文化・芸術

2026年1月 3日 (土)

熊事件、山火事などの災害と超高度管理社会のモデル作り

明けましておめでとうございます。今年も昨年以上に何が起こっても不思議でない年になりそうです。

前回、頻発する熊事件に関して支配層が演出している面を述べ、それらがとりあえずは、自衛隊の存在意義や緊急事態条項の導入の必要などを意識させることを意図していることを述べました。そして、さらにそこには、今後のデジタル化の貫徹による超高度管理社会のモダル作りの意図があることを、プレアデス存在メイの動画を紹介しつつ次回述べることにしていました。

このようなプレアデスを初めとする高次存在のメッセージの受け止め方については、改めて検討する必要を感じるのですが、それについて次回にまわし、今回は、このことについて簡単に述べておきたいと思います。

これについて、明解に語っているプレアデス存在メイの動画はこちらになります。

https://www.youtube.com/watch?v=ojlLXJCKXPA

頻発する熊事件だけでなく、最近の群馬県妙義山の山火事なども絡めて、これらの事件が、その被災地を買収した後に、超高度管理社会(都市)のモダルを作る意図のもとに起こされている可能性について述べています。分かりやすく明解な説明であるので、特に解説は必要ないと思います。

実際、このような意図を推察しめる構想は、能登半島地震の後にも、「スマートシティ構想」という聞こえのいい名前で、多くの自治体によって発表されました。「スマートシティ構想」については、たとえばこのサイトに簡単な説明があります。

要は、更地に近い状況の土地を作出しつつ、その土地に、デジタル化の貫徹されたインフラを敷いて、一見住民にとって便利に思えるが、実質は個々人を一元的に監視、管理する超管理社会都市のモデルを作ろうというものです。政府はさらに、「ムーンショット計画」という名のもとに、デジタル化とともに、人間と機械をつなぐことで実現する高度の管理社会の構想をホームページに掲げています(https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/sub1.html)が、いわばそのための基礎的な実験計画のようなものと言えるでしょう。

ホームページの記載では具体的にどのようなものかは分かりにくいですが、それはミナミAアシュタールも言うように、書いた本人自身もよく分かっていない(笑)からでしょう。また、あまり具体的に示すと、「管理、支配」の面が鮮明に浮かび上がってきやすいので、曖昧にしてごまかそうということもあるのでしょう。

いずれにしても、とりあえず、このような構想を計画していることを漠然とでも示しておくことを意図しているわけです。

私もこれまで何度も、支配層の意図は、最終的に、世界統一政府による、デジタル化の貫徹による超高度管理社会の実現にあることを述べていました。先にあげた事件などは、その目標に向かっての具体的な計画が、既に現実に進められていることの如実な現われということです。

現状ではまだ、具体的に現実感をもって実感できないかもしれないですが、携帯、スマホの普及が、あまり現実感が感じられなかった頃もありつつ、ある時点からあっという間に広がったように、これらのことも今後気がついたら、一気に進んでいるという可能性があります。

もちろん、これらの計画には、高度の科学技術の発展が前提となるのですが、そこにはまた、レプティリアンのような捕食者的な宇宙人(の技術)との連携ということが関わって来ざるを得ないことになります。(記事『身近に入り込んでいる「宇宙人の技術」』、『支配層の今後に向けてのワクチンの利用価値』など参照)

このことは、人間以外の高次の存在との関りということを無視できないことの一つの理由となります。

次回は、先に触れたように、改めてプレアデスを初めとする高次存在のメッセージの受け止め方について検討し直してみます。

2025年12月15日 (月)

頻発する熊事件と支配層の意図

前回述べたように、最近の頻発する熊事件の背後には、プレアデスの存在メイやミナミAアシュタールも、その背後に支配層の意図があることを言及している。プレアデスの存在メイが正面から最近の熊被害の問題を扱っている動画は、次のものである。

https://www.youtube.com/watch?v=3sAuhTsx274

一般に、地球温暖化や異常気象のせいで、エサが不足していることが原因とされているが、北海道から大阪まで「申し合わせたかのように」この時期に異常な頻発が起きていることには、明らかに人工的な原因があるとしている。

また、この事件の起こる地理的分布も、熊の居住する山間部と住宅地の境界で、リニアモーターカーの開発地域、大規模な開発計画のある地域、外国資本による土地買収が進んでいる地域に偏っているという。(次回にあげる動画では、太陽光パネルの設置地域であることもあげられている。)

そこには、危険地域として住民を追い出すことによって土地の価格を暴落させ、買収を用意にしようとする意図があるという。

さらに、このような熊対策としてこれまでのように猟友会との協力によるのではなく、(とりあえず秋田県において)自衛隊を派遣することが、あっという間に決まったことを問題視する。

自衛隊を持ち出したことそのものの意味にはほとんど触れられていないが、かつてのイラク戦争のときもそうだったように、支援活動など戦闘そのものではなくとも、自衛隊の存在意義を改めて確認させることの意味があると思う。それは、直接戦争を意識させるものではないが、憲法改正において自衛隊の地位を明確にすることの伏線になり得るし、実際に最近の高市総理の台湾有事に関する発言で、中国の反応を刺激し、戦争を意識させる事態に十分繋がる状況となっている。

ミナミAアシュタールのアシュタールは、この動画で、自衛隊を熊対策に稼働させるに際して、権力者側のある者が「憲法改正をしないと自衛隊が熊を撃つことができない」という発言をして、つい本音を吐露してしまったことを述べている。

まさに、熊の異常な頻発と人間を襲う攻撃性は、「緊急事態」の一つであり、自衛隊の存在意義を改めて認識させるものであり、その活動を保証するためには、「憲法改正」をも必要とするというイメージを植え込もうとするものということである。

さらに、熊が狂暴化し、人間を襲うという恐怖のもととなっている、多くの報道については、プレアデスのメイも画一的で人工的な操作を感じると言っている。アシュタールは、そこには「本当かどうかわからない」という意味で、「やらせ」が相当紛れ込んでいると言う。

実際、熊が多く出現すれば、そのような事例が相対的に増える可能性はあるし、前回もみたように、人間の側の反応も好ましくないものであった可能性があるが、それにしても報道にみられるのは、不自然なほどの狂暴性の強調である。報道によって、イメージが作られている面は多分にあると言わざるを得ない。

このように、熊に対する恐怖と異常性の演出は、殊更作られたものである可能性があり、その背後には、緊急事態条項の導入や憲法の改正への意図がみえているということである。

さらに、プレアデスのメイは、先の動画で、熊を山から住宅地の方へ移動させているのには、実際に「技術」が使われているとしている。それは、異常気象や人工地震に関して前にもとりあげたHAARP(高周波活性オーロラ調査プログラム)という電磁波照射システムである

熊などの動物は、電磁波に敏感であり、地球の磁場を関知して行動をとるので、その磁場をHAARPによって混乱させれば、熊を誘導することは可能としている。また、動物のフェロモンを利用した誘導の可能性もあるという。

確かに、電磁波の照射は単純に熊がいやがるという意味で、山から移動させる意味もあるだろうし、熊のエサが不足しているという事態自体も、このHAARPによって作られている可能性がある。

そして、先の動画では、自衛隊の活動強化や憲法改正、地域の統制などの目的があげられれていたが、さらに別の動画では、そのような地域に、今後のデジタル化の貫徹による超管理社会のモデルを作るという、より本質的なことを意図していることが述べられている

この点については、また近いうちにとりあげようと思う。

いずれにしても、熊についてはこれまで住み分けができていたこともあって、あまり知らないでも問題なく過ごせていたわけだが、今後は、たとえば関係者が、アイヌの長老から熊との付き合い方についてみっちりと講義を受けるなどの対策が必要だと思う。

アイヌでは、熊を狩り食料ともするが、それだけに熊の習性をよく知っているし、熊を「カムイ」として非常に大事に扱う。熊の魂は丁重に祭ってあの世に返すし、またこの世に帰って来てもらうべく、捕らえた熊の子を大事に育て、イオマンテという有名な儀式をして、丁重にあの世に返す儀式もする。

ところが、それでも人間を襲う熊は、この世に帰って来ないように地獄に行ってもらうことになるし、食料やその他の道具としても使用することはない。(瀬川拓郎監修『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』(宝島社新書)参照)

そこには、アイヌの都合というかしたたかな知恵をも感じる面があるが、人間を襲う熊というのは、あくまで人間が丁重に扱ってもそうする熊を意味するのであって、人間の側に理由があったり、人間の無知から起こる行動なども含めるものではない。

実際、熊との付き合い方に関しては、アイヌから多く参考になることが得られるはずである。

2025年8月28日 (木)

「物理的な破壊」から「意識の分離」へ

これまで、たつき諒氏の予言と絡めて、最近の地球の異常ともいえる変化とその意味、受け止め方について、プレアデスのメッセージなどもあげながら、いくらか述べてきた。

今回は、その一つの集大成ともいえる重要なブレアデスのメッセージがあるので、まずはそれを掲げ、その意味ついて述べることにしたい。

プレアデスのメッセージ    

端的に言うと、9月23日の秋分の日を境に、地球はこれまでのあり方を継続し、管理支配のさらに徹底された社会が続いていく領域と、そこから脱し、愛と調和に満ちた新しい文化を築いていく領域に二極化し、分化していくということである。

これまでにも、そのような二極化は既に始まっていたが、それらはまだ併存しつつ重なり合っていた。しかし、今回の二極化はそれらが切り離されて、決定的なものとなり、互いに認識できないものとしてはっきりと分化していく。パラレルワールド的に、またはタイムライン的に、別の世界を構成することになるということである。

ミナミAアシュタールも、地球はこれまでの支配的なピラミッド社会を徹底して継続していく三角の社会と、個々人が自由にありながら調和していく、横並びの丸い社会に二極化し分化していく、と言っていたが、それと同様のことが述べられていると言っていい。

ただ、その中で、このプレアデスのメッセージにおいてポイントとなることは、これまでにも、地球には、このような大変化の周期(26000)があり、そのごとに地球は「物理的な破壊」を伴いつつ、新たな再生ということが起きて来た。典型的なのは、アトランティスやレムリアの崩壊である。しかし、今回の大変化は、それまでのものと決定的に異なり、「物理的な破壊」ではなく、「意識の分離」が起こるということである。それは、宇宙全体の進化が進んで来たので可能となったこととする。

記事『「終末的予言」と「天変地異」についてのプレアデス人サーシャの言葉』でとりあげたサーシャの言葉に、次のようなものがあった。

「新しい世界が到来するためには、古い世界が破滅的な形で滅びなければならないという考え方には、あくまでも古い観念が反映されています。なぜなら、現実はあなたの考え方次第で変わり得るからです。人類は必ずしも天変地異や戦争を通して教訓を学ぶ必要はありません。世界の現実の創造者である人類は、あらゆる可能性を選択することができます。」

まさに、今回の大変化は、そのように「古い世界が破滅的な形で滅びる」ということではなく、「世界の現実の創造者である人類」が、意識的に「可能性を選択」することで作り出していくことによる変化である。そして、それは、古いあり方を続けていく領域はそれとして残るが、それとは別の世界が並行して築かれることによって、「意識の分離」をもたらす、ということである。

確かに、地球の全体が、物質的な意味で総体として変わっていくためには、これまでの古いあり方が「物理的に破壊」されることなくしては考えられないことである。しかし、このような「意識の分離」ということは、必ずしも、「物理的な破壊」を伴うことなくとも、可能なことではあろう。

さらに言うと、このようなことは、統合失調の本質でもある、「死と再生のイニシエーション」ということとも関わって来る。これまでは、新たな「再生」ということが起こるためには、精神領域のことなので、「物理的な破壊」ではないにしても、同じような意味合いをもつだけのより根源的な「破壊」(「死」)を伴うことが必要だった。だから、シャーマンの「巫病」にしても、統合失調にしても、かなり壮絶な過程が伴った。

しかし、今後は、より穏やかな過程において、このような「イニシエーション」的なことがなされる可能性も見えてくるのである。「統合失調の軽症化」といわれる事態にも、このようなことが関わっている可能性はある。

とは言え、ここで言われる「パラレルワールド」ということには、つきつめて行くと、理解の難しい面がかなりある。私も、ブログ『オカルトの基本を学ぶ』の方で、「パラレルワールド」の問題が重要なものであることを指摘しつつ、今の考えをさらに煮詰めたうえで投稿するとしたまま、いまだなしていない状態である。

感覚的、イメージ的に「パラレルワールド」というものを漠然と捉えることは、ある程度簡単にできるかもしれないが、理論的な面も含めて、しっかりと腑に落ちる捉え方をしようとすると、いろいろと難しいのである。それは、「オカルトの基本を学ぶ」でも指摘しているように、「時間」とは何か、「量子力学の観測問題」や、「意識と現実」の問題などとも絡む根源的な問題である。

今後、こちらのブログでもある程度の展望を示したうえ、「オカルトの基本を学ぶ」の方にも投稿するつもりでいるが、もう少し時間がかかるかもしれない。

いずれにせよ、一つの展望としては、こちらのブログで述べて来た、「ホログラフィクパラダイム」のような「ホログラフィ」としての現実、従って、時間・空間のある種の幻想性、振動領域からの意識による現実の「披き出し」、量子力学の観測問題との絡みで言うと、「意識説」と「多世界解釈」との統合のようなことの延長上に捉えられることなのではある。

「パラレルワールド」的な見方や「タイムライン」という見方は、最近のアニメなどの影響もあるのだろうか、割と一般にも浸透してきているようだが、皆さんも、この機会に、さらに踏み込んで、それらをもう少し掘り下げて、根源的に捉えることを試みてみてはいかがだろうか。

 

8月31日 私がとりあげて来たプレアデスのもう一方の存在によるメッセージにも、ほぼ同じ話題について同じ内容を語っているものがあるので、それもあげておきます。いかに重要なメッセージかを示していると思います。

https://www.youtube.com/watch?v=H6-63Rc2ec8

9月30日 本文で示した秋分の日からの地球の二極化について、新たに補足するメッセージが出されているのであげておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=Lcd0PXumU0A

2025年7月28日 (月)

『法力とは何か』と権力者や呪術師の呪術合戦

1976年にミグ25事件(ベレンコ中尉亡命事件)というのがあって、私も当時テレビで見て衝撃を受けたのをよく覚えている。冷戦時代のソビエトのパイロットが、当時最先端で秘密のベールに包まれていたミグ25戦闘機を土産に、日本の空港へと亡命してきたのである。

ところが、割と最近、ユング派の分析家である老松克博の『法力とは何か』(法蔵館)という本で、この事件は、「今空海」と呼ばれていた「X阿闍梨」が、国から依頼されて呼び起こしたものであることを知った。

X阿闍梨は、真言密教の修行を極めた大阿闍梨で、その道の人にはその「法力」のことがよく知られていた。当時、他の国の戦闘機の性能を大きく凌ぐ謎に包まれたミグ戦闘機の脅威は日本や西側諸国を覆っていて、アメリカの依頼を受けた日本の官僚がX阿闍梨に何とかミグ戦闘機を手に入れることができないかと依頼したということである。そして、X阿闍梨はそれならミグ戦闘機を日本に呼び込めばいいとして、その依頼に結果として見事に応えることになった。

本では、X阿闍梨とされているが、ネットなどでは、この阿闍梨は、神戸の鏑射寺の住職で、最近亡くなった中村公隆阿闍梨であることがよく知られている。たとえば、ここに、ミグ25事件と中村大阿闍梨の法力の関係の概要が説明されている。

ただし、本では、昭和天皇の件には特に言及されていない。またこの本は、著者が実際に、中村大阿闍梨と会って、いろいろと感じたことやインタビューをしたことを元に書かれており、さらにこのような「法力」について、ユング心理学の立場から丁寧な解説も施されていて貴重である。

何しろ、このような話は信じがたいことには違いない。しかし一方で、世界あるいは日本の内部でも、権力的な争いがあるところの背後には、常にこのような特殊能力者の「法力」や一種の「呪術的な力」を巡る争いがあっただろうことも疑いない事実というべきである。

ブログ『オカルトの基本を学ぶ』でも、記事『「陰謀」と「魔術」「悪魔主義」』で、権力や権力闘争のあるところ、常にそのような意味での「陰謀」や「魔術」が裏で暗躍していたはずであることを指摘していた。

日本では、それ以外にも、最近では安倍政権の時代、香心華心明という人物が安倍元総理の霊的顧問としていろいろ相談に応じ、政府に協力していたことが知られている()。こういった事柄は、表に出ないことがほとんどなので、表に出ないものは他にも数限りなくあることだろう。

アメリカでは、レーガン大統領が「占い師」を相談役として抱えていたことが有名だが、「占い師」とは名目で、実際はある種の「呪術師」ということが当然予想される。軍としても、テレビによく出るマクモニーグルが有名だが、敵軍の基地や兵器などを透視する役を負う超能力者の部隊を抱え込んでいるし、それはロシアその他の国でも同じことである。

近代以前のそういった事柄が正面から信じられていた時代、たとえば、日本の戦国時代なども、それぞれ実際の物理的な戦いの背後には、お抱えの「呪術師」たちの呪術的な争いが数限りなく繰り広げられていただろう。有名な「陰陽師」は、京都の貴族や皇室関係のそういった役目を負う「呪術師」ということがいえる。鎌倉以後、武士の時代となった関東や江戸でも、その「呪術的な攻撃」に対抗すべく、似たような能力者を抱えていただろうし、また京都もそうだが、江戸もそのような呪術的な攻撃を防御する結界としての仕掛けに満ちた都市である。

これに関連して、面白い話がある。江戸に霊的な防御などの結界を仕掛けた人物として、天海和尚が知られているが、この天海とは、実は明智光秀であるという説があるのである。光秀は死んでしまったのではなく、天海和尚と成りすまして、家康に協力して江戸を(霊的な面からも)築き上げるのに大いに貢献したということである。

ミナミAアシュタールのさくやさんも、天海は光秀だと言っている。さくやさん説では、信長、秀吉、家康、光秀は、実は協力して縄文のような争いのない社会を作ろうと結束した人たちで、呪術的な攻撃の防御のような役割は、本当に信頼できる人物に任すだろうことを考えると、確かに、天海が光秀であった可能性はあると思うが、そのことにはまたいずれ触れよう。

世界的にも、こういった呪術的な争いについてはバリ島の呪術師が有名で、中沢新一の『虹の理論』(講談社文芸文庫)という本では、オーストラリア女性の死をめぐる呪術的な合戦について、赤く燃える炎同士の争いとして目撃したタクシー運転手の話が、かなりリアルに語られている。

アフリカの妖術師同士の争いも有名だし、先住民文化のようなところでも、シャーマンは敵対するシャーマンや呪いの委託を受けた呪術師などとの争いを強いられることも多かったはずである。

そういった呪術の争いは、権力というものがある限り、あるいは人間の欲望がある限り、普遍的なものであるわけで、「魔女狩り」というのも、(キリスト教の偏見が重ねられているとはいえ)そのような呪術師に対する恐れが元にあったことは確かなことである。

個人的な呪いというのもそうだが、こういったことにはおどろおどろしさがつきまとうのは確かで、目を背けたくなる、あるいはないものとして排除したくなるのは、当然の部分もある。

しかし、こういった事柄に目を向けないでいる限り、人間の本質(それは統合失調の本質にも通じる)や政治の本質など、分かるはずがないのも確かなことと思われる。

 

※ 8月8日  本人の言によれば、安倍元総理個人ではなく、あくまで日本政府の依頼による仕事だったそうである。この動画では、当時の日本の超能力者部隊や世界の同様の部隊のことについて、かなり詳しく語られている。イギリスの部隊が最強であり、人造人間まで創造しているが、日本人は作れないという話は多少とも驚きである。

2025年4月23日 (水)

『地球ドラマチック 古代ドイツ謎の女性シャーマン』~シャーマン研究の新しい可能性

4月19()7NHK Eテレで放映された、『地球ドラマチック 古代ドイツ謎の女性シャーマン』を見た。まず、番組内容を説明する短いコピーをあげておく。

「豪華な副葬品、首の骨の異常、歯に空いた謎の穴。9000年前に埋葬された女性の骨から、彼女が実はシャーマン、つまり、神や精霊と交信し、人々をいやす存在らしいことが分かった。最新DNA解析が、肌や目の色だけでなく、彼女の暮らしや社会的な役割までを浮かび上がらせる。さらに、CGによる顔の復元や、共に埋葬された子どもの骨の分析から、謎に包まれた古代の女性シャーマンの真実に迫る。(ドイツ2024年)」

豪華な副葬品のため、社会的な地位の高い男の骨とみなされていたが、実は中石器時代の狩猟採集民の共同体にシャーマンとして崇拝されていた、女性の骨であることが分かったことに、驚かれている。日本では、卑弥呼に代表されるように、女性シャーマンが多いことはよく知られているから、さして驚かれないだろうが、西欧では驚きのことのようである。

骨には、首の骨に先天的と思われる異常があり、頭を後ろに傾けると血管が圧迫されて血流が遮られ、意識の異常をもたらしたことが予測される。しかし、それは、意図的にトランス状態に入って、神や精霊と交流し、知識や治癒をもたらすシャーマンの能力に大きく貢献したと考えられる

また、前歯には意図的に開けられたと考えられる穴があって、はっきりと神経が見えている。いかにも、痛々しいそうだが、通常それはさらに悪化して歯が抜け落ちるし、周りの歯にも影響を与えるはずだが、この女性では、そういうことはなく、ちゃんと治癒されているという。それは、シャーマンが傷つけた歯の治療を自ら行うことで、他の人間にも治療を広げていったものと考えられるという。

ほかにも、最新のDNA解析の技術などで、この女性がシャーマンであったことが、いろいろと示唆される。

これまで、シャーマンの研究と言えば、先住民部族のフィールドワークに基づく考察が主だったわけだが、このように考古学的に物質的な面からもシャーマンの能力や生活の様々な面が明らかにされるようになって来るのは、望ましいことだ。もちろん、シャーマンの能力や生活は、物質的な面だけから明らかになるような性質のものではなく、フィールドワークに基づく考察が依然重要になるわけだが、それを物質的な面から補強できるようになるのは大きい。

今回の、首の骨の異常がシャーマンのトランス能力に結びつくことや、歯の異常がシャーマンの治癒能力に結びつくことなどの知見も、これら両面からの考察が結びついて明らかにされたものと言える。

ただし、トランス状態に入れることが即シャーマンの能力に結びつくわけではなく、トランス状態に入って何をするか、あるいは、トランス状態でも明晰な意識を保って行動できることが重要なのである。

また、歯に開けられた穴は、その強烈な痛みということ自体、記事『『ぼくのイニシエーション体験』』でもみたように、死を間近なものとして意識し、意識の変容をもたらす手段ともなっただろうし、その苦痛に耐えることが、「イニシエーション」的な意味合いもあっただろう

なお、この番組は、4月28日(月) 午前0:00からEテレで再放送されるようなので、興味がある人はご覧になるとよい。

また、シャーマンのトランス意識については、脳波等の脳の研究の方面からも様々に新しい知見が示されている

たとえば、セバスチャン・ボー、コリーヌ・ソンブラン著『シャーマン 霊的世界の探求者(グラフィック社)という本は、多くの図版とともにシャーマンとシャーマニズムについて一般的な分かりやすい解説を施したものだが、付論では、自ら太鼓の音を聞くことでトランス状態に入り、シャーマンと同様の体験をし、元に戻ることのできる女性の体験が述べられ、その脳波等の研究も紹介されている。

この女性は、トランス状態において、オオカミになったり、精霊と交流することができるようになったことから、シャーマンの能力は真実のものと確信するようになるし、モンゴルのシャーマンからも真正のシャーマンと認められる。

興味深いのは、通常の状態のときの脳波は、正常であるが、トランス状態に入ると、統合失調症等の精神異常の者の脳波と酷似するようになることである。彼女の場合、意識的に元の状態に戻れるので問題ないが、やはり危険なこととみなされてしまう。(これは、逆に言えば、統合失調等はシャーマンと同様の一種のトランス意識にあるのだが、元に戻れないがために危険(病的)な状態にある者ということができる。)

それで、彼女は太鼓ではなく、トランスをもたらすエッセンスを凝縮した器具を開発し、それを用いると、多くの人(80パーセント)が彼女と同じようにトランスに入り、危険なく元に戻れるようになることを証明できるようになる。つまり、トランスは、本来、精神疾患のような「異常」なものではなく、「普遍的」なものであり、むしろ知覚や意識の可能性を高めるものということである。

こちらも興味を持った人は読まれるとよい。

 

2025年4月12日 (土)

『千と千尋の神話学』と統合失調

図書館で、『千と千尋の神話学』(西條勉著、新典社新書)という本があったので、読んでみたら、なかなか面白かった。『千と千尋の神隠し』について、千尋の体験を「異郷訪問説話」の一種と捉えて、他の物語等の場合とも比較しながら、とても分かりやすく解説している。また、それは、統合失調との関係においても当てはまるものが多く、興味深いものがあった。

「異郷訪問説話」とは、「一言で言えば、ある人物が別世界に迷い込んで脱出する話」とされる。ただ、通常は、「異界探訪説話()」と言われるので、以下こちらの言い方をとることにする(「異郷」は「異界」とする)。この説話は、神話や昔話から、小説、映画など、世界に古くから、遍く広がっているものであり、日本における代表格は、「浦島太郎」とされる。

千尋の体験は、もちろん独自の展開も多くあるが、基本的には、他の多くの「異界探訪説話」と同じような、共通のプロットをもっている。そして、そこには、4つの法則があるとする。

まずは、「異界探訪説話」全体の概観のようなことが、とても分かりやすくまとめられているのでそれを引用しよう。

「このように、個々にみていくと別世界での体験はさまざまで、とても、ひとくくりにはできそうもありません。しかし、どれにでも共通するところがあります。それは、主人公が、それまでとは違った体験をするということです。しかも、身長が伸びたり縮んだり、魔法使いや河童が出て来たり、とても現実ではあり得ないことが起こることです。

 異郷での体験は非日常的で、異常な体験なのです

 要するに、とんでもない世界なわけです。千尋の迷い込んだところも、アリス(『不思議の国のアリス』)やドロシー(『オズの魔法使い』)におとらず奇怪な世界でした。それまでの平穏で、惰性的な生活は、一変します。

 このように、異郷訪問説話の主人公たちは、たいてい、それまでに体験したことのない出来事でもみくちゃにされます。その結果、主人公たちは変化します

 たいていの場合は成長しますが、もちろん、逆の場合もあって、たとえば、浦島太郎は元の国にもどって白髪のおじいさんになります。芥川の『河童』では、主人公は人間の世界にもどってどうやら河童になったようです。千尋は、どうでしょうか。ラストシーンのトンネルから出たところでは、りりしく、たくましい顔つきに変化していました。

 異郷から脱出して、主人公は変化し、成長し、変身するのです。」

共通するプロットとしての4つの法則とは、次のようなものとされる。

第Ⅰ法則 異郷に入るときは、偶然に行く。

第Ⅱ法則 異郷での体験は、異常体験である。

第Ⅲ法則 異郷から出るときは、自分の意志で出る。

第Ⅳ法則 異郷から出た後、主人公は変化する。

第1法則の「偶然に行く」というのは、自ら望んで(意志して)行くのではないということである。著者は、「自分から進んで行こうとしない理由は、そこが無意識の世界、気づかれていない世界だからである」としている。要は、気がついたら、別の世界に入っていたということである。

ただ、千尋の父母は、ご馳走を前にすると、自ら進んでその世界に入っていった。その結果、「ブタ」になってしまう。最終的には、千尋に救われて脱出することができるが、このように自ら望んで入ると「元の世界に戻れなくなる」ということが言われる(「死者の国」の食べ物を食べると、元の世界に戻れなくなるというのは、日本でも昔から言われて来たことである)。(※1)

第2法則の、別世界でする異常体験については、次のように言われる。

「ドロシーが異郷に行ってから、それまで意識しなかったことに気づいたのも、異常な体験が彼女の無意識を目覚めさせたからにほかなりません。異常な体験は、マンネリ化した日常の意識を破ります

 わたしたちは、自分のことをすべて意識しているわけではありません。しかし異常な体験をすると、ふだん眠っている部分が目覚め、活動しはじめるのです。異常な事態に遭うと、それまで気づかなかったいろんな深層意識を発見します。それが異常体験の意義の一つなわけです。」

しかし、一方で、このような「異界」は、狂気に通じる世界であることが、次のように言われる。

異郷は底の方に狂気をはらんでいる世界なのです

異郷は、不気味な世界です。

そこは、非現実で、あり得ない世界、夢の領域、失われた記憶の世界、あるいは現実社会の裏側であったり、人々の欲望を集める場所であり、無意識の領域です。

異郷は両義的です。ネバーランドがウェンディとピーター・パンで、その意味が対照的になったり、ファンタスティックな河童の国が、一皮むけば狂人の世界であったりします。そこは、わたしたちのイマジネーションにとって、無限の可能性をもった世界なのです。

異郷訪問説話という話型は、おそらく、わたしたちのこころの構造、内面世界そのものなのです。」

第3法則で、「異界」から脱出するときは、「自分の意志で出る」というのは、入るときと違って、そこが元の世界と違う「別世界」でることに気づいているからできることである。そして、そこにずっととどまるべきではなく、元の世界に帰ろうとする意志を持つことによっている

千尋も、ブタになった父母やハクを助けて元の世界に戻るべく、銭婆のいる「沼の底」というもう一つの「異界」へ赴く(※2)。そこで、カオナシが同行し、カオナシをその世界において行くことについて、著者は面白いことを言っている。カオナシは千尋の集合的な無意識であり、「影」のような存在で、それを切り離して、「沼の底」において行くことで、(大人としての)自己の自我に目覚めるとするのである。

このように、「異界」での異常な体験を通して、千尋は第4法則にみるとおり、この世界に戻った後、大きく変化して、成長する。それは、これまで何度も述べたように、「死と再生」を伴う、一つの「イニシエーション」であることも言われる。

ただし、初めに述べられたとおり、この法則どおりにはいかず、結局元の世界に戻れなかったり、芥川の『河童』のように、狂気に陥ってしまう場合もままある。

一つ興味深い点として、千尋が、元の世界に戻ったときに、銭婆からもらった金色の髪留めが光る場面がある。それは、宮崎駿が、千尋の体験した別世界が単なる「非現実」の世界ではなく、もう一つの「現実」の世界であることを強調したかったからだとされる。

しかし、このようなこと、つまり「異界」を探訪してそこで体験したことが、何らかの形でこの世界に戻ったときにも、(物理的な)痕跡として残るということは、よくある話である。たとえば、記事『幻覚的現実と物質化現象の「中間的現象」』でも述べたように、『遠野物語』の『マヨイガ』の話でも、そこに入って部屋にあった茶碗を持って帰らなかった者が、後に川の上流から流れてくるその茶碗を手に入れて手もとに残す、ということがある。

著者は、異界は「無意識の世界」としているが、単なる「夢」の世界とか、「非現実」の世界ではない、「実在」の世界のわけである。

また、著者は、異界訪問説話は、文字に記されたものとしては、『ギルガメッシュ叙事詩』からある古い説話としているが、文字に示されることがなくとも、この話は、シャーマンの「天上世界」や「地下世界」などの「異界探訪」の体験が元になっており、さらに古く遡れるものである。また同時に、現在も多くの先住民文化の中では、現に起こり続けている「生きた」ものなのである。

「異界探訪説話」について、このようにみて来て分かるとおり、この体験というのは、実に、「統合失調」の場合にも、多く当てはまるものである。統合失調体験も、まさに「異界探訪説話」の一種と言えるということである。

前回、統合失調の体験は、この世(物質的世界)とあの世(霊的世界)の境界領域で起こるということから、「境界的なもの」としていた。ただ、その場合の「境界」とは、まさに「異界そのもの」と言うことができる。この世からみた場合、あの世の領域は、境界領域を含めて、全体として「異界」と捉えることができるからである。実際、そこで統合失調の者は、「この世ならぬ声」を聞き、それに翻弄されることになる。また、「共時性」の体験など、日常世界では起こり難い出来事を、多く体験することになる。

あるいは、「あの世」の領域は、「他界」として捉えられ、その境界領域が、「異界」として捉えられることもある。いずれにしても、統合失調の「境界領域の体験」は、「異界」の体験そのものであり、それはそのまま、著者の言う基本的なプロットとしての法則にも当てはまるのである。

統合失調の場合、まさに自ら意図して「異界」に赴くわけではないので、第1法則に当てはまる。著者も言うように、初めは、別世界に入ったことに気づかれようがないのである。ただ、千尋や他の者が、いずれそこが別世界と気づいて、いろいろと知識を深め、知恵を身につけていくのに対して、統合失調の場合は、そこに入った者が、そこを「別世界」と気づこうとせず、むしろ、「この世」の延長であるかのように無理やり解釈してしまう。そのようにして、「異界」が元々はらんでいる「狂気の世界」へと、遂には落ち込んでしまうことになる。

そして、その場合には、そこから脱出して元の世界に戻るということも起こり難く、また戻ったとしても、それを成長や変化には、結びつけにくいということになるのである。

残念ながら、現在は刊行されていないようだが、興味を持った人は、図書館や古本で読んでみてほしい。

 

※1「自ら望んで入ると戻れなくなる」ということだが、著者は、(欲望にまかせて)警戒心を欠いていること、無意識である(周りの状況に十分気づいていない)ためと言っている。要は、後に説明したように、その世界から脱出しようとする意志や知恵を身につけることが難しい、ということになるだろう。「自ら望んで入る」ことについては、シュタイナーのように、霊的修行に基づいて自ら霊界に参入するという方法がある。しかし、この場合の「修行」というのは、まさに霊的世界についての危険を十分認識して、意識的に行動できるようにするための修行であり、単純に、無自覚的に「望んで入る」のとは大きく違っている。

※2 著者は、もう一つの異郷である「沼の底」に赴くことを「二重の異郷体験」としているが、湯屋を中心とする初めの異郷を異界の混沌とした「境界領域」、「沼の底」の異郷をより深い霊的世界として捉えることもできるだう。混沌とした境界をくぐり抜け、より深い霊界に参入することで、千尋は自分を取り戻し、脱出する知恵を身につけることができたわけである。

2025年4月 5日 (土)

「境界的なもの」の恐ろしさと禁忌(タブー)

記事『人類学で、近代社会の常識を「ひっくり返す」』でとりあげた奥野克巳著『ひっくり返す人類学』の他にも、最近は人類学の入門書的な本が矢継ぎ早に出版されていて、人類学に対する一般の興味が高まっていることを思わせる。それは、近代的な世界観の常識というものが、改めて問い直されているということでもあろう。

そんな中に、箕曲在弘著『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』(以下『切り崩す』と略)というのがあって、文化人類学の興味深いテーマを、分かり易く解きほぐしている。その中でも、先住民文化にあって、贈与が循環をもたらすことの意味や、「境界的なもの」が禁忌(タブー)の意識をもたらすことについての考察は、特に興味深い。

今回は、その「境界的なもの」がもたらす恐れや禁忌について、改めてとりあげてみたい。「境界的なもの」については、このブログでも、何度かとりあげているし、統合失調状況とも大いに関わるものである。

『切り崩す』では、文化的に規定されたある枠組みと他の枠組みのどちらにも収まらない「境界的なもの」が、いかに人々にとって不気味で恐ろしいものとなり、禁忌の意識をもたらすかが、メアリ・ダグラスの説とも照らしながら述べられる。

たとえば、我々は、つばや便など自分の体から外に出た排泄物を、「汚い」と思うが、それは外に出るまでは体の中にあったもので、別に汚いとは思っていない。その「汚い」という感覚は、どうして生じるかというと、体から出ることによって、自己の内にあるものではなくなったからだが、しかしそれは、他者のものというわけではなく、どちらつかずの「境界的なもの」になったことによっているのである。

また、古代ユダヤでは、ブタ、ラクダ、ウサギ、タヌキのほかに、ひれやうろこのない魚類や、羽のない昆虫、ヤモリやトカゲといった地を這う爬虫類も「汚らわしいもの」として食べてはならない禁忌とされていた。その意味は長らく不明だったが、ダグラスは、それらは、聖書の記述による「清浄なもの」のカテゴリーに入りそうで、そこから逸脱するもの、つまり、どちらつかずの「境界的なもの」であることを明らかにした。

このように、文化的なある枠組みに収まらない、どちらつかずの「境界的なもの」というのは、「落ち着きが悪」く、「気持ちの悪い」ものであり、なんとなく恐れを感じさせるものである。従って、禁忌あるいは排除の対象となり易いのである。

そのある枠組みというのは、文化が規定するものだから、文化によって異なるわけだが、先のつばや便のように、どの文化においてもほぼ共通するようなものもある。

「境界的なもの」については、記事『「無縁」の原理と「死」』でも論じていたように、「共同体」にとっての空間的な「境界」もまた、聖なるものと交わると同時に危険で恐ろしいものと出会う、両義的なものとして意識されるものだった。

統合失調についても、「この世的なもの」(物質的なもの)と「あの世的なもの」(霊的なもの)の境界である「霊界の境域」に入って、そこで受ける諸々の事象こそが問題なのだった。それは、日常的な「この世的なもの」からはみ出るような事象であるが、先祖や神々の関わる、完全に「あの世的なもの」なのでもない。この世にありながら、あの世的なものが侵入し、どちらつかずの「不気味なもの」に遭遇する、まさに「境界的なもの」なのである。

統合失調は、それゆえ、他の「境界的なもの」と同じように、無意識にも、不気味で気持ちの悪いものと思われ、恐れをもたらし、禁忌あるいは排除の対象となり易いのである。それは、意識レベルではどうあれ、無意識レベルでは、統合失調が「境界的なもの」と関わることを潜在的にも察すればこそであろう。

このように、「境界的なもの」が怖れをもたらすのは、文化的な枠組みから逸脱するからとされているが、実は、もう一つ根源的というべき理由がある。それは、記事『「霊界の境域」の「図」』でも明らかにしたように、そのような「境界領域」は、いかようにも枠づけることのできない、根底に控える「虚無」を覗かせる「深淵」ともなるからである。「境界的なもの」の怖れとは、「虚無」の怖れでもあるということである。単に、文化的な枠づけからはみ出るというのみでなく、それは、あらゆる枠組みを破壊しかねないような、普遍的、根源的な怖れとつながっているのである。そして、それは、統合失調についても言えることである。

しかし、先住民文化において、この「境界的なもの」は、単に一方的に恐れられ、禁忌として排除されるだけのものではない。先に、共同体の境界について、「両義的なもの」と言ったように、それは、聖なるものと交わるものでもある。そのような境界を超えることによってこそ、真に聖なるものとの交わりが生じるのである。

また、「虚無」に源を有する「境界的なもの」の恐るべき破壊的な力は、それまでの生の枠組みを破壊し、新たな生へと躍進させる力となるものでもある。だから、先住民文化では、成人儀礼のような儀礼や、シャーマンの成巫過程のイニシエーションなどにおいて、そういった「境界的なもの」と遭遇し、超えて行くことが、あえて組み込まれている。「境界的なもの」は「死と再生のイニシエーション」ともなるということである。

そして、そのこともまた、統合失調についても言えることである。

 

2025年3月20日 (木)

「自然(じねん)」の自然観と「おのずから」と「みずから」

西洋近代の世界観というものが、いかに特殊で狭いものであるかを、折に触れて述べてきたが、その世界観の中の重要な要素として、「自然観」がある。

西洋近代の自然観のポイントは、「自己」という主観的な観察者に対峙するものとして、対象としての「自然(ネイチャー)」を立てるところである。我々が、客観的で疑わざるものとして信奉している「自然科学」も、この自然観を基礎にできている。

我々は、このような自然観が自明なものとして広がっている中で育っているので、この自然観が特殊の狭い見方であるとか、他の自然観があり得るなどということは、信じがたいことになってしまうのが普通だろう。

しかし、この観察者としての「自己」というものは、明らかに、一神教的な「神」の位置を引き継ぐもので、対象としての「自然」はその(唯一の神により合法則的に造られた)「被造物」ということを背景にもつものである。歴史的に言っても、かなり特殊な見方を背景にして、できている見方だということである。

このことは、近代以前の日本の自然観である「自然(じねん)」の自然観と照らし合わせてみると、よりはっきりする。

日本の「自然(じねん)」の自然観では、「自然」は「自己」と対峙するのではなく、「自己」を包み込んでいる。従って、「自然」は、自己が観察する、単なる「対象」ではない。むしろ、それは、我々の自己を超えた、「主体」なのである。それは、我々の「自己」をも包み込んでいると同時に、あらゆる「他の存在」も含みこんだうえでの主体でもある

日本では、古来、「山」や「海」、あるいは「熊」や「狐」などの特定の動物が崇拝されてきたが、その背景には、このような「自然」そのものがあると言うことができる。

この両者の違いを図にすると、次のようになる

Photo_20250320133201

日本の「自然(じねん)」の自然観についてはあまり取りざたされることがないが、たとえば、精神科医の木村敏が『自分ということ』(ちくま学芸文庫)という本でかなり詳しくとりあげている。そこでは、「自然」の「自」あるいは、「自己」の「自」について、「おのずから」という面と「みずから」という面の両面があることが言われている。

これは、要するに、自己をも包み込む自然(じねん)を主体としてみたときの「自」のあり方が、「おのずから」であり、その中の「自己」を主体としてみたときの「自」のあり方が、「みずから」ということで理解できる。そして、この「おのずから」と「みずから」が矛盾なく一致するのが、「自然(じねん)」のあり方の本来の姿であり、理想とされる。

この「自然(じねん)」について、宗教家として端的に語っている者に、親鸞がいる。親鸞は、「絶対他力」を説き、阿弥陀仏の本願を信じることがすべてと説いた者で、しばしば「禅」などの「自力」の宗教と対立するものと捉えられる。しかし、親鸞は、阿弥陀仏とは、「自然法爾(じねんほうに)」のあり様を示すものだという

そして、この「自然法爾」とは、「おのずから然る」ことだと言われている。また、「わがはからはざるを、自然とまふすなり。これすなはち、他力にてまします」と言われており、自分のはからいをしないで、阿弥陀仏の「自然(じねん)」の働きに任せるのが、「他力」とされている。

つまり、単独のものとしてあるかのような「自己」の「みずから」の働きをしないで、自己も包まれてあるところの、「自然」の「おのずから」の働きに任せるということである。

禅のような自力の宗教も、我のはからいを捨てて、「無の境地」を目指すのであり、結局は、自己を超えた「おのずから」の働きに身を任せることに帰する。ただ、とっかかりに、「自力」か「他力」かの違いがあるだけである。親鸞の「わがはからいをしない」というのも、要は、自己の「みずから」の働きが、自然(じねん)の「おのずから」の働きと一致するものと捉えることができる

この「おのずらか」と「みずから」の関係を図にすると、次のようになる

Photo_20250320133801

これは、仏教という一つの宗教において捉えられた観点だが、それは、基本的には、木村敏も言うように、近代以前の日本人に広くみられる、あるいは現在の日本人にも潜在的には多く残っている「自然」についての見方ということができる。

 私も、父が好きだった影響もあり、10代の後半頃親鸞に興味を持った時期があるが、やはり、西洋近代の自然観に強く毒されていたことが影響してだろう、あまりピンと来なかったというのが本当のところである。その後、仏教そのものに興味を持って勉強したときには、親鸞についてもある程度理解したつもりだったが、やはり、西洋近代の自然観の影響が強く、このような「自然(じねん)」の発想そのものには本当には馴染めていなかった。

そして、それは、割と最近まで続いていたと言えるが、最近になって、ようやく、「自然(じねん)」の自然観が、ごく普通に受け入れられるようになり、身にもついて来たと感じている。「自然」は、とても単なる「対象」などではなくなっている。

※ 『人と人の間』としていましたが、同書でも「人と人の間」には「自然」を含めるべきとして同趣旨のことは述べられているものの、「おのずから」と「みずから」について特に述べられたものは、『自分ということ』でしたので、訂正しておきます。

2025年3月 6日 (木)

「共同体の闇」と「妖怪」

『遠野物語』に限らず、「妖怪」というものは、「共同体の闇」を反映したものであるという見方がある

たとえば、「河童」については、奇形で生まれたために「間引き」され、川に流された赤子だとする説がある。このサイトには、この説が分かり易くまとめられている。

実際、『遠野物語』五十五には、この説に説得力をもたせるような河童の子殺しの話が載っている。それは次のような書き出しで始まっている。

川には河童多く住めり。…松崎村の川端の家にて、二代まで続けて河童の子を孕みたる者あり。生まれし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。

かなり衝撃的な事柄が簡潔に表現されており、実際、柳田国男もこの話に衝撃を受けたからこそ、まずこの話を河童の話の冒頭に持ってきたのだろう。この子は、「きわめて醜怪」な形をしていて、手に「水掻き」があったとされ、この子の母もかつて河童の子を産んだとされる。それは、実際には、「奇形で生まれた子」なのであり、近代以前には、産むことのできない子を「間引き」する習慣があったので、間引きされた子を、共同体的には、「河童の子」とみなすことで、いわば「正当化」したというのがこの説である。

近代以前に「間引き」の習慣があったのは本当だし、その「間引き」とは、単に「殺す」ことではなく、「人間の世界に生れることのできないものを「神」の世界に返す」という観念の現われであったことも確かである。だから、この話の場合は、実際に、「河童の子」とみなすことで、「神」の世界に返されたものだったのかもしれない。早く言えば、「河童のせい」にすることで、(共同体的に)丸く収めようとされたわけである。

しかし、この子殺しの話は、「遠野物語」に限らず、全国的に広がっている「河童」の伝承や遭遇譚の中では特殊な話に属するし、「河童」の話は、さらに一種の「水の精霊」として、世界的に広がっているものである。このような「河童」の話全部を、「奇形の子」説で説明することはとてもできない。また、この説が、「河童のせい」にすることができたのも、既に「河童」という存在のイメージがあったからで、この説が「河童」という存在のイメージを作り出したわけではない

さらに、著名な妖怪研究者小松和彦は、「河童」には、「河原者」とよばれて差別された、川辺に住む「異形」の民のイメージが反映されているという。また小松は、「鬼」というのも、大和政権に「まつろわぬ民」の反映としているが、実際、それらの側面があるにしても、それも同じく、本質的には、「河童」や「鬼」のイメージがあるからそれらの民にそのようなものを投影できるのであって、けっしてその逆ではないと言うべきである。

(もう一つあげると、小松は、「神隠し」は様々な理由で疾走して共同体からいなくなった者を「神隠し」にあったのだとして、共同体的に「諦める」システムということを言っているが、これも同じく、「人が神に隠される」というイメージがあるからこそできることで、逆ではない。)

私も、一つの完結した宇宙ともいうべき「閉じた共同体」には、「受け入れざる」さまざなものを「外部に排除」するシステムがあっただろうことは認めるし、そうせざるを得ない場合は、多かっただろうと思う。

つまり、「共同体」にも「闇」の部分があったわけだが、「妖怪」や「異界」のすべてをそのような「闇」の部分の反映などとみるのは、あまりに狭い見方で、非現実的だということである。

 

2025年2月15日 (土)

『遠野物語』の衝撃

前にも述べていたはずだが、私は、一連の体験の後、「読書神秘体験」とでも言えるような、強烈な読書体験をいくつかしている。

まず、その時期に読むにふさわしい本が必ず現れて、読むことになり、それが自分の体験を理解するうえで大きなヒントになることが、たびたびあった。また、本の内容が、異様にスッ、スッと自分の中に入って来て、頭ではなく、心の深いところから、自分の体験と見事に重なる感覚を味わうことも多かった。それらは、必ずしも、「統合失調体験」についてのものでなくとも、自分の体験と重なる限りでそのように吸収されていくのである。

体験の後初めに読んだ、河合隼雄『影の現象学』はそれがものすごかったし、次に読んだモーパッサンの『オルラ』もそうだった。体験のすぐ後は、「異常」な「尋常でない体験」で、他に同じような体験をした者はいないのではないかと思えていたのが、そのような読書体験を通して、徐々に、そうではなく、自分以前にも多くの者が似た体験をしていたのであることが分かる

ふさわしい時期に現れて、大きな影響を与えた本としては、ジイナ・レイクの『テオドールから地球へ』シュタイナーの『悪の秘儀』EOの『廃墟のブッダたち』カスタネダの『無限の本質』、そして最近では、ミナミAアシュタールの『新・日本列島から日本人が消える日』等がある。「ふさわしい時期」というのは、それを理解するのに必要な準備が、それまでの読書体験や考察によって、ちょうどできていた時期ということである。あるいは、それまでの読書体験や考察では、十分明確にならなかった部分や問題について、ちょうど問いただすような内容の本ということである。

これらは、ある種「特殊」な本と言えるかもしれないが、もっと身近なところでは、佐々木宏幹『シャーマニズム』がある。これは、体験の前にも読んでいて、違和感もかなりあったのが、体験後に改めて読んでみると、多くのことがスッと自分の中に入り、ここに述べられていることは全部「本当のこと」であることが、実感できた。つまり、シャーマンの交流する「精霊」は真実存在するものであること、様々な儀式には、「霊的」にみて十分の意味があること、シャーマンがシャーマンになる過程で受ける「死と再生のイニシエーション」は、真実のもので、私のした体験とも多く重なるものであることなどである。

「シャーマニズム」というのは、先住民文化を筆頭に近代以前の文化では「普遍的」なもので、このようなことから、私は、自分の体験が、決して「特殊」なものではなく、実は、「普遍的」なものに繋がっていることを、改めて理解することになった。ただ、「シャーマニズム」が本当に「生きている」のは、先住民文化であるという意味では、それは、身近と言っても、やはりある種距離のあるものと言えた。

ところが、そういったことは、もっと本質的に「身近」なところにあることを知って、衝撃を受けることとなった本がある。それは、柳田国男の『遠野物語』である。

「遠野物語」では、妖怪的なものとして現れることが多いが、「河童」や「山人」、「天狗」などの「精霊」的存在が、現に「生きた」ものとして当たり前のように現れる。「マヨイガ」のような、物質的存在ではない建物にも遭遇する。人が「神隠し」に会い、その者と何十年後かに遭遇する。そういったことが、多くの者によって、当然のように信じられ、共有されているのである。

そこでは、私が一連の体験で遭遇した事柄と通じるようなことが、当然のように展開されていたのだ。

「遠野物語」が出されたのは、明治43年で、明治維新後の日本での話である。遠野は、私も初め仕事で行くことになり、多くの印象的な体験をして、縁があるとしか思えず、今も好きでたまに行く(近くに好きな牧場があって、牛や鹿、鳥等と必ず不思議な交流がある)ところである。盆地で山々に囲まれており、田舎独特の、時間がゆったり流れる世界で、私的には、全体が、どこか別の次元からこの世界に降りて来たかのような独特の印象を持つ。けれども、決して、周りから隔絶された世界ではないし、明治の頃から、周りの村や都市との交通の要衝で、かなり栄えた街であったようである。

だからこそ、柳田国男も、『国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には、また無数の山神山人の伝説あるべし。願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。』と書くことができたのである。

 つまり、「遠野物語」で語られていることは、何ら「特殊」の話ではなく、当時の日本の村々で、広く当たり前のように信じられ、経験されていた世界だということである。

もっとも、記事『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』でみたように、日本人にとって、1965年頃までは、「キツネにだまされる」のが当然のことであったのである。だから、明治の頃に、このような話が広く信じられ、経験されていたことは、何ら不思議なことではないとも言える。

むしろ、戦後しばらくした、1965年頃から、そのような世界を「迷信」として断絶する、あまりに「特殊」な世界観の支配する世界へと、移行したということなのである。

私は、「遠野物語」で語られていることは、ほとんどそのまま「事実」であると受け入れられたし、私の体験したような「特異」な「世界」が、そこでは、当たり前のように展開されていることに衝撃を受けた。先住民文化や近代以前の過去にまで遡らなくとも、「それ」は、あまりに身近なとこにあったことに気づかされたのだ。

自分の体験が、非常に「普遍的」なものであることを、改めて強く確信することになったということである。

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