記事『近代が本当に排除したかった文化「シャーマニズム」』で、「シャーマニズム」について次のように言っていた。
「シャーマニズム」は、万物に物質的なものしかみない現代の物質主義的な観点からは、過去の「幸せ」(お花畑的)な「幻想」のようにもみなされやすい。
しかし、実際には、既にみたように、「シャーマニズム」には、「おどろおどろしく」、「恐ろしく」、力に満ちた「現実的な要素」が多分にあって、それこそが「排除」をもたらすことになったのである。
シャーマニズムのこのような「おどろおどろしい」面について、それはなぜそうなるのか、次回に改めて捉えなおしてみたい。
そこで、今回は、シャーマニズムが、なぜ、ときに我々に嫌悪をもよおすほどに、「おどろおどろしい」ものになるのか、端的に理由を述べてみたい。
シャーマニズムについての古典的な研究者エリアーデは、シャーマンが精霊等の超自然的存在とつながる方法として、「エクスタシー」(脱魂)が本質的なものであり、「憑依」は副次的なものとしていた。
エリアーデは、自ら「エクスタシー」(脱魂)状態となって、「主体的」に精霊等と交わり、交渉するシャーマンこそ、「シャーマン」と呼ぶにふさわしい存在であり、「憑依」によって受動的に精霊等とつながるものは、本来、「シャーマン」と呼ぶにふさわしくないと考えていたようである。
「シャーマン」に肯定的なものをみるからこその、ある種の「拘り」だが、これだと本来的に「シャーマニズム」と呼べるものは、北アジア、北中米など、限られた地域のものに限られてしまうことになる。日本でも、シャーマニズムは、「憑依型」のものが圧倒的に多く、「脱魂型」は少ないから、「シャーマニズム」と呼ぶにはふさわしくないものになってしまう。
現在では、「憑依型」にも様々なバリエーションがあり、必ずしも、「脱魂型」が「主体的」で「憑依型」が「受動的」とは言えず、また両者は混在する面があり、必ずしも厳密に区別できないから、「シャーマニズム」を広く捉えて、その中のバリエーションとして「脱魂型」や「憑依型」をみるというのが、主流になっている。日本の著名な研究者佐々木宏幹も、『シャーマニズム』(中公新書)という本の中で、そう述べている。また、その方が、世界のシャーマニズムの実際のあり方に沿っている。
そして、そうみるならば、「シャーマニズム」とは、先住民文化を筆頭にして、世界のあらゆる文化に遍く広がっているのであり、いかに「普遍的なもの」であるかを、改めて痛感することになる。
近代社会は、シャーマニズムを排除することによってできあがった社会だから、身の周りにそれを実感することは少ないかもしれない。しかし、そもそもそのような「排除」は、シャーマニズムが、特に民衆のレベルで広く受け入れられていたからこそ行われたのであり、しかも、「魔女狩り」のようにかなり強力な排除のなされた後も、今日において、部分的には、強く生き残っているものということができる。
エリアーデは、確かに「エクスタシー」(脱魂)技術によって、変性意識状態に入り、精霊等と交わる脱魂型をシャ―マンにふさわしいものとした。しかし、一方で、「かの始めのとき」の本来の人間たちは、シャーマンのように「エクスタシー技術」で変性意識に入るまでもなく、当たり前に、神々や精霊と交流することができていたのだとする。そして、シャーマンとは、「エクスタシー」(脱魂)技術によって、そのような始原のあり様を回復し、再現するものだとされている。
その部分を、著書『シャーマニズム(下)』(ちくま学芸文庫)から引用してみよう。
「エクスタシーにおいて、二つの世界を結ぶ橋、死者のみが試み得るこの危険に満ちた橋を渡ることによって、シャーマンは彼が精霊であり、もはや人間でないことを証拠立て、そして同時に<かの始めのとき>にこの世界と天上界との間に存在した「交通の可能性」を回復しようと試みるのである。
シャーマンが今日、<エクスタシーにおいて>なし得ることは、この世のときのはじめには<現実に>全人間がなしえたことだったからである。彼らはトランスに頼ることなく天上界にのぼり、またおりて来た。そしてある限られた数の人々―シャーマン-にとって、エクスタシーは全人類の原初の状態を一時的に再現する。この点で「未開人」の神秘体験は始原への回帰であり、失楽園の神秘時代への逆戻りである。」
つまり、エリアーデにとっても、エクスタシー技術は、誰もが天上界と交流した原初の時代の再現のための、いわば「道具」に過ぎなかったのである。だから、エクスタシー技術を、シャーマンにふさわしいものとして固執するする理由は、本来それほどないことになる。
また、このことは、我々が「幻想的な楽園」を生きているとみなしがちな、先住民文化にとっても、誰もが神々や精霊や祖先と交流できた天上的な世界とのつながりは、いったんは失われたのであり、それを回復し、再現するためにこそ、「シャーマン」なる特殊技術者を、必要としたことを物語っている。もはや、誰もが自由には天上界と交流できなくなったので、シャーマンという特殊な技術を身につけた者を必要とするようになったのである。
このような、誰もが天上界と交流できた、「かの始めのとき」については、多くの文化が、神話その他の伝承の形で伝えている。
たとえば、アボリジニーは、このような世界を「ドリームタイム」と呼んで重視している。それは、「神話の時間」であり、原初の天地創造から、神々や精霊、祖先との自由な交流、あらゆるものとつながった一体の世界といったものを含んでいる。シャーマンに限らず、儀礼は、この「ドリームタイム」を現在このときに再現するものである。
日本でも、イザナミが黄泉の国に逃げたのを追って、イザナギがタブーを破りイザナギを見たことによって、「岩戸閉め」がなされる前は、人々は、「黄泉の国」と自由に交流していたのである。風土記では、『草木言問ひし時』、つまり、草木が自由に言葉をしゃべった時代という言い方で、あらゆるものと人間がつながった太古の時代を言い表している。
時代でいえば、縄文時代の前期が、これに当たるだろう。
何しろ、先住民文化に代表されるシャーマニズムにおいても、このような「幸せな」時代は「失われた」のであり、ただ、シャーマンという特殊の技術を身につけた者が、これを再現することができるとみなされたのである。
それは、もちろん、近代社会のように、完全に失われたのではなく、あくまで「日常性」において失われたのであり、シャーマンの指導する儀礼のような、「非日常的な時間」においては、回復され、再現される。
しかし、それを回復するには、ある種の「溝」があるのも事実であり、その「溝」を超えるには、さまざまな試練を超え、それまでの状態において「死」し、新たな「生」を獲得しなければならない。
これが、「死と再生」の過程ともいわれる「イニシエーション」の必然性なのである。
シャーマンのイニシエーションは、過酷なもので、様々な混乱や苦悩が伴い、自己が解体にまで追いやられる。たとえば、骨にまで解体されたり、精霊に身体を飲み込まれたりする。そこには、近代人が目をそむけたくなるような、「死」を連想させる要素が多く塗りこめられているのである。そして、実際に死ぬことになる場合も、少なくないのである。
そのような過程を超えて、新たに「生まれ変わった」者が、シャーマンとして認められるのである。
このようなことは、シャーマンだけでなく、一般の成人儀礼などにもつきまとう。たとえば、割礼の儀礼のような血を見る儀礼や、身体を酷く傷つける儀礼、死の危険のある儀礼は多くある。動物の供犠を伴い、あるいは人間自身が生贄に捧げられることもある。
しかし、これらの儀礼に、「おどろおどろしさ」が伴うのは、単に、「溝」を超えるための試練という意味合いだけではなく、実際に、具体的に、「おどろおどろしい存在」が関わるからでもある。
シャーマンのイニシエーションには、怪物的な精霊や魔物、あるいは「悪魔」そのもののような存在が関わることも多い。それらの存在は、新たな「再生」に向けられたものではあるが、シャーマン候補者の肉体や心を激しく揺さぶり、結局「飲み込ん」だり、骨にまでバラバラに解体してしまう。それは、そのような「破壊」の力を発揮できるのは、強力な魔的存在をおいてほかにないからである。
私も、「捕食者」と呼んできたそれらの存在の激しい働きかけなくして、深い眠りから揺さぶり起こされることはなかったと思う(このことには、また近いうちに再び触れてみたい)。「死と再生」の「死」の部分には、具体的に、これらの存在が、大きく関わるのである。
エリアーデはまた、魔的な存在こそが、シャーマンに知恵と力を授ける面にも触れている。先住民族においては、「魔的な存在」は一方的に「悪」を意味するのではなく、さまざまな建設的な働きもしたのである。日本では、「なまはげ」がこのような両義的な面をよく表している。
また、そもそも人間が、「かの始めのとき」にあった能力を喪失したのは、それら「捕食者的存在」の影響の結果という面が大きくある。そこには、人間の側の質の低下もあるが、カスタネダのドンファンや、南アフリカズールー族のシャーマンも明らかにするように、「捕食者的存在」の人間に対する「進化」的な操作が強く働いている。人間は、「捕食者的な存在」そのものの性質を植え込まれ、ある意味で、捕食者的な存在を、創造の「父」とするようになったのである。
神話学者J・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』(ハヤカワ文庫)でも、英雄神話における「父」の、育み、破壊する両義的な面がとりあげられるが、そこにはまさに「捕食者」的な存在が反映されている。
そのような「捕食者的存在」により、「かの始めのとき」は失われたのであるから、それを回復し、取り戻すには、「捕食者的存在」と関わり、その性質を知り、いくらかとも超えて行くということがなければ、そのようなことがなさしめられるはずもない。だから、「捕食者的存在」は、シャーマンのイニシエーションにおいても、一般の儀礼においても、重要な役割を果たすのである。
そして、その「捕食者的存在」とは、人間の感覚からすれば、実際、何とも「おどろおどろしい」のである。だから、その「おどろおどろしさ」は、シャーマンのイニシエーションや成人儀礼などに、必然的に反映されざるを得ないことにもなる。
先住民族や、近代以前の文化では、そのような「おどろおどろしさ」も否定することなく、そのような存在と何とか折り合いをつけたり、「かの始めのとき」に戻るための試練として受け止めて来た。
しかし、近代人は、そのような「おどろおどろしさ」を受け容れることができなくなり、全面的に排除する方向に進んだのである。そのような「おどろおどろしい」ものは、「ないこと」にして「葬り」、科学技術のような新たな物質的な方法を押し進めることで、生活を築いていくことができることにした。また、神々の指導やシャーマン的な知恵ではなく、「民主主義」のような、個々人の意志の力の総和で、生を司ることができることにしたのである。
そのような方向に、疑問がないと言うなら仕方がないが、もし本当に反省をもたらせようというのなら、「シャーマニズム」という実際に生きた力を発揮したからこそ、排除した文化を、その「おどろおどろしさ」とともに、顧みることなくしては、無理と言うべきである。
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