文化・芸術

2017年2月18日 (土)

「集スト被害」という「解体しない妄想」

前回、「統合失調」では、「未知の状況」に多かれ少なかれ入り込んでいるために、「解体」が進んで、「妄想」がうまく築けない。ところが、「集団ストーカー被害」では、同様の状況の周辺にはいるが、強い「妄想」の力によって補強され、状況に入り込んで「解体」することは、止められているということを述べました。

これはもちろん、「集団ストーカー被害」の方が、「統合失調」より「マシ」で、好ましい、ということではありません。「妄想」によって、状況に入り込むことが止められているということは、その「妄想」を外せば、状況に入り込んで、「解体」する危険が迫っているということです。つまり、その「妄想」は、もはや、外すことのできないものになっているのです

実際、「集団ストーカー被害」を訴える人は、何年もの長い間、実体のはっきりしない「被害」の「妄想」を持ち続けたまま、「解体」するでもなく、その(不毛ではあるが、ある意味安定的な)状態を、ずっと維持し続けている人が多いようにみえます。それは、「解体」という、明らかに危険な状態に陥りはするが、それを何らかの意味でくぐり抜けて、超える余地もある、「統合失調」に比しても、「出口のない」、痛ましい状態と言えるでしょう。

このように、「集団ストーカー被害」を訴える人が、そうまでして、入り込むことを阻止しようとする「未知の状況」というのは、このブログの前半部分で、主題的に明らかにして来たことです。しかし、これこそが、理解のための重要なポイントなので、必要な範囲で、簡単に振り返ってみることにしましょう。

それは、要するに、これまでの日常的な経験からは、かけ離れた、容易には理解できない状況であり、もはや、「この世」という感覚的、物質的な世界を越えて、「霊的な世界」との境界領域に立ち入ろうとしている状況です。一言で言えば、「霊界の境域」です。(記事『「霊界の境域」を超える二方向性』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post-7797.html、『「霊界の境域」の「図」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-fb4c.html 等参照)(※)

それは、「霊的な世界」の入り口であり、「この世」の理解を超えた、不可解な現象に満ちています。たとえば、自分自身の思考や恐怖の反映が、「実体的なもの」として現われ出たりします(「(霊的鏡像」または「エレメンタル」)。また、普通は、偶然と考えられないような、「共時性」(シンクロニシティ)も頻繁に起こります。そこは、「捕食者的な精霊」または「宇宙人」の住処でもあり、様々な「攻撃」をしかけられます。

さらに、そこは、「この世」とか「あの世」とかのくくりからはみ出る、「混沌」とした領域で、根底には、根源的な「虚無」が控えています。言葉や理性では、とても捉えられない、本質的に、恐怖と混乱をもたらす世界なのです。

「統合失調」では、そのような状況で、自己を苛む「声」を聞いたり、自己と外界との境界を失って、「解体」が進むことになります。そのような「解体」を抑えるべく、何とか、現にある状況を、これまでの日常性の延長上に解釈して捉えようとするのが、「妄想」ですが、それは「解体」が進めば進むほど、成功しません。どんなに日常性の延長上に捉えようとしても、それに収まらない面が露わになるからです。それに、そもそも、このような「混沌」たる状況は、言葉や理性で説明しようとしても、初めから無理があります。

「集団ストーカー被害」を訴える人も、本当は、何か途方もない「未知の状況」を、目の前にしているという予感を、潜在的にはもっている人が、かなりいると思います。あるいは、少なくとも、そのようなことを、漠然とながらも、それまでに経験のない「違和感」として、感じ取っている人は、多いと思います。具体的にも、偶然とは思えない「共時性」や、「捕食者的な精霊」による示唆、攻撃など、「霊界の境域」における何らかの現象を被ってしまっていることは多いと思います。

しかし、そうであればあるほど、自分の受けている「被害」は、人間の集団による「集団ストーカー」という、ある意味で、良く知られた、「陳腐」な現象でなければならないのです。この辺りは、「統合失調」の場合の「妄想」が、少なくとも初めは、具体的な人間や組織による「迫害」として、生じてくるのと同じことです。

ただし、「統合失調」の場合、状況に入り込むのに従って、そのような解釈は無理になり、「宇宙人」や「神」などの超越的存在が出で来ざるを得なくなります。ところが、「集団ストーカー被害」の場合、「妄想」の力が強く、状況に入り込むことを止めているため、そのような「妄想」が強固に維持されるのです。

このように「妄想」が維持されるのは、もう一つには、「被害者」同士で、ある程度「共有」か可能となっていることにもよります。「統合失調」では、「妄想」は、一人による、孤独な闘いの結果、紡ぎ出されたものであることが多いですが、「集団ストーカー被害」の場合は、少なくとも、一定の人たちの間で、同様の「妄想」を類型的に共有できているのです。それは、それを維持するのに、大きな力を発揮します。(ちなみに、「常識」というのは、さらに多くの者による「共有」を可能にすることで、堅強に保たれる「妄想」と言えるのですが、それについては次回にでも述べます。)

さらには、何と言っても、「集団ストーカー」という観念自体が、それを維持するのに、非常に巧妙にできているということがあげられます。それは、絶妙なタイミングでの通りすがりとか、仄めかし、嫌がらせなど、曖昧かつ暗示的で、はっきりとは捉え難い形での、間接的な行動で成り立っています。初めから、そのように意図されて、構成されているのです。それで、そのような攻撃が、実際にあるのかないのか、はっきりと白・黒つけられることはありません。だからこそ、いつまでも、、その観念が壊れることなく、生き続けられるのです。

多くの人にとっては、あまりにも曖昧で、それを信じるのは信じ難いと映るでしょうが、現に、状況に近づいて、漠然たる「違和感」を感じている「被害者」にとっては、むしろ、その方が、自分の陥っている状況を説明するのに、ピッタリくるのです。また、その曖昧さによって、多くの人が、共有できるものにもなっているのです。

そういうわけで、「集団ストーカー被害」という「妄想」は、「未知の状況」を間近にするからこそ、生じているのですが、それを強固に信じて、それに埋没している限り、「状況」に入ることを阻止し、「解体」を押し止めてくれるものなのです。だからこそ、外すことのできないものであり、周りの者にとっても、「統合失調」以上に「厄介」なものともなるのです。

そのような者に対して、「妄想」を無理やりにでも外して、状況に入ることを促し、「解体」の方向に進んでしまった方がよい、とは安易に言えないし、かと言って、その「不毛」で、「危なっかしい」状態を、ずっと維持するのがよいとも言えないでしょう。とりあえず、長い目でみて、いずれはこの「妄想」が、それほど問題を起こさずに、外されることを、見守るぐらいしか手はないのかもしれません。

※ 『「霊界の境域」を超える二方向性』の次の記事 『「分裂病的状況」の場合』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post-1072.html)と、その次の記事 『「分裂病」の分かりにくさ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post-424f.html)では、「未知の状況」との関係での、「統合失調」という反応について、まとまった説明をしているので、是非こちらも参照ください。さらに、後者では、「妄想」に閉じこもることから、いかに脱却するかについても述べられ、それは「集団ストーカー被害」の場合にもあてはまることなので、是非参照してほしいと思います。

2016年11月14日 (月)

意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 2

波束の収縮及び「知覚」には、共に「意識」が作用するといっても、その「意識」の性質または範囲は異なるのであった。

波束の収縮の場合、「意識」は、その現象をもたらすという点に絞って捉えられるもので、端的には、物質的過程から独立した要素を意味する。これは、山田廣成のように、「意志」とみることもできる。「意識」の、より根源的で志向的な働きであり、波束を収縮させて「確定的な現実」を出現させるという、創出的な働きをなすことにも適っている。

それに対して、「知覚」の場合の「意識」は、その「意志」を含みつつも、脳の過程を伴う、「思考」や「記憶」など、具体的な内容をもった働きを、広く含んでいる。「知覚」においても、「みる」という、「意志」による積極的な志向が働くが、それは、全体としてみれば、脳の過程、文化的信念体系、個人の思考や記憶などによって、大きく条件付けられた、一つの「表象」なのである。(両者を全体として捉えれば、まさに、ショーペンハウアーのいう「意志と表象としての世界」。)

「知覚」も、それ以前に、確たる「現実」があるわけではないという意味では、一つの「現実」の創出には違いない。が、それは、主観的、恣意的な内容によって大きく彩られた、「幻想」ということにもなるのである。

ところで、ここでいう「意志」とは、人間よりも、むしろ自然物や野生の生物、つまり「自然」そのものの方が、純粋に働き易いといえる。人間では、文化的、個体的な条件付けの方が、大きく勝って、「表象」の世界に閉じ込められている度合いが強いからである。だから、波束の収縮そのものは、人間よりも、自然物や他の生物との関わりにおいて、起こることが多いと解される。ただ、人間が関与する場合は、波束の収縮を越えた、「超能力」的な作用をもたらすことにもなるのである。

あるいは、人間では、この意味の「意志」は、表面化せず、「意識」の潜在的なレベルに、眠っているという見方もできる。しかし、その働きが、脳の過程や、信念体系、思考を巻き込みつつ、我々の「現実」を作り出す元になるのである。だから、我々の「現実」は、他の自然物や生物との関わりにおいてではあるが、(生物的、文化的、個人的のどのレベルであれ)潜在的には、我々の「意志」がもたらしているといえるのである。

そして、このような「現実」の創出には、多数の「意志」の「集合」ということが、大きく影響している。「地球プロジェクト」でも、多数の者の集合的な意識によって、乱数発生器の乱れが高まるのだった。「意志」における「現実」創出の力は、多数の集合によって、より焦点化され、強固に象られると解される。そのようにして、実際に、一般には、確かな基盤をもった、外的な「現実」と思われている、「物質的な現実」なるものが、創出されるということである。(※1)

また、同時に、それは、「知覚」全体としてみれば、強固な文化的信念体系によって、多くの者を規定してこそ、容易には覆らない、安定したものとして、保たれることにもなる。言い換えれば、「集合的な知覚」とは、多くの者で共通すべく、大きな制限を伴い、それに適わないものは、排除するということで、成り立つ面があるということである。そのようなことが、「知覚」に、「幻想」としての面を、強く付与するとともに、それを強固に保つことも可能にするのである。(※2)

前回みたように、「知覚」も一つの「幻想」であるならば、「知覚」と「幻覚」を区別する、本質的な理由はないことになる。とはいえ、事実上、「知覚」は、多くの者が「共有」しており、「幻覚」は、特定の者がもつだけで、多くの者が「共有」していない、という違いがある。

それは、「知覚」が「現実」を創出するという点からみれば、実際には、上にみたように、多くの者が、「集合的」に「共有」するからこそ、「現実」としての、創出力が高まっているのである。また、同時に、それが、強固な文化的信念体系によって、「共有」されるべく支えられるからこそ、安定したものとして、保たれるのである。

それに対して、「幻覚」は、そのようなものから逸脱するので、特定の者を捕えることはあっても、多くの者を巻き込んで、「集合的」な「現実」として創出されるには、至りにくいことになる。(※3)

だから、それは、「集合」の度合いの問題であって、「幻覚」の方が、より「幻想」の度合いが強いということなのではない。むしろ、後にみるように、「幻覚」の方が、「知覚」に伴う制限を超えて、より真の「実在」(内在秩序)を反映する、という可能性もあるのである。

これまで述べて来た、波束の収縮における、「現実」を現出させるという面と、「知覚」における、「幻想」を生み出すという面は、「ホログラフィク・パラダイム」に照らしてみると、より統一的に捉えることができる

ホログラフィク・パラダイムでは、波束の収縮も、全体が不可分に結びついて運動している、「内在秩序」のある側面を、「顕在秩序」に披き出す、一つの過程に過ぎない。「内在秩序」こそが、「ホログラム」的な情報を刻み込んだ、真の「実在」であり、「顕在秩序」は、その情報が、「ホログラフィ」的に投影された、一つの「写像」に過ぎない。だから、量子力学的には、確定的な現実を出現させる、波束の収縮も、それ自体が既に、一つの「幻影」としての創出ということになる。(※4)

「知覚」においては、そこにさらに、種や文化、個体による、主観的、恣意的な要素を、大きく介入させることになるので、その「幻影」としての性質はさらに強められる。そのようにして、「知覚」という過程が、全体として、「幻想」としての「現実」を作り出すということの意味が、より明確になる

ただし、ホログラフィック・パラダイムは、「脳」や「知覚」の働きが、単純に「幻想」だと言うのではない。

脳科学者のプリグラムは、脳そのものが、宇宙というホログラムを解釈する、それ自体一つの、ホログラムであるという。ホログラムは、分割しても、部分が全体を反映するように、脳も本来、(宇宙の)全体を反映する性質をもっているということである。

ボームも、クリシュナムルティの例にみられるように、「知覚」が、「内在秩序」というより、さらにそれを超えた、「全体性」を反映する可能性を認めていた。つまり、これまで述べて来たような、制限され、条件づられた、部分的な「知覚」ではなく、全体的な「知覚」。言い換えれば、「観るもの」と「観られるもの」との対立や分裂のない、一体的な「知覚」としての、「観ること」である。

ボームは、このような「全体性」は、脳や意識の働きを超えるとしているが、同時に、脳や意識が、その「全体性」を反映する「道具」として働くことは可能としている。

しかし、それには、当然ながら、脳や意識の内容である、信念体系や思考を超えることが条件となる。それは、これまでみて来たことに照らせば、信念体系や思考に条件づけられた、「知覚」による「現実」創出の働きを止めること、そして、ただ「観る」という「意志」そのものになり切る、ということにもなる。

現状では、それは遠い可能性に過ぎないが、それには、ともあれ、「現実」とは、「知覚」によって「創出」されるものにほかならないことを、よく知ることが必要ということになろう。

※1 だたし、繰り返し述べているように、このような「物質的な現実」としての創出は、人間だけでなく、様々に多様な自然物や存在の「意志」が関って、起こることてある。あるいは、「意志」の「集合」により、「物質的な現実」が創出されるという場合、その「集合」には、人間だけでなく、他の自然物や存在を含めてみるべきということにもなる。

さらには、この、様々に多様な「意志」の根底は、実際には、「一つ」のものとみることもできる。それは、いわば「宇宙の意志」ないし「神の意志」ということにもなる。多様な「意志」による「現実」創出の力は、根源的には、そのような、根底にある「宇宙の意志」ないし「神の意志」から来るものといえる。

※2 リサ・ロイヤル、キース・プリースト著『コンタクト』という本では、「宇宙人」と地球人のコンタクトが起こりにくいのは、このような意味での地球人の「現実」に、宇宙人の「現実」が、組み入れられないからだということを述べている。つまり、地球において育まれた、地球人の集合的な「知覚」によっては、宇宙人の存在を、取り込むことができにくいのである。集合的に受け入れられないものは、そもそも、「知覚」にかからない(排除される)ということである。

ここ(http://mononomikata-kerogg.blogspot.jp/2011/08/blog-post_08.html)にも触れられているように、マゼランの大型船団が、フエゴ島に到着したとき、島民には、「見えなかった」り、ペリーの黒船が、当時の江戸の庶民の一部には、「見えなかった」りしたのも、同じようなことである。

※3   記事『幻覚的現実と物質化現象の「中間的現象」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)で述べたように、「幻覚的現実」と「物質化現象」との間には、様々な「中間的現象」があり得る。それは、「物質的現実」として創出される力の、さまざまな程度の違いの問題とみることができる。それは、まさに、ここで述べたような、「意識(意志)」の「集合」の度合いの問題ということでもある。つまり、「意識」が「集合」されるほど、「物質的現実」として創出される度合いは強まるが、そこに至らない場合にも、様々な「中間的現象」として、現出する可能性はあるわけである。

※4 この「確定的現実」とは、時間や空間の枠組の中で、位置付けされる、物質的現実ということだが、それらも、「内在秩序」のある側面の反映に過ぎず、「内在秩序」そのものは、物質を超えた領域を広く含んでいる。だから、一般の「知覚」では、披き出されない、そのような領域を反映する「知覚」というものも、十分あるわけである。一般には、「霊的知覚」といわれるが、「幻覚」といわれるものも、そのようなものを含む可能性があることになる。

ただし、「霊的な知覚」だからといって、より真の「実在」を反映するとは限らないし、上にみたように、「全体」を反映する、ということにもならない。

2016年11月 7日 (月)

意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1

意識と物質の関係に関する一連の記事(『「宇宙人」と「霊的なもの」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-57a6.html 『「量子力学の観測問題」と「意識」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-c0a9.htmlhttp://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ec1e.html 『「超能力」「気」と「量子力学」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-d1d8.html 『「ホログラフィック・パラダイム」について』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-77b9.html  )で、述べて来たことを、「知覚」と「現実」という観点から捉えなおしてみる。

端的に言えば、「現実」とは、まさに「意識と物質の関係」そのものとして創出されるのであり、「意識」との関係抜きには、あり得ないということである。

これを、「知覚」という観点から言い換えると、「現実」とは、(「意識」に基づく)「知覚」抜きにあるものではなく、「知覚世界」こそが「現実」となる。つまり、まず、「現実」というものがあって、それを「知覚」が映し出すのではなく、「知覚」こそが「現実」を生み出す、ということである

このことを、まずは、量子力学との関係でみてみよう。

量子力学は、物質の本質である「量子」とは、「観測」以前には、抽象的な「確率の波」に過ぎず、「観測」されて、初めて「粒子」という実在として現れることを明らかにしたのだった。

記事では、アインシュタインが、量子力学が、現象の本質を確率的なものとしてしか捉えられないことを批判して、「神はサイコロ遊びをしない」という言葉を残したことを述べた。しかし、アインシュタインは、量子力学が、「観測」以前には、現象を実在として捉えられないことについても、有名な批判の言葉を残している。それは、「月は、我々が見る以前には存在しないのか」というものである。

月は、(超)マクロの物質だから、直接この量子力学の捉え方を適用できるかは問題である(前にみたように、「デコヒーレンス理論」によれば、マクロの物質には適用されないことになる)。が、マクロの物質といえども、「量子」の集合体として、本質的な差異はなく、同じ捉え方ができるとみるならば、確かに、このような批判は真をついていることになる。

前にみた「シュレディンガーの猫」も、基本的には、同じ問題を扱ったものである。放射性物質が崩壊する(その量子力学的な確率は2分の1)のを検出すると、毒を放出する装置を、猫とともに箱の中に入れておくと、「観測」する以前には、猫はどうなっているか(「観測」すれば、もちろん、生きているか死んでいるかは確定できる)。この場合に、量子力学の波動関数を当てはめると、猫は、「生きている状態と死んでいる状態を重ね合わせた状態」にあることになるのである。つまり、「現実」の状態としては、「あり得ない」(実在しない)状態である。

要するに、「観測」以前には、確定的な「現実」なるものがあるわけではない、ということである。

「観測」とは、目を含む、観測装置を対象に作用させて、その反応をみるというものだが、それは、最終的には、「知覚」ということによってなされる。そこで、今度は、これを「知覚」という観点からみてみる。                                 
哲学などでは、たとえば、カントのように、「認識」は、人間のカテゴリーに基づくものであって、外的な「現実」そのものを明らかにするものではない。外的な「現実」(「物自体」)は、不可知である、と考えるものもあった。ところが、先にみたように、一般的な常識としては、まず「知覚」以前に、「現実」なるものがあり、「知覚」はそれを映し出すに過ぎないとみなされている。

しかし、最近の脳科学によっても、「知覚」とは、外的な情報をそのまま写し取るものではなく、脳が、入力した情報を分解し、さまざまな形で再構成して、「作り出す」ものであることが明らかにされている。それには、「記憶」や「思考」などの様々な主観的要素も入り込む。「知覚」が客観的な「現実」を映し出すなどとは、とても言えないわけである。

実際、それをもう少し押し進めた考え方として、「唯脳論」というものもある。これは、単純な唯物論的発想なのではなく、全ての「現象」は、脳が捉えた限りでの現象であり、端的に言えば、脳が生み出した「幻想」に過ぎない、というものである。「知覚」に限らず、脳が捉えるものは、客観的な「現実」を反映しているなどという保証は何もなく、いわば脳の中の、「仮想現実」に過ぎないということである。当然、出て来て然るべき考えだし、視点としては正しいというべきである。(ただし、これも押し進めれば、「脳」もまた、脳が生み出した?「幻想」の一つとなるはずで、脳だけが、あらゆる現象から独立した「実体」としての位置に立つのはおかしい。)

いずれにせよ、「知覚」が客観的な「現実」を映し出すとは言えない、という問題は、それなら、「幻覚」とは何かという問題も引き起こす。「知覚」が「現実」を映し出すのではないなら、それを「幻覚」と区別する理由はないはずだからである。

実際、「唯脳論」では、いずれも、脳が生み出した「幻想」として、「知覚」と「幻覚」を区別する本質的な理由はない、とする。それは、確かにそうなるはずである。あるいは、「知覚」こそが「現実」を作り出すという見方に即して言えば、「知覚」も「幻覚」も、どちらも「現実」にほかならないことになる。

ただし、後にみるように、それらに違いを見い出すことは可能である。「知覚」は、多くの者によって、「共有」される「現実」であり、「幻覚」は、少なくとも、現時点で、多くの者によって共有されず、特定の者がもつ「現実」に過ぎない。ただ、それも、要は、「程度問題」であり、今後、どのように移り変わって行くかは、不明である。

といっても、このような「知覚」について分かったこと、または、それを押し進めた考えは、量子力学がいう、「観測」が「現実」を作り出すというのとは、意味合いが異なっている。

量子力学は、「観測」が、文字通り、知覚可能な「確定的現実」を「出現させる」(波束を収縮させる)と言っているのであって、その「知覚」が、現実を反映しない「幻想」だと言っているのではない。

しかし、その意味合いの違いは、両者における、「意識」の関わりの問題を捉えることで、解消することができる。

もう一度、量子力学に戻ると、ノイマン・ウィグナー理論では、「意識」こそが、波束を収縮させる、つまり、確定的な現実を現出させるのだった。「観測」行為(「知覚」)には、もちろん脳の過程が伴うが、脳の過程といえども、物質的な過程であり、量子力学が適用されるものである。だから、量子力学から独立した、波束の収縮という現象は、脳の過程を超えた、「意識」そのものによって、なされるとみるしかない、というのが、ノイマン・ウィグナー理論の考えである。

「意識」が、量子力学的な過程に影響を与えることは、たとえば、多数の意識が、乱数発生器の量子力学的な発生の確率を乱すことを明らかにした、「地球プロジェクト」などによっても、示されている(同種の実験結果は、超心理学によって多数示されている)。この点からも、意識が量子力学的な過程から独立して働くとみることは、十分の理由がある。

しかし、波束の収縮が意識によって起こるというのは、波束の収縮は、量子力学的な確率の範囲でなされるものだから、それを超えてしまう、これらの実験事実とは相入れず、意識の独立性を認めることと、必ずしも一貫しない。また、波束の収縮は、「観測」によって、必ず起こらなければならないことであり、その意味でも、常に働くとは限らない、上のような現象とは異なっている。

さらに、波束の収縮が、意識によって起こるとすると、その意識とは、誰のものなのかという問題が生じる。波束の収縮という、確定的な「現実」そのものを現出させる行為が、誰によってなされるのかということだから、重大な問題である。最初に「観測」した者が、波束を収縮させることになるのか。多くの者の意識が、共通して、初めてなされることになるのか。そもそも、この意味の意識とは、人間だけがもつものなのか。猫にも、この意味の意識があるのではないか。さらには、観測装置にも、この意味の何らかの「意識性」が認められるのではないかなど、様々な疑問が生じる。

実際、人間だけが、この意味の「意識」をもつとするのは無理というべきである。人間が「観測」するまで、絶対に、物質の状態が確定しないなどということは、あり得ない。また、人間だけが意識をもつという発想は、一神教的な発想から生まれた、西洋近代のものであり、何ら普遍的なものではない。

人間だけが、意識をもつ(「観測」する)という発想をするから、「月は、観測以前には存在しないのか」という疑問も出て来るのである。他の天体同様、月そのものも、「意識」をもつかもしれないし、人間以外にも、月を観測する生命体はいくらもある。少なくとも、その段階で、月の存在は「確定」しているはずである。「シュレディンガーの猫」の場合も同様で、猫が意識をもつとすれば、その段階で「確定」するし、観測装置にもある種の「意識性」を認めるなら、その段階で確定するという発想も可能である。

さらに、山田廣成のように、電子が意識をもつとすれば、波束の収縮の問題は、電子のレベルからの、種々の意識と人間の意識との相関で決まることで、人間の恣意の働く余地は、ほとんどないことになろう。

このように、意識が波束の収縮をもたらすといっても、それは、人間の意識ということではなく、様々な多様な意識のせめぎ合いの結果ということである。ただ、人間の意識が関与する場合、「地球プロジェクト」のように、量子力学的な確率を超えて、作用することもあることになる。それは、一種の「超能力」といえる。

ここで述べた「意識」とは、波束の収縮をもたらすものとしての意識、つまり、量子力学的な過程から、何ほどか独立した要素をもつものとしての意識であった。

一方、「知覚」において、一種の「幻想」として、「現実」を作り出すというときの、意識の関りはどのようなものだろうか。一般の脳科学では、知覚という現象も、脳の過程に還元されるものとみなされる。が、脳の過程は、知覚するときに脳で起こっていることを説明するだけで、「知覚」そのものではないというべきである。たとえば、「赤い色」を見ているときの、脳の過程は、それをいくら詳しく解析しても、現に見ている「赤い色」そのもではない(※1)。あるいは、言い換えれば、脳の過程ということでは、「知覚」において、本当に「見ている」当のものが、一向に明らかにならないということである。

やはり、「知覚」においても、何かしら、物質的過程から独立した要素をもつ、「意識」という「主体」を想定しない限り、成り立たないというべきである。しかし、「知覚」とは、「観測」の場合の、波束の収縮という現象に限定されない、より広い過程であることは明らかである

そこには、種や存在による、生物学的な基盤の違いが、当然作用する。また、人間の場合でも、文化や個体によって、「信念体系」、「思考」、「記憶」など、意識による、様々な主観的な相異の影響が働く。この場合の「意識」とは、波束の収縮の場合のように、物質的な過程から独立した要素のみではなく、脳の過程ということも伴いながら、「思考」や「記憶」等の具体的な内容をもった働きを含むのである。

そういうわけで、波束の収縮そのものと異なり、「知覚」とは、客観的な過程などではなく、様々な差異と、主観的な色付けを帯びたものということになる。

だから、「知覚」全体として言うならば、それは、客観的な「現実」を映し出すものではなく、一種の「幻想」として、「現実」を生み出すもの、ということにもなるのである。(続く)

※1  「クオリア問題」ともいわれる。前にあげた、このサイト(http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria.html)では、この問題についても、詳しく分かりやすい説明をしている。

2016年9月17日 (土)

「ふと見た」瞬間に遭遇する現象

「被害者」と称する人たちを除いては、「集団ストーカー」と「統合失調」に、共通の要素があることは、一目瞭然のことと思う。ただし、多くの人は、「統合失調」が「病気」であるという一般的な理解に引きずられて、「集団ストーカー」も「病気」という視点からみてしまいやすい。が、私は、「病気」という視点からは、何も明らかにならないことを強調し、実質的に、両者に共通する要素を、明らかにしてきたつもりである。(そのうえで、両者の違いについても明らかにしている。)

「集団ストーカー」に関する記事は、この辺で終わりにしようと思っているが、「集団ストーカー」の観念の元となる、感覚にまつわる現象として、もう一つ重要なことを指摘しておきたいので、それを述べることにする。

私は本当によくあるのだが、一つの現象として、なぜか気になって時計を「ふと見る」と、「2時22分」とか、「3時33分」とか、時間が「ゾロ目」であった、ということがよく起こる。もちろん、偶然である可能性はあるが、「ふと見た」ときに、他の時間であることに比べて、偶然以上に頻繁に起こるとしか思えない。

「ゾロ目」の時間というのは、他の時間に比べて、印象に残りやすいので、そればかりがことさら記憶され、他と比べて、頻繁であるような錯覚を起こしているだけ、という可能性もある。しかし、それを差し引いても、やはり、偶然以上に頻繁に起こるとしか思えないのである。

これと似たこととして、外を歩いているときなど、ふと気になって、目を向けると、ちょうど、相手もまさにこちらを向こうとして、目を向けるところで、タイミングよく、ピタリと目が合ってしまうということが起こる。これには、多少の驚きと、圧迫感が伴うので、お互いに、「なんだお前!」的な目つきになって、相手を見てしまい易い。つまり、下手をすれば、相手が「悪意」をもって、自分をみつめていると解釈して、険悪なムードになってしまうこともあり得る。

このように、「ふと見る」というときには、何か、偶然とは思えない、印象に残る現象が起こっていることが多いのである。

恐らく、「集団ストーカー」の被害を訴える人にも、これに類することが、かなり頻繁に起こっているものと解される。その「ふと見た」瞬間に出会っている人なり、車なりが、ちょっと変わった態度なり、状態(まさに「ゾロ目ナンバー」であることも多いだろう)なので、強く印象づけられ、圧迫感を感じ、自分に対して、何らかの「悪意」をもっているように感じられることも多いのである。

もっとも、普通は、こういうことは、ほとんど気にも止めないものだが、特に過敏な感覚と、受け取り方をしてしまうため、こういったことが、普通以上に強く印象づけられ、それに、ことさら捕らえらてしまうという人たちもいる。

こういう人たちが、被害妄想的になっているときに、「集団ストーカー」という観念に出会うと、それらの現象が、見事に、これに当てはまると思ってしまい易いのである。こういったことも、「集団ストーカー」の観念に捕らえられる、一つの大きな理由になっていると思われるのである。

「ふと見る」瞬間に、偶然とは思えない現象が起こり易い、というのには、いくつかの理由が考えられる

まず、人には、「周辺視野」というものがあり、実は、意識的に「見る」ということが起こる前に、無意識レベルで、それを「見ていた」という可能性がある。つまり、意識レベルでは、何とはなしに、「ふと見る」という感覚で、始めて見るつもりだったとしても、実は、無意識レベルでは、既にそれを「見て」いて、それに何らかの印象を感じていた可能性がある。だからこそ、意識レベルにおいて、「ふと見よう」という気を起こさせたのである。

「ゾロ目」にしても、人との遭遇にしても、実は、無意識レベルで既に「見て」いて、何がしか印象づけられたからこそ、意識が反応して「ふと見た」のだが、意識レベルでは、「ふと見た」瞬間に、まさに、それが起こったように感じられる。それで、それが、偶然ではなく、その瞬間に、特別に起こった現象と感じられてしまうのである。そして、驚きや、恐怖を感じてしまうことにもなる。まず第一に、こういうことが考えられる。

しかし、無意識の感受性というのは、「周辺視野」により、実際に「見て」いたものについてだけ、生じるというものではない。特別に敏感な感覚を持っていたり、恐怖のため、催眠に似た、変性した意識状態にあったりした場合などには、なおさら感受性が高まって、そういうことが起こる。

つまり、無意識レベルでは、周りの世界のことについて、実際に「見て」いなくとも(「見る」という可能性がない場合でも)、「予感」として感じたり、物理的な感覚とは別の次元で、感覚していたりすることが、あり得るのである。そのときの印象が、先の場合と同様に、意識レベルで、「ふと見る」という気を起こさせ、その瞬間に、その現象が起こったように思わせる。そして、この場合には、ある程度の予測がつく、「周辺視野」で見ていた場合以上に、「奇妙」なことと感じられ、強烈な印象を残すことになる。まさに、信じ難い「タイミング」で、偶然とは考えられないことが、起こっていると感じさせるのである。それは、より強い驚きと、恐れをもたらし、ますます、そこに、「悪意」のようなものをみてしまうことになる。

この、「集団ストーカー」の被害者がよく言う、「よいタイミング」については、実際には、記事『「恐怖心」が引き寄せる現象』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-e6b5.html)でも述べたように、単なる主観的な「錯覚」であることがほとんどだと思う。そのような「タイミング」というのが、他の場合に比して、本当に「頻繁」に起こっている訳ではないということである。「集団ストーカー」という疑いをもって、恐怖のもとに、周りの世界を見ているので、「視野狭窄」に陥り、そのようなものにしか目が行かなくなる。その結果、それが、頻繁に起こっているような感覚に、陥ってしまうのである。

ところが、中には、本当に「偶然ではない」と感じるだけの理由がある場合もある。その理由の一つとして、上にあげたような場合(これも一種の錯覚といえるが)がある、ということである。

「偶然ではない」と感じる理由の中で、最も強力なのは、先の記事でも述べたように、自分自身が、共時的に現象を引き寄せているという場合である。しかし、それは、自分の中の、本当に深いところで、強力に「集団ストーカー」の観念と恐怖に捕えられている場合に、起こることであり、一般には、そう頻繁に起こることではない。

しかし、そこまでいかなくとも、ここで述べたようなことは、割とよく起こることなので、注意が必要ということである。

2016年8月31日 (水)

映画『激突』と「集団ストーカー」

スピルバークのデビュー作である『激突』という映画には、エイリアンや未知の存在は、一切出て来ない。一介のサラリーマンの運転する車が、巨大なタンクローリーに、意味もなく付きまとわれ、追いかけ回されるというだけの話である。しかし、そのホラーとしての恐怖は、他のものにも勝るほどである。そこには、不思議なほとのリアリティが存在しているのだ。

初め、仕事で急いでいる車の運転手は、片道一車線の道の前をゆっくり走る、巨大なタンクローリーにいら立ち、追い越そうとする。が、そうすると、タンクローリーがスヒードを上げて、抜かせないことを繰り返すので、困惑する。しばらくすると、タンクローリーが、窓から手を出して、「行け」と合図をする。それで、これ幸いと、抜かしにかかると、対向車線には車が来ており、危うく衝突しそうになって、肝を冷やす。

運転手は、タンクローリーの意図を計りかね、恐れを抱くが、しばらくすると、タンクローリーが給油のため、スタンドに立ち寄る。運転手は、これで解放されたとばかりに、喜んで運転する。しかし、しばらくすると、後ろから、先のタンクローリーが物凄いスピードで追いかけてきて、車に迫り、ぶつけて、突いたりする。一体どうしてなのか、先の追い越しの一件で、何か怒っているのか、全く分からない。車を停めて、先に行かせようとしても、タンクローリーも後ろで停まって、こっちが動くまで、動かない。動けば、また動き出し、物凄いスピードで車に迫ってくる。

さらに、踏切で停まっていると、後ろから、タンクローリーが、なんと車を突いて押してくる。つまり、列車に激突させようとしているのである。

もはや、単純な、付きまといや、嫌がらせではあり得ない。「殺意」があることが、明白である。運転手も、さすがに「開き直り」、とことん戦うしかないと腹を決める。その後、この車と、それを追うタンクローリーとは、カーチェイスまがいの激闘を繰り広げる。ところが、車はエンジンがオーバーヒートして、スピードが出なくなり、絶体絶命の危機を迎える。が、最後には、崖の近くへとタンクローリーを誘い込み、自分はぎりぎりのところでかわして、タンクローリーを崖から落とすことに成功する。

何の関係もない、何者かによる、全く、「理由の分からない」、理不尽な「つきまとい」。殺意するある、徹底的で、しつこい「嫌がらせ」。このタンクローリーの運転手の顔は、最後まで見えない。それが、また、「実体のはっきりしない」恐れを、膨らませている。

この「タンクローリー」は、まさに、現代人の恐れの表現としての、「集団ストーカー」を象徴していないだろうか(※2)。

かつての共同体が崩壊し、人々は、互いに切り離された「個人」となった。人々は、互いに、「見えない」「他者」となり、ぎすぎすとした緊張関係に陥り、「敵意」や「悪意」をみることが多くなった。さらに、切り離された、個々の個人は、そのような「見えない」「他者」の集合である、「集団」に対しては、全くの無力である。「他者」というものに、「敵意」や「悪意」をみることが多くなるほど、その集合である「集団」」というものも、実際以上に、「悪意」をもった、恐るべきものとして、膨れあがる。そのような「集団」は、無力な「個人」を、意味もなく圧迫し、葬り去りかねないものとなる。

「タンクローリー」の巨大さ、そして顔の見えなさは、そのような「集団」、さらには、巨大な「組織」というべきものを、象徴しているようでもある。一介の平凡な個人が、巨大な組織に「目をつけられ」たら、このような理不尽なことが起こり得るかもしれない。そのような不安や恐れを、現代人は、多少とも、心の内に抱えている。この映画は、それを見事にすくい取り、表現しているため、不思議なリアリティと、単純なホラー以上の恐怖を、醸し出しているのである。

実際には、「集団ストーカー」という観念は、多くの人にとっては、取りに足りない、「ばかげた」ものと言うかもしれない。しかし、この観念は、映画と同様に、このような現代人の不安や恐れを、見事にすくい取るものではあるのである。

自称「集団ストーカー被害者」が、ネットなどであげる、被害の「証拠」とは、人や自転車が自分の前や近くをよぎったり、ちょっと変わったナンバーや状態の車と遭遇したり、工事その他の音が襲って来たりの、誰もが日常的に遭遇する光景に過ぎない。あえて言うならば、それらは、「日常的」な中でも、「ちょっと変わった」出来事、あるいは、「違和感のある」出来事くらいの感じのものである。普通は、気にもとめずに、やり過ごされる。あるいは、一瞬、気には止められても、すぐさま忘れ去られる。

多くの人にとっては、そのように、誰でも遭遇する「日常的な出来事」を、「集団ストーカー」の被害などと解釈して、本気で訴えかけることは、信じ難く、異様なことである。「おかしい」という印象を、もたざるを得ない。

しかし、実は、そのように、誰にでも起こり得る、「日常的な出来事」。そうでありながら、ちょっと変わった、違和感のある(かなり漠然とした、曖昧な)出来事(※1)を、「集団ストーカー」による行為として、拾い上げていることこそ、「集団ストーカー」という観念のミソであり、巧妙さなのである。それが、何か特殊で、具体的な行為であったならば、そうは誰にも当てはまらず、この観念が広まることもない。

そういった、一般には気にも止められない出来事も、一度、「集団ストーカー」という観念にリアリティをもって、眺められるならば、まさに、パズルのように、それにピタリと当てはまるものとなる。そのようにして、「集団ストーカー」という観念をもつこと自体が、その観念に適う出来事を、いくらでも拾えるようになっているので、さらにその観念を補強できるのである。

現在のところは、もともと「被害妄想」的だったり、「自己と他者の境界が曖昧」で、特別に過敏な感覚をもっている者が、この観念に捕らえられている。しかし、このまま、この観念が広がって行けば、いずれは、多くの者の心も捕らえ兼ねない可能性を秘めている。既にみたように、「集団ストーカー」という観念は、現代人の不安と恐怖を、見事にすくい取り、潜在的には、誰もがリアリティをもっておかしくないものだからである。

たとえば、ストレスが重なって、心か弱っているとき。あるいは、何らかのきっかけで、不安が大きく襲って来たときなど、ふとした隙に、この観念に捕えられるという可能性は、決して 少なくないのである。平凡なサラリーマンである主人公の、日常のふとした瞬間に、巨大な「タンクローリー」が襲ってきたようにである。

※1 このような出来事は、実際には、「集団ストーカー」ではなくとも、何らかの「悪意」や「攻撃性」が含まれたものである可能性はある。たとえば、ぎすぎすした個人の、本人すら気づかない、何らかの「悪意」の表現であったり、あるいは、「人と人の間」に潜む、自然霊などの攻撃や演出であったり、深く「集団ストーカー」の観念に捕えられた者が、自ら「共時的」に「引き寄せた」現象であったりするのは、既に述べたとおり。

※2(後に追加)

しかし、この「タンクローリー」が端的に象徴する「存在」といえば、何と言っても、「アーリマン存在」である。突発的で、有無を言わさぬ、強引かつ圧倒的な「破壊力」の顕示。それは、既にあげた、9・11の航空機がビルに突撃する瞬間、3・11の津波が襲いかかる瞬間、なまはげの鬼が子どもに襲いかかる瞬間と共通するものがある。徹底的なほどの、陰湿さと執拗さもそうである。あの「ずんぐりむっくり」した恰好や、薄汚く、どぶっぽい色も、私は、よく「アーリマン存在」の性質を表わしていると思う。「アーリマン的なもの」の一つの重要な特性として、「集団性」があることも、既にあげていた。(記事『「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-f9e6.html)

また、実際に、「集団ストーカー」なる観念の生みの親も、「アーリマン存在」というべきである。もちろん、直接の唱道者は人間であるとしても、そのアイデアのインスピレーションの与え手は、「アーリマン存在」と考えられるのである。産業革命以降の「技術」のインスピレーションの与え手が、「アーリマン存在」であるのと同じような意味でである。

この種の「アーリマン存在」がもたらした観念やアイデアは、多くあるが、たとえば、様々な「詐欺」の形態のアイデアもまた、そうである。それらは、「集団ストーカー」の観念とも、共通するところがあって、普通は、「ひっかからない」と思われがちだが、人の弱点をついて、ふとした隙に、信じ込ませてしまうような、それなりに巧妙な仕掛けが施されている。また、かつて流行った、「不幸の手紙」や「チェーンメール」などの発想も、陰湿に、人の不安を煽りつつ、拡散させることを狙った、「アーリマン好み」の「ゲーム」のようなもので、「集団ストーカー」の観念と共通の要素がある。

2016年8月18日 (木)

「集団ストーカー」という観念自体が引き寄せる現象

私の「集団ストーカー」に関する記事で、最も重要な記事は、『「恐怖心」が引き寄せる現象』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-e6b5.html)
だと思うのだが、タイトルに「集団ストーカー」が含まれていないこと、主に「統合失調」の場合を想定して述べたこともあり、あまり読まれていないようだ。

要は、ある強い疑いをもって、「集団ストーカー」なるものがあると思ってしまった段階で、もはや「現実」は、その方向に引き寄せられて、「解釈」されるようになる。さらに進めば、それだけでなく、実際に、その方向に沿うような「現実」を「引き寄せ」、「作り出し」てしまうことにもなる、ということである。

「恐怖心」が「引き寄せる」としたが、必ずしも、そのような恐怖心は本人が意識するものではなく、潜在的なものでも、十分である。さらには、「集団ストーカー」の場合には、その観念が、かなり具体的なものとして練り上げられているので、その観念を信じること自体が、もはや十分「現実」を引き寄せるだけの「力」を持ち得るのである。

現実を「作り出す力」としては、「感情」も強力だが、具体的に練りこまれた「思考」や「信念」も、十分強力なものだからである。もちろん、両者が補え合えば、さらに強力なものになる。

もちろん、そこには、「捕食者的な精霊」や「宇宙人」などの、「力添え」もあるのだが、その大元にあるのは、自分自身の「物の見方」と「恐怖という感情」であることに、気づかねばならない。

他にもそのようなものは多くあるが、「集団ストーカー」という観念自体が、「現実」を「引き寄せ」、さらには「作り出す」、一つの強力な「装置」なのである。それは、感染症におけるウイルスのように、自己増殖し、拡散し、遂には、多くの者の「日常世界」を、病的に侵すことになる。

感染症を広めて、物理的に、恐怖と混乱を引き起こしたい場合には、新種のウイルスを開発して、まき散らせばよい。同じように、精神的なレベルで、多くの者に、恐怖と混乱をもたらしたい場合には、それなりに練り上げられた、「集団ストーカー」なる観念を、まき散らし、それを信じ込ませることさえできればいいのである。

一旦、その観念を信じ込ませることにさえ成功すれは、あとは、その者が、自ら、それに沿う形の「現実」を「引き寄せ」、「作り出し」て、大騒ぎしてくれる。ますます、その観念は、「力」を増して、増殖し、拡散して、多くの者を捕えるようになる。

これが、いきつくところまでいきつけば、人間がお互い同士、相手を「集団ストーカーの加害者」とみなして、反目しあい、糾弾し合うようになる。その光景は、既に歴史的には、馴染みのあるもののはずである。まさに、「魔女狩り」の沸騰の再現ということである。

「集団ストーカー」という観念と、「魔女」という観念は、人々の思考を惑わし、実体のはっきりしない恐れをとどめなく膨らませる、同じような構造をなしている。ただ、具体的な「行為」で恐れさせる「魔女」に対して、「集団」という「権力」を背景に、仄めかし、監視、嫌がらせという、間接的な行為で、じわじわと攻め立てる「集団ストーカー」は、いかにも、現代的に、陰湿なもので仕立てられている。

「集団ストーカー」という観念に捕えられないためには、もちろん、「自己」そのものと、現実的な思考力を鍛えることも必要だが、「集団ストーカー」という観念の、このような性質について、十分に考えを巡らせてみることも必要である。

※ 最近、私が記事でとりあげている、「量子力学の観測問題」とか、「物質と意識の関係」とか、「ホログラフィック・パラダイム」とかの問題は、こういった問題とかけ離れた、「非日常的」で、「抽象的」な問題と思っている人がいるかもしれない。

しかし、これらの問題は、「量子力学」やそこから発展した「パラダイム」も、もはや「現実」というものが、「意識」と無関係に存在し得るものではないことを明らかにしているのである。つまり、結局は、「意識」が「現実」というものを、どのように「引き出し」、さらには「創造」するかという問題なのである。それは、「集団ストーカーという観念が引き寄せる現実」という問題とも、十分通じている。

次回は、このことを、「知覚」=「現実」という問題との絡みで、少し分かりやすく、説明してみたい。さらには、「物質と意識の関係」について、総まとめをして、とりあえず、この問題からは離れることにしたい。

2016年8月 4日 (木)

「ホログラフィック・パラダイム」について

「物質」と「意識」の関係を考えるうえで、物理学の方面から出されている説で、現在最も参照になるのは、「ホログラフィク・パラダイム」だと思う。今回は、この説を、簡単に説明しつつ、いくらかコメントしておきたい。

みてきたように、量子力学は、ニュートン力学に代表される、それまでの古典力学の常識を根本的に覆すものだった。が、もちろん、そのような量子力学に不満をもつ科学者も多くいた。その不満は、基本的に次の2つの方向に集約できると思う。

一つは、量子力学が、量子の現象を確率的にしか捉えられないこと。量子力学では、古典力学的な、「決定論」が成り立たず、ある原因から一義的な結果を導くことができない。そのようなものが、「物の理」を真に捉えたものであるはずがない、というものである。

その代表は、アインシュタインで、量子力学を揶揄した、「神はサイコロ遊びをしない」という言葉は有名である。彼は、意識的な一神教信者ではなかっただろうが、やはり、それまでの西洋の文化的伝統の影響を強く受けて、(神によって創造された)宇宙は、厳密な法則に貫かれた、「決定論」的なものでなければならないと考えていたのだ。

もう一つは、前者とも関るが、量子力学が、量子を、「観測」によって初めて、「実在」として捉えられるものとすること。言い換えれば、観測以前にあるのは、「確率の波」という「抽象的」なもので、具体的な「実在」とは言えないものであること。狭義の「コペンハーゲン解釈」では、それで実用的には問題ないというが、「物の理」を追究する科学者にとっては、それでは満足し難いものがある。

この方向での批判者は多いが、記事『「公案」としてのクリシュナムルティ 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-4946.html)でも、クリシュナムルティの対談者としてとりあげた、デヴィッド・ボームもその一人である。彼が、「観測問題」の解釈として提出した「パイロット波」説というのも、量子の実在性に沿った方向での解釈で、「波」としての性質は、「粒子」としての実体の「先導波」として生じているに過ぎないとしたものである。

また、ボームはアインシュタインとも共同研究し、量子力学には、「隠れた変数」があって、それがみつかれば、量子力学も、実在的で、決定論的なものとして書き換えられるという説も提示していた。

しかし、後に、「隠れた変数」なるものは存在しないことが、数学的に証明されたし、「パイロット波」説も、数学的には問題が多いことが、明らかにされてしまった。

量子力学は、当初の目論見以上に、強固な基盤をもっていたことになるし、ボームも実際それは、認めざるを得なかったようだ。そんなボームが、その後、さまざまに模索した後、単に「物理学」的な説というよりも、「宇宙」という、「実在」に関する、総合的な見方の提示として提出したのが、「ホログラフィック・パラダイム」(または「理論」)といわれるものである

「ホログラフィ」とは、当時開発された、レーザー光を使って、何もない空間に、三次元の立体映像を投射させる技術のことである。その原理については、たとえば、ここに、簡単な説明がある。(http://kubotaholo.la.coocan.jp/principle.htm)。大まかなものでも、この原理の理解こそが、この説の理解の鍵となるので、ぜひ参照してほしい。

映像そのものが刻まれている、通常の写真フィルムと異なり、「ホログラム」という記録には、被写体に当てられた、2つの分割された光の、反射光同士の波動の「干渉パターン」が刻まれているだけである。それが、レーザー光によって、再生されると、何もない空間に、リアルな三次元立体映像を映し出すのである。

また、この「ホログラム」は、部分に分割しても、そのどれもが、(精度はぼやけるが)全体としての立体像を投射できる、という性質をもっている。どの「部分」にも、「全体」についての情報が刻まれているのである。

ボームは、この技術に触発されて、「宇宙」というのは、それ自体が、一つの「ホログラム」であると考えるに至った。表に現われ出た現象は、「時間」、「空間」を含めて、より深層の領域からの、「ホログラム」的な情報の、一つの投影的な現われに過ぎない。そして、その、現に現われ出ている秩序を、「顕在秩序」と呼び、「ホログラム」として機能する、深層の、包み込まれた秩序を、「内蔵秩序」と呼んだ。そして、あらゆる現象は、この「内蔵秩序」と「顕在秩序」の、「包み込み」、「披き出す」過程として説明できる、と考えた。

「ホログラム」がそうであるように、「内在秩序」では、「全体」が包み込まれており、それらは、「部分」に分割できない、不可分のものである。ただし、それは、「ホログラム」とは異なり、動的に運動しているので、「ホロムーブメント」と呼ばれる。その本来、不可分の「全体」が、「顕在秩序」に「披き出される」と、たとえば、「粒子」のように、個々別々の分割されたものようにみえる、というだけである。

この見方は、「部分」が「全体」の情報を含むということで、あらゆる部分が、相似形的に、全体を反映するという、「全体論」的な見方と通じている。「全体」を分割して、「原子」のような、究極の単位に辿りつくことで、「物の理」が見えるという「原子論」的な発想とは、全く逆である。「部分」に分断する、これまでの発想では、むしろ、「全体」を取り逃がす、ということである。

また、既にみたように、量子力学の標準的解釈では、観測以前の現象は、「実在」とはいえないもので、観測によって、初めて「実在」と扱えられるものだった。ところが、ボームは、むしろ、観測以前の「内在秩序」こそが、真の「実在」であり、観測された現象は、それが投射される、一つの現われに過ぎないとしたのである。量子力学の発想を逆転させることで、「実在」に対する見方に、根本的な変革をもたらしたといえる。とはいえ、量子力学の数学的な面は、「内在秩序」が現れ出る過程の反映として、取り入れられているのはもちろんである。

さらに、「内在秩序」では、「全体」が包み込まれているので、「量子もつれ」のような、「非局所的な連関」も、当然のこととなるし、それは、本質的に、量子のようなミクロの現象には、限られないことになる。つまり、これまてみて来た、量子的な現象はもちろん、いわゆる「超能力」や「超常現象」のような、「物理的な伝播」では説明できないものも、説明する可能性をもっている。

実際、ボームは、「内在秩序」には、「物質」と呼ばれるものを超えて、「意識」も含まれているとする。ただし、「物質」とか「意識」とかの区別は、「顕在秩序」での現れ上のもので、「内在秩序」では、互いに浸透し合い、分ち難く結びついている。だから、山田廣成の説と同様、たとえば、電子のような量子も、「意識」をもっているが、一般に「意識」というのもまた、何らかの「物質性」を備え、「物質」から独立しているものではないのである。

前回、「物質」と「意識」の中間的なものとして、「気」について述べたが、恐らく、「物質性」を備えた「意識」とは、そのようなものを含むものと解される。

このような「物質」と「意識」との関係では、「観測問題」について、どのようにみるのかも気になるが、それは必ずしも、明示していないようである。しかし、「観測」行為というのも、そのような、「物質」と「意識」との絡み合いの一つの現れであることには、違いないはずである。そして、「観測」によって、具体的な「粒子性」が現れ出る以上、要するに、「内在秩序」から「顕在秩序」への「披き出し」の過程に、「観測」ということが、関っているとみるのは、確かと思われる。

しかし、「意識」の多様性を認めるボームも、「観測」とは、必ずしも、「人間」の意識の問題ではないとみるはずである。それは、多重に記録された「ホログラム」が、再生する方法(レーザー光を当てる角度)によって、様々な現われ方をするように、様々な可能性の中から、ある現われ方を「披き出す」、一つの方法のようなものと考えられる。(実は、ボームとは別に、脳科学者のプリブラムも、「脳」そのものが、記憶や知覚を全体として刻み込む、一種の「ホログラム」であるという説に辿りついていて、「観測」とは、そのような脳との関係の問題ともいえるが、こごては触れない)。

しかし、ボームは、このような「内在秩序」が、究極のものとみなしているわけではない。「内在秩序」のさらに奥に、それ自体は、「思考」を越えた(ボームは「意識」をも超えたものとみる)、従って、いかなる「言語」でも捉え切れない、「究極の実在」があるとする。それは、「全体性」とか、「聖なるもの」という言い方で、一応示されるが、それそのものを、いかなる「論理」としても、捉えることはできないことを認める。ただし、「思考」を越えた、「洞察」または「叡智」として、そこから働き出るものに、具体的に触れることはできる。それは、たとえば、クリシュナムルティのような「覚者」から、現われ出る、とするのである。

このあたりは、ボームが、クリシュナムルティと対談を重ねた結果の影響が、如実に出ているとしか、言いようがない。

この「全体性」は、前にみた、「観測」ということとに関しても、大きな示唆を与える。「観測」というのは、「物質」と「意識」の関わりの一場面であり、「内在秩序」から「顕在秩序」を「披き出す」、一つの方法であった。このような「観測」は、部分的なものであり、当然、「見るもの」と「見られるもの」との区別が、前提とされている。しかし、「全体性」を反映する「観測」というものがあり、そこでは、もはや、「見るもの」と「見られるもの」が一つであるような、分離のない、全体的な、あるいは、一体的な「知覚」になっている。(記事『公案の1「観ること」とは何か 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-ad2d.html)で述べたように、通常の「観測」が「見ること」だとすれば、これは、「観ること」に当たる)。

通常の「観測」も、「顕在秩序」を現に表に「現われ出す」という意味では、見方によっては、一つの「創造」といえるものである。(実際、「ノイマン・ウィグナー理論」などは、「意識」がそのような「創造」をもたらすという意味合いが強い)だが、実際には、それは、「内在秩序」からの、一つの部分的な投射に過ぎず、「みかけ」のもので、分断されたものである。

ところが、真の「観ること」は、そのような、部分的な「投射」を、むしろ「止め」て、「内在秩序」を越えた、「全体」を映し出すものといえる。

量子力学においては、「観測」が、存在を実在としてあらしめるという見方がとられたわけだが、それはむしろ、観測ということの、分断的な性質が露わになっているのであり、真の「観ること」は、むしろ、全体を全体としてあらしめることの方に関るということである。

この「全体性」は、「ホログラム」としての「内在秩序」との対比でいえば、「ホログラム」として記録される情報の、大元となるもので、それをもたらす、「真の実在領域」ともいえる(プリブラムは、「振動数領域」と呼ぶ)。ただし、それは、現に現われ出た「顕在秩序」と、全く別にある「領域」ということなのではない。それは、あくまでも、「顕在秩序」とともにあるものであり、それと切り離しては、存在し得ないものなのである。

何しろ、ボームの「全体性」についての言及には、クリシュナムルティの影響が強く現われ出ている。私も、記事『公案としてのクリシュナムルティ』で述べたとおり、クリシュナムルティの影響で、「霊的なもの」を越えた、「悟り」などどいう世界に目を開かれたわけだが、(物理学方面からのアプローチという違いはあるにしても)、このようなボームのあり様には、共感するところが多い。

以上、ざっと、簡単にみて来ただけだが、この説が、単に「量子力学」や「物理学」の範囲を超えて、いかに射程の広い、包括的な内容をもつものであるかは、分かってもらえるだろう。一時「ニューサイエンス」などとして、もてはやされた時期もあったが、もちろん、物理学一般からは、ほとんど認められていない、というよりも、評価不能としか言いようがない。

しかし、ケン・ウィルバーのような、「神秘体験」や「永遠の哲学」に通じた、トランス・パーソナルの方面からは、批判もある。ケン・ウィルバーは、「ホログラフィック・パラダイム」は、存在の、低次から高次にいたる、様々な「次元性」ないし「階層性」を無視し、真の「超越」ではなく、物質のより「内在的」なレベルについて、明らかにしたに過ぎないという。要するに、所詮は「物理」の「拡張」に過ぎず、伝統的な「神秘」を含めた、「全体」を語る資格のあるものではない、ということである。

この批判には、もっともな点もあり、確かに、ボームの見方は、「物理」の方面からみられた視点が中心を占め、限定されたものかもしれない。しかし、ケン・ウィルバーのいう「次元性」や「階層性」というのも、随分と硬直したものであり、それに拘泥するのは、真に「全体的」なことともいえない。ボームも、ある程度批判を入れて、「階層的」な発想も取り入れるようになっているし、むしろ、「物質」という、一見最も「低次」の領域にこそ、(「創造」に関るという意味でも)最大の「神秘」が隠されているという面もあり、そこに特別に注目することには、十分の理由がある。

また、「階層性」を重視しないことには、「超越」的な視点、あるいは「垂直的」な方向に徹する、クリシュナムルティの影響も大きいと思われる。全てを「超越」する「全体性」の視点に立つ限り、個々の「階層」の相違は、ほとんど無化され、「階層」の全体が、ある種、「幻想化」されもするのである。シュタイナーなどもそうだが、ケン・ウィルバーのように、「水平的」な方向を重視しつつ、全体として理論に取り込んでいこうとする者からすれば、強引な切り捨てに感じられるかもしれないが、実際、これは強調されてしかるべき視点なのである。

いずれにしても、「物理」的な方面から、あるゆる存在の全体を包摂するような、射程をもった物の見方として、現在、この「ホログラフィック・パラダイム」に優るものはないと思う。ただし、「理論」というよりは、あくまでも「パラダイム」(「物の見方」)で、包括的である半面、個々の現象の説明原理としては、まだまだ抽象的で、今後、具体的な理論によって、埋められるところは埋められる必要があるとは思う。

ちなみに、この「パラダイム」は、超ひも理論との絡みで出されている、重力理論、「ホログラフィック原理」とは、直接の関係はない。しかし、この理論などは、この「パラダイム」のある部分を埋める、具体的な理論として機能する可能性はあるだろう。

前に、記事『「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-d8e8.html)で、宇宙人の技術として、「ホログラフィの挿絵」というものがあることをとりあげた。しかし、「ホログラフィック・パラダイム」によれば、そもそも、宇宙の現象そのものが、「ホログラフィの挿絵」といえるものとなる。いずれも、ある種の「幻影」ということだが、この両者には、もちろん相違もある。

宇宙の現象としての「ホログラフィ」は、比喩的にいえば、創造者としての「神」と、あらゆる存在とが、共同で、「内在秩序」から、「披き出し」たものといえる。それに対して、宇宙人の技術としての「ホログラフィの挿絵」は、特定の宇宙人が、その利害から、我々人間を巻き込んで、「投射」したものに過ぎない。

「ホログラフィの挿絵」に翻弄されないためには、「現実」との見極めが必要ということは確かにある。が、むしろ、「現実」そのものも、また、一つの「ホログラフィ」に過ぎないことを、押さえておくことも、それに囚われて、振り回されないための、一つの重要な要素なのである。

※ 本としては、ケン・ウィルバー編 『空像としての世界』(青土社)が、様々な面から、「ホログラフィック・パラダイム」を照らし出していて、いいと思う。プリプラムの論文。ボーム自身への、かなり詳しく、つっ込んだインタピュー。ケン・ウィルバーの批判などが収められている。

また、マイケル・タルボット著 『投影された宇宙』(春秋社)は、「ホログラフィック・パラダイム」の分かりやすい解説とともに、自身が能力者であり、「超能力」や「超常的な現象」全般について、いかにこの説がうまく説明するかを、説得的に述べている。

2016年7月26日 (火)

「ポケモンGO」とスマホ依存

「ポケモンGO」が日本でも販売されて、社会現象になっているようだが、実際いたる所で、スマホ片手にポケモンを探している人を見かける。さまざまな危険、たとえば、事故やトラブルの増加、スマホを通しての情報漏れや情報収集、不審者や犯罪者との錯誤やそのカモフラージュなど、も取り沙汰されている。それぞれ、もっともなことだと思う。

しかし、私は、最も危惧されるのは、スマホ依存の強化、拡大だと思う。

私は、もっていないので、よくは知らないが、最近は、スマホもいろいろな使い道がある意味頭打ちになり、全体として依存度も減少し、飽きられかかっていたところと思われる。そんな中、「スマホの危機」を救い、新たに依存者を拡大すべく、(最終?)兵器として投入されたのが、「ポケモンGO」なる最新技術のバーチャルゲームなのだ。

ただし、「ポケモン」というコンセプト自体は、記事『日本の憑きもの』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-6390.html)でも、ちょっと触れたように、狩猟民的なシャーマニズムをモチーフにしたもので、現代の若者に、絶大な人気があること自体は頷けるものである。中国でも、「都市精霊GO」という、お得意のパクリものが出たらしいが、この「都市精霊」という言い方は、実は「ポケモン」の実質を端的に言い表わしている。

「ポケモン」は、まさに「都市」に住む「精霊」なのであり、「自然」から切り離されて、都市化した社会の中で、かつての「生きた自然」を象徴的に体現し、疑似的に体験させてくれる、貴重な存在なのだ。それは、「失われた」もの、しかし、もしかしたら、今も何らかの形で身近に潜んでいるかもしれないものを、郷愁と予感をもって、照らし出しているのである。

実は私も、初めゲームとしてポケモンか出たときに、甥たちが一生懸命やっていたのにつき合って(?)、やっていた。まだ、あまり攻略本も出ていなかった頃に、クリアしているし、ポケモンも151種類全部集めている(「ミュー」は「コイキング」からの裏技ゲットだが)。しかも、暇なことには、(対戦上必要があったのだが)、100レベルまで育てたポケモンもいる。

本当に面白いし、よくできていて、ハマるのもよく分かる。

しかし、だからこそ、これをスマホと結びつけたら、「スマホ依存」のための最強の武器となるのだ。

「スマホ」をもって、ポケモンを探しに外に出ることは、「ひきこもり」対策にもなる、などということも言われるようだが、その者が触れているのは、外の世界などではなく、ひきこもっているときと同じ、相変わらずの、「バーチャルな世界」、それも、スマホと結びついて、より強化された世界である。

記事『身近に入り込んでいる「宇宙人の技術」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-7e52.html)でみたように、スマホやケータイ、インターネットなどの情報機器は、「宇宙人」が、彼らの支配領域に、人々の意識をつなぎとめるための、強力な武器と化している。それは、霊的な方面からの、影響力や憑依を拡大する手立てともなっている。

「スマホ依存」が拡大することは、もちろん、現体制にとっても、人々の思考の停止や弱体化など、大きな利益である。しかし、さらに大きな利益を受けるのは、その背後で実質的に操っている、「宇宙人」たちなのである。

若者たちは、「ポケモン」を育てているつもりで、実際には、「ポケモン」(邪悪な「宇宙人」ないし「自然霊」)によって、「育てられている」としか言いようがない。

2016年7月 2日 (土)

「超能力」「気」と「量子力学」

再び、コラム的な話題を挿入しておきたいと思う。

「物質」と「意識」の関係を考えるうえでは、「超能力」や「気」といった問題を抜かすことはできない。そして、これらの問題も、これまで述べて来た、「観測問題」と「意識」の問題や「量子力学」と関るものをもっている。今回は、それらの関りを、ざっとみておきたい。

「超能力」の場合について、『モーガン・フリーマン時空を超えて』で取り上げられた、「地球プロジェクト」による乱数発生器の乱れの場合についてみてみよう。

これは、人間の意識の影響により、乱数発生器の本来発生すべき確率的割合に、乱れが生じたものと解される。乱数発生器は、量子レベルでの、量子力学の原理的な確率性に基づいてできているから、意識により、量子力学によって予測される確率に影響が与えられたと解されるのである。

ただ、この場合の意識というのは、特定の誰かのものではなく、(人間とも必ずしも限らない)漠然と、多くのものの集合的な意識ということである。また、無意識的なもので、「観測」に基づいてなされたものではないので、量子力学的な「波束の収縮」の過程に意識が作用したものかどうかは不明である。だが、量子力学的な確率に影響が与えられた以上、そう解す余地は十分あるはずである。

しかし、この場合には、ノイマン-ウィグナー理論のいう「意識による波束の収縮」とは、はっきりと異なる面があることに注意しなければならない。

ノイマン-ウィグナー理論のいう「意識による波束の収縮」とは、あくまで、量子力学の予測する確率の範囲で、個々の、恣意的な収縮が起こることを認めるものである。つまり、個々の収縮は、予測のできない、恣意的なものであっても、全体として統計的にみる限り、量子力学の予測する確率に従わなければならない。そうでなければ、量子力学の「波束の収縮」という事態を超えたものとなってしまう。

しかし、地球プロジェクトの場合は、このような量子力学の予測する確率を乱すもので、単に、意識が、波束の収縮をもたらす範囲を超えて、作用を及ぼしているのである。だからこそ、一種の「超能力」であり、「超常的な現象」なのである。

ただし、個々の「収縮」に注目する限り、厳密にこれらの場合を区別することは難しい。そもそも、「波束の収縮」も、物理過程から独立した意識がもたらすものとされる以上、ある種「超常的」(超越的)なものであり、その「超常性」故に、「波束の収縮」という量子力学では説明できない現象を起こすとされるのである。

だから、もし、波束の収縮が、一般的に、ノイマン-ウィグナー理論のいうように、意識によってもたらされるのなら、それは、量子力学的な確率の範囲に収まるという方が、不自然である。地球プロジェクトでみられるような、「超能力」的な場合と、区別されるだけの、十分の理由がないということである。

そういうわけで、波束の収縮自体は、その意味でも、ノイマン-ウィグナー理論のいうように、意識によって、恣意的にもたらされるものとは解し難い。ただ、地球プロジェクトの場合のように、波束の収縮に意識が関与する可能性はあり、そうした場合には、量子力学的な確率の範囲を超えることになるのが自然ということである。

これは、「波束の収縮」と「超能力」が関係するような場合にみたことだが、「超能力」そのものは、何度も述べたように、マクロの物質そのものに直接作用すると解され、量子力学的な過程にのみ働くものとは解されない。

量子の領域は、「量子もつれ」や、「量子トンネル効果」、「量子テレポーテーション」(※1)など、そのままマクロの物質に適用すれば、「超常現象」そのものとなるような現象に満ちている。その意味で、「超能力」との関連を示唆するものは多いが、それそのものが「超能力」ではないし、逆に、「超能力」一般も、そのようなものに限定されるわけではない。

物質と意識の関係全般の問題としては、量子力学的な「波束の収縮」に限定されない、別の発想を必要とするということである。

その、「物質」と「意識」の関係を考えるうえでは、「気」という、それらの中間的、媒介的な概念を通してみることも重要である

「気」は、「物質」そのものではないが、エネルギーを有し、情報の媒体となる。まさに、「意識」と「物質」を媒介する、中間的な事象なのである。「超能力」を媒介するものも、この「気」と解することができる。

「気」は、西洋の神秘学では「エーテル」とも呼ばれ、それを、生命が身体のようにまとっているものは、「エーテル体」と呼ばれる。「霊」「魂」「体」の3分説によれば、「エーテル体」は「魂」の領域となり、(純粋な)「意識」が「霊」の領域ということになる。

「気」が「物質」そのものではないこと、「量子論」的な現象とも解せないことは、エネルギーが距離の二乗に反比例して減ずることはないこと、特定の対象に選択的に働くことからも分かる。後者は、「意識」をより直接に反映することを思わせる。

ただし、「気」が発せられるときには、脳波の変化、温度の上昇、電磁波の発生、赤外線の発生など、何らかの物質的な変化を伴うことが知られている(※2)。「こぼれ現象」とも言われる。それらは、「気」そのものを捉えたのではないが、その発生に伴って、派生する物質的な変化を捉えたものと解されるのである。「気」が、物質そのものではないが、物質と強く関連するものであることを物語っている。

また、気功師が気功を施すときには、「脳波の同調現象」といって、気功師の脳波と同様の変化が、受け手にも同調して起こることが分かっている(※3)。つまり、「気」が情報を媒介して、伝播したと解されるのである。

この同調現象は、「伝播」によるのではなく、もともとある、「非局所的な連関」が露わになったものと解すこともできる。こう解すと、「量子もつれ」のような、量子力学的現象との関連が示唆されるが、しかし、「気」というものが媒介になって起こっていることは、確がであり、量子力学的な現象そのものなのではない。

こうみてくると、「物質」と「意識」といっても、それらの間には、中間的な領域が(様々に)あり、全体として、「階層構造」をなしていることに注意しなければならない。また、山田の「電子意志説」でみたように、「物質」と「意識」といっても、それらは画然と区別されるわけではなく、互いが互いの性質を含みつつ、交錯し合い、ただ、その階層により、それらのいわば「純度」が異なるという風に、理解しなければならない

「観測行為」とは、そのように、多様に交錯する「物質」と「意識」の「狭間」で起こる、一つの特異な現象であり、「波束の収縮」という事態も、量子と量子を越えたレベルで起こる、その一つの局面といえる。そこには、(電子の意志を含めた)様々な形で、「意識」が関与する余地がある。が、少なくとも、単純に、人間の恣意的な意識により、起こるものとは解せない。基本的には、ペンローズもいうように、「客観的」なものとして起こっている可能性があるが、ただ、それを超えるような意識の作用があるときは、それは、もはや一種の「超能力」となっているということなのである。

次回は、これらのことを踏まえて、さらに、興味深い理論を紹介しつつ、物質と意識の全般的な関係について述べたい。

※1  簡単な用語解説だけだが、たとえばここを参照( http://www.netlaputa.ne.jp/~hijk/memo/quantum.html )

※2  湯浅泰雄著 『「気」とは何か』(NHKブックス) 参照

※3  品川嘉也著 『気功の科学』(カッパ・サイエンス) 参照

両者とも、多少古いものの、「気」についての重要な基本的文献と思うのだが、絶版になっているのは惜しい。

※4    『サイエンスゼロ』で、こんなのやっていたのは知らなかった。(「量子と超能力」  https://www.youtube.com/watch?v=j9L7Wdcv1dQ)
これも、人間の意識が、量子の量子力学的な確率予測に影響を与えたもので、「波束の収縮」の過程に働いた可能性があるものですね。

2016年6月22日 (水)

「量子力学の観測問題」と「意識」2

前々回みたように、量子力学の観測問題で、波束の収縮は、「デコヒーレンス理論」で説明できるとすれば、この問題に関する限り、意識との関係が特に問題となることはない。また、量子力学(特にその確率的な不確定性)は、基本的に、ミクロの領域にのみ当てはまるものとして、やり過ごすことができる。

私も、当初は、このように考えていいものと思っていた。意識との関係は、前に、「超能力」の例でみたように、量子力学に直接関わるというよりも、マクロの領域全体としての物質との関係で、問題となるものである。それは、何も、量子力学の問題として生じているのではない。量子力学は、あくまで、基本、ミクロの領域に当てはまるもので、意識との関係の問題には、それとは別の発想を必要とするということである。

しかし、デコヒーレンス理論では、前々回みたように、たとえそのようなことがあるとしても、それで全ての場合を説明することはできないのだった。さらに、デコヒーレンス理論では、波の干渉性の喪失は説明できても、可能性の中の、ある特定の可能性に収縮することの説明はできないという問題もある。(だからこそ、「多世界解釈」では、他の可能性の世界も消えずに残り、分岐しつつ共存するとするわけだが。)

そういうわけで、量子力学においても、観測行為に絡んで、意識との関係が問題となる余地が十分あるというべきである。ただし、それは、前述したとおり、物質と意識との関係全般の問題を、カバーするうわけではない。とはいえ、この点についても、いろいろと示唆をもたらしてくれるのは、確かのはずである。

以下、意識との関係において、興味深い説をいくつかあげながら、それを参照にして述べていこう。

「ノイマン-ウィグナー理論」では、物質的な過程から独立した意識が、波束の収縮をもたらすとされたが、この場合の「意識」というのは、かなり曖昧なものである。また、波束を収縮して、確定的な状態をもたらすのも、意識による主観的、恣意的な作用ということになるが、それをもたらすのが、誰の意識なのかも、曖昧なこととなる。

ロジャー・ペンローズは、意識との関係という意味では、この説に近いものがあるが、これらの問題を、かなり解消した、独自の「量子脳理論」を称えている。

観測行為に伴って、量子力学的な波束を収縮させるメカニズムは、実際に存在しており、それは、脳の量子論的な過程によるとするのである。ノイマン-ウィグナー理論のように、物質過程から独立した意識というものを、認めるのではない。あくまで、脳の、より微細な、「物理的」な過程によるとするのだが、それは、波束の収縮を説明できない、一般の量子力学を修正し、さらには、「計算可能性」に基づく、一般の物理学をも修正するものiになっている。

『モーガン・フリーマン時空を超えて』「死後の世界はあるのか?」でも、脳内のニューロンではなく、微小管(マイクロチューブ)とよばれる、隔離された部分が、量子論的な過程を担うことで、意識をもたらすという、ハメロフの説がとりあげられたていた。ペンローズの説は、これを発展し、この部分が、量子論的な過程によって、波束を収縮させることで、意識をもたらすとする。(「意識」には、さまざまな局面があるが、特に、確定的な認識の可能性をもたらすということなのだろう。)

この収縮は、「客観的収縮」とよばれ、客観的、決定論的なものとされ、ノイマン-ウィグナー理論のように、主観的、恣意的なものではない。ただ、それは、ゲーテルの定理を取り入れて、「計算不可能」なものとされている。そのメカニズムは、量子重力理論に基づく複雑なもので、一般相対性理論とも関り、時空の重ね合わせとその崩壊ということに基づくもののようである。この点は、私には、とても理解不能だが、一般の量子力学を超えるものであるのは明らかで、また、「計算可能性」に基づく、一般の物理学をも超えるものである。

まだまだ、未完成のものではあるようたが、波束の収縮を説明しつつ、脳と意識の関係の問題をも捉える、可能性あるものとして、とても興味深いものといえる。

前述のとおり、この収縮は、「計算不可能」ということで、そこに、人間の「自由意志」の可能性が認められてはいるが、基本的に、決定論的なものという。ノイマン-ウィグナー理論のように、主観や、恣意の働く余地はないのである。ペンローズは、プラトン主義者を自認し、意識が物質的な過程から生じるだけではなく、物質的な過程に影響を与えるという面も認めているようである。しかし、この説そのものには、そのことが反映しているとは思えない。

もし、この説を、「意識」と「脳」または「物質」との関係全般の問題として捉えるなら、ほとんど還元主義的なものということができる。

しかし、観測行為に伴う、波束の収縮という、意識とミクロの領域の物質との関わりという局面に絞ってみる限り、このように解される余地は十分あると思う。ノイマン-ウィグナー理論のように、観測行為に伴って、意識が一々恣意的に波束を収縮させるなどとは、信じ難く、波束の収縮自体は、もっと客観的なものと解す方が、現実的である。そして、そのような局面に関する限り、より微細な物質的な過程として起こっているとしても、不思議はないのである。

ペンローズの他にも、類似の、または違った観点から、「量子脳理論」を発展させている者はおり、この方向で、とりあえず、波束の収縮の問題から、意識とミクロの領域の物質との関わりという点については、かなりのものが見えてくる可能性があると思われる。

但し、繰り返すが、これを、「意識」と「物質」の関係全般の問題として、捉えることはできない。それには、また、違った発想を必要とするということである。

もう一つ、興味深い説として、つい最近知ったものだが、「電子(この説では、「量子」という概念に含めることは適さない)は個体性のある「粒子」であり、「意志」をもつ。その「意志」をもつ電子同士の「対話」により、「干渉性」という波動様の現象が生じる」という説がある。

山田廣成という物理学者の説で、本としては、『量子力学が明らかにする存在、意志、生命』(光子研出版)があり、その一部が、ここにもある。(http://www.ritsumei.ac.jp/se/re/yamadalab/taiwa.pdf)

「意志」とか「対話」など、擬人化まがいで、底の浅い、トンデモ理論とみなされがちだし、そういった「みかけ」は否めない。しかし、予想以上に、しっかりした理論であり、むしろ、「意志」とか「対話」という、人間に対するのと同じ言葉を使うことで、物理学の枠を超えて、社会学や人間学にまで展望をもたらす、意義深いものになっているのである。

電子と人間は、階層の違いはあるものの、相似形的な類似性がある、というのが、一つの大きなポイントである。

電子も人間も、個体的には、予測のつかない「不確定性」をもった、「意志」ある存在だが、集団との関係で、「干渉」を受けることで、多くの規定を受け、全体としてみると、ある「確定的な」行動をとる、とみられるのである。

電子と観測の問題について、もう少し詳しくみると、まず電子とは、個体性をもった「粒子」であり、「実体」である、とみなされる。そして、それらは、「不確定性」の範囲で、(自由な)「意志」をもつ。しかし、多数の電子同士は、互いに、「意志」による「対話」によって「干渉」し合う。この「対話」は、具体的には、「光子」を交換することによって、行われる。この「対話」により、互いに制約を受け、位置の位相空間を決めるのである。量子力学は、電子を「波動」とみるが、それは、そのような電子同士が、「対話」により、「干渉」する結果現れる現象を、本質的なものとみなしたからである。

電子は波動ではない故、「波束の収縮」という問題は生じない。人間による「観測」とは、人間の意志によって、観測装置を使って行う、階層間の「対話」である。その結果、電子に大きな制約を与えて、干渉性を失わせ、全体として、確定的な現象を生じさせる。

このように、量子力学の結論そのものを修正するわけではないが、その見方と解釈に、大きな変更をもたらすものなのである

特に、電子を粒子とみて、波動ではないとすることは、大きな変更である。ただし、一個の電子を連続的に放射する二重スリット実験でも、「干渉縞」ができる(自己自身と干渉していると解すしかない)ことを考えると、波動でないとみるのは、難しい気がする。ただ、人間でも、自分自身と分裂的に「対話」することがあるのだから、一個の電子にも、一種の自己内対話(干渉)がないとは言えないかもしれない。

この、電子を「粒子」とみることが、電子と人間の類似性を浮き立たせているので、重要な要素ではあろうが、私は、電子を波動とみても、大枠で、このような見方が有効でなくなるわけではないと思う。

そもそも、「意志」を自然の中にみることは、近代以前には、普遍的なことだった。それを、一神教は、まず超越的な「神」へと回収し、近代以降、その分け前を「人間」にのみ与えたのである。だから、この説は、神や人間へと回収された「意志」を、自然の側へと取り戻すものとも言える。「人間中心主義」の、大幅な変更である。実際、著者も、「一神教」的な西洋の見方に支配された科学に、「多神教的」な発想の復権を訴えている。それは、社会学や人間学にも、大きな影響を及ぼし得るのである。

この、電子に「意志」があるとする見方が、もたらすものを、「観測行為」との関係で、もう少し具体的にみてみよう。

前述のとおり、「波束の収縮」ということはないが、結果として、人間の観測行為により、電子の「不確定性」は失われ、確定的な現象をもたらす。それは、階層間の「対話」、つまり、観測装置というマクロの領域の電子集団との「対話」であり、また、それらを設定した人間の「意志」との間の「対話」でもある。この「対話」は、いわば、「電子の意志と人間の意志とのせめぎ合い」ということもできる。

著者は、あくまで、観測装置との相互作用によって、確定的な現象が生じるとしていて、直接、人間の意識が関与することはないとしている。ただ、観測装置の設定は、人間の(恣意的な)意志によるのであり、間接的には、人間の意志との「対話」が働くことになる。それにしても、この確定的な現象が生じることにおいては、かなりの部分を、電子そのもの意志が占めることになる。全く、人間の主観または恣意によるとみる、ノイマン-ウィグナー理論と比べると、違いがはっきりする。「量子脳」による、客観的収縮をいうペンローズと比べても、そうなるのではないかと思う。

私自身は、このような見方に立っても、確定的な現象が生じるのに、人間の意志との直接的な「対話」が働く余地もある(意識による収縮と同じ事態)と思うが、それでも、ノイマン-ウィグナー理論と比べると、大きく人間の意識の関与の余地は、減少することになる。

このように、観測による、電子と人間の関わりという場面においても、電子の意志というものがかなり主導的な役割を果たし、人間の意志の働く余地は、相対的に減少するのである。「観測行為」ということの意味合いそのものが、「人間中心主義」的な見方とは、大きく異なっていると言えるだろう。

ただし、著者と異なり、私は、人間の意志が、このような電子の意志のみを基盤に成り立つとは思わないし、前述のように、この観測行為における両者の関わりの問題を、物質と意識の関係全般にまで及ぼして捉えることはできないと考える。人間の意識には、やはり、電子の意志を超えたものを、みる必要はある、ということである。

それにしても、この説は、電子と人間の相似形的な類似性を、明示したことに大きな意義があると思う。そして、私は、著者が言う以上に、その類似性は本質的なものであることに気づかされた

電子は、原子や分子、細胞などのシステムの末端に位置する「ありふれた存在」で、、一見、自由度のある存在だが、激しく動くことで、電磁力などのエネルギーを生み出し、実際には、システムに貢献というよりも、隷属している。人間も、社会や地球、さらに宇宙そのものの末端に位置する「ありふれた生命体」で、一見自由度のある存在だが、やはり、激しく動くことで、ルーシュを生産し、システムに貢献というよりも、隷属している。(記事『 『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』   http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-3e86.html   参照)

著者も、電子には、ある種の「共感」を抱いているようにみえるが、こうみてくると、その共感には、本質的な理由があると思われてくる。

次回は、さらに、観測問題を超えて、物質と意識全般の問題とも関わることを述べてみたい。

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