文化・芸術

2019年5月23日 (木)

『エイリアン インタビュー』

1947年の米国のロズウェル事件は、UFOが米ロズウェル近くの地上に墜落し、軍が機体と搭乗していた宇宙人数体を回収して、ライトパターソン等の基地へ運び、保管したとされる有名な事件である。

そのとき回収された、生存していた宇宙人が、看護役の米国女性に語ったとされる、インタビューの内容が、最近暴露され、本になっている。(『エイリアン インタビュー』リーダーズ・エディション)

宇宙の実情や地球について、UFOの飛行原理など、かなり詳細な内容を語っており、貴重なものといえる。

どこの惑星から来たかは秘しているが、報告される容姿等は、典型的なグレイタイプのゼータ星人に似ている。ただ、地球との関わりが、観察、調査等、第三者的立場のようで、通常のゼータ星人とは、違うようである。

話の内容も、宇宙の中での地球について、宇宙の犯罪人やならず者が放り込まれる、最悪の「収容所」であり、支配的な宇宙人の完全な奴隷惑星となっているとして、徹底的にこき下ろしており、これまで地球に関わって来た多くのタイプの話とはかなり異なっている。

地球が、宇宙の中で、非常に遅れた惑星であり、奴隷的な状態にあることは、多くの宇宙人が指摘することではあるが、多くの場合、それは一面的にされることではなく、よい面とか、今後の可能性とかと一緒に提示される。しかし、この宇宙人は、これでもかとばかりに、一面的、極論的に、地球の「どうしようもない」現状を暴き立てるのである。

たとえば、こんな風にである。

地球は、 宇宙のこの領域の全てにとっての宇宙的なゴミ捨て場となった。

地球は「スラム街」の惑星である。 それは 銀河間で起きた「大虐殺」の結果である。

もしドメイン(宇宙の探検隊)が「地獄」を探しに宇宙の隅々まで宇宙船を派遣したら、その探索は地球で終点を迎えるかもしれない。

牢獄惑星の目的 は、IS-BE(後記参照) を永遠に地球に閉じ込めることである。無知、迷信と IS-BE 間の戦争を促進することが 囚人たちを障害者にし、電子バリアの「壁」の裏で捕えられたままにするのに役に立つ。

これだけをみると、この宇宙人は―あるいは、この宇宙人に託して語らせた地球の人物かもしれないが―、人間を恐怖と絶望に貶め、意気消沈させるために情報を流しているかのようでもある。

しかし、一方で、この宇宙人は、人間に限らず、宇宙の生命体の霊的な本質は、「不死」なる「IS-BE(イズ・ビー)」であることも強調する。「IS-BE(イズ・ビー)」とは、「IS(ある)」ということが、即「BE(なる)」ということと結びついていることからつけれられた造語である。要は、物質的なものを超えた、霊的な本質であり、「ある」だけで「そうなる」ということを決定できるような、完全に「主体的」な意志ということである。

地球人も本来は、そうであるのだが、「IS-BE(イズ・ビー)」としての記憶は消去され、地球に張り巡らされた、電子バリアで包囲されることで、訳も分からず、地球の霊界と地球の間で「転生」を繰り返して、「奴隷」としての生を送り続けることを運命づけられているという。この観点からすると、「輪廻転生」など、地球上で「スピリチュアル」として信じられている霊的な信念も、ほとんど支配的宇宙人に植え込まれた「洗脳」ということになるだろう。

いずれにしても、彼らも、その具体的な方法を開発したわけではないというが、本来は、「IS-BE(イズ・ビー)」としての記憶を取り戻せば、そのような状態から脱することは、可能ということである。

この、現状を、奴隷的な支配状態として、一面的に、ときに、恐怖させるほど、徹底的に暴き出す語り口。しかし、一方で、人間の本質はそれらに関わらない、純粋な意識だから、その覚醒意識にいたれば、それらを脱することができるとする説き方は、実は、デーヴィッド・アイクにそっくりなのだ。

全体の「感じ」としても、私は、アイクに近いものを感じるので、実際に、何かつながりがあるのだろうと思われる。この宇宙人の系統が、アイクの意識的かまたは無意識的な情報源の一つとなっている可能性もあると思う。(※1)

まあ、良くも悪くも、「第三者的」で、突き放したところはあるのだが、貴重な指摘であるのは間違いなく、聞く価値のあるものといえる。

また、支配という観点からみられた、これまでの地球の歴史や文明、UFOの飛行原理などに関しても、有意義な説明がある。

たとえは、古代エジプトのビラミッド文明は、「旧帝国」といわれる宇宙人らが興したもので、完全な支配のためのツールだという。「旧帝国」というのが何を指すか、分かりにくいが、『ブリズム・オブ・リラ』(リサ・ロイヤル他)などに照らすと、かつて勢力を誇った、支配的な「琴座人」と重なるようである。

「ピラミッド」とは、まさに「ピラミッド社会」という支配構造の象徴でもあり、米国の一ドル紙幣の絵としても描かれていることは有名である。しかし、ピラミッドには、他にも、必ずしも支配とはつながらない、「霊的作用」をなす面が多分にあり、バシャールなどもよくそれを指摘している。この宇宙人は、そのような側面は、ないものであるかのように、切り捨てて、支配的な面のみを、徹底して語るのが特徴なのである。

UFOの飛行原理については、UFOという機械構造は、操縦する者の思考・意思と結びついて、存在していることを強調している。操縦する者の思考・意思が、直接、UFOと連動し、その思考・意思のままに操縦できるということである。これは、UFOだけでなく、宇宙人の技術の一大特徴と解され、重要な点である。記事『「宇宙人の技術」と「霊的なもの」 』でも、グリア博士などの説をとり上げつつ、このことに触れている。バシャールも、同様に、UFOが意識と連動して飛行するものであることを、よく語っている。

地球上でも、ごく初歩的なものでは、機械と人間の思考・意思をつなげること(BMI=ブレイン・マシン・インターフェース)は実現されているから、その延長上にあるものとして、理解は可能であろう。ただし、地球上のもののように、電磁的なネットワークで結ばれた、神経的な連動ではなく、「テレパシー的な連動」ということなので、そこには大きな飛躍があるのも事実である。

一つの分かりやすい説明では、魂(脳ではない)が肉体を操るのと同じような意味で、UFOを操るということである。彼らは、必要でないときには、自由に肉体から離脱でき、必要なときには肉体に入って肉体を操るが、肉体と同じように、UFOをも操ることができるということである。

まあ、なにしろ、この宇宙人の語りには、通常のチャネリングものなどとはまた違った、新鮮味があり、興味深い点も多いので、興味がある人は、読んでみたらよいだろう。

※  本文と直接関係ないですが、元NASAの日本人職員の語る宇宙人情報(https://www.youtube.com/watch?v=ydPUuEiUJiU )も興味深いので、あげておきます。

どこまでが、NASAとして把握する事実で、どこまでが個人的な見解かは分かりにくいですが、かなりインパクトのあるものです。

あなたは、話の内容にビックリ?それとも、ビックリマンシールの開発者であることにビックリ?私は、大橋巨泉の友人という以上に、本人とそっくりなことにビックリ(笑)。

※1 より端的には、記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』で述べたように、モンローに、人間に関する宇宙的捕食システムについて情報を与えた「インスペックス」に近いといえる。

2019年3月17日 (日)

「廃仏毀釈」の意義(転載)

前回に引き続いて、ブログ『オカルトの基本を学ぶ』(http://tiem-occult.seesaa.net/)の方に投稿した記事を、転載しておくことにします。

それまでの日本の伝統文化を破壊するのに、決定的な役を果たした、明治政府の施策、「廃仏毀釈」について述べたものです。それは、端的に、「霊的なもの」の排除でもありました。

明治政府が、それまでの日本の伝統文化を破壊するというのは、様々な面にわたって、様々な制度においてなされたことです。しかし、それを象徴するような施策を一つあげるなら、何と言っても、「廃仏毀釈」ということになるでしょう。

「廃仏毀釈」というのは、「仏教を廃し釈迦の教えを棄却する」という意味の施策です。実際に、明治政府により、推し進められ、実行されたものです。

日本の民間における信仰は、中世の頃から、「神仏習合」して、神社にも仏像など仏教的な形態のものが多く祀られて来ました。「仏」と「神」は、仏教移入当初から、様々に葛藤をもたらすものではありましたが、これを習合させて、平和的に共存させ、共に信仰の対象として敬って来たのは、庶民の知恵とも言えます。

しかし、明治政府は、外国から移入した仏教を排斥し、神道を国教化すべく、神社から、仏教的なものを廃棄したのです。また、それだけでなく、多くの仏教寺院を破壊し、僧を還俗させました。

仏教は、江戸幕藩体制では、「権力」に結びつく、重要な位置にあったため、その地位を貶めるべく、日本の固有の信仰ではないということで、排斥すべきものとしたのです。特に、新権力の一翼を担う薩摩では、凄まじい排斥がなされたようです。

ネットでも、『日本史の一大汚点「廃仏毀釈」はいかにして行われたか?』という記事(https://diamond.jp/articles/-/114630 )は、この「廃仏毀釈」について、簡単に、概要とその重要な意味が述べられていますので、参照ください。

一見すると、これは、やり方が破壊的だったとしても、「日本の固有の信仰を取り戻そうとした」ということ自体は、肯われることと解されるかもしれません。しかし、これは、「国家神道」という、新たな「国教」の樹立に向けられたものであって、日本の固有信仰を取り戻すようなものでは、全然ありません

むしろ、この「国家神道」は、天皇を「現人神」として中心に据えて、あらゆる信仰形態を再編し、それに沿わないものは排除する、ほとんど「一神教」的なものだったと言えます。西洋風の絶対君主制の模倣であり、日本の固有信仰とは、似ても似つかないものだったということです。

安丸良夫著『神々の明治維新』(岩波新書)も、《「廃仏毀釈」といえば、廃滅の対象は「仏」のように聞こえるが、しかし、現実に廃棄の対象となったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである》と言っています。

仏教を排斥するというのは、一つのとっかかりのようなもので、実質的には、神々への信仰を、権力的な意図により、それまでの形態とは大きく変えてしまうことこそが、なされたことなのです。そこで、真に破壊されたものとは、一言で言えば、それまでの「民間信仰」であり、「固有信仰」そのものなのです。

たとえば、それまでの信仰では、神々への信仰であっても、必ずしも、神社という建物と結びついたものではなかったし、形式的な「祭司」や「儀式」ということが、重要なことでもありませんでした。さらに、「巫女」や「修験」のような「シャーマン」を通しての、「憑依」や「託宣」ということを通して、神々と交流する場もありました。しかし、明治政府によって、そのようなものは、「迷信」として禁止されたのです。

氏神というのは、村の共同体にとって、重要な統合のシンボルのようなもので、「社」と結びつくことが多かったのは確かです。しかし、それは、それぞれの共同体独自のものであったのが、「廃仏毀釈」により、国家が押し付けた神道形態のものに変えられます。それは、端的に、共同体にとって、固有の信仰の破壊と、新たな信仰の押しつけということになるはずです。

他にも、破壊されたものは多くあるのですが、要は、それまでの信仰において、「実質をなすもの」こそが、破壊されたということです。そして、国家に都合のよい形での、形式的、物質的な要素に嵌められるものとなったのです。私からすれば、実質的には、「目に見えない」「霊的な要素」こそが排除されたということになります。

それは、これまでにも何度も触れた、「オカルト的なもの」を排除するという、近代のあり方を決定づけた出来事でもあるのです。

普通は、戦後において、「国家神道」というものが、それ自体「オカルト的なもの」のようにみなされて、廃すべきものとされることになったと解されるのでしょう。しかし、実際には、その「国家神道」自体が、既に「オカルト的なものの排除」と結びついていたことを見逃すと、それによって、本当に排除された江戸以前の固有の文化をも、見逃すことになるのです。


※ 仏教排斥をとっかかりとしたことの意義

転載記事中に述べたとおり、「廃仏毀釈」というのは、日本の伝統文化破壊に向けての「とっ かかり」のようなもので、真に破壊されたのは、それまでの「民間信仰」そのものです。しか し、そのとっかかりは、「神仏分離」「廃仏毀釈」という、排斥対象が明確なものだったから こそ、神社の神職や民衆をも巻き込んで、効果的になされたものといえます。そこに、巧妙さ があります。

一つは、江戸期に仏教は優遇される位置にあり、寺請制度、寺壇制度により、民衆が寺の管理を受けていたので、神道に関る者や民衆にも、仏教を快く思わない者が多くいたということが あります。この施策は、それらの者の不満を、うまくすくい取っているのです。

また、ペリーの来航以来、一般に、外国による圧力を感じ、日本の伝統文化ということを意識せざるを得なくなっていたので、「外国から移入された仏教」の排斥ということには、訴えかけるものがあったと言えます。

まずは、民衆も味方につけつつ、仏教という、一大勢力を大がかりに排斥することから始めて 、結局は、民衆そのものの信仰や文化をも、国家の都合のいいように、改変(破壊)してしまっ たのです。つまり、国家にとって都合の悪いもの、管理しにくいものを、巧みに排除してしまったということです

2019年3月 3日 (日)

「近代社会」と「明治維新」に関する記事の転載

ブログ『オカルトの基本を学ぶ』(http://tiem-occult.seesaa.net/)の方に投稿した記事ですが、「狂気」にも関係する重要なものなので、こちらにも転載しておくことにします。

ともに、「近代社会の常識」を意識的に覆して行かない限り、「オカルト」を捉え直すことは難しいということで、「近代社会の常識」を、改めて問い直したものです。

これらは、「オカルト」について述べたことですが、「狂気」につても、全く当てはまることです。実際「狂気」とは、「オカルト的なものに惑わされる」こと、そのものであることは何度も述べたとおりです。そのことが、「近代社会の常識」でみえなくされたために、「病気」ということで、「分かったこと」にする「誤魔化しのシステム」が、できあがったのです。

この、「誤魔化しのシステム」である、「精神医学」との関係では、既に、記事『「病気」ということの「イデオロギー」的意味』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-5403.html )、『「精神医学」と「オカルト」的なもの 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html)などで、これらのことは十分述べられています。

ただ、「近代社会の常識」そのものをとりあげたものとしては、今回転載するものの方が、分かりやすいかと思います。


「近代社会」という大いなる誤解

改めて、「オカルト」については、「近代社会」の延長上にいる我々にとって、この社会特有の「常識」(本当は「非常識」であり「誤解」)が、大きく立ちはだかっていることを感じざるを得ません。これを、十分意識的に、覆えしていかない限り、本当にオカルトを正面から捉え直すことは、難しいと思います。

記事中で、何度も、現代には、「オカルト」に対する嫌悪感や恐怖感が行き渡っていることを述べました。そして、近代社会が成立する直前に起こった「魔女狩り」を例にあげて、そもそも「近代社会」 とは、「オカルトに対する排除の意思」が強烈に具現された社会である、ことを明らかにしました。そして、それは、日本の場合にも当てはまることをみました。

我々が、その社会の中で生まれて、自然と身につけてしまう常識や感覚には、それらが強く染み込んでいます。現在は、かつてほどではなくなっているとは言え、「オカルト」に対しては、初めから、排除と蔑みの感覚がつきまとい、まともにみることを阻んでいるのです。

そして、それは、日本人にとっては、より強固なものになっていると思われるのです。

「近代社会」とは、我々日本人にとっては、まずもって、フランス革命以後の、「西洋社会」ということになるでしょう。しかし、日本も、明治維新後、その仲間入りをしたことになっているので、それは現代の「我々の社会」ということでもあります。

つまり、日本人にとっては、明治維新前の伝統的な文化と、それ以降の西洋化された「社会」とが、ほとんど断絶しているのです。「明治維新」という、かなり極端な形で、それまでの文化を排して、異質の文化を取り入れることをしたので、そのことが、より明確に浮き上がるのです。

そして、多くの日本人にとって、明治維新後の西洋化された「近代社会」こそが、今につながる、「正しい」社会のあり方であり、それは、かつての古く、迷信にまみれ、権力に抑圧された、「遅れた」社会を克服して、達成された、望ましいものということになるのだと思います。「近代社会」が、理想的な、完璧な社会とまで思う人はいないでしょうが、相対的に、以前の文化や、他の文化と比べても、進んだ、あり得る唯一の社会くらいに思っている人は、多いと思います。

このような認識においては、「オカルト」とは、かつての誤った「迷信」の象徴であり、過去の、克服したはずの「悪しき」文化を思い起こさせるものでしかない、ということになります。つまり、「オカルト」とは、我々がかつて、「切り捨てた」はずのものであり、もはや、決着のつけられたはずのものです。それを「切り捨てた」限りで、現在の「世界」に誇れる、「近代社会の一員」としてのアイデンティティがあるのです。

しかし、その「切り捨てた」はずのものが、「後ろ髪を引く」ように、我々の意識に浮上しては、我々を今も悩ませ続けるのです。そうなるのは、当然のことと言うべきです。実際、それは、我々の「失われた半身」とも言うべきもので、我々の「過去」そのものだからです。明治維新後とは、比べものにならないくらい長い間、かつては、実際に、そのように「生きられた」ものであり、我々の深いところに、今も潜み続けているはずのものです。切り捨てた「つもり」になることはできても、真に縁を切ることなど、できるはずもないものなのです。()

何も、捨てた「過去」に戻ることがいいということではないですが、「切り捨てたもの」は、新たな視点のもとに、捉え返される必要があります。そして、何ほどかの「和解」(統合)がなされる必要があります。そうでない限り、それは、今後も、「後ろ髪を引くように」我々の意識に現れては、嫌悪と恐怖を突きつけてくることでしょう。

 ブログ『狂気をくぐり抜ける』の『日本人が霊的なものを認めない理由』(   http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-f6e0.html    )という記事では、かつて「切り捨てた」ものを、過去つき合った異性にたとえて、この辺りのことを、多少過激に、しかし分かりやすく述べていますので、ぜひ参照ください。

「明治維新」の捉え方の変化―「進化史観」

前回、「近代社会の常識」を意識的に覆して行かない限り、「オカルト」を捉え直すことは難しいことを述べました。

しかし、最近は、「近代社会の常識」を問い直す見方は、様々な方面で現れています。日本の歴史においても、「明治維新」の捉え方が、これまでとは大きく変わって来ています

これまでは、「明治維新」とは、とりもなおさず、それまでの封建的で、迷信に満ちた、古い社会を改革して、西洋流の進んだ社会に変えた、画期的な出来事とされていました。「明治維新」そのものの価値が否定的にみられるということは、ほとんどありませんでした。

ところが、最近は、日本の江戸時代は、世界的にみても稀なほど、「豊か」な社会であったことが、示されつつあります。「士農工商」という身分的な区別はありましたが、決して移動の効かない固定的なものではなく、必ずしも、「差別」に結びついたわけでもなかったとみられます。物質的にみても、庶民全体として決して「貧しい」わけではなく、文化的にも、庶民レベルで、独自の、様々なものが発展して、享受されていました。幕末期に日本を訪れた外国人は、そろって、これらのことに驚きを示しています。

江戸時代、あるいはそれ以前の社会または文化を、「古く」、「劣った」ものとして、否定する見方が、一方的で偏ったものであることが、認められて来ているのです。だとすれば、それを一方的に否定した、明治維新の見方も、変わって来ざるを得ません。

むしろ、最近は、明治維新を、西洋の(金融資本家等の)支配層の戦略に乗って、日本の伝統的な文化を破壊した、残虐なクーデターであり、日本が西洋支配層の支配に取り込まれることを決定づけた、「売国的行為」とする見方も出てきています。

このような見方には、多少とも、「反動的」なものはあるでしょうが、決して根拠のないものではありません。明治維新が、西洋の黒幕の力を借りて、天皇をすり替えるなど、謀略に満ちた方法で、新たな権力を樹立したものであったことは、間違いないと思われるのです。この点については、かなり多くの研究がありますが、たとえば、比較的穏健に、説得力をもって示されている、加治将一×出口汪『日本人が知っておくべきこの国根幹の重大な歴史 』(ヒカルランド )を参照ください。

いずれにしても、このように、歴史的な出来事も、180度見方が変わり得るものであり、「歴史」というのは、「事実」そのものではなく、それをどう捉えるかの「見方」そのものであることを、改めて感じます。

ジャーナリスト船瀬俊介氏は、歴史=historyとは「his」「story」、つまり「彼の物語」なのだと言っています(https://www.youtube.com/watch?v=n9pS9tyTUN4 )。「彼」とは、その社会の「支配者」ということであり、歴史とは、あくまで、その社会の支配者が、その「正当性」を多くの民衆に押しつける「物語」だということです。

それまでの貴族社会や幕藩体制は、みかけ上の「支配者」が見えやすかったので、このことは理解しやすいでしょう。ところが、「明治維新」以後は、巧妙に、自由や平等の観念に隠されて、みかけ上「支配者」がみえにくくなっています。そのため、その「物語性」も読み取りにくくなっていますが、学校教育を通して広められる現代の「歴史」においても、結局は、同じことなのです。

(このような捉え方には、「陰謀論」という見方がつきまといます。この「陰謀論」というのにも、「オカルト」と同様、「非理性」「反理性」を象徴するものとしてのレッテルが、張られているのです。確かに、「オカルト」と同様、危険性を含み、扇動的なものが多いのは事実です。しかし、同時に、「隠された真実」を含むものがあることも、「オカルト」と同様なのです。この辺りのことは、またいずれ、とりあげたいと思います。)

私は子供の頃、「歴史ほどつまらない授業はない」と思っていたのですが、それは、このような一方的な見方を、ステレオタイプ的に押しつけられるところがあったからだと思います。

とは言え、私も、「明治維新」が、近代社会の一員となるために必要な、良き改革であったという見方は、自然に受け入れてしまっていました。教育による洗脳の効果というのは、恐ろしいもので、表だって、教育の内容自体を受け入れていないつもりでも、背景にあるものの見方を、知らぬうちに、取り入れてしまっていたりするのです。

そして、江戸時代以前の日本は、「貧し」く、迷信に囚われた社会で、世界的にも劣る、「恥ずべき」ものという見方も、自然にしてしまっていたと思います。いわゆる「自虐史観」的な見方です。

最近は、それが反省されたりもしているのですが、もちろん、反対に、ただ自文化を称賛すればよいというものでもありません。また、自文化を称賛すると言いつつ、本当には、江戸以前の日本の文化を、深いところから肯定しているとは思えないものも、よくみかけます。

特に、私の立場からすれば、これらの文化は、現在は「オカルト」とされる領域を重視して来た文化なのだから、それに対してどのような態度をとるのか、そこを曖昧にしている限り、本当には、自文化の見直しにはつながらないと思います。

ともあれ、我々は、明治維新という近代のあり方を取り入れて、新たに身につけられた見方を、当然の前提のようにして、それ以前の過去についても当てはめて、一方的に解釈してしまっているところがあるのです。

そのような、近代以降に身につけられた、歴史の見方で、最も問題なものを一つあげるとすれば、次の見方だと思います。

「歴史」は、過去から現代へと、「進化」して行く。つまり、人間は、時代とともに、「進化」して行く

この見方こそが、「過去」を、「古く」、「乗り越えるべきもの」として否定し、現代を、最も「進化」したものとして、「正当化」する見方をもたらす、根本だと思います。

しかし、そんな保証は、どこにあるのかということです。人間が、時間とともに「進化」するなどという保証は、どこにもないはずなのです。

実際、近代以前には、むしろ人間は、時間ととに「退化」するという見方の方が主流でした。

古代ギリシャでは、人間は、黄金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代という風に、時代とともに「退化」(堕落)するとみなされました。古代インドでも、同様に、サティヤ・ユガ、トレーター・ユガ、ドヴァーパラ・ユガ、カリ・ユガという風に、時代とともに退化します。ただ、ある出来事によって、初めのサティヤ・ユガに戻り、また退化して、そのサイクルを繰り返すという発想がされていました。

このように、全体として、人間は時代とともに退化するという見方の方が、明らかに「現実的」というべきです。また、「サイクル」というのも普遍的な発想で、中国や日本でも、元号が変わるごとに、時間そのものが振り出しに戻る、「サイクル」の発想がされていました。

逆に、時間というものが、直線的に進むという発想自体、西洋独自の発想であり、一神教的な宗教が、時間を規定することに始まっています。

時間が直線的に進むということは、ある目的を設定して、時間が、それに向って進むという発想を前提にして、初めて可能なことです。この場合の目的とは、一神教的には、「最後の審判」であり、その後に訪れるとされる、「永遠の救い」のことでしょう。キリスト教的には、このような意味の時間の始まりは、永遠の救いを約束した「イエス・キリスト」が生まれたとき、つまり西暦元年ということになります。

そして、「進化」ということも、このような、ある目的が設定されて、それに沿った視点から捉えられて、初めて言えることなのです。

「永遠の救い」ということは、目に見えにくく、測りにくいことですが、西洋近代には、目に見える表面的な目的として、「物質的な発展」ということがあります。それで、「進化」ということも、かなり見えやすいものとなったのです。

確かに、「物質的発展」という視点から、それに沿う「進化」を云々することは、できることでしょう。しかし、そのような目的自体、特定の価値観から設定されたものであり、普遍的ものとは言えません。現に、西洋近代以外の文化では、そのような目的は設定されていないと言うべきです。

西洋近代が、そのような目的を設定したのは、やはり一神教的な発想が根本にあり、「物質的な発展」とは、「永遠の救い」ということの、目に見える形の現れであり、あるいはそれに近づいていることの、一つの指標とされたからでしょう。(基本的には、資本家等を中心に、物質的、経済的に「富む」ことが、宗教的な救いという観点からも、価値づけられ、正当化されたということです。)

しかし、それは、非常に特殊で、「限定」的な発想であるにも拘わらす、一神教的な「普遍性」を標榜するものなので、他の地域の多くの人間に、「押しつけ」られていくものとなります。その力が絶大で、逆らい難いほどのものであったのは、確かなことでしょう。

それにしても、「進化」とは、ある観点から言えることでしかなく、全体として、人間が、時代とともに進化するなどということは、言えるはずもないことです。

ただ、西洋流の「物質的発展」という目的ないし価値観が、取り入れられるのに応じて、それに沿う方向が、「進化」とみなされたということに過ぎません。そして、そのために否定されたものとは、「物質的発展」ということと相入れないもの、つまり、現代では、「オカルト」という言い方で総称されるような、「目に見えない」「霊的な性質のもの」だったということです。

2018年12月 2日 (日)

今も生きている「山怪」

前に、記事『「注文の多い料理店」の犬の怪』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-d417.html)で述べたような「山の恐るべき力」に関して、現在では、山も開かれてしまって、このようなことが起こることはほとんどなくなってしまったと述べました。

ところがどっこい、『山怪』(山と渓谷社)という本を読むと、今でも十分、「山の怪」は起こり続けて、人を惑わし続けていることが分かります。それも、山に不慣れな「素人」ではなく、普段から山を良く知り、慣れている「マタギ」のような人たちをも、惑わし続けているのです。

読んだのは大分前なので、一つ一つの話を、あまりよく覚えているわけではありません。ただ、「注文の多い料理店」のように、強烈なものはそうなかったと思いましたが、全体として、確かに「山怪は生き続けている」ということを改めて感じたのは、はっきり覚えています。

『山怪』という本は、その後3巻まで出ているし、NHKの番組でも、その体験者を取材した番組が放送されていたので、かなり多くの人が、インバクトをもって受け止めていることのようです。

昔や明治期の、「昔ばなし」や「伝説」ではなく、今現在も連綿と起こり続けている、「本当の話」なのだから、それも当然でしょう。

昨日の朝日新聞の書評にも、面白くとりあげられていたので、私は、改めて思い起こすことになりました。

私が、読んだ最初の本では、「狐」や「狸」に「化かされる」話が多かったと思います。狐は、かなりどぎつい化かし方をして、人が「害を被る」ことも多いですが、狸の化かし方は、たわいもない、いたずらのようなものが多いようです。

しかし、書評も言っているように、その化かし方は、人間の側の技術の進化にもちゃんと対応して、大がかりになっているようなのです。

今日びの狸は、なんと進化しとるんです。かつてはコンッコンッ、ひそかに斧の音を響かせて木こりを驚かせておったのに、秋田県阿仁では派手なチェンソーの音真似やドーンと大木が倒れるオマケ付き、大がかりになったもんです。岡山県鏡野町でも軽トラに化けて山菜取りを惑わせたのは狐でしょうかねぇ。

狸は、「ポンポコ」という太鼓の音を立てることで有名ですが、やはり、音で惑わすことが好きのようです。チェーンソーの音真似というと、オーストラリアの固有種で、音真似の得意な鳥「コトドリ」を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、日本にこの鳥はいないはずなので、やはり「狸」の仕業なのでしょうね。

最近は、アライグマやハクビシンなどが、民家の家の中に押し寄せて来て、住みついたりして、大変なようですが、この「狸」も、最近は家の中にまで押し寄せて、活躍していませんか。私の家の中でも、ときどき「ミシッ」とか、誰もいないところから、人がいるかのような怪しい音をよく聞かせてくれるのですが。

と言っても、この「狐」や「狸」は、言うまでもなく、「精霊」としての「狐」や「狸」です。こういった存在が、「化かす」ということ自体は、昔から知られた「伝統」であり、「伝承」であって、その文化としての影響は強く残っているでしょう。だから、何か、あるはずもないものや、異常な、光や音などの怪しい現象が起きたときに、それを「狐」や「狸」のせいと思ってしまうことは、あることと思います。

しかし、「山怪」の中には、はっきり、「狐」や「狸」としての姿を見せているものも多いです。その一つに、家の近所で、狐に「ストーカー」されたという面白い話もあります。車の帰り道、家の近くで、狐がずっと、微動だにせずにこちらを見ているので、恐くなり、進路を変えて、別の道から行くと、その降り口にまたその狐がいます。で、また元の道を戻ると、林の中をその狐が走っているのが見えます。その人を、先回りして、「おっかけ」ているのです。

ドン兵衛の「どんぎつね」なら、ストーカーされてもいいけど、やはり狐のストーカーというのも、恐いものなのでしょうね。しかし、現代の人間世界の「怪」の一つとされる、人間の集団による、「集団ストーカー」というのも、実を言うと、このような、化かす狐による「ストーカー」の「進化形」とも言えるのですけどね。

しかし、全体として、「山怪」というのは、やはり、山という場でこその「怪」であり、山そのものの恐さと力を知らしめるような話も、かなりありました。

書評でも、次のように言われています。

サンカイにサンカイするサンカイにサンカイする、おっと失礼、山塊に散開する山怪に参会するには、それ相応のお作法が必要のようです。

「サンカイを三回重ねて、気分は自賛かい」とつっこみたくなりますが、…おっと三回じゃなくて、妖怪いや四回でしたね。いや、評者も、何も茶化しているわけではなくて、冗談交じりにしか語れないくらいに、これらの話の「真実味」を感じてしまっているということなのです。

2018年6月13日 (水)

観念の問い直し 3-戦略の理解と対処法

「わしが言っているのは、われわれが相対しているのは単純な捕食者ではないということだ。そいつはすごく頭が切れるし、てきぱきと仕事をこなす。組織的な方法にしたがってわれわれを無能にする。」 (カスタネダ『無限の本質』 ドンファンの言葉より)

「人民、己が操られておること信じられんであろうなれど、悪魔は簡単に人を操れるのであるぞ。悪魔の力どれほど強いか、ずる賢いか、人民知らんのぞ。」 (『大日月地神示』より)

「集団ストーカー」でも「テクノロジー犯罪」でも、一連の「観念の問い直し」シリーズで、最も明らかにしたかったことは、これらの「観念」自体が、「戦略」なのだということです。この「観念」自体が、一旦それを信じたら、人を捕らえて、その世界に引き入れ、縛りつける、「魔的」ともいえる、働きをしているのです。その世界に、引き込まれた者は、容易に、そこから抜け出すことができません。

その観念を信じるように仕向ける、「仕掛け」というものは、確かにあります。しかし、実際には、その「戦略」に乗り、その観念を信じること自体が、その「被害」とされる出来事を、止めなく、拡大して、再生産しているのです。その「被害」は、「戦略」によって、自ら「作り出した」ものなのであり、それによって、「加害行為」なるものを、実際以上に強大なものとし、自ら、負担を増大しているのです。(※1)

だから、対処法といっても、真っ先にあげられるべきは、この「観念」がもたらす効果の全体が、「戦略」であることを理解することに尽きます。本当に、それを理解できれば、半ば、その「世界」から抜け出すことができたようなものです。自らが、作り出した「被害」を、取り外すだけで、大きく負担を軽減することができるからです。

それでも、身に受ける、攻撃的な「仕掛け」というのは、確かにあります。しかし、それも、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」という「観念」を信じさせ、自ら「被害」を拡大させるためこその「仕掛け」なので、全体としての「戦略」が理解できれば、そのような「仕掛け」に振り回されることも、少なくなります。(※2)

しかし、実際には、この「戦略」の理解が、多くの人にとって困難なのは、それが、決して、「人間レベル」のものではないからです。通常の人間の戦略ということ、あるいはその延長上に理解しようとしても、無理なのです。

冒頭に引用したのは、(前にも引用しましたが)このような存在が、いかに(人間を超えた)「戦略」に満ちたものかを、端的に言い表した言葉です。改めて、そのように強調されることの、意を汲んでほしいと思います。

そのような「戦略」の、「人間を越えた」部分が、最も現れるのは、何と言っても、人間の心理を、「リアルタイム」に「読んだ」うえで、なされる「仕掛け」においてです

この、心理を「リアルタイムに読まれる」ということ自体は、実際に「仕掛け」を受けている多くの人が、感じ取ることです。だからこそ、それを説明すべく、「(超高度の)テクノロジー」が持ち出されるわけです。しかし、いくらそのようなものを持ち出しても、本当に、その「リアルタイムに読まれる」ことのリアリティを捉えることはできません。また、その主体が、「人間」だと思っている限り、本当に、その「戦略」を理解できることにもなりません。

たとえば、この場合で言えば、「テクノロジーだと思われている」こと、「人間だと思われている」こと自体が、既に「読まれ」たうえで、「戦略」に組み込まれているのです。そうしてできているのが、「テクノロジー犯罪」という「観念」なのです。「リアルタイムに読まれる」ことと「戦略」が、即に結びついています。

その意味では、その「心理を読まれること」自体は、「無心」にでもならない限り、防ぎようもないので、対処の対象とはなりません。ただ、このことを理解して、相手が、それを踏まえた「仕掛け」をなして来ても、それに捕らわれて、混乱したり、恐れたりしないことが重要なのです

被害者のブログなどで、「テクノロジー犯罪」であることを前提とした対処法として、電磁波を遮断したり、軽減できるような「装置」があげられることがあります。それは、そのように信じている限り、一定の心理的安定をもたらすし、薬と似たような、「プラシーボ効果」をもたらすことはできます。

しかし、この対処法では、自分で「被害」と思っている多くの出来事を、疑わざる前提として、固定してしまい、その負担を軽減することはできません。また、「テクノロジーによる」という「思い込み」も、固定してしまいます。それは、「物理的な力」によるものだから、意識のあり方とか、こちら側の心的な態度では、防げないものというイメージを強めます。そのようにして、真の対処への可能性を、閉ざしてしまうことになるのです。

つまり、むしろ、相手方の「戦略」に乗ることになってしまうということです。

このように、「テクノロジー犯罪」という「観念」には、「テクノロジー」という「物理的な力」によって、攻撃されるという意味合いが込められています。しかし、それもまた、対処が難しいと思わせる、重要な「戦略」の一部なのです。

実際には、これまでみて来たとおり、これらの「仕掛け」は、「意識」と連動して起こるもので、「意識のあり方」とか、こちち側の「心的な態度」によって、大きく左右し得るものです。決して、「テクノロジー」ということに比べて、対処の困難なものではないのです

あるいは、前回も述べたとおり、このような現象に、何らかの「テクノロジー」が関与している可能性はないわけではありません。しかし、たとえ、「テクノロジー」によるものと仮定したとしても、決して「意識のあり方」で防げないものではないことは、記事『チャネリング情報にみる薬の害毒と操作性 2』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-cde9.html )で述べたとおりです。

重要なことなので、『スターシード』で言われていることを、再びあげておきます。

そのような科学技術の使い手たちは、単に行動そのものを観察することよりも、特定の行動をさせるように人間を操作することにはるかに関心があるということに心を留めておいて下さい。もし個人の位置を特定できれば、彼らは確実にその人をとらえることができるでしょう。自らのはっきりした意思とその性質によって、あなた方が電磁気による彼らの「メッセージ」の周波数を造作なく変化させる場合を除いての話ですが。それは、人間の精神、身体、感情の状態によって決定されます。ですから、あなた方が完全に正常な心で―自分の意思を明確にして―行動していれば、そのような装置の影響はもしあったとしても、ごくわずかでしょう。

これらの「テクノロジー」が、「物理的なエネルギー」によるものだとしたら、確かに、意識のありようで防ぐことは、難しいものになるでしょう。しかし、それらは、電磁的な力を利用したものとしても、その周波数をもって、脳波に共振させるなどの方法によるものです。だから、要は、そのような周波数に影響されないだけの、意識の(脳に対する)強固な働きがあれば、それを回避、あるいは少なくとも、減退できるということです。

『スターシード』では、「完全に正常な心で―自分の意思を明確にして―行動していれ」ば、影響を受けないか、受けてもわずかだと言います。要は、感情的にネガティブな影響を引きずらないで、意思をしっかり持ち、「やるべきことをやる」ということに尽きます。逆に言えば、「気にすればするほど」、「捕われれば捕われるほど」このような影響を強く受けるのだから、「戦略」とは、いかにして、相手が「気にし」、「捕われる」ように仕向けるかということになります。敵も、こちらの「コンプレックス」や「弱点」を、巧みについてくるということです。だから、回避することが容易だということではありません。

いずれにしても、こういった攻撃ないし仕掛けは、「意識のあり様」により、大幅に左右されるということ。それを悟らしめないようにすることこそが、彼らの「戦略」の大部分を占める、ということを知ることが重要です。

最後に、心理を「読む」ということと、それに捕われない「無心」という態度について、「さとり」という動物の、面白い話があるので紹介しておきましょう。

一人の木こりが山奥に入り、斧で木を伐っていると、「さとり」という珍しい動物がそばに寄ってきました。さとりは人の心を読み取ることができるという珍獣です。そこで木こりは「よし、生け捕りにしよう」と考えました。

するとすぐにさとりが「お前はおれを生け捕りにしようと思っているな」と、からかうように言うのです。心を読み取られて、木こりがびっくりすると、さとりは得意げに「こんどはおれに心を読まれてびっくりしている」といいます。シャクに障ったきこりは「ひと思いに斧で打ち殺してやるか」と考えました。

さとりはまたも、「斧でおれを殺そうというのかい」と、逃げる身構えをします。ついにきこりはあきらめ、「こいつはかなわん。さとりなんかかまわず、自分の仕事に精を出そう」と思いました。さとりは「とうとうおれを諦めて、自分の仕事に精をだそうとしているな。」と、せせら笑いました。

しかし、木こりは、気味の悪い動物のことなど忘れようと、斧を振るって一生懸命働きました。すると、全く偶然に、木こりの振り下ろした斧の頭が柄から飛び、見物していたさとりに命中したのです。さとりは地面に倒れて動けなくなりました。そして、木こりは、さとりを生け捕りにすることができました。

人の心を読み取る、不思議な力をもつ「さとり」も、「無心」に働いている、きこりの心までは読めなかったというわけです。これは、禅の世界でとりあげられる話で、(修行や訓練によって成し遂げられる)高度の「無心」の意義について指し示しています。さとりとは、得ようとして得られるものではなく、それを諦めて、日常の仕事に専念しているときに、ふと得られるものだという「逆説」をも示しています。

しかし、この話は、まさに、心を読み取ったうえで、「嫌がらせ」を仕掛けてくるような、「ストーカー」的な存在についての、対処法として、もっと広く受け止めることができます。「無心」などと言わずとも、ただ「気にしない」で、やるべきことに専念していれば、そのような存在の影響は、ほとんど受けずに済むということです。

※1  「戦略」によって、「自ら作り出した被害」とは、疑心暗鬼による錯覚、錯誤から、「被害」とみなしたもののほか、特殊な精神状態により、自ら引き寄せた(共時性的)現象を含みます。私は、100%、これらの「自ら作り出した被害」である場合も、相当あると踏んでいます。一部に、実際に「仕掛け」を受けている場合でも、「自ら作り出した被害」は、7割から8割あると思われます。

※2  攻撃的な「仕掛け」については、いわば「現場」で働く存在と、背後で指揮する「捕食者」で、その意図には多少のずれがあります。全体として、「戦略」的に行っているのは背後の「捕食者」であり、現場で働く存在は、本性そのままに、ただ「嫌がらせ」をしているところがあります。しかし、背後で指揮する存在の「戦略」を理解すれば、それに振り回される度合いは大きく減ることに変わりありません。なお、現場で働く存在の「嫌がらせ」に対する対処法は、最後のところに述べたとおりです。

2018年5月29日 (火)

「テクノロジー犯罪」という観念の問い直し 2

「集団ストーカー」の実質的内容は、(集団を使って)人を精神的な混乱や錯誤に陥れる「嫌がらせ」であり、「ガスライティング」でした。しかし、「テクノロジー犯罪」というのも、その実質は、このような「ガスライティング」とほとんど同じものです。

「テクノロジー犯罪」の場合、「集団ストーカー」と異なり、直接人の行為を介して行うのではなく、隠れたところから、あるいは離れたところから、「超高度のテクノロジー」を使うことによって、攻撃がなされるとされます。それで、人の行為による「嫌がらせ」という面は、みえにくくなっています。

しかし、それは、直接的な危害を加えるというよりは、やはり、人を精神的な混乱や錯誤に陥れるもので、手段は違っても、実質は、同じといえるものなのです。それを繰り返し行うことで、人を「精神的窮地」に追い込んで行き、統合失調症のような、精神病的な状況に陥れるというのも、「集団ストーカー」の場合と同じです。

「テクノロジー」というのは、電磁波であっても、「物理的なエネルギー」を伴いますから、身体に対する殺傷能力を持ち得ますし、実際、前回みたように、それを被った結果として、「身体的不調」というのもあげられます。

しかし、その「身体的不調」というのも、直接それ自体を目的とするというよりは、そのような不調を繰り返し与えることで、「精神的窮地」に追い込むことを狙ったものです。つまり、「身体的不調」というのも、精神に向けられた、「ガスライティング」のもたらす効果の一つとみられるのです。

そして、「テクノロジー犯罪」の結果もたらされるとされる、他の、「精神的不調」や、「音や声を聞かせる」、「思考を読み取る」、「思考を操作する」といったものは、精神に向けられた「ガスライティング」という面が、かなりはっきりしています。いずれも、何らかの危害というよりは、不可解な現象を身の周りに生起させて、精神的な不安や混乱をもたらすものだからです。

あるいは、「思考を読み取る」というのは、その読み取った思考をもとに、その者にしか分からない「ほのめかし」や、「絶妙なタイミング」の「コリジョンキャンペーン」などを行う、「集団ストーカー」行為の前提として機能するものでもあります。つまり、「集団ストーカー」と結びつけられて、「ガスライティング」として機能するということです。

このように、「(超)高度のテクノロジー」を用いてなされる「ガスライティング」を「ハイテク」と呼び、現実に人の行為を介した、「集団ストーカー」的な「ガスライティング」を「ローテク」と呼んだりもします。

いずれにしても、「集団ストーカー」も「テクノロジー犯罪」も、その実質は「ガスライティング」なのであり、人を操作するということで、人の関わりが前面に出てくるものが、「集団ストーカー」とされ、人が前面に出で来ないで、「みえない」ものが、「テクノロジー犯罪」とされているだけなのです。

「集団ストーカー」のところで述べたように、確かに、その者にしか分からない「ほのめかし」や、「絶妙なタイミング」での「コリジョンキャンペーン」などは、リアルタイムで人の意思や思考を読み取ることを想定しない限り、無理なことでしょう。その、「意思や思考を読み取る」ということは、通常は「あり得ない」こととされていますが、隠蔽されている、「(超高度の)テクノロジー」によって可能だとするのが、「テクノロジー犯罪」なのです。

しかし、そのような「技術」自体、相当に認め難いのみならず、現実の人を適材適所に配置して、リアルタイムに、それを反映する行為をさせる、などということは、明らかに無理なことです。さらに、「無理」というだけでなく、人材と金と手間とリスクのかかる、しかも、実質「嫌がらせ」に過ぎない、「稚拙」ともいえる行為をさせるために、わざわざ、隠蔽されている、「超高度のテクノロジー」を使うなどということは、あまりにもアンバランスであり、非現実的なことです。

このように、「超高度のテクノロジー」を持ち出して、それを「集団ストーカー」という、現実の人の行為と結びつけたために、その論理は、実際には破綻してしまっています。

それでも、あえて、そのような発想が持ち出されるのは、「集団ストーカー」のところで述べたように、実際に、「思考を読み取られている」からこそ可能となるような、「ほのめかし」や、「絶妙なタイミング」というものに、かなりの人が、確かな感覚的「リアリティ」を感じているからです。彼らにとっては、「思考を読み取られる」という感覚的「リアリティ」を説明してくれる、(「病気」ということではなく、しかも「オカルト」的でもない)はっきりとした理由が、必要ということです。

さらに、前回も述べたように、実体の「みえない」「(超高度)のテクノロジー」による攻撃というだけでは、いかにも抽象的で、「リアリティ」が薄いということもあります。しかし、そこに、現実の人の行為を介した「集団ストーカー」というものが絡むことで、「ガスライティング」を受けているという「リアリティ」は、確かに強められます。つまり、戦略の観点からも、「テクノロジー犯罪」と「集団ストーカー」は、結びつけられる理由があるのです。()

しかし、実際には、「集団ストーカー」のところで述べたとおり、「思考を読み取る」とか、「思考を操作する」、「声を聞かせる」といったものは、「ガスライティング」を本性とする、「霊的」または「異次元的」な存在の「能力」として、最も典型的なものです。「超高度のテクノロジー」など持ち出さなくとも、また、「テクノロジー犯罪」と「集団ストーカー」に分けたうえで、あえて結びつけたりしなくとも、両者は、もともと一つのものとして、これらの「能力」によって可能ということです。

あるいは、これらの現象には、「集団ストーカー」のところで述べたように、何らかの(もはや、人間のものとは言い難いですが)「(超高度の)テクノロジー」が関与している可能性がないわけではありません。しかし、その場合でも、それらは、「能力」の範囲を広げ、あるいは精度を高めるようにして、「能力」と連動する形で使用されているものと思われます。だからこそ、能力が中心となる、「集団ストーカー」と結びつくことも可能なので、このような「能力」ということを抜きにして、「(超高度の)テクノロジー」だけで説明しようとすると、先にみたように「無理」や「破綻」が明らかになるのです。

さらには、その他の、「精神的不調」や、「音を聞かせる」、「身体的不調」といったものも、基本的には同じことです。

「精神的不調」はもちろん、「身体的不調」についても、このような存在に取り囲まれ、その発する「波動」の影響を受ければ、不快感、眠気、吐き気、頭痛、その他の身体の痛みというものは、いくらも生じ得るのです。スウェデンボルグも、「悪霊」について、「彼らは体のあちこちに痛みも起こす」ということを述べていました。

「(物理的な)音を聞かせる」、「身体に(傷などの)みえる現象を生じさせる」となると、「テクノロジー」のような、「物理的なエネルギー」を想定したくなるのは分かります。しかし、それらの存在は、「物質化現象」のような形で、物理的に顕現する現象も起こせるし、あるいは、記事『幻覚的現実と物質化現象の「中間的現象」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)で述べたように、はっきりとした物理的な現象かどうか区別しにくい、「中間的な現象」も起こせます。

「音を聞かせる」では、「ラップ現象」や「ポルターガイスト現象」といわれるものが典型ですし、「身体的な傷を生じさせる」では、素朴なものですが、「かまいたち」と呼ばれるものが、あります。

不可解な「身体の痛み」や「ラップ現象」は、私もよく体験するのですが、しかし、注意すべきは、このような現象は、それを想定する以前に、何らかの、「通常の物理的な原因で生じている現象」である可能性が、十分吟味されなければなりません。あくまでも、「通常の」物理的な原因であって、「超高度のテクノロジー」を持ち出すということではありません。

「精神的不調」や「身体的不調」については、現代の、種々様々なストレスによるものであることが考えられるし、「電磁波」としても、現代は、環境的に、これに非常にとり囲まれた状況です。敏感な体質の者は、「精神的不調」や「身体的不調」を訴えても、何ら不思議でない状況です。あるいは、このような環境状態が作り出されていること自体、一種の「テクノロジー犯罪」と言って言い過ぎであれば、少なくとも、「テクノロジー公害」とは言えるでしよう。それはそれで、問題とされて、然るべきことです。さらには、福島の原発事故による、放射能の影響も考えられます。

異様な「音」も、現代の環境状態から、生じてくる可能性はいくらもあるし、「ラップ現象」と思われる音も、その物体自体のきしみなど、通常の原因で生じている可能性があります。

「ラップ現象」については、この二つのサイト(https://spicomi.net/media/articles/499http://every-day-life.com/rapon/)は、霊的な面も含めて、基本的なことをよく説明しているし、まず、そのような現象が、通常の物理的な現象であること十分検討したうえで疑うべきことを、しっかりと述べていますので、参考にしてください。

さらに、このサイトでも述べられているように、自らの強い情動が、これらの現象をもたらす原因となっている可能性も、あるのです。「超常的な現象」としても、他の存在ではなく、自分自身が原因となっている可能性があるということです。「ポルターガイスト」現象などは、精神的に不安定な思春期の子供が、無自覚に起こしていると思われる場合が相当にあり、「テクノロジー犯罪」を受けているという人の場合も、それで不安と恐怖に駆られた人は、同様の精神状態にあると考えられます。

強い信念が、身体的反応を起こす例としては、薬における「プラシーボ効果」や、強い信仰によって起こる、「聖痕」現象などがあります。

既にみたように、「テクノロジー犯罪」としてあげられるものの中には、確かに、霊的、異次元的な存在によって、「仕掛け」られた、「ガスライティング」が含まれている可能性があります。

しかし、それらの現象の多くは、実際には、これらの「通常の物理的原因による現象」か、「超常的」な面があるとしても、自らが起こしている現象である可能性が高いものですにも拘わらず、一旦、「テクノロジー犯罪」という観念に捕らえられると、身の周りに起こる多くの出来事が、これら他の可能性をほとんど顧みることもなく、「テクノロジー犯罪」とされてしまうのです。そして、さらに不安と恐怖を拡大し、より多くのことを「テクノロジー犯罪」として拾うことで、自ら、抜け出し難い「地獄的な状況」に入り込んでしまうのです。

それは、「テクノロジー犯罪」という、魅惑的な要素をもたたえた、戦略的な観念のもたらす、強力な効果といえます。

次回は、結局は「集団ストーカー」の場合と同じなのですが、対処する方法についても、少し述べておきたいと思います。

※ 6月5日追加

「思考を読み取られる」ということの感覚的リアリティは、「テクノロジー犯罪」そのものとして直接感じられるのではなく、思考を読み取られていなければあり得ないはずの、現実の人による「ほのめかし」とか「絶妙のタイミング」での仕掛けという「演出」があって、初めて、感じられるものです。その意味でも、「テクノロジー犯罪」と「集団ストーカー」は、結びつく必然性があります。

注意すべきは、「テクノロジー」によって「思考を読み取られる」というのは、あくまで、その結果持ち出された「解釈」に過ぎないということです。「感覚的リアリティ」そのものは、人を介しての「集団ストーカー」的な振舞いという「演出」によって、生じているのです。その意味では、「集団ストーカー」の方が本質的なものなのです。

これは、「統合失調」の場合に、「思考を読み取られる」ということの「感覚的リアリティ」は、他者がかけてくる(と感じられる)「声」によって生まれることと、ほとんど同じです。また、「思考を読み取られる」ということの「解釈」として、典型的なものに、「CIAによる迫害」というのがありますが、この「CIA」を「集団ストーカー」に変えれば、「集団スートーカ」被害そのものとなることにも注目ください。(記事『「つつぬけ」「さとられ」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post-a694.html )、『「さとられ」と「CIA」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-bedd.html) 参照)

2018年5月18日 (金)

「テクノロジー犯罪」という観念の問い直し 1

「集団ストーカー」という観念に続いて、「テクノロジー犯罪」という観念についても、問い直しをしておきます。

ただ、「集団ストーカー」について述べたことは、「テクノロジー犯罪」についても、多く当てはまるものです。特に、その「戦略」としてのあり方は、「集団ストーカー」の場合と同じです。この重なる部分については、あまり詳しく述べないので、「集団ストーカー」について述べたことを、必ず参照するようにしてください。

何しろ、「テクノロジー犯罪」という観念も、戦略に貫かれた、曖昧なものでありながら、一定のリアリティを吹き込まれることで、威力を発揮します。一旦、その観念を信じると、身のまわりの多くの出来事を、「テクノロジー犯罪」によるものと疑うようになることも、同じです。

しかし、「テクノロジー犯罪」という観念には、「集団ストーカー」という観念に、含み込ませることが難しい出来事も、含み込ませることができます。それこそ、「テクノロジー」を前面に打ち出していることの意義です。「集団ストーカー」という観念と、「テクノロジー犯罪」という観念を合わせれば、事実上、身近に起こる身体的不調や精神的不調、さらに、「他人に何事かを仕掛けられている」という疑いのもととなる出来事の、ほとんどのものを、これに含ませてしまうことができます。

また、「テクノロジー犯罪」という観念は、「集団ストーカー」という観念と結びついて、「集団ストーカー」という観念の内容を、飛躍的に拡大し、それに一定の根拠を与える働きもします。特に、通常は、「オカルト的」で「あり得ない」というべき、「ガスライティング」の内容を、後にみるような(超高度の)「テクノロジー」によるとすることで、事実上、どこまでも膨らませ、それに一定の根拠があるというみかけを与えることができます。

さらに、「テクノロジー犯罪」という観念だけでは、いかにも抽象的で、リアリティが薄い場合でも、「集団ストーカー」という、現実の人を介した直接の行為を含み込めることで、それに強い「リアリティ」が与えれるということもあります。

このように、「集団ストーカー」という観念と「テクノロジー犯罪」という観念は、互いに補い合って、威力を発揮するところがあります。そして、そこには、やはり、現代という状況だからこそのものがあります。「集団ストーカー」では、「集団」から切り離された、孤独な個人の不安ということが、背景にありました。が、「テクノロジー犯罪」では、さらに、最近の技術の飛躍的な発展と、それについての不安や恐れということも、加わっているのです。

ともあれ、まずは、「集団ストーカー」のときと同じように、「テクノロジー犯罪」という言葉に着目してみます

「テクノロジー犯罪」とは、「テクノロジー」と「犯罪」が組合わさった言葉で、要するに、「テクノロジーによる犯罪」ということです。「テクノロジー」+「犯罪」も、「集団」+「ストーカー」の場合に負けず劣らず、曖昧な言葉が重ねられたものです。そして、それは、もちろん意図的なものです。

「テクノロジー」とは、限りなく広い範囲のもので、どのようなものでも含み得ます。「犯罪」という言葉も、曖昧ですが、これが使われていることには、その行為が、(人間の)「加害者」による「加害行為」であることを明示し、同時に、それを受けた者を、「被害者」として意識させる効果があります。

そもそも、「犯罪」というなら、「テクノロジーによらない犯罪」など、身体や、口を使って直接なされた暴力など、非常に限られたものでしょう。刃物やピストルなど、あるいは電話やネットなど、何らかの道具や機器を使った犯罪は、すべて「テクノロジーによる犯罪」と言い得るものです。

しかし、実際に、「テクノロジー犯罪」にいう「テクノロジー」とは、現代の技術の飛躍的発展を前提とした、「高度なテクノロジー」を意味しています。さらに、多くの場合は、現代においても、一般には認められていない(加害者によって隠蔽されているとされる)ような、「超高度なテクノロジー」をも意味しています。

もちろん、そのような「(超)高度なテクノロジー」が持ち出されるのには、理由があります。

「集団ストーカー」の場合に、そのような行為を受けていると考えるもとになる現象はあったように、「テクノロジー犯罪」の場合にも、そのようなもととなる現象はあります。

たとえば、何らかの、原因の分からない、身体的不調や精神的不調。あるいは、何らかの、不審な音や声を聞く。さらには、自分の脳内の思考が読み取られている、あるいは操作されていると思われるような事態、などです。そのような現象に、明確な原因があれば、当然それを疑うことでしょう。しかし、そのような原因がはっきりせず、不可解である場合に、それを説明する理由がないことは、落ち着きが悪く、混乱をもたらします。

そこで、そのような現象は、「高度なテクノロジー」によって、あるいは、それでは説明しにくい場合は、「超高度なテクノロジー」によって、「加害行為」として、引き起こされているのだという、明確な理由を与えるのが、「テクノロジー犯罪」なのです。そうして、不可解な現象を、とりあえず納得させるとともに、「犯罪」であり、「加害行為」ということで、「加害者」を糾弾するという、感情の持って行き場を与えてくれることにもなります。

「(超)高度のテクノロジー」とは、通常、マイクロ波のような「電磁波」を用いるものであることが、想定されています。単純に、「身体的不調をもたらす」ようなものは、「高度なテクノロジー」ということで、とりあえず捉えられるでしょう。しかし、「思考を読み取る」、「操作する」などのものは、そのようなもので、容易に捉えられるものではありません。それで、一般には、認められない、「(超)高度のテクノロジー」が持ち出されるわけです。現代の技術の延長上に、推測や憶測を積み重ねて、その内容がある程度具体的に、示されることはありますが、いずれにせよ、非常に曖昧で、捉え難いものです。

通常は、「テクノロジーによる犯罪」といっても、その行為の過程や加害者は「見える」ものです。「テクノロジー」であること、「犯罪」であること自体は、明確ということです。ところが、「テクノロジー犯罪」では、「(超)高度のテクノロジー」を使うとすることで、それらが「見えなく」(正確には、「テクノロジー」である限り、「見えない」ことはないので、「見えにくく」)され、従って、その行為の過程も、誰の犯行かも特定できないものになっています。

「テクノロジー犯罪」という言葉が使われていますが、実際には、「テクノロジー」といえるのかどうかも、「犯罪」といえるのかどうかも、不明確なものなのです

しかし、そのような、曖昧で不明確なものだからこそ、先にあげたような、不可解な現象の原因として、持ち出すこともできるのです。明確なものであれば、その矛盾や無理も、明確になってしまいます。(ただし、「犯罪」であることを強調することで、それが「加害行為」であり、糾弾されるべきものであることは、明確に訴えるのが「みそ」です。)

「テクノロジー(による)犯罪」という、現実に存在する、一般に受け入れられやすい言葉で、このような、かなり特殊で、曖昧な事態を意味させているわけですが、これは、「集団ストーカー」という言葉の場合と同様、一つの大きな戦略です。

つまり、「集団ストーカー」が、実際には、単なる「ストーカー行為」を意味していなかったように、「テクノロジー犯罪」というのも、実際には、単なる「テクノロジーによる犯罪」を意味しているわけではないのです

しかし、「テクノロジー」ということを前面に打ち出すことで、そこに、一定の「リアリティ」がもたらされているのは確かであり、それが、巧妙さの一つです。

既に述べたように、現代では、「テクノロジー」は飛躍的に発展しており、その限界がどこにあるか、明確には定められません。見方によっては、「テクノロジー」によって、どのようなことでも可能とみることも、必ずしも非現実的とは言えない状況です。そのような「テクノロジー」には、多くの人が、不安や恐れを抱いています。

「テクノロジー」がもたらす影響や、その操作によって、何らかの危害を被ったり、自分のコントロールできないところで、権利を侵害される可能性は、多くの人が現実に危惧しているはずです。

「テクノロジーによる犯罪」自体は、いくらもあり、現代では、それが巧妙化かつ複雑化されて、一般の理解や制御が及びにくいものになっています。そのようなことが、「テクノロジー犯罪」という言葉に、一定の「リアリティ」を与えています()。そして、実際に、この言葉を使うことは、それが狙いなのです。

何しろ、「テクノロジー犯罪」という観念では、先にみたような身近に起こる、不可解な、身体的不調や精神的不調。音や声を聞く。思考が読み取られる、操作されるというような、不可解で好ましくない現象は、「(超)高度のテクノロジー」によって、起こされたものとみます。「加害者」は、「集団ストーカー」の場合と同様、様々に想定されますし、理由は、「人体実験」などの、もっともらしいものが持ち出されます。

いずれにしても、そのような身近に起こる、様々な、不可解で好ましくない現象には、「テクノロジー犯罪」という「原因」があるのであり、それは人間による、「加害行為」なのだということです。「テクノロジー犯罪」という観念が、まず戦略として意図していることは、そのような見方を広めることです。多くの人が、そのような見方のもとに、「テクノロジー犯罪」を疑い、疑心暗鬼を生んで、人々の間に、混乱や軋轢をもたらすことができるからです。

先に身近に起こる現象として、あげたもののうち、「思考が読み取られる」「操作される」というのは、「統合失調状況」と重なることが明らかで、これは、かなり特殊な事態といえます。しかし、これは、「集団ストーカー」にもあったように、「統合失調状況」と共通する要素を、「テクノロジーによる犯罪」として、取り込んでいるのです。「統合失調」の「妄想」でも、何らかの高度な「テクノロジー」によるとして構想されることはありますが、内容は突飛で、個々ばらばらなものとなりがちです。しかし、「テクノロジー犯罪」ということでは、ネットなどで、それなりに類型化された形で、その共通の「原因」を与えることができるのです。

そして、「集団ストーカー」の場合と同じように、それは、「統合失調」なのではなく、「テクノロジー犯罪」によってこそ、陥らされるものだとすることができます。

しかし、そのような特殊のものだけでなく、もっと一般的な、身体的不調や、精神的不調も加えられているのが、「みそ」です。誰もが、身近に経験する、このような事態も、「テクノロジー犯罪」によるものとすることで、適用範囲を大きく拡大し、それが、誰にも当てはまり得るものとのイメージを、もたらすことができるからです。実際、「テクノロジー犯罪」は、「集団ストーカー」の場合以上に、適用範囲が広められているといえます。先にあげた例だけでなく、事実上、どのような現象であっても、「テクノロジー犯罪」によるとすることは、可能というべきです。しかし、それは、「曖昧さ」が、限りなく拡大されていることによるのです。

繰り返しますが、「テクノロジー犯罪」という観念自体が、不可解な現象に、理由を与え、加害行為として、納得させる働きをします。その意味では、「集団ストーカー」と同様に、この観念には、「魅惑的」なところがあるのです。ただし、それは、真の「納得」でないことは明らかで、また、何らの「解決」でもないことは明らかです。むしろそこから、疑心暗鬼が拡大し、さらに多くの出来事を「テクノロジー犯罪」として拾ってしまうことにより、問題を拡大し、本当には、何も解決しない状況を継続させます。それは、「集団ストーカー」の場合と同じように、「地獄的な状況」といえます。

「テクノロジー犯罪」という観念は、一見、「魅惑的」であるけれども、実際には、そのような「地獄的な状況」へと追い込ませることを意図した、「戦略」的なものだということです。

次回は、さらに、「テクノロジー犯罪」の実質が、「集団ストーカー」の場合の「ガスライティング」と同様のものであることに着目してみます。

)さらに言えば、実際に、「電磁波」を用いた「高度のテクノロジー」によって、何らかの危害を加えるという、加害行為自体は、あるものです。かつての、旧ソビエトのアメリカ大使館事件や、最近の、キューバのアメリカ大使館事件などは、その典型です。

また、一般には認められていない「超高度のテクノロジー」も、軍事的な機密などに絡み、隠蔽されることがあるのは事実です。しかも、私のように、「宇宙人」による技術が存在することを認めるなら、その範囲はさらに拡大します。

「超高度のテクノロジー」なるものは、存在しないということではないのです。「テクノロジー犯罪」が想定するようなものかどうか、どの程度の精度のものかは別にして、類似のものが存在する可能性はあり得るし、少なくとも、超大国の研究・開発の対象であるのは確かでしょう。

しかし、それらが、「テクノロジー」として「存在し得る」ということと、身近に起こった現象の原因として、それらを持ち出すということの間には、あまりに大きなギャップがあります。また、実際にも、具体的にみる限り、無理であることが明らかというべきです。次回にも、この点については、触れるつもりです。

2018年4月28日 (土)

「被害者」になるべきでないという教訓

前々回の記事で、ネガティブな宇宙人によるアブダクション(誘拐)は、本人の「魂の合意」なく行われていること。しかし、そこには、成長に役立つ教訓的な意味もあるので、被害者の魂も、少なくとも「黙許」しており、他の存在も、特に阻止せずに、「黙認」しているところがあることを述べました。

この点について、ジーナ・レイクの『アセンションへの道』は、さらに次のように踏み込んでいますので、引用しておきます。

ネガティブな者たちは「犠牲者」の役割を果たす傾向をもつ人を選んで誘拐します。これは、「被害者になるべきではない」という教訓をその人に教えるためにあえて許されている行動です。私たちがそう表現するのは、何も被害者を非難するためではありません。被害者となる傾向のある者がネガティブな者に誘拐されるという事象は、むしろ「霊的法則がどのように第三密度世界(この物質的な世界)で適応されるか」を示しているに過ぎません。ネガティブな者の被害者となる人は、ネガティビィティをひきつける傾向にあり、そのため被害者役を演じる人は永遠的に同じことを続ける結果を招きかねません。
 (ネガティブなETに対抗するのは無理だという)意見には一理ありますが、にもかかわらず、一番初めの段階で被害者とならないように心的態度を変化させることは可能なはずであり、それこそが学習なのです。方法としては、「被害者の役割を演じないぞ」という心構えをもつこと、そして主体性をもち自分の個性をしっかり認識した態度をとり続けることです。
 自分自身のアイデンティティについて強く確信している人々は、自分の欲している物が何かをしっかりと認識していることから、他者に操られることを断固として拒むことができるため、ネガティブなETはあえてそのような人をターゲットにすることはありません。

これは、「ネガティブな宇宙人によるアブダクション」について述べられたことですが、宇宙人に限らず、またアブダクションに限らず、あらゆるネガティブな存在による、人間への虐待的な出来事について当てはまる、重要な指摘というべきです。そして、これは、「被害者」という意識が前面に出てくる、「集団ストーカー被害」や「テクノロジー犯罪被害」にもまた、非常によく当てはまることなのです

さらに言えば、人間同士の「いじめ」や「虐待」のような出来事にも、かなりの程度当てはまることといえます。

「犠牲者の役割を果たす傾向」というのは、微妙なものではありますが、無意識に、自分自身を「犠牲者」となるべく仕向けてしまう傾向であり、同時に、相手方の攻撃性を引き出し、誘発してしまう傾向ということです。私も、このような「攻撃誘発性」について、「分裂気質」や「集団ストーカー被害」に絡めて、何度か述べています。このような傾向というのは、確かにあるというべきです。

人間の場合は、攻撃する側も、無意識のうちに、相手方のそのような性向に反応してしまい、攻撃性を引き出されてしまうことが多いでしょう。しかし、ネガティブな存在や宇宙人は、相手方の心理が読めるだけに、あえて、このような性向を持つ者をターゲットとして選ぶ、ということがなされるようです。そのような性向をもとに、そこから、彼らの糧としての「感情エネルギー」や、さらに人間の間に、多くの軋轢をもたらすことができるからです。

いずれにせよ、自らの性向そのものが、そのような存在を呼び込んでいることになる、ということです。

そして、本人がこのことに気づかない限り、確かに、「被害者役を演じる人は永遠的に同じことを続ける結果を招きかねない」ことになるでしょう。それは、本人が、「被害者」としての意識を強めるほどに、相手方を「加害者」として非難する意識も高まり、自らのあり方を顧みる余地が、ますますなくなるからです。それが、悪循環を形成して、そこから脱することが難しくなる、ということです。

もちろんですが、だからと言って、ジーナ・レイクも言うように、「被害者が非難されるべき」ということではないし、「加害者に罪がない」ということでもありません。

しかし、現実的に、このような悪循環から逃れる術があるとすれば、それは、自分自身が出来事の全体に与えている影響に気づき、それを変えていくしかないということです。特に、相手方が、人間ではなく、少なくとも、人間を超えた部分をもつ、対処し難い存在であることに鑑みれば、相手方をどうこうするということではなく、自らのあり方を変えることしか、手立てがないことになるはずです。たとえ相手方が、人間であっても、このような態度は重要ですが、そうでないなら、なおさらそうだということです。

実際、相手方を、「宇宙人」と認めた場合には、「ネガティブなETに対抗するのは無理だという」思いをもつこともあるでしょう。そして、まさに、相手方を「人間ではない」と認めてしまうと、対処する手立てがないという「無力感」を感じるからこそ、そのようなことが認められないという面は多分にあるのです。「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」を人間によるものとみなす見方には、このような思いが明らかに潜んでいます。

しかし、ジーナ・レイクも言うように、そもそも、「一番初めの段階で被害者とならないように心的態度を変化させることは可能なはず」ということです。それは、自らの性向が、自分を「被害者」となるよう仕向け、ネガティブな存在の攻撃を引き寄せていたことに気づくことによってこそ、可能になります。そして、むしろ、相手方が、人間ではないことを認めるならば、それしか現実的に手立てはないのであり、実際、そうするしかなくなるのです

そのための方法としてあげられていることは、非常に重要ですので、もう一度引用しておきます。

方法としては、「被害者の役割を演じないぞ」という心構えをもつこと、そして主体性をもち自分の個性をしっかり認識した態度をとり続けることです。
 自分自身のアイデンティティについて強く確信している人々は、自分の欲している物が何かをしっかりと認識していることから、他者に操られることを断固として拒むことができるため、ネガティブなETはあえてそのような人をターゲットにすることはありません。

結局は、「宇宙人」といえども、真に発揮された、人間の「意識」や「主体性」というものを、阻害することはできないということです。人間に限らず、あらゆる存在の、「意識」や「主体性」には、本来、そのような力が秘められているといえます。しかし、人間自身が、「意識」や「主体性」の、そのような力に気づかないうちは、そのような力を発揮することも難しいでしょう。

さらに、人間自身が、深いところで、「被害」ということを「許して」しまった場合は別です。というよりも、その「許した」ということ自体が、深いところでは、意識の「主体性」の現れとして、それを実現してしまう力を発揮してしまうことになるのです。どちらに働くにしても、「意識」や「主体性」の力は強力ということです。

逆に言えば、だからこそ、ネガティブな存在は、人間に、「意識」や「主体性」を発揮させる機会を奪い、できる限り削ぐような、「マインドコントロール」や、「クローン化」のような弱体化計画を、執拗に仕掛けてくるのです。また、もし「意識」や「主体性」の力が発揮されるなら、それをできる限り、ネガティブな方向で実現させるべく、さまざまな戦略が仕掛けられるのです。

しかし、要は、(初めからそれに気づくことは難しく)、このような試練と教訓を通してこそ、「意識」や「主体性」の力に気づかれる余地も生まれる、ということです。そして、それに気づくと、どうして、このような攻撃が、他の存在により、阻止されていないのか(私も一連の体験で、何度もこのことを疑問に思ったことがあります)ということも、自ずと明らかになります。

それは、言うまでもなく、一つには、他の存在により阻止されるとすれば、その者自身の「意識」や「主体性」の力に気づかせる余地を、奪ってしまうことになるからです。しかし、そうでなくとも、先にみたように、そもそも、自らの「意識」が「許して」しまっている場合、ことが、その「意識」の力自体の現れとなるので、他の者は容易に干渉できなくなるのです。「他の存在が阻止できない」ということ自体が、「意識」や「主体性」ということの、本質的な意味である、ということにもなります。

とは言え、このような過程は、一筋縄ではいかないので、一気に、このような問題が解決し、相手方の攻撃をなくすことができるというものではありません。私自身そうです。だから、私は、「意識のあり様により、このような攻撃やその効果を、大きく減退させることができる」という、控え目な言い方で、言ってきました。

実際、とりあえずの指標としては、このような状態、つまり、たとえ攻撃があっても、それにあまり囚われない状態、大した苦とならない状態を目指すのが、現実的であると思います。

2018年4月15日 (日)

「ハイブリッド」と「集団ストーカー」

『『集団ストーカー」という観念の問い直し』の記事で、「集団ストーカー」戦略にいう「ガスライティング」は、人間ではない存在が、その都度、周りの人間を操作したり、偶然では考えられない「共時性」を演出することなどで、なされていることを明らかにしました。

しかし、前々回の記事で、今後の展望としては、「集団ストーカー」戦略のリアリティを強化するため、単に人間を操作するだけでなく、もっと、これらの存在の意思を直接に実行できる、「ガスライティングの実行部隊」となるような存在を、人間の世界に輩出しようとしていることを述べました。

このような、「ガスライティングの実行部隊」として、前回みた、ネガティブな宇宙人と地球人の「ハイブリッド」(ヒューブリッド)ほど、最適のものはありません

前回みたように、このような「ハイブリッド」は、外見上は、人間と異なるものではありません。ところが、性質として、人間と同じように振る舞うことはできず、とても人間世界に適応できる見込みはないものです。彼らを、人間の世界に住まわせる以上、何らかの「仕事」を与えることは必要とした場合、「集団ストーカー」戦略にいう「ガスライティング」ほど、彼らに適した行いはないのです。

彼らは、「集団ストーカー」戦略を指揮する宇宙人や「捕食者」とのつながりが強く、「テレパシー」能力を通じて、思考や意図を、通じ合うことができます。それこそ、別に「忖度」しなくとも、「――案件」などとされていなくとも、指揮する側の意図をリアルタイムにくみ取って、実行に移すことができるのです。

さらに、彼らは、「テレパシー」能力を通して、人間の心理を読むことができ、また、思考や感情を操作する能力も、宇宙人から受け継いでいます。スウェデンボルグが記述した「悪霊」と同じように、人間の心理を巧みについて、「適切」な「ガスライティング」を行う能力にも、長けているということです。

しかし、一番の利点になると思われるのは、彼らの、「神出鬼没」というべき、「移動能力」です。前回紹介した『ヒトが霊長類でなくなる日』をみると、宇宙人と同様に、ハイブリッドも、突然、アブダクティの家の中に現れることがあるようです。カギはかかっていても、ドアや壁を通り抜けて、現われることができるということです。つまり、一種の「テレポート」能力を備えているか、または、何らかの技術により、どこかから「ワープ」的に「転送」されることがある、ということです。恐らく、私は、宇宙人そのものは、このような能力を備えているが、ハイブリッドは、能力そのものというよりも、UFO内にあると推定される技術によって、転送されているのだと思います。

ハイブリッドが、人間の心理を読んで、それに沿った、的確なタイミングで、「ガスライティング」をしようとするなら、この「神出鬼没」で「無時間的」な「移動能力」も、重要な要素になります。

「集団ストーカー」戦略を仕掛ける側としては、人間の仕業と思わせる点で、外見上人間と異ならず、しかし、人間を超えた能力によって、的確で有効な「ガスライティング」をなすことで、より混乱と恐れを膨らませることのできるハイブリッドは、まさにうってつけなのです

こういうと、この「ハイブリッド」は、「宇宙人」同様、人間をいかようにも操作できる、人間の適わない存在のように思えるかもしれませんが、前々回『補足』でみたように、決してそんなことはありません。

「ガスライティング」といっても、これまで、人間を操作して行っていたものと変わるわけではなく、ただ、間接的に、こちらの心理を錯誤に陥れ、混乱させるような、「姑息」な嫌がらせをしてくるだけです。まさに、「アンカリング」とか「つきまとい」とか、絶妙なタイミングの「コリジョンキャンペーン」といった類いです。

これらは、本来は、「こけおどし」のようなもので、こちらが影響を受けて、恐れをなさない限り、ほとんど効果を発揮できないものです。ただし、彼らが行う場合、そこには、人間を操作する場合以上の、「嫌がらせの意図」が、はっきり現れ出ます。また、先に述べた、彼らの能力や技術が強く反映され、人間では、とても考えられない、「オカルト」的で「あり得ない」要素は、より正面に現れて来ます

これらに、囚われれば、混乱と恐怖は深まり、尋常でないことが起こっているという思いは、強まることになります。実際、これらの存在について、知ることがない場合、そうなる可能性は高いといえます。そして、「集団ストーカー」にいう「ガスライティングを受けている」という「感覚的リアリティ」も、強力に高められます。だから、「集団ストーカー」という観念を信じさせ、人間同士の間に、軋轢を増す、「集団ストーカー戦略」として、より有望なものとなるのです。

実は、私も、割と最近ですが、このような「ハイブリッド」かもしれない存在と、数回、出会っています。中でも、最近の2度のものは、かなりその可能性が疑われるものです。それらは、外見は、本当に人間と異ならず、実際、出会っているときは、人間だと一応思っているのですが、突然の現われ方、変な歩き方、醸し出す雰囲気など、いろいろな面で、「異質」な「インパクト」があり、後で思い返すと、やはり、ただの人間とは、思えないものです。

私は、一連の体験で、「物質化」現象というものを何度か経験し、その後も、「アール」という固有名で呼んだ、「アーリマン存在」または「捕食者」が、「人間」を装って、直接「物質化」して現われることも経験しています(これは、長い間身近に接していた存在なので、疑いなく分かります)。だから、何か、「尋常でない」振舞いをする「人間」について、これらの存在が「物質化」して現われたものである可能性を、認めることには抵抗はありません(むしろ、そう思い過ぎないように、抑制することの方が多いです)。

しかし、それにしても、先の者らの場合、このような存在の、あまりにも強力なインパクトとは比べ物になりません。それと通じる要素は、あるにはありますが、どこか「虚弱」で、人間に近いもの、あるいは、主体性をもった存在というよりは、どこか、ロボットのように、操作されている感じのする存在です。それは、ただの人間とは思えないにしても、「捕食者」のような存在そのものとも思えないものだったのです

だから、後に述べるように、それは、単に、奇妙な振舞いをする、「操作されている人間」である可能性、あるいは、ほとんど「クローン化された人間」という可能性もあります。

ただ、やはり、ただの「人間」としては、異質との思いが強かったところ、後に、『ヒトが霊長類でなくなる日』を読むことになって、それと照らし合わせてみると、よく符合するので、「ハイブリッド」である可能性が疑われたのです。

そして、それらは、まさに「集団ストーカー」戦略にいう、「ガスライティング」そのものといえるような、行いをして来ました。いずれも、こちらの、ちょっとした「ネガティブな思い」に、乗っかるようにして、まさに「絶妙なタイミング」で現れ出ています。

一度は、私が、家の前の道路の脇の木の延びた枝を、かなり大量に切って、それを後でまとめて取りに来ようと、一旦、(「ちょっとまずいかな」という「思い」をもちつつ)道の脇に置いたままにした後、後でそれを取りに来たとき、そのタイミングで、いきなり、隣の家近くの曲がり角から道に現れ、前かがみで手をもむような変な歩き方で、見かけない女の人が早足で近づいてきて、私の切った木の枝のまとまりを、「これ見よがしに」見て、次に切った木の方を、これまた、「これ見よがしに」見て、そのまま、別に何言うでもなく、次の曲がり角を曲がって、去っていったのです。

「これ見よがし」と言いましたが、本当に、志村けんか加藤茶かと思うほど、大げさな演技で、「なんだこれは」と言うかのように、思い切り、「あてつけっぽく」見たのです。私は、一瞬、咎められている気がして、「ムッ」としそうになりましたが、あまりに「関りたくない雰囲気」を醸し出していたので、それ以上気に留めることはなく、放っておきました。

もう一度は、ちょっと事情あって(このときも「ちょっとまいずかな」という「思い」はありつつ)、夜中にゴミを出しに行ったときのことですが、ゴミ置き場に行く途中の道路に、まるで「待ち構えていた」かのように黒の車が停めてあって、私がゴミ置き場の方に歩いていくと、急に外に出ていたらしい、見かけない男が車に戻って、車を動き出して、しかもゆっくりと私をつけるかのように、ゴミ置き場のすぐ近くまでついて来て、そこで停まるのです。私は、実際はかなり気にはなっていたのですが、気にしない素振りで、ゴミを捨てていると、車から、男が出てきて、近づいて来て、ゴミ置き場のすぐ横で立ち止まって、そこでじっとして、不審な挙動をしているのです。手には、スマホをもっていましたが、別にそれに夢中になっている様子もなく、私がゴミを捨て終わると、また戻って来て、車に戻り、また同じように、極度にゆっくりした運転で、私とは別の方向に行って、去って行きました。

私も、夜中にゴミを捨てることを咎められるのかなという思いと、同時に、単純に、つけ狙われているような恐れもいくらかは感じたのですが、これは、女性や子供であったら、相当の恐怖を感じたことと思います。夜中で、相手の様子があまり見えなかったこともあり、見かけ上、どこまで「異質」かは分かりにくいですが、全体として、行動が明らかに「異常」であり、「偶然」の出来事とは思い難いものです。

私も、ちょっと後ろめたい思いがあったこともあり(まさに、そこにつけ込まれているのですが)、また、「関りたくない」思いもあったので、特に、何か言ったりすることはしませんでした。(今度、似たことがあったら、話しかけて、何か聞き出してみようかとは思っていますが、そう思って以来、はっきりとは現われ出ていません。)

いずれにしても、いずれも、意図的な「嫌がらせ」だったとしても、非常に「微妙」なものであるのが分かると思います。はっきりとした、明ら様な嫌がらせというには、あまりにも間接的で、「姑息」といえるものです。実際、こちらに対して、直接、攻撃的な行動をとる様子はうかがわれないし、何か、こちらに、話しかけたりする素振りもありません。むしろ、自ら近づいていながら、こちらを怖がっているかのようにすら見え、人間としては、どこか「虚弱」な雰囲気が漂います。

だから、私自身は、後で、ただの人間でない可能性は考えましたが(ある意味、こういったことには「免疫」があることもあって)、特に「恐れる」ことはありませんし、特に気にもしません。しかし、こういうことが、もし、毎日のように続くとしたら、まったく囚われないというわけにはいかないでしょう。

また、先に述べたように、私は、これらが「ハイブリッド」だと確信しているわけではなく、人間を操作しているに過ぎない、あるいは、見かけ上も「異質」な面が多くあるので、ほとんど「クローン化された人間」である可能性もあると思っています。ただし、それらの背後に、「捕食者」の指揮は、嫌というほど感じるので、これらの全体が、単に、「偶然」というか、「集団ストーカー」戦略とは何の関係もない、という可能性は、ほぼないと思っています。

また、もし、これらが「ハイブリッド」だとしても、実際に、既に人間の世界に入り込んでいる存在だとは、解し難いです。その場合は、もっと、このような出来事が、頻発して起こることでしょう。

彼らの「移動能力」または「技術」からすれば、ときおりならば、UFOなり、どこかに集められている「ハイブリッド」を、このような目的のために、一時的に「転送」させて、「ガスライティング」を行うことは可能でしょう。そして、とりあえず、多くの人に向けては、このように、彼らによる、ときおりのインパクトある「ガスライティング」が仕掛けられれば、「集団ストーカー」は厳としてあるという思いを生じさせて、以後周りの人間の行いも、「ガスライティング」の疑いのもとに見させるようにし、自ら深みにハマらせていくことは、十分可能なのです

もちろん、「ハイブリッド」を大量に人間世界に輩出できれば、それに越したことはないと思っているでしょうが。

いずれにしても、このとき、私が思ったのは、これこそが、「集団ストーカー」被害者の一部(全部ではなく、本当にこれに類する何らかの「仕掛け」を受けている、「一部」の被害者です)のいう、「ガスライティング」そのものだなあ、ということです。確かに、人間の操作として行われるものよりは、強力で、「集団ストーカーはある」と堅く信じてしまうのも、致し方ないものがあります。それを、ある意味、「捕食者」の側で、「こういうものもあるのだ」と教えてくれたようなものです。

また、もう一つは、本当に、彼らは、こちらの、「ネガティブな思い」につけ込んでくるなあ、というこです。これは、「集団ストーカー」戦略に限らず、彼らの戦略のあらゆる点において、そうです。それも、ほんの、ちょっとした(本来もつ必要もない、どうでもいいような)、「ネガティブな思い」につけ込んで、それを限りなく、大きく膨らませようとして来ます。この点では、こちらも、反省というか、教訓として受け止めなくてはなりません。変に、後ろめたいような、「ネガティブな思い」はもつ必要がないし、また、もしもつようならば、そんな行いはしないに越したことはないということです。

前回、ネガティブな宇宙人のアブダクションについて、被誘拐者にも、教訓となる要素があるから、あえて阻止されていないということを述べました。これは、「集団ストーカー」戦略の「ガスライティング」にも言えることのはずなのですが、それについては、次回述べることにします。

2018年3月17日 (土)

「集団ストーカー」という観念の問い直し 補足と展望

前回までの一連の記事は、「集団ストーカー」という観念が、いかに戦略に満ちたもので、その観念を信じさせ、広めることで、人と人の間に、多くの軋轢と葛藤をもたらすことができるかを明らかにしたものです。もちろん、本人においては、その観念を信じさせることで、恐怖や混乱を拡大し、その観念自体から、抜け出し難い、「地獄的現実」を与えることができます。

そして、その戦略と行いは、人間を超えたところから来るもので、「捕食者」等の、人間心理をよく読み通すことのできる存在が、なし得るものであることを明らかにしました。ところが、この「人間を超えたもの」であることを強調したため、このような存在が、物質的なものを超えた、万能の存在で、人間を意のままに操り、何でもできるかのような印象を与えたかもしれません。

しかし、これらの存在は、物質的な領域を超えたところから働きかけることはできますが、完全に物質的なものを超越しているわけではなく、自在に物質的なもの(存在)を操れるというわけではありません。それは、彼らにとっても力のいることで、物質的な領域を離れた存在として、大きな制約もあります。人間も、物質的な存在である(肉体をもつ)ことによって、それらの存在から、「護られている」ところがあるのです。(直接、彼らの「声」が聞ける場合は別ですが)物質的なものを通して、人間に、彼らの意図するような、的確な影響を与えるというのは、やはり大変なことなのです(その意味では、「簡単にできる」と言ったのは、あくまで人間の場合との比較でしたが、誤解の元でした)。

逆に言えば、だからこそ、彼らの行いを最小限にして、この観念を信じ込ませること自体から、その効果を最大限引き出す必要があるということもなるのです。つまり、彼らにとっては、「戦略」こそが、「すべて」と言っていいほどに、重要なものになるということです

しかし、これも、逆に言えば、人間の側が、このような「戦略」に乗らなければ、彼らのできることには、大きな制約があるということです。

また、「集団ストーカー」(ガスライティング)を、人間によるものではないとしたことで、「悪」とは、人間が行うものではなく、彼らのような「悪魔的存在」が行うものとの誤解を与えたかもしれません。しかし、人間には人間の「悪」があるのは当然であり、物質的存在としての人間が得意とする「悪」の領域は、多くあります。たとえば、「戦争」その他の、物理的な「暴力」であり、あるいは、私利私欲の「経済活動」などです。

そういった行為にも、背後で、「捕食者」のような存在が働くことは多いですが、その場合にも、現実に「人間自身」がその行為を行うことで、実現されます。前回、「ユダヤプロトコール」をとり上げ、「捕食者」による、「ガスライティング」と同質の戦略だと言いました。が、この「ユダヤプロトコール」は、物理的世界の現実的な支配の方法について述べたものであり、支配層の人間によって、実際に実現されてこそ、機能するものです。

それに対して、「ガスライティング」の特徴は、徹底して、人間の「心理」「精神」に向けられた戦略であり、人間の精神を混乱させ、崩壊に導くことを狙ったものです。それは、人間心理を、つぶさに観察し、リアルタイムに、見通すことでこそ、可能となるものです。また、そうであってこそ、(すべてを見通されているような)恐怖をもたらすものです。このような領域こそ、彼らの得意とする領域であり、その本性をいかんなく発揮できる領域なのです。人間では、とても不可能な領域です。

ただし、これも逆から言えば、これらの存在は、「こういうことができる」というよりも、「こういうことしかできない」とも言えるのです。これらの方法は、人間心理を捕らえることができれば、それこそ際限なく、深みにはまって、強力な効果を発揮しますが、本人が囚われることがなければ、逆に、ほとんど、影響を与えることができないものでもあるのです

第3回のところで、スウェデンボルグの悪霊に関する記述を引用しましたが、スウェデンボルグも、これらの存在への対応策として、次のように述べています。

私の体験からはっきり言えるのは、悪霊は無理に追い払おうとしてもダメで、そうすればするだけ、彼らの術中にはまるということである。逆に相手にならずにいると、彼らは自分から退散していく。

何しろ、「集団ストーカー」戦略()は、彼らにとって、本性そのままを発揮できる、得意領域であり、それを通して、人間を貶め、軋轢や葛藤を拡大できる、有望なものです。何度か述べたように、彼らの存在が一般に認められなくなり、人間同士の結びつきが失われた現代こそ、この戦略はよく機能するのです。可能性としては、「魔女狩り」のときと同じように、多くの人間が、お互いがお互いを、「加害者」として糾弾し合って、混沌とする状況にまでいたることも見込めます。

それで、「捕食者」としては、「集団ストーカー」戦略を、今後もさらに継続し、拡大したいと思っているようです

ただし、そうするには、先にみたような、いくつかの弱点は、補われなければなりません。一旦、この観念を信じさせることに成功すれば、そのこと自体から、それを補強するような「現実」は、いくらでも生み出すことはできます。が、この観念をもっと広く信じさせるためには、さらに強いリアリティを吹き込む必要があります。適当に、その場その場の人間を操作することや、多くの人間を巻き込んで、「共時姓の演出」をすることは、力のいることで、手間もかかるし、必ずしも、彼らの狙ったとおりの効果をもたらせるとは限りません。

一つの方法として、記事『「MIB」のその後と「集団ストーカー」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4224.html)で述べたように、彼ら自身が、「物質化」して、直接人間に働きかけるという手もあります。しかし、それはそれで、大変なことであり、リスクも大きくあります。また、それでは、大きなインパクトは残せますが、大量の人材を関わらせて、細やかな行いを繰り返し行うことはできません。

そこで、方法としては、人間を操作するだけでなく、彼らの意図を的確に表現できる、自由に利用できる存在を、人間の世界に多く輩出するということが考えられます

前に何度か引用した、『悟ってアセンション』に述べられたような、「人間のクローン化」計画は、主体的意識が大きく削がれた人間を輩出することで、ロボットのような、「操作し易い」人間を多く生み出します。それは、この「集団ストーカー」戦略を実行するのにも、利用できる都合のいいものです。現に、これは多く実行されていることと思われます。ただ、これらの存在も、一応人間である分、操作に限界があります。

ところが、彼らは、さらにもっと、彼らの意図を的確に実行できるような存在を、多く輩出したいと考えているようなのです。

それは、人間をクローン化するというだけでなく、彼ら、特に「宇宙人」の側から、人間に似せた存在を、作り出して、人間の世界に輩出するということです。『悟ってアセンション』でも、「宇宙人のクローン化」という計画があることには触れられていました。が、さらに、最近の「アブダクション」事例などをみると、宇宙人と人間との「ハイブリッド化」ということも進められているようなのです。

これは、現在のところ、あくまでも「可能性」であり、これらの存在が、本当に人間の世界に入り込むことかできるかには、かなりの疑問もあります。しかし、今後の展望として、可能性としては、このような存在を、「集団ストーカー要員」として使うことで、よりリアリティを高め、恐怖と混乱を拡大するということも、考えておかなければならないことでしょう。

ただ、これは、彼らのようなネガティブな存在だけでなく、全体としての、「宇宙人と地球人との融合計画」ということに絡むことであり、微妙な問題が多くあります。述べることがためらわれる部分もありますが、しかし、既に、記事『「MIB」のその後』でも、このような方向性については示唆したことなので、次回にひととおり述べておくことにします。

ただし、改めて注意しておくと、まずは、これまで述べてきたように、「集団ストーカー」という観念とその戦略について、基本的なことを理解してもらうことが重要であり、先決です。何よりも、前回までの記事を、しっかり押さえておいてもらいたいと思います。

そのうえで、今後の展望の問題として、あえてそのような問題にも踏み込みたい方は、次回の記事も読んでもらえばいいと思います。

※ 「集団ストーカー」という言葉を使って、ことの全体を言い表そうとするならば、このように「集団ストーカー戦略」と呼ぶのがいいでしょう。その全体が徹頭徹尾「戦略」であり、「集団ストーカー」という言葉が使われること自体、「戦略」に含まれる、という意味をこめてです。

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