精神医学

2023年4月23日 (日)

「電磁波」により、「統合失調」を作り出すことは可能か

15年近く前の記事、『人工的に「分裂」を作り出すことは可能か』で、人を極限状態に置くことなどによる人工的な方法で、統合失調状態を作り出すことができるかを論じた。

結論的には、春日武彦著『私たちはなぜ狂わずにいるのか』も言うように、一時的に統合失調と類似の幻覚・妄想状態は作り出せても、継続的に、真に統合失調状態に陥らせることはできないということだった。同著書によれば、「かりそめの発狂」ということである。

そこでは、覚醒剤中毒、睡眠の極度の遮断、長期の拘禁状態、感覚の遮断などを例として挙げていたが、最近の「テクノロジー犯罪」などでも取りざたされる、電磁波による攻撃というものは挙げていなかった。

電磁波によって、脳内に何らかの「声」を聞かせる技術というものは、論理的にはでき得るものだろうし、現在では、状況とか、条件によっては、技術として実用することも、可能と言い得るのかもしれない。

しかし、たとえそのような技術があったとして、それを人間の脳に放射したとしても、やはり、「一時的に統合失調と類似の幻覚・妄想状態は作り出せても、継続的に、真に統合失調状態に陥らせることはできない」という結論に変わりはない、と言うべきである。

多くの記事、さらに前回の記事でも述べていたように、「声」というものは、単に人間の声というみかけがあるだけでなく、真に捕らわれを生む、ヌミノーゼ的な無気味さを帯びた独特のものである。また、記事、『人工的に「分裂」を作り出すことは可能か、でも述べていたように、こちらの内心の反応に応じて、的確に、効果的に、攻撃的な対応をしてくるものである。たとえ、内心の反応を、電磁波を通して読むというような技術を加味したとしても、そのようなことが的確に、継続的にできるというのは、全く現実的ではない。(たとえ、そのようなことができたとしても、真にヌミノーゼ的な無気味さは、醸し出せるものではない。)

もちろん、聞こえるはずのない声が聞こえ、それが継続すれば、かなりの混乱状態には陥るだろうし、そのことを周りの者や、精神科医にでも漏らせば、それは「統合失調の症状だ」と言われてしまう可能性はある。

しかし、それは、真に統合失調に陥った者とは、異なる反応だということである。

要は、統合失調の幻聴というものは、単に「声」を聞くだけのものではないのだが、「統合失調=幻聴の声を聞く」、と短絡的に捉えてしまうと、「声」を聞かせることで、統合失調がもたらせるというような発想も、生まれてきてしまうのだと言える

そして、それは何度も言うように、「統合失調=病気」という捉え方と、裏腹の関係にある。たとえば、「テクノロジー犯罪」を主張するような場合は、実際に、「声」を聞いている可能性が高いので、それが一般には、「病気」と捉えられることを前提にして、そうではなく、「電磁波による攻撃」なのだとする必要に迫られるのである。

無理もない面も多いが、どちらの方向からも、「統合失調の声」について、あまりに知られなさ過ぎるということを、改めて感じざるを得ない。

2023年4月 5日 (水)

「実体的意識性」と「ヌミノーゼ」

統合失調状態では、「そこに確かに存在している」という、「実体的意識性」の感覚が生じ、それが起こっていることにリアリティを与える重要な要素になることを、記事『実体的意識性」と「オルラ」』「などで示した。

「実体的意識性」は、視覚や聴覚などの知覚に伴って生じることもあるが、それ自体が一つの独自の感覚として生じるものである。

たとえば、何か、ある「実体」のようなものが、見える形で、知覚されている場合は、そのような感覚が起こっても不思議ではない。ところが、見える形では、知覚されていなくて、「声」だけか聞こえるような場合にも、そこに、「何者かが実際にいる」という感覚を、強く伴うことが多いのである。さらに、「声」としては、知覚されなくとも、そばに、「何者かが実際にいる」という感覚だけが、強く生じるという場合もある。

但し、本人が、その「実体的意識性」を、実際に、「何者かがいる」という感覚として、意識するとは限らない。たとえば、実際に目の前にする人間がいる状況で、「声」を聞くような場合には、その人間を声の出所として意識するので、何か他のものがいると、あえて意識することは起こりにくい。だから、「実体的意識性」として意識することはないにしても、それは、その聞いている「声」に、何か特別の力を感じるという形で、感じられるということにもなる。

その場合にも、「声」に力を感じるもとになっているのは、「実体的意識性」であると言うべきなのである。

このように、統合失調状態では、単に幻覚が起こるのではなく、「実体的意識性」が伴うことによって、強烈なリアリティが生じるのである。だからこそ、それに捕らわれるということも起こる。また、それについての解釈である、妄想を強く確信するのも、そのような「実体的意識性」が、もとになっているのである。

統合失調の者は、「病識がない」などと言うが、それは、この感覚レベルで起こっている、「実体的意識性」とそのリアリティについて、全く理解しないからである。「統合失調=幻覚・妄想」という、短絡的な捉え方だと、そういう見方にもなってしまう。

統合失調状態では、単に、幻覚や妄想が生じるのではなく、そこに「実体的意識性」が伴うことによって、リアリティが生じているということが、ポイントなのである。

ただ、私は、この「実体的意識性」という言葉も、統合失調の者の強い捕らわれを言い表す言葉としては、不十分だと思う。

統合失調状況では、単に、そこに「何者かがいる」という感覚が生じるというのではなく、それが、何か、「ただならぬもの」、「特別のもの」、「未知のもの」であることを、強く感じさせるものとなるからである。

記事『2 「妄想」「幻覚」の特徴とされるもの』で、笠原著『精神病』がとりあげる、統合失調症の「幻聴」のいくつかの特徴をあげたが、その中の「超越性を帯びる」というのが、まさにこれを示している。

また、「リアリティ」を生じると言ったが、この「リアリティ」には、日常的に知覚する、通常の事物や存在以上のものがあるので、体験している本人にとっては、捕らわれずにいるのは難しいような性質のものなのである。

このような性質を言い表すのには、ルドルフ・オットーが、『聖なるもの』(岩波文庫)という本で用いた、「ヌミノーゼ」(体験または感情)というのが、適当だと思う。

「ヌミノーゼ」というのは、キリスト教のような「高等宗教」の神から、先住民文化の精霊やマナ(霊力)のようなものまで、あらゆる「聖なるもの」の体験の根底にある感情として、捉えられたものである。崇拝の対象としての、「神」や「精霊」というのは、そのような感情のもとに、作り上げられた観念なのであり、抽象的なものであるが、この言葉は、その根底にある具体的な体験または感情を、事実として、取り出しているのである。

「神」や「聖なるもの」というと、崇拝をもたらす神聖な感情というイメージになるが、実際には、「聖なるもの」には、恐れをもたらす、負の側面もあり、それこそが、崇拝をもたらす場合にも、根源的な感情として潜んでいる。従って、「ヌミノーゼ」というのは、「おそれをもたらすと同時に、ひきつけられ、魅惑される」、両義的な感情なのである。

日本の江戸期の国学者、本居宣長も、

「其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、」

と述べている。この言葉も、「カミ」が、観念的、抽象的なものではなく、我々を取り巻く具体的なもので、悪しきもの、怪しきものを含めた、畏怖をもたらす特別なもの全般を指すことを、よく示している。

オットーは、「薄気味悪く怖るべきもの」、「妖怪的なもの」という言い方で、この「ヌミノーゼ」感情の底に潜む負の面を、言い表している。

統合失調状況で起こる、「実体的意識性」というのも、まさにこのような意味の、「妖怪的なもの」を伴うことが多いのである。それは、先に述べたように、「ただならぬもの」、「特別のもの」、「未知のもの」であるにしても、どこか、「薄気味悪く」、「おどろおどろしい」ものを際立たせている。だからこそ、恐怖の感情とともに、否定的な捕らわれをもたらさずにはおかないのである。

統合失調の場合、恐らく、単に「実体的意識性」というよりも、このように、より具体的に踏み込んで、「ヌミノーゼ」体験、または「ヌミノーゼ」感情として捉えた方が、理解されやすいであろう。

前回、近代社会のシステムは、「オカルト的なもの」を排除したがゆえに、統合失調状態に陥った者も、「病気」として「排除」する必然性を生じたと言った。この「オカルト的なもの」を、言い換えるならば、「ヌミノーゼ的なもの」と言うこともできる。

近代社会は、「聖なるもの」全体を、実質的には、「排除」したも同然だが、その崇拝という面や、観念的、抽象的で、(近代社会のシステムにとって)利用でき、あるいは無害な面は、各種の「宗教」に取り込ませた。

しかし、その根底なす、実質的な面、すなわち、真に危険で、システムを揺るがしかねない、「ヌミノーゼ」の面は、「病気」という形で、本当に、「排除」したのである。「聖なるもの」の根源をなすものこそが、「病気」として排除されたことにより、「宗教」というのも、骨抜きにされたのである。

しかし、現在においても、統合失調という現象には、「病気」と呼んだところで、そこからはみ出す面が、常にどこか顔を覗かせている。すなわち、「ヌミノーゼ」的なものが、依然として醸し出されることを、決して止めたわけではないのは、明らかである。

2023年3月20日 (月)

近代社会のシステムと「病気」という必然性

前回、統合失調状態は、一種の「(覚めない)催眠状態」と言えることをみた。

通常の催眠ならば、催眠術士が、「3つ数えると覚める」、「手をたたくと覚める」等の暗示を与えることで、覚めることまで導いてくれる。ところが、統合失調状態では、催眠をかけた側も、こんな暗示を与えるわけがないので、自ら「催眠」に陥っていることに気づくことでしか、そこから脱する方途はない。

そのためには、統合失調状態というのが、一種の「催眠状態」で、その状況では「起こっていることが真実」としか思えないことも、暗示によって誘導されて、そのように思わされているのだ、ということを、あらかじめ、漠然とでも、知る可能性がなければならない()

周りの者にとっても、統合失調状態が、一種の「催眠状態」であることを理解できれば、必要以上に混乱することはないことになる。

ところが、このような見方を阻害しているのが、「統合失調」は「病気」であり、「精神医療によって治療すべきもの」という、一般に浸透している常識である。

この常識も、恐怖や不安に基づく、集団での一種の「催眠状態」によって、誘導されていることを前回みた。

しかし、記事『「病気」ということの「イデオロギー」的意味』などでみたように、この「病気」という見方は、近代社会が作り上げた強固なシステムの一環として、なされているものである。それは、近代社会のシステムを保持するために、強力な役割を果たしているのであり、容易には突き崩し難いものということである。

だから、近代社会のシステムにとって、「病気」という見方が「必然」であり、それを覆せば、近代社会のシステムの維持自体が、難しくなる、ということを、大まかにでも理解しなければ、「病気」という見方に捕らわれずに、統合失調の本質を理解しようとすることも、難しいことになる。

このように、大げさでも何でもなく、統合失調状態を理解しようとすること、あるいは、その状態から本当に抜け出ようとすることは、近代社会というシステムそのものを問題にすることなのだ、ということの、自覚も必要である。

そうしなければ、「統合失調」という「謎めいた病気」は、永遠に暗躍し、近代社会のシステムを裏から支え続け、本人にとっても、何とかその状態をごまかしたり、その害を弱めたりすることができるのが、関の山ということになるのである。

近代社会のシステムにとって、「病気」という見方が「必然」であることを、簡単に図で示したので、それを掲げる。

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これまで何度も述べて来たことで、説明は不要と思うが、簡単に説明を付すると、

近代社会は、魔女狩りという悪夢の再現を阻止したいがために、それまでの文化を彩った、「オカルト的なもの」を排除するということを、基盤にしてできあがっている。だから、「オカルト的なもの」の影響をにおわせ、社会のシステムから逸脱するものは、ことごとく「排除」されねばならない。それは、社会システムを維持するための、「必然」なのである。

「医学」から借りて来た、「病気」という観念も、初めは、体よく「排除」するために便利だったから使われたものと言える。

ところが、単純に「排除」するのではなく、「病気」として社会の中で抱え込むことは、医療や製薬業界から利益を吸い上げる、支配層にとっても、大きなうまみとなるし、「排除」というあり方を、見かけ上ごまかすことにもなる。

それで、記事『精神的な「病」と「医療化」()』でみたように、「病気」ということが、単なる「レッテル」としてだけでなく、近代社会のシステムを維持するうえでも、重要な要として機能するようになったのである。

そのとき示した図を、再び掲げる。

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こういったことの全体を、俎上に上らせない限り、「病気」ということに捕らわれずに、「統合失調」の理解を得ようとすることは、難しい。

しかし、逆に、「病気」ということの「イデオロギー」性や、社会にとっての「必然性」が見えてくれば、その覆いが剥がされて、「統合失調」の本質は割と見えてきやすいものになる、ということも言えるのである。

 

※ 日本でも、近代以前には、記事『「狐に化かされる」こと/一時的な「幻覚」「妄想」状態』でみたように、「狐に化かされる」ということで、こういった状態に陥ったことを自覚する方途があり、結果として、一時的な幻覚・妄想状態で抜け出ることができていた。

この「狐に化かされる」というのは、狐(という精霊的存在)に、「催眠」にかけられて、幻覚・妄想状態に陥る、ということを、端的に示すものといえる。

 

2023年3月15日 (水)

幻覚・妄想と催眠状態としての統合失調

幻覚が起こり、妄想を信じ込む統合失調状態については、「霊界の境域」に入り込み、そこから抜けられなくなるということを中心にして、説明した。

また、幻覚・妄想状態については、LSDなどの幻覚剤摂取や、恋愛妄想に捕らわれている状態が、誰もが体験できる近い状態であることを説明した。

しかし、もう一つ、誰もが連想しやすい、これらに近い、身近な例をあげることができる。それは、催眠術にかかった状態、あるいは、もっと広く、催眠様の状態である

自分自身が、催眠術にかかった経験のある人は、少ないかもしれないが、テレビのショーなどで、催眠にかかった人の言動を見たことのある人は、多いことだろう。催眠にかかった人は、催眠術士に暗示をかけられると、ないはずのものが見えたり、見えるはずのものが見えなくなったり、自分が有名人であると本気で信じて行動したり、身体の自由が利かなくなったりする。

また、催眠術士というものを通して、直接かかる場合でなくとも、被暗示性が高まる催眠様の状態というのは、比較的誰もが、日常において広くかかり得るものである。

セールスなどのテクニックや、テレビ、ネットの広告なども、人の被暗示性が高まる催眠様の状態を利用して、なされる面がある。新入社員の研修や軍隊、カルトなどの帰属意識を高める「洗脳」は、まさに催眠状態を利用してなされる。

もっと言うと、我々一般の信じる「常識」というのも、集団の中で、被暗示性が高まることで、信じられ、浸透して行くのである。

催眠状態というのは、一種の「変性意識状態」で、何か特定の事柄や人物に捕らわれ(魅惑され)、意識がそれに固定され、日常の意識が狭まって、被暗示性が高まる、一種独特な意識状態である。普段の自分からすれば、普段は抑制されて表に出て来ない、「無意識のある部分の自分」、あるいは「もう一人の別の自分」が表に出るような状態とも言える。

その状態では、通常の判断力も弱まり、普段であれば信じないようなことも、容易に信じてしまう。はたから見れば、あり得ないようなことでも、容易に信じて、実際に、行動してしまうのである。あとで、催眠から覚めたときには、本人もなぜそんな行動をとってしまったのか、とても理解できない。

催眠状態で信じることは、強い力を発揮して、忘れたはずの、幼少期の頃のことを思い出したり、通常はできないはずのことが、できたりもする。日常の自分を超えた、体験をもたらすのである。だから、自己実現のための、セラピーや、催眠療法として、病気治療に利用されたりもする。

超心理学のESPカード透視実験では、催眠状態でできると信じた人のヒット率が、有意に上がることも、確認されている。

「意識が狭まる」と言ったが、これはある意味、日常の抑制意識が緩まることでもあるので、本来の、より広い意識が表に出て来ることでもあるのである。

統合失調状態というのも、基本的に、これら催眠状態と同なのである。

催眠状態に陥っているゆえに、通常の判断力を失い、幻覚を見たり聞いたりし、普通は信じられないようなことを信じ込んでしまうということである。それが、非常にネガティブな形で現れてはいるが、「病気」などと言う必要は、まったくないのである。

ただし、通常の催眠にかかっている人は、遅かれ早かれ、その状態から覚める。戻るべき日常の自分というものが、あるのである。だから、催眠にかかって、異常な行動に出る状態というのも、一時的なもので終わる。ところが、統合失調状態に陥っている者は、長い間、その状態から覚めることができないのである。

それには、いくつか理由があって、まずは、陥っている催眠状態の性質が、通常のものより強力で、長期にわたるので、容易に戻れるようなものではないということがある。一方で、その者の戻るべき自分というのも、もともと弱いということ、あるいは、戻るべき自分が、壊れかかっていて、もはや戻れる状態ではないということがある。

通常の催眠は、催眠術士が習得した技術によって、暗示にかけることによって起こるが、一般の催眠術士は、モラルとしても抑制されていて、悪意をもって、恐怖や不安につけ込むような形で、長期的にかからせるということはない。また、人間の催眠術士では、そうしようとしたとしても、かなりの限界がある。

ところが、統合失調状態では、まさに、悪意をもって、恐怖や不安につけ込む形で、人間よりも心理操作に長け、四六時中つけまとうことのできる、「見えない」存在によって、陥らされるのである。

一般に、統合失調状態が、催眠にかかった状態と思われないのは、この点が理解されないことによっているだろう。

一般の催眠は、催眠術士という「目に見える」存在がいて、それに暗示をかけられることで生じることが、はっきり分かる。ところが、統合失調状態には、特定の目に見える「誰か」として、暗示にかける存在が、(客観的には)見当たらないのである。しかし、統合失調状態に陥る者は、自覚的に意識する場合はほとんどないとは言え、何らかのし方で、そのような存在から、悪意をもって、強力に暗示をかけられていることが多いのである。

ただ、先に例をあげたように、一般の催眠の場合も、必ずしも、催眠術士がいなくとも、暗示にかかる場合は多くある。統合失調状態の場合もそうで、強い恐怖や不安に捕らわれている場合、疑心暗鬼になって、何であれ、その者にとっては、暗示をもたらし、催眠状態を導くきっかけになり得るのである。

さらに、記事『「恐怖心」が引き寄せる現象』でも見たように、強い恐怖や不安は、自分に起こる現象そのものも、共時的に引き寄せ、さらには、「現実」そのものを変容させてしまうほどのことにもなる。催眠の場合でみたような、日常を超えた信じ難い現象が、より強力な形で、しかもネガティブな形で、起こるということである。

実際には、このような現象にも、暗示をかける他者的な存在が関わっている場合が多いのだか、必ずしも、そのような存在を想定しなくとも、強力な催眠に陥ることがあるのは、理解できるはずである。

それにしても、一般には、統合失調状態は、催眠ではとても理解できないほど、常識から逸脱しているように思われてしまう。実際、だからこそ、「病気」というレッテルが張られるのである。

しかし、先に触れたように、「常識」というのもまた、集団的に陥っている、「催眠」状態というべきものなのである。意識は、狭められ、それに強く捕らわれているから、それに反すること、そこから逸脱するものは、異常で、病的なことに思えてしまう。それを、「病気」とみなして、「治さなければならない」こととすること自体が、(統合失調とは違った方向から)恐怖や不安によって誘導された、催眠状態によって、促されているということである。

「催眠」ということを、単に表面的にではなく、もう少し深くつっこんで理解できるなら、統合失調状態も、その一例にほかならないことが、分かるはずである。

2022年4月13日 (水)

「共通感覚的に<あり得ない>」

前回述べたように、「<あり得ない>ということは<あり得ない>」のだった。が、だとすれば、「統合失調症」や「集団ストーカー被害」の人が訴える「妄想」的な事柄も、「あり得ない」などとは言えないことになる。

それは、実際にそうで、そういった「妄想」も、(論理的に)「絶対にあり得ない」ということではないのである。

そういった「妄想」は、記事『「常識」ではなく「共通感覚」からの逸脱』でも述べたように、言うならば、「共通感覚的に<あり得ない>」のである。(論理的に)「絶対にあり得ない」わけではないが、多くの人が、共通感覚として、そんなことは「あり得ない」と感じる、というよりも、そういうことを、疑いもなく確信して行動することを、「おかしい」と感じるということである。

その理由は、論理的に明確には説明しにくいが、あえて言葉で説明するならば、次のようになることを、記事でも述べていた。

1「組織に迫害される」と言うが、そんなことは、あり得るとしても、余程のことであるが、その者に、それだけの理由があるとはとても思えない。
2「組織」に迫害されるという方法が、そのような高度な組織のやり方としては、あまりにもちぐはぐで、現実離れしている。
3  何よりも、それだけ、普通はどう考えても「あり得ない」事柄を、単に可能性としてではなく、事実として、信じ切って疑わないのが、信じ難いことで、「おかしい」。

注意すべきは、この「共通感覚」というのも、それが「正しい」のではなく、要は、多数の者が共通して感覚することであって、多くの者の背景となる、文化や時代の影響を受けるものである。

しかし、精神医学は、「妄想」を、「間違った信念を確信して、訂正できないこと」と定義している。

これは、それ自体が、物事を「あり得ない」と決めつける発想に基づいている。「間違っている」というのは、「あり得ない」と判断することから来る評価で、多分に決めつけ的なのである。

「妄想」は、本当は、「間違っている」かどうかよりも、「共通感覚からずれる事柄を、確信して、他の可能性を顧みず、他の者に対しても、それが当然の事実であるかのように行動して来る」ということの、理解しがたさに重点がある。

「訂正不能」というのは、一応それに近いが、やはり多分に決めつけ的であり、「あり得ない」という発想が元になっているから出て来る表現である。

このように、精神医学は、そういった状態に陥った者を、「病気」と規定して、多分に強制的で、身体に多大な影響を与える「治療」を施す必要から、「妄想」の病的な性格を際立たせようとする。それで、(「あり得ない」という発想で)「間違っている」、「訂正不能」という、強固な、「決めつけ」的な内容を与えるのである。

ところが、実際には、そうやって決めつけるから、相手にも反発を招き、余計に頑なにさせてしまうのである。「妄想」に陥った者も、ますます「決めつけ」的に、その共通感覚からずれた事柄を、事実として、確信することになる。

いずれにしても、「妄想」を「事実」と訴える側も、「病気」だから治療しろ、という側も、ともに、「あり得ない」という旧態依然たる発想をしているのである。

「あり得ない」という発想同士が、お互いに、ぶつかり合って、対立しているということである。

これを図に示すと、次のようになる。

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記事でも述べたが、「妄想」を訴える側が、「実際に起こっている」というのは、感覚レベルで、多くの人が自分につきまとったり、いやがらせをして来るなどと、「感じる」ということである。感覚的なことなので、実際には、これを言葉で説明することは難しい。あえて言えば、「<それ>が起こっている」とでも言うしかない。

ところが、この<それ>を、既成の観念で、短絡的な解釈をして、その解釈をそのまま確信してしまうのが、「妄想」なのである。「組織に狙われる」とか、「集団ストーカーにつけ狙われる」などである。これらが、感覚としての、<それ>に入れ替わって、事実であるかのように、確信されてしまっている。そして、そこには、そうでしか「あり得ない」という発想が、強く働いている。

病気という側も、先にみたように、「共通感覚的にあり得ない」という感覚を、論理的な問題、あるいは、事実そのものの問題にすり替えて、「間違っている」、「病気」などとして、押しつけているのである。

だから、「妄想」を訴える側にしても、「病気」として治療を押しつける側にしても、このような、「あり得ない」という、硬直した発想が、問題を起こしているという面が大きい。                                                            

これを、前回みたように、現代の若者の感覚として行き渡りつつある、「そんなことある?」くらいの、柔軟な発想で捉えることができれば、事態は大分、軽減するのである。

「病気」と決めつけずに、「組織に狙われる」、「集団ストーカーにつけ狙われる」なんてこと「ある?」くらいに、軽く問い返せば、本人も、改めて、ことを問い直す余地(余裕)が生まれるかもしれない。あるいは、少なくとも、自分の訴えが、多くの人にとって、共通感覚的には、「あり得ない」ことであることを、改めて自覚するきっかけになるかもしれない。

妄想を訴える側も、実際に起こっているのに、「病気なんてことある?」と軽く問い返せば、多くの人も、この人は、訴えの内容の信じ難さはとりあえずおいても、何事かを実際に起こっていることと感じていることを、改めて感じることができる。そして、何が実際に起こっているのか、に興味を移し、なぜ、そのような感覚が生じるのかについて、互いに、考えることができるようになるかもしれない。

「妄想」を訴える側は、実際に、切迫した危機を感じるからこそ、そのような妄想を訴えるのだし、「病気」という側も、そのような者を前にして、動揺し、混乱するからこそ、病気として納得しようとする。

互いに余裕がないから、「あり得ない」という硬直した発想をするわけで、確かに、それを変える、柔軟性をもつことは難しい状況である。

しかし、社会全体が、少しずつでも、「<あり得ない>ということは<あり得ない>」という発想。「そんなことある?」くらいの柔軟な発想に移行できれば、このようなことも、さほど難しいことではなくなるだろう。

2022年2月23日 (水)

統合失調に関する質問の募集

記事『ページビュー数ベスト5、新ブログの予定等』で述べたように、本年は、シーサーブログの方で、統合失調に関する、端的で分かりやすい説明のブログを始めようと思っています。

そのブログでは、初めに、多くの人が疑問に持つであろう質問を立てて、次に、それに対する端的な回答を示し、最後に、簡単な解説を付するというスタイルを考えています。

この初めに立てる質問は、私が、多くの人が持つであろう疑問を想定して、立てることにしますが、それでは、十分に多くの人の疑問を拾えない可能性があります。

そこで、こちらのブログで、読者の方から統合失調に関する質問を募集したいと思います。

統合失調に関して、疑問に思っていることや、その他どんな質問でもよいので、コメント欄にコメントして頂くと幸いです。

もちろん質問だけでも構いませんが、どのような理由でそのような質問をするかの趣旨も添えて頂くと、より有り難いです。

投稿された質問については、そのままの形とは限りませんが、なるべくその趣意を汲んで、新しいブログの方でとり上げていきたいと思います。多くの人から同内容のものを頂いた場合は、優先的にとりあげるつもりです。

ただ、このブログでの回答や解説は、あくまで一般的なもので、端的な分かりやすさを目指すため、あまり詳しいものにはできません。

質問によっては、私の判断で、こちらのブログで、より詳しい回答をすることになるものもあると思います。

どうぞよろしくお願いします。

2021年11月13日 (土)

『ブログの趣旨』の更新と「未知の状況と認める」ということ

サイドバー最上部の『ブログの趣旨』を、部分的に更新したので、報告しておきます。

私のブログの特徴として、これまで、自分の体験を詳しく述べていることと、それに基づいて、根源的、総合的な考察をしていることを、端的に挙げていました。

しかし、本当に私のブログの特徴、あるいは利点と言うべきなのは、私が、無意識領域で体験していたことも、後に意識化することによって、意識に上らせ、そこで明白になったことも、考察の基礎として参照していることです。そのようなことは、他では、なかなかないことであるし、そのことによってこそ、「統合失調」状況とはどういうものであるかが、明白になっているのです。

そして、もう一つは、(もちろん「治療」などではなく)それに基づいて、本人自身が、「統合失調」状況をくぐり抜けるにあたって、どのような「対処法」をとり得るかを、詳しく述べていることです。

これらのことを、初めて私のブログを訪れる人にも知っておいてもらいたいので、今回、書き加えておきました。

ところで、その対処法のところでは、「「(これまでの経験上、体験したことのない)未知の状況」であることを、率直に認めたうえで、できる限りの対処をしていく」という風に、述べています。そこでは、何よりも、「(これまでの経験上、体験したことのない)未知の状況」と認めることこそが、重要なポイントとなることを、改めて強調したいと思います。

「未知の状況と認める」とは、「これまでの経験上に、起こっていることを捉えようとしても、できない」ということ、つまりは、「分からない」状況であることを、率直に認めることです。

「組織に狙われる」とか「電波を仕掛けられる」、「思考を盗まれる」などの「妄想」は、起こっている状況を、「未知の状況」と認められずに、これまでの経験の延長上に解釈することから、起こっているのです。本当に、「未知の状況と認める」ことができれば、そのような解釈はとりようがなく、また、精神医療に委ねることにも意味がなく、ただ起こっていることを虚心坦懐に観察して、できる限りの対処をしていくしかないことに、嫌でもなるのです。

しかし、一般に、そうはならないのは、逆に言えば、そうすることが、いかに難しいことかということです。「未知の状況と認める」ことができないために、妄想のような「あがき」が起こり、また、精神薬のような物質的な手段で無理やり抑え込むしかないということになるのです。

そもそも、「これまでの経験上の捉え方」という枠組みを提供しているのは、近代社会の「ものの見方」あるいは「文化」です。それは、科学など、物質的なものに基づく、経験的、客観的な方法により、あらゆることが理解できるものであるかのような、発想に基づいています。精神医学というのも、その延長上にあります。

しかし、その枠組みこそが、実際に起こっていることを捉えるのに、大きな制約を課しているのです。だから、「未知の状況と認める」ということは、そういった枠組みを突き崩して、改めて状況そのものと、いわば「裸のまま」、向き合うことを意味するのです。しかし、それは、恐ろしいことなので、難しいことになるのです。

私のブログでも、考察の部分で、そのような近代の発想と、精神医学の発想が、 動機に基づいた、イデオロギー的なものとして、根源的に問われていますが、それをしないと、実際の状況下で、「未知の状況と認める」ということ自体が、起こり難いからです。

また、最近の記事『『精霊に捕まって倒れる』-精神の病と異文化の問題』でもみたように、「統合失調」状況を捉えるということは、まさに、「文化」の問題となるのです。近代という、一つの文化の発想自体が問われる事態ということです。

モン族などの先住民文化では、「統合失調」状況の捉え方が、近代の発想とは違って、物質を超えた霊的なものの視点を含んでいるし、排除されないので、経験上必ずしも,未知の状況とも言えないものになります。ただし、それも、一つの「文化」としての「見方」であることに変わりはないので、ただそれを、無批判に受け容れればよいということにはなりません。

やはり、近代という文化の中にいる限りは、一旦は、「未知の状況」と認めたうえで、その状況と虚心に向き合うことで、新たな捉え方を自ら見出していくしかないと思われるのです。

2021年10月 5日 (火)

『精霊に捕まって倒れる』-精神の病と異文化の問題

私は、記事『一過性の現象としての「統合失調」』で、「統合失調」とは、「異文化との接触」の問題であること。そして、記事『「異文化の衝撃」と「分裂病」』では、内部に引き起こされた「異文化の衝撃」が、いかに衝撃的なものであるかを、述べていた。
 
最近、その「異文化」と「精神の病」の問題を、正面からとりあげている本を読んだ。アン・ファディマン著『精霊に捕まって倒れる』(みすず書房)という本である。
 
ラオスを追われて、アメリカに移住することになった少数民族のモン族と、アメリカの医療との間で、「精神の病」の捉え方が、いかに根本的に異なるか、その文化の相違がもたらす様々な葛藤を、克明に描き出している。それは、絶望的と言えるほど、痛ましいものである。
 
この本の例では、「統合失調」ではなく、「てんかん」についてだが、モン族は、「てんかん」について、「驚いて魂が離れた状態の者を、精霊が捕まえて、倒したもの」とみる。それは、動物の生贄を伴うシャーマンの儀式によって、「魂を取り戻す」ことでしか、治療できない。ただし、この「精霊に捕まる」という状態は、それを克服すれば、シャーマンになれる資質でもあるので、「聖なる病」として敬われてもいる。
 
ところが、アメリカの医療では、もちろん「てんかん」は、だたの脳の異常であり、病院に入院して、抗てんかん薬によって治療すべきものである。
 
このような、本当に真逆としか言いようがない、相容れない捉え方が、衝突するのである。モン族のてんかんにかかった子供は、アメリカの医療とそれを全然信用しない、モン族の親との間で、引き裂かれるような状況になる。
 
結局、子供は、激しいてんかん発作を起こして、以後長らく死ぬことはなかったが、植物状態となってしまう。
 
モン族の親は、アメリカの医療が、モン族の治療を拒んだのみならず、多量の薬がさらに悪化させて、子供をそのような状態に陥らせたとみる。ところが、アメリカの医療は、モン族の親が、医師の言うことを聞き、もっと早く投薬治療をさせれば、そのような事態は避けられたとみる。
 
これは、モン族がアメリカに移住した初期の1980年代のことで、当時は、その文化的相違は、どうしようもないほど埋めようがないものだったことが分かる。現在は、モン族も、ある程度アメリカ的なものを受け入れて変わってきているし、アメリカの医療も文化的相違に理解を示すようにはなっているが、何ら解決はされておらず、根本的な問題であることに変わりはない。
 
本来は、「病気」全般について言えるはずだが、特に「精神の病」とは、「ものの見方」あるいは「捉え方」、つまり「文化」そのものの問題であることを、改めて感じざるを得ない。
 
アメリカの医療こそ、近代的な医学に基づいた科学的なもので、モン族のような捉え方は、後進文化による、「迷信」そのものと捉えていたら、この問題は、何ら解決の糸口はない。アメリカの医療もまた、西洋近代という「文化」そのものの産物なのである。
 
私は、全面的にではないが、モン族の捉え方の方が、真実に近い捉え方と思う。
 
「てんかん」は、「魂が離れている状態の者が、精霊に捕まって倒れる」ということだった。それでは、その捉え方に照らせば、「統合失調」の場合はどうなるか。
 
それは、「魂は体にいるが、やはり精霊に捕まって、倒れんばかりに、混乱している状態」ということになるだろう。魂が体にいる分、その混乱や葛藤が激しくなるのである。
 
モン族で、この状態がどのように解されているか分からないが、恐らく、「聖なる病」として、「てんかん」の場合と近い見方がされているはずである。
 
西洋近代という、ある意味特殊な文化の中にいる現代の我々にとっては、「統合失調」という「異文化の衝撃」自体が、本人自身にも、周りにも、理解される余地がない。本人が、それを、自文化に無理やり引き寄せて解釈しようとすると、「妄想」のような問題が起こる。周りが、それを、自文化に引き寄せれば、「治りがたい病気」として、病院に「厄介払い」するしかない問題となる。
 
ところが、逆に、本人にしても、周りにしても、内部に抱えられた、「異文化」の方に身を寄せれば、周りの「文化」との葛藤は、さらに激しいものとなる。いずれにしても、「異文化との葛藤」を免れない
 
「精神の病」とは、「異文化の問題」であることを、改めてつくづく感じさせられた。

2021年8月 1日 (日)

「オープンダイアローグ」に関する2冊の本と展望

「オープンダイアローグ」(以下「OD」と略)については、記事『「オープンダイアローグ」について 』などで、精神医学の存在自体が問われる現在においても、今後の有力な対処方法の一つとなり得るものとして、紹介していた。

当時に比べると、ODについての認知も一般に進み、また精神科医で注目する人も増えているようである。ODに関する本も、新たに、より分かりやすく、一般向けのものが出ている。

そこで、今回は、私が最近読んで良かった本2冊の紹介と、ODの今後の展望について、簡単に述べておきたい。

 オープンダイアローグがひらく精神医療』  斎藤環著 (日本評論社 )

記事『「オープンダイアローグ」について』でも、同著者の『オープンダイアローグとは何か』という本についてとり上げていた。ただ、それには、まだ理論的で抽象的な部分も多かった。しかし、この書では、著者も、その後実践を重ねたことにより、説明もより実践的で、具体的なものになっている。いくつかの論稿の寄せ集めなので、重複する部分は多いが、特に苦にはならないと思う。

何しろ、著者が、「確かな手応え」をつかんだのが伝わり、非常に力強く、ODの実践的な意義と今後の可能性を説いている。

著者も、ODの確かな治療的な効果は、実感しつつも、その理由を明らかにすることは、難しいという。しかし、(著者は、精神医学を全面的に否定するものではないが)要は、一応の効果を認めるとしても、対症療法でしかない、精神薬に頼ることと、これまでの密室での、治療者と患者という、非対称的な1対1の関係の弊害が解消されるということで、ODというチームによる開かれた対話は、患者のみならず、治療者側にも作用し、全体として、これまでにはない、新たな治療的効果をもたらすということである。統合失調症の者に、どのように作用したか、治癒の具体的な例も、いくつかあげられている。

ODについて、初めて読む人には、多少入り組んでいるので、次の2の本が奨められるが、ある程度知っている人には、断然この本が奨められる。

  『感じるオープンダイアローグ』 森川すいめい著(講談社現代新書)

ODについて詳しく説明するというよりも、著者が、精神科医として治療に関わる過程で、様々な問題意識を持ったことから、なぜODにひかれ、興味を持つようになったかを、説明するという意味合いの強いもの。もちろん、ODとは何かについても、一通りの説明があるし、全体として、基本的なことが、非常に分かりやすく書かれている。

何しろ、これまでの精神医療というものが、いかに人間性を顧みない、酷いものであったかということが、よく伝わるし、それこそが、ODの実践に向けては、強いモチベーションになるのである。

題名のとおり、理論的なことよりも、「感じる」ということを重視するもので、ODについて知らない人には、まず読んで、「感じて」もらいたい本である。


以下、これらの本を踏まえつつ、ODの今後の展望と私の考えについて述べたい。

これらの本を読むと、当初私が予測した以上に、改めて、ODの可能性を感じることができる。ただ私は、記事『「オープンダイアローグ」について』でも述べていたように、ODの可能性が意味するのは、端的に言って、今まで、いかに、精神医学(医療)が、誤った「病気観」と「治療観」を植えつけて来たかということに、尽きるのである。ODの可能性とは、それらのマイナス効果が解消され、それから開放されるということによる面が大ということである。

だから、ODの可能性は、その根本的な反省とともになされない限り、本当には、芽を咲かせることにはならないはずである。

たとえば、1の本で、斎藤も、日本では、ODが受け入れられる基盤が少ないことを、何度か指摘している。精神科医や病院関係者が、特に統合失調について、これまでの「病気観」を持ち続けていたり、薬物療法こそが主となるもので、ODはそれを補うもののように考えているとすれば、それでは、ODが功を奏することは期待し難いのである。

要は、これまでの「病気観」を棚に上げて、精神の不調に陥っている者、特に統合失調の者は、「幻聴」を聴いたり、多くの者と共有していたはずの、「世界」そのものが変容するなど、「何かよく分からない事態」に陥っているために、混乱している状況であることを、率直に認めることである。それを、「病気」とみることも、「治療」すべきものとみることも、その者に対する側の、解釈的な押しつけで、治療者側、あるいは周りの者の「都合」に過ぎない。もし、患者がそのような状況に対抗すべく、紡ぎ出した「妄想」を、患者の側の「モノローグ」(独白)というなら、そのような「病気観」を押しつけることも、それに対立する側の、「モノローグ」に過ぎないのである。

そういったことを認めることから、「開かれた対話」は始まり得るし、患者の側にも、効果的に作用し始める。そうして、そのような「よく分からない状況」に、陥っていることの、認識の共有から、(互いにモノローグに陥るのではなく)それを何とか打開すること、その言葉にし難い状況の、共通の言語化に向けての、努力がなされ得る

そういったことが、患者がそれまで一人で背負って、押し潰されそうだった、理解し難い苦悩の状況からの開放と、癒しの効果をもたらすのである

結果として、それは、多くの人にも、よく分からない、統合失調状況というものについて、理解に向けての相当のヒントをもたらすだろう。

先に触れたように、1の斎藤の本では、統合失調の者についての、ODの治療の実際例が、簡単にだが、示されていた。(

具体的な、詳しい、言葉のやり取りは、分からないが、チームにより、開かれた対話がなされることで、患者の側の、モノローグ的な、妄想への傾向も、かなり抑えられることが分かる。ただ、妄想が抑えられればよい、ということではないが、まだ幻覚も意識されていないような初期の状況では、このことは、十分の意義を有する。

さらに、斎藤も指摘しているように、幻覚をもち、かなり進んだ状態にある者に対しても、ODは十分効果を発揮し得る。開かれた対話の中から、自分が、周りの者にとっても、よく分からない状況に陥っているのであること、幻覚が「幻覚」であること(周りの者には見えたり、聞こえたりしないものであること)を自覚することができ、それについて、周りの者も考えてくれて、共通の言語化に向けての努力がなされれば、モノローグ的な「妄想」によって、無理やり解釈する必要性は、抑えられるからである。

さらに、フィンランドや諸外国の例も含めてだが、今後、実践例、治療例が積み重ねられて、(プライバシーの問題はあろうが)ある程度それが公開されるようになると、具体的に、ODのどんな点が治療に影響したのかとか、さらに、統合失調の者が陥っている不可解な状況について、ある程度共通の言語化が成し遂げられ、それは、「統合失調とは何か」ということについても、相当多くのことを明らかにすることになると期待される。

少なくとも、私が、そのような事例に触れることができれば、そこから、相当のことを読み解くことができる。(記事『『統合失調症がやってきた』/「後ろ」からの声』では、ハウス加賀谷の説明に基づいて、ある程度そのようなことを試みさせてもらっている)

このように、ODには、生半可になされれば、単にこれまでの「病気観」と「治療観」を、集団的に、つまりより強固な形で、押し付ける危険も伴うとともに、それが、真摯になされるならば、単に個々的な治療の可能性というだけでなく、統合失調という現象自体の解明に向けても、相当の可能性を秘めている、ということが言えるのである。


  統合失調の者に対するODについて、著者が述べている、ポイントとなる点を引用しておく。

「患者が妄想を語り始めたとしても、了解不能な「妄想」というレッテルを貼るべきではない。むしろ共有や共感が可能な体験として、できるだけ詳しくその体験を語ってもらわなければならない。「患者に幻覚や妄想を語らせると症状が強化されるから、詳しく聞くべきではない」という「俗説」は過去のものである。重要なことは、患者が語る未曾有の体験に強い興味と関心を向けながら、“教えて”もらう姿勢である。問いを重ねながら、メンバー全員でそれをリアルに追体験できるレベルまで、妄想の共有を深めることが推奨されている。」

「たとえ急性期の精神運動興奮状態であっても、対話は十分に可能である。適切な対話は大量の抗精神病薬に優る「鎮静」効果がある。急性期への介入で第一に懸念されるのは「暴力」であろう。しかし筆者らの治療経験から言い得ることは、治療チームで訪問することそのものが暴力に対する鎮静効果を持ち得るということである。これはスタッフが複数いるという物理的要因以上に、本人の話を批判せずに傾聴するという姿勢が安全保障感、すなわち安心をもたらすためと考えられる。」

2021年3月16日 (火)

ウイルスによる感染症にも「病気」という見方が故の問題

前回、反精神医学者サースの言葉をとりあげつつ、精神疾患にいう「病気」とは、「隠喩」に過ぎないこと。しかし、これが、精神医学では、実体としてあるかのような、「病気」とみなされたことを述べた。

精神の領域において、このように、「病気」とみる見方がもたらす問題は、記事『「病気」という見方が故の問題』でとりあげた。

いくつか重要な点を再掲すると、

「本人も、周りの者も、その元にある状況という、実質的な面よりも、このような「病気」という「覆い」にこそ振り回され、支配されることになる。その元にある、状況と、主体的に関わる機会は奪われ、それが何であるのかについても、ほとんど学ぶ機会はない。」

「結局、全体として、「病気」という見方が、その実質を覆い隠す、強力な「覆い」として作用し、それ以上の考察を妨げ、思考を停止させる働きをなしているのである。」

「「病気」というのは、それ自体は、特に内容をもたない「観念」に過ぎない。しかし、それは、その元にある「訳の分からない」状況に、覆いをする強力な働きをする。そこで、「病気」という「覆い」が、それ自体、一つの、強力な「事実」のように機能し始める。その「覆い」は、元にある「訳の分からなさ」(未知性)を、幾分とも反映するから、それ自体が、「訳の分からない恐ろしさ」を孕み、膨らませる。

そうして、「病気」ということが、社会をあげて「治療」すべき、巨大な「害悪」と化す。この「恐るべき病気」という、それ自体において肥大した観念が、本人にも、周りの者にも、その実質と向き合う可能性を、阻害する。」
                                             

これは、「精神の領域」について述べたものだが、最近のコロナ騒動においてもみられるとおり、ウイルスによる感染症においても、十分当てはまることと言うべきである。

特に、「その「覆い」は、元にある「訳の分からなさ」(未知性)を、幾分とも反映するから、それ自体が、「訳の分からない恐ろしさ」を孕み、膨らませる。」というところは、多分に、「訳の分からなさ」(未知性)をはらむ、ウイルスによる感染症にも、まったく当てはまる。コロナ騒動の多くも、このことによってこそ、醸し出されている面が大きいのである。

そして、これは結局、精神の領域のみならず、身体医学的な領域においても、「病気」という観念は、実質を覆い隠す働きをし、さらに、それ自体が独り歩きして、「恐るべき病気」、「社会をあげて治療すべき病気」という「巨大な害悪」を作り出す、ということになることを意味している。

明らかに、社会は、「病気という観念」に振り回されているのである。

また、記事『「病気」ということの「イデオロギー」的意味』と、次の『「病気」ということの「イデオロギー」的意味2』では、精神の領域において、「病気」ということのイデオロギー的な意味を明らかにした。

それについても、重要な点を再掲すると、

「第一段階は、社会的に放置できない、一定のパターンの精神的状態を、医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである。この場合の「病気」は、必ずしも、身体医学的な意味の「病気」ではない。精神の「病気」であれ、何であれ、とりあえず、それを「病気」として、医学の対象に取り込み、「治療」の必要な「害悪」と、規定することが重要なのである。

次に、第二段階は、身体医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである。ここでは、もはや「病気」とは、単なる「病気」でも、「精神の病気」という曖昧なものでもなくなった。身体医学の対象と同じく、身体の病気なのであり、特に「脳の病気」とみなされたのである。そこで、精神薬のような薬物療法が、治療手段として主流となり、人手のかからない、合理的、マニュアル的な対処が可能となった。

第二段階では、身体医学に引き寄せて、それまで「精神の病気」とされたものは、実際には、「脳の病気」であり、精神薬という物質的手段により、治療されるものである、という「イデオロギー」が浸透されたのだった。

この「イデオロギー」を象徴するのが、前回もみた、「ただの病気に過ぎない」という言い方である。言い換えれば、それまでは、(精神の)「病気」としても、その原因や治療法など、謎めいたものを多く孕んだままであった。が、ここにおいて、「病気」ということで、一応とも「分かった」ことにされたのである。つまり、身体医学の領域に引き寄せることで、「病気」ということ自体が、謎めいた現象についての、一つの「結論」としての意味を帯び、それに基づいて、治療法などの対処の仕方も、明確に単純化されたのである。」

これも、精神の領域について述べたものだが、身体医学の領域についても、やはり当てはまるものと言うべきである。

精神の領域において、「身体医学の領域に引き寄せ」て、「病気という規定」をしたということで、「病気という観念のイデオロギー性」が露になったわけだが、そもそも、身体医学の領域において使われる、「病気という観念」自体が、既に「イデオロギー」的なものだった、ということである。

特に、「「病気」ということで、一応とも「分かった」ことにされた」ということ。「「病気」ということ自体が、謎めいた現象についての、一つの「結論」としての意味を帯び、それに基づいて、治療法などの対処の仕方も、明確に単純化された」ということは、身体医学の領域においても、まさになされたことなのである。

だからこそ、「病気」という観念が、実際に起こっていることの「実質」を、覆い隠す働きをなすことができるのである。

もちろん、この場合の「病気」とは、近代以降の西洋医学にいう意味の「病気」である。要するに、「病気」とは、身体という機械的なシステムに支障を来すことで、その原因は、内部的なものであれ、病原体のような外部からの侵入によるのであれ、「物質的なもの」であるということである。

従って、よく分からない、恐ろし気な「病気」も、表面上は、「病気」として「分かった」ことにされ、薬を中心とする「物質的な」治療法が確立される。あるいは、ただ、その「害悪」を取り除けばよいというだけのこととなる。それは、社会に、「安心」や「期待」をもたらすようでありながら、実際には、その「よく分からない」実質の多くの部分が、覆いをされ、隠されたままに残されているのである。

従って、もともとある「訳のわからなさ」(未知性)は、その隙間から、常に顔をのぞかせざるを得ないのである。それが、「病気」という観念にも反映されて、「恐るべき病気」「社会をあげて治療すべき病気」というような、騒々しい観念を膨らませていくのである。

そのようなことが、最近のコロナ騒動をみても、如実に浮きびあがっているのが分かる。

東洋では、もともと、「病気」という観念は、「気を病む」ということを意味していた。これならば、「気」という、身体と精神をつなぐ領域に目を向ける、的確なもので、「病気」というのも悪くないだろう。ところが、近代以降の「病気」という観念は、そのような見方を覆して、物質的なもの一辺倒の見方に変えてしまい、実際には、実質を覆い隠して、ただ、「病気」という観念を肥大化させて行き渡らせてしまうことになったのである。

 

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