« 2025年8月 | トップページ | 2025年10月 »

2025年9月

2025年9月27日 (土)

シュタイナーが様々な側面から浮かび上がらせるように語る訳

記事『シュタイナーの「悪魔論」について』では、シュタイナーが端的、明解に語ることは少なく、様々な側面から多様に述べて、全体像を浮かび上がらせるように語ることが多いことも指摘していた。それで、シュタイナーの本を読んだとしても、単純明解に言いたいことが分からなかったり、特に講演集などでは、互いに矛盾することを述べていると感じられることも多いのである。

『アカシャ年代記より』では、このことの理由も述べられているので、それを引用しておこう。

「われわれは高次の世界に関する諸真実をどれ程さまざまの側面から考察しようとも、決してしすぎることはない。元来われわれはどんな側面からでもまったく乏しいスケッチしか描けないということをよくわきまえていなければならない。

同じ事柄をできるだけさまざまの側面から見ていくとき、そこから受けとる印象は、ますます生命に満ちた表象像になっていく。そしてただそのような表象像だけが、高次の世界へ参入しようとする人に役立つのであって、無味乾燥で図式的な概念では役に立たない。表象が生き生きしていればいる程、色彩豊かであればある程、ますます高次の現実に近づくことが期待できる。」

つまり、高次の世界に関する表象は、単純に一面的になされるべきではなく、様々な側面から多様に浮かび上がらせることによって、生命に満ちたものとなり、役に立つものになる。単純、明解に示されるような「無味乾燥で図式的な概念」では役に立たない、と言うのである。

それはまさしくその通りであろうし、私自身も、このブログにおいては、一面的に受けとられることを嫌い、単純、明解に語るというよりは、さまざまな観点から浮き上がらせるように述べることが多いことも指摘していた。

しかし、シュタイナーのように一定の評価を受け、よく知られた人物ならともかく、知られてもいない人物が、そのように曖昧とも受け取られる述べ方をしても、誰もその内容を理解しないし、理解しようともしないだろう。

そこで、私は、一方では、図なども用いながら、単純、明解に本質と思われることを示しておくことも重視している。それは、それのみでは「無味乾燥で図式的な概念」に堕すおそれがあるが、様々な観点から述べられたことと相まって、より理解を助けるものにはなってくれるはずである。

また、私も、ブログ『統合失調とは本質的にどういう状況か 』の方では、一面的にとられたり、誤解されるおそれはあっても、あえて分かりやすく端的、明解に語ることを重視した。そのようなことは、やはり必要なことと改めて感じている。

もちろん、シュタイナーも、無暗に様々な観点から多様に述べることだけをしているのではなく、ときには明確に語ることもするし、その必要も感じながらそうしているはずである。

『アカシャ年代記より』においても、当時から、そのような内容は非科学的で荒唐無稽な妄想を述べたものに過ぎない、という批判を多く受けていた。特に、当時は「科学」が信奉された時代なので、科学の方面からの批判が多かったわけだが、シュタイナーもそれについては、明解な答えを述べている。

それは、結局は、「物質的なものと霊的なものの関係」ということに帰するのだが、次のように述べているのである。

「すべての物質の物理的性質は、霊的なものを通してこそ、解明されうる。」

「君たちの現実は現実の一部分にすぎない。現実の他の部分には霊的な事実が存在する。そしてこの霊的な事実によってこそ、感覚的事実の経過は説明されうるものになる。

記事『「宇宙人」と「霊的なもの」』で、図示していたように、「物質的なもの」と別の領域として「霊的なもの」があるのではなく、「霊的なもの」は、「物質的なもの」を包み込む関係にあるのである。従って、物質的なものの「表面」ではなく「本質」は、「霊的なもの」によってこそ真に解明されるものになる、ということである。

2025年9月15日 (月)

『アカシャ年代記より』とシュタイナーが「土星紀以前」には触れない訳

シュタイナーの「宇宙進化論」については、記事『シュタイナーの「悪魔論」について』でも述べたように、私自身かなりの疑問があるので、あまり信じていないし、このブログでもほとんど述べることはなかった。しかし、この度『アカシャ年代記より』(国書刊行会)を読んでみると、大分イメージも変わった。

簡潔で抽象的と思える表現ながら、『神秘学概論』を補う部分も大分あり、「土星紀」とか「太陽紀」「月紀」「地球紀」ということの意味もより明確になった。地球紀のアトランティスやレムリアの記述もそれなりに分かりやすい。

何しろ、それらが多くの真実を含んでいるとして、全体としては、現在の地球に人間ができるまでにはなんと多くの存在が関り、宇宙的な状態の変化のプロセスを経て来たことか、という感慨を感じた。

いずれにしても、シュタイナーの「宇宙進化論」は、あくまで「霊的な観点」から、特に人間の構成要素の「進化」という点に焦点を当てて述べたもので、個々の具体的な出来事や物語的要素はほとんどないから、決してシンプルに分かりやすいものではない。多くのチャネリングものの語る、宇宙人との関係での、分かりやすく、ある種物語的な「宇宙や地球の進化」と関連づけて理解することもなかなかできにくい。

いずれ、そういうことも機会があれば述べてみたいが、今回は、『アカシャ年代記より』に、これまでにも何度か述べて来た、シュタイナーの方法論自体について、かなり明確に語っているところがあったので、それについて述べておきたい。

まずは、シュタイナーが『アカシャ年代記より』でもそうだが、宇宙の進化、人間の進化を「土星紀」の記述より初めて、「土星紀以前」については問わないことの理由

「土星紀」というのは、人間は深い眠りにあり、現在の地球で言えば「鉱物」のような状態にある。もちろん、人間より進化した存在は多くいて、それらが人間に様々な影響を与えて進化していくのだが、それ以前には、人間はどのような状態にあったのか、あるいはどのように創造されたのか。人間に影響を与える存在はどのように創造され、進化して来たのか。そういうことは一切述べられないのである。

端的に言うと、「宇宙はどのように創造されたのか」、「そもそもなぜ創造ということが起こったのか」ということには、一切触れられないのである。私がシュタイナーの宇宙進化論に疑問を感じるというか、今一つしっくり来ないのも、その部分が欠けていることも大きな理由の一つといえる。

少し長いが、それについてシュタイナーが述べているところを引用する。

「進化のこの三状態に先行する一切は暗闇の中に閉ざされており、神秘学的探求の光をその中へ投げかけることは、今のところまだできないのである。なぜなら神秘学的探求は思弁や単なる概念操作によるのではなく、実際の霊的経験によるものなのだから。われわれの肉眼が果てしない地平線上の特定範囲しか見ることができず、地平線を超えた彼方までは視界を拡げることができないように、「霊眼」もまた特定の時間的制限内にしかその視野を拡げることができないのである。神秘学は経験に基づき、そしてその経験内に甘んじる。

「宇宙の本当の始まりには何があったのか」、「なぜ神はそもそも宇宙を創造したのか」、そのような事柄を探求しようとすると、単なる概念による穿鑿にすぎなくなってしまう。神秘学徒に必要なのは、むしろ認識の特定の段階に達したら、このような問いをもはや立てないことなのである。なぜなら霊的経験の内部で、この地球上での使命の達成に必要なことは、すべて人間に開示されるからである。忍耐強く神秘学徒たちの経験領域の中に没頭する者は、人間が自分に必要な問いのすべてを、霊的経験の範囲内で、満足させることができる、ということを知るであろう。……

――けれどもまた「宇宙の起源」についての上述の問いや、その他同種の問いが決して人間に解明できない問いである、と主張するつもりもまったくない。人間はそうすることができる。しかし人間がそうしうるには、より身近な霊的経験内で開示される認識内容を、先ず手に入れなければならない。そうすればこれまでとは異なる仕方でこれらの問いが立てられるということを、人は認めるようになるであろう。」

つまり、神秘学的探求つまり「霊的認識」による探求は、実際に霊眼により体験されことに依拠するので、「闇に閉ざされた」「土星紀以前」には踏み込むことはできない。無理にそうしようとすれば、単なる概念操作の穿鑿にすぎなくなって、かえって有害となると言うのである。

このようなことは、私がこれまで述べて来た「水平的方向」と「垂直的方向」ということに関わって来る。シュタイナーが専ら「水平的方向」の進化ということに関わり、「垂直的方向」の視点はほとんどないことを指摘しつつ、ところどころ垂直的方向への鋭い視点も感じられることを指摘して来た。

ここでも、「土星紀以前」は「闇に閉ざされている」と言い、霊的なものの光で照らすことのできないものと言っているが、それは、やはり創造の原点に関わる、根源的なものとしての「虚無」または「闇」を意識すればこそであろう。

「垂直的方向」に関すること、特に根源的な「虚無」や「闇」は、「霊眼」においてもそうだろうし、言葉や知性において捉えられるようなものではないのは確かと言える。ミナミAアシュタールのアシュタールも、「<>そのものについては分からない」と言っているように、人間を超えた存在にとっても、それは分からないことのようである。

しかし、シュタイナーが一方で、それらの問いは、「人間に解明できない問い」ではなく、「そうすることができる」と言っているように、人間は、少なくとも、それらの問いの解明への「展望」を持つことはできると思うし、現在においては、むしろ「それも必要」なのではないかと思う。

「進化」というのも、ある根源的な目的あるいは設定のようなものがあって初めて明確に言えることだし、シュタイナーのいう「進化」というのも、「土星紀以前」に触れられないことで、今一つ明確にならない面がつきまとうと思う。

「虚無」そのものを「体験」することはできないだろうが、私の場合もそうだったように、それにぎりぎり近づく、実体的な面としての「闇」は、体験できるものと言うべきである。そういったことから、「垂直的方向」への完全な「理解」は難しくても、ある程度の「展望」を持つことはできるはずだし、現在においては、必要になって来ていると思うのである。「統合失調」に関しても、その展望は、大きな意味を持つことは、何度も述べて来た。

もちろん、それは、一つの「展望」であって、「解明された事柄」ではないことは意識しつつ、より深めていくことを怠ってはならないだろう。

そういうわけで、私は、シュタイナーの「水平的方向」に関する記述も大いに重視するが、「垂直的方向」への視点も必要なものと解しているのである。

 

« 2025年8月 | トップページ | 2025年10月 »

新設ページ

ブログパーツ

2026年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

コメントの投稿について

質問の募集について

無料ブログはココログ