文化・芸術

2020年8月29日 (土)

「MIB」/「集スト」と「想念形態」

前に、記事『要は「非-人間的なもの」/「MIB」』及び『「MIB」のその後と「集団ストーカー」』で、「MIB」(黒服の男)と呼ばれる存在は、オリオン星人の物質化したもので、現在は、「集団ストーカー」的な仕掛けを行っている可能性があることを述べました。

また、記事『「ハイブリッド」と「集団ストーカー」』では、ネガティブな宇宙人と地球人のハイブリッドが、「集団ストーカー」的な仕掛けに利用されるという可能性について述べました。

これに関連して、最近読んだ『ラー文書』(ドン・エルキンズ他著 ナチュラルスピリット )というチャネリングものの本に、「黒服の男」について、興味深いことが述べられており、それに、より説得力を感じたので、これを紹介しつつ、「集団ストーカー」的な仕掛けについても、改めて考察してみたいと思います。

「ラー」という存在は、名前のとおり、地球の古代エジプト文明にも多くの影響を与えた、宇宙の集合意識体ですが、このチャネリングセッションはかなり古くて、1960年代から80年代のものです。

全体の内容は、他のチャネリングものと比較しても、十分頷ける内容であり、年代的に近いこともあってか、ジーナ・レイクのチャネルする存在とも近いものがあります。ただ、これも時代的な制約もあるのでしょうが、説明が、抽象的で、簡潔に過ぎるものも多くあります。

「黒服の男」ついても、簡明、簡潔に述べられているだけですが、次のように言われています。

「オリオンの活動家たちは、いわゆる彼らの命令を実行する二種類の存在を使っています。ひとつは想念形態的な存在で、もう一つはある種のロボットです。

「黒服の男」は想念形態タイプの存在ですが、実在するかのような性質をいくつか持ち合わせています。彼らには付与された特定の物質的特徴がありますが、彼らの本当の波動的性質の中に第三密度の波動的特徴はありません。それで彼らは必要に応じて物質化や非物質化ができるのです。」

「黒服の男」は、(ネガティブな)オリオン星人が直接物質化した存在ではなく、オリオン星人が使用する、「想念形態的な存在」ということですが、こちらの方が正しいと思います。

宇宙人が、直接物質化すること自体はありますが、「黒服の男」という、人間をからかう「ゲーム感覚」の行いに、わざわざ直接物質化するのは、不必要なことであり、リスクが高過ぎることでもあるでしょう。

「想念形態」(「エレメンタル」)については、私も、記事で何度か述べています(たとえば『「分裂病」と「エレメンタル」(生き霊)』、あるいは『オカルトの基本を学ぶ』の『「生き霊」と「想念形態(エレメンタル)」 』)が、要は、霊的な領域に存在せしめられた、想念の実体化した存在です。

「黒服の男」も、本来、この第三密度的(物質的)な現実に実体を有するものではなく、ただ、創出された「想念形態」が、物質的な領域に、投影され、物質化されたものに過ぎないということです。それが、背後で、創出した、オリオン星人自身に操られているのです。

私は、記事『「ハイブリッド」と「集団ストーカー」で、宇宙人とのハイブリッドと思わしき存在と遭遇したことを述べましたが、この存在も、むしろ、「黒服の男」と同様、「想念形態的な存在」と解した方がピッタリ来ます。

記事では、人間とは異質にしても、どこか「虚弱な雰囲気が漂う」と言いましだか、本当に、物理的な実体というには、現実味が欠けており、儚い存在という感じだったのです。私に意識させるべく、明らかに「つきまとい」ましたが、話しかけるなどの現実的な行為は行っていないことも、そう思わせる理由の一つです。

ハイブリッドであれば、「半分」は人間であり、物理的な実体という面があるのですから、もっと、強い現実味があったと思います。

「想念形態」というのも、生命的な実体をもつもので、本人から分離した意識をもつのではありますが、それは、本来の存在に比べると、やはり、希薄なものです。人間の場合、「生き霊」というのが、これに当たることは前に述べました。

このような「想念形態」も、対する者が、これに、感情的な反応をするなど、力を注ぎ込むと、力を得て、強力な存在性を発揮します。が、そうでなければ、さほど強い存在性をもちません(それ自体は大したことがなくとも、対する者の想像や恐怖に訴えかけることで、力を発揮するようになるという意味では、これもコロナウイルスなどと同様、捕食者好みの存在と言えます)。

生命のない、ただの「ホログラム」の投影というのとは、異なりますが、それに力を与えない限り、実質は、それとあまり違わないものと思ってもいいものです。

ただ、知覚的には、物質的な存在と同様に見えるのだし、その振る舞いの奇妙さ、つきまといなどの嫌がらせ、怖がらせを受ければ、(現実の人間によるものとして)恐れたり、怒りをもってしまっても、不思議はありません。「想念形態」というものにも、しっかりとした知識をもち、このようなものを、見抜いていけるようになることが重要です。

このような存在は、「集団ストーカー」の仕掛けとしても、かなり利用されていると解されます。

何度も言っているように、この現象の基本は、観念を信じ込むことでなされる、錯覚や誤認。そうでなくとも、人間の操作や偶然を超えた共時性の演出、あるいは、引き寄せ的な現象による場合が多いことに、違いはありません。しかし、想念形態の物質化ということなら、現実に存在するハイブリッドの利用より、容易にでき、しかも、より直接的に意のままに操作できるので、現実に仕掛けられるという場合は、より多く見込まれるのです。

ハイブリッドの利用ということで想定した場合より、かなり多くを見込めることは確かということです。

ただ、このような「想念形態」では、こちらが反応して、力を与えないと、大した効果を発揮できないことを考えると、これからの可能性としては、やはり、現実のハイブリッドの利用ということも、考えておかなくてはならないことだとは思います。(「ラー文書」のセッションの頃には、まだこのような可能性は現実化していなかったので、それについては述べられていないと思われます。)

2020年8月14日 (金)

バシャールのウイルスと免疫に関する言葉

前回、新型コロナウイルスは、「感染しても、症状に現れない場合が多く、現れても、かぜまたはインフルエンザ程度のもので、重症化するのは、高齢者か、もともと持病があったり、免疫力を弱らせている場合」だと述べました。

要するに、ウイルス自体が直接重い症状をもたらすというのではなく、何らかの理由で、既に免疫等の体の機能が弱っている場合に、そこをついて、それを拡大させることによって、大きな症状をもたらすような性質のものということです。

実は、大分前になりますが、宇宙存在のバシャールが、コロナウイルスということではなく、ウイルス一般の性質として、そのあたりのことを見事に説明することを述べていますので、それをあげてみます。(『未来人に教えてもらった病気の秘密』おのころ心平×バシャール著 Voice)

「ウイルスにはインテリジェンス(知性)があり、すでに免疫系を弱くしている要因となっているものの波動をまねします。いってみれば、元からある原因となっている原因にただ乗りしているのです。その結果、ウイルスは少ない労力で人の免疫系を抑圧し、そのことで体内のより多くのエリアに蔓延することができるのです。

だからこそ、何によって免疫系が弱っているのかを知る必要があります。たとえば毒素なのか、ストレスなのか、あるいはその複合なのか、あるいは別の理由なのかがわかると、逆に、身体にとって必要なものがわかります。すると、ウイルスはあまり効果を発揮できなくなります。」

繰り返しますが、新型コロナウイルスだけでなく、ウイルス一般にこのような性質があるということです。その意味では、新型ウイルスは、特殊なウイルスというよりも、本来のウイルスの性質、本質を、より露にしているウイルスということができると思います。

そして、このように、内部の元々弱まっている部分に働きかけて、それを増幅させ、拡大し、外に現すことによって、混乱や問題を起こさせるというあり方は、これまでみて来たとおり、まさに「捕食者」のあり様そのものです。その意味でも、ウイルスには、「捕食者との本質的類似性」があるといえます。

それは、ある意味で言うと、我々の気づかない内部の問題(原因)を、外に取り出すことによって、「見せてくれる」ものとも言えます。それに対処することができれば、捕食者にしても、ウイルスにしても、「あまり効果を発揮できなく」させることができるということです。

さらに、新型コロナウイルスでは、「サイトカインストーム」という免疫の暴走反応が引き起こされることが知られています。本来、侵入した異物を攻撃すべき免疫機構が、暴走し、自分自身の細胞を攻撃してしまう現象です。

バシャールは、さらに、これは、リウマチ等の自己免疫疾患について言われたものですが、この、ウイルスによる免疫の異常反応についても言えるはずのことで、注目すべきことを言っています。それを、あげてみます。

「自己の内側では自分自身に対する抵抗があるために、ウイルスやバクテリアという日和見的な病原体に抵抗するエネルギーが不足するのです。

自分が真実であると思い込んでいる観念を維持するためにエネルギーをたくさん使うので、自分の免疫系に回せるエネルギーの量が減り、その結果、免疫系が弱くなり、外の病原菌に対して弱くなるのです。」

「つまり。免疫系は、免疫系にエネルギーを送ってくれない<あなた>を攻撃して、<わたし(免疫系)>に必要なエネルギーが流れてくるようにしようとしているのです。

別の言い方をすると、<あなた>がものすごく調和に欠けた状態なので、<あなた>自信が病原体のようになってしまっているのです。しかも、どの病原体よりももっとも優先度の高い病原体と認識され、免疫系に攻撃されるのです。」

最後の、「免疫系に自分自身が<病原体>と認識されて、攻撃される」というのは、かなり衝撃的な言葉ですが、自己そのものが攻撃されるということに、「内部的な理由」があるとすれば、やはり、そういうことになるのでしょう。

これも、ウイルスそれ自体が引き起こしているというよりも、ウイルスが「内部的な原因」をついてくるということで、起こっているということがポイントです。

バシャールがあげているのは、「自分自身に対する抵抗」あるいは、それとも関連して、「自分が真実であると思い込んでいる観念を維持するためにエネルギーをたくさん使う」などの「不調和」の状態です。

最後に、病気または災害全般についても、バシャールらしく、ポジティブな意味を述べていますので、それもあげておきます。

「病気、あるいは災害を生き延びてきた人は、なんらかの形で、必ずその前より強くなっています。その結果、人類の進化に貢献するわけです。」

「奇跡的な治癒を果たした人は、かかる前とはまったく別人になります。治った後は、一度もその病気になっていなかった別人になるのです。」

私も、統合失調状態を「くぐり抜け」て、前の自分と100パーセントではないですが、多くの面で、「別人」になったと感じています。相変わらず、「どうしようもない」面が存続していることに気づいて、愕然とすることはありますが、それも一時的なもので終わることがほとんどで、概ね「変化」したといえると思うのです。

 

2020年7月30日 (木)

「捕食者好み」のウイルス

捕食者とウイルスの、本質的な類似性については、このブログの最近の記事でも、また、『オカルトの基本を学ぶ』の『「捕食者の心」と「ウイルス」』という記事でも、述べています。

それにしても、現在騒がれている、新型コロナウイルスは、格別に「捕食者好み」のウイルスということが、言えそうです。

捕食者は、それ自体の作用というよりも、人間に、実体のはっきりしない、曖昧な現象を仕掛けて、自ら、想像力とイメージを膨らませることにより、恐怖と不安に陥らせて、そこから抜け出られないような事態を創出することを好むことは、何度も述べたとおりです。

それは、「統合失調状況」においても、「集団ストーカー被害状況」においても、典型的に、みられることでした。

ところが、今回の、コロナウイルス騒動にも、この要素が、存分に発揮されているとみられるのです。

もともと、ウイルスは、「目に見えない」もので、どのように感染し、どのように作用するのか、実体の見えにくいものではあります。しかし、今回のコロナウイルスは、これまでのウイルスに比しても、より実体のはっきりしない、曖昧なものといえます。

感染しても、症状に現れない場合が多く、現れても、かぜまたはインフルエンザ程度のもので、重症化するのは、高齢者か、もともと持病があったり、免疫力を弱らせている場合です。(※1)

それ自体は、大したことがなく、騒ぎ立てるほどのことはないはずなのですが、今回は、様々な要素が絡んで(※2)、不気味な恐怖が膨らまされ、割とスムーズに、騒動に結びつけられていると思えるのです。また、収束しそうで、なかなか収束せず、長い間、じわじわと、実体のはっきりしない恐怖を醸し出し続けています。

もちろん、マスコミや政府機関、御用学者等の煽りの影響は大きいし、そこには、それぞれの思惑もあります。しかし、その背後には、捕食者の働きかけも大きくあり、それと相まって、元々、このウイルスの性質自体にも、「捕食者好み」の恐怖を煽らせる面が、多分にあると思うのです。

かつての、ペストや天然痘のように、強力で、はっきりした症状が現れるものも、もちろん、強烈なインパクトがあり、多大な恐怖をもたらします。しかし、それは、ある意味、「見たまま」、「そのまま」のものであり、そのとおり受け止めて、できる対処をするしかないものです。また、その恐怖は、「それ自体」がもたらすものなので、捕食者が、殊更作り出したものとは言えません。

ところが、今回のコロナウイルスは、一定の感染力はありますが、その症状はまちまちであり、はっきりしません。健康に自信がある人は、気にしないでしょうが、そうでない人は、不安になってもおかしくないものです。時代的、社会情勢的には、健康に不安な人が多くいるのも、不思議ではない状況です。

感染しても、症状に現れない人が多くいるということは、そこら辺の、普通に道行く人が、感染者かもしれないということでもあります。あるいは、自分自身も、症状に現れないでも、感染者として、人に移してしまう可能性があるということです。特定の症状に現れている人を、隔離すればよいというような、分かり易い対処の仕方では済まないものがあります。

それ自体が、大したことはなくても、人によっては、また長い間続く状況では、不安を駆り立てる要素には、事欠かないということです。さらに、そこには、ただでさえ人との関係にストレスを抱えている人を、ますますギスギスさせ、争いや疑いの種をもたらす要素が多くあります。マスクの着用や自粛の働きかけは、ますますそのような要素を、強めることになります。

実際、ストレスが免疫を弱めること、既にみたように、ウイルス自体も、恐怖の感情を自己増殖の促進材料にしていると考えられることからすると、そのような、不安や恐怖を駆り立てられること自体が、このウイルスが収束することなく、威力を発揮し続けることの、要因となっていることをうかがわせます。一種のループを形成しているということです。

その意味では、「集団ストーカー」という観念を広めて、人を疑心暗鬼に陥らせ、地獄的な事態から抜け出せなくすることと、非常に似たものがあります。

このように、それ自体は大したことなくても、人間自身の想像力に訴えかけることで、恐怖と不安を拡大させ、収拾のつかない事態を作出させてこそ、捕食者自身が、特別にもたらした事態と言えるのです。それは、捕食者の自己顕示欲を刺激するという意味でも、「捕食者好み」の事態です。あるいは、人間自身の「愚かさ」を殊更に拡大して、現出させているという意味で、「愉快」なのでもあるでしょう。

もちろん、そのもとには、捕食者自身が、人間から発する、ネガテイブな感情エネルギーを継続的に収奪するという、本来の目的があります。その目的によく適うという意味では、このウイルスは、「進化形」なのかもしれないということです。

※1 この点については、 バシャールにも、新型コロナに限らず、ウイルス全般に共通する本質的な作用として、述べたものがあります。が、それは次回にとり上げることにします。

※2  ウイルスの発生が、武漢という、中国の振興の都市で、レベル4のウイルス研究機関のあるところだったことも、影響しているでしょう。あるいは、コウモリのような野生動物が、食用として売られているところという、「野蛮」なイメージも影響しています(北京や上海というメジャーな都市だったら、もう少し違ったイメージだったかもしれません)。結果として、一地方だけでなくて、世界的に広まっていることも、大きな理由です。その他、様々な「イメージ的要因」が重なっていると思われます。

 

2020年6月 4日 (木)

「コズミック フロント UFOの真実」

昨晩、NHKBSプレミアム 『コズミックフロントNext UFOの真実』を見た。

内容としては、記事『米メディアの報道記事2つ』でとりあげていた、米国防総省が公開した米海軍戦闘機が撮影したUFO映像と、米国防総省がUFOの極秘調査をしていたことの暴露。これに関する、米軍事関係者や識者などの意見などで、取り立てて新しくないが、単に「未確認」として放置するのではなく、実際に、「地球外の惑星から訪れた異星人の乗り物」である可能性があることを、現実問題として報じていたのが、新しいと言えば新しいことだった。

もっとも、『コズミックフロント』では、前にも、UFOを肯定的に扱ったものを見たことがある。NHKも、番組やスタッフによっては、ちゃんと真実に迫ろうという意思のあるものがあるということだが、そもそも、米国防総省の公開した映像や情報も、はっきり言って、UFO関連の情報のうちのほんの一部であり、「小出し」したとしか言いようがない。番組も、この公開事件を超えて、より深くUFOそのものや宇宙人そのものに迫ろうというものとは言えない。(本当にこれをやれば、バッシングを受ける可能性、つぶされてしまう可能性が大なので、このあたりが現状では限界なのだろうが)

ただ、番組でも、これは、より大きな「グランド ディスクロージャー」の先駆けとして公開されたものという可能性が述べられており、今後の公開のあり様によっては、本当に大きな情報の公開がなされる可能性はあり得るので、注目される。

また、番組では、墜落したUFOの残骸の研究を通して、反重力のような宇宙的な技術の開発がなされていて、それがエネルギー革命もたらす可能性や、UFOの出現は、人間の核実験に関わって頻出しているらしいことから、これには、核への監視的な意味合いがあるのではないかという可能性など、一歩踏み込んだものにはなっている。

私が見たのは、再放送だったようで、今後の放送の予定はないようだが、この米国防総省が公開した映像は、Youtubeにもある。(たとえば  

https://www.youtube.com/watch?v=xRs4IfP6LMc)

また、番組の放送内容について、かなり詳しく紹介しているサイトがここにある。

なお、私のブログ『オカルトの基本を学ぶ』では、『「宇宙人」が地球に来ている可能性 1、23』として、UFOや宇宙人に関して基本的なことをかなり詳しく解説しているので、そちらもぜひ参照されたい。

 

2020年5月 3日 (日)

「感染症」と「文明病」

前回、「感染症」と「狂気」の本質的な類似性について述べた記事、『「伝染病」と「狂気」』をとりあげました。

実は、その次の記事、『「ダーウィン医学」と「薬による治療」』でも、「感染症」やウイルスについて、「進化」という長いスパンでみた、「病気」の意味という観点から、考察しています。

前回の記事では、「感染症」と「狂気」、「唯物論」が本質的に絡み合いつつ、「文明病」を構成していることをみました。

「狂気」、「唯物論」が「文明病」であることは、これまで何度も述べて来たことから、明らかと思います。いずれも、近代社会以降に、爆発的広まったもので、それ以前には、ほとんどなかったか、ある種の知恵をもって処されていました。

一方、『「ダーウィン医学」と「薬による治療」』の方では、「感染症」を含めた多くの病気そのものが、「文明病」というべきものであることを述べています。たとえば、次のようにです。

医学も薬もない時代から、そうやって、人間はそれらの細菌やウイルスと格闘しながら、ともに進化して来たのであり、人間は、本来、これらの病原に対する免疫や、対抗力を身に備えているのである。

だから、本来、自然状態では、「病気」とは、それほど恐れるに足りないものである。しかし、最近のエイズにしても、様々に変異したインフルエンザにしても、文明の中での人為的な働きかけによって生じたもので、「文明病」というべきものである。

細菌やウイルスによる感染症を「文明病」ということに、抵抗を感じる人もいるかもしれませんが、山本太郎著『感染症と文明』(岩波新書)でも、感染症は文明によって広がったことが、はっきりと示されています。文明以前は、感染症を育む定住社会ではなかったし、ある集団があったとしても、その集団の中で、一定の人が感染症にかかることで、「集団免疫」が獲得され、それは終息に向かっていたのです。だから、それほどの脅威ということは、ありませんでした。

また、この本では述べられていませんが、記事『「<癒し>のダンス」』でみたように、先住民文化は、本来、感染症のようなものさえ癒してしまう、儀式に基づく「癒しの技」をもっていました。

さらに、『感染症と文明』では、感染症の拡大は、近代以降のグローバルな人や物資の移動によってこそ、押し進められたことが示されています。そこには、高度産業社会の技術の飛躍的な発展も、働いています。そのような技術の発展こそが、人や物資のグローバルな移動を可能にしたものだし、技術的な開発による自然への介入が、感染症の温床となった例も多いからです。

さらに言うと、最近の様々な変異的なウイルスは、高度な技術からこそ直接生み出された、「人工的な創出」であることを、予想させるものです。

もちろん、一方で、それは、薬やワクチンの開発も可能にしましたが、記事『「ダーウィン医学」と「薬による治療」』でみたとおり、結局は、一種の「いたちごっこ」であり、「文明病」の発展を後押しするものにすらなっています。その部分をあげると、次のとおりです。

現代の病気と治療は、「文明病」対「文明薬」の闘いになっているわけで、どちらが勝っても、体にとっては、不自然な結果になる。あるいは、結局、「文明病」と「文明薬」は、一見闘っているようで、実は手を組んでいるのであり、ともに体の「自然」に敵対して、蝕んでいく。

要するに、「感染症」も「狂気」も、まさにそれ自体が「狂気」じみている、「唯物論」という信念も、いずれも、近代社会以降爆発的に広まった、一種の「文明病」として、絡み合っているということです。それらを、単独で問題にしても、実質的な解決が望めるはずがなく、そうするためには、「文明」そのもの、少なくとも、近代社会以降の社会システムを問題にしなければならないということです。

これは、結果としてですが、現在のコロナウイルス騒動も、そのような機会に結びつけ得る可能性は、いくらか出て来てはいますけどね。

 

2020年4月11日 (土)

「感染症」に対する恐怖とウイルス

新型コロナウイルスによる感染症は、緊急事態宣言をもたらすまでになってしまった。

このウイルスは、自然に発生したとは考えにくく、人工的なものであることが十分疑われる。また、流れとして、初め中国と韓国で広がったものが、後に、むしろ、イタリアや、アメリカ、スペイン、英国などの欧米に拡大したことは、不自然な感が免れない。人工的なものだとして、これは、意図されたものなのか、あるいは誤算なのかということもある。(意図されたものであれば、考えられることはいろいろあるが、それにはいずれまた触れることにする。)

しかし、いずれにしても、私が、この騒ぎについて思うのは、「感染症に対する恐怖」というのが、やはり、人間にとって、半端なものではなかったというのを、改めて確認できたということである。

もちろん、これには、マスコミや、政府機関による「煽り」の影響も大きい。が、それにしても、もともと感染症に対する恐怖があるからこそ、それが効くのである。そして、その部分に関する限り、やはり、「捕食者」の影響が大きいと、私は感じざるを得ない。

「感染症」(伝染病)と「狂気」に類似する点が多いこと、どちらも、「捕食者」によってもたらされたと言えることについては、既にかなり本質的なレベルで述べたものがあるので、是非、記事『「伝染病」と「狂気」』を読んでほしい。

感染症に対する恐怖には、そもそも、感染症をもたらすような、「細菌」や「ウイルス」そのものが、「捕食者」によってもたらされたものであるということがある。細菌やウイルスの、強力な伝染力もそうだが、直接「目に見えない」ということ、写真などを通して知られる、その(不気味な)形や性質も、これを十分反映しているものがある。人々は、どこかで、それを感じ取るか、あるいは、漠然と、「オカルト」にも通じるような、未知なる恐怖にかられるのであろうと思う。

そして、実際、「捕食者」の常として、そのような、「訳の分からない」恐怖や混乱をもたらすことこそが、まさに意図されていることでもある。

先の記事でも述べたように、細菌やウイルスは、生物の改変または「進化」をもたらすばかりか、「善玉」として、共生するものもあり、一概に「悪」ではないのはもちろんである。それにしても、そこには、「恐怖」に向けられたものが、明らかにあると言うべきである。

実は、細菌については、シュタイナーも、「アーリマン存在」がもたらしたものと述べている。当時、細菌とウイルスは明確に区別されていなかったので、当然、ウイルスも含む趣旨と思われる。

それを、以下に挙げてみよう。

かつて太古の時代にアーリマンとその眷属たちが打ち負かされて、霊界から地上の世界へ追い落とされたときは、地上のすべての住民に、バクテリアがとりついたのです。バクテリアの働きは、かつてアーリマンと眷属たちが天上から地上へ追放されたことの結果のひとつだったのです。そして19世紀70年代末以降、アーリマン的=メフィストテレス的な考え方が地上を席巻したのも、同じひとつの結果なのです。ですから、結核のような伝染病は、こんにちの知的唯物論として精神や魂にとりついているものと同じ由来をもっているのです。この二つ、唯物論と伝染病は、高次の意味では、まったく同じなのです。

『悪について』  p.180

私は、「狂気」と「伝性病」にそれをみたが、シュタイナーは、「唯物論」と「伝染病」は、「アーリマン存在」がもたらしたものとして、そして恐らく、「伝染性」があるという意味でも、同じものと言っているのが面白い。実際、「狂気」も「唯物論」も、近代社会以降爆発的に広まった、一種の「文明病」として、互いに絡み合うところがあるのも事実である。

シュタイナーは、別のところで、細菌は、「人間の虚言が生み出す」ということも言っている。人間の虚言は、人間の中の「アーリマン的性向」から生み出されると言えるから、結局は、「アーリマン存在」がもたらすことに変わりはない。

ただ、細菌やウイルスのような、微小なものは、人間の想念によって生み出され(一種の物質化)ても、おかしくはないし、あるいは、人間の虚言のような想念は、細菌やウイルスを「呼び寄せる」ということも言えるだろう。実際、シュタイナーは、風邪のような感染についても、細菌やウイルス自体が「伝染」するのではなく、人間の「同情」という思いが、細菌やウイルスをもたらす「土壌」を生むのだとも言っている。(『病気と治療』)

「同情」というのは、一例に過ぎず、「恐怖」や「不安」のような感情もまた、このような場合に含め得ると思う。

要するに、もともと細菌やウイルスに強力な「伝染力」があるということなのではなく、それに対する「恐怖」や「不安」などの感情が、それを大きく助長しているということである。恐怖や不安を「煽る」ことには、そのような、伝染力の拡大の意図もあり、私は、それは、最近の、「集団ストーカー」という観念の伝染力についても、言えることだと思う。

このことは、記事『「集団ストーカー」という観念自体が引き寄せる現象』でも触れていて、次のように言っていた。

感染症を広めて、物理的に、恐怖と混乱を引き起こしたい場合には、新種のウイルスを開発して、まき散らせばよい。同じように、精神的なレベルで、多くの者に、恐怖と混乱をもたらしたい場合には、それなりに練り上げられた、「集団ストーカー」なる観念を、まき散らし、それを信じ込ませることさえできればいいのである。

一旦、その観念を信じ込ませることにさえ成功すれは、あとは、その者が、自ら、それに沿う形の「現実」を「引き寄せ」、「作り出し」て、大騒ぎしてくれる。ますます、その観念は、「力」を増して、増殖し、拡散して、多くの者を捕えるようになる。

 

2020年2月26日 (水)

「縄文」という「未来」

アフリカのクン族の「癒し」をとりあげた、記事『「<癒し>のダンス」』のコメント欄で、私は、

「 文明とこのような霊的な要素との調和ということには、私はもはや懐疑的で、一旦はこのような未開の状態に戻って、全てを経験しなおさなければ、何も分からないというところに来ている 」

ということを述べていました。

しかし、これを読んで、今の私は、違和感を感じざるを得ません。と言っても、言っていることの内容そのものではなくて、その表現、特に、「未開の状態に戻る」という表現が、問題です。

「戻る」というのは、未開社会、先住民文化を、我々にとって、我々が文明化する以前の、「過去のもの」と思っているから出てくる表現です。それは、例えば、我々日本人にとっては、「縄文時代」のようなものとして、受け取られているのです。

しかも、この表現は、我々が、文明を放棄しさえすれば、当然に、そこに「戻れる」かのような、言い方です。そこには、先住民文化、あるいは縄文文化というものが、我々より遅れた、「原始的」なものであるという意味合いを、どうしても含んでしまっています。

もちろん、私は、当時既に、先住民文化や縄文文化の、精神文化の「高さ」を認めていましたし、それが、霊的な意味でも、「真実」のものであることも認めていました。ただ、現代の、物質的な発展という方向性からみれば、「遅れている」というか、それとは違う方向にある文化であることは、明らかなので、その見方に沿う形で、このような表現になったのです。

しかし、それにしても、今からすれば、違和感が強いです。

それは、最近の記事『ムーと縄文の「テクノロジー」について』で述べたように、縄文そのものに、「テレパシー」や「テレポート」などを日常的に可能にする、「高度のテクノロジー」があったことを、当時は、十分に認識していなかったからということもあります。(ただし、今でも、誰もが、日常的に可能にしていたとまでは、信じ難いものがあります。)

縄文文化にしろ、先住民文化にしろ、我々現代人が、物質的なものにつぎ込んでいる時間やエネルギーを、精神文化、または霊的な方向に注ぎ込んでいたので、そういった方向では、我々より優れているのは当然のことです。しかし、だからと言って、それは、物質的な方面では、「遅れている」とか、「無知」であったとかということには、決してなりません。

そもそも、「霊的なもの」は、「物質的なもの」を包摂する関係にあることから言っても、このような文化は、率直に、「全体として」、我々より進んだ文化と認める必要があるのです。

総体として言うならば、「縄文」は、我々にとって、「過去」ではなく、「未来」である、という言い方が、今は、ピッタリ来ます。あるいは、前に紹介した、NASA職員のこの人( https://www.youtube.com/watch?v=MEAtqRjDlt4 )も、「縄文宇宙人」という言い方をしていましたが、これもピッタリ来ます。

それは、当然、我々が、文明を放棄したからといって、達成できるものではなく、文字通り、現在より、「進んで」行かなくては、たどり着けないものです。

『ムーと縄文の「テクノロジー」について』でも述べたように、弥生時代くらいからは、現代に連なる方向が推し進められて、確かに、我々にとっての「過去」と呼べるものと言っていいと思います。しかし、縄文については、先住民文化やチベットなど、一部の文化を除いては、もはや断絶していると言うべきものです。ただ、日本人は、他の文化に比べれば、「縄文的なもの」を多く残している民族ということが、言えるだけです。

もう一つ、このように思うことになった理由の一つに、それよりしばらく前ですが、ある縄文遺跡を、じっくり体感してみたこともあります。そこには、縄文住居の跡があって、そのときは、本気で、縄文人と交信するくらいの気持ちで、じっくりと内部を体感してみたのです。

(残念ながら、縄文人が、直接話しかけてくるようなことはなかったですが(笑))まず、この住居の中には、とても「清浄な空気」が流れていることに驚きました。それは、明らかに、肌で感じとれるものでした。

さらに驚いたのは、もっと大きな集会所のようなところがあったのですが、そこは、単に、「清浄」というだけでなく、とても「エネルギー」に満ちたところで、そのエネルギーに促されるように、私は、その周りを何周も歩いていました。これは、ちょっと、「ただならぬ」ことだと思いました。そして、「縄文人」という自分のイメージが、どうも大きく違っているようだというのを、そのとき感じることになりました。

そのようなことがあったのと、後のさくやさんの本やブログによる縄文についての情報も相俟って、縄文人のイメージも、かなり変わることになったのです。

何しろ、「縄文」を我々の「過去」だと思っていたら、どうしても、見誤ることになると思うのです。

 

 

2019年12月17日 (火)

「無縁」の原理と「サンカ」

記事『「無縁」の原理と「死」』で、「非人」は「無縁の原理」を体現するものであることを述べました。

それは、本来、そのとおりなのですが、しかし、「人に非ず」とされる「非人」も、多かれ少なかれ、制度的に抱え込まれた身分の一つということになると、当然、多くの制限を施されます。

ところが、そのように、制度的に抱え込まれるということ、つまり、「社会的な身分」ということからも外れて、人里離れて独自に生活した、一群の人たちがいます。その中でも、「サンカ」と呼ばれる「山の民」は、最も、「無縁の原理」を体現するものと言えるでしょう。

「サンカ」とは、山間部を生活の基盤とし、川魚漁、竹細工などを主たる生業としながら山野を渡り歩く漂泊民です。明治以降の戸籍からも外れる、全くの「制外者」です。政府は、このような「無籍、無宿」の者を絶滅させようと、取り締まりを強化しましたが、1950年代後半頃までは、生き残っていたとされます。

「サンカ」は、「山家」とも「山窩」とも書かれます。

後者は、山に隠れ住む「犯罪者集団」というイメージを、そのまま表しています。明治以降、特に警察の作り上げたこのイメージが、浸透した影響です。さらに三角寛という作家が、そのイメージの延長上に、猟奇的なサンカ小説を多く売り出したことで、このイメージが定着したと言えます。

しかし、それは、様々な社会不安と、定住せず、戸籍も持たない、得たいの知れない者に対する、我々の恐れから来る虚像に過ぎません。このような発想には、やはり、「非人」などの被差別民に対する差別と、同根のものがあります。

本では、五木寛之著『サンカの民と被差別の世界』(ちくま文庫)が、分かり易くまとめられていますし、沖浦和光著『幻の漂泊民・サンカ』(文春文庫)は、かなり詳しく、サンカについて、様々な研究と自分自身の調査も交えて、鋭い考察をしています。

柳田国男は、「サンカ」を、『遠野物語』などにも出て来る、山に住む「異形」の民族、「山人」とつながるものと解しました。そして、それらは、古代大和王朝が制定した、律令制に基づく農本主義的同化政策を忌避して、山中に入って隠れ住むようになった先住民の系譜と解しました。

要するに、多くの縄文系の先住民は、大和王朝に征服され、あるいは同化されて、支配下に置かれましたが、一部の者たちは、それに従わず、山に逃げ込んで、独自の生活を維持しながら存続してきた。その系譜に連なるのが、「山人」や「サンカ」ということです。

ところが、先の沖浦は、そのような説には、文献的な根拠もなく、無理があり、サンカ」は、江戸末期に、飢饉を逃れて山に逃げ込んだ人たちに、起源を有するとします。(恐らく、「先住民説」は、差別に結びつきやすいことも、考慮されていると思われます。())

沖浦が言うように、確かに、かつての「先住民」の系譜と、明治以降知られるようになった「サンカ」との間には、表面上、「断絶」があるのかもしれません。しかし、私は、「サンカ」が、単に飢饉を逃れるために山に逃げ込んだという「消極的」な理由で、独自の生活を始めた者たちとはとても思えません。あるいは、そのような人たちも、多くいたかもしれませんが、そこには、あえて農耕民的な定住を拒否し、自分らの生き方を貫こうとした、「先住民」的な気概というものを感じるのです。

つまり、集団の物理的な系譜はおくとしても、文化的、あるいは、さらに言えば、「精神的、霊的」な意味で、先住民文化から引き継いだものを、継承しているものがあると思うのです。

それを象徴するのが、「サンカ」が「無縁」の原理を体現すること、そのままの表現と言えるような、次の文章です。

「メンメシノギとは、各自が各自の独裁独立自由の生活をすることである。誰にも支配されず、誰の干渉も受けず、自己の思うままの生活をして、しかもサンカの仲間として立派にやっていく。これが彼らの生活のモットーである。自主的に自由に生活してしかも則を越えない。これは完全なアナーキストである。放浪のアナーキストたるサンカは、人の干渉を極度にきらう。この間の彼等の心理を理解し得る者は、彼らに親分がないことをよく了解し得るであろう。」

「サンカ人の生活様式を端的に表す言葉に『一所不住、一畝不耕』なるものがある。言いかえれば「非定住、非所有」という思想である。国家の支配・締めつけを拒否し、搾取と収奪から自由になるということは、同時に被差別者としての烙印を身に受けることである。その烙印を焼きつけられてなお、所詮権力がつくったシバリに過ぎぬと歯牙にもかけず、それより価値あるもの・守り通すものとして、「自然とともに生きる漂泊人、自由人」の道を選んだ。その核となる思想が「無」なのである。もののないことに苦しむのではない。むしろ何ももとうとしない無なのだ。この「無」に対しては、支配・束縛の入り込む余地はない。ゆえにすべての呪縛からの解放がある。そしてただ自然とともに在る。」

いずれも、先の沖浦著『幻の漂泊民・サンカ』にとりあげられているもので、前者は、後藤という研究者のもの。後者は、自らサンカのルーツにつながるという作田という人のものです。

まさに、これまで述べて来た、「無縁」の原理そのままを体現するのであることが、分かると思います。このような積極的な生き方が、飢餓から逃れるという消極的理由から発生したとは、とても考えられません。

ちなみに、『新・日本列島から日本人が消える日』で、さくやさんも、信長、秀吉、家康は、縄文とつながる「サンカ」の出であることを述べています。「サンカ」について、特に詳しい説明はないですが、縄文からの文化または精神性を受け継ぐものであることは、はっきりしています。

あるいは、組織としても、明治以降知られる「サンカ」というのとはまた異なった形で、一種の「秘密結社」的なものが存続していたのかもしれません

今回は、ざっと触れるだけになりましたが、いずれ、機会があれば、また「サンカ」について、もう少し詳しく述べたいと思います。

※ 私自身は、『遠野物語』に出てくる「山人」、あるいは、柳田のいう「山人」には、「イエティ」とか「野人」などと同類の「未確認生物」に通じるものがある、あるいは、それとの混同があると思います。いずれにしても、「先住民」ということは、「文明開化」がうたわれた明治維新後、さらに戦後の経済成長期には、「未開」の時代に逆行する人たち、あるいは人間以下の生物ということで、「差別」に結びつく見方が強かったと思われます。

2019年11月 1日 (金)

「無縁社会」と貨幣経済

「無縁」の原理については、すでにみたように、現代では、「無縁社会」というように、否定的なイメージでとらえられています。

そこで、今回は、「無縁社会」といわれる否定的な状況が、もともとの「無縁」の原理と照らしつつ、どのように生じて来ているかについて、簡単に述べたいと思います。特に、前回触れた、「貨幣経済」との関係でみます。

「無縁」の原理は、もともと、「市」や「寺社」、「墓所」など、「共同体」の外部または境界に関わる原理でした。言い換えれば、通常、共同体の内部には、「有縁」の原理が行き渡っていた訳で、そこから離れたときに、初めて、「無縁」の原理が働くということです。

共同体の内部では、お互いが、「どこどこの誰かさん」として、この世的な関係で強く結びつき、相互扶助的なあり方で、生活が営まれていました。そこには、さまざまな掟や、主従の関係もあり、互いが互いを縛る、不自由な関係もあったでしょう。しかし、そのような、「有縁」的な結びつきがあるからこそ、運命共同体的な、「絆」も生まれていた訳で、言わば、いい意味で「有縁」の原理が働いていたと言えます。

ところが、現代の「無縁社会」的なあり方が、これと決定的に異なるのは、「社会」の内部そのものに、「無縁」の原理が浸透し、しかも、否定的な意味合いで、働いていることです。

かつてのような、共同体の内部の、「有縁」的な結びつきが失われ、お互いが、お互いと切り離された、孤独な「個」同士の、最低限の、疎遠な関わりとなりました。あるいは、そのような、最低限の関わりさえ、失われつつあります。

それでは、そこに、かつてのような、自由の原理としての「無縁」の原理が働いているかというと、そんなこともありません。人によっては、自由と感じる人もいるかもしれませんが、それは、かつてのような、「聖なるもの」の感覚に結びついた、積極的なものではなく、単に「面倒ではない」という、消極的なものです。さらには、かつてのように、権力的な作用が入り込めないものではなく、むしろ細部にまで、権力的な作用が入り込む余地のあるものです。

このような、「無縁社会」をもたらした要因として大きなものは、前回もみた、「貨幣経済」の行き渡りとみられます。

本来、貨幣経済は、共同体の内部では発生せず、共同体の外部ないし境界に建てられた「市」で行われるものです。かつては、共同体の内部では、相互扶助的な「互酬性」、つまり、互いが互いに(あるいは共同体全体に循環するように)贈与的な交換をすることが行われていました。

貨幣経済は、共同体の内部では調達できない物資を得る手段でもありましたが、「市」という「無縁」の場での、共同体の外部の者(または「存在」)との、祝祭的な交感でもありました。「無縁」の場では、この世の関係を断ち切った、「無縁」の者としてこそ、互いに交感がされるのです。また、そもそも「貨幣」そのものが、何とでも交換できる万能の財として、「聖なるもの」としての意味合いを帯びていました。

しかし、この貨幣経済が、物を交換する唯一の原理として、社会の内部に行き渡れば、その意味合いは、全く変わって来てしまいます。貨幣経済に、日常を離れた、「聖なる」意味合いはなくなり、単純に、「商品を買う」手段として、日常的で、機械的なものとなってしまいます。

貨幣経済は、確かに、人を特定の「誰か」ではなく、「誰でもない者」として、「無縁」の者とさせます。しかし、それが、日常的に、原理として入り込むことは、本来の、人と人の「有縁」的な絆を、日常レベルで、断ち切り、切り離すことを意味します。「貨幣」にも、「聖なる」意味合いは失われ、ただの交換手段的な「もの」として、「量」的、あるいは「数値」的な意味合いのものになります。当然、それを使う者には、計算による、利害関係だけが、働くようになります。

そのような、貨幣こそが、唯一の原理として、社会を統べるようになれば、人が貨幣を使うのではなく、人が貨幣によって使われるようになります。それは、人が、貨幣のように、「量」化され、あるいは「数値」化されることを意味します。

そのような「貨幣」を、根本的なところで支配し、操作するのは、「支配層」です。ですから、「貨幣に支配される」ということは、結局、人が数値化されて、機械的に、「支配層に支配される」ということを意味するのです。

それは、前回みたように、支配層が、「無縁」の原理を巧みに取り込みつつ、最終的に、その積極的な意味合いをなし崩しにしたことによっています。「無縁」の原理の、否定的な意味ばかりが取り残されて、利用され、行き渡らされているのです。

そのような結果として、行きついたのが、現代にみる、「無縁社会」という状況だと言えます。人と人の結びつきが失われて、人は孤独になり、心は荒む一方で、支配層の支配は、一層効果的に、突き進められていくのです。

そのような状況が変えられるとすれば、やはり、これだけ社会のすべてを支配するに至った、貨幣経済を、根本的に見直すことしかないと思います。「貨幣」が悪いわけではありませんが、それに全面的に依存する社会の異常性には、気づくべきです。そして、これだけ「無縁」化した社会の中で、少しずつでも、かつてのような、「互酬性」的な経済のあり方を取り戻せるか、あるいは、より新しい「互酬性」的な経済あり方を、生み出せるかということが、問題ということになるでしょう。

 

2019年10月14日 (月)

「無縁」の原理と「支配層」

「無縁」の原理は、世俗的な関係や権力が入り込めない、という原理ですから、民衆にとっては、世俗的なものに支配されることのない、「自由」の原理となります。また、争いとは、何がしかの世俗的な関係、所有の意識などに基づいて起こるのですから、人が「無縁」のものとなる、「無縁」の場では、争いは起こらず、「平和」の原理ともなります。

もちろん、それらは、あくまで「原理」的なことで、実際には、そのとおりにはいかないこともままあるでしょうが、「原理」としては、そういうものとして保持されていたということです。

世俗的な権力が入り込めないということは、また、その「無縁」の場を、その場を形成する人たちが、自治的に運営するということになります。たとえば、もとは「無縁」の場たる「市」から発展した、商業都市堺などは、そのようにしてできた、商人たちの自治都市という面があります。

しかし、現実には、その「無縁」の原理、自由な「自治」を成り立たせるのに、権力による保護を受けるなどして、権力の力に頼るということも、どうしても起こることです。自然領域ならいざ知らず、実際に、人間が築き上げた場においては、「無縁」の原理は、まったく、権力(「力」の発想)を排除した形で、なかなか成り立つものではないということです。

逆に言えば、「権力」あるいは「支配層」の側からすれば、「無縁」の原理は、民衆の「自治」の原理として、彼らの支配領域を狭めるものですから、何とかそれに干渉することで、いずれは、なし崩しにしたいと欲することにもなります。

網野善彦の『無縁・公界・楽』においても、中世以降、「無縁」の原理が、権力の側に、初めは保護するという形で、取り入れられ、しかしそのうち、懐柔されるなどして、結局はその原理そのものが、弱体化され、骨抜きにされるような歴史の流れも、述べられていました。

しかし、「無縁」の原理のもととなる、「聖なるもの」という意識は、近代以前には、「支配層」自身も持っていたもので、それに対する「畏れ」もあるでしょうから、無暗に無視できるようなものではなかったはずです。それで、なかなか、一辺にはできないことだったにしても、徐々に、長い時間をかけて、取り込みつつ、弱体化していき、結局は、なし崩しにすることに成功したということが言えるでしょう。もちろん、これには、民衆自身の「聖なるもの」についての感覚の移り変わりや、「無縁」の原理の、一種の「堕落」的なあり方による面もあったと思われます。

いずれにせよ、江戸時代の頃までは生き残っていた「無縁」の原理も、明治維新による近代化を迎えると、ほとんどなくなってしまいます。網野は、その代わりに、天皇に「無縁」の原理が託されたと言いますが、その原理への思いというのは、近代以降も確かにあって、自分たちに失われた代わりに、「天皇」という存在に一身に託された、ということがみてとれます。

「無縁」の原理への思いは、近代以降も、日本人に相当強くあり、今もかなり生き残っていると思われるのです。

しかし、「支配層」は、近代以降、ついに、「無縁」の原理そのものを、民衆のものとしては、実質、なきものにすることに成功したと言えます。それは、「無縁」の原理のもととなる、「聖なるもの」という領域を、なきものにするということで、可能となったものです。

「聖なるもの」あるいは、「あの世のもの」と言ってもいいですが、それがなきものになるということは、「この世」の原理がすべての領域を支配するということです。つまり、この世の「支配層」が、完全に世を支配するということになります。

明治以降も、一辺にそれがなされたわけではないですが、一旦は、「天皇」に仮託する形をとりながら、結局は、それをも失しめることで、戦後には、ほぼ完全に「この世」の原理の支配を成し遂げたと言えます。

もちろん、「自由」「平和(平等)」の原理としては、近代以降も、西洋流のものが輸入され、それこそが、民衆にとっても、望まれるものになりました。

しかし、この西洋流の「自由」「平和(平等)」の原理は、民主主義や人権思想に基づく、あくまで「この世」的な原理としてのイデオロギー的なものです(もとはキリスト教的な発想に基づくとしても)。「この世」的なものなので、この世の「支配層」が、その原理のもとの部分を押さえることによって、決して、コントロールできないものではありません。

そのようにして、日本的な「無縁」の原理は、「支配層」によって、ほぼ完全に取り崩されてきたということが言えます。

しかし、先に述べたように、現在でも、「無縁」の原理を、少なくとも一時的に体現するような場が、ないわけではありません。

たとえば、年中行事の「お祭り」や、「無礼講」ともいわれる「宴会」、住んでいる場所から離れて行く、「観光旅行」や「山登り」などもそうと言えます。あるいは、「市場」や「ショッピングセンター」における、「賑わいの場」での「買い物」という行為も、その要素があります。

要は、日常から離れて、「何者でもない者」(「無縁」のもの)となり、非日常的なもの(「聖なるもの」)と「交わる」または「一体になる」ことです。本来、「神々」と「まつり合う」ことを意味する、「お祭り」が一番分かり易いですが、上にあげたものには、それぞれ、その要素があることが分かると思います。

ただし、それはあくまで、一時的なものであり、かつてのように、「聖なるもの」と関わるという意識が、保たれているわけでもありません。それは、あくまで、「日常性」に疲弊することを避けるための、一時的な「慰め」あるいは「気休め」のようなもので、むしろ、日常性への回帰こそを際立たせるものとも言えます。実質、「日常性」=「この世」的な支配の原理への隷属をこそ、強めるものになっているということです。

先にあげた例で、「買い物」というのが、「無縁」の原理を体現するというのは、貨幣経済が日常化した現代では、理解しにくいかもしれません。しかし、もともと、「市」が「無縁」の場として興ったように、貨幣によって、物を交換する(商品を買う)ということ自体が、共同体の人々にとっては、非日常的な「聖なる」行いだったのです。

そもそも、「貨幣」そのものが、「無縁のもの」であり、「聖なるもの」でもあって、だからこそ、あらゆる「物」と交換することのできる、万能の「財」となるのです。

そのような、貨幣による交換は、共同体の内部からは発生しないもので、「市」という、「この世」を離れた場での、誰でもない者(「無縁」のもの)同士の行いとして、可能となるものです。網野も指摘しているとおり、貨幣経済及び資本主義社会というのは、そのように、「無縁」の原理から発展してきたものと言えるのです。だから、そこには、「この世」的なものではない、「お祭り」的な要素が多分にあって、人々の気分を高めるものがあるのです。

このように、資本主義社会というのも、本来、「聖なるもの」という要素があるのですが、その資本そのものが、「支配層」によって、押さえられてしまえば、その意味合いは、大きく変わってしまいます。そして、それが、現在のように、「この世」の原理として、唯一の原理のように行き渡れば、それは、むしろ、「この世」的な「支配」の原理と化してしまいます

このように、近代以降の「支配層」は、あらゆる「無縁」の原理を、なし崩しに、なきものとして来た。あるいは、それを、「この世」の原理として、独占的に取り込むことによって、巧に「支配」を貫徹して来たということが言えるのです。

例としてあげた、「貨幣経済」以外にも、かつて「無縁」のものたる、「非農耕民」や「非人」が、生業や技能として築きあげて来た「技術」や「芸能」などにも、「この世」的な原理として取り込まれることになったものは、多くあります。それらを具体的にみることは、とても興味深いのですが、それについては、また機会があったら述べることにします。

 

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