文化・芸術

2017年11月18日 (土)

「捕食者的存在」の「食」と我々の「食」

前々回、「統合失調」や「集団ストーカー」にみる、「仕掛け」をなすものを、「加害者」として糾弾しても、「「捕食者的存在」にとっては、「食」を得る手段なので、止めるはずがない」と述べました。

このようなことを、理解するには、彼らの人間に対する立場を、我々が他の存在を食することに照らし合わせて、理解するしかないと思います。そして、実際に、それらは、相似形的な、併行現象であり、互いに因果的に結びついた現象ともいえるのです。

「捕食者的存在」が、我々の、特に恐怖という、ネガティブな感情エネルギーを食糧としていること。それを継続的に収穫すべく、我々に対して、組織的、戦略的に働きかけていることは、これまでも何度も述てきました。(たとえば、記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post-89a8.html  など 、なお、『「捕食者」という理由』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b27f.html

人間と違い、「物理的な成分」を食しているのではないので、文字通りには人間の場合と同じではないですが、実質的には、我々が、生きて行くために、食糧を必要とすることと違いはありません。

むしろ、最近は、人間の場合でも、「食べない人たち」がかなり表に現れ始め、人間に、「物理的な成分」としての食が、必ずしも必要ではないことが、明らかになりつつあります。ただし、その場合でも、彼らが何らの「エネルギー」も必要としていないのではなく、たとえば、弁護士の秋山という人は、宇宙に満ちている、エーテル的なエネルギーである、(ヨガでいう)「プラーナ」を食していると、公言しています。昔から、仙人は「霞を食う」と言われていましたが、これは、この「霞」と同じものと言っていいでしょう。

「捕食者的存在」の食するエネルギーも、「見えないエネルギー」という意味では、この「プラーナ」に似ていますが、人間から発する感情エネルギーであり、しかも、恐怖というネガティブなものを中心としていることが、「特異」と言えば特異なのです

しかし、前回のバシャールも言うように、ネガティブな感情ほど、複雑で多様なものが多く、しかも、強力であることに鑑みれば、彼らがそれを食するように進化したとしても、不思議ではありません。

「複雑で多様」というのは、味として、「単調」ではなく、「美味しい」ということにもなるでしょうし、また何よりも、人間から、継続して収穫しやすいのは、ポジティブな感情より、ネガティブな感情であるのは明らかでしょう。

それで、彼らは、確かに、人間からすれば、「虐待的」といえるような、戦略的な「仕掛け」を、人間に対して行い続けています。それは、恐怖を中心とする、ネガティブな感情を得るためになされるので、当然、虐待的なものになるし、果てしなく膨らむ「恐ろしさ」を秘めたものになります。またそれは、人間的な感情に基づくのとは異なり、徹底して、非情であり、冷徹なものです。さらには、人間が容易には理解できないような、知的な戦略に貫かれた、手の込んだものです。

それは、何も、「統合失調」や「集団ストーカー」の「被害者」に対してだけでなく、人間一般に対して、なされています。

人間一般に対して、このような「仕掛け」をなすには、まず、人間を全体として、彼らの管理・支配の及びやすいように、収容して育てることが必要となります。「社会」そのものが、彼らにとって、そのような収容のための装置だということです。それは、我々が、食用の牛や豚を、畜舎に収容して飼育するのと同じことです。

ただし、牛や豚は、殺すために飼育されますが、我々は、単純に殺すためではなく、じわじわと痛めつけ、継続的に苦痛を得るためにこそ、飼育されるということです。そこでなされる「仕掛け」には、様々なものがありますが、要するに、「集団」というものを通して、人と人の間に、矛盾や軋轢、争いをもたらすようなものです。

人間は、一般に、「集団」として、そのような「仕掛け」を、常に受けており、「捕食者的存在」は、そのような集団を通して、社会全体から、一定のネガティブな感情エネルギーをくみ取っているのです

このような、集団としての管理・支配を強めるには、個々の存在を、反抗できないように弱体化し、機械化された方法で、合理的になすのが適当です。ところが、そうすることは、ネガティブな感情エネルギーを、より多様に、かつ強力に生み出すこととは、両立しません。機械化された方法では、また、弱体化された存在からは、ネガティブな感情エネルギーとしても、質の低いものしかとれないということです。

それは、我々が牛や豚の飼育を、遺伝子操作された餌やホルモン剤、抗生物質などで、弱体化しつつ、機械化された方法で行っているのと同じことです。このような方法は、大量生産で、安く、大量の肉を生産するには適していますが、質は落ちるばかりか、食する側にとっても、危険をもたらします。それは、化学物質漬けにされ、弱体化された、人間を食する側にとっても、同じことでしょう。

一方で、集団というものには、必ず、「はみ出す」存在がいます。飼育されている牛や豚もそうですが、人間にも、このような管理・支配から、はみ出しやすい者がいるのです。このような者は、「集団」に対して折り合いが悪く、集団を苦手としたり、反抗したりしやすいのです。「分裂気質」の者が典型的ですが、「集団ストーカー被害」を訴える人も、多くその傾向があるといえます。「集団」というものと相性が悪いのは、「集団」そのものを、「迫害者」や「ストーカー」として糾弾していることからも、明らかでしょう。

そのような「集団からはみ出す」者に対しては、先にみた、一般的な、「集団を通しての仕掛け」のほかに、個別に、食するための「仕掛け」がなされなければなりません。それこそが、前回みたような、「統合失調」や「集団ストーカー被害」の者になされる、「仕掛け」ということです。(記事『「捕食者」と「分裂病的状況」』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post-495c.html 参照)

人間も、管理からはみ出す家畜を、優先的に殺し、食すということを行います。同じように、「統合失調」や「集団ストーカー被害」の者は、個別的なレベルでは、優先的に食されているといえます。

さらに、人間も、大量生産された質の悪い肉だけでは、満足せず、地鶏や自然放牧された牛、さらには、野生の動物を狩猟して、食することも行います。同じように、「捕食者的存在」も、集団を通して、大量発生される、質の悪い感情エネルギーだけでは満足せず、集団からはみ出す者から、個別的に、「感情エネルギー」を執拗にくみ出して、食することも行うのです。

もっとも、何も、このような「集団からはみ出す」者が、彼らによって、個別的に「選別」されているわけではありません。人間も、野生の動物を狩猟するのに、「罠」を仕掛けて、それにはまったものを食することを行います。同じように、「集団からはみ出す」人間にも、「罠」としての「仕掛け」がなされ、それにはまった者を、個別に捕らえるということを行うのです。「集団ストーカー」という「観念」は、その「罠」の典型ですし、他にも、「被害妄想」的な発想を刺激する、さまざまな「仕掛け」があります。

これらは、誰もが、「引っ掛かる」のではなく、特にそれを信じてしまうような人、あるいは、それに敏感に反応する人が、引っ掛かるのです。それは、単純に「信じやすい」とか、(感覚的に)「敏感」ということもありますが、そのような「仕掛け」は、集団の中で忙しくし、社会的な常識でかんじがらめになっている人には、通じにくいという意味で、やはり、 社会から「はみ出す」人の方が、かかりやすいのです。

いずれにしても、動物に対する「罠」と同じように、広く仕掛けておいて、それに掛かった人が、特に「捕食する獲物」として狙われるのです。
                                                          
この罠は、我々で言えば、「迷惑メール」のようなものです。多くの人に仕掛けられますが、それに反応せず、放っておけば、特にそれに追い打ちをかけて、何かを仕掛けられることもありません。しかし、それに対して、何らかの反応をしてしまった人、それも、一度ならぬ、反応をしてしまった人が、 「カモ」として狙われ、深みにはまって行くのです。

「捕食者的存在」の場合には、その「仕掛け」に対して、怒りや恐れなどの、ネガティブな反応をする者ほど、格好の「カモ」として、狙われることになります。

このように、「捕食者的存在」の「仕掛け」は、確かに人間にとって、「虐待的」なものとしてなされています。しかし、それは、食を得る手段であること、人間が食を得るために、他の動物等になしていることと併行的な現象で、それと切り離して考えることはできないことは、確かなのです

しかし、そうだとしても、「捕食者的存在」の執拗な「仕掛け」は、意識ある者にとって、あまりに非情であり、本当に、食を得るために必要なものとして済まされるのか、疑問もあるでしょう。

それはそうなのですが、このような疑問は、同時に、我々が食するために、動物等になしていることに、そのまま返って来ます。そして、それは、もし問題にするなら、我々は、「食べる側」としても、「食べられる側」としても、全体として、「食」ということを、見直さなければならない、ということを意味しています。

我々が、肉を食するために、動物に対してなしていること(特に、屠殺のあり方)は、意外と知られていないものです。一種、「タブー化」しているともいえます。ただ、Youtubeには、その様子を撮った動画も、多くあげられています。本では、基本的な事柄のみですが、森達也著『いのちの食べ方』(角川文庫)が、分かりやすく説明しています。

ポイントとして、「血抜きをするために、生きたまま解体しなければならない」ということがあります。そのため、即死させる方法は、とることができないのです。日本では、牛では、前頭部をガンで打撃し、卒倒させる方法、豚では、炭酸ガスで窒息させて、意識不明にさせる方法がとられているようです。恐らくですが、多くの場合、その方法に忠実に、酷い苦痛は与えないで、解体されていることと思います。しかし、常にそのやり方が、成功するとは限りません。ときには、意識を失わせることに失敗し、そのまま解体しなければならないこともあるでしょう。

外国の例ですが、Youtubeには、明らかに、意識がある状態で、壮絶な叫び声をあげながら、解体されているのを撮った動画もあります。

たびたび引用している、『スターシード』も、次のように言っています。

恐ろしいことに、死んでいく動物の細胞一つ一つには人間への恐怖が充満していて、あなた方はその感情すら摂取しているのです。そしてこの不調和状態は、肉汁滴るステーキにナイフを入れたり、脂っこくて香りのよいハンバーガーを頬張ったりするたびに、あなた方の身体(魂の住処)に吸収されてゆくのです。

これは、「食べる側」にとっての、「危険」という観点から述べたものですが、そうでなくとも、これらのことが、本当に「食」を得るために、必要なことかどうかということは、改めて問われると思います。ここでは、屠殺の問題だけあげましたが、既にみたように、大量生産的で機械的な飼育の仕方も、当然問題になります。

そういうと、肉以外のものならいいのか、ということにもなりますが、先に、「食べない人たち」についてみたように、我々は、必ずしも、物理的成分としての「食」を、必要としていない可能性もあるのです。「個別的な食」云々というよりも、「食そのもの」について、見直さなければならないということです。

さらに言うと、「食」ということは、本当に、「必要性」の問題なのか、ということも問われます。実際、我々現代人は、「食」において、「必要性」を意識して食することなど、ほとんどないのが実情でしょう。それは、「食」そのものが「快楽」なのであって、「欲望」と、分かち難く結びついているからです

前に、記事『「MIB」のその後と「集団ストーカー」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4224.html)で、「捕食者的な宇宙人」が、我々に虐待的な仕掛けをするのは、「愉快犯」的な面があると言いました。しかし、我々が、他の動物等を食することにおいても、また、「愉快犯」的な面がないとは言えないでしょう。我々が、皆で、焼肉等を食べに行くのは、「愉快」だから行くのであるはずです。最近は、「狩猟」ということが、流行っているようですが、それも、単に既製のものを「食べる」だけより、「愉快」だからという面があるはずです。

あるいは、そもそも、食材をあれこれ調理し、味付けして食べるのは、より「おいしく」食べるためであり、それは要するに、それが「快楽」だからです。

「捕食者的存在」が、様々な「仕掛け」をして、人間から恐怖を始め、多様な感情的反応を得ようとするのも、要するに、「おいしく」食べるための、「調理法」であり、「味付け」だと思えば、理解はできるはずです。(『注文の多い料理店』で、料理店の主が、人間に、いろんな「注文」をつけて来たのと同じことです。)

私自身は、肉も食べますし、今現在、人間として、「食」そのものを根本的に変えること(「食べない人」になる等)が可能とは思ってもいません。が、同様に、「捕食者的存在」もやはり、彼らの「食」のあり方を、今現在、変えることなど、思いもつかないことであろうと思っています。人間が全体として、「食」のあり方を変えるということと、「捕食者的存在」が、食のあり方を変えるということは、恐らく、併行的な現象として、同時的に起こり得ることなのでしょう。

しかし、現段階で、それが期待できない以上、我々としては、できる限り、彼らに、一方的に、いいようには「食われない」ように、成長するしか、手立てはないのだと言えます。

2017年11月 5日 (日)

「観念」に「感覚的リアリティ」を吹き込む「仕掛け」

本人の「思考」または「信念」こそが、「現実」を作るという前回のテーマに照らせば、相手方の「仕掛け」のことには、あまり拘る必要はない。むしろ、それを「受け取る」自分自身の、「思考」や「解釈」こそが問題なのであるから、それに注意を向け直すべきということになります。

しかし、実際には、相手方の、尋常でない(オカルト的であり、非人間的な)「仕掛け」に、振り回されていることも多い以上、その「仕掛け」そのものについても、ある程度の理解が得られない限り、なかなか自分自身の「思考」の問題に注意を向け返すことも難しいでしょう。

この「仕掛け」については、具体的なレベルでは、どのようなものかを、「声」や「人の操作」、「共時性の演出」など、様々に述べてきました。そこには、「統合失調」の場合と「集団ストーカー」の場合の違いも反映されます。

しかし、この「仕掛け」とは何かを、一言で言うならば、それは、ある「観念」に「感覚的リアリティを吹き込む」ということに尽きます

そもそも、「集団ストーカー」という「観念」そのものが、強力に練り込まれた「仕掛け」といえます。この「観念」を受け取るだけで、もともと被害妄想的な傾向がある人は、十分に、自分の体験を、「集団ストーカーの被害」として解釈できるようになります。

しかし、ある「観念」を受け取るというだけでは、それが「現実化」されるほどに、強烈に信じ込まれることにはならない場合も多いでしょう。そういう場合に、その「観念」を信じ込ませるのに、大きな役割をなすのが、「仕掛け」であり、それは、その「観念」に「感覚的リアリティ」を吹き込むということなのです。

たとえば、かつてオウム真理教は、LSDを使って、信者に、麻原そのものや麻原の教えを、強烈に信じ込ませることを行っていました。このLSDは、まさに麻原の提供する「観念」を信じ込ませる「仕掛け」として、利用されたのです。

LSDは、幻覚剤であり、人を変性意識に導き、リアリティのある幻覚を体験させるものです。通常の感覚では、とても信じられないことでも、(それは、麻原の提供する「観念」と結びつけて解釈するように誘導されている状況で起こるので)このような強烈なリアリティを伴う感覚によって裏付けられれば、信じ込まれてしまうことにもなるのです。

このLSDと同じ役割を、相手方の(オカルト的、非人間的な)「仕掛け」は、なしているということです。

「統合失調」でいえば、「声」という、まさに幻覚的な方法で、統合失調者の「妄想」が裏付けられることになります。「集団ストーカー」という「観念」でいえば、それを信じ込ませるような、「人の操作」や「共時性の演出」が、感覚的レベルでなされるのです。それは、物理的現実そのもので、「幻覚」ではない場合が多いでしょうが、通常の日常性の範囲を超えた要素を含むという意味で、「幻覚」と通じるものです。あるいは、物理的現実そのものではなく、物理的現実と区別し難い、「中間的現象」の場合も多いと思われます(※1)。

いずれにしても、LSDと同様、通常は信じられないことでも、信じさせてしまうだけの、リアリティを生み出す力があるということです

そういう力があるということには、気づかない限り、なかなかことの全体を、「マインド・コントロール」として理解するすべもないでしょう。また、そのような「仕掛け」ではなく、それを受け取る自分の思考の問題に、意識を向き直すこともできないでしょう。

その意味では、やはり「オカルト」的なもの(への理解)を抜きにして、この問題を本当に納得できるものとして解決するのは、無理ということになります(※2)

※1  たとえば、記事『「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-d8e8.html )で述べた、「ホログラフィの挿絵」なども、これに含み得ます。「統合失調」においても、このような「中間的現象」による「仕掛け」は行われますが、総じて言うと、「集団ストーカー」の場合の方が、より物理的現実に近い「仕掛け」が多いようです。この点については、近いうちに、「統合失調」と「集団ストーカー」の共通性と相異についてまとめるときに、さらに述べたいと思います。

※2 精神薬により、「集団ストーカー被害」が、ウソのように消えたという話があります。それは、あながち「宣伝」というだけでなく、事実である可能性があります。精神薬は、「感覚」を鈍らせて、「仕掛け」としての「感覚的リアリティ」を、失わせることがあるからです。「感覚的リアリティ」が失われると、一気に、「まともな思考」が芽生えてきて、「集団ストーカー」という観念についても、「そんなことはあり得ない」と気がつけるのです。

しかし、それは、あったとしても、一時的現象というべきです。薬が切れて、「感覚的リアリティ」が戻ってきた場合には、また「集団ストーカー」の観念も戻ってくるでしょう。また、精神薬は、感覚一般、思考一般を鈍らせるので、このようなネガティブな観念だけに働くのではないのです。さらに、精神薬は、LSDと同様、幻覚をもたらすこともあるので、むしろ、現象を助長することもあるのです。

2017年10月26日 (木)

「思考」または「信念」が「現実」を作ることの認識

「統合失調」も「集団ストーカー」も、結局は、「捕食者的な存在」の「オカルト」的(非人間的)な「仕掛け」なのであり、それに対して、人間の側が、やむにやまれず、「人間的」な解釈を施すことによって、自ら恐怖と混乱の状況を作り出しているものです。それこそが、「捕食者的な存在」の狙いなのであり、初めから、意図されたことです。

このような「オカルト」的な「仕掛け」が、真に功を奏すには、強い不安をもたらすものでありながら、曖昧で、いかようにも解釈できるものでなければなりません。その曖昧な「仕掛け」に対して、人間が、人間の経験に引き寄せて、無理やり「人間的な解釈」をすることで、自ら恐れと混乱に満ちた、地獄的な状況を作り出し、そこに抜け出し難くはまり込んでいる、ということです。

そうやって、その抜け出し難い、地獄的な状況から、彼らの食糧である、恐怖の感情エネルギーを、尽きることなく、くみ取っているのです。自らの労力は、最低限の「仕掛け」だけで済み、後は、食糧である人間本人が、自らの解釈によって勝手に作り出し、拡大し、再生産してくれるのです。

ある意味、これ以上ないほど、「見事」に効率的な戦略と言わざるを得ません。

そこでは、「何を行うか」ではなく、「どう思わせるか」こそが、すべてとなります。要するに、徹頭徹尾、「マインド・コントロール」で成り立っているということです。

人間の支配層や指導者なども、支配や指導の方法として、「マインド・コントロール」を使います。しかし、「捕食者的な存在」による「マインド・コントロール」は、人間の場合とは、根本的に異なる面があります。

人間も、「思考」や「信念」が、「現実」を作り上げるのに、重要な要素であることを知っています。しかし、物理的な身体を持ち、物理的な外界こそが(唯一の)世界だと思っている人間は、現実に、物理的な働きかけをする「行為」によって、真に影響が与えられる、という思いが身についています。「思考や信念が現実を作る」というのは、二次的な意味合いになっているのです。

ところが、物理的なものを超えた存在である、「捕食者的な存在」にとっては、人間にとっては確固たる、「物理的現実」なるものも、「思考」や「信念」が作り上げる、一つの「幻想」に過ぎません。「思考」や「信念」こそが、「本質的」に、「現実」を作り上げるということを、知っているのです。

だからこそ、「何を行うか」よりも、「どう思わせるか」という「マインド・コントロール」こそが、本質的な意味において、「すべて」となるのです。それこそが、人間に、どのような「現実」を作らせるかを、決めるものだからです。

「思考」または「信念」が「現実」を作るということについては、チャネリングの走りであり、宇宙存在として有名なバシャールも、次のように言っています。

すべての観念には、「特有のメカニズム」があります。
物質次元で何かを経験するためには、ある観念があなたの中にずっと存在し続ける必要があります。
言い換えると、その瞬間に、「その観念以外の考え方はあり得ない」とあなたに思わせる必要があるのです。
そう思わせる観念のメカニズムのひとつに、「自己強化性」という性質があります。

たとえば、あることを心から信じていると、それは物質次元でも実現します。すると、実現したことによって、さらにその観念が強化されます。
もし観念に、このような性質がなければ、それを実際に物質レベルで体験することは不可能です。

なぜなら、物質レベルの現実とは、実体のあるものではなく<幻想>だからです。つまり、観念の存在によって、あなたが物質次元で体験していることが、「現実である」と信じられるようになっているのです。」

                                             『未来は、えらべる』(VOICE新書)P.14

非常に分かりやすい説明で、端的に、「観念が現実を作る」ことを明らかにしています。その「観念」が強く信じられることで、「現実」なるものが作られ、さらにその観念を「自己強化」していくという、循環が重要です。まさに、それこそ、「捕食者的な存在」の「マインド・コントロール」で意図されていることなのです。「「その観念以外の考え方はあり得ない」とあなたに思わせる」というのが、ポイントです。

さらに、このような「観念」には、ポジティブなものとネガティブなものがあることを次のように述べています。

みなさんの現実をつくっている観念には、ポジティブなものとネガティブなものがあります。

ふたつの観念の、もっとも大きな違いをお教えしましょう。
ポジティブな観念は、「現実は幻想かもしれない。それなら、もしかしたら変えられるかもしれない」という可能性に気づかせてくれます。
一方、ネガティブな観念は、「自分が物質レベルで体験していることは確固として現実なので変えることはできない。もし変えるとしても、とても難しい」と信じ込みます。
そう信じ込ませるために、ネガティブな観念の構造は、ポジティブな観念よりも非常に複雑で多面的です。
「これが現実だ」と信じ込ませるためには、いろいろなトリックが必要だからです。

                                                          『同』P.16

ネガティブな観念こそが、複雑で多面的、従って、その分強力な「現実」を作り出してしまうことを、よく説明していると思います。「捕食者的な存在」は、そのようなネガティブな観念こそを、「いろいろなトリック」を用いて、植え付けているのです。「統合失調」の「妄想」もそうですが、「集団ストーカー」という「観念」は、その典型というべきです。(記事『「集団ストーカー」という観念自体が引き寄せる現象』  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-2e51.html  参照)

ただし、「現実を作る」といっても、その「現実」としての「度合い」または「段階」には、様々なレベルがあることには、注意を要します。

よほどの能力者でもない限り、個人の思考から、いきなり「物質的」な現実が作られるというわけではありません。「現実」というのは、集合的な思考により、焦点化がなされることで、段階的に強化されていくと考えられます。そして、その「集合性」も、人間だけでなく、多くの存在が絡むほどに強力なものとなります。

私も、記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/1-4b0e.html、 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-327b.html)で、「ホログラフィク・パラダイム」を紹介しつつ、現実とは知覚そのものであり、意識(思考)によって、ホログラム領域から、引き出される(「作られる」)ことを明らかにしています。そして、それには様々な度合いがあるのであり、集合的なものほど強力になることを明らかにしています。

「統合失調」や「集団ストーカー」で作られる「現実」というのも、このように、様々な度合いまたは段階があります。単に、思考や信念がもたらす「認識のひずみ」である「錯覚」というレベルから、内的な世界としての「現実」が作られ、それが外界に投影されるというレベルもあります。しかし、実際に、外界そのものに影響するレベルもあるのです。

たとえば、「信念」に関連した、共時的な現象を引き寄せるというレベルがあり、さらには、「中間的な現象」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)でみたように、霊的レベルから物質的レベルまでの間で、何らかの「現実」(「実体」的なもの)を「作り出す」というレベルまであります。状況に深く入り込めば入り込むほど、そのような度合いは強くなります。

「統合失調」では、妄想が本当に幻覚ということを超えて、「現実」になり得るし、「集団ストーカー」では、「集団ストーカーという信念」そのものが、本当にそういう「現実」を引き寄せるだけでなく、作り出すまでになるのです。

だから、恐ろしいのは、「捕食者的な存在」の「仕掛け」そのものというよりも、ネガティブな思考や信念が、こうまで現実を作り出すということの方にある、というべきです。

このようなネガティブな思考を変えない限り、地獄的な状況からは、抜け出せないということです。「集団ストーカー」でいえば、「集団ストーカーという信念」そのものを問い、変えなければなりません。しかし、地獄的な状況に入り込めば入り込むほど、それが現実を作り出す力も増すので、それに気づくことは難しくなるわけです。

しかし、一旦それに気づくことができたなら、そこから抜け出す可能性が出てくるだけでなく、それは、思考や観念こそが現実を作ることを知る、絶好の機会ということになります。そして、そのように、「変えることができる」と思わせるものこそ、「ポジティブな観念」ということです。

この点で、非常に、ネガティブな観念を固定するのに役立っているのが、「被害者」という発想です。

「被害者」という発想は、自分は一方的に「される」側の立場であり、相手方(加害者)こそが、その「現実」もたらす「主体」であるということを、意味しています。つまり、この件に関しては、自分には「主体」(同時に「責任」ということでもあるが)がなく、この「現実」から抜け出すことができるか否かは、すべて相手方にかかっているということです。それでは、自分の「観念」という、主体的要素が、この件について、「現実を作り出している」ことに気づく余地はありません。

「現実的」に言っても、自分を「被害者」とし、相手方を「加害者」として糾弾したからといって、「捕食者的な存在」が、このような(食を得る手段である)「仕掛け」を、止めるはずもありません。むしろ、そのような怒りの感情を誘発する、ネガティブな反応こそが狙いなので、まったく、彼らの「思うつぼ」ということです。それは、たとえ、「捕食者的な存在」でなく、何らかの人間や組織の仕業と仮定したとしても、ほとんど同じことになるでしょう。

だから、もし、このような状況から抜け出すことを、本当に望むなら、相手方云々ではなく、自分自身ができることをするしかないのです。そして、そのようなことは、「被害者」という発想を前提としている限り、できるものではありません。「被害者」という発想そのものを問い直し、その「観念」がもたらすものに注目する必要があるのです。(

その結果として、ネガティブな観念が、「現実」を作り出していることに気がつくならば、そのような「現実」を作り出す効果そのものが弱まるのです。ネガティブな観念の、「自己強化性」の循環が断ち切られるからです。さらに、それは、「捕食者的な存在」の「仕掛け」そのものをも、脱することにつながります。ネガティブな観念を作り出す効果が期待できないとなれば、「仕掛け」をする意味もなくなり、その頻度が、大幅に減少するからです(但し、それをなさせないために、一時的に、「仕掛け」が強まることはあります)。

さらにいえば、これらのことを通して、「現実」とは、思っていたように、「確定的」なものでも、「固定的」なものでもなく、(潜在的には)いかようにも変えられる、<幻想>のようなものと気づくことも重要です。それこそが、バシャールのいう「ポジティブな観念」ということであり、ポジティブな観念とは、「現実」への拘りや、捉われを少なくすることによって、それから自由になるということなのです。

※ 「被害者」について

この場合の「被害者」というのを、放射能や公害などの特定の事象や特定の犯罪における被害の場合と、同列に論じることはできません。それは、もちろん、解釈に基づくあやふやなものということもありますが、「集団ストーカーの被害」とは、特定の事象かつ特定の相手方に対するものではなく、実質上、生活全般にわたる、特定できない多くの者に対する「被害」ということを意味しているからです。

そこで、「被害者」ということは、自分には、生活全般にわたって、(自分以外の)多くの者に対して、「主体がない」ということを意味します。「被害者」ということ自体が、自己を本質的に規定する、強力な「観念」になっているということです。本人は、それを一種の「アイデンティティ」として立てようとしているかのようですが、むしろ、そうすればするほど、「自己」の主体というものを、なし崩しに失っていくのです。

そうして、このような強力な観念は、実際に、自分が一方的になされ、秘密を奪われ、「主体」をはく奪されるかのような現象を、引き寄せ、作り出してしまうのです。

だから、必要なことは、できる範囲で、自己の「主体」を取り戻すことです。それは、この意味の「被害者」ということを前提にしている限り、かなうことではありません。それには、このような現象全般について、(相手方ではなく)自分の側が与えている影響に気づき、それを変えていくしかないのです。

2017年9月14日 (木)

映像に映り込む「怪奇」と「霊的鏡像」

レプティリアンについては、デービッド・アイクが、英国王室や地球支配層の一族は、レプティリアンとの混血種だとし、人間の姿は仮の姿で、ときに本当の姿に「変身」してしまう。その証拠に動画を切り取った映像に、目など体の一部に、人間としては不自然な映像が見られる、ということを言っていた。

記事『「捕食者」にとっての「陰謀論」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-239d.html )でも軽く述べたが、これはあまりにも根拠薄の決めつけで、「おどろおどろしさ」ばかりを前面に際立たせるものである。また、そういった映像は、曖昧で、ロールシャハテスト並に、いくらでも解釈が可能なうえ、フェイクの可能性も高い。そういうもので、人をレプティリアンと決めつけるのは、いかにも軽薄である。

それで、私はアイクには不信をもっていたのだが、最近の『ムーンマトリックス』などでは、こういった現象は、レプティリアンへの「変身」というよりも、レプティリアンの「憑依」または「影響」受けた結果、一時的に起こった現象という見方に変わって来ているようである。

支配層が、レプティリアンとの結びつきが強く、影響を受けやすいのは確かと思われ、レプティリアンとは限らず、何かの霊的影響が働いた場合、それが映像に何らかの形で映り込むということ自体は、いくらでもあることである。後にみるように、いわゆる「心霊写真」か典型である。恐らく、アイクの言うように、そういったものの映像の一部は、確かにそういう現象を捉えたものでもあるのだろう。

「集団ストーカー」についても、Youtubeなどで、ストーカー行為をする者を撮った映像に、体の一部などに不自然な部分があるから、レプティリアン等の「宇宙人」だというものがあげられることがある。

このような映像も、アイクの「変身」の場合と同様、曖昧な、根拠薄のもので、とてもそのまま受け取ることはできない。しかし、先にみたように、その映像が、レプティリアン等の「宇宙人」か、他の何かの霊的存在の影響または操作を受けているときの現象を、捉えたものである可能性は十分あると思う。

一般に、「心霊写真」も、「おどろおどろしい」ものが多いが、こういった、人間に巣くう「捕食者」的な存在の影響が入り込んだときの映像も、やはりどこか、恐怖をもよおす、「おとろおどろしい」ものとなりやすい。身体の一部が、普通は起こり得ないような、動きをしていたり、見るからに、異様な印象をもたらすものとなっていたりである。

「心霊写真」では、強烈な印象をもたらすものとして、よく、身体の一部が明らかに欠けているものがある。これは、霊能者、故宜保愛子などは、「その部分にけがなどをする危険があるから、気をつけるように」という、霊界からのメッセージだとしていた。そういったことはあり得るし、「おどろおどろしい」と感じてしまうのは、我々の霊的なものに対する無知からくる面も、多分にあるだろう。しかし、「捕食者」的な存在の影響が働く場合には、こういうものも、実際に、何か「脅し」めいた、「おどろおどろしい」ものとなりやすいのである。

そして、実は、「捕食者」的な存在の影響が映像に映り込む場合というのは、他にも、相当広くあるとみられるのである。肉眼には、はっきり捉えられなくても、写真やビデオなどの映像を解析してみれば、そういったものが映り込んでいるとみられる場合は、意外と多いということである。

その一つの例として、テレビなどのCMの映像をあげたい。

ウィルソン・ブライアン・キイは、『メディア・セックス』(集英社文庫)という本で、CMの映像に、死やセックスを暗示する映像や、そのものの文字などが、サブリミナル的に埋め込まれているという。その映像が多く紹介されていて、中には、ロールシャッハテスト並に曖昧なものも多いが、確かに、はっきりと、そういったものが映っているとみられるものもある()。キイは、それらのサブリミナル映像は、消費者の消費の欲望を刺激することで、売上を伸ばす効果がある、というのである。

また、前々回からとりあげている『スターシード』でも、「広告というのは、潜在意識に訴えかける強力な攻撃」だとし、「最も一般的な手段は、言葉(たとえばセックスなど)の挿入」であるということが、言われている。

死やセックスを暗示する映像や文字が、消費の欲望を刺激するというのは、確かにあるだろうが、それは恐らく、その効果の一部に過ぎない。実際には、もっと根源的なレベルでの欲望の刺激と、死への誘惑が図られ、それを通しての、精神的な堕落や弱体化が図られているとみられるのである。

このような映像を埋め込んだのは、とりあえず、直接には、CM製作の人間ということになるだろう。ところが、ごれらの映像の中には、とても人間のアイデアとは思えないような、見事に「おどろおどろしさ」を醸し出しているものもあるのである。

CMとは別に、テレビの映像に、このような「おどろおどろしい」ものを見るというのは、私も、一連の体験中に、いやというほど体験したことだった。多くの「統合失調者」も、類似の体験をしていることだろう。ただし、これは、その映像そのものが、本当にテレビの映像の中に入り込んでいるのではなく、我々の内部に生み出された幻覚的な映像が、テレビに「投影」される形で、映し出されたものである(はずである)。

しかし、このような、CMに入り込んでいるとされる映像も、その「おどろおどろしさ」は、このような幻覚的映像と非常に似た、同質のものと感じられるのである。そして、そこには、(幻覚的映像の場合と同様に)「捕食者」的な存在の影響が入り込んでいることが、うかがわれるのである。つまり、これは、先に述べた、「捕食者」的な存在の影響が、何らかの形で映り込んでいる映像の、一つの例と解される。
             
さらに言うと、これらの映像には、人間の「集合的な意識」が入り込んでいるという場合もあると、私は思う。上に見たように、個人の意識が、そう簡単に、テレビの映像に、(客観的に)入り込むなどということはないはずだが、人間の「集合的な意識」となると、そうとも言えない。ユングも、「集合的な無意識」が、物質的な現象として、何らかの形で現れ出る場合があることを認めていた(UFOもその例としていた)。

つまり、現代では、我々の「集合的な無意識」自体が、相当に、「おどろおどろしい」ものを形成し、それがテレビなどの映像に「投影」されるというだけでなく、実際に「入り込む」ということも、起こっていると解されるのである。現代人は、かように、「捕食者の影響を受けている」ということであり、あるいは「病んでいる」ということでもある。

そして、さらに言うと、テレビなどの映像ではなく、その本人が撮るカメラやビデオなどの映像では、その本人自身の個人的な意識というか「想念」が、映像として入り込むということは、十分あり得るのである。いわゆる「念写」というのがそうだし、先にみた「心霊写真」でも、実際には、撮影した本人自身の「想念」が入り込んだというものも多いはずなのである。

これら「想念」が、映像として現れ出たものは、既に何度かみたように、シュタイナーでいえば、「霊的鏡像」である。その者の「想念」が、鏡に反射されるようにして、霊的に「実体化」して現れ出ているということである。シュタイナーは、初め、「霊界の境域」で出会われる霊的映像は、客観的な存在のものではなく、このような、自分自身の「霊的鏡像」であることが多いと、注意を促しているのである。本来は、そのように「霊的レベル」で現れ出るもので、先の「統合失調者」が内的な幻覚として見るのも、そのような「霊的鏡像」である可能性がある。

ところが、写真やビデオなどの映像は、それらを一瞬捉えて、映し込むこともままあると解されるのである。いわゆる「念の強い」人ほど、そういうことが起こりやすいし、「捕食者」的な存在の影響があるときには、そういうことは、余計に起こりやすいといえる。

現代は、「現実」または「世界」そのものが大きく揺らぎ、全体として、一種「霊界の境域」と化していることも述べて来たが、そのような状況では、このような映像が映し込まれる可能性も増大するのである。

先に、「集団ストーカー」を撮った映像に、不自然な部分があるということて、「宇宙人」とするものがあることを述べた。これにも、単に「不自然」というのではなく、相当に「おどろおどろしい」ものが、みられる。

実は、これなども、撮影した本人の「想念」の「霊的鏡像」が映り込んだものである可能性が、かなりあると思われる。周りの人間や世界を、「集団ストーカー」という強い疑いのもとに見ているため、その恐れが、対象に対して、何かしら「おどろおどろしい」ものを、鏡像として、映し込ませているのである

それだけ、普段から、「世界」を「おどろおどろしい」ものとして、感じ取っているということの現れであり、同情に値する事態ではある。

※ https://www.youtube.com/watch?v=ONyBEUOT7BA  ここに映像の例がある。性的イメージやセックスの文字が多いが、ドクロなど死を暗示するイメージもある。

2017年8月25日 (金)

「MIB」のその後と「集団ストーカー」

これについては、本当はあまり触れたくなかったのだが、現在では、「集団ストーカー」はレプティリアンなどの「宇宙人」そのものの行為である、という見方も出で来ているので、この辺りで触れておくことにする。

前に、記事『要は「非-人間的なもの」/「MIB」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-a77a.html)、次の『他人を「巻き込む」こと』で、「MIB」(黒服の男)と呼ばれる存在について述べた。全身黒ずくめの、いかにも秘密めいた格好の男たちのことで、UFOの目撃者などの前に現れて、いろいろ質問し、秘密を漏らしたらひどい目に遭う等の「脅し」めいたことを言って、去って行く。UFO目撃のことは、誰にも言っていなくても、なぜか知っているのである。一度ならず、「つきまとう」ように、何度も現れることもある。その振る舞いは、いかにも不自然で、異様であり、常識を知らず、人間とはとても思えない。初めは、CIAなどの諜報機関の人間と思うが、問い合わせても該当者は存在しない。このように、謎の存在なのだが、「オリオン系の宇宙人」ともいわれている。「宇宙人」そのものは、異次元的存在なので、「物質化」して現れているわけである。

しかし、前の記事でも述べたように、今やこんなことは行われていない。かつては、UFOの目撃というのは、特別の珍しい出来事であり、いろんな意味で、不安を招くことだった。UFOも、「宇宙人」というよりも、軍の秘密兵器とみられることが多く、だからこそ、軍の秘密に関わったという意味での不安も喚起した。MIBというのは、そのような目撃者の不安につけ込んで、さらに恐怖を膨らませるような事態を演出するものである。

「全身黒ずくめ」の格好も、まさにCIAなどの諜報機関を装ったものだが、それはそのように、軍の秘密に関わると思われていたからこその演出である。そうして、「脅し」めいたことを言うわけだが、それもまた、真の目的などではなく、恐怖を拡大させる演出に過ぎない。

このように、諜報機関の者の訪問を受けて「脅し」を受けたというだけでも、相当の恐怖だろうが、その存在の、人間とは思えない、異様な振る舞いを間近にすることは、さらなる恐怖を喚起したはずである。このような、日常性の範囲を超えた、理解困難な、「訳の分からない」恐怖をもたらすことこそ、真の目的なのである。また、そこには、一種「愉快犯」的な面もあると思われる。

ところが、現在では、UFOの目撃などは、日常茶飯のことであり、写真やビデオにも撮られ、誰はばかることなく、人に語られ、メディアにも投稿される。もはや、UFOの目撃自体に、特別の秘密の意味合いや、不安はつきまとわないのである。また、CIAなどの諜報機関も、もちろんその秘密性がなくなったわけではないが、ある程度情報が知られ、かつてほどの「得たいの知れない」恐怖のイメージはなくなった。

だから、それにつけ込むような形での、恐怖の演出というのも、もはやなされることがないのである。

しかし、それなら、かつての「MIB」のような、「超暇人ゴロツキ宇宙人」は、今は何をやっているのだろうか。もはや「更生」して、「マジメに働いている」とでもいうのだろか。そんなことはないだろう。

「MIB」というやり方が、時代に沿わなくなったというだけで、現在も、かつての「MIB」に似た、我々の不安につけこんで恐怖を拡大するような演出はなされているはずである。そして、それは、現在では、「集団ストーカー」以外ではあり得ないという気がする。

記事『映画『激突』と「集団ストーカー」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-a8e7.html)でも述べたように、「集団」がある個人に対して、「ストーカー行為」をするというのは、個々人が切り離されて、孤独な現代人の不安を、見事についた発想である。かつての、「UFO目撃」の不安に、相当するものということができる。しかも、この「集団ストーカー」も、かつての「MIB」同様、真の恐怖は、ただ普通の意味で、「ストーカー」行為をされるということにあるわけではない。日常性の範囲を超えた、不自然な振る舞い、あるいは、内面の思考を見通したかのような、絶妙なタイミングでの現れという、「訳の分からない」要素にこそあるのである。

実質的に言って、やっていることは、かつての「MIB」と非常に似ているのである。

だから、私は、「集団ストーカー」というものを「演出」する存在がいること自体は、否定しない。

しかし、注意すべきは、これはあくまで、我々がもっている不安や、既にある観念につけこむ形でなされている、恐怖の「演出」ということである。かつての「MIB」が、実際にUFO目撃者の口止めをすることが目的ではなかったように、「集団ストーカー」なる行為をすること自体が目的なのではない。ただ、このような「演出」が醸し出す、恐怖の拡大が意図されているだけなのである。そして、そこには、やはり、「愉快犯」的な面が多分にある。

当然ながら、これは、多くの「被害者」が「集団ストーカー」とみなす行為が、いちいち「宇宙人」によってなされている、などということを意味するのではない。
また、「集団ストーカーの演出」というものはあるにしても、このような直接「宇宙人」が前面に現れるようなやり方は、決して通常のものではない。

「集団ストーカーの演出」というのは、既に述べたように、同時的に、偶然とは思えないような現象を起こす、「共時性」の演出とか、他の人間を操作して、意味ありげな振る舞いをさせるなどの方法によるものである。あくまで、「操作」による演出であって、自身が前面に出るなどということはない。ただ、稀に、上に述べたような、直接「宇宙人」が「物質化」して現れる場合もあり得る、というほどのことである。

私が、これに触れたくなかったのも、このような場合が多くあるかのように思われるのは、望ましくないからである。

繰り返し述べたように、「集団ストーカー被害」なるものの多くは、「集団ストーカー」なる観念を強く信じてしまったが故の、「思い込み」か、「引き寄せ」現象である。「集団ストーカー被害」を受けているかのような感覚を生じた場合には、まず第一に、この可能性が考慮されなければならない。さらに、たとえ、何らかの存在に、「集団ストーカーの演出」行為を受けているという場合にも、それは、「共時性」の演出とか、他の人間を操作するという方法でなされる。だから、直接目の前にしている人間そのものが、「ストーカー」というわけではないのである。

ただし、それを踏まえたうえで、あえて言えば、そのほかにも、非常に稀な場合として、直接「宇宙人」が「物質化」して現れる場合もある、ということなのである。

私自身も、このようなことを何度か経験しているし、そのうちのいくつかは、直接何かの行為を仕掛けてくるのではないが、確かに、こちらの内心の思いを見越した、絶妙なタイミングでの「つきまとい」的なもので、こういうのに出会えば、確かに、「集団ストーカー」なるものがあると思ってしまっても仕方がない、と思えるものだった。

何しろ、このように、直接「宇宙人」(または人間以外の存在)が現れる場合には、無視し難く、非常に強烈な印象を残すことになる。それが、「集団ストーカー」的な振る舞いをすれば、「集団ストーカー」なるものがあるという確信を、強くもってしまうことになるのである。それで、そうでない場合、つまり他の多くの者の行為も、「集団ストーカー」という疑いのもとに、解釈するように仕向けられることになる。

ただし、この場合には、「共時性」や「人間の操作」の場合とは違って、そこに、多くの者を関わらせるということはできない。「共時性」の演出や「人間の操作」の方が、「多くの人間がストーカーをしてくる」という意味での恐れとリアリティは醸し出すことができるので、それぞれ、演出の効果は違うのである。

さらに、「物質化して現れる」というのは、彼らにとっても、エネルギーのいることであり、また非常にリスクのあることで、そう頻繁にできることではないようである。だから、これは、よほど彼らに、「睨まれた」(ある意味「好まれた」)人物が、稀に行われることのあるものと言うべきでなのである。

現在は、「被害者」で、レプティリアン等の宇宙人が、「集団ストーカー」の犯人とみなしている者も、結構いるようだが、本当に「宇宙人」といえるのは、そのうちの一部のみであり、しかも、その行為とされるもののうちの、ほんの一部と解されるのである。

とはいえ、「人間以外のもの」が人間の装いをして、物質化して、人間の前に現われるということ自体は、昔からあったことで、現在に特別のことというわけではない。たとえば、「狐に化かされる」などというのにも、そういったことが含まれている。

また、それらは、決して「悪さ」ばかりをしたわけではない。そのようなことを通して、人間を救ったり、いろいろ教えたりということもあったはずである。

しかし、上にみたような、「ストーカー」紛いのものは、いかにも卑劣なもので、本当にどうしようもないものと言うしかない。やっていることは、そこら辺の「低級自然霊」と何ら変わりない。こういったものに出会ってしまったときには、むしろ、いかにこういうものに振り回されることが馬鹿げたことかを、改めて確認する機会にした方がよい

2017年2月18日 (土)

「集スト被害」という「解体しない妄想」

前回、「統合失調」では、「未知の状況」に多かれ少なかれ入り込んでいるために、「解体」が進んで、「妄想」がうまく築けない。ところが、「集団ストーカー被害」では、同様の状況の周辺にはいるが、強い「妄想」の力によって補強され、状況に入り込んで「解体」することは、止められているということを述べました。

これはもちろん、「集団ストーカー被害」の方が、「統合失調」より「マシ」で、好ましい、ということではありません。「妄想」によって、状況に入り込むことが止められているということは、その「妄想」を外せば、状況に入り込んで、「解体」する危険が迫っているということです。つまり、その「妄想」は、もはや、外すことのできないものになっているのです

実際、「集団ストーカー被害」を訴える人は、何年もの長い間、実体のはっきりしない「被害」の「妄想」を持ち続けたまま、「解体」するでもなく、その(不毛ではあるが、ある意味安定的な)状態を、ずっと維持し続けている人が多いようにみえます。それは、「解体」という、明らかに危険な状態に陥りはするが、それを何らかの意味でくぐり抜けて、超える余地もある、「統合失調」に比しても、「出口のない」、痛ましい状態と言えるでしょう。

このように、「集団ストーカー被害」を訴える人が、そうまでして、入り込むことを阻止しようとする「未知の状況」というのは、このブログの前半部分で、主題的に明らかにして来たことです。しかし、これこそが、理解のための重要なポイントなので、必要な範囲で、簡単に振り返ってみることにしましょう。

それは、要するに、これまでの日常的な経験からは、かけ離れた、容易には理解できない状況であり、もはや、「この世」という感覚的、物質的な世界を越えて、「霊的な世界」との境界領域に立ち入ろうとしている状況です。一言で言えば、「霊界の境域」です。(記事『「霊界の境域」を超える二方向性』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post-7797.html、『「霊界の境域」の「図」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-fb4c.html 等参照)(※)

それは、「霊的な世界」の入り口であり、「この世」の理解を超えた、不可解な現象に満ちています。たとえば、自分自身の思考や恐怖の反映が、「実体的なもの」として現われ出たりします(「(霊的鏡像」または「エレメンタル」)。また、普通は、偶然と考えられないような、「共時性」(シンクロニシティ)も頻繁に起こります。そこは、「捕食者的な精霊」または「宇宙人」の住処でもあり、様々な「攻撃」をしかけられます。

さらに、そこは、「この世」とか「あの世」とかのくくりからはみ出る、「混沌」とした領域で、根底には、根源的な「虚無」が控えています。言葉や理性では、とても捉えられない、本質的に、恐怖と混乱をもたらす世界なのです。

「統合失調」では、そのような状況で、自己を苛む「声」を聞いたり、自己と外界との境界を失って、「解体」が進むことになります。そのような「解体」を抑えるべく、何とか、現にある状況を、これまでの日常性の延長上に解釈して捉えようとするのが、「妄想」ですが、それは「解体」が進めば進むほど、成功しません。どんなに日常性の延長上に捉えようとしても、それに収まらない面が露わになるからです。それに、そもそも、このような「混沌」たる状況は、言葉や理性で説明しようとしても、初めから無理があります。

「集団ストーカー被害」を訴える人も、本当は、何か途方もない「未知の状況」を、目の前にしているという予感を、潜在的にはもっている人が、かなりいると思います。あるいは、少なくとも、そのようなことを、漠然とながらも、それまでに経験のない「違和感」として、感じ取っている人は、多いと思います。具体的にも、偶然とは思えない「共時性」や、「捕食者的な精霊」による示唆、攻撃など、「霊界の境域」における何らかの現象を被ってしまっていることは多いと思います。

しかし、そうであればあるほど、自分の受けている「被害」は、人間の集団による「集団ストーカー」という、ある意味で、良く知られた、「陳腐」な現象でなければならないのです。この辺りは、「統合失調」の場合の「妄想」が、少なくとも初めは、具体的な人間や組織による「迫害」として、生じてくるのと同じことです。

ただし、「統合失調」の場合、状況に入り込むのに従って、そのような解釈は無理になり、「宇宙人」や「神」などの超越的存在が出で来ざるを得なくなります。ところが、「集団ストーカー被害」の場合、「妄想」の力が強く、状況に入り込むことを止めているため、そのような「妄想」が強固に維持されるのです。

このように「妄想」が維持されるのは、もう一つには、「被害者」同士で、ある程度「共有」か可能となっていることにもよります。「統合失調」では、「妄想」は、一人による、孤独な闘いの結果、紡ぎ出されたものであることが多いですが、「集団ストーカー被害」の場合は、少なくとも、一定の人たちの間で、同様の「妄想」を類型的に共有できているのです。それは、それを維持するのに、大きな力を発揮します。(ちなみに、「常識」というのは、さらに多くの者による「共有」を可能にすることで、堅強に保たれる「妄想」と言えるのですが、それについては次回にでも述べます。)

さらには、何と言っても、「集団ストーカー」という観念自体が、それを維持するのに、非常に巧妙にできているということがあげられます。それは、絶妙なタイミングでの通りすがりとか、仄めかし、嫌がらせなど、曖昧かつ暗示的で、はっきりとは捉え難い形での、間接的な行動で成り立っています。初めから、そのように意図されて、構成されているのです。それで、そのような攻撃が、実際にあるのかないのか、はっきりと白・黒つけられることはありません。だからこそ、いつまでも、、その観念が壊れることなく、生き続けられるのです。

多くの人にとっては、あまりにも曖昧で、それを信じるのは信じ難いと映るでしょうが、現に、状況に近づいて、漠然たる「違和感」を感じている「被害者」にとっては、むしろ、その方が、自分の陥っている状況を説明するのに、ピッタリくるのです。また、その曖昧さによって、多くの人が、共有できるものにもなっているのです。

そういうわけで、「集団ストーカー被害」という「妄想」は、「未知の状況」を間近にするからこそ、生じているのですが、それを強固に信じて、それに埋没している限り、「状況」に入ることを阻止し、「解体」を押し止めてくれるものなのです。だからこそ、外すことのできないものであり、周りの者にとっても、「統合失調」以上に「厄介」なものともなるのです。

そのような者に対して、「妄想」を無理やりにでも外して、状況に入ることを促し、「解体」の方向に進んでしまった方がよい、とは安易に言えないし、かと言って、その「不毛」で、「危なっかしい」状態を、ずっと維持するのがよいとも言えないでしょう。とりあえず、長い目でみて、いずれはこの「妄想」が、それほど問題を起こさずに、外されることを、見守るぐらいしか手はないのかもしれません。

※ 『「霊界の境域」を超える二方向性』の次の記事 『「分裂病的状況」の場合』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post-1072.html)と、その次の記事 『「分裂病」の分かりにくさ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post-424f.html)では、「未知の状況」との関係での、「統合失調」という反応について、まとまった説明をしているので、是非こちらも参照ください。さらに、後者では、「妄想」に閉じこもることから、いかに脱却するかについても述べられ、それは「集団ストーカー被害」の場合にもあてはまることなので、是非参照してほしいと思います。

2016年11月14日 (月)

意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 2

波束の収縮及び「知覚」には、共に「意識」が作用するといっても、その「意識」の性質または範囲は異なるのであった。

波束の収縮の場合、「意識」は、その現象をもたらすという点に絞って捉えられるもので、端的には、物質的過程から独立した要素を意味する。これは、山田廣成のように、「意志」とみることもできる。「意識」の、より根源的で志向的な働きであり、波束を収縮させて「確定的な現実」を出現させるという、創出的な働きをなすことにも適っている。

それに対して、「知覚」の場合の「意識」は、その「意志」を含みつつも、脳の過程を伴う、「思考」や「記憶」など、具体的な内容をもった働きを、広く含んでいる。「知覚」においても、「みる」という、「意志」による積極的な志向が働くが、それは、全体としてみれば、脳の過程、文化的信念体系、個人の思考や記憶などによって、大きく条件付けられた、一つの「表象」なのである。(両者を全体として捉えれば、まさに、ショーペンハウアーのいう「意志と表象としての世界」。)

「知覚」も、それ以前に、確たる「現実」があるわけではないという意味では、一つの「現実」の創出には違いない。が、それは、主観的、恣意的な内容によって大きく彩られた、「幻想」ということにもなるのである。

ところで、ここでいう「意志」とは、人間よりも、むしろ自然物や野生の生物、つまり「自然」そのものの方が、純粋に働き易いといえる。人間では、文化的、個体的な条件付けの方が、大きく勝って、「表象」の世界に閉じ込められている度合いが強いからである。だから、波束の収縮そのものは、人間よりも、自然物や他の生物との関わりにおいて、起こることが多いと解される。ただ、人間が関与する場合は、波束の収縮を越えた、「超能力」的な作用をもたらすことにもなるのである。

あるいは、人間では、この意味の「意志」は、表面化せず、「意識」の潜在的なレベルに、眠っているという見方もできる。しかし、その働きが、脳の過程や、信念体系、思考を巻き込みつつ、我々の「現実」を作り出す元になるのである。だから、我々の「現実」は、他の自然物や生物との関わりにおいてではあるが、(生物的、文化的、個人的のどのレベルであれ)潜在的には、我々の「意志」がもたらしているといえるのである。

そして、このような「現実」の創出には、多数の「意志」の「集合」ということが、大きく影響している。「地球プロジェクト」でも、多数の者の集合的な意識によって、乱数発生器の乱れが高まるのだった。「意志」における「現実」創出の力は、多数の集合によって、より焦点化され、強固に象られると解される。そのようにして、実際に、一般には、確かな基盤をもった、外的な「現実」と思われている、「物質的な現実」なるものが、創出されるということである。(※1)

また、同時に、それは、「知覚」全体としてみれば、強固な文化的信念体系によって、多くの者を規定してこそ、容易には覆らない、安定したものとして、保たれることにもなる。言い換えれば、「集合的な知覚」とは、多くの者で共通すべく、大きな制限を伴い、それに適わないものは、排除するということで、成り立つ面があるということである。そのようなことが、「知覚」に、「幻想」としての面を、強く付与するとともに、それを強固に保つことも可能にするのである。(※2)

前回みたように、「知覚」も一つの「幻想」であるならば、「知覚」と「幻覚」を区別する、本質的な理由はないことになる。とはいえ、事実上、「知覚」は、多くの者が「共有」しており、「幻覚」は、特定の者がもつだけで、多くの者が「共有」していない、という違いがある。

それは、「知覚」が「現実」を創出するという点からみれば、実際には、上にみたように、多くの者が、「集合的」に「共有」するからこそ、「現実」としての、創出力が高まっているのである。また、同時に、それが、強固な文化的信念体系によって、「共有」されるべく支えられるからこそ、安定したものとして、保たれるのである。

それに対して、「幻覚」は、そのようなものから逸脱するので、特定の者を捕えることはあっても、多くの者を巻き込んで、「集合的」な「現実」として創出されるには、至りにくいことになる。(※3)

だから、それは、「集合」の度合いの問題であって、「幻覚」の方が、より「幻想」の度合いが強いということなのではない。むしろ、後にみるように、「幻覚」の方が、「知覚」に伴う制限を超えて、より真の「実在」(内在秩序)を反映する、という可能性もあるのである。

これまで述べて来た、波束の収縮における、「現実」を現出させるという面と、「知覚」における、「幻想」を生み出すという面は、「ホログラフィク・パラダイム」に照らしてみると、より統一的に捉えることができる

ホログラフィク・パラダイムでは、波束の収縮も、全体が不可分に結びついて運動している、「内在秩序」のある側面を、「顕在秩序」に披き出す、一つの過程に過ぎない。「内在秩序」こそが、「ホログラム」的な情報を刻み込んだ、真の「実在」であり、「顕在秩序」は、その情報が、「ホログラフィ」的に投影された、一つの「写像」に過ぎない。だから、量子力学的には、確定的な現実を出現させる、波束の収縮も、それ自体が既に、一つの「幻影」としての創出ということになる。(※4)

「知覚」においては、そこにさらに、種や文化、個体による、主観的、恣意的な要素を、大きく介入させることになるので、その「幻影」としての性質はさらに強められる。そのようにして、「知覚」という過程が、全体として、「幻想」としての「現実」を作り出すということの意味が、より明確になる

ただし、ホログラフィック・パラダイムは、「脳」や「知覚」の働きが、単純に「幻想」だと言うのではない。

脳科学者のプリグラムは、脳そのものが、宇宙というホログラムを解釈する、それ自体一つの、ホログラムであるという。ホログラムは、分割しても、部分が全体を反映するように、脳も本来、(宇宙の)全体を反映する性質をもっているということである。

ボームも、クリシュナムルティの例にみられるように、「知覚」が、「内在秩序」というより、さらにそれを超えた、「全体性」を反映する可能性を認めていた。つまり、これまで述べて来たような、制限され、条件づられた、部分的な「知覚」ではなく、全体的な「知覚」。言い換えれば、「観るもの」と「観られるもの」との対立や分裂のない、一体的な「知覚」としての、「観ること」である。

ボームは、このような「全体性」は、脳や意識の働きを超えるとしているが、同時に、脳や意識が、その「全体性」を反映する「道具」として働くことは可能としている。

しかし、それには、当然ながら、脳や意識の内容である、信念体系や思考を超えることが条件となる。それは、これまでみて来たことに照らせば、信念体系や思考に条件づけられた、「知覚」による「現実」創出の働きを止めること、そして、ただ「観る」という「意志」そのものになり切る、ということにもなる。

現状では、それは遠い可能性に過ぎないが、それには、ともあれ、「現実」とは、「知覚」によって「創出」されるものにほかならないことを、よく知ることが必要ということになろう。

※1 だたし、繰り返し述べているように、このような「物質的な現実」としての創出は、人間だけでなく、様々に多様な自然物や存在の「意志」が関って、起こることてある。あるいは、「意志」の「集合」により、「物質的な現実」が創出されるという場合、その「集合」には、人間だけでなく、他の自然物や存在を含めてみるべきということにもなる。

さらには、この、様々に多様な「意志」の根底は、実際には、「一つ」のものとみることもできる。それは、いわば「宇宙の意志」ないし「神の意志」ということにもなる。多様な「意志」による「現実」創出の力は、根源的には、そのような、根底にある「宇宙の意志」ないし「神の意志」から来るものといえる。

※2 リサ・ロイヤル、キース・プリースト著『コンタクト』という本では、「宇宙人」と地球人のコンタクトが起こりにくいのは、このような意味での地球人の「現実」に、宇宙人の「現実」が、組み入れられないからだということを述べている。つまり、地球において育まれた、地球人の集合的な「知覚」によっては、宇宙人の存在を、取り込むことができにくいのである。集合的に受け入れられないものは、そもそも、「知覚」にかからない(排除される)ということである。

ここ(http://mononomikata-kerogg.blogspot.jp/2011/08/blog-post_08.html)にも触れられているように、マゼランの大型船団が、フエゴ島に到着したとき、島民には、「見えなかった」り、ペリーの黒船が、当時の江戸の庶民の一部には、「見えなかった」りしたのも、同じようなことである。

※3   記事『幻覚的現実と物質化現象の「中間的現象」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)で述べたように、「幻覚的現実」と「物質化現象」との間には、様々な「中間的現象」があり得る。それは、「物質的現実」として創出される力の、さまざまな程度の違いの問題とみることができる。それは、まさに、ここで述べたような、「意識(意志)」の「集合」の度合いの問題ということでもある。つまり、「意識」が「集合」されるほど、「物質的現実」として創出される度合いは強まるが、そこに至らない場合にも、様々な「中間的現象」として、現出する可能性はあるわけである。

※4 この「確定的現実」とは、時間や空間の枠組の中で、位置付けされる、物質的現実ということだが、それらも、「内在秩序」のある側面の反映に過ぎず、「内在秩序」そのものは、物質を超えた領域を広く含んでいる。だから、一般の「知覚」では、披き出されない、そのような領域を反映する「知覚」というものも、十分あるわけである。一般には、「霊的知覚」といわれるが、「幻覚」といわれるものも、そのようなものを含む可能性があることになる。

ただし、「霊的な知覚」だからといって、より真の「実在」を反映するとは限らないし、上にみたように、「全体」を反映する、ということにもならない。

2016年11月 7日 (月)

意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1

意識と物質の関係に関する一連の記事(『「宇宙人」と「霊的なもの」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-57a6.html 『「量子力学の観測問題」と「意識」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-c0a9.htmlhttp://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ec1e.html 『「超能力」「気」と「量子力学」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-d1d8.html 『「ホログラフィック・パラダイム」について』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-77b9.html  )で、述べて来たことを、「知覚」と「現実」という観点から捉えなおしてみる。

端的に言えば、「現実」とは、まさに「意識と物質の関係」そのものとして創出されるのであり、「意識」との関係抜きには、あり得ないということである。

これを、「知覚」という観点から言い換えると、「現実」とは、(「意識」に基づく)「知覚」抜きにあるものではなく、「知覚世界」こそが「現実」となる。つまり、まず、「現実」というものがあって、それを「知覚」が映し出すのではなく、「知覚」こそが「現実」を生み出す、ということである

このことを、まずは、量子力学との関係でみてみよう。

量子力学は、物質の本質である「量子」とは、「観測」以前には、抽象的な「確率の波」に過ぎず、「観測」されて、初めて「粒子」という実在として現れることを明らかにしたのだった。

記事では、アインシュタインが、量子力学が、現象の本質を確率的なものとしてしか捉えられないことを批判して、「神はサイコロ遊びをしない」という言葉を残したことを述べた。しかし、アインシュタインは、量子力学が、「観測」以前には、現象を実在として捉えられないことについても、有名な批判の言葉を残している。それは、「月は、我々が見る以前には存在しないのか」というものである。

月は、(超)マクロの物質だから、直接この量子力学の捉え方を適用できるかは問題である(前にみたように、「デコヒーレンス理論」によれば、マクロの物質には適用されないことになる)。が、マクロの物質といえども、「量子」の集合体として、本質的な差異はなく、同じ捉え方ができるとみるならば、確かに、このような批判は真をついていることになる。

前にみた「シュレディンガーの猫」も、基本的には、同じ問題を扱ったものである。放射性物質が崩壊する(その量子力学的な確率は2分の1)のを検出すると、毒を放出する装置を、猫とともに箱の中に入れておくと、「観測」する以前には、猫はどうなっているか(「観測」すれば、もちろん、生きているか死んでいるかは確定できる)。この場合に、量子力学の波動関数を当てはめると、猫は、「生きている状態と死んでいる状態を重ね合わせた状態」にあることになるのである。つまり、「現実」の状態としては、「あり得ない」(実在しない)状態である。

要するに、「観測」以前には、確定的な「現実」なるものがあるわけではない、ということである。

「観測」とは、目を含む、観測装置を対象に作用させて、その反応をみるというものだが、それは、最終的には、「知覚」ということによってなされる。そこで、今度は、これを「知覚」という観点からみてみる。                                 
哲学などでは、たとえば、カントのように、「認識」は、人間のカテゴリーに基づくものであって、外的な「現実」そのものを明らかにするものではない。外的な「現実」(「物自体」)は、不可知である、と考えるものもあった。ところが、先にみたように、一般的な常識としては、まず「知覚」以前に、「現実」なるものがあり、「知覚」はそれを映し出すに過ぎないとみなされている。

しかし、最近の脳科学によっても、「知覚」とは、外的な情報をそのまま写し取るものではなく、脳が、入力した情報を分解し、さまざまな形で再構成して、「作り出す」ものであることが明らかにされている。それには、「記憶」や「思考」などの様々な主観的要素も入り込む。「知覚」が客観的な「現実」を映し出すなどとは、とても言えないわけである。

実際、それをもう少し押し進めた考え方として、「唯脳論」というものもある。これは、単純な唯物論的発想なのではなく、全ての「現象」は、脳が捉えた限りでの現象であり、端的に言えば、脳が生み出した「幻想」に過ぎない、というものである。「知覚」に限らず、脳が捉えるものは、客観的な「現実」を反映しているなどという保証は何もなく、いわば脳の中の、「仮想現実」に過ぎないということである。当然、出て来て然るべき考えだし、視点としては正しいというべきである。(ただし、これも押し進めれば、「脳」もまた、脳が生み出した?「幻想」の一つとなるはずで、脳だけが、あらゆる現象から独立した「実体」としての位置に立つのはおかしい。)

いずれにせよ、「知覚」が客観的な「現実」を映し出すとは言えない、という問題は、それなら、「幻覚」とは何かという問題も引き起こす。「知覚」が「現実」を映し出すのではないなら、それを「幻覚」と区別する理由はないはずだからである。

実際、「唯脳論」では、いずれも、脳が生み出した「幻想」として、「知覚」と「幻覚」を区別する本質的な理由はない、とする。それは、確かにそうなるはずである。あるいは、「知覚」こそが「現実」を作り出すという見方に即して言えば、「知覚」も「幻覚」も、どちらも「現実」にほかならないことになる。

ただし、後にみるように、それらに違いを見い出すことは可能である。「知覚」は、多くの者によって、「共有」される「現実」であり、「幻覚」は、少なくとも、現時点で、多くの者によって共有されず、特定の者がもつ「現実」に過ぎない。ただ、それも、要は、「程度問題」であり、今後、どのように移り変わって行くかは、不明である。

といっても、このような「知覚」について分かったこと、または、それを押し進めた考えは、量子力学がいう、「観測」が「現実」を作り出すというのとは、意味合いが異なっている。

量子力学は、「観測」が、文字通り、知覚可能な「確定的現実」を「出現させる」(波束を収縮させる)と言っているのであって、その「知覚」が、現実を反映しない「幻想」だと言っているのではない。

しかし、その意味合いの違いは、両者における、「意識」の関わりの問題を捉えることで、解消することができる。

もう一度、量子力学に戻ると、ノイマン・ウィグナー理論では、「意識」こそが、波束を収縮させる、つまり、確定的な現実を現出させるのだった。「観測」行為(「知覚」)には、もちろん脳の過程が伴うが、脳の過程といえども、物質的な過程であり、量子力学が適用されるものである。だから、量子力学から独立した、波束の収縮という現象は、脳の過程を超えた、「意識」そのものによって、なされるとみるしかない、というのが、ノイマン・ウィグナー理論の考えである。

「意識」が、量子力学的な過程に影響を与えることは、たとえば、多数の意識が、乱数発生器の量子力学的な発生の確率を乱すことを明らかにした、「地球プロジェクト」などによっても、示されている(同種の実験結果は、超心理学によって多数示されている)。この点からも、意識が量子力学的な過程から独立して働くとみることは、十分の理由がある。

しかし、波束の収縮が意識によって起こるというのは、波束の収縮は、量子力学的な確率の範囲でなされるものだから、それを超えてしまう、これらの実験事実とは相入れず、意識の独立性を認めることと、必ずしも一貫しない。また、波束の収縮は、「観測」によって、必ず起こらなければならないことであり、その意味でも、常に働くとは限らない、上のような現象とは異なっている。

さらに、波束の収縮が、意識によって起こるとすると、その意識とは、誰のものなのかという問題が生じる。波束の収縮という、確定的な「現実」そのものを現出させる行為が、誰によってなされるのかということだから、重大な問題である。最初に「観測」した者が、波束を収縮させることになるのか。多くの者の意識が、共通して、初めてなされることになるのか。そもそも、この意味の意識とは、人間だけがもつものなのか。猫にも、この意味の意識があるのではないか。さらには、観測装置にも、この意味の何らかの「意識性」が認められるのではないかなど、様々な疑問が生じる。

実際、人間だけが、この意味の「意識」をもつとするのは無理というべきである。人間が「観測」するまで、絶対に、物質の状態が確定しないなどということは、あり得ない。また、人間だけが意識をもつという発想は、一神教的な発想から生まれた、西洋近代のものであり、何ら普遍的なものではない。

人間だけが、意識をもつ(「観測」する)という発想をするから、「月は、観測以前には存在しないのか」という疑問も出て来るのである。他の天体同様、月そのものも、「意識」をもつかもしれないし、人間以外にも、月を観測する生命体はいくらもある。少なくとも、その段階で、月の存在は「確定」しているはずである。「シュレディンガーの猫」の場合も同様で、猫が意識をもつとすれば、その段階で「確定」するし、観測装置にもある種の「意識性」を認めるなら、その段階で確定するという発想も可能である。

さらに、山田廣成のように、電子が意識をもつとすれば、波束の収縮の問題は、電子のレベルからの、種々の意識と人間の意識との相関で決まることで、人間の恣意の働く余地は、ほとんどないことになろう。

このように、意識が波束の収縮をもたらすといっても、それは、人間の意識ということではなく、様々な多様な意識のせめぎ合いの結果ということである。ただ、人間の意識が関与する場合、「地球プロジェクト」のように、量子力学的な確率を超えて、作用することもあることになる。それは、一種の「超能力」といえる。

ここで述べた「意識」とは、波束の収縮をもたらすものとしての意識、つまり、量子力学的な過程から、何ほどか独立した要素をもつものとしての意識であった。

一方、「知覚」において、一種の「幻想」として、「現実」を作り出すというときの、意識の関りはどのようなものだろうか。一般の脳科学では、知覚という現象も、脳の過程に還元されるものとみなされる。が、脳の過程は、知覚するときに脳で起こっていることを説明するだけで、「知覚」そのものではないというべきである。たとえば、「赤い色」を見ているときの、脳の過程は、それをいくら詳しく解析しても、現に見ている「赤い色」そのもではない(※1)。あるいは、言い換えれば、脳の過程ということでは、「知覚」において、本当に「見ている」当のものが、一向に明らかにならないということである。

やはり、「知覚」においても、何かしら、物質的過程から独立した要素をもつ、「意識」という「主体」を想定しない限り、成り立たないというべきである。しかし、「知覚」とは、「観測」の場合の、波束の収縮という現象に限定されない、より広い過程であることは明らかである

そこには、種や存在による、生物学的な基盤の違いが、当然作用する。また、人間の場合でも、文化や個体によって、「信念体系」、「思考」、「記憶」など、意識による、様々な主観的な相異の影響が働く。この場合の「意識」とは、波束の収縮の場合のように、物質的な過程から独立した要素のみではなく、脳の過程ということも伴いながら、「思考」や「記憶」等の具体的な内容をもった働きを含むのである。

そういうわけで、波束の収縮そのものと異なり、「知覚」とは、客観的な過程などではなく、様々な差異と、主観的な色付けを帯びたものということになる。

だから、「知覚」全体として言うならば、それは、客観的な「現実」を映し出すものではなく、一種の「幻想」として、「現実」を生み出すもの、ということにもなるのである。(続く)

※1  「クオリア問題」ともいわれる。前にあげた、このサイト(http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria.html)では、この問題についても、詳しく分かりやすい説明をしている。

2016年9月17日 (土)

「ふと見た」瞬間に遭遇する現象

「被害者」と称する人たちを除いては、「集団ストーカー」と「統合失調」に、共通の要素があることは、一目瞭然のことと思う。ただし、多くの人は、「統合失調」が「病気」であるという一般的な理解に引きずられて、「集団ストーカー」も「病気」という視点からみてしまいやすい。が、私は、「病気」という視点からは、何も明らかにならないことを強調し、実質的に、両者に共通する要素を、明らかにしてきたつもりである。(そのうえで、両者の違いについても明らかにしている。)

「集団ストーカー」に関する記事は、この辺で終わりにしようと思っているが、「集団ストーカー」の観念の元となる、感覚にまつわる現象として、もう一つ重要なことを指摘しておきたいので、それを述べることにする。

私は本当によくあるのだが、一つの現象として、なぜか気になって時計を「ふと見る」と、「2時22分」とか、「3時33分」とか、時間が「ゾロ目」であった、ということがよく起こる。もちろん、偶然である可能性はあるが、「ふと見た」ときに、他の時間であることに比べて、偶然以上に頻繁に起こるとしか思えない。

「ゾロ目」の時間というのは、他の時間に比べて、印象に残りやすいので、そればかりがことさら記憶され、他と比べて、頻繁であるような錯覚を起こしているだけ、という可能性もある。しかし、それを差し引いても、やはり、偶然以上に頻繁に起こるとしか思えないのである。

これと似たこととして、外を歩いているときなど、ふと気になって、目を向けると、ちょうど、相手もまさにこちらを向こうとして、目を向けるところで、タイミングよく、ピタリと目が合ってしまうということが起こる。これには、多少の驚きと、圧迫感が伴うので、お互いに、「なんだお前!」的な目つきになって、相手を見てしまい易い。つまり、下手をすれば、相手が「悪意」をもって、自分をみつめていると解釈して、険悪なムードになってしまうこともあり得る。

このように、「ふと見る」というときには、何か、偶然とは思えない、印象に残る現象が起こっていることが多いのである。

恐らく、「集団ストーカー」の被害を訴える人にも、これに類することが、かなり頻繁に起こっているものと解される。その「ふと見た」瞬間に出会っている人なり、車なりが、ちょっと変わった態度なり、状態(まさに「ゾロ目ナンバー」であることも多いだろう)なので、強く印象づけられ、圧迫感を感じ、自分に対して、何らかの「悪意」をもっているように感じられることも多いのである。

もっとも、普通は、こういうことは、ほとんど気にも止めないものだが、特に過敏な感覚と、受け取り方をしてしまうため、こういったことが、普通以上に強く印象づけられ、それに、ことさら捕らえらてしまうという人たちもいる。

こういう人たちが、被害妄想的になっているときに、「集団ストーカー」という観念に出会うと、それらの現象が、見事に、これに当てはまると思ってしまい易いのである。こういったことも、「集団ストーカー」の観念に捕らえられる、一つの大きな理由になっていると思われるのである。

「ふと見る」瞬間に、偶然とは思えない現象が起こり易い、というのには、いくつかの理由が考えられる

まず、人には、「周辺視野」というものがあり、実は、意識的に「見る」ということが起こる前に、無意識レベルで、それを「見ていた」という可能性がある。つまり、意識レベルでは、何とはなしに、「ふと見る」という感覚で、始めて見るつもりだったとしても、実は、無意識レベルでは、既にそれを「見て」いて、それに何らかの印象を感じていた可能性がある。だからこそ、意識レベルにおいて、「ふと見よう」という気を起こさせたのである。

「ゾロ目」にしても、人との遭遇にしても、実は、無意識レベルで既に「見て」いて、何がしか印象づけられたからこそ、意識が反応して「ふと見た」のだが、意識レベルでは、「ふと見た」瞬間に、まさに、それが起こったように感じられる。それで、それが、偶然ではなく、その瞬間に、特別に起こった現象と感じられてしまうのである。そして、驚きや、恐怖を感じてしまうことにもなる。まず第一に、こういうことが考えられる。

しかし、無意識の感受性というのは、「周辺視野」により、実際に「見て」いたものについてだけ、生じるというものではない。特別に敏感な感覚を持っていたり、恐怖のため、催眠に似た、変性した意識状態にあったりした場合などには、なおさら感受性が高まって、そういうことが起こる。

つまり、無意識レベルでは、周りの世界のことについて、実際に「見て」いなくとも(「見る」という可能性がない場合でも)、「予感」として感じたり、物理的な感覚とは別の次元で、感覚していたりすることが、あり得るのである。そのときの印象が、先の場合と同様に、意識レベルで、「ふと見る」という気を起こさせ、その瞬間に、その現象が起こったように思わせる。そして、この場合には、ある程度の予測がつく、「周辺視野」で見ていた場合以上に、「奇妙」なことと感じられ、強烈な印象を残すことになる。まさに、信じ難い「タイミング」で、偶然とは考えられないことが、起こっていると感じさせるのである。それは、より強い驚きと、恐れをもたらし、ますます、そこに、「悪意」のようなものをみてしまうことになる。

この、「集団ストーカー」の被害者がよく言う、「よいタイミング」については、実際には、記事『「恐怖心」が引き寄せる現象』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-e6b5.html)でも述べたように、単なる主観的な「錯覚」であることがほとんどだと思う。そのような「タイミング」というのが、他の場合に比して、本当に「頻繁」に起こっている訳ではないということである。「集団ストーカー」という疑いをもって、恐怖のもとに、周りの世界を見ているので、「視野狭窄」に陥り、そのようなものにしか目が行かなくなる。その結果、それが、頻繁に起こっているような感覚に、陥ってしまうのである。

ところが、中には、本当に「偶然ではない」と感じるだけの理由がある場合もある。その理由の一つとして、上にあげたような場合(これも一種の錯覚といえるが)がある、ということである。

「偶然ではない」と感じる理由の中で、最も強力なのは、先の記事でも述べたように、自分自身が、共時的に現象を引き寄せているという場合である。しかし、それは、自分の中の、本当に深いところで、強力に「集団ストーカー」の観念と恐怖に捕えられている場合に、起こることであり、一般には、そう頻繁に起こることではない。

しかし、そこまでいかなくとも、ここで述べたようなことは、割とよく起こることなので、注意が必要ということである。

2016年8月31日 (水)

映画『激突』と「集団ストーカー」

スピルバークのデビュー作である『激突』という映画には、エイリアンや未知の存在は、一切出て来ない。一介のサラリーマンの運転する車が、巨大なタンクローリーに、意味もなく付きまとわれ、追いかけ回されるというだけの話である。しかし、そのホラーとしての恐怖は、他のものにも勝るほどである。そこには、不思議なほとのリアリティが存在しているのだ。

初め、仕事で急いでいる車の運転手は、片道一車線の道の前をゆっくり走る、巨大なタンクローリーにいら立ち、追い越そうとする。が、そうすると、タンクローリーがスヒードを上げて、抜かせないことを繰り返すので、困惑する。しばらくすると、タンクローリーが、窓から手を出して、「行け」と合図をする。それで、これ幸いと、抜かしにかかると、対向車線には車が来ており、危うく衝突しそうになって、肝を冷やす。

運転手は、タンクローリーの意図を計りかね、恐れを抱くが、しばらくすると、タンクローリーが給油のため、スタンドに立ち寄る。運転手は、これで解放されたとばかりに、喜んで運転する。しかし、しばらくすると、後ろから、先のタンクローリーが物凄いスピードで追いかけてきて、車に迫り、ぶつけて、突いたりする。一体どうしてなのか、先の追い越しの一件で、何か怒っているのか、全く分からない。車を停めて、先に行かせようとしても、タンクローリーも後ろで停まって、こっちが動くまで、動かない。動けば、また動き出し、物凄いスピードで車に迫ってくる。

さらに、踏切で停まっていると、後ろから、タンクローリーが、なんと車を突いて押してくる。つまり、列車に激突させようとしているのである。

もはや、単純な、付きまといや、嫌がらせではあり得ない。「殺意」があることが、明白である。運転手も、さすがに「開き直り」、とことん戦うしかないと腹を決める。その後、この車と、それを追うタンクローリーとは、カーチェイスまがいの激闘を繰り広げる。ところが、車はエンジンがオーバーヒートして、スピードが出なくなり、絶体絶命の危機を迎える。が、最後には、崖の近くへとタンクローリーを誘い込み、自分はぎりぎりのところでかわして、タンクローリーを崖から落とすことに成功する。

何の関係もない、何者かによる、全く、「理由の分からない」、理不尽な「つきまとい」。殺意するある、徹底的で、しつこい「嫌がらせ」。このタンクローリーの運転手の顔は、最後まで見えない。それが、また、「実体のはっきりしない」恐れを、膨らませている。

この「タンクローリー」は、まさに、現代人の恐れの表現としての、「集団ストーカー」を象徴していないだろうか(※2)。

かつての共同体が崩壊し、人々は、互いに切り離された「個人」となった。人々は、互いに、「見えない」「他者」となり、ぎすぎすとした緊張関係に陥り、「敵意」や「悪意」をみることが多くなった。さらに、切り離された、個々の個人は、そのような「見えない」「他者」の集合である、「集団」に対しては、全くの無力である。「他者」というものに、「敵意」や「悪意」をみることが多くなるほど、その集合である「集団」」というものも、実際以上に、「悪意」をもった、恐るべきものとして、膨れあがる。そのような「集団」は、無力な「個人」を、意味もなく圧迫し、葬り去りかねないものとなる。

「タンクローリー」の巨大さ、そして顔の見えなさは、そのような「集団」、さらには、巨大な「組織」というべきものを、象徴しているようでもある。一介の平凡な個人が、巨大な組織に「目をつけられ」たら、このような理不尽なことが起こり得るかもしれない。そのような不安や恐れを、現代人は、多少とも、心の内に抱えている。この映画は、それを見事にすくい取り、表現しているため、不思議なリアリティと、単純なホラー以上の恐怖を、醸し出しているのである。

実際には、「集団ストーカー」という観念は、多くの人にとっては、取りに足りない、「ばかげた」ものと言うかもしれない。しかし、この観念は、映画と同様に、このような現代人の不安や恐れを、見事にすくい取るものではあるのである。

自称「集団ストーカー被害者」が、ネットなどであげる、被害の「証拠」とは、人や自転車が自分の前や近くをよぎったり、ちょっと変わったナンバーや状態の車と遭遇したり、工事その他の音が襲って来たりの、誰もが日常的に遭遇する光景に過ぎない。あえて言うならば、それらは、「日常的」な中でも、「ちょっと変わった」出来事、あるいは、「違和感のある」出来事くらいの感じのものである。普通は、気にもとめずに、やり過ごされる。あるいは、一瞬、気には止められても、すぐさま忘れ去られる。

多くの人にとっては、そのように、誰でも遭遇する「日常的な出来事」を、「集団ストーカー」の被害などと解釈して、本気で訴えかけることは、信じ難く、異様なことである。「おかしい」という印象を、もたざるを得ない。

しかし、実は、そのように、誰にでも起こり得る、「日常的な出来事」。そうでありながら、ちょっと変わった、違和感のある(かなり漠然とした、曖昧な)出来事(※1)を、「集団ストーカー」による行為として、拾い上げていることこそ、「集団ストーカー」という観念のミソであり、巧妙さなのである。それが、何か特殊で、具体的な行為であったならば、そうは誰にも当てはまらず、この観念が広まることもない。

そういった、一般には気にも止められない出来事も、一度、「集団ストーカー」という観念にリアリティをもって、眺められるならば、まさに、パズルのように、それにピタリと当てはまるものとなる。そのようにして、「集団ストーカー」という観念をもつこと自体が、その観念に適う出来事を、いくらでも拾えるようになっているので、さらにその観念を補強できるのである。

現在のところは、もともと「被害妄想」的だったり、「自己と他者の境界が曖昧」で、特別に過敏な感覚をもっている者が、この観念に捕らえられている。しかし、このまま、この観念が広がって行けば、いずれは、多くの者の心も捕らえ兼ねない可能性を秘めている。既にみたように、「集団ストーカー」という観念は、現代人の不安と恐怖を、見事にすくい取り、潜在的には、誰もがリアリティをもっておかしくないものだからである。

たとえば、ストレスが重なって、心か弱っているとき。あるいは、何らかのきっかけで、不安が大きく襲って来たときなど、ふとした隙に、この観念に捕えられるという可能性は、決して 少なくないのである。平凡なサラリーマンである主人公の、日常のふとした瞬間に、巨大な「タンクローリー」が襲ってきたようにである。

※1 このような出来事は、実際には、「集団ストーカー」ではなくとも、何らかの「悪意」や「攻撃性」が含まれたものである可能性はある。たとえば、ぎすぎすした個人の、本人すら気づかない、何らかの「悪意」の表現であったり、あるいは、「人と人の間」に潜む、自然霊などの攻撃や演出であったり、深く「集団ストーカー」の観念に捕えられた者が、自ら「共時的」に「引き寄せた」現象であったりするのは、既に述べたとおり。

※2(後に追加)

しかし、この「タンクローリー」が端的に象徴する「存在」といえば、何と言っても、「アーリマン存在」である。突発的で、有無を言わさぬ、強引かつ圧倒的な「破壊力」の顕示。それは、既にあげた、9・11の航空機がビルに突撃する瞬間、3・11の津波が襲いかかる瞬間、なまはげの鬼が子どもに襲いかかる瞬間と共通するものがある。徹底的なほどの、陰湿さと執拗さもそうである。あの「ずんぐりむっくり」した恰好や、薄汚く、どぶっぽい色も、私は、よく「アーリマン存在」の性質を表わしていると思う。「アーリマン的なもの」の一つの重要な特性として、「集団性」があることも、既にあげていた。(記事『「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-f9e6.html)

また、実際に、「集団ストーカー」なる観念の生みの親も、「アーリマン存在」というべきである。もちろん、直接の唱道者は人間であるとしても、そのアイデアのインスピレーションの与え手は、「アーリマン存在」と考えられるのである。産業革命以降の「技術」のインスピレーションの与え手が、「アーリマン存在」であるのと同じような意味でである。

この種の「アーリマン存在」がもたらした観念やアイデアは、多くあるが、たとえば、様々な「詐欺」の形態のアイデアもまた、そうである。それらは、「集団ストーカー」の観念とも、共通するところがあって、普通は、「ひっかからない」と思われがちだが、人の弱点をついて、ふとした隙に、信じ込ませてしまうような、それなりに巧妙な仕掛けが施されている。また、かつて流行った、「不幸の手紙」や「チェーンメール」などの発想も、陰湿に、人の不安を煽りつつ、拡散させることを狙った、「アーリマン好み」の「ゲーム」のようなもので、「集団ストーカー」の観念と共通の要素がある。

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