裂病の体験空間を理解できるものとするために、それを幾何学的に捉えて理論化することを行っている。「分裂病的状況そのもの」の理解を指向している点が、決定的に異なっているのである。

そして、そのような方向をとらない、一般の精神医学や、精神病理学について鋭い批判もしており、その点は、大いに共感できるところである。

そのような視点を端的に述べている文章があるので、それを引用してみよう。

「正常人に関する常識的枠組みだけに頼って出発する場合、ほとんどすべての分裂病観が陥ったように、結局了解は不能のもの(例えばハイデルベルグ学派)、正常人にとっての自明性が失われたもの(例えばブランケンブルグ)として、認識地平の彼方に捨て去るしかなかったのである。

…しかも、それはまだしも正直な方であって、正常心理の辺縁を拡張して安易に分裂病を理解したつもりになり、あまつさえ根拠のない心的原因や性格欠陥を想定し、それをもって人間的接近法と称するが如き言説もおびただしくみられるのである。この安易さを排するために、いささかどぎつい感じもするが、次のことを標語的に述べてもよいかと思うぐらいである。即ち、“一見わかりやすい分裂病論とは(まさにそれ故に)本質以外のことを述べているのに過ぎない”と」

また、分裂病といわれる「病」について、次のようにも言っている。

「実をいえば分裂病というものが「一つの」病なのかどうかさえいまだに結着がついていない。…本書の立場は、ある特殊な病の、というより一つの特異な体験類型(分裂病型体験様式)の特徴を認定しようとするにとどまるものである。

「病気」と決めつけることで分かったことにするのではなく、あるいはその内容を規定しようとするのではなく、あくまで、一つの特異な「体験類型」として捉えたうえで、その内容を理解しようとしている。私も、「分裂病“的”状況」とか「統合失調“的”状況」と呼んでいるのは、これと全く同じ趣旨である。

その「ファントム論」の要点は、正常人の空間の体験、または知覚世界というのを「パターン」として捉えた場合に、分裂病の体験では、そのパターンが逆になり、『バターン逆転』が起こるということである。

それをAとかBとかの記号を用いながら、幾何学的にプロットしていき、理解できるものにしようとしているのだが、私は、特に数理的に把握することが理解に資するような人以外には、むしろ逆効果で、それが故に敬遠されている面も大きいと思う。

何しろ、正常人では、Aといわれる「自」「全体」「統一」「質」が前提となってBといわれる「他」「部分」「差別」「量」が条件的に出て来るが、分裂病の「パターン逆転」では、これが逆転し、Bの方が自明な前提と化し、Aすなわち主体性が条件的偶然的なものになっているとする。

このことから、分裂病者の「病識のなさ」や、「自我収縮感」、「させられ体験」や「疑憑依」などの「他者」に操作される感覚などが説明される。

「バターン逆転」とは、私がこれまで述べて来たことで言えば、「日常世界」において「図」であったものが背景に引っ込んで、「地」となり、逆に、「地」であったものが「図」として前景に出てくると言った、「図と地の逆転」に対応しているものと言える。

それは、「自我」という媒介でみられた「世界」が、弱まり、崩れ行く過程ともみられるから、自我によって抑圧されていたものが前景に出て来て、自我を圧迫するようになる。と同時に、自我という媒介性を失って、体験自体の強度が強まり直接性が高まるので、それ自体が圧倒して自我を飲み込むような作用をする。体験世界そのものが、「圧倒的な他者」と化していると言うこともできる。その結果、自我がその体験を「誤り」などと認識することは難しく、また「自我収縮感」や「させられ体験」などの他者に操作される感覚も起こるのである。

安永も、なぜそのようなことが起こるのかについては、未知としている。ただ、何らかの生理的な変化を示唆しているし、また、正常人にとっての「パターン」というのも、普遍的なものというよりも、近代人にとってのものでしかないこと。妄想知覚ということで、妄想内容を取り込んでいるから、当然の面もあるが、分裂病者の「パターン逆転」というのも、正常人の「パターン」と対等の位置を与えられているというよりは、一種の「錯覚」とされているなど、やはり私の観点からすれば、多くの問題と言うか、限界は感じざるを得ないものである。

それにしても、繰り返すが、基本的な方向性や態度としては、みるべきものが多く、参照とすべき点も多いので、興味を持った人は、本を読むなり、ネット等で調べるなりしてみてほしいものである。

2025年5月27日 (火)

近代社会と精神医学、オカルト的なもの、シャーマニズムの関係

これまで、近代社会と精神医学の密接な関係、近代社会がいかにオカルト的なものを排除することで成り立っているか、特にオカルト的なもの一般の中でもシャーマニズムこそが排除の対象となっていることについて多くを述べた。

我々は近代社会の中で、それこそが普遍的なものであるかのように、近代社会特有のものの見方や常識を身につけて生きてきた。従って、それを疑ったり、覆すようなことはとても難しいのである。

しかし、近代社会というものが、一つの特殊なものの見方、それも大きく制限された狭い見方に基づく文化であることを認識しない限り、統合失調のような不可解な精神の状態を理解することなど、とてもできることではない

そのようなことは、迂遠で面倒な手続きに思えるかもしれないが、そうしない限り、統合失調の真の理解へと一歩も踏み出すことにはならないのである。それで、これまでかなり深く立ち入って、このようなことを詳しく検討してきたわけである。

今回は、これらの関係を端的に図示することで、改めて、ざっと全体を概観できるようにしておこうと思う。まずは、図を掲げる。

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既に詳しく述べて来たことなので、以下まとめ風に簡単にコメントしておくにとどめる。

「近代社会」の常識や学問、社会制度など、あらゆるものが近代社会特有のものの見方に基づいてできている。しかし、それらの中でも、特に近代社会のものの見方と密接に結びついて存在し、さらに近代社会の背後からそれらを強力に支える働きをしているのが「精神医学」である。

近代社会は、西洋の一神教的な文化を背景に、「オカルト的なもの」全般、中でも、「シャーマニズム」を排除することで成り立っている。「シャーマニズム」は、西洋に限らず、あらゆる文化の中心をなす普遍的なもので、「オカルト的なもの」という広い枠の中でも、実質的で主要な要素をなすものと言える。

西洋においては、その排除は、まずは、「魔女狩り」という形で強力に起こり、後に、近代的合理主義あるいは近代科学に反する「迷信」とされることでなされている。

日本においては、大規模な「魔女狩り」はなかったが、似た出来事はあり、またそれとほぼ並行するようにして、明治維新以来の急速な西洋化、迷信撲滅運動などを通してなされている。

本来、そのような普遍的なものの排除によってこそ成り立つ、特殊で狭い見方において、統合失調のような精神状態を理解することはできない。しかし、「精神医学」はそれを「病気」と規定することで、近代社会の見方を裏から支えることに成功した。その「病気」として規定されたものとは、普遍的な文化においては、「シャーマニズム」(シャーマン的巫病)として捉えられてきたものであり、精神医学は、それを「病気」とすることで、近代社会による「排除」を正当化し、継続できたのである。

すなわち、病院への実質隔離であり、あるいは近代社会が許容する限りでの社会への抱え込みである。

そのような全体の構造を理解することなしに、統合失調の理解などはあり得ないことを改めて強調しておく。

 

2025年5月 6日 (火)

統合失調「イニシエーション説」と「イニシエーション」という意味

R.D.レインの『霊的旅路説』が典型的だが、統合失調は、実体としてある「病気」なのではなく、その状態そのものが、一つの「イニシエーション」として「変化」「成長」への過程なのだ、という説がある。「ダブルバインド説」で有名なグレゴリー・ベイトソンや、神話学者のジョセフ・キャンベルもこの説をとっている。普遍的無意識との関係での「個性化の過程」とみるユングの説もこれに入るだろう。私の説いてきたことも、その一つのバリエーションと言える。

あまり一般にそういう言われ方はしないが、とりあえずそういう捉え方を、「統合失調イニシエーション説」として括ることもできるだろう。

しかし、このような言い方が意味をなすには、「イニシエーション」ということの意味、また、あえて「イニシエーション」という言葉を使うことの意味が、それなりに明確にされなければならない

 今までにも、何度か「イニシエーション」については述べてきたが、今回は、そのまとめ的な意味もかねて、このような観点から述べ直してみたい。

ウィキペディアでは「イニシエーション」を、

・人生の節目に行われる儀礼については、通過儀礼を参照のこと。

・オウム真理教の修行については、オウム真理教の修行 を参照のこと。

・イニシエーション・ラブ - 乾くるみの小説。2015年に映画化。

として、3つに分けて別々に括っている。「イニシエーション」という言葉が、一義的に説明しがたい、多様な意味を持っていることを示している。ここで問題にする「イニシエーション」は、もちろん、この中では、「通過儀礼」として説明される事項ということになるので、その説明をあげてみる。

「通過儀礼(つうかぎれい、rite of passage)とは、人間が出生してから成人し、結婚などを経て死に至るまでの成長過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。イニシエーションの訳語としてあてられることが多い。具体的な内容は地域の歴史と風俗により変わり、更に内容も目的も変わり時代と共に変遷する。」

基本的に、問題にする「イニシエーション」と重なる説明だが、ここで問題にしているのは、人間や社会集団が行う「儀礼そのもの」を意味するのではないので、そのまま当てはまるというわけではない。

辞書では、「特定の集団に成員として加入する際に行われる儀礼」として説明されることが多いようである。これは、英語としての「Initiation」の意味に、「加入する」こと、「参入する」ことの意味があり、そのように、ある特定の集団に加入・参入するための儀式という意味で言われているのである。あるいは、「通過儀礼」一般においても、その儀礼を通過した者は、結果として、ある特定の集団への加入が認められることになることが多い(たとえば、成人儀礼の場合は、大人としての集団)ので、通過儀礼としての意味とも重なるものがある。

しかし、いずれにしても、このような説明は、社会的な集団の行う外面的な儀礼に注目したもので、統合失調で問題にする「イニシエーション」と直接関わるわけではない

要は、統合失調イニシエーション説でいう「イニシエーション」というのは、このような「通過儀礼」や「加入儀礼」そのもの、あるいはその形式ではなく、その実質的な意味であり、本質なのだということができる。

文明国で行われる儀礼は、文字通り「儀礼化」して、形式的要素が多いから、その実質的意味あるいは本質は、ほとんど分からないものになっている。ただ、先住民文化で行われる儀礼は現在も生きたものが多いので、その実質的な意味あるいは本質を見出す試みがなされ得る。とは言え、そこには日常性を超えた「見えない」部分が多く、明確に見出されることにはなってはいない。いわば、「イニシエーション」という言葉で括りつつ、その「実質」は、今後の研究や探求に開かれているものと言える。

しかし、とりあえず、「イニシエーション」という言葉が、そのような「儀礼」の実質的な意味あるいは本質を、明確ではないながらも含意していることが重要である。それで、統合失調についても、明確さを欠くきらいはあっても、とりあえず「イニシエーション」として括っておくことで、大枠的な理解あるいは方向づけがされるとともに、さらに探求を深めることができるのである。

これを、「通過儀礼」や「加入式」という儀式そのもの、あるいはその儀式の過程に普通含まれる「試練」という言葉(日本語)を使ったのでは、非常に制限された意味になってしまうし、発展性に欠けることとなる。

そのような「イニシエーション」の過程については、既に、人類学の方面で、かなり鋭い論理的分析もされている。記事『人類学で、近代社会の常識を「ひっくり返す」』で、簡単にとりあげたように、「(共同体または日常世界からの)分離・過渡・統合の過程をたどる」(ファン・ヘネップ)や、「その過渡の段階では、「コミュニタス」と呼ばれる、何ものにも所属しない境界領域、あるいはそれまでの世界が崩壊した、カオス的な状況を通り抜けること」(ヴィクター・ターナー)などである。

これらは、確かに、先住民文化の儀礼の過程を、論理的に的確に分析するものがあり、統合失調の体験についても、抽象的には、十分当てはまるものがあると言える。統合失調「イニシエーション説」においても、これらを汲み取ったものが多いであろう。

ただし、それは、一つの論理的分析として、やはり抽象的なものであるし、儀礼の過程の具体的な様相や、儀礼の実質的意味あるいは本質を十分に解き明かすものとは言えない

私は、「イニシエーション」の実質的意味あるいは本質というのは、先住民文化の行う儀礼の中でも、シャーマンになる者が受ける儀礼(入巫儀礼、シャーマン的巫病を伴う)にこそ強く現れているものと思う。成人儀礼などの他の儀礼にも、そのエッセンスは含まれているが、それは、シャーマンが受ける儀礼のいわば簡易体験版なのである。

だから、シャーマンの受ける儀礼の実質的意味や本質こそがより深く探求されなければないが、それは通常の儀礼以上に「見えない」要素に満ちていて難しいのである。

ただし、前回の記事でもみたように、シャーマンのあり様は、物質的な面からも明らかにされるようになって来ているし、統合失調との絡みでも重要なシャーマンが入るトランス意識については、脳波などの脳研究においても探求されるようになって来ている。先住民文化のフィールドワーク的な研究(それはカスタネダのように、研究者自身が体験することが最も望ましい形だが)と相まって、今後は、その内容がより深まって来る可能性があるのである。

私は、記事で何度も述べたように、シャーマンがトランス意識によって入る「世界」は、抽象的に日常的世界から「分離」されての「過渡」の段階、あるいは「境界的なリミナリティ」の段階にあるというだけでなく、実質的な「もう一つの現実の世界」あるいは「他界」の体験であることを確認することが重要なことと思う。

それはまた、統合失調の者が入る「世界」でもあるわけだが、それが実質的な「世界」であることが確認されて初めて、それが実体としての「病気」ではないということの意味も明確になり得るのである。そして、シャーマンの場合と比較することで、そのような体験が、統合失調の場合には、「病的なもの」になる、あるいは「病的なものに終始する」理由もまた、明らかになって来るはずなのである。

つまり、統合失調の場合も、儀礼の実質的意味あるいは本質としての「イニシエーション」の過程を通ることには違いがないが、それが、シャーマンの場合のようには、「成功」に終わらないことの理由も明らかになるはずということである。

2025年1月 9日 (木)

統合失調状況を「くぐり抜ける」の図

ブログ『統合失調とは本質的にどういう状況か』の記事『設問41 統合失調状況を「抜け出す」のではなく、「くぐり抜ける」というのはどういうことですか?』の方で、統合失調状況を「抜け出す」と「くぐり抜ける」の違いを説明しつつ、最後に分かり易い図を掲載しています。

「くぐり抜ける」ということは、こちらのブログのタイトルにもなっていることで、詳しい説明が何度もされていることですが、この図は本当にパッと見て分かり易いものになっていると思うので、こちらにも掲げておきます

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特に説明の要はないと思うし、この図に出て来る事柄は、こちらでも既に十分説明したことばかりです。

幻覚・妄想段階、夢幻様段階は、森山公夫が『統合失調症』(ちくま新書)で、統合失調の発展段階として採用しているものです。夢幻様段階は、「世界没落体験」という「宇宙的な破滅体験」に収束していくものとされます。(記事『9 「妄想」の発展・深化段階』参照)      

「くぐり抜ける」ということで言うと、そのような「宇宙的な死」の体験が、同時に新たな「再生」を導いていくということが言えます。

「死と再生」のイニシエーションについては、『「イニシエーション」としての側面』や、『「イニシエーション」と「垂直的方向」』など、多くの記事があります。

2024年10月24日 (木)

自我が外れたときの状況と、オルダス・ハクスリーの分裂病論の「意訳」

ブログ『統合失調とは本質的にどういう状況か』の方では、最近の設問21及び設問22で、「自我」または「自己」が揺らぎ、壊されて、自己と外界の境界が曖昧になったときに、その「自我」と連動していたそれまでの「現実」というものも多かれ少なかれ壊されて、新たに、見慣れぬものとして「生の現実」が現れ出るという状況のことをとりあげている。そのような状況で起こることが、統合失調の理解にとって、非常に重要だからである。

その状況自体のもたらす未知の恐怖はもちろん、あらゆる出来事が自分に関係しているかのように現れ出たり(「関係妄想」)、とても偶然とは思えない、意味的に関連する出来事(共時性の現象)を頻繁にもたらすことなどが、統合失調的な反応に大いに影響するのである。

ところが、こちらのブログでも、記事『「幻覚世界」を表した本 1-天国と地獄』で、このように「自我」が取り払われたときに現われ出る「世界」は、禅のいう「悟り」の体験ともなるとともに、恐怖と混乱のため、「統合失調状態」そのものともなることを、オルダス・ハクスリーやジョン・リリーの幻覚体験を通して、かなり具体的に述べていた。

その中で、次のように述べていたことが、特に重要なので、改めて掲げておく。

「要するに、この知覚の瞬間には、自己と世界との間に立ちはだかる「自我」という覆いが、取り払われているのである。それで、事物の本来の「リアリティ」が、強烈に立ち現れると同時に、それは、本来の自己と同一のものとして、感得されることにもなるのである。

ただし、それはまた、統合失調のような幻覚体験でも、多かれ少なかれ起こることである。統合失調状況においても(もともとの自我の脆弱さが影響することも多いだろうが)、また、自己と外界を境界づける「自我」は、大きく揺らぎ、または失なわれ、その区別を失わしめるような、強烈な「幻覚」が起こるからである。

幻覚体験そのものは、そのような、「自我」というものを当然の枠組みとしている日常の知覚体験とは異なり、「自我」が揺らぎ、または外れたときの、一つの必然的な「知覚体験」であり、客観的なものであるということを、押さえておくべきである。それ自体には、(プラスであれ、マイナスであれ)変な「価値づけ」は、なされるべきではない、ということである。

しかし、著者も言うように、そこには、事実上、「天国」と「地獄」と言ってもいいような、大きな質的な差が生じることがあるのも事実である。

また、そことでとりあげた、オルダス・ハクスリーの「分裂病」についての論も、とてもまとまっていて、的確なものなので、再び掲げる。

「精神分裂病者は罪深い人間という存在の上に絶望的な病というおまけのついた人間である。その病とは、常識という自家製の世界-便利な概念や共有された象徴や社会的に容認された習慣で成り立っているまったき人間の世界-にあって(正気の人間が普通そうしているようには)、内面及び外面のリアリティから逃避することのできない、その不可能性である。精神分裂病者は絶えずメスカリンの効力の下にある人間に似ている。従ってまた、あまり聖なる存在でないためにそれと直面して生き続けることのできないようなリアリティ経験から完全に逃れることができず、しかもそのリアリティが原初的事実の中でも最も動かしがたい事実であるがために言葉による説明で片づけることもできず、また単なる人間の眼で世界を見ることをそれが許さないためその徹底した異質性、その燃えるような意味の激しさを人間の悪意、いや宇宙の悪意の表れとすら解釈せざるを得ないほどに怯えることになり、殺人的暴力から緊張型分裂病つまりは心理的自殺に到るさまざまな必死の対抗手段に走るのである。それも一度下向線を、地獄への道をたどりはじめるとおそらく止まることは不可能であろう。」

ただ、これは、文学者らしい多少大袈裟な表現や、恐らく翻訳の問題もあって、読みやすくもないし、意味がとりにくいところがある。

私は、続いて、次のように解説していたが、それも多少端折り過ぎな説明で、決して分かり易くはないであろう。

「つまり、分裂病者は、リアリティへの感覚が鋭くあるため、通常の人間のようには、日常の世界に収まることができないが、かといって、聖者のように、それの取り払われた本来のリアリティの世界にも、落ち着くことができず、その「悪意ある」恐怖に対抗すべく足掻いて、混乱を深めていくしかない、ということになる。分裂病者の、どちらつかずの「中間的な位置」というか、一種の「中途半端さ」をよく言い表している。」

そこで、今回、上のハクスリーの引用部分を、私なりに、その「意」をとって、原文も参照せずに、恣意的もいいところだが、その独特の「表現」は生かしつつ、「意訳」風に再構成したものを、掲げておくことにした。

「精神分裂病者は、(一般の理解に沿う言い方をするならば)「罪深い人間という存在の上に絶望的な病というおまけのついた人間」である。しかし、その「病」の実質とは、実際には、「常識という自家製の世界―便利な概念や共有された象徴や社会的に容認された習慣で成り立っているまったき人間の世界―にあって(正気の人間が普通そうしているようには)、内面及び外面のリアリティから逃避することができない、というその不可能性」のことを意味している。

精神分裂病者は、絶えずメスカリンの効力の下にあり、「幻覚世界」にさらされている人間に似ている。従って、聖人のようには、それと直面して生き続けることのできないようなリアリティ経験から完全に逃れることができずにいる。しかも、そのリアリティとは、(言葉以前の)原初的事実の中でも最も動かしがたい事実であるがために、言葉による説明で片づけることもできない。また通常の人間の眼で世界を見ることをそれが許さないため、その徹底した異質性、その燃えるような意味の激しさを人間の悪意、いや宇宙の悪意の表れとすら解釈せざるを得ないほどに怯えることになる。

そうして、殺人的暴力から緊張型分裂病つまりは心理的自殺に到るさまざまな必死の対抗手段に走るのである。それも一度下向線を、地獄への道をたどりはじめるとおそらく止まることは不可能であろう。」

恐らく、ハクスリーの意図とも違わないと思うし、より分かり易くはなったことと思う。

ハクスリーの引用部分をこの「意訳」と入れ替えて、改めて記事の全文を読んでいただくと、より理解が深まることと思う。

 

 

2024年4月 7日 (日)

ビンスワンガー、木村敏の例を通して具体的にみる

ここで、例として、ハイデガーの思想に依拠しつつ、現存在分析の方法を創始した著名な精神病理学者ビンスワンガーの捉え方を、少しとりあげてみたい。

ハイデガーは、世界の中に投げ出されてある、「世界--存在」としての人間のあり方を問題にするので、フッサールの現象学以上に、実存主義的な傾向が強い。世界の根底に「虚無」を見るような見方を継承しているということだが、しかし同時に、ハイデガーは、そこに自由または主体性の根拠もみており、だからこそ、人間は常に「開かれて」あり、それを超えて行く可能性があるのだともしていたようである(ハイデガーについては、いずれ『存在と時間』をじっくり読んでみるつもり)

しかし、それが人間にとって大変な営為であることに変わりなく、そのようなあり方に「挫折」して行き詰まり、根底の「虚無」に絡めとられたような状態に陥る者もある。ビンスワンガーは、それこそが、「統合失調状態」だとしていたようである。

『精神分裂病』という本の序文にまとめられたものによると、それは、次のよう言われている。

1 病者は、世界に適合して生きることができず、その体験世界は一貫性を失う。

2   この非一貫性を補填しようとして、奇矯な(思い上がった)理想形成を試み(たとえば自分が世界の中心にいるといった妄想などを形成して)、この理想形成と現実とのギャップに直面してその二者択一に迫られる。

3   病者は、ついにはこの二者択一という危機状況に耐えられず、現実から逃避し、自己決断を放棄して自らのすべてを他者にゆだねてしまう。

そうやって、自己という「主体」を失うことが、「世界-内-存在」としてのあり方に挫折をもたらすということだろうが、このこと自体は、分裂気質の者が、「分裂病的状況」に入っていく契機を、鋭くついていると言うべきである。(※1)

世界に適合できず、体験世界の一貫性を失うからこそ、そのような日常世界の様相が壊れ、根底の虚無を開くことになるのだし、分裂気質の者が、現実性の薄い、思い上がった理想形成に邁進しつつ、現実とのギャップに引き裂かれることを繰り返すのは、分裂気質の者の特徴として、これまで何度も述べて来た。ユング派的に言えば、「永遠の少年」であり、坂口安吾は、精神病院で分裂病者に接してすぐに、分裂気質の者のこの特徴に気づいている。(記事『『精神病覚え書』について』参照。) 

そして、そのようなあり方に行き詰まり、ついには自己の決断(主体性)を放棄するように投げ出すことが、分裂病的状況に入っていく決定的契機になることは事実なのである。

また、ビンスワンガーは、「現存在の失敗の三様式」として、「奇矯(思い上がり)」、「ひねくれ」、「わざとらしさ」をあげているが、これも、鋭い指摘で、興味深い。

「思い上がり」は、「奇矯な理想」というだけでなく、「誇大妄想」にはもちろんはっきり現れ出るし、「迫害妄想」にも、その裏面として潜むものである。「ひねくれ」は、世界あるいは集団への不適合故に、自己の反動あるいは防衛反応として、おのずと身につけられたものということができる。「わざとらしさ」は、にも拘わらず、分裂気質の者が世界や集団に対して、ぎごちなく(他者をまねるようにして)適合的な態度をとろうとするときに、どうしても出てしまうものである。

これらのビンスワンガーの指摘は、一見分裂病者を揶揄するかのようだが、確かな視点ではあるのである。

また、「わざとらしさ」はともかく、「思い上がり」や「ひねくれ」は、まさにシュタイナーの言う「ルシファー的な性向」そのものであることにも、注目される。

ただ、松本雅彦『精神病理学とは何だろうか』も指摘するとおり、ビンスワンガーのこれらの「了解」は、いかにも否定に偏った見方であろうし、これらの了解が、どのように分裂病者の「治癒」に結びつくのかも、見えてこない。

シュタイナーは、「ルシファー的な性向」に対して、「アーリマン的な性向」が働くことによって、ルシファー的な傾向は、いわば刈り取られ、結果として均衡がもたらされると言うのだが、まさにそのように、「分裂病的な状況」そのものに着目すれば、その過程自体に、具体的な治癒的な働きが伴っているとも言えるのである。

しかし、ビンスワンガーには、「分裂病的状況」という「水平的方向」への視点がないため、そのような理解は欠いているのである。

また、ビンスワンガーは、「幻覚」や「妄想」について、「無気味なもの」という言い方で、それらをもたらす何ものかを「予感」しているようではあるが、それ以上に、「実体的なもの」としては踏み込まないため、「幻覚」や「妄想」について、具体的な了解に至ることはないようである。

しかし、「分裂病的状況」にあっては、本人は、それらの現象によってこそ、その状況に閉じ込められているようなものなので、その状況を脱け出すという現実的な問題に照らせば、それらの現象を、いくらかでも具体的に了解することが必要である。実際に、「虚無」に絡めとられるというだけでなく、「水平的方向」において、「実体的な存在」の影響を受けて惑わされているということの自覚なくしては、具体的に、そこからの脱け出しということは、難しいのである。

そこでも、垂直的な方向の問題は、依然残るだろうが、まずは、水平的な方向への閉じ込めから抜け出せない限り、そのような問題に対処する可能性も見出せないのである。

ビンスワンガーの「了解」が、具体的な治癒に結びつかないのは、そのような視点を欠いているからと言うほかないだろう。

前回述べたように、「垂直的な方向」については、鋭い視点から見据えていて、分裂病者のあり方に一定の鋭い「了解」がもたらされているが、「水平的方向」の視点を欠いているので、それが十分具体的にならず、効果を発揮しないのである。

もう一人、木村敏の例を挙げたいが、木村については、既に記事『「あいだ」の病/『心の病理を考える』』と次の『「あいだの病」とその「乗り越え」』で、十分と言っていいほどに論じていた。R.D.レインとともに、分裂病の理解に最も近づいた一人として、その意義を認め、しかし、やはり足りない面があることを、指摘していたのである。

ただ、今回改めて、気づいた面もあるので、それを補足する意味でも、少しとりあげてみたい。

木村は、分裂病を、対象としての人や関係からではなく、「あいだ」という観点から捉え、その「あいだ」がうまく機能していないために、自己が成り立っていかないのだとした。その「あいだ」には、「水平的方向」と「垂直的方向」があり、垂直的方向では、「ゾーエー」と呼ばれる普遍的生命との関係で、自己の「個別化の原理」が阻害されている。この「ゾーエー」は、「絶対他者」ともいうべき、自己の根底に働くもので、本来「虚無」とも言い得るものだが、木村は、あくまで「生命の源泉」という視点から、肯定的に捉えている。そのため、それを特に意識することなく、無自覚的にも、「アクチュアル」に生きている一般の者に対して、そこからいわば疎外されることになってしまう分裂病者という対比になっている。

私は、記事『「あいだの病」とその「乗り越え」』で、木村も、そのように「正常人」と対比する視点から、やはり分裂病者に対しては、否定に偏する見方になっていることを指摘した。しかし、『異常の構造』(講談社現代新書)という著書で、木村は、「正常」と「異常」について次のように明確に述べている

「私たちが自明のこととして無反省に受けとっている「正気」の概念は、みずからが拠って立っている常識的合理性を脅かすいっさいの可能性を、「狂気」の名のもとに排除することによってのみ存続しうるような、きわめて閉鎖的で特権的な一つの論理体系を代表するものにすぎないことが明らかとなった。」

「つまり分裂病を「病気」とみなす見方のうちには、暗黙のうちに、さきに述べた「多数者」と「常態」との読みかえがおこなわれ、「異常」から「病的」への意味変更がおこなわれているのである。そこには、異常をなんとかして合理化することによって異常に対する不安をまぬがれようとする、人間の知恵がはたらいているのかもしれぬ。あるいはまた、分裂病を病気とみなしてこれに「治療」を加えることにより、異常を排除する「正常者」のやましさがすこしでも軽減するからなのかもしれない。」

ここでは、「正常」と「異常』というのは、「多数者」と目される側からの、いわば恣意的な区別に過ぎず、その「正常」の根拠としての「常識的合理性」を守るための、「排除」の論理に過ぎないことが、はっきり述べられている。だから、木村は、決して、「正常」を肯定的に、「異常」を否定的に捉えているということではないことが、改めて確認される。

しかし、また次のようにも述べられている。

「しかし、だからといって私たちはどうやって常識的日常性の立場を捨てることができるのか。それはおそらく、私たち自身が分裂病者となることによる以外、不可能なことだろう。私たちは自分が「正常人」であるかぎり、つまり1=1を自明の公理とみなさざるをえないでいるかぎり、真に分裂病者を理解し、分裂病者の立場に立ってものを考えることができないのではないか。」

「私たちにできるのはたかだかのところ、この常識的日常性の立場が、生への執着という「原罪」から由来する虚構であって、分裂病という精神の異常を「治療」しようとする私たちの努力は、私たち「正常者」の側の自分勝手な論理にもとづいているということを、冷静に見きわめておくぐらいのことにすぎないだろう。」

つまり、分裂病に対してこれだけ身を寄せる木村にしても、やはり「正常人」の側として、常識的日常性の立場を捨てることができない限り、分裂病者を真に理解することはできないと認めているのである。

木村の「あいだ」の観点からの理解は、非常に鋭いと思うし、その「根底」に働くものへの「絶対他者」的な視点は、他の精神病理学者(特に西洋の)にはない、独特のものがある。それは、日本人ならではの、「おのずから」と「みずから」の一致という伝統的なあり様を、改めて顧みさせるものでもある。

しかし、その木村にしても、やはり「水平的方向」の理解を欠いているために、真に具体的な理解にはなっていないと言うべきだし、それは、先にみたように、本人自身も認めるところということなのである。

このことは、結局、多くの精神病理学者に当てはまるはずのことで、ヤスパースが試みたように、あるところまで「了解」できても、それ以上は「了解」できないという「壁」を認めざるを得ないということである。そしてそれは、そのような「壁」などないかのように、安易に「了解」を標榜する者などより、よっぽど謙虚で率直な態度と言うべきなのである。

ヤスパースも、「実体的意識性」ということに初めに注目した者であり、どこか、手の届き難い「未知のもの」を予感していたからこそ、「了解」の壁を強く感じざるを得なかったのではないかと思う。ただし、その壁を、「客観的な説明」に頼ることで補えるかのようにみなしたことには、やはり、そのような発想も、中止半端に抑制されてしまったことを感じざるを得ない。

いずれにしても、ここには、私が前々回述べたような、また木村が言うような、実際に経験した者と経験していない者との「壁」が、確かに横たわっている。それは、近代という時代の現時点においては、確かに、「容易には」越えがたい壁なのである。

しかし、私が、「水平的方向」ということで、述べている事柄は、決して今後誰にも理解できない事柄なのではない。それは繰り返し述べているように、「近代」が「神」や「合理性」以前に強力に排除した事柄なので、そのことを真に顧みるなら、それを改めて掘り起こし、理解の俎上に載せることもできないことではない。

特に、そのような事柄は、先住民文化の「シャーマニズム」として現に普遍的に生きられて来たものであり、現在もかなりの程度残されていることを考えると、そこから改めて学び直せるものは多くある。

「了解」の壁は、そのような方向が見直されていく限り、意外と越えられるものとなることも予想されるのである。

 

※1 「世界-内-存在」という言い方は、「世界の内に投げ出されてある」という実存状況を表すとともに、次のような意味合いも含むものと思う。

通常、自己と世界は別にあり、自己の外に世界というものがあると思っている。しかし、「世界-内-存在」とは、世界と自己とが別にあるものではなく、同時的に、結びついてあることを示している。だから、「世界-内-存在」のあり方が挫折し、主体性を失うことは、自己の崩壊であるとともに、即世界の崩壊でもあり、世界の崩壊は、即自己の崩壊を意味することになる。
 
そのような状況が、分裂病者の陥る状況を、本質的、抽象的に鋭く言い表しているのは、まさしくそのとおりである。しかし、それが、病者の陥った、個々の具体的な状況を十分に言い表すものとは言い難いであろう。

2  4月15日 

精神病理学に欠けている見方をもう一つあげると、それは「西洋近代」を相対化するような文化的視点だと思う。病的状態とそうでない「正常」の状態の差異を、「垂直的」な方向の実存的なあり方に即結びつけてしまい、その差異が「近代社会」という文化のシステムによって作られるという面をみることに欠いていたのである。この点は、西洋近代以外の文化を「遅れた」もの、「過去のもの」とみる視点が一般に浸透していて、他の文化を対等な「異文化」として顧みる余地がほとんどなかった当時の時代状況として、致し方ないものはある。

そのようなことは、文化人類学など、先住民文化を、西洋近代とは異なる「異文化」として学ぶという視点が出て来て、やっと可能になったことである。実際、「シャーマニズム」等、先住民文化から学ぶことによって、統合失調状態のかなりの部分を見えやすいものにすることができるのだが、この点は、次回に再び述べようと思う。

2024年3月24日 (日)

「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 2

一般の精神医学は、統合失調の者の言動が「了解不能」ということで、(特に脳の)「病気」として分かったこと(説明されること)にしていると述べた。

たとえば、精神科医のこのサイトでも、統合失調症が病気(疾患)とされることの根拠を問うなら、結局は、その者の言動が「了解不能」ということにあるとしている

しかし、そのように、他の者に「了解不能」とみなされる言動をとると、「精神病」と認定され、強制入院等の措置がとられる可能性があるというのは、考えてみれば恐ろしいことのはずである。もちろん、実際には、病気の症状として経験的に類型化されたものと照らして、判断されるわけだが、最終的な根拠が、「了解不能」ということにあることは、そこにかなり多くの影響を与えないはずがないのである。

精神病理学の先駆者とされるヤスパースは、統合失調症について、当時の「了解不能」の「脳の病気」で「治療不能」という一般的な見方に疑問をもち、現象学の方法をもって何とか、主観的な「感情移入」による「了解」に迫ろうとした。さまざまな前提と抽象によってこそ成り立つ、表面的な「客観的説明」などではなく、具体的に、主観レベルで「了解」できるものとしようとしたのである。

しかし、結局、ヤスパースも、あるところまでは「了解」できても、その先は「了解不能」であり、そこには、一般の「客観的な説明」を頼らざるを得ない、とせざるを得なかったようである。

ただ、その後の精神病理学は、ヤスパースのような妥協的な態度ではなく、何とか「了解」に迫ろうとする方向をそれぞれに探って行った。

前回私は、精神病理学の、「意識に現れたまま」を捉えようとする「現象学的な方法」に共感するということを述べた。

しかし、精神病理学のもう一つの大きな特徴は、近代的理性(による抽象的な原理や本質の理解)に疑いが挟まれて後の、個々の現実的、具体的な行き方を問題とする、「実存主義」的な態度にあるということも言える。

人々は、ニーチェが、「近代は、神を殺して、無を崇拝することになった」と言ったように、かつての神への信仰を失い、その神の性質を継承する「近代的理性」も疑われて、その隙から世界に顔を覗かせた「無」と直面せざるを得なくなった。

たとえば、パスカルは、「この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐怖させる。」と述べているが、それは、まさに、世界の根底に「虚無の深遠」をかいま見ていることの表現と言える。そして、これは、フッサールやハイデガー、サルトルなど、その後の実存哲学者たちにも、共通する感覚である。パスカルやキルケゴールなど、改めて神への信仰に至った者も多いが、それにしても、それは、世界の根底に「虚無の深遠」をみるところからこそ、始まっているのである。

精神病理学もまた、このような実存主義的な感覚を継承しているものが多い。だから、多くの精神病理学者にとって、「自己」がうまく成り立たって行かず、世界の根底たる「虚無」に搦め捕られたかのような、統合失調の者は、決して他人事ではなく、「了解」が全く不能なものでもない。そのような状態に陥った者を通して、改めて自分の生き方も問われてくるという意味で、「了解」への意欲をかき立てられるものでもある。

私は、世界の根底にある「虚無」に近づく方向を、「垂直的方向」としていたが、まさに、精神病理学の多くは、この垂直的方向から、統合失調を見据える目を、それなりに持っているのである。

だから、私が精神病理学に共感する部分というのは、実際には、この面にこそよっていると言える。

ただし、前回も述べたように、精神病理学は、(虚無の侵入を防ぐような、自己が成り立ちにくいなど)「統合失調状況に入って行く契機」をよく捉えているが、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものとは言えない。たとえ、部分的に明らかにするものがあるとしても、それは不十分なのである。それは、「水平的方向」の理解を欠いているからである。

「水平的方向」というのは、この場合、実際に「実体的」なものとして作用する、「霊的、オカルト的」な面を意味している。「統合失調状況」では、それまでの感覚的な領域での体験を超えた、新たな未知の要素が、実際に入り込み、それが「実体的」にその者に影響を与えるということが起こるのである。

このような新たな要素こそが、実際に「統合失調状況」に入り込んでいる者を捕らえて、惑わし、混乱させているのである。そして、そのような面こそが、人々に、恐怖を抱かせ、「了解不能」との思いをもたせるのである。あるいは、「了解不能」として、それ以上それに関わることを拒否する態度をもたらすのである。

そのようなものは、近代が、神への信仰以前に、「魔女狩り」の沸騰をもたらした元凶たる「悪魔的」で「おどろおどろしい」ものとして切り捨て、タブー化したものにほかならない。だから、 もはや「了解」の基盤もなく、しかも、その恐怖から、「了解」の舞台に上げることすら忌み嫌われるのである。

近代の理性に対して多くの疑問を付す精神病理学も、残念ながら、このような面においては、やはり近代の心情を受け継いでおり、そのような「霊的、オカルト的」な面、あるいは「水平的な面」にまでは着目しないので、「了解」といっても、十分に具体的なものにはならないのである。

次回は、著名な精神病理学者ビンズワンガーなどの例をあげて、もう少し具体的にみてみたい。

2024年3月 2日 (土)

「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 1

「精神病理学」については、哲学的で晦渋なイメージがあって、興味があっても、とっつきにくいと思っている人が多いであろう。それは、確かにそう言える面があり、だからこそ敬遠されて、表面上「分かりやす」く、一般化しやすい、生物学的な精神医学の方に、多くの注目や期待が寄せられることにもなるのだろう。

私自身も、精神病理学には晦渋なイメージはあったが、最近、松本雅彦著『精神病理学とは何だろうか』(星和書店)や、松本卓也著『症例でわかる精神病理学』(誠信書房)という、明解で分かりやすく書かれた本を読んでみて、改めて、「統合失調」と「精神病理学」について確認できたことがある。(この二つの本は、それぞれよく書かれた本で、「精神病理学」に興味があるなら、ぜひ読んでみてほしい。)

それは、端的に言うと、次のとおりである。

まず前提として、「統合失調」を巡る問題とは、結局は、「了解」を巡る問題であるということ。そして、「精神病理学」は、一般の(生物学的)精神医学とは異なり、「了解不能」とするのではなく、それに鋭い視点から迫ろうとしていて、それぞれにみるべきものがあるということ。しかし、残念ながら、それは結局は、「統合失調状況に入る契機」を明らかにするものであっても、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものではない、ということである。

このことは、前から述べていたことではあるが、今回改めて、強く確認されたので、それについて述べる。

まず初めに、私自身の立場をはっきりさせておくと、私にとっては、自分の体験からして、「統合失調」には「了解しかできない」ということになる。

「統合失調」に陥る人にも、さまざまなパターンや現れの違いがあるだろうから、「了解しかできない」というのは、おこがましいようだが、そこには本質的なレベルで共通の要素があるのは確かで、そこが具体的に「了解」できれば、それらの違いも、十分「了解」的に推察できてしまうのである。

精神科医のあげる症例や本人の手記などを読んでも、自分の体験に照らして、「あの状況でこのような反応をしてしまっているからこうなるのだな」等の理解が、具体的に、できるのである。

精神病理学でいう「了解」は、客観的な「説明」ではなく、主観的に「感情移入」して「了解」できることを言うのだが、もちろん、そのような状況での「出口の見えない」「どうしようもない」苦悩を体験しているから、同じような状況にある者に対して、いやでも「感情移入」的な理解になる。

ところが逆に、自分がそのような体験をする前を振り返ってみれば、「統合失調」に対して特に知識があったわけではないが(一通りのイメージは持っていた)、そこには、「了解などできない」という確かな壁ないし断絶が、はっきりとあったと言える。それは、(「分裂気質」というものに対して親近性は感じていたのだが)自分が実際に「統合失調」という状態に陥ることは、とても現実的に考えられることではないという思いと、言い換えることもできる。

現在でも、「統合失調」には、実際に体験してみないと分かり様のない面が、多分にあると思わざるを得ない。体験していない者に「了解」してもらうことなど、期待しようがないと思わざるを得ないところがあるのである。

だから、精神病理学が、自ら体験したわけでもないのに、それなりに鋭く、「了解」に迫ろうとするものがあることには、感心と驚きの方が大きいのである。少なくとも、「了解不能」として切り捨てて、「脳の病気」として「分かった」ことにし、薬で治療すべきものとする生物学的精神医学とは、大きな違いである。

精神病理学は、近代が前提として立てる発想に疑問を付し、それらをかっこに入れて、「意識に現れるままを観察する」という「現象学」の方法に則るものが多い。特に、デカルトが立てた「近代的自我」とか心身二元論的な発想を予めの前提としない。だから、「統合失調」を単純に、「自我の崩壊」とか、心身二元論の発想に基づく、「脳の病気」などとはみない。

フロイト的な精神分析についても、無意識という意識に現れていないものに対する「解釈」に過ぎないということで、取り入れないものが多い。

そうした中で、それぞれに、近代社会の中で「正常」とみなされる者を含めて、人間が生きるということはどういうことかを探って行き、その中のある種「逸脱」的な生き方をしてしまっている「統合失調」の者の意識のあり様を、何とか「了解」していこうとするのである。

それは、初めに述べたように、それぞれにみるべきものがあるし、「統合失調に陥る契機」としては、本質を明らかにするものがかなりある。

しかし、この点については、次回に具体的に述べることにし、今回は、私の場合との相違についてさらにはっきりとさせておきたい。

私は、「統合失調状況」そのものは、「霊界の境域」などとも言ったように、この世界に通常の感覚においては捉えられない「霊的」な領域のものが侵入し、両者が混交している状況であるとした。そこには、はっきりと、それまでの(通常の感覚に基づく)体験とは異なる「未知」の要素が入り込み、特に「自我」が弱いわけでもなくとも、混乱させる要素が多くあるのである。

精神病理学は、近代の前提とする発想を疑い、かっこに入れるのだが、それは、「霊的」または「オカルト」的なものにまでは向けられていない。つまり、これまでみて来たように、近代が内的な「排除」の欲求に基づいて、「霊的」「オカルト的」なものを存在しないことにしたという発想までを問うものではない。だから、精神病理学では、「統合失調状況」にそのような新たに侵入した「未知」の要素までをも、みようとすることがない。

それで、「統合失調状況」というのも、結局は、「統合失調に入る契機」の延長で(多くは自己の成り立ちにくさや未熟なあり様のため)、混乱が極まった状況とみることになるのである。中には、新たな「未知」の要素を何らかの形で示唆するようなものもあるが、それは、「霊的」「オカルト的」とみなせるようなものではない。

ただし、それには、精神病理学が、「意識に現れたままを観察して記述する」という「現象学」の方法に則ることから来る、当然の限界もあると言える。「無意識」の領域すら、意識に現れないものの「解釈」として切り捨てるのだから、多くの者には意識に現れているわけではない、「霊的」「オカルト的」なものの存在や働きなど、認めることができないのは当然ということにもなる。

しかし、この点は、「それ」が「現に意識に現れた者」の側からすれば、全く異なることになる。私は、まさに体験のさ中でも、様々な妄想的解釈や葛藤の果てにだが、最終的には、「意識に現れたままを観察する」ことしかできないことに気づき、それを実践することにした。それは、どうしてもつきまとう、混乱や迷いの中での、危ういものではあっただろうけれども、まさに、意識せずとも、「現象学」的な方法を実践していたのと同じことになる

また、「無意識」領域で体験していたものについても、何度か述べたように、「思い出す」という仕方で意識に上るものになったから、それは、まさに「意識に現れるままを観察」することを可能にするものとなったのである。

先に言ったように、それらは、当時の体験のさ中においては、かなり危うい、不確かな面も多かったかもしれない。しかし、それは、現在においては、それらを通り越して通常の意識状態にある中において改めて観察されたり考察されたうえで、様々な統合失調に対する考えとも照らし合わせて提示されているもので、私としては、まさに「現象学的な方法」そのものと言えるのではないかと思う。その意味でも、精神病理学には、親近性を感じるのである。

ただし、先に言ったように、統合失調を体験したわけでもない精神病理学者の「了解」との間には、壁や断絶をも感じざるを得ないのは事実である。そしてそれは、致し方のないことでもある。

しかし、多くの人は、統合失調を体験したわけではないので、同じ立場から、精神病理学を通して、「統合失調」を「了解」しようという意図を共有することは、しやすいと思う。「了解」しようという意思を失い、「了解不能」ということで、「分かった」ことにしてしまえば、もはや一般に浸透している、生物学的な精神医学を「妄信」するしか途がなくなると思う。

そこで、最初にあげた精神病理学の基本的な本や、このブログで取り上げた、R.D.レインの『引き裂かれた自己』や、特に、新書という形にまとめられた、木村敏の『心の病理を考える』などの本を、ぜひ読んでみてほしいと思う。

もちろん、私のこのブログの記述に、十分の共感や理解を感じられる人がいるなら、それに越したことはないのであるが。

次回は、精神病理学のいくつかの説をとりあげつつ、もう少し具体的に述べてみたいと思う。

 

2024年2月 9日 (金)

「シャーマン的巫病」と「統合失調」の相違 まとめ

前に、記事『6 他の「幻覚」の場合との比較』や、『「成人儀礼」としての分裂病』で、統合失調状況は、シャーマンの候補者がシャーマンになる前に体験する、「シャーマン的巫病」と酷似すること。しかし、さまざまな理由で、その「巫病」を「死と再生のイニシエーション」として乗り越えることができずに、その状況をさまようことに終始してしまう状態であることを説明した。

精神科医でユング派の分析家でもある武野俊弥という著者の、『分裂病の神話』(新曜社)という本で、ほぼ同様のことが、非常に的確にまとめて説明されていたので、今回はそれを紹介したい。

このところ、精神病理学の本を読んでいたのだが、それぞれ、「統合失調状況に入る契機」の説明としては、鋭いものがあり、本質に迫ろうとするものがあるが、「統合失調状況そのもの」の説明には届かないのを、いぶかしく思っていた(この点については、次回にでも改めて述べる)。

この本では、さすがに、「統合失調状況」を、あくまで「普遍的無意識」としてだが、自我を越えたものの現れとみて、それとどのように関わるかという視点をもつユングの意義を、改めて確認することになった。この本の著者の、多少割り切り過ぎる傾向はあるものの、分かりやすく的確な説明も、そう思わせることに寄与した。

他にも、統合失調全体について、とりあげる意義のあるものがいくつかあるが、それはいずれの機会にして、今回は、「シャーマン的巫病」との関係についてのみ述べる。この点に関しては、ユングというよりも、先住民文化の「シャーマニズム」という伝統にこそ、統合失調の本質を明らかにする大きな要素が、含まれているわけだが。

まずは、「シャーマン的巫病」では、分裂病の場合と同様の「解体のモチーフ」が現れるが、その意味がユングの普遍的(集合的)無意識に照らして次のように述べられる

「この断片化すなわち人格の完全な分裂・崩壊は象徴的には死に相当するが、その象徴的な死はまた宇宙が創造される以前の混沌(カオス)、すなわち宇宙の創造に先立つ名状しがたい無定形な状態への象徴的な回帰と等価でもある。つまり象徴的な混沌(カオス)への回帰は新たな創造への準備でもある。ユング心理学のことばで表現すると、この混沌状態は、無意識の蒼古的な構成要素すなわち集合的無意識を体験する機会をわれわれに与え、それによって無意識を統合する可能性をわれわれにもたらしてもくれる。」

シャーマンは、その状態を「死と再生のイニシエーション」として乗り越えることで、病的状態が克服されるが、統合失調症(分裂病)では、その状態が越えられることがないために、病的状態に終始してしまうことについて、次のように述べられる。

「シャーマンの入巫の病の場合、解体ないし分解、すなわち象徴的な死のモチーフにひきつづいて再生のモチーフが現れ、それが優位を占めるようになる。そしてその再生のモチーフは、病に引きつづく本来のイニシエーションを儀礼をとおして現実のなかに実現させる。他方分裂病の場合、再生ないし新生のモチーフはほとんど見いだされることも現実化されることもない。」

つまりは、分裂病の場合は、解体ないし分解をもたらすような、死のモチーフはあっても、再生のモチーフがなく、その状態から抜け出せないでいる、ということである。

そしてその理由についても、次のように述べられている。

「シャーマンは二つの世界、すなわち意識の世界と無意識の世界、あるいは外的現実の世界と内的イメージの世界の両方に住み、両者のあいだを自由に行き来している。シャーマンは二つの世界の価値と妥当性を同等に認めつつ、しかもその二つの世界を混同させないところにその卓越性がある。他方、分裂病者はこれら二つの世界を混同させ、あるいはそのどちらか一方だけにしか住めない。」

「シャーマンは能動的かつ任意に精霊を「見」そして「話しかけ」る。一方分裂病者は精霊の声を受動的に「聞き」、そしてしばしば不本意にそうすべきでないときに精霊を「見」あるいは「感じて」しまう。すなわちシャーマンは自ら精霊の世界(無意識の世界)に能動的かつ意識的に関わり、分裂病者は受動的かつ盲目的にその世界に巻き込まれとらわれてしまっている。」

「より高次の存在として再生されるためには、シャーマンはその解体のさなかにあっても自らの基本的アイデンティティだけはけっして失ってはならないのである。…分裂病者では再生のしいずえとなるべきこの骨の種子、すなわち基本的アイデンティティですら破壊的解体の対象となりそれを失ってしまう。」

「分裂病者の場合は、集合的無意識と出会うだけで、それとの創造的で相互的な関係はけっして確立しない。それゆえにいつまでも分裂病のままにとどまらざるをえないことになる。このような関係性の欠如がまさに分裂病の中心病理といえるのである。」

ただし、私も、このような違いが生じることには、そもそも伝統文化では、シャーマンを育てるためのノウハウが保持され、周りが集団的にそのような文化を共有していることが大きいことを指摘していた。著者も、そのような文化的理由にも、触れられている。

ただ、それにしても、先の著者の指摘のように、文化的理由はあるにしても、統合失調になる人は、そのような普遍的無意識の「元型」的な現れとうまく関わることができず、飲み込まれてしまうだけの、「自我の弱さ」や、「未熟さ」を抱えている場合が多いことは確かであろう。

しかし、ユングも言うように、普遍的無意識の「力」は、自我に対して強力に働くので、自我が強ければ、影響を受けないというものではけっしてない。シャーマンの候補者でも、巫病を経験した者が皆シャーマンになれるのではなく、それを本当に克服した一部の者がなれるのである。

ただ、自我が弱い場合は、その克服がより難しくなり、結果として、統合失調状況にさまようことになる可能性も高まるということは、間違いないであろう。

著者も、もはや文化あるいは集団として、そのような事態に関わって行く道は閉ざされているし、現代には必ずしもふさわしくもないので、いかに個人として、普遍的無意識と関わり、「個人神話」を生きて行くかが問題としている。ユング派の精神療法も、そのような視点から構成されている。

しかし、この「普遍的無意識」という捉え方も、それに飲み込まれないための距離の取り方としては意義がある(自我を越えたものでも、「無意識」という理解において、「他者」的な恐怖を緩和しつつ関わることができる)のは事実である。が、私は前から言っているように、実際の、統合失調状況をより具体的に理解し、乗り越えていくためには、やはり、先住民文化の「シャーマニズム」そのまままの、「霊的」な捉え方(精霊等の存在を実際に存在する「実体的」なものとして捉える)が必要になる、と思わざるを得ないのである。

なお、イニシエーションの具体的な内容については、記事『「<癒し>のダンス」』や『ぼくのイニシエーション体験』に詳しいので、参照してほしい。

 

2023年12月24日 (日)

『病める心の記録』再読及びメモ

前回同様に、西丸四方著『病める心の記録(中公新書)も、大分前に読んで内容を忘れかけていたので、読み直した。

こちらは、ヒロシという日本の統合失調から回復した者の記録であり、『分裂病の少女の手記』に劣らず、インパクトのある内容である。また、精神科医である西丸の解説が、非常に分かり易く、的確と思うので、その意味でも貴重である。

今回も、感想と考えたことをメモ風に書き留めておくだけにするので、本の内容の説明自体はほとんどしないことにする。本を読んでいない人には、理解できないことが多いだろうが、了承されたい。

ヒロシは15歳のときに統合失調の発病により「発狂」し、精神病院に収容され、薬物治療をも含む治療で回復したが、著者との出会いを通じて、その体験の記録が表されることになった。

 『分裂病の少女の手記』は、垂直的な方向の「虚無」の色合いが濃く、「深み」のあるものだったが、その分「単調」との見方もできる。ところが、こちらは、「闇」や「人間ロボット」など、垂直的方向の色合いもあるものの、様々な「現実」の出来事と重なり合いながら、水平的な方向への展開があって、小説のような「物語」性がある。現実と夢想が交錯しながら進展し、どこまでが現実で、どこからが非現実なのか分からないような、まさに一つの「夢幻的な体験」なのである。

私の場合は、この両面があったので、両方ともよく理解できるし、共感できる。特に、一連の体験の前半は、このような「夢幻的体験」が多くを占めていた。

この記録は、西丸の補助もあってだろうが、文学者のような読ませる文章で、よくその時点での思考や感情、自分に現れ出たままの「出来事」を再現しており、引き込まれる要素が多い。そもそもが、著者にも現実か非現実か区別のできない、一種の「中間的現象」なのであって、それを回復後も忠実に再現的に表現していることから、そのような内容になっているとも言える。

『分裂病の少女の手記』が、サルトルの『嘔吐』にも似た、一つの「実存的体験」だとすれば、こちらは、記事『「幻覚世界」を表した本 2-統合失調的「夢幻世界」』で述べた、ヘッセの小説『荒野の狼』に出て来る「魔術劇場」そのものの体験である。

ケンジというミステリー好きの少年が、より幻想性を煽り、ヒロシの体験を媒介した面があるのだが、このケンジは、やはりヘッセの小説『デミアン』のデミアンの役を果たしているかのようである。

ヒロシが恐れ、迫害妄想の中心となる骨董屋の旦那に「食われる」という妄想など、統合失調体験につきものの、「捕食者」的な面もある。徐々に追い込まれて行き、ついには「発狂」して、裸で骨董屋の家に侵入し、病院に連れていかれるまでの、思考過程の描写は、非常に迫真的である。病院に連れて行かれてからの、医師や看護婦とのやり取りと、その者らを敵の一味とみるヒロシの妄想のありようの記述も、とてもリアルである。

治癒に向かった面については、病院で医師が、自分はロボットになったと思っているヒロシに、「苦しんで、抵抗していたとき、君は本当の自分だったんじゃないか」、「大変だが、本当の自分を取り戻そう」と言ったことが、大きなきっかけになっている。病院においても、「失われた自分」を取り戻せるように力づけられるか、無視や虐待的な扱いにより、それがますます壊されていくかが、一つの大きなポイントなのだと言える。

また、治癒に向けて、決定的なきっかけになったのが、寺の和尚が渡してくれた「聖書」と、とりわけ北原白秋の詩集『雀の生活』なのである。それを読んで、ヒロシは、「ロボットが、雀になり、犬になり、人間になった」と感じる。そして、ヒロシは、「雀に餌をやるのを忘れていた」という大きな気づきを得る。

この「雀」について、西丸は、「治癒におもむけば、本当の自分はどこにでもいる、<青い鳥>であることを見出す。」「…自然の小さな一部の雀に餌をやる、自然の一部の自分である。」と言っている。まさに、「雀」は、自然の一部である小さき「生命」の象徴であり、それに餌をやることでこそ、育てられるものなのだ。

この記録の最後も、「ぼくは雀に餌をやるのを忘れていたんだ」という言葉で、閉じられている。

私も、夢幻的な体験のさ中、アニマと名づけた精霊と交錯する形で、「雀」と出会うことで、大きな癒しを得たし、今も「小鳥」との不思議な縁は感じているから、この事態の重要性がよく分かる。ユングの患者も、エジプトの神話に出て来る黄金虫の話をしているときに、窓をたたく黄金虫と出会って、それが治癒に向けて大きく影響しているが、まさに、一種の「共時性の体験」と言える。

西丸の、この事例についての解説は、その他の点でも、とても的確だと思うし、統合失調一般についても、とても分かり易く、的確な説明をしているのも見逃せない。

そもそも、精神病については、次のように言われている。

「精神病のなかにこそ本当の人間を見つけることができることがある。…人間の心の奥にひそむ希望、恐れ、自覚が、精神病になると非常にはっきりした形をとって出現する。それは健康な人間に思いも及ばないような形をとる。象徴的に非常に誇張される。それで私たちにはそれの示す意味がよくわからないとさえ思われる。」

「精神病の世界はなんと美しく、汚なく、哀しいものであるかがわかる。美しく、汚なく、哀しいのは人間の普遍的な性質であるが、精神病においては、それがカリカチュア的に誇張され、象徴的に比喩されて私たちの目の前に現れてくるのである。」

私も、記事『人工的に「分裂」を作り出すことは可能か』で、この極限的な状況で現れ出るのは、誰もが持つ人間の「愚かさの集大成」のようなものと言っていた。「愚かさ」というのは、実際に、その面が特に強調的に現れるのに違いないが、春日武彦著『私たちはなぜ狂わずにいるのか』に引き寄せる形で述べたからでもある。西丸の言うように、実際には,美しく、汚なく、哀しい、人間のあらゆる面が、誇張されて現れるのだと言える。

ただし、それは、単に「極限状況」だからと言うのではなく、日常的には表に現れない「オカルト的」な面も絡む「未知の状況」だからこその、独特の反応なのである。

このような反応を、「了解不能」などとして、手に負えない「病気」のように決めつけることは、それこそ「愚かな反応」と言うべきである。

また、西丸の説明で、非常に分かり易いのは、このような精神病の世界は、日常の意識の力が弱まるので、それを形成する「バックグラウンド」から浮かび上がるものが前景に出て来て、現実と重なるようにして現れ出ることから来るもの、と言っていることである。

「バックグラウンド」とは、我々の認識や判断、行動などの材料となる、精神活動の裏側に横たわっているもので、そこには、過去の経験、希望、恐れ、期待、欲望などが、混沌として潜んでいる。目が覚めてしっかりしているときは、現実の状況に合うように、その混沌から材料が適格に選ばれるが、日常の意識が弱まると、夢の中のように、この「バックグラウンド」の混沌としたものが現れ出て来る。

そして、「バックグラウンドのものが、現実世界のかたちをとって出て来る。」あるいは、「外界のものを認識するときに、バックグラウンドからよけいなものがひょいと飛び出して付着する。」ということになる。それが、「幻覚」や「妄想」のもととなるわけである。

この「バックグラウンド」を、フロイト流の「無意識」、あるいはユング風の「無意識」、さらには、シュタイナーや私のように、「霊的、オカルト的な背景」をも含ませてみるかで、その内容はかなり違って来る。しかし、ごく一般化して大まかに言えば、西丸の言うように、「バックグラウンド」のものが現れるということで、よく理解できるはずのものである。

西丸がバックグラウンドとして、どのようなものを想定するかは分からないが、いずれにしても、それは、なにか訳の分からない、「了解不能」のものが、現れ出ているのではなく、誰にもある「バックグラウンド」が、混沌の様相のままに、誇張されて出て来ているだけである。

ただ、「バックグラウンド」が強く現れ出るのは、単に「日常の意識が弱まった」だけでなく、経験上理解できない「未知の状況」を迎えているので、積極的に「バッググラウンド」をフル回転して活性化することで、何とかその状況を理解しようと、躍起になっているのである。

そこにどうしても起こってしまう、「飛躍」や「矛盾」が、「了解不能」との見方をもたらすのだろうが、「未知の状況」を迎えていることに思いが及べば、その反応の全体を「了解」することは、けっして難しくないはずである。

西丸も、「未知の状況」にあることまで、積極的に認めるものではないにしても、感性的に、それとなく、そのような状況にあることをつかんでいるものと解される。

このように、体験者の体験の記録としても、それを通しての「統合失調」の説明としても、とても分かり易くて意義のある本なのだが、残念ながら、現在は、品切れになっているようである。是非、文庫などの形で、復刊してほしいものである。

 

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