精神医学

2017年7月27日 (木)

チャネリング情報にみる薬の害毒と操作性 2

今回は、主に『悟って<今ここで>アセンション』(以下『アセンション』と略)を参照に、薬の害毒と操作性について、さらに具体的にみていきたい。

まず、薬の利用一般について、次のように述べられている。

多くの人は医者に行き、不安な心を満足させるために薬を飲み続けます。それは医療業界がスピィーディに豊かになるのに貢献し続けます。」
「そういった薬は、病気を治すためのものではなく、心を満足させているものであるということを自覚することです。なぜなら、80%以上の病気だと信じているものは存在していないものです。自分で作り出しているものです。

また、薬の害毒は霊的なものにも及ぶことが、次のように言われている。

あなた方は薬に依存し、自分の肉体、エネルギー体を汚し続けることになります。それでは、ネガティブ勢力の思うツボになります。
 薬の中にある化学物質の毒素によりネガティブな霊的エネルギーの影響を受けやすくなり、人のエネルギーをえさとしている霊的パラサイトやエレメンタルを自分の体内に呼び込むようになります。

「霊的パラサイト」や「エレメンタル」については、何度も述べて来たので、改めて説明は不要であろう(記事『「分裂病」と「エレメンタル」(生き霊)』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post-8aca.html)や『『恐怖を超えて』-捕食者的な「精霊」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-e453.html)を参照のこと)。何しろ、霊的なレベルで、精神に巣くって、ネガティブな影響を与え続ける存在である。後述のように、それは「統合失調状況」とも類似の状況のわけだが、「統合失調状況」も、まさにこれらの存在に振り回される状況であることは、何度もみて来たとおりである。

薬の操作性については、前にとりあげた記事(『身近に入り込んでいる「宇宙人の技術」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-7e52.html)では、「ナノテクノロジーによって、医薬品に混入して、人類を、中毒的、依存的にさせ、大人しく従順にざせるとともに、クローン化を促進させる技術」という風に要約して述べていた。ここでは、その元となる文をあげておく。

「患者に用いられる医薬品は年々強いものとなり、薬の効果により人々は半眠状態となり、その結果、文句を言うこともなく、薬はもういらないと拒絶することもありません。
 薬のプロジェクトは、ドラッグ(薬物)を通して、人々を黙らせコントロールすることにあります。」
「薬はしばしば人格を変えてしまうことすらあります。
  強力な薬を使用すれば、秘密政府のネガティブ勢力に操られていくという方程式を、人々は知らされていません。それは、患者の魂やエネルギー体をクローン化し、その患者が亡くなれば、ネガティブ勢力の苦しみの世界に存在するクローンのえさとして使われるのです。」

そして、このような薬の効果は、「ラボラトリーで薬にナノテクノロジーが使用できるようになった」ことで、可能となり、強化されたことが言われている。つまり、あえて、ナノテクにより意図的に混入されているのであり、そこには、宇宙人による技術も入り込んでいるということである。

前回の『あなたはいまスターシードとして目覚める』(以下「スターシード」と略)でも、「マインドコントロールするために故意に薬物に入れられている」ものがあると述べられていた。それは、ここでいう、「ナノテクによって、混入されるもの」と、同じものと言っていいだろう。

さらに、操作性については、主にスマホやネットの情報機器に絡んでだが、エーテル体に、「チップ」を形成され、コントロールを受けることも強調されている。

また、「クローン化」については、遺伝子レベルでも変化を受け、世代に伝わるものとなることや、単に人間をクローン化するというだけでなく、宇宙人に人間の魂やエネルギーを与えることで、人間に近づけた、一種の「ハイブリッド」的な「クローン」が作り出されるという、かなりおどろおどろしいことも述べられている。

この「クローン」と「クローン化」ということは、このようなプロジェクトの目的といえるものだから、重要なものだが、いずれまた改めて触れるとして、今回は、操作性のメカニズムについて、もう少し具体的に踏み込んでみたい。

この操作性のメカニズムについては、『スターシード』では、端的に、「意識を変容させて非現実的な状態へ引き込む、つまりあなた方の現実認識と自己同一性を鈍くさせる」ことによる、と述べられていた。これは、脳のレベルでいえば、「神経伝達物質の分泌」を撹乱し、操作することによるわけだが、「操作性」にとって重要なのは、要するに、意識の状態、精神の状態を、彼らの「操作しやすい」状態に変容させるということに尽きる

既にみたように、『アセンション』でも、同じようなことが、「半眠状態」にするということで言われていた。

さらに、この「意識を変容させて、現実認識と自己同一性を鈍くさせる 」とか、「半眠状態」というのは、「統合失調状況」に入ることて起こること、そのままでもあることに注意を要する。「操作される」というのも、まさに、「統合失調状況」にある者が訴える、主要な感覚である。

このような、薬による操作性とは、人を疑似的に、「統合失調(類似の)状況」に陥らせることでもあるのである。薬、特に精神薬が、「統合失調症を作り出す」といわれる所以であり、それには、霊的レベルからみても理由があるということである。また、現に「統合失調状況」にある者にとっては、精神薬は、さらにその状態を、拡大させることにもつながるのである。

ただ、この「操作性」のメカニズムとして、「意識を変容させて、現実認識と自己同一性を鈍くさせる 」とか、「半眠状態」というのは、包括的ではあるが、かなり曖昧で、抽象的なものと言わねばならない。これでは、具体的なレベルで、都合のよいように操作するということまでは、連想しにくい。

私自身は、「統合失調」状況における「操作性」について、霊的存在によるものを、かなり具体的に示して来た。『アセンション』でも、霊的なレベルでの操作性が述べられているし、それは既に述べたように、「技術」ということとも絡んで行われ得る。実際、支配的な「宇宙人」(の技術)と、「霊的存在」(の霊的な働きかけ)との「協力」によって、なされていることも述べられている。

このような霊的レベルでの操作性のメカニズムについては、基本的に、次のようなことが考えられる

シュタイナーは、生きている間に、エーテル体と肉体が分離するのは、ある種の秘儀に参入したときに起こることだが、それ以外にも、命の危険に関るような強烈なショックを受けたときや、催眠術を受けたときにも、起こるとしている。(『薔薇十字会の神智学』)

エーテル体が、肉体から離れるのは、死の場合に起こることだが、これが、生きている間にも、一時的に、部分的な範囲で、起こり得るわけである。それは、一種の死の体験(体外離脱)であり、知覚としても、肉体の知覚ではなく、霊的な知覚をもたらすことにもなる。

この「エーテル体のずれ」は、統合失調状況でも起こることといえる。(様々な対象による)強烈なショックや(霊的存在による)催眠術的な誘導は、統合失調状況でも、まさに起こることだからである。また、シュタイナーもどこかで述べていたと記憶するが、神智学のリードピーターは、アルコールや薬物が、同じように、エーテル体を肉体からずらして、霊的な知覚(幻覚)を起こすということ。さらに、アルコールや薬物は、エーテル体を損傷させ、亀裂を生じさせることによって、霊的存在による憑依や操作を受けやすくすることを述べている。

要するに、薬物の効果により、催眠術や統合失調状況と同様、「エーテル体のずれ」が生じ、「霊界の境域」に入ったのと同様の状況が作られるのである。そうして、「現実認識と自己同一性が鈍くなる」と同時に、幻覚などの知覚の異常が生じやすくなる。さらに、エーテル体がむき出しになるばかりでなく、亀裂を生じるので、それを通して、霊的存在による憑依などの操作を受けやすくなるということである。

これを図で示すと、次のようである。

Photo

「エーテル体」というのは、思考や記憶が刻み込まれた「情報の媒体」ともいえるから、これが肉体からずれて、むき出しになるということ、しかもそこに亀裂があるということは、このような情報が、外部の霊的な存在に「だだ漏れ」の状態となることを意味する。ちょうど、パソコンに個人情報を保存したまま、何のファイヤーウォールもパッチもなしに、ネットで怪しげな領域をうろつくようなものである。

また、むき出しのエーテル体の亀裂から、いいように操作的な情報を吹き込まれることにもなり、あるいは、そこに、チップのようなものを取り付けられることにもなる。これは、ネットを通して、パソコンにデバイスを取り付けられるようなものだろう。

霊的存在にとっては、その者の思考や記憶を読みながら、いいように操るのに、全く都合のよい状態ということである。もちろん、技術との協力によれば、さらに操作の精度が高められることになろう。

薬物等の影響によるのではなくとも、「霊界の境域」では、よほど統制された自我及びエーテル体を保持しているのでない限り、自己同一性が揺らいで、エーテル体の相互浸透が起こることは必然である。だから、自然に「霊界の境域」に入った場合にも、このようなことは起こり得る。だが、統合失調状況では、霊的存在の殊更な継続的な攻撃によって、薬物の場合と同様に、エーテル体の損傷ということも、なされると思われる。それで、やはり、操作性が高められているわけである。

いずれにしても、薬物と統合失調状況では、霊的にみても、かなり似た状況が生じているわけである

ちなみに、『スターシード』では、マインドコントロールの手段としては、情報収集機器による情報の収集と脳の操作という方法も、「今後何年のうちに可能となるもの」として述べられている。実際、現在では、これが機能している可能性もあるわけだが、私は「技術」としてはもはや存在しているとしても、具体的なレベルで個々の人間を自由に操作できるほどの精度には、まだ達していないと踏んでいる。個々の人物の一々の思考に対応する操作を技術でなすとは、限りなく大量の情報の管理や処理を含むことであり、それは宇宙人の技術といえども、そう容易になし得ることではないはずなのである。

また、このような最新かつ高度の技術は、たとえあるにしても、支配層の上に立つ宇宙人か、せいぜい地球の最上部の支配層が独占的に使用するのが当然であって、そこら辺の組織や宗教団体が、保有したり、使用できるものではない。ターゲットとしても、狙われるのは、彼らからみて、本当に都合の悪い、一部の者のみのはずである。(この点で、巷にいう「テクノロジー犯罪」が、広く行われているとみるのは無理である。)

さらに、これらの技術は、いかにも万能の技術のように思われ、人間を大きく不安に陥らせるものだが、一方で、私も何度か述べたように、「意識のありよう」で、防ぐことができることは、『アセンション』でも『スターシード』でも、はっきり述べられている()。使う側からすれば、弱点も多いのである。

ところが、精神薬による操作や、霊的な存在との協力に基づく操作は、本当に簡単になし得るものであり、しかも、もはや対象の意識が変容されているだけに、「意識のありよう」で防ぐなどということも難しい。操作性としても、人格から改造されるという意味では、より根本的な方法であり、さらに霊的には、「魂」のレベルで、改造されるということまでをも見通している。『アセンション』でも、これらは、遺伝子的な変化をもたらし、世代に伝わる「クローン化」につながるといわれていた。

このようなことは、既にみたように、薬物だけでなく、各種情報機器や食品の添加物によってもなされることである。だから、薬物だけ避ければ回避できるというものでは、もちろんない。だが、それらの中でも、精神薬による操作は強力なものというべきであり、この精神薬の危険は、改めて重視されてしかるべきである。また、同時に、薬物は、本当に危険を認識すれは、他のもの以上に「避け得る」ものという意味でも、改めて指摘することには意味があろう。

9月2日

重要なことなので、実際に、『スターシード』で言われているものをあげておく。

そのような科学技術の使い手たちは、単に行動そのものを観察することよりも、特定の行動をさせるように人間を操作することにはるかに関心があるということに心を留めておいて下さい。もし個人の位置を特定できれば、彼らは確実にその人をとらえることができるでしょう。自らのはっきりした意思とその性質によって、あなた方が電磁気による彼らの「メッセージ」の周波数を造作なく変化させる場合を除いての話ですが。それは、人間の精神、身体、感情の状態によって決定されます。ですからあなた方が完全に正常な心で―自分の意思を明確にして―行動していれば、そのような装置の影響はもしあったとしても、ごくわずかでしょう。

人間の操作とは、(電磁的な)特定の周波数による思考、感情の操作に外ならないので、そのような周波数に影響されないだけの、主体的な「意識」を保っているかどうかが、鍵となるのは当然とも言える。しかし、逆に言えば、だからこそ彼らは、人間の主体的な「意識」を様々な戦略を使って弱体化させ、奪い取り、「クローン化」しようとするのである。その中でも、強力なのが、「精神薬」による方法なのだと言える。

2017年6月30日 (金)

チャネリング情報にみる薬の害毒と操作性 1

前に、記事『身近に入り込んでいる「宇宙人の技術」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-7e52.html)で、医薬品との絡みで、『悟って<今ここで>アセンション』を少しとりあげたが、最近は、チャネリング情報においても、薬の害毒と操作性(薬によって、操作されやすい人格または精神状態が作られること)がしっかりと指摘されているようだ。

今回とりあげるのは、パトリシア・コーリ著『あなたはいまスターシードとして目覚める-シリウスの超叡知3』(徳間書店)という本。(この手のものに、このような浮いたタイトルとやたらと「超」がつくのは、「超お約束」 )

これはシリウス系のチャネリングものだが、このシリーズは、プレアデス系の『プレアデス+かく語りき』と並んで、多岐にわたる濃い内容の情報がつまっていて、説得力もあり、有意義である。また、薬に限らず、支配層やアヌンナキのような支配的宇宙人が、人類誕生以来人間になして来た策略が、かなり詳細に述べられている。

いずれ、それらもとりあげてみたいが、今回は、薬の害毒と操作性に絞ってとりあげたい。これについては、第8章の『富と権力、欲望が蔓延させた薬物と武器』のところで、集中的に述べられている。できれば、私の要約的な説明ではなく、原文をじっくり読んでほしい。

薬の害毒については、「習慣性の薬物を体内に取り込むことは、あらゆる面であなた方の幸福と魂の旅に損失を与える」とされ、「薬物の常用は狂気―自己嫌悪と自滅の一種」とされる。また、「薬物を利用する」ことは、「下方に吸い込まれ闇のらせん構造に捕らわれることを自らに許す」ことだとされる。後に述べるように、自ら「闇」の懐に飛び込んで、「操作」を受けやすくすることだからである。

注意すべきは、これらは麻薬等の違法な薬物について言われているのではなく、医療に使用される「調合薬」や「化学薬品」を含めて、言われていることである。というよりも、むしろ、合法的であることによって、当然のように普及されるという意味では、こちらの方こそが、戦略的に重要なものとして言われているのである。

「あまりにも多くの人々が何も考えずに化学薬品を服用し続けているために、産業は潤い、巨万の富を生み出しています。大衆が自分は病気だと思い込み、すべての痛みや否定的な感情、さらに症状が現れるのを薬で麻痺させて抑制しようとしているからです。あらゆる種類の即効治療薬が蔓延しているせいで人類の不安が持続しているということに、人間はいつ気がつくのでしょうか。」

「麻薬使用者を公然と嘲り非難する一方で、「社会で認められた」治療薬であると銘打った市販の医療品で救急箱をいっぱいにしている人は、「薬物乱用」の意味を考え直すのが賢明です。ただ街角の密売人から得た違法の鎮痛剤を飲んでいないというだけでは、依存から解放されたとは言えないのです。」

特に、精神薬、中でも「抗うつ剤」については次のように述べられる。

「抗うつ剤の投与の危険性については、あなた方が知らないことがたくさんあります。…しかし、薬剤師の人たちは、そのような強力な調合剤によって神経系と内分泌系にどのような副作用が起こる可能性があるのかを知っているのです。これらの中には、社会の特定の党派をマインドコントロールするために故意に薬物に入れられたものもある、とあえて断言しておきましょう。
  結局、あなた方が権威へ抵抗するのを制圧するには、意識を変容させて非現実的な状態へ引き込む、つまりあなた方の現実認識と自己同一性を鈍くさせるよりほかに、どんな方法があったというのでしょう?」

さらに、その操作性について次のように述べられる。

「不幸にも、あまりに多くの医師が、人間が生命と向き合う能力を覆い隠している感情の出所に行きつくよりも、むしろ心の痛みを忘れさせるために投薬治療を行い―喜びを感じることも止めさせてしまっているのです。時間とともに、そうした人々はまったく何も―痛みも喜びも―感じなくなるのですが、それはあなた方を支配して、あなた方の思考と習慣を操作したいと願う人物にとっては非常に魅力的な可能性なのです。
  今やあまりにも多くのロボットがあなた方の周辺をうろついており、彼らの精神は抗うつ剤と精神安定剤によって改造されています。」

精神薬は表面上、確かに(一時的には)精神的な苦しみや痛みを忘れさせてくれるかもしれないが、結局は、痛みも喜びも感じない、「ロボット」へと人格を改造し、支配層や支配的宇宙人によって、いいように操作される人間を作り出しているということである。精神薬が、人間を弱体化させて、柔順にさせること。霊的な意味でも、憑依(影響)を受けやすくすることは、私も記事で何度も述べて来た。また、初めにあげた『悟って<今ここで>アセンション』にも、同様のことが、より詳しく述べられていた。

そこで、次回は、この操作性のメカニズムについて、『悟って<今ここで>アセンション』をさらにとりあげつつ、もっと具体的にみることにしたい。

ただ、今回とりあげた本では、それでは、薬の依存からどのように抜け出すかについても、有用なことが述べられているので、それを紹介しておくことにする。

「第一段階として、あなた方の心の平安を乱し、投薬治療を催眠誘導するテレビやその他の宣伝による情報量を大幅に減らすよう決断して下さい。
  救急箱の中にある薬を全部よく調べてみて下さい。…とにかく、薬のラベルを読んで下さい。これら、人体に負担をかける化学薬品は有害であり、たいてい不必要なものです。あなた方の不調を引き起こすものを覆い隠しているのです。」

しかし、端的に重要なこととは、そもそも健康でいること。また、たとえ病気になったとしても、医薬品に頼らずに、自然に治す方法を身につけることのはずである。

それについては、次のように述べられている。()

「人間は簡単にほかの病気に同調することもあれば、健康でいるという決心もできます。つまりそれを自分の体に強く要求できるということに気づいて下さい。」

この「健康でいるという決心」こそが、最も本質的なことであると、私も最近強く思う。逆に言えば、「病気でいる」ことが、潜在意識のレベルで望まれている場合が、多くあるということである。いずれにせよ、結局は、「意識」の問題ということであり、本当に「決心」しているか否かということである。また、そのような認識を通して、「意識の力」を改めて確認することにつながるのなら、それも貴重な随伴効果というべきである。

しかし、それでも病気になってしまうことはあるだろうが、その場合は、その「病気」が、「必要」なものとして起こっているということである

「薬の代わりにできる健康法と、健康であるための心身一体となったアプローチを考えて下さい。あなた方はたいてい自分の身体に病気を処理させる前に医薬品に手を伸ばしますが、いかなる痛み、不調も原因を理解することが大切です。その兆候が身体に潜む問題を示していることがよくあるので、その原因にたどりつくために、一時的な症状を受け入れ経験しなければならないのです。」

「疲れたときは休養して下さい。風邪やインフルエンザに感染したら、自然の成り行きに任せて下さい。…多くの場合、体の不調は、人間を極端な疲れや病気などの状態にさせる仕組みを解除し、横たわらせる、あなたの身体なりの方法なのです。」

※ 7月4日 入れようと思っていて、抜かしたものがあるので、追加しておきます。

毒性を増していく地球の環境によって、かつてないほどの大きな問題がつきつけられていても(バランスのとれた食事によって栄養をとり、健全な環境にあり、心が前向きなものの見方をしていれば)、人間の体が健康のバランスを維持するために化学薬品は必要ありません。

2017年2月26日 (日)

「病気」の原因は「病気」

知っている人も多いと思うが、昨日の朝日新聞の記事に、<「ADHD」診断された子の母親 「原因が分かり、ほっと」6割>というのがあった。塩野義製薬などが実施したインターネット調査の結果ということであり、「ADHD」(注意欠如・多動性障害)と診断された小学生の子供がいる母親283人が回答したものである。

それによると、子供が「ADHD」と診断された際の母親の気持ちを複数回答で尋ねた結果は、次のようだったらしい。

「症状の原因がはっきりしてほっとした」  59・7%
「今後の子育ての取り組み方がわかってほっとした」 44・9%
「育て方が原因でないことがわかって安心した」 41・3%
「子どもの将来が心配で落ち込んだ」 41・7%

「症状の原因がはっきりしてほっとした」が約6割で、一番多かったことが、この調査の結果分かったこととして、特にとりあげられる眼目のようである。上にあげたように、それは、新聞記事の見出しにもなっている。

この製薬会社の調査発表が暗に言わんとするのは、次のようなことであるのが、明白であろう。

―親としては、当然ながら、子どもの不適応な状態について不安で、いろいろ悩んだことでしょう。でも、結果として、医師の診断を受けて病名をもらったら、「原因が分かっ」て、「ほっとした」という親がこんなに多いのです。あなたも、悩んでいないで、医師の診断を受け(当然それは、薬物治療のような治療を受けることにもつながる)て、楽になった方がよいですよ―。

これらの回答項目は、実施する側で予め用意したものだろうし、回答者は、たかだか283人で、調査のし方によっては、「子どもの将来が心配で落ち込んだ」という方のパーセンテージの方が上回っても、おかしくないだろう。製薬会社の意図に満ちた調査発表なのは明らかであり、それを意味ありげに載せる新聞も新聞である。

しかし、こういったことは、毎度繰り返される「定番」のことだし、それを分かる人も大分増えてきているので、今さらとやかく言うつもりはない。

私が、本当に問題として、とりあげられるべきと思うのは、この6割もいたという回答が、「ADHD」という診断名をもらったら、それで「症状の原因がはっきりした」ということに、当然のようにつながるかのような内容になっていることである。それで、「ほっとする」ということを強調するのも問題だが、そもそも、それ以前に、「病気」との診断をもらうことで、「症状の原因がはっきりした」と、受け取る(受け取らせる)ことこそが大問題である。

そして、同時に、このことこそが、「精神の病」ということの実質を、如実に浮き彫りにしていると思うのである。

そもそも、精神の病を「病気」というのは、社会的にみて、不都合な状態とみなされる、一定の状態にある人たちを、「医学」的にも、「病的な状態」と規定して確認することである。具体的には、『精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)』のように、精神科医の多数によって、決められる。

「ADHD」というのも、そうやってつけられた名前で、「ADHD」なる「病気」が実体として存在するわけではないし、何らその原因が特定されているわけではない。

しかし、一旦「ADHD」なる病名がつけられると、そのような「病気」自体が実体として存在するかのようになり、それ自体が、「症状」の「原因」であるかのようにみなされる。まさに、「症状の原因が分かった」とされてしまうのである。この点は、「統合失調症」でも全く同じであり、これまで私も何度も述べてきたことである。

ある不都合な状態を「病気」と呼ぶ→その不都合な状態=「症状」の原因は、その「病気」である

要するに、これは、<「病気」の原因は「病気」である>と言っているに等しく、「トートロジー」(循環論法)以外の何ものでもない

子供の親の気持ちに即して言うと、この「原因が分かった」というのは、恐らく、これまで病気かどうか分からず、子供の性格の問題とか、自分のしつけの問題とか、いろいろ悩んできたが、それが「病気」ということで、「はっきりした」。だから、「ほっとした」ということなのであり、それは、明らかに、「育て方が原因でないことがわかって安心した」という回答と連動している。

それが、一種の「安心」をもたらすことは、まったく理解できることである。しかし、それが意味するのは、結局は、「病気」そのものが「原因」ということで、「病気」が「原因」なのだから、他のことは「原因」でないということである。つまり、「病気」そのものが、実体として存在させられていることに変わりはない。

この点も、実際には、「(「ADHD」なる)病気は先天的な脳機能の障害である」ということが、暗黙に含意されているのだろうし、「原因」は、「先天的な脳機能の障害」なのだから、「他のものではない」ということにしたいのたろう(その方が薬物治療を正当化することにつながることは明らか)が、そんなことは、何ら証明もされていない。たとえ、先天的な脳機能の障害という面があるとしても、それで「他の原因がない」ということにはならないし、むしろ最近は、虐待などの後天的な影響が強く疑われている状況である。(記事『「自閉」の3つの型と「原因」』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-5ea3.html 参照)

ともあれ、「ADHD」と診断されることで、「症状の原因がはっきりする」などということには、全くならないし、そこをそう言ってしまうことで、「ほっとする」ということに結びつけてしまうことは、親の心理としては頷ける面があって、無意識にも、そう望まれてしまうことは理解できるが、むしろだからこそ、修正の難しい、大きな問題なのである。また、そこを巧みについて、その方向を押し進めようとするのは、戦略的で巧妙な「意図」があるというほかない。

要は、「統合失調」にしても、「ADHD」にしても、「病気」と規定した瞬間から、すべては「病気だから」ということで、「分かった」ことにされるのである。そして、体よく、「治療」に結びつけられるのである。そこには、多くの者の、「病気」の奥にある本当の理由など、理解などしたくもないという思いがあるし、そんなことより、精神医療に委ねた方がよほど楽であるという思いがある。また、そこにつけ込む形で、製薬会社や精神医療がいいように利益を追求できる基盤がある。

この調査発表は、製薬会社の単なる「キャンペーン」ということを超えて、思いのほか、精神の病にまつわる本質的な問題を露呈させているのである。

2017年1月28日 (土)

「統失」・「集スト被害」と「解体型」・「妄想型」

「集団ストーカー」については、そろそろ述べるのを終わりにしようかとも言いました。が、「集団ストーカー被害」というものは、陥っている状況として、「統合失調」と明らかに共通するものがあるし、現代における新たな現われとしてみても、興味深いものがあります。また、逆に、それに注目することによって、「統合失調」を照らし出す面もあります。

基本的な事柄は、既に十分述べたと思いますが、「統合失調」を主たるテーマとするこのブログでは、今後も、新たな視点から捉えなおしたり、気づいたことを述べることは続けるつもりです。また、予定している、分かりやすくまとめるホームページにおいても、一つの重要なコンテンツとなるはずです。

「統合失調」と「集団ストーカー被害」では、陥っている状況に共通のものがあるわけですが、「集団ストーカー被害」では、「統合失調」ほど深く状況に入っているとは言えません。いわば、状況の周辺領域あるいは境界領域にとどまっているといえます。それで、「統合失調」のように、他の者に聞えない「声」を聞いたり、知覚つまり世界そのものが変容して、大きく混乱し、崩壊の危機を迎えるということはないようです。

(ただし、「テクノロジー犯罪被害」になると、もはや「声」を聞くということは起こっています。また、現代では、ネット情報などの拡散により、「統合失調」の人も「集団ストーカー被害」に引き寄せて、自分の体験を解釈するということが起こるので、両者は、必ずしも、明確に区別されるわけでなく、混合もあり得ます。)

しかし、「集団ストーカー被害」の大きな特徴は、一般には信じられないこと、可能性のほとんどないことであるにも拘わらず、その「被害」ということを強く確信して、疑わず、独特の論理で、周りにも、強く訴えてくることでしょう。つまり、いわゆる「妄想」ということに関っているのです。

「統合失調」の場合にも、「妄想」はもちろんありますし、「被害妄想」として、内容的には似通っていますが、「集団ストーカー」の場合とは、趣きが随分異なるのも事実です。

精神医学の方面でも、「統合失調」には、「解体型」と「妄想型」の区別があるという見方をするものがあります。あるいは、この両者は、別の症候群と解すべきという見方もあります。

私の場合は、典型的な「解体型」ですし、私が一般に「統合失調」という言い方で捉えているのも、多くはこの「解体型」になります

「解体型」にも、もちろん「妄想」は起こるのてすが、それは、何度も述べて来たように、現に解体に陥っている自我を、何とか防衛しようという「悪あがき」的な反応です。たとえ、それが表現されても、非常に危うく、壊れやすいもので、その「悪あがき」的な面は、いやでも外部にも現われてしまうのです。

私が、一連の状況に陥っているときには、新聞でも本でも、文字を読むということもできず、(当時はパソコンなどありませんでしたが)何が文字を書いたり、打ったりということも、全くできない状態でした。「解体型」においては、まさに、自我が「解体」の危機を迎えるので、思考もまともに働かず、それを「まとまり」をもって表現するなどということもあり得ないわけです。たとえ、そうしようとしても、他の者には、明らかに「支離滅裂」という印象を与えてしまいます。

だから、私が、「集団ストーカー被害者」について、信じ難いのは、現にその渦中にある中でも、一応「まとまり」をもった論理的な体裁で、自分の被害を訴えることができていることです。

「集団ストーカー被害」の場合は、普段でも、「監視されている」という不安や恐怖はあるでしょうが、それが最も現実化するのは、現に、ある人物などの「ストーカー行為」を受けている状況においてということになるでしょう。それで、普段においては、ある程度の「余裕」があることにもよると思われます。

それに対して、「統合失調」の場合の多く、あるいは特に私の場合は、部屋で一人でいても、「四六時中」「声」が聞え、その存在を間近に感じるという状況にあったので、普段においても、恐怖や混乱が継続的に止まないことになります。要するに、これは、「統合失調」の場合は、より深く「状況」に入っているということの現れといえます。

「統合失調」と「集団ストーカー被害」の場合の、このような違いは、「状況」においては共通していても、その「気質」または「性格」の違いから、その反応の仕方が違ってくるという見方もできます

「統合失調」では、いわゆる「分裂気質」という、自我の境界が薄く、対人関係にも弱いタイプが多いことになります。私は、「集団ストーカー被害」の場合にも、ある程度このことが当てはまるとみています。つまり、一般に言う、健全で安定的な「自我の強さ」というものを、身につけているわけではないと思います。しかし、違いは、「集団ストーカー被害」の場合は、いわば「日常的」に、「妄想」の力によって、それが補われ、いわゆる「分裂気質」的な、自我の弱さあるいは脆さは、感じさせないものになっているということです。それが、「解体型」のように、未知の「状況」に深く入りこんで、解体の危機を迎えることを防いでいるということです。

「解体型」でも、現に解体の危機にあるときには、必死に「妄想」を紡ごうとするのですが、いわばもはや「手遅れ」の感があり、「解体」の方向に押されて、それをうまく築くことができません。ところが、「集団ストーカー被害」の場合は、「状況」に入り込む前に、いわば日常的に鍛えられた、「妄想」の力によって、それに入りこむことを阻止できているということです。

「妄想の力」というと、誤解を受けがちですが、決して、一般に言うように、「事実でないことを信じること」ではありません。また、一般に受け取られがちな、「想像力が豊か」ということでもありません。

むしろ、「妄想の力」とは、想像力の豊かさとは反対に、想像力を排し、多くの可能性の中から、ある特定の解釈や見方だけを、主観的に強く信じ込んで、それが正しいと決めつける力であり、他の可能性を顧みないでいられるようにする力ということです。一言で言えば、「思い込み」の力であり、「決めつけ」の力です。そして、その特定の解釈や見方を疑わざる前提として、その周りに、もっともらしい論理を築き、一応とも、まとまりのあるものとして提示する力でもあります。

「もっともらしい論理」といっても、それは、厳密には、明らかに矛盾したり、論理の飛躍やすり替えが重ねられているもので、「論理」そのものの力が強いということではありません。しかし、「解体型」のように、「まともな論理」すら築けないのとは、大きく異なっています。それは、人を「加害者」として、糾弾するものなので、人から攻撃を受けやすいものではありますが、正面から、容易には崩されることのないものでしょう。だからこそ、それなりに、「自我」も安定していられるのです。「妄想」で防ごうとしても、「解体」が押しとどめられず、解体すればするほど、「状況」に深く入っていくことになる「解体型」とは、大きな違いです。

繰り返しますが、「統合失調」と「集団ストーカー被害」のこのような違いは、明確に区別できるというものではなく、両者には、混合もあります。あくまでも、一般的な傾向として、このような違いがみてとれるということです。

また、「集団ストーカー被害」を「妄想型」に当てはめるからといって、それが「統合失調」またはその他の「病気」だというのではありません。さらに、「集団ストーカー被害」ということが、あらゆる意味で、「事実に反する」と決めつけるのではありません。そもそも、「統合失調」からして、「病気」ということでは何ら理解できないというのが、私の立場であり、「統合失調」の「妄想」にしても、その解釈は、ある「事実」に基づいて生じているというのが私の立場です。それは、「集団ストーカー被害」についても全くあてはまります。

ただ、「集団ストーカー被害」の場合は、「統合失調」の場合にも増して、周りからは、「病気」だという非難ないし攻撃を、受けやすいことにはなるでしょう。それは、むしろ、明らかに「統合失調」的な「解体」を示さないからで、「妄想」を訴えかける力も強く、周りの者にとっては、「統合失調」の「解体型」の者以上に、「手ごわく」「脅威」に感じるからです。

全体として、この「集団ストーカー被害」は、今後も、「統合失調」の「解体型」の場合以上に、社会に強い軋轢を生みだすことになるでしょうし、その成り行きは、注目に値すると思います。

※ 5月2日

 記事『『恐怖を超えて』-捕食者的な「精霊」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-e453.html )を見てもらえば分かるように、本来の心を覆う「パラサイト」的な心は、「裁判官」(人を裁くこと)と「犠牲者」(自己を「被害者」に仕立て上げること)を構成することで、補強される。

「集団ストーカー被害」とは、まさにこの「パラサイト」的な心を補強する、「裁判官」と「犠牲者」で凝り固まっている状態といえる。そのような(少なくとも主観的には)「危機」的な状況において、そうすることで、何とか自己を崩壊させずに、保っているのである。

それに対して、「統合失調状況」では、そのような反応も当然起こりはするが、それは成功せず、「パラサイト」的な心も崩壊に向かい、それまで隅に追いやられていた、「未熟」な「本来の心」が、むき出しになろうとしている状態といえる。

2016年1月31日 (日)

「例外」としての「回復」の意味

記事『精神的な「病」と「医療化」(図)』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-5717.html)で、社会との関係で精神医療がどのような役割を果たしているか、分かりやすい図を示した。それを再掲してみる。

Photo精神医療は、社会から逸脱する者を「病気」として、「治療」の対象とすることで、抱え込み、「管理・処分」する役割を果たしている。社会の内部で対処することの困難な者を、病院の体制や精神薬などの物理的・化学的な手段で、強引に抑え込んでくれるのである。つまりは、「厄介払い」の代行である。これにより、社会に大きく貢献するとともに、利益を吸い上げることで、その「支配層」にも大きく貢献している。

この図において、「例外」として、病院に抱え込んだ者が、「回復」し、社会へと復帰する場合があることを示した。そして、これがなければ、いくらなんでも、「治療のシステム」としては成り立たないということを述べた。

しかし、病院の役割が、このようなものだとすると、この「例外」としての「回復」とは、実質的にどういうことを意味するのか。ここで2つの要点を示しておきたい。

1つは、もちろんだが、それは「治療の成功」などと、単純にみなせるものではないということである

中には、一応、確かに、外見上「回復」したようにみえる場合もあるだろう。しかし、それが、「治療により」もたらされたという保証は何もない。むしろ、精神的な病なるものは、本来、一定の期間の経過により、自然に回復に向かうのが本来の姿だとすれば、それは、ただそれが起こっているだけである可能性が高い。

記事『統合失調症とアイデンティティ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-faec.html)でもみたが、「回復」(寛解)したという人は、初めは「合わない」薬の作用を受けて、事態が悪化するが、薬をいろいろ変えた末、「合うもの」がみつかって、劇的に回復したなどということが多い。しかし、それは、初めの状態との比較において、そう言われるのであり、だとすれば、「精神薬」の作用としての初めの状態が、いかに酷いものであったかということなのである。その酷い状態が、弱まって、あるいは解消されれば、それは、その間の期間の経過にもより、実際に「回復」に向かうことになったとしても、不思議はない。

それは、「精神薬によって」、治療されたのではなく、「精神薬を服用したにも拘わらず」、治癒に向ったのである

ただ、そこに、実際に、精神薬の「抑制効果」(一種の「麻痺」効果)が働いたという可能性はあるだろう。それが、本人を「おとなしく」させ、傍目にも、危険な感じが失われ、結果として、単純作業を中心とする、社会的な仕事に就かせることを可能にするということは、あり得ることである。

しかし、それが、「治療」といえるのかは別問題だし、本人の側からみて、好ましことかも、疑問である。
               
2つは、この社会へと復帰して行く、「例外」は、病院の役割からすれば、「例外」とはいっても、精神医療や「支配層」にとっては、失敗でも、損失でもなく、むしろ望ましいこと、ということである

なぜなら、図でも示されているように、「社会」とは、そもそも彼らの「管理下」にあるものだからである。そこから、逸脱する者を、病院の体制や精神薬により、「おとなしく」「柔順」にさせ、一応とも、社会に適合するものとなさしめたのだから、それは、全く彼らの意図に反するものではない。もちろん、本当に「危険」な者は、手っ取り早く、「管理」、「処分」されるだろうが、そうでなくとも、社会に適合するものにできたのなら、それで十分成功なのである。

さらに、前の記事でも述べたように、この「例外」があるからこそ、全体としての「精神医療のシステム」が、「治療のシステム」という見かけのもとに、成り立つのである。だから、この「例外」は、彼らにとっても、システムの存続にとって、重要な、生命線なのである。(一応とも、「治る」ように見える場合は、彼らとしても、周到に用意しておかねばならないということである。)

要するに、この「例外」を含めて、「精神医療のシステム」は、徹頭徹尾、彼らの意図にかなうようにできているということである

2016年1月22日 (金)

「オープンダイアローグ」の要点の図

前に、「オープンダイアローグ」について述べた(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-eb22.html 、http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6006.html)が、今回、この「オープンダイアローグ」がどのように治癒的に作用するのかの要点を、図にしてみた。 

Photo

ポイントは、本人の側の「妄想」も、医師や周りの者の側の「病気」という扱いも、ともに、「閉じたモノローグ」(独白)である、ということである。その「閉じたモノローグ」を、互いに、相手に押しつけ合うことから、対立や軋轢が生じ、事態を悪化させている。

本人が「妄想」を周りに訴えるから、周りの「病気」という扱いが生じ、強まるという面もあるし、逆に、周りが「病気」という扱いをするから、本人の「妄想」が起こり、強まるという面もある。

いずれにせよ、互いに、「閉じたモノローグ」同士のぶつかり合いが生じているのであり、それが相乗効果で、事態を悪化させ、泥沼化させている。

「オープンダイアローグ」という対話の試みは、その全体の構造に、融和的に作用するのである。決して、「病者」である本人に作用し、治癒をもたらすのではない。治癒がもたらされるとすれば、それは、本人の側だけでなく、周りの者についてもなのである。

「オープンダイアローグ」は、「オープン」な対話の「場」が、本人と周りの関係全体を癒す、ということである。だから、本当に「オープン」になされる限り、「人」や「もの」の働きを越えた、画期的な作用がある、ということになる。

しかし、それは同時に、これまでのあり方こそが、いかに、「病気」を生み出し、強めていたかということなのである

2015年10月15日 (木)

「オープンダイアローグ」と「放置療法」の併用

記事『一過性の現象としての「統合失調」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-eb39.html)で述べたように、「統合失調」は、かつて近代以前には、共同体による「集団的癒し」により治癒がもたらされていた。だから、「統合失調」も、本来「一過性」のものであり得るということである。ただ、「共同体」が解体された現代においては、かつてのような、「集団的癒し」を復活させることは難しい。そこで、それに代わるようなものを、個人が身につけていくしかないと、私は述べいていた。

ところが、前回述べた「オープンダイアローグ」は、このような、共同体的な「集団的癒し」を志向するものといえる。恐らく、フィンランドの西ラップランド地方では、かつての共同体のあり方が、まだかなり残っているのだろう。それで、このような療法は、受け入れられやすい基盤があったと思われる。

もちろん、現代の共同体は、かつての濃密な共同体とは異なるし、実際、治療に当たるのも、医療スタッフと家族などの関係者であって、「共同体」なのではない。それは、いわば、「疑似的な共同体」であるが、「オープンな対話」により、何とか、かつての共同体に近い治癒的な環境を、作出しようとしたということができる。

「統合失調状況」についても、かつてのように、予め、「共同体的な理解」をもっているわけではないが、「オープンな対話」を通して、かつての「共同体的な理解」に近い、何らかの「共同化し得る言語化」をもたらすことで、なんとか癒しの効果を期したといえる。

そこには、個人主義の時代を通過しているからこその、個人の重視という面もあるのだが、基本的には、かつての「共同体的な癒し」が、モデルとされていると解される。それは、もはや伝統に基づいた、確たる方法ではなく、不確かで、手探りのものだが、それでも、現代において、十分の治療成績を上げているのは、逆に、いかに、現代の精神医療が酷いものかを、示すものなのである。

いずれにしても、このような「共同体志向」は、コンセプトとして、十分頷けるものがある。

また、現に「統合失調状況」にある本人にとっても、かつての「理解」が失われたのは周りの者と同じであり、特に、「幻覚」に苛まれる急性期において、「理解」の手掛かりが得られないことは、大きな苦しみをもたらす。また、誰にも理解されず、孤独に追いやられることにもなる。そこで、前回みたように、急性期において、この療法を施すことで、何らかの「共同化」がもたらされることは、そのような苦しみや、孤独を和らげ、治癒に向けて、よい効果を及ぼすことも、頷けることである。

だから、私も、急性期において、このような療法を施すことには、基本賛成である。

しかし、このような療法も、「集団」による「介入」なのであり、本当に「オープン」になされるのでない限り、結局は、これまでと何ら変わりない、集団の側の見方や都合の「押しつけ」に化してしまう可能性が高い。むしろ、「オープン」という大義がある分、実質「押しつけ」でしかないものを、体よく誤魔化すのに、利用される可能性も高まる。あるいは、「オープンダイアローグ」を形式的に採用しつつ、それでは治癒が成功しなかったとして、これまでのような薬物中心の医療をなすための、口実として利用される可能性もある。

そもそも、どんな相手であれ、人間が真に「オープン」になるということは、稀なことである。まして、確かに、危険性も秘めた、難かしい状況にある人間に対して、「オープン」になるなどということは、さらに難いことである。

実際、「オープン」というのは、前回みたように、医療関係者も含めた、集団の側が、「病気」とか「治療」という一方的な見方を止めるか、少なくとも棚上げにしなければ、成り立たないことである。そのようなことが、「集団」の力が強く、「医療」や「薬」への盲目的な信仰の甚だしい、日本のような環境で、可能なことかは、かなり怪しいと言わねばならない。

そこで、このような療法は、取り入れるとしても、それに頼るようなことは避け、急性期において、実験的に、なすに止めたいのである

私は、前から述べていたように、「介入」ではなく、「一人で放っておいてあげる」こともまた、治癒に向けての、重要な要素だと考える。一種の、「放置療法」である。(記事『「精神病」の「放置療法」と抵抗』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-e1b2.html 参照)本人の陥っている状況について、理解が得られないことや、孤独が苦しみになるのは、確かであるが、一方、本人にとっては、他人や集団からヘタに干渉されることも、大きな苦しみとなるのである。なまじっかな干渉や介入がなされるぐらいなら、放置される方がよぼどよいし、治癒的な環境としても、適しているといえる。

このような「介入」による苦しみは、現代の社会及び精神医療が、「患者」を「病人」として、一方的に、治療の対象として扱うことによっているし、周りの者との、さまざまな葛藤や軋轢が避けられないことにもよっている。このような状況にあっては、それらを避けることが、むしろ「治癒」的な環境を、整えるのである。「オープンダイアローグ」の発想は、「集団的介入」ではあっても、少なくとも、こういうものを遠ざける方向にあるので、その限りで、治癒的な効果を発揮できるのである。

しかし、「一人で放っておかれる」ことの真の意義は、そういうことにはない。それは、起こっている現象と、時間をかけて、じっくりと向き合うことを可能にする、ということにこそある。既にみたように、「オープンダイアローグ」も、かつての「集団的癒し」のような強力なものではなく、基本的に、混乱や苦悩の状態を、和らげるのに過ぎない。それは、真に、体験を共有するものでもなければ、真の「理解」をもたらすものでもない。結局は、そういったことば、本人である自分がなすしかないことなのである。

言い換えれば、「オープンダイアローグ」のような療法は、単に、混乱に陥る前の、元の状態に戻るという意味での、「治癒」を目指すものである。ところが、「放置療法」的な、「一人でじっくり向き合うこと」は、単に元の状態に戻るというのではなく、混乱の状況を乗り越えることで、元の状態を超えていくことまでをも目指す。「イニシエーション」として、乗り越えることで、成長を果たすということである。少なくとも現代では、そのような点にまで、共同体が関与することは、あり得ないことなので、個人が努力により、なすしかないのである。

ただ、繰り返すが、「一人で向き合う」ことは、最も激しく現象に見舞われている、急性期において、やみくもに混乱を深めたり、それを防衛するため、「妄想」を固定するなど、マイナスの方向にも大きく作用する可能性はある。そして、その場合、「一人」では、それを修正する機会に欠けることにはなる。だから、それを解消できるようなものとして、「オープンダイアローグ」を実験的に施すことには、意義がある。実際には、この点も、予めの知識が行き渡れば、一人で対処できる可能性も高まるのだが、現状では、「共同性」の力を借りる方が、効果を発揮することも多いと思われる。

そういうわけで、一見相反するようだが、「放置療法」的な発想と、「オープンダイアローグ」的な療法を、うまく併用していくのが、「治癒」に向けたよい方法といえる。しかし、その場合にも、全体としてのコンセプトを言うなら、「放置療法」的な発想の方こそが主になるべきで、「介入」はあくまで最低限に抑えることにしたい。

但し、現に混乱の状況にある者を、「一人で放っておいてあげる」には、ある程度保護的な環境が必要となる。つまり、そのための、一種の「施設」が必要である。しかし、記事『「精神医学」と「もともとの問題」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-436a.html)でも述べていたが、それは「治療」を施す「病院」とは全く異なり、あくまで、本人の「療養」のための施設である

ただ、本人が必要とすれば、先の「オープンダイアローグ」のような療法、または、カウンセラーや体験者などのアドバイスを受けることができる。医師は、最低限の身体的ケアをなすものとして、関与を認めてもよいだろうが、それは、精神科医である必要はないから、精神科医の関与という余地はもはや生じない。(つまり、精神医療は不要になり、それまでそれに当たられた莫大な費用が、そのような施設の運用につぎ込めるということである!)

もちろん、現在のところ、こういった治癒方法には、あまり現実味はないし、もし、なされるとすれば、かなりの危険が伴うことも予想される。それを受け入れるかどうかは、社会の問題であるが、しかし、その危険が、現在の精神医療がもたらすものに比べて、より大きいものかというと、そんなことはないはずなのである。

いずれ、実験的にでも、そのような方向に踏み出す試みが、なされればと思う。

 「荒廃」をもたらすもの

未だに、「統合失調」を放置すると、「荒廃」し「廃人」になる、などと信じている人も多い。それも、「統合失調症」という「病気」が厳としてあって、その「病気」が、必然的に「荒廃」をもたらす、というのである。何とも、「オカルト」じみた、「病気」が信じられているものである。これはまさに、一つの「都市伝説」である。実際、このことは、多くの者が、「統合失調」に、何らかの「オカルト」的なものを含みみていることを、浮かび上がらせてしまっている。

確かに、「統合失調」という「状況」が、「荒廃」をもたらすことはある。しかし、それは、その者の陥った、具体的な状況が、「荒廃」をもたらすのであって、何か「病気」とういうものがあって、それから必然的に、もたらされるわけではない。

しかも、その「状況」には、その者を取り巻く、社会的状況というのものが、大きく関わっている。中でも、精神医療との関わりこそが、多くを占める。記事『長期化させる要因』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-573b.html )でも、まとめた(「荒廃」とは「長期化」ということの一つの現れである)ように、「病気というレッテル貼り」、「病院という劣悪な環境」、「精神薬」など、多くが、精神医療との関わりで生じているのである。

つまり、実際には、精神医療こそが、「荒廃」をもたらす、大きな要因となっているのである。

「オカルト」的なものに対する「恐れ」こそが、この「都市伝説」の元なのだが、その「オカルト」的なものを封じ込めようとして、実際には、医療が、「荒廃」を生み出している。そして、その「原因」を、元々の「病気」なるものに転嫁して済ますとき、この「都市伝説」は「リアリティ」をもって再生産されるのである。

2015年10月 3日 (土)

「オープンダイアローグ」について

フィンランドでは、「オープンダイアローグ」という「対話」を中心とした療法が実践され、精神薬をほとんど使わず、統合失調症などの精神病の「治療」が行われているという。その治療成績が、一般の精神医療に比べて明らかに高いので、最近はさまざまな方面から注目を集めているようだ。

ロバート・ウィタカーの『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』の最後の方でも、簡単に触れられていたが、そのときはあまり印象に残らなかった。

が、このたび、斎藤環著+訳『オープンダイアローグとは何か』(医学書院)を読んで、私も注目することになった。

ユーチューブにも、アメリカの心理療法家が取材したドキュメンタリーの動画がある(https://www.youtube.com/watch?v=_i5GmtdHKTM)。

斎藤環は、正直好きではなかったが、この本に関する限り、要領よく的確にまとめられた、よい本と言わざるを得ない。この治療法の先駆者である、セイックラ教授の論文も3つ収められている。

しかし、基本的に思うのは、本気で「開かれた対話」を心掛ける人達がいるなら、「統合失調」であろうと何であろうと、「治癒」に向けて良い効果を及ぼすのは、当然のことということである。ところが、「対話で統合失調が治る」などということに、驚いている方が、どうかしており、よほど「精神医学」に洗脳されているのである。

記事『一過性の現象としての「統合失調」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-eb39.html)及び『長期化させる要因』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-573b.html)でもみたように、「統合失調」は、「一過性の現象」であるのが本来の姿であり、「長期化」する方が、異常な事態である。「開かれた対話」による治療は、その本来「一過性」である現象が、「長期化させる要因」による長期化を免れて、本来の姿のままに現れたというに過ぎないのである

逆に言えば、一般の精神医学は、初めから、「開かれた対話」など拒否しており、本当に現象と向き合う気などなく、ただ、手に負えないものの「厄介払い」を代行するため、「治療」という名のもとに、それを無理やり抑え込もうとしただけである。そして、むしろ、それこそが「長期化」を促進させたにも拘わらず、それを、本来のあり様のようにみなしたのである。

ところが、この「オープンダイアローグ」は、ただ、そのようなやり方を止めて、本当に、現象に向き合い、助けになることをなすべく、一歩を踏み出したというに過ぎない。言い換えれば、本当に「治癒」を目指す気になった(結局はそうするしかないことに気づいた)、ということである。

簡単に言うと、そういうことに尽きるが、しかし、実際に行うとすれば、ことは、そう容易なことではないのはもちろんである。そこで、その「治療法」のポイントを、私の視点から、もう少し具体的にみてみよう。

一つは、「オープンダイアローグ」は、「対話」は対話でも、あくまで、「開かれた」対話ということである

「開かれた」とは、いくつかの意味合いがあるが、要するに、特定の見方や考えを持ちこまずに、また、誰が主導権を握るということもなしに、「対話」という状況そのものに「語らせる」ことである

これまでの精神医療は、「病気」とか「治療」とかいう発想をし、初めから、「価値判断」をもちこんで、しかも、本人を治療の「対象」として、対等の立場としては扱わないので、全く「開かれた」ものではない。

「オープンダイアローグ」の反対は、「モノローグ」(独白、独り言)とされるが、そのような関わりは、表面上、「対話」であっても、実質、「閉じた」「モノローグ」の「押しつけ」でしかない。

つまり、「開かれた」対話を目指すなら、「病気」とか「治療」、「診断」という発想そのものを、「止める」、あるいは少なくとも、「棚上げ」することが必要であり、そこに、そもそもの大きな関門がある。

本人が「対等」というよりも、それ以上の「主体」としての位置を認められていることは、「本人との対話で納得されたもの」以外の行為は、一切なされないことになっていることからも分かる。

なぜ、本人が「主体」かと言えば、それはもちろん、現象を経験しているのが、本人だからである。「病気」や「治療」という価値判断をもちこまないとは、起こっている現象を、「未知のもの」と認めることであり、その「未知」の言語化し難い現象に対して、何とか「言語化」しようと、本人がもがいているということを認めることである。

だから、この「オープンダイアローグ」は、本人に起こっている未知の現象を、「対話」という状況を通して、関係者の間で「共有」し、なんとか「言語化」することを手助けするということを、意図することになる

そのように、他の人々との間で、「共有」された形での、「言語化」そのものが、「治癒」をもたらすことになるというのが、高い治療成績の大きな理由といえる。

このような発想は、「人」や「物」ではなく、「開かれた状況」そのものが、「治癒」をもたらす方向に作用するという、一種の「信頼」に支えられているところもある。そこには、近代的な個人主義的発想を越えたものが、垣間見られる。これは、フィンランドという、ヨーロッパの辺境の地域性や文化性とも関わることと思われ、西洋近代の中心的な地域一般に浸透することは、確かに、大変なことに違いない。

次に、二つは、「オープンダイアローグ」は、「急性期」の早い段階での介入を行うということである。言い換えると、まだ「妄想」が「固定」される以前に、なされることに大きな意義がある

「オープンダイアローグ」を実践する病院では、電話がかかってきたら、チームを組んで、24時間以内に対応するという。それは、本人が、幻覚や妄想と格闘している「急性期」にこそ、「対話」を試みるということである。そこでは、「妄想」があるにしても、まだ強固に「固定」しておらず、変化の可能性が大きく残されている。

私も、「妄想」は、「壊れかかった自我の防衛反応」ではあるが、「固定された妄想」は、結局、混乱した事態を拡大させることを、何度も述べてきた。それは、「妄想」が、確かに「自我」の崩壊を防ぐ役割をするものの、「固定された妄想」は、それ自体が、いわば、二次的な被害をもたらすからである。その「被害」は、その「妄想」が、さらに相乗効果により、「幻覚」を助長することにもよるし、「妄想」が、周りの者と軋轢を生み、それがまた、葛藤や「迫害」の意識を拡大することにもよっている。

いずれにしても、一旦、「妄想」が「固定化」したら、それを変えることは容易ではないから、その「固定化」の前に、対応する必要がある。「オープンダイアローグ」は、「妄想の固定化」する前に、(「無理やり抑えつける」のではなく)
「開かれた対話」の力により、「未知の現象」に、何とか「言語化」を与えることによって、それを防ぐように作用する。そのことが、「治癒」に向けて、大きく影響しているのである。

「妄想」というのも、また一つの「モノローグ」であり、本人が、「閉じた」形で、起こっている現象に、即席に与えた、「言語化」である。その「モノローグ」を、何とか、「開かれた」場へと持ちこみ、関係者の間で「共有化」された形での、「言語化」をもたらそうというのが、「オープンタイアローグ」の試みといえる。

「開かれる」というあり方は、本人に関わる、関係者に求められるとともに、本人自身にも、求められるのである

このように、「オープンダイアローグ」には、十分の意義があると思うし、本当にそれがなされるなら、「治癒」的な結果がもたらされるのは、当然のことである。特に、「急性期」には、この療法を中心的なものとして試みることに、私も賛成である。

しかし、私は、「オープンダイアローグ」という、「集団的」な関与ないし介入には、やはり、「危険」な面も多くあると、思わざるを得ない。それのみに、頼るようなことは、避けたいのである。

そこで、次回は、そのような面について、述べたいと思う

2015年6月 2日 (火)

長期化させる要因

前回みたように、「統合失調」は、共同体による、集団的な理解と治癒の方法を失って、本来一過性の現象であるものが、継続的なものへと追いやられたのだった。

そのように、「共同体による集団的な理解と治癒の方法を失った」というのが、「統合失調」を「長期化」させる要因としては、直接のものである。ただ、そのことの具体的な現れは、さまざまであるとともに、近代以降の複雑な社会の中で、それには、さまざまな要因が加算されてもいる。

そこで、それらの具体的な要因について(これまでにも何度も述べて来ていることだが)、この機会にいくつかまとめておきたい。

これは、とりあえず、「外的要因」と「内的要因」に分けられる。

外的要因

1 周囲との葛藤、軋轢

「共同体による理解と治癒」を失ったということは、周りの者に理解されなくなったということであり、治癒に向けた環境や場を失ったということでもある。これは、要するに、周りの者から、訳の分からないものとして、怖がられ、忌避されるようになったということであり、それは、本人にとってもまた、迫害の意識を強めるものになったということである。さらに、そこから、互いに、さまざまな葛藤や軋轢を生むものとなったということであり、このような状況が、本人の状態を悪化させないわけがないのである。

2 「病気」というレッテル貼り

前者とも関わるのだが、こちらは、このような本人の状態を、「病気」としてレッテル貼りすることによって、殊更生じるもののことである。それが、わけの分からないもので、恐れられ、忌避されるものという実質は何ら変わらない上に、「病気」というレッテルが貼られることで、ますますマイナスのイメージに固定される。それは、当然に長期的な「治療」の対象となり、社会の防衛のため、長期間精神病院へ「隔離」することが正当化される。このような「見方」そのものが、いわば、初めから、「治癒」という可能性を排除するものとなっている。また、そのような「処遇」そのものが、本人をますます絶望的にさせ、回復から遠ざけ、本当に「病気」という状態へと追いやっていくことにもなる。

3 病院という劣悪な環境

治癒が働くには、それなりに心地よくリラックスできる環境が必要である。ところが、「病者」は、狭く、過酷な環境に閉じ込められ、虐待まがいの、非人間的な扱いを受けて日々を過ごす。そのような環境で、治癒どころか状態が悪化しないはずがない。実は、世間から隔離された状態に置くということ自体は、環境条件や扱い次第では、プラスに働く余地がある。1の周囲との葛藤や軋轢を避け、自分に起こっていることとじっくり向き合う環境を提供できるからである。ところが、そのようなことも、劣悪な環境の病院では、期待できないのである。

4  投薬による撹乱、慢性化

精神薬は脳に働きかけ、起こっている事態を撹乱させる。本来、一過性で終わり得るものも、予測のつかないものに変えられる。本人にとっても、一体自分は、起こっている現象そのものに向き合っているのか、薬の作用に向き合っているのか、分からないものになる。たとえ、精神薬が一時的に鎮静に成功したとしても、それは、何らの解決ではなく、結局は、事態を「慢性化」させるに過ぎない。そればかりか、事態に向き合ったり、対処したりする意欲や能力そのものも減退させてしまうのは、致命的である。既に、2の「病気」というレッテル貼りと3の病院という環境が大きなダメージになっているところに、精神薬は、いわばとどめの役割を果たす。

5  化学物質、食物などによる脳神経の阻害、脆弱化

脳神経の阻害や脆弱化が、統合失調の状態を招く基盤となり、あるいは悪化させたり、耐久力や対処する能力を減退させて、長期化させる方向に働くのは言うまでもない。これには、先天的な性質としての問題もあるが、化学物質や食物による影響も、近代、特に産業革命以降、飛躍的に付け加えられた事態である。これは、「発達障害」の要因となるだけでなく、「統合失調」を長期化させる要因としても無視できないはずである。

内的要因

1 社会との軋轢、生き方の行き詰まり

これは、外的要因としてみた、既に「統合失調」状態にあるときの、周囲との葛藤、軋轢というのとは別に、共同体が解体されて、切り離された個人と社会との関係の中で、社会にうまく適応できない個人が、社会との軋轢や、生き方そのものを行き詰らせることで、孤立や荒廃に陥り、それが「統合失調」を招く大きな要因となると同時に、治癒の見通しの立たない、長期化の要因にもなるということである。共同体が解体されたことによって生じた、最も直接の要因といえる。

2  妄想の固定化

「妄想」は、「統合失調」の破壊的状況から、自我を護ろうとして起こる防衛反応なのだが、その固定化は、拮抗状態を長引かせ、結局その状態を長期化させることになる。その「妄想」とは、かつての「集団的理解」に代わるものとして、個人として、その状況で即席に作出された応急的な「理解」で、その意味でも、集団的理解が失われたことを引きずっている。また、「妄想」は、次の3の幻覚と現実の混同という事態から、否応なく生じるものでもある。

3  幻覚と現実の混同

多くの「妄想」は、起こっている「幻覚」を「現実」そのものと混同することから生じている。近代以降、「現実」とは「この世的」、「物質的」なものに一元化されて理解されたために、「幻覚」を、それとは別の「現実」と理解する余地がなくなった。すなわち、「幻覚」は、全くの「非現実」か、そうでなければ、「この世的」、「物質的」な「現実」そのものと混同されるしかなくなったのである。そして、多くの場合、実際の「幻覚」の「現実的」な性質に囚われて、後者となってしまう。「現実」の次元そのもので捉えられた「妄想」は、ますます周囲との葛藤や軋轢を強め、事態を悪化させる方向に働く。このような結果は、近代以降の新たなものの見方の反映であり、それが、「統合失調」を長期化させる大きな要因ともなっているのである。

こうみてくると、「統合失調の長期化」ということは、近代以降の社会システムと密接に関わることで、その根本的見直し抜きには、解消されることの期待できるものではないことが分かる。しかし、そのような流れは、現在、徐々にではあっても、確実に起こっていることではあるし、そのシステムの中で作り出された「統合失調症」の「虚構性」ということを、本当に理解するならば、前回述べたように、本来の「一過性の現象」を取り戻す方向に進むことは、可能のばずなのである。

2015年5月21日 (木)

一過性の現象としての「統合失調」

久しぶりに、「統合失調」について述べる。「統合失調」については、本来、「一過性の現象であり得る」ということが、見失われてしまっていることが、大きな問題だと改めて思う。

一過性の現象で「あり得る」とはどういうことか。

『物語としての精神分裂病』(赤坂憲雄)もいうように、近代以前の伝統文化、特に未開社会では、「統合失調」は、一過性の錯乱現象としてしか知られていなかった。つまり、現に、一過性の現象で「あった」のである。

しかし、それは、共同体の全体が、この現象を自らのことのように受け止めて、受け継がれた伝統的な方法とシステムに則って、その解消に当たったからである。

たとえば、日本の江戸期であれば、記事『「分裂病」と「憑きもの」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-dc36.html)で詳しくみたように、憑きもの筋の者と憑かれる者という、独特の二分化された「憑き」の理解のもと、共同体全体として、そのような状態を解消するシステムをもっていたのである。

そのように、「集団的な癒し」の方法が、生きていたから、一過性の現象で治まっていたということである。

やはり、『物語としての精神分裂病』でもとりあげられているが、野田正彰著『狂気の起源をもとめて』(中公新書)は、パプアニューギニアのいくつかの地域での、精神的な病のあり様をレポートした貴重な記録である。かなり古いものだが、ちょうど、西洋文明との接触のほとんどない伝統文化そのものの地域の人々、西洋文明の影響を受けてかなり変容した地域の人々、その中間的な境界上の人々という、それぞれの相違が鮮明となる時代だったからこそ、それぞれの精神的な病のあり方の違いも、鮮明に浮かび上がっていて興味深いのである。

それによると、西洋文明との接触のほとんどない伝統文化そのものの地域の人々では、一過性の錯乱現象として以外に、「精神的な病」などというものはみられない。ところが、西洋文明の影響を受けてかなり変容した地域では、継続的に幻覚や妄想に捕えられたり、孤立し、荒廃した生を生きる、典型的な「精神的病」というものが生じている。そして、現に異文化と接しつつある、境界的な人々では、切迫した、急性的な分裂病的反応や、誇大妄想などの現象が、現に発生する現場をみることができるのである。

著者も、精神病というものは、もともとあったものではなく、西洋文明という異文化との接触による危機の反応として、起こるものと結論づけている。そして、それは、貨幣経済や個人主義などの、異質なシステムの導入により、伝統的な共同体のシステムが崩れ、切り離された個人と社会という関係の中においては、継続的なものへと追いやられることにもなる。

それは、より一般化して言えば、それまでは、一過性の錯乱現象でしかなかったものが、共同体による癒しのシステムを失ったがために、一過性のものでは終わらなくなった。そこに、社会としても、それを処理する必要に迫られ、精神病なる「概念」を作り出し、その者を抱え込む、精神病院なる「治療」のシステムも生み出されることになったということである。

しかし、共同体による、集団的癒しのシステムを失い、一過性の錯乱現象とは言えなくなったとしても、その現象の「実質」そのものが、全く変わってしまうわけではない。「精神病」も、その「治療システム」も、まずは何より、それを理解する方法を失い、対処する手立てを失ったことの、埋め合わせとして、その現象に被せられた、「概念」ないし「装置」でしかない。

その「実質」が変わっていない以上、それは、今でも、「一過性の現象」で「あり得る」のである。あるいは、「原則」と「例外」ということで言うなら、本来、「一過性の現象」であるのが、「原則」なのである。「一過性で終わらない」ことの方が、異常で例外的な事態だということである。

ところが、それを、『ブログの趣旨』でも触れたような、「一生または長い間」「治らない病気」とか、「同じく」「精神病院に入院しなければならない病気」とか、「同じく」「薬を飲み続けなければならない病気」などというのは、全く、転倒した、「虚構」のイメージというほかない。

そこには、理解と対処の手立てを失ったものに対する、多くの者の、恐怖と絶望が反映されている。とともに、そのような「危険」な者から、社会を防衛するための、「封じ込め」の発想が、込められている。さらに、そのような基盤に乗じて、支配層と製薬業界、医療機関の上層部が、莫大な利益を収奪し続けるシステムを構築したこと、さらには、被支配者層を薬漬けにして、弱体化を図るという戦略などが、積み重ねられた結果でもある。

そのようにして、恐怖と無理解ばかりが膨らまされ、本来の原則を、転倒させた、「真逆」の方向に突き進んでしまったのである。そのイメージは、今も、容易には変え難いものとして、塗り固められてしまっている。しかし、繰り返すが、「長い期間治療を要する」のが「原則」なのではなく、「一過性の現象」であるのが「原則」なのである。この、本来、「一過性の現象であり得る」ということを、見失わないで、抑えておくことが、とても重要である。

最近は、統合失調が「軽症化」したなどと言われるが、これは、社会の締め付けが、、多少とも緩くなったからで、もともと、「一過性の現象」であるのが「原則」なのだから、その場合そうなるのは、当然のことなのである。

また、記事『「狐に化かされる」こと/一時的な「幻覚」「妄想」状態』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-8560.html)や『「統合失調症」という「アイデンティティ」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-faec.html)でも触れたように、特に思春期には、自我が大きく揺らいで不安定になり、その期間、幻覚や妄想を生じてしまうことも起こり得る。それは、確かに、「統合失調」そのもののような現象なのだが、しかし、その思春期の揺らぎが自然に治まるのに伴って、そのような現象も解消されてしまう可能性が高い。つまり、「一過性の現象」に終わるわけだが、それも、もともと、「一過性の現象」であるのが「原則」であれば、当然のことなのである。

一過性の現象に終わるものは、「統合失調ではない」のではなく、本来、「統合失調」も一過性のもので終わり得るのである。

とは言え、「統合失調」一般について、それを、本当に、「一過性の現象」に終わらせるというのは、やはり、一つの大きな問題である。現在の個人主義的な社会システムにおいて、もはや、伝統的な集団的治癒のシステムを復活させることは、無理に等しいことだろう。だとすれば、現在においては、かつての、集団的な理解や対処の方法に代わるものを、「個人」が何らかのし方で、身につけ、担う必要があることになる。

それは、容易いことではないし、ただ、抽象的な知識や観念として、身につければいいというものでもない。最低限の知識は当然のこととして、実際に、その状態を体験する過程を通して、具体的に学ばれ、身につけるしかないものである。そのためには、少なくとも一定期間、集中的に、その体験と向き合い、治癒のための施設に入るようなことも、必要になるだろう。つまり、社会の側の支援も、一定限度は必要になる。

私は、そのようなことが実現すれば、すぐさま、「一過性」で終わるとはいかないものの、3カ月から6カ月の期間があれば、まず、ほとんど回復することになる、と考えている。

その施設では、必要とあれば、体験者やカウンセラーなどの助言や援助も受けられる。薬については、私は、生命の危険がはっきりと認められるときに限って、しかも、一時的な処置であることを明示したうえで、最低限使うことは、認められてもいいと思う。それは、現在そのようなときに、普通に使われている、拘束や電気ショックに比べれば、マシであろうという消極的な理由からである。しかし、記事でも何度も述べているように、このような危険は、「統合失調」状態で起こっていることや、「幻覚」を、通常の「現実」そのものと混同することから生じているのがほとんどなので、それを解消することができれば、大幅に減少するはずなのである。

「統合失調」に対する恐れは、現在でも、このような「何をするか分からない」「危険」のイメージが多くを占めていて、その「危険」のイメージのために、長期の入院や服薬を押しつける面が大きい。だから、「一過性の現象」を取り戻すうえで、鍵になるのは、多くの者にとっては、このような「危険」のイメージの解消であり、本人自身からすれば、「幻覚」を「現実」そのものと混同することを、回避できることである。そして、そのこと自体は、「幻覚」について、ある程度予備知識を得たり、実際の経験の積み重ねによって、さほど難しいことでもないのである。

そのようにして、今後―具体的にいつかは分からないが―、かつての集団的な理解や対処の方法に代わるものを、「個人」がいわば、「探索的」「実験的」に身につけるような経験が、積み重ねられていく。そうすれば、「統合失調」の「実像」は、恐らく、かつての集団的な理解以上のものに、精度を高められたうえで、広く浸透していく。そのとき、「統合失調」は、かつての、「一過性の現象」というあり方を取り戻すというだけでなく、積極的な「イニシエーション」としての、さらなる意義を見出されることにもなるだろう。

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