ここで、例として、ハイデガーの思想に依拠しつつ、現存在分析の方法を創始した著名な精神病理学者ビンスワンガーの捉え方を、少しとりあげてみたい。
ハイデガーは、世界の中に投げ出されてある、「世界-内-存在」としての人間のあり方を問題にするので、フッサールの現象学以上に、実存主義的な傾向が強い。世界の根底に「虚無」を見るような見方を継承しているということだが、しかし同時に、ハイデガーは、そこに自由または主体性の根拠もみており、だからこそ、人間は常に「開かれて」あり、それを超えて行く可能性があるのだともしていたようである(ハイデガーについては、いずれ『存在と時間』をじっくり読んでみるつもり)。
しかし、それが人間にとって大変な営為であることに変わりなく、そのようなあり方に「挫折」して行き詰まり、根底の「虚無」に絡めとられたような状態に陥る者もある。ビンスワンガーは、それこそが、「統合失調状態」だとしていたようである。
『精神分裂病』という本の序文にまとめられたものによると、それは、次のよう言われている。
1 病者は、世界に適合して生きることができず、その体験世界は一貫性を失う。
2 この非一貫性を補填しようとして、奇矯な(思い上がった)理想形成を試み(たとえば自分が世界の中心にいるといった妄想などを形成して)、この理想形成と現実とのギャップに直面してその二者択一に迫られる。
3 病者は、ついにはこの二者択一という危機状況に耐えられず、現実から逃避し、自己決断を放棄して自らのすべてを他者にゆだねてしまう。
そうやって、自己という「主体」を失うことが、「世界-内-存在」としてのあり方に挫折をもたらすということだろうが、このこと自体は、分裂気質の者が、「分裂病的状況」に入っていく契機を、鋭くついていると言うべきである。(※1)
世界に適合できず、体験世界の一貫性を失うからこそ、そのような日常世界の様相が壊れ、根底の虚無を開くことになるのだし、分裂気質の者が、現実性の薄い、思い上がった理想形成に邁進しつつ、現実とのギャップに引き裂かれることを繰り返すのは、分裂気質の者の特徴として、これまで何度も述べて来た。ユング派的に言えば、「永遠の少年」であり、坂口安吾は、精神病院で分裂病者に接してすぐに、分裂気質の者のこの特徴に気づいている。(記事『『精神病覚え書』について』参照。)
そして、そのようなあり方に行き詰まり、ついには自己の決断(主体性)を放棄するように投げ出すことが、分裂病的状況に入っていく決定的契機になることは事実なのである。
また、ビンスワンガーは、「現存在の失敗の三様式」として、「奇矯(思い上がり)」、「ひねくれ」、「わざとらしさ」をあげているが、これも、鋭い指摘で、興味深い。
「思い上がり」は、「奇矯な理想」というだけでなく、「誇大妄想」にはもちろんはっきり現れ出るし、「迫害妄想」にも、その裏面として潜むものである。「ひねくれ」は、世界あるいは集団への不適合故に、自己の反動あるいは防衛反応として、おのずと身につけられたものということができる。「わざとらしさ」は、にも拘わらず、分裂気質の者が世界や集団に対して、ぎごちなく(他者をまねるようにして)適合的な態度をとろうとするときに、どうしても出てしまうものである。
これらのビンスワンガーの指摘は、一見分裂病者を揶揄するかのようだが、確かな視点ではあるのである。
また、「わざとらしさ」はともかく、「思い上がり」や「ひねくれ」は、まさにシュタイナーの言う「ルシファー的な性向」そのものであることにも、注目される。
ただ、松本雅彦『精神病理学とは何だろうか』も指摘するとおり、ビンスワンガーのこれらの「了解」は、いかにも否定に偏った見方であろうし、これらの了解が、どのように分裂病者の「治癒」に結びつくのかも、見えてこない。
シュタイナーは、「ルシファー的な性向」に対して、「アーリマン的な性向」が働くことによって、ルシファー的な傾向は、いわば刈り取られ、結果として均衡がもたらされると言うのだが、まさにそのように、「分裂病的な状況」そのものに着目すれば、その過程自体に、具体的な治癒的な働きが伴っているとも言えるのである。
しかし、ビンスワンガーには、「分裂病的状況」という「水平的方向」への視点がないため、そのような理解は欠いているのである。
また、ビンスワンガーは、「幻覚」や「妄想」について、「無気味なもの」という言い方で、それらをもたらす何ものかを「予感」しているようではあるが、それ以上に、「実体的なもの」としては踏み込まないため、「幻覚」や「妄想」について、具体的な了解に至ることはないようである。
しかし、「分裂病的状況」にあっては、本人は、それらの現象によってこそ、その状況に閉じ込められているようなものなので、その状況を脱け出すという現実的な問題に照らせば、それらの現象を、いくらかでも具体的に了解することが必要である。実際に、「虚無」に絡めとられるというだけでなく、「水平的方向」において、「実体的な存在」の影響を受けて惑わされているということの自覚なくしては、具体的に、そこからの脱け出しということは、難しいのである。
そこでも、垂直的な方向の問題は、依然残るだろうが、まずは、水平的な方向への閉じ込めから抜け出せない限り、そのような問題に対処する可能性も見出せないのである。
ビンスワンガーの「了解」が、具体的な治癒に結びつかないのは、そのような視点を欠いているからと言うほかないだろう。
前回述べたように、「垂直的な方向」については、鋭い視点から見据えていて、分裂病者のあり方に一定の鋭い「了解」がもたらされているが、「水平的方向」の視点を欠いているので、それが十分具体的にならず、効果を発揮しないのである。
もう一人、木村敏の例を挙げたいが、木村については、既に記事『「あいだ」の病/『心の病理を考える』』と次の『「あいだの病」とその「乗り越え」』で、十分と言っていいほどに論じていた。R.D.レインとともに、分裂病の理解に最も近づいた一人として、その意義を認め、しかし、やはり足りない面があることを、指摘していたのである。
ただ、今回改めて、気づいた面もあるので、それを補足する意味でも、少しとりあげてみたい。
木村は、分裂病を、対象としての人や関係からではなく、「あいだ」という観点から捉え、その「あいだ」がうまく機能していないために、自己が成り立っていかないのだとした。その「あいだ」には、「水平的方向」と「垂直的方向」があり、垂直的方向では、「ゾーエー」と呼ばれる普遍的生命との関係で、自己の「個別化の原理」が阻害されている。この「ゾーエー」は、「絶対他者」ともいうべき、自己の根底に働くもので、本来「虚無」とも言い得るものだが、木村は、あくまで「生命の源泉」という視点から、肯定的に捉えている。そのため、それを特に意識することなく、無自覚的にも、「アクチュアル」に生きている一般の者に対して、そこからいわば疎外されることになってしまう分裂病者という対比になっている。
私は、記事『「あいだの病」とその「乗り越え」』で、木村も、そのように「正常人」と対比する視点から、やはり分裂病者に対しては、否定に偏する見方になっていることを指摘した。しかし、『異常の構造』(講談社現代新書)という著書で、木村は、「正常」と「異常」について次のように明確に述べている。
「私たちが自明のこととして無反省に受けとっている「正気」の概念は、みずからが拠って立っている常識的合理性を脅かすいっさいの可能性を、「狂気」の名のもとに排除することによってのみ存続しうるような、きわめて閉鎖的で特権的な一つの論理体系を代表するものにすぎないことが明らかとなった。」
「つまり分裂病を「病気」とみなす見方のうちには、暗黙のうちに、さきに述べた「多数者」と「常態」との読みかえがおこなわれ、「異常」から「病的」への意味変更がおこなわれているのである。そこには、異常をなんとかして合理化することによって異常に対する不安をまぬがれようとする、人間の知恵がはたらいているのかもしれぬ。あるいはまた、分裂病を病気とみなしてこれに「治療」を加えることにより、異常を排除する「正常者」のやましさがすこしでも軽減するからなのかもしれない。」
ここでは、「正常」と「異常』というのは、「多数者」と目される側からの、いわば恣意的な区別に過ぎず、その「正常」の根拠としての「常識的合理性」を守るための、「排除」の論理に過ぎないことが、はっきり述べられている。だから、木村は、決して、「正常」を肯定的に、「異常」を否定的に捉えているということではないことが、改めて確認される。
しかし、また次のようにも述べられている。
「しかし、だからといって私たちはどうやって常識的日常性の立場を捨てることができるのか。それはおそらく、私たち自身が分裂病者となることによる以外、不可能なことだろう。私たちは自分が「正常人」であるかぎり、つまり1=1を自明の公理とみなさざるをえないでいるかぎり、真に分裂病者を理解し、分裂病者の立場に立ってものを考えることができないのではないか。」
「私たちにできるのはたかだかのところ、この常識的日常性の立場が、生への執着という「原罪」から由来する虚構であって、分裂病という精神の異常を「治療」しようとする私たちの努力は、私たち「正常者」の側の自分勝手な論理にもとづいているということを、冷静に見きわめておくぐらいのことにすぎないだろう。」
つまり、分裂病に対してこれだけ身を寄せる木村にしても、やはり「正常人」の側として、常識的日常性の立場を捨てることができない限り、分裂病者を真に理解することはできないと認めているのである。
木村の「あいだ」の観点からの理解は、非常に鋭いと思うし、その「根底」に働くものへの「絶対他者」的な視点は、他の精神病理学者(特に西洋の)にはない、独特のものがある。それは、日本人ならではの、「おのずから」と「みずから」の一致という伝統的なあり様を、改めて顧みさせるものでもある。
しかし、その木村にしても、やはり「水平的方向」の理解を欠いているために、真に具体的な理解にはなっていないと言うべきだし、それは、先にみたように、本人自身も認めるところということなのである。
このことは、結局、多くの精神病理学者に当てはまるはずのことで、ヤスパースが試みたように、あるところまで「了解」できても、それ以上は「了解」できないという「壁」を認めざるを得ないということである。そしてそれは、そのような「壁」などないかのように、安易に「了解」を標榜する者などより、よっぽど謙虚で率直な態度と言うべきなのである。
ヤスパースも、「実体的意識性」ということに初めに注目した者であり、どこか、手の届き難い「未知のもの」を予感していたからこそ、「了解」の壁を強く感じざるを得なかったのではないかと思う。ただし、その壁を、「客観的な説明」に頼ることで補えるかのようにみなしたことには、やはり、そのような発想も、中止半端に抑制されてしまったことを感じざるを得ない。
いずれにしても、ここには、私が前々回述べたような、また木村が言うような、実際に経験した者と経験していない者との「壁」が、確かに横たわっている。それは、近代という時代の現時点においては、確かに、「容易には」越えがたい壁なのである。
しかし、私が、「水平的方向」ということで、述べている事柄は、決して今後誰にも理解できない事柄なのではない。それは繰り返し述べているように、「近代」が「神」や「合理性」以前に強力に排除した事柄なので、そのことを真に顧みるなら、それを改めて掘り起こし、理解の俎上に載せることもできないことではない。
特に、そのような事柄は、先住民文化の「シャーマニズム」として現に普遍的に生きられて来たものであり、現在もかなりの程度残されていることを考えると、そこから改めて学び直せるものは多くある。
「了解」の壁は、そのような方向が見直されていく限り、意外と越えられるものとなることも予想されるのである。
※1 「世界-内-存在」という言い方は、「世界の内に投げ出されてある」という実存状況を表すとともに、次のような意味合いも含むものと思う。
通常、自己と世界は別にあり、自己の外に世界というものがあると思っている。しかし、「世界-内-存在」とは、世界と自己とが別にあるものではなく、同時的に、結びついてあることを示している。だから、「世界-内-存在」のあり方が挫折し、主体性を失うことは、自己の崩壊であるとともに、即世界の崩壊でもあり、世界の崩壊は、即自己の崩壊を意味することになる。
そのような状況が、分裂病者の陥る状況を、本質的、抽象的に鋭く言い表しているのは、まさしくそのとおりである。しかし、それが、病者の陥った、個々の具体的な状況を十分に言い表すものとは言い難いであろう。
※2 4月15日
精神病理学に欠けている見方をもう一つあげると、それは「西洋近代」を相対化するような文化的視点だと思う。病的状態とそうでない「正常」の状態の差異を、「垂直的」な方向の実存的なあり方に即結びつけてしまい、その差異が「近代社会」という文化のシステムによって作られるという面をみることに欠いていたのである。この点は、西洋近代以外の文化を「遅れた」もの、「過去のもの」とみる視点が一般に浸透していて、他の文化を対等な「異文化」として顧みる余地がほとんどなかった当時の時代状況として、致し方ないものはある。
そのようなことは、文化人類学など、先住民文化を、西洋近代とは異なる「異文化」として学ぶという視点が出て来て、やっと可能になったことである。実際、「シャーマニズム」等、先住民文化から学ぶことによって、統合失調状態のかなりの部分を見えやすいものにすることができるのだが、この点は、次回に再び述べようと思う。
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