精神医学

2022年4月13日 (水)

「共通感覚的に<あり得ない>」

前回述べたように、「<あり得ない>ということは<あり得ない>」のだった。が、だとすれば、「統合失調症」や「集団ストーカー被害」の人が訴える「妄想」的な事柄も、「あり得ない」などとは言えないことになる。

それは、実際にそうで、そういった「妄想」も、(論理的に)「絶対にあり得ない」ということではないのである。

そういった「妄想」は、記事『「常識」ではなく「共通感覚」からの逸脱』でも述べたように、言うならば、「共通感覚的に<あり得ない>」のである。(論理的に)「絶対にあり得ない」わけではないが、多くの人が、共通感覚として、そんなことは「あり得ない」と感じる、というよりも、そういうことを、疑いもなく確信して行動することを、「おかしい」と感じるということである。

その理由は、論理的に明確には説明しにくいが、あえて言葉で説明するならば、次のようになることを、記事でも述べていた。

1「組織に迫害される」と言うが、そんなことは、あり得るとしても、余程のことであるが、その者に、それだけの理由があるとはとても思えない。
2「組織」に迫害されるという方法が、そのような高度な組織のやり方としては、あまりにもちぐはぐで、現実離れしている。
3  何よりも、それだけ、普通はどう考えても「あり得ない」事柄を、単に可能性としてではなく、事実として、信じ切って疑わないのが、信じ難いことで、「おかしい」。

注意すべきは、この「共通感覚」というのも、それが「正しい」のではなく、要は、多数の者が共通して感覚することであって、多くの者の背景となる、文化や時代の影響を受けるものである。

しかし、精神医学は、「妄想」を、「間違った信念を確信して、訂正できないこと」と定義している。

これは、それ自体が、物事を「あり得ない」と決めつける発想に基づいている。「間違っている」というのは、「あり得ない」と判断することから来る評価で、多分に決めつけ的なのである。

「妄想」は、本当は、「間違っている」かどうかよりも、「共通感覚からずれる事柄を、確信して、他の可能性を顧みず、他の者に対しても、それが当然の事実であるかのように行動して来る」ということの、理解しがたさに重点がある。

「訂正不能」というのは、一応それに近いが、やはり多分に決めつけ的であり、「あり得ない」という発想が元になっているから出て来る表現である。

このように、精神医学は、そういった状態に陥った者を、「病気」と規定して、多分に強制的で、身体に多大な影響を与える「治療」を施す必要から、「妄想」の病的な性格を際立たせようとする。それで、(「あり得ない」という発想で)「間違っている」、「訂正不能」という、強固な、「決めつけ」的な内容を与えるのである。

ところが、実際には、そうやって決めつけるから、相手にも反発を招き、余計に頑なにさせてしまうのである。「妄想」に陥った者も、ますます「決めつけ」的に、その共通感覚からずれた事柄を、事実として、確信することになる。

いずれにしても、「妄想」を「事実」と訴える側も、「病気」だから治療しろ、という側も、ともに、「あり得ない」という旧態依然たる発想をしているのである。

「あり得ない」という発想同士が、お互いに、ぶつかり合って、対立しているということである。

これを図に示すと、次のようになる。

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記事でも述べたが、「妄想」を訴える側が、「実際に起こっている」というのは、感覚レベルで、多くの人が自分につきまとったり、いやがらせをして来るなどと、「感じる」ということである。感覚的なことなので、実際には、これを言葉で説明することは難しい。あえて言えば、「<それ>が起こっている」とでも言うしかない。

ところが、この<それ>を、既成の観念で、短絡的な解釈をして、その解釈をそのまま確信してしまうのが、「妄想」なのである。「組織に狙われる」とか、「集団ストーカーにつけ狙われる」などである。これらが、感覚としての、<それ>に入れ替わって、事実であるかのように、確信されてしまっている。そして、そこには、そうでしか「あり得ない」という発想が、強く働いている。

病気という側も、先にみたように、「共通感覚的にあり得ない」という感覚を、論理的な問題、あるいは、事実そのものの問題にすり替えて、「間違っている」、「病気」などとして、押しつけているのである。

だから、「妄想」を訴える側にしても、「病気」として治療を押しつける側にしても、このような、「あり得ない」という、硬直した発想が、問題を起こしているという面が大きい。                                                            

これを、前回みたように、現代の若者の感覚として行き渡りつつある、「そんなことある?」くらいの、柔軟な発想で捉えることができれば、事態は大分、軽減するのである。

「病気」と決めつけずに、「組織に狙われる」、「集団ストーカーにつけ狙われる」なんてこと「ある?」くらいに、軽く問い返せば、本人も、改めて、ことを問い直す余地(余裕)が生まれるかもしれない。あるいは、少なくとも、自分の訴えが、多くの人にとって、共通感覚的には、「あり得ない」ことであることを、改めて自覚するきっかけになるかもしれない。

妄想を訴える側も、実際に起こっているのに、「病気なんてことある?」と軽く問い返せば、多くの人も、この人は、訴えの内容の信じ難さはとりあえずおいても、何事かを実際に起こっていることと感じていることを、改めて感じることができる。そして、何が実際に起こっているのか、に興味を移し、なぜ、そのような感覚が生じるのかについて、互いに、考えることができるようになるかもしれない。

「妄想」を訴える側は、実際に、切迫した危機を感じるからこそ、そのような妄想を訴えるのだし、「病気」という側も、そのような者を前にして、動揺し、混乱するからこそ、病気として納得しようとする。

互いに余裕がないから、「あり得ない」という硬直した発想をするわけで、確かに、それを変える、柔軟性をもつことは難しい状況である。

しかし、社会全体が、少しずつでも、「<あり得ない>ということは<あり得ない>」という発想。「そんなことある?」くらいの柔軟な発想に移行できれば、このようなことも、さほど難しいことではなくなるだろう。

2022年2月23日 (水)

統合失調に関する質問の募集

記事『ページビュー数ベスト5、新ブログの予定等』で述べたように、本年は、シーサーブログの方で、統合失調に関する、端的で分かりやすい説明のブログを始めようと思っています。

そのブログでは、初めに、多くの人が疑問に持つであろう質問を立てて、次に、それに対する端的な回答を示し、最後に、簡単な解説を付するというスタイルを考えています。

この初めに立てる質問は、私が、多くの人が持つであろう疑問を想定して、立てることにしますが、それでは、十分に多くの人の疑問を拾えない可能性があります。

そこで、こちらのブログで、読者の方から統合失調に関する質問を募集したいと思います。

統合失調に関して、疑問に思っていることや、その他どんな質問でもよいので、コメント欄にコメントして頂くと幸いです。

もちろん質問だけでも構いませんが、どのような理由でそのような質問をするかの趣旨も添えて頂くと、より有り難いです。

投稿された質問については、そのままの形とは限りませんが、なるべくその趣意を汲んで、新しいブログの方でとり上げていきたいと思います。多くの人から同内容のものを頂いた場合は、優先的にとりあげるつもりです。

ただ、このブログでの回答や解説は、あくまで一般的なもので、端的な分かりやすさを目指すため、あまり詳しいものにはできません。

質問によっては、私の判断で、こちらのブログで、より詳しい回答をすることになるものもあると思います。

どうぞよろしくお願いします。

2021年11月13日 (土)

『ブログの趣旨』の更新と「未知の状況と認める」ということ

サイドバー最上部の『ブログの趣旨』を、部分的に更新したので、報告しておきます。

私のブログの特徴として、これまで、自分の体験を詳しく述べていることと、それに基づいて、根源的、総合的な考察をしていることを、端的に挙げていました。

しかし、本当に私のブログの特徴、あるいは利点と言うべきなのは、私が、無意識領域で体験していたことも、後に意識化することによって、意識に上らせ、そこで明白になったことも、考察の基礎として参照していることです。そのようなことは、他では、なかなかないことであるし、そのことによってこそ、「統合失調」状況とはどういうものであるかが、明白になっているのです。

そして、もう一つは、(もちろん「治療」などではなく)それに基づいて、本人自身が、「統合失調」状況をくぐり抜けるにあたって、どのような「対処法」をとり得るかを、詳しく述べていることです。

これらのことを、初めて私のブログを訪れる人にも知っておいてもらいたいので、今回、書き加えておきました。

ところで、その対処法のところでは、「「(これまでの経験上、体験したことのない)未知の状況」であることを、率直に認めたうえで、できる限りの対処をしていく」という風に、述べています。そこでは、何よりも、「(これまでの経験上、体験したことのない)未知の状況」と認めることこそが、重要なポイントとなることを、改めて強調したいと思います。

「未知の状況と認める」とは、「これまでの経験上に、起こっていることを捉えようとしても、できない」ということ、つまりは、「分からない」状況であることを、率直に認めることです。

「組織に狙われる」とか「電波を仕掛けられる」、「思考を盗まれる」などの「妄想」は、起こっている状況を、「未知の状況」と認められずに、これまでの経験の延長上に解釈することから、起こっているのです。本当に、「未知の状況と認める」ことができれば、そのような解釈はとりようがなく、また、精神医療に委ねることにも意味がなく、ただ起こっていることを虚心坦懐に観察して、できる限りの対処をしていくしかないことに、嫌でもなるのです。

しかし、一般に、そうはならないのは、逆に言えば、そうすることが、いかに難しいことかということです。「未知の状況と認める」ことができないために、妄想のような「あがき」が起こり、また、精神薬のような物質的な手段で無理やり抑え込むしかないということになるのです。

そもそも、「これまでの経験上の捉え方」という枠組みを提供しているのは、近代社会の「ものの見方」あるいは「文化」です。それは、科学など、物質的なものに基づく、経験的、客観的な方法により、あらゆることが理解できるものであるかのような、発想に基づいています。精神医学というのも、その延長上にあります。

しかし、その枠組みこそが、実際に起こっていることを捉えるのに、大きな制約を課しているのです。だから、「未知の状況と認める」ということは、そういった枠組みを突き崩して、改めて状況そのものと、いわば「裸のまま」、向き合うことを意味するのです。しかし、それは、恐ろしいことなので、難しいことになるのです。

私のブログでも、考察の部分で、そのような近代の発想と、精神医学の発想が、 動機に基づいた、イデオロギー的なものとして、根源的に問われていますが、それをしないと、実際の状況下で、「未知の状況と認める」ということ自体が、起こり難いからです。

また、最近の記事『『精霊に捕まって倒れる』-精神の病と異文化の問題』でもみたように、「統合失調」状況を捉えるということは、まさに、「文化」の問題となるのです。近代という、一つの文化の発想自体が問われる事態ということです。

モン族などの先住民文化では、「統合失調」状況の捉え方が、近代の発想とは違って、物質を超えた霊的なものの視点を含んでいるし、排除されないので、経験上必ずしも,未知の状況とも言えないものになります。ただし、それも、一つの「文化」としての「見方」であることに変わりはないので、ただそれを、無批判に受け容れればよいということにはなりません。

やはり、近代という文化の中にいる限りは、一旦は、「未知の状況」と認めたうえで、その状況と虚心に向き合うことで、新たな捉え方を自ら見出していくしかないと思われるのです。

2021年10月 5日 (火)

『精霊に捕まって倒れる』-精神の病と異文化の問題

私は、記事『一過性の現象としての「統合失調」』で、「統合失調」とは、「異文化との接触」の問題であること。そして、記事『「異文化の衝撃」と「分裂病」』では、内部に引き起こされた「異文化の衝撃」が、いかに衝撃的なものであるかを、述べていた。
 
最近、その「異文化」と「精神の病」の問題を、正面からとりあげている本を読んだ。アン・ファディマン著『精霊に捕まって倒れる』(みすず書房)という本である。
 
ラオスを追われて、アメリカに移住することになった少数民族のモン族と、アメリカの医療との間で、「精神の病」の捉え方が、いかに根本的に異なるか、その文化の相違がもたらす様々な葛藤を、克明に描き出している。それは、絶望的と言えるほど、痛ましいものである。
 
この本の例では、「統合失調」ではなく、「てんかん」についてだが、モン族は、「てんかん」について、「驚いて魂が離れた状態の者を、精霊が捕まえて、倒したもの」とみる。それは、動物の生贄を伴うシャーマンの儀式によって、「魂を取り戻す」ことでしか、治療できない。ただし、この「精霊に捕まる」という状態は、それを克服すれば、シャーマンになれる資質でもあるので、「聖なる病」として敬われてもいる。
 
ところが、アメリカの医療では、もちろん「てんかん」は、だたの脳の異常であり、病院に入院して、抗てんかん薬によって治療すべきものである。
 
このような、本当に真逆としか言いようがない、相容れない捉え方が、衝突するのである。モン族のてんかんにかかった子供は、アメリカの医療とそれを全然信用しない、モン族の親との間で、引き裂かれるような状況になる。
 
結局、子供は、激しいてんかん発作を起こして、以後長らく死ぬことはなかったが、植物状態となってしまう。
 
モン族の親は、アメリカの医療が、モン族の治療を拒んだのみならず、多量の薬がさらに悪化させて、子供をそのような状態に陥らせたとみる。ところが、アメリカの医療は、モン族の親が、医師の言うことを聞き、もっと早く投薬治療をさせれば、そのような事態は避けられたとみる。
 
これは、モン族がアメリカに移住した初期の1980年代のことで、当時は、その文化的相違は、どうしようもないほど埋めようがないものだったことが分かる。現在は、モン族も、ある程度アメリカ的なものを受け入れて変わってきているし、アメリカの医療も文化的相違に理解を示すようにはなっているが、何ら解決はされておらず、根本的な問題であることに変わりはない。
 
本来は、「病気」全般について言えるはずだが、特に「精神の病」とは、「ものの見方」あるいは「捉え方」、つまり「文化」そのものの問題であることを、改めて感じざるを得ない。
 
アメリカの医療こそ、近代的な医学に基づいた科学的なもので、モン族のような捉え方は、後進文化による、「迷信」そのものと捉えていたら、この問題は、何ら解決の糸口はない。アメリカの医療もまた、西洋近代という「文化」そのものの産物なのである。
 
私は、全面的にではないが、モン族の捉え方の方が、真実に近い捉え方と思う。
 
「てんかん」は、「魂が離れている状態の者が、精霊に捕まって倒れる」ということだった。それでは、その捉え方に照らせば、「統合失調」の場合はどうなるか。
 
それは、「魂は体にいるが、やはり精霊に捕まって、倒れんばかりに、混乱している状態」ということになるだろう。魂が体にいる分、その混乱や葛藤が激しくなるのである。
 
モン族で、この状態がどのように解されているか分からないが、恐らく、「聖なる病」として、「てんかん」の場合と近い見方がされているはずである。
 
西洋近代という、ある意味特殊な文化の中にいる現代の我々にとっては、「統合失調」という「異文化の衝撃」自体が、本人自身にも、周りにも、理解される余地がない。本人が、それを、自文化に無理やり引き寄せて解釈しようとすると、「妄想」のような問題が起こる。周りが、それを、自文化に引き寄せれば、「治りがたい病気」として、病院に「厄介払い」するしかない問題となる。
 
ところが、逆に、本人にしても、周りにしても、内部に抱えられた、「異文化」の方に身を寄せれば、周りの「文化」との葛藤は、さらに激しいものとなる。いずれにしても、「異文化との葛藤」を免れない
 
「精神の病」とは、「異文化の問題」であることを、改めてつくづく感じさせられた。

2021年8月 1日 (日)

「オープンダイアローグ」に関する2冊の本と展望

「オープンダイアローグ」(以下「OD」と略)については、記事『「オープンダイアローグ」について 』などで、精神医学の存在自体が問われる現在においても、今後の有力な対処方法の一つとなり得るものとして、紹介していた。

当時に比べると、ODについての認知も一般に進み、また精神科医で注目する人も増えているようである。ODに関する本も、新たに、より分かりやすく、一般向けのものが出ている。

そこで、今回は、私が最近読んで良かった本2冊の紹介と、ODの今後の展望について、簡単に述べておきたい。

 オープンダイアローグがひらく精神医療』  斎藤環著 (日本評論社 )

記事『「オープンダイアローグ」について』でも、同著者の『オープンダイアローグとは何か』という本についてとり上げていた。ただ、それには、まだ理論的で抽象的な部分も多かった。しかし、この書では、著者も、その後実践を重ねたことにより、説明もより実践的で、具体的なものになっている。いくつかの論稿の寄せ集めなので、重複する部分は多いが、特に苦にはならないと思う。

何しろ、著者が、「確かな手応え」をつかんだのが伝わり、非常に力強く、ODの実践的な意義と今後の可能性を説いている。

著者も、ODの確かな治療的な効果は、実感しつつも、その理由を明らかにすることは、難しいという。しかし、(著者は、精神医学を全面的に否定するものではないが)要は、一応の効果を認めるとしても、対症療法でしかない、精神薬に頼ることと、これまでの密室での、治療者と患者という、非対称的な1対1の関係の弊害が解消されるということで、ODというチームによる開かれた対話は、患者のみならず、治療者側にも作用し、全体として、これまでにはない、新たな治療的効果をもたらすということである。統合失調症の者に、どのように作用したか、治癒の具体的な例も、いくつかあげられている。

ODについて、初めて読む人には、多少入り組んでいるので、次の2の本が奨められるが、ある程度知っている人には、断然この本が奨められる。

  『感じるオープンダイアローグ』 森川すいめい著(講談社現代新書)

ODについて詳しく説明するというよりも、著者が、精神科医として治療に関わる過程で、様々な問題意識を持ったことから、なぜODにひかれ、興味を持つようになったかを、説明するという意味合いの強いもの。もちろん、ODとは何かについても、一通りの説明があるし、全体として、基本的なことが、非常に分かりやすく書かれている。

何しろ、これまでの精神医療というものが、いかに人間性を顧みない、酷いものであったかということが、よく伝わるし、それこそが、ODの実践に向けては、強いモチベーションになるのである。

題名のとおり、理論的なことよりも、「感じる」ということを重視するもので、ODについて知らない人には、まず読んで、「感じて」もらいたい本である。


以下、これらの本を踏まえつつ、ODの今後の展望と私の考えについて述べたい。

これらの本を読むと、当初私が予測した以上に、改めて、ODの可能性を感じることができる。ただ私は、記事『「オープンダイアローグ」について』でも述べていたように、ODの可能性が意味するのは、端的に言って、今まで、いかに、精神医学(医療)が、誤った「病気観」と「治療観」を植えつけて来たかということに、尽きるのである。ODの可能性とは、それらのマイナス効果が解消され、それから開放されるということによる面が大ということである。

だから、ODの可能性は、その根本的な反省とともになされない限り、本当には、芽を咲かせることにはならないはずである。

たとえば、1の本で、斎藤も、日本では、ODが受け入れられる基盤が少ないことを、何度か指摘している。精神科医や病院関係者が、特に統合失調について、これまでの「病気観」を持ち続けていたり、薬物療法こそが主となるもので、ODはそれを補うもののように考えているとすれば、それでは、ODが功を奏することは期待し難いのである。

要は、これまでの「病気観」を棚に上げて、精神の不調に陥っている者、特に統合失調の者は、「幻聴」を聴いたり、多くの者と共有していたはずの、「世界」そのものが変容するなど、「何かよく分からない事態」に陥っているために、混乱している状況であることを、率直に認めることである。それを、「病気」とみることも、「治療」すべきものとみることも、その者に対する側の、解釈的な押しつけで、治療者側、あるいは周りの者の「都合」に過ぎない。もし、患者がそのような状況に対抗すべく、紡ぎ出した「妄想」を、患者の側の「モノローグ」(独白)というなら、そのような「病気観」を押しつけることも、それに対立する側の、「モノローグ」に過ぎないのである。

そういったことを認めることから、「開かれた対話」は始まり得るし、患者の側にも、効果的に作用し始める。そうして、そのような「よく分からない状況」に、陥っていることの、認識の共有から、(互いにモノローグに陥るのではなく)それを何とか打開すること、その言葉にし難い状況の、共通の言語化に向けての、努力がなされ得る

そういったことが、患者がそれまで一人で背負って、押し潰されそうだった、理解し難い苦悩の状況からの開放と、癒しの効果をもたらすのである

結果として、それは、多くの人にも、よく分からない、統合失調状況というものについて、理解に向けての相当のヒントをもたらすだろう。

先に触れたように、1の斎藤の本では、統合失調の者についての、ODの治療の実際例が、簡単にだが、示されていた。(

具体的な、詳しい、言葉のやり取りは、分からないが、チームにより、開かれた対話がなされることで、患者の側の、モノローグ的な、妄想への傾向も、かなり抑えられることが分かる。ただ、妄想が抑えられればよい、ということではないが、まだ幻覚も意識されていないような初期の状況では、このことは、十分の意義を有する。

さらに、斎藤も指摘しているように、幻覚をもち、かなり進んだ状態にある者に対しても、ODは十分効果を発揮し得る。開かれた対話の中から、自分が、周りの者にとっても、よく分からない状況に陥っているのであること、幻覚が「幻覚」であること(周りの者には見えたり、聞こえたりしないものであること)を自覚することができ、それについて、周りの者も考えてくれて、共通の言語化に向けての努力がなされれば、モノローグ的な「妄想」によって、無理やり解釈する必要性は、抑えられるからである。

さらに、フィンランドや諸外国の例も含めてだが、今後、実践例、治療例が積み重ねられて、(プライバシーの問題はあろうが)ある程度それが公開されるようになると、具体的に、ODのどんな点が治療に影響したのかとか、さらに、統合失調の者が陥っている不可解な状況について、ある程度共通の言語化が成し遂げられ、それは、「統合失調とは何か」ということについても、相当多くのことを明らかにすることになると期待される。

少なくとも、私が、そのような事例に触れることができれば、そこから、相当のことを読み解くことができる。(記事『『統合失調症がやってきた』/「後ろ」からの声』では、ハウス加賀谷の説明に基づいて、ある程度そのようなことを試みさせてもらっている)

このように、ODには、生半可になされれば、単にこれまでの「病気観」と「治療観」を、集団的に、つまりより強固な形で、押し付ける危険も伴うとともに、それが、真摯になされるならば、単に個々的な治療の可能性というだけでなく、統合失調という現象自体の解明に向けても、相当の可能性を秘めている、ということが言えるのである。


  統合失調の者に対するODについて、著者が述べている、ポイントとなる点を引用しておく。

「患者が妄想を語り始めたとしても、了解不能な「妄想」というレッテルを貼るべきではない。むしろ共有や共感が可能な体験として、できるだけ詳しくその体験を語ってもらわなければならない。「患者に幻覚や妄想を語らせると症状が強化されるから、詳しく聞くべきではない」という「俗説」は過去のものである。重要なことは、患者が語る未曾有の体験に強い興味と関心を向けながら、“教えて”もらう姿勢である。問いを重ねながら、メンバー全員でそれをリアルに追体験できるレベルまで、妄想の共有を深めることが推奨されている。」

「たとえ急性期の精神運動興奮状態であっても、対話は十分に可能である。適切な対話は大量の抗精神病薬に優る「鎮静」効果がある。急性期への介入で第一に懸念されるのは「暴力」であろう。しかし筆者らの治療経験から言い得ることは、治療チームで訪問することそのものが暴力に対する鎮静効果を持ち得るということである。これはスタッフが複数いるという物理的要因以上に、本人の話を批判せずに傾聴するという姿勢が安全保障感、すなわち安心をもたらすためと考えられる。」

2021年3月16日 (火)

ウイルスによる感染症にも「病気」という見方が故の問題

前回、反精神医学者サースの言葉をとりあげつつ、精神疾患にいう「病気」とは、「隠喩」に過ぎないこと。しかし、これが、精神医学では、実体としてあるかのような、「病気」とみなされたことを述べた。

精神の領域において、このように、「病気」とみる見方がもたらす問題は、記事『「病気」という見方が故の問題』でとりあげた。

いくつか重要な点を再掲すると、

「本人も、周りの者も、その元にある状況という、実質的な面よりも、このような「病気」という「覆い」にこそ振り回され、支配されることになる。その元にある、状況と、主体的に関わる機会は奪われ、それが何であるのかについても、ほとんど学ぶ機会はない。」

「結局、全体として、「病気」という見方が、その実質を覆い隠す、強力な「覆い」として作用し、それ以上の考察を妨げ、思考を停止させる働きをなしているのである。」

「「病気」というのは、それ自体は、特に内容をもたない「観念」に過ぎない。しかし、それは、その元にある「訳の分からない」状況に、覆いをする強力な働きをする。そこで、「病気」という「覆い」が、それ自体、一つの、強力な「事実」のように機能し始める。その「覆い」は、元にある「訳の分からなさ」(未知性)を、幾分とも反映するから、それ自体が、「訳の分からない恐ろしさ」を孕み、膨らませる。

そうして、「病気」ということが、社会をあげて「治療」すべき、巨大な「害悪」と化す。この「恐るべき病気」という、それ自体において肥大した観念が、本人にも、周りの者にも、その実質と向き合う可能性を、阻害する。」
                                             

これは、「精神の領域」について述べたものだが、最近のコロナ騒動においてもみられるとおり、ウイルスによる感染症においても、十分当てはまることと言うべきである。

特に、「その「覆い」は、元にある「訳の分からなさ」(未知性)を、幾分とも反映するから、それ自体が、「訳の分からない恐ろしさ」を孕み、膨らませる。」というところは、多分に、「訳の分からなさ」(未知性)をはらむ、ウイルスによる感染症にも、まったく当てはまる。コロナ騒動の多くも、このことによってこそ、醸し出されている面が大きいのである。

そして、これは結局、精神の領域のみならず、身体医学的な領域においても、「病気」という観念は、実質を覆い隠す働きをし、さらに、それ自体が独り歩きして、「恐るべき病気」、「社会をあげて治療すべき病気」という「巨大な害悪」を作り出す、ということになることを意味している。

明らかに、社会は、「病気という観念」に振り回されているのである。

また、記事『「病気」ということの「イデオロギー」的意味』と、次の『「病気」ということの「イデオロギー」的意味2』では、精神の領域において、「病気」ということのイデオロギー的な意味を明らかにした。

それについても、重要な点を再掲すると、

「第一段階は、社会的に放置できない、一定のパターンの精神的状態を、医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである。この場合の「病気」は、必ずしも、身体医学的な意味の「病気」ではない。精神の「病気」であれ、何であれ、とりあえず、それを「病気」として、医学の対象に取り込み、「治療」の必要な「害悪」と、規定することが重要なのである。

次に、第二段階は、身体医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである。ここでは、もはや「病気」とは、単なる「病気」でも、「精神の病気」という曖昧なものでもなくなった。身体医学の対象と同じく、身体の病気なのであり、特に「脳の病気」とみなされたのである。そこで、精神薬のような薬物療法が、治療手段として主流となり、人手のかからない、合理的、マニュアル的な対処が可能となった。

第二段階では、身体医学に引き寄せて、それまで「精神の病気」とされたものは、実際には、「脳の病気」であり、精神薬という物質的手段により、治療されるものである、という「イデオロギー」が浸透されたのだった。

この「イデオロギー」を象徴するのが、前回もみた、「ただの病気に過ぎない」という言い方である。言い換えれば、それまでは、(精神の)「病気」としても、その原因や治療法など、謎めいたものを多く孕んだままであった。が、ここにおいて、「病気」ということで、一応とも「分かった」ことにされたのである。つまり、身体医学の領域に引き寄せることで、「病気」ということ自体が、謎めいた現象についての、一つの「結論」としての意味を帯び、それに基づいて、治療法などの対処の仕方も、明確に単純化されたのである。」

これも、精神の領域について述べたものだが、身体医学の領域についても、やはり当てはまるものと言うべきである。

精神の領域において、「身体医学の領域に引き寄せ」て、「病気という規定」をしたということで、「病気という観念のイデオロギー性」が露になったわけだが、そもそも、身体医学の領域において使われる、「病気という観念」自体が、既に「イデオロギー」的なものだった、ということである。

特に、「「病気」ということで、一応とも「分かった」ことにされた」ということ。「「病気」ということ自体が、謎めいた現象についての、一つの「結論」としての意味を帯び、それに基づいて、治療法などの対処の仕方も、明確に単純化された」ということは、身体医学の領域においても、まさになされたことなのである。

だからこそ、「病気」という観念が、実際に起こっていることの「実質」を、覆い隠す働きをなすことができるのである。

もちろん、この場合の「病気」とは、近代以降の西洋医学にいう意味の「病気」である。要するに、「病気」とは、身体という機械的なシステムに支障を来すことで、その原因は、内部的なものであれ、病原体のような外部からの侵入によるのであれ、「物質的なもの」であるということである。

従って、よく分からない、恐ろし気な「病気」も、表面上は、「病気」として「分かった」ことにされ、薬を中心とする「物質的な」治療法が確立される。あるいは、ただ、その「害悪」を取り除けばよいというだけのこととなる。それは、社会に、「安心」や「期待」をもたらすようでありながら、実際には、その「よく分からない」実質の多くの部分が、覆いをされ、隠されたままに残されているのである。

従って、もともとある「訳のわからなさ」(未知性)は、その隙間から、常に顔をのぞかせざるを得ないのである。それが、「病気」という観念にも反映されて、「恐るべき病気」「社会をあげて治療すべき病気」というような、騒々しい観念を膨らませていくのである。

そのようなことが、最近のコロナ騒動をみても、如実に浮きびあがっているのが分かる。

東洋では、もともと、「病気」という観念は、「気を病む」ということを意味していた。これならば、「気」という、身体と精神をつなぐ領域に目を向ける、的確なもので、「病気」というのも悪くないだろう。ところが、近代以降の「病気」という観念は、そのような見方を覆して、物質的なもの一辺倒の見方に変えてしまい、実際には、実質を覆い隠して、ただ、「病気」という観念を肥大化させて行き渡らせてしまうことになったのである。

 

2021年2月26日 (金)

『R.D.レインと反精神医学の道』と隠喩としての「精神の病」

R.D.レインについては、私も、「最も分裂病理解に近づいた一人」として、記事『「自己の脆弱性」/『ひき裂かれた自己』 』及び『「疎外」からの「逸脱」/『経験の政治学』』でとり上げている。

『「自己の脆弱性」/『ひき裂かれた自己』』では、主著である『引き裂かれた自己』をかなり詳しく解説し、それは、分裂気質の者のあり方を、これ以上ない程に内面深く切り込んで、鋭く分析していることを明かにしている。ただし、それは、否定的な面のみに偏り過ぎて、問題もあることを指摘した。

そして、『「疎外」からの「逸脱」/『経験の政治学』 』では、レインが、その問題を大きく修正し、分裂病体験は、「霊的な旅路」として、現状の行き詰まりの突破となり得ることを明確に示したことを、大きく評価した。そこには、レインの、「正常」といわれる状態こそ、現代の「疎外された社会」での適応状態に過ぎず、そこからの逸脱は、むしろ、その疎外された状態の突破の契機となる、という認識も大きく働いている。

とは言え、レインは、『引き裂かれた自己』でみた分裂気質の者のあり方を否定したわけではなく、分裂病体験の否定的側面も十分認めているのである。だから、決して、「狂気を美化」したのでもなく、分裂病が、単に、「家族や社会によって作られたもの」に過ぎないとしたわけでもない

このように、レインには、分裂病そのものへの深く鋭い視点が厳としてあり、その点で、他の反精神医学者とは一線を画す、ということも述べていた。

この度、ズビグニェフ・コトヴィチ著『R.D.レインと反精神医学の道』(日本評論社 )という本が出ていたので、読んでみた。これは、レインの思想の移り変わりや、その背景、他の反精神医学者との相違、キングスレイホールのような実践のあり様、レインへの批判などが、簡要にまとめられていて、参考になる。レインを読んだことがない人には、理解が難しいかもしれないが、読んだことがある人には、理解を深めてくれるものになるはずである。

著者の視点も、上のような私の考えに近く、大枠で納得できるものでもある。レインへの批判も紹介しつつ、それらの多くが、的を得ないものであることが、指摘されている。

主著『引き裂かれた自己』を高く評価する人は、後のレインの転換を、後退とみる人が多いが、決してそうとは言えないことも、指摘されている。ただし、著者が、後の転換の方を高く評価するのかどうかは、曖昧である。

病者と分け隔てなく共同生活をするキングスレイホールの実践も、失敗に帰したとみる人が多いが、レインにとっては、それは文字通り、社会の中での「実験的意味」だったので、何も、治療できることを標榜したわけではない。

晩年、レインは、分裂病の解説や治療からは離れて、詩人あるいは文学者に帰した観があるが、これも、レインにとっては、「分裂病者」よりも、「疎外された社会」の方が、絶望的に問題となっていたということで、理解できるはずである。

ところで、この本では、レインではないが、サースという反精神医学者の「病気」に対する見方が紹介されていた。サースは、レインのように、分裂病そのものへの深い切り込みはないようだが、「病気」という見方については、レイン以上に鋭い突っ込みがあったようである。

私の考えていたこととも重なる、重要なものなので、とりあげてみる。

サースは、「精神疾患」という言葉が隠喩に過ぎないと論じている。冗談の「趣味が悪い」(シック)とか経済が不振(シック)とかの意味でのみ、こころは病気(シック)となりうるのだ。」

端的に、「精神疾患」の本質をついた言葉と言うべきである。要するに、精神の病気というときの「病気」とは、身体医学で病気というときの「病気」を、精神の領域に比喩として借用した、「隠喩」に過ぎないということである。

例えば、経済が不振であるとか、冗談の趣味がよくないなどのときに、英語では、病気を意味する「sick(シック)」」が「隠喩」として使われるが、それと同じような意味で、精神の領域にも、「sick(シック)」 が使われるに過ぎないということなのである。

日本でも、同じように、「不調」とか、「具合が悪い」という意味で、「病気」や「病的」という言葉が、いろいろな方面で使われるから、これは理解しやすいことだろう。

何しろ、経済そのものや人の冗談に、何か実体として、「病気」というものがあるわけではない。それと同じように、精神の領域にも、「病気」なるものがあるわけではないのである。ただ、「隠喩」として使われているに過ぎないのだが、精神医学は、それを、実体としてあるかのように、みなしてしまったのである(あるいは、「敢えてみなした」のである)。

私も、「精神の病気」に言う「病気」とは、「たとえ」であるということを、記事で述べようと思っていたところなので、これは、まさしく、我が意を得たりというものであった。

ただ、私に言わせれば、そもそも「身体医学」にいう「病気」というのも、決して「実体」とは言い難く、相当に怪しい「観念」に過ぎない。ただ、仮に、身体医学に言う「病気」を認めたとしても、精神の領域でそれが使われるのは、その「隠喩」に過ぎないのだ、ということで理解してほしい。

 

2020年10月12日 (月)

一般の精神医学との相違を端的に示す図

「狂気」または「統合失調」について、一般の精神医学と私の説との相違を、端的に示す図を作ったので、掲げます。

 Photo_20201011235101
この図を通して、示したかったことは、「一般の精神医学」と「私の説」では、根本的と言っていい、方向性の違いがあるということです。それは、いかんともし難いもので、その溝は、以下に見るような、精神医学の前提が変わらない限り、埋めようがないものです。

一般の精神医学の前提は、「声」などの幻覚は、(客観的には)「存在しないもの」であるということです。それを、統合失調の者は、「存在する」もののように知覚するので、それ自体が、「病的」であり、病気の現われとしての症状だとするのです。

それが「病的」であるとは、それは、「虚偽」であり、「害悪」であり、「取り除かなければならないもの」ということです。そこで、その「原因」を探って、それを「取り除く」ための方法を、「治療法」として、確立しようとするのです。()

その原因を、「脳」の異常とみるのが、主流である、「生物学的精神医学」であり、それは精神領域の問題とするのが、精神分析や実存分析などの精神医学です。

主流である、「生物学的精神医学」では、現在も、統合失調者の脳や遺伝子に何らかの特徴をみつけることに血眼になり、それを「原因」とみなそうとします。しかし、本来、統合失調の者の脳や遺伝子に何らかの特徴がみつかったとしても、それが「原因」である必然性はないですし、そのことが、「病気」または「病理性」の証明になるわけでもありません。

ただ、「幻覚」とは「病的」なもので、「取り除かなくてはならない」もので、それは、「脳が原因」で生じているという前提を当然のものとして疑わないとき、そのような特徴が、「原因」として見出されたものとして、即断されてしまうのです。

それに対して、私の説は、「声」のような幻覚は、物質的な存在ではないが、「客観的に存在する」ものであるということです。図では、「非物質的存在」としていますが、「霊的存在」としてもいいです。

いずれにしても、それ自体は、存在するもので、それがあること自体が、「病的」なことでも、「取り除かなくてはならない」「害悪」でもないとみなします。

ただ、その客観的に存在するからこそ、人を捕らえる、大きな「力」を有する「幻覚」に、振り回されて、混乱し、あるいは、それに基づいて「妄想」を構築して、それを行動にも現すようであれば、確かに、「病的な振る舞い」となるということです。

そして、この場合は、「治療法」ではなく、「対処法」こそが問題なのであり、それは、「病的な振る舞い」をできる限り、抑えるということに尽きます。それには、「声」として現れている「幻覚」に、ただ振り回されるのではなく、見極めていき、その性質を十分に捉えることができるようにならなければなりません。何しろ、「取り除く」ことが問題なのではなく、「振り回されない」ことが問題なのです。

「声」は、客観的に生じているもので、現に「病的な振る舞い」を生じさせる、とりあえずの、はっきりした「原因」として、非常に重要な「とっかかり」です。それを、「見極める」ようにすることから、それまで知らないでいた、様々なものが、「見え」てきますし、さらにそれをとっかかりにして、それをもたらす内的な原因にまで踏み込むことも可能です。

「声」は、内的にあるものとの関連で生じているので、内的なものをみつめるきっかけにもなるのです。

それに対して、一般の精神医学は、ただ「幻覚」を取り除くことに一生懸命で、現に統合失調の者が、振り回されている、「幻覚」の内容に興味を示すことも、理解しようとすることもありません(ただの「虚偽」なので、その必要もないことになります)。それでは、なぜ、統合失調の者が、そんなにも、信じがたいほど、「振り回されている」のか、つまり、統合失調の者の陥っている状態そのものも、何ら理解しようとしないことになります。

今回は、一般の精神医学との相違を、端的かつ明確にするために述べているので、詳しくは述べないですが、結局は、その相違は、「声」=「幻覚」の捉え方が、180度異なることから、来ているということです。そして、それは、それが変わらない限り、溝が埋まらないような、根本的なことということです。

※ 11月2日 

 「幻覚」は、存在するのであろうと、存在しないものをあると知覚するのであろうと、「害悪」であることに違いないから、「取り除く」のが適切な処置であることは疑いない、と思う人も多いかもしれません。しかし、「幻覚または妄想という現象自体」を取り除くなどということは不可能なことで、「取り除く」(「修正する」というのも同じこと)とすれば、「幻覚や妄想を生む脳の部分または機能」ということになります。その発想は、結局は、ロボトミー(前頭葉摘出手術)と同じであり、幻覚や妄想を含む思考や感覚の働きの多くを「取り除く」ことにならざるを得ないのです。精神薬も、発想としては、その延長上にあるもので、実際に、幻覚や妄想というだけでなく、思考や感覚の多くの働きを鈍らせてしまうのです。

生物学的精神医学は、その精度をより精密にすべく、「原因」となる脳の部分や機能の探究を続けているのでしょうが、発想としては、やはりそれらの延長上にあるもので、厳密に「幻覚や妄想」という「害悪」だけを取り除くなどということは、あり得ないことです。

ところが、それでも、一般に、幻覚や妄想は、そのような「犠牲」を差し引いても、「取り除くべき」という、強い「忌避」の意識があるので、そのようなことが顧みられることはないというのが、現状です。この、「幻覚や妄想」に対する「忌避」の意識の背後には、「オカルト的なもの」への「忌避」の意識があるということも、何度も述べているとおりです。

 

2020年7月 1日 (水)

「常識」ではなく「共通感覚」からの逸脱

記事『「狂気」と「唯物論」』で、「組織に迫害される」などの「妄想」を信じることは、「何か、常識というか、一般の感覚を大きく逸脱して、「一線を超えてしまった」感じを与え」ると言いました。ここで、「常識というか、一般の感覚を大きく逸脱して」というのは、正確には、「常識<ではなく>、一般の感覚を大きく逸脱して」というのが正しいです。

「常識」というのは、実は、「妄想」というのと本質的には変わりなく、「一般に共有された妄想」とも言い得るものです。「妄想」というのは、端的には、一つの、「思い込み」であり、「決めつけ」ですが、それは「他の可能性を排除すべく、動機づけられ」て信じられる、ということがポイントでした。

「常識」というのも、まさに、そのように、「他の可能性を排除すべく、動機づけられ」るからこそ、あえて「形成」されるものです。そして、「決めつけ」的な作用を及ぼすのも同じで、一旦「常識」として形成されれば、周りの者にも、それこそが「正しい」ものとして、事実上押しつけられていきます。

ただ、それが、「妄想」のように、個人的なものではなく、他の多くの者と「共有」されているので、「妄想」とはみなされずに、強力に、その作用を発揮するのです。

だから、「妄想」の方も、そのように、他の多くの者に共有されて、「常識」のような位置へと近づくことを目指します。それで、ことさら人に訴えかけられるのですが、それゆえ、逆に、多くの者の、排除の抵抗を受けることにもなるのてす。

言い換えると、「常識」というのは、「感覚」レベルのものではなく、観念レベルで形成された、「固定化」されたものだということです。「組織に迫害される」などの「妄想」を聞いて、「おかしい」と感じるのは、このように観念的な「常識」によるのではなく、もっと「感覚的」なレベルでの(感性的な)反応と言うべきなのです。

中村雄二郎という哲学者は、『哲学の現在』(岩波新書)という本で、「常識」としてできあがったものは、固定化された融通の効かないものですが、その形成の元となるものに、「共通感覚」というものがあると言います。それ自体は、五感を超えた統合的、全体的な感覚で、「常識」として観念化される以前の、生きた働きです。「常識」という言葉の元となった、「コモンセンス」には、この意味があると言います。

「組織に迫害される」などの「妄想」を聞いて、「おかしい」と思うのも、このような意味の、「共通感覚」によると言っていいと思います。それは、必ずしも、明確に「観念化」して説明できないけれども、感覚的なレベルでは、「おかしい」ということを、明白に、動かし難いものとして感じるのです。

あえて、それを観念的な形に表現するとすれば、

1「組織に迫害される」と言うが、そんなことは、あり得るとしても、余程のことであるが、その者に、それだけの理由があるとはとても思えない。
2「組織」に迫害されるという方法が、そのような高度な組織のやり方としては、あまりにもちぐはぐで、現実離れしている。
3  何よりも、それだけ、普通はどう考えても「あり得ない」事柄を、単に可能性としてではなく、事実として、信じ切って疑わないのが、信じ難いことで、「おかしい」。

といったことになると思います。これは、統合失調的な 「妄想」だけでなく、最近の「集団ストーカー被害」を訴える人にも当てはまることでしょう。

ところが、「妄想」を訴える人は、自分の妄想を、「そういう組織には、それだけの技術があるのだから可能なのだ」というように、「観念的」なレベルで、つまり、「感覚」に訴えるのではなく、「常識」に寄せて、論理に訴える形で、説明しようとするのです。それで、ますます、多くの者にとっては、感覚的レベルとの齟齬が激しくなり、「おかしい」という思いを強めることになるのです。     

「妄想」が、このように「常識」に寄せて、観念レベルで訴えかけようとするのは、先にもみたとおり、必然のところがあり、まさに、「常識」に反すること、かけ離れてしまうことを、恐れるがゆえなのです。一見、常識から逸脱するようにみえても、実は、そうではなく、「常識」に適っているのだということを、躍起になって説明しようとするのです。

ところが、皮肉なことに、論理的に、常識レベルに訴えかけるほど、一般の「(共通)感覚」との齟齬を強めてしまう結果になるのです。

実を言うと、一般に対して、「常識に反する」という形の反応(反感)を呼び寄せるのは、私のように、統合失調の基礎には、「霊的なもの」が働いているなどという説明の方です。現在は、大分変わって来ましたが、まだまだ、「霊的なものがある」とか、さらに、それが「統合失調の基礎にある」などというのは、「常識」からは逸脱したものです。だから、このような説の説明は、「常識」として形成されているものの、観念や論理の危うさをついて、それを問い直すことを通じて、訴えかけるしかありません。

一方、一般の方も、このような説は、「常識に反する」ので、信じ難いとは思っても、「妄想」の場合のように、共通感覚的に、「おかしい」というのとは、また違った反応になります。

そして、この場合の「常識」というのは、記事『「狂気」と「唯物論」』でもみたように、「唯物論的な発想」ということになります。必ずしも、「唯物論」そのものとして、積極的に「物質的なものだけが存在する」と信じられているのではなくとも、その方向に沿うような、近代社会一般に浸透している発想です。

「組織に迫害される」というような「妄想」を訴える人は、感覚レベルでは、とにかく、これまでの日常に照らして、信じ難いような、「尋常でない」ことが身に起こっているということは、疑いようもなく感じています。それが、本当は、「常識」に反する、何か「未知」の事柄である可能性も、どこかで感じているはずなのです。

しかし、それを認めることができない故、それは、決して「常識に反する」のではなく、「組織による迫害」など、「常識」の延長上に理解できるものとして、「常識」を信じる側に、訴えかける必要があるのです。本当は、そうすれば、そうするほど、かえって、「無理」を押し通し、共通感覚的な「おかしさ」を招き寄せることになるのですが、それには、目をつぶって、そうする必要があるということです。()

「妄想」は、単純な「病気の症状」などではななく、このように、世間一般に信じられている、「常識」との関係で生じるもので、また、そこから逸脱することの恐れということが、深く影響していることを、改めて認識する必要があります。

「妄想」を訴えかける人、あるいは「集団ストーカー被害」を訴えかける人にアドバイスがあるとすれば、「組織による迫害」など、解釈または観念のレベルで、「決めつけ」的に訴えかけるのではなく、感覚レベルでどういうことが起こっているのか、まずはしっかりと説明することです。

普通は信じられないかもしれないが、「自分のことが周りの者に知られている」と<感じる>とか、行きかう人が、いろんなことを言ってくると<感じる>。あるいは、とても偶然とは思えない頻度で、人が自分につきまとっていると<感じる>などです。

恐らく、それを訴えても、「そんなのは気のせいだ」とか、「思い込みだ」と言われてしまう可能性が高いし、「病気だから病院に行った方がいい」(これは、「共通感覚的な反応」ではなく、まさに「常識という固定観念」による反応ですが)という人も出てくるでしょう。

「妄想」を訴えかける人は、このような反応が多いからこそ、そのレベルではなく、「常識」に寄せた、「組織による迫害」という解釈、観念のレベルで訴えようとするのですが、それが先にみたとおり逆効果で、ますます一般には、受け入れられることがなくなるのです。

感覚レベルで訴えかけることのリスクが高いのは、理解できますが、世間一般ということではなくとも、家族など、どうしても理解してほしい人には、そのレベルで、起こっていること、感じていることを、率直に訴え続けるしかないのです。多くの人でなくとも、ある一定の人たちは、(それを事実として認めるかはともかく)「そのような感覚を持っているがゆえに苦悩している」ということは、必ず理解してくれるものと思います。

いずれにしても、私に言わせれば、「妄想」を訴えかける方も、世間一般の方も、唯物論的な発想という「常識」の土俵の上で、やり合っていますが、それでは、互いにかみ合うことはなく、決して埒はあかない、ということです。

この場合には、唯物論的な発想という「常識」そのものを、問題とする必要があるのです。

※ 共通感覚的に「おかしい」ということを「共有」できず、逸脱してしまう理由を、動機のレベルから説明すれば、こういうことになります。しかし、感覚レベルでいえば、「妄想」の基礎にある感覚レベルでの体験には、強烈なリアリティを感じており、それが共通感覚的に「おかしい」ということを上回っているからです。このリアリティは、あくまで感覚レベルの体験にあるものですが、「妄想」として観念レベルに築かれたものに対して、働いてしまっているわけです。

 

2020年6月14日 (日)

「絶望の果てでの笑い」

船瀬俊介著 『できる男は超少食』に、面白い話があったので、紹介します。

「ひどいうつ病の男がいた。もう死にたくなって電車に飛び込もうとしたが、痛そうなのでやめた。ビルから飛び降りようと思ったが怖くてやめた。首を吊るのも苦しそうだ。そこで、何も食べずに餓死することにした。ところが、3日、4日と食べないうちに、不思議と心が澄み切ってきて、なぜだか生命力がわいてきた。そして、死ぬのが馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった。」

なんと、死ぬつもりの断食で、うつ病が治ってしまったのです。だから、うつ病患者に私はこうアドバイスしたい。
「自殺するなら断食に限りますよ!」

笑ってしまいますが、実は、私が統合失調状態から回復したのも、これに近い話と言えば言えるのです。

記事では、「闇との遭遇」あるいは「一体化」という、大層な出来事によるように書いていますが(それ自体は決してウソでも誇張でもないですが)、結局、本質的なところは、このような笑い話に近いというのが、偽らざるところでもあるのです。

「馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった」というのがポイントです。

私も、回復に向かう寸前の状況では、永遠に「悪魔」の呪縛から逃れることはできない。世界ももはや「終わり」を迎えようとしている。という、絶望的な気分になって、自殺を考える状態でした。自殺すれば、悪魔を「道連れ」にできるかのような幻想もありましたが、考えてみれば、そんな保証はあるはずもありません。結局は、自分もますます「あの世」で、呪縛されるだけで、解放される望みもなく、この「世界」も、だた空しく終わるだけということに気づかざるを得ませんでした。

そんなときに、「闇との遭遇」あるいは「一体化」が起きたのですが、それは、端的に言うと、私が「終わる」とか、「悪魔に呪縛される」とか言っていた「世界」そのものが、実は「無」だったということを示すものでもあります。それまで、いやというほど囚われていた「世界」の本質が、そのとき、その姿を如実に現わしたのです。その瞬間は、そのように、「知的」に認識したわけではありませんが、そのことは、一瞬の体感により、疑いようもなく、感じ取られたことです。

そして、私も、すべてが「馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった」のです。

そうしたら、それまで延々と悩まし続けられた、統合失調状態そのものが、どこかに行ってしまっていたのです。その瞬間は、それまでずっと呪縛され続けていた、どうしようもない状態が、まるで、何事もなかったことかのように感じられました。

その後も、たとえば、「声」や、「捕食者」のような存在の働きかけがなくなったわけではありませんが、そんなことは、大したことではなくなってしまったのです。少なくとも、それに囚われて、落ち込むということはなくなりました。

要するに、その内容や具体的な経緯は、どのようなものであれ、結局は、「絶望の果てでの笑い」ほど、回復の効果のあるものはないということですね。

 

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