『精神の幾何学』と「分裂病ファントム論」について
安永浩という精神科医の「分裂病ファントム論」については、一応知ってはいたが、あまり適切な解説がされていなかったためもあり、特に興味を持つことはなかった。論の趣旨は、分裂病の体験空間(ファントム空間)を幾何学的に表現することで捉えようとするものなのだが、晦渋なイメージがあり、とっつきにくいものがある。おそらく、多くの人もそのように思うことだろう。
ところが、このたび、『精神の幾何学』という本が文庫化(ちくま学芸文庫)されているのを知り、第Ⅲ部の精神病理学的事象を読んでみた。そうすると、その幾何学的表現そのものはともかく、分裂病を捉えよう(了解しよう)という基本的な方向性においては、十分納得できるものがあり、共感するところも多いものだった。
そこで、今回は、その詳しい説明や幾何学的表現についての解説をするつもりはないが、基本的な方向性と全体の論旨について簡単に紹介し、コメントしておこうと思う。
記事『「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 1』 『同2』で、多くの場合、「「精神病理学」は、一般の(生物学的)精神医学とは異なり、「了解不能」とするのではなく、それに鋭い視点から迫ろうとしていて、それぞれにみるべきものがある。しかし、残念ながら、それは結局は、「統合失調状況に入る契機」を明らかにするものであっても、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものではない」、ということを述べていた。
「統合失調状況そのものを明らかにするものではない」、というのは、多くの精神病理学者も、統合失調状況そのものは「自己」の壊れた結果的な現われに過ぎず、それ自体に意味があるもの、あるいは何か理解のための新たな要素が加わるものではないと考えているからと思われる。R.D.レインすら、初期にはそのような傾向があったのである。
ところが、安永は、そのような態度をとらず、分裂病の体験空間を理解できるものとするために、それを幾何学的に捉えて理論化することを行っている。「分裂病的状況そのもの」の理解を指向している点が、決定的に異なっているのである。
そして、そのような方向をとらない、一般の精神医学や、精神病理学について鋭い批判もしており、その点は、大いに共感できるところである。
そのような視点を端的に述べている文章があるので、それを引用してみよう。
「正常人に関する常識的枠組みだけに頼って出発する場合、ほとんどすべての分裂病観が陥ったように、結局了解は不能のもの(例えばハイデルベルグ学派)、正常人にとっての自明性が失われたもの(例えばブランケンブルグ)として、認識地平の彼方に捨て去るしかなかったのである。
…しかも、それはまだしも正直な方であって、正常心理の辺縁を拡張して安易に分裂病を理解したつもりになり、あまつさえ根拠のない心的原因や性格欠陥を想定し、それをもって人間的接近法と称するが如き言説もおびただしくみられるのである。この安易さを排するために、いささかどぎつい感じもするが、次のことを標語的に述べてもよいかと思うぐらいである。即ち、“一見わかりやすい分裂病論とは(まさにそれ故に)本質以外のことを述べているのに過ぎない”と」
また、分裂病といわれる「病」について、次のようにも言っている。
「実をいえば分裂病というものが「一つの」病なのかどうかさえいまだに結着がついていない。…本書の立場は、ある特殊な病の、というより一つの特異な体験類型(分裂病型体験様式)の特徴を認定しようとするにとどまるものである。
「病気」と決めつけることで分かったことにするのではなく、あるいはその内容を規定しようとするのではなく、あくまで、一つの特異な「体験類型」として捉えたうえで、その内容を理解しようとしている。私も、「分裂病“的”状況」とか「統合失調“的”状況」と呼んでいるのは、これと全く同じ趣旨である。
その「ファントム論」の要点は、正常人の空間の体験、または知覚世界というのを「パターン」として捉えた場合に、分裂病の体験では、そのパターンが逆になり、『バターン逆転』が起こるということである。
それをAとかBとかの記号を用いながら、幾何学的にプロットしていき、理解できるものにしようとしているのだが、私は、特に数理的に把握することが理解に資するような人以外には、むしろ逆効果で、それが故に敬遠されている面も大きいと思う。
何しろ、正常人では、Aといわれる「自」「全体」「統一」「質」が前提となってBといわれる「他」「部分」「差別」「量」が条件的に出て来るが、分裂病の「パターン逆転」では、これが逆転し、Bの方が自明な前提と化し、Aすなわち主体性が条件的偶然的なものになっているとする。
このことから、分裂病者の「病識のなさ」や、「自我収縮感」、「させられ体験」や「疑憑依」などの「他者」に操作される感覚などが説明される。
「バターン逆転」とは、私がこれまで述べて来たことで言えば、「日常世界」において「図」であったものが背景に引っ込んで、「地」となり、逆に、「地」であったものが「図」として前景に出てくると言った、「図と地の逆転」に対応しているものと言える。
それは、「自我」という媒介でみられた「世界」が、弱まり、崩れ行く過程ともみられるから、自我によって抑圧されていたものが前景に出て来て、自我を圧迫するようになる。と同時に、自我という媒介性を失って、体験自体の強度が強まり直接性が高まるので、それ自体が圧倒して自我を飲み込むような作用をする。体験世界そのものが、「圧倒的な他者」と化していると言うこともできる。その結果、自我がその体験を「誤り」などと認識することは難しく、また「自我収縮感」や「させられ体験」などの他者に操作される感覚も起こるのである。
安永も、なぜそのようなことが起こるのかについては、未知としている。ただ、何らかの生理的な変化を示唆しているし、また、正常人にとっての「パターン」というのも、普遍的なものというよりも、近代人にとってのものでしかないこと。妄想知覚ということで、妄想内容を取り込んでいるから、当然の面もあるが、分裂病者の「パターン逆転」というのも、正常人の「パターン」と対等の位置を与えられているというよりは、一種の「錯覚」とされているなど、やはり私の観点からすれば、多くの問題と言うか、限界は感じざるを得ないものである。
それにしても、繰り返すが、基本的な方向性や態度としては、みるべきものが多く、参照とすべき点も多いので、興味を持った人は、本を読むなり、ネット等で調べるなりしてみてほしいものである。
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