「境界的なもの」の恐ろしさと禁忌(タブー)
記事『人類学で、近代社会の常識を「ひっくり返す」』でとりあげた奥野克巳著『ひっくり返す人類学』の他にも、最近は人類学の入門書的な本が矢継ぎ早に出版されていて、人類学に対する一般の興味が高まっていることを思わせる。それは、近代的な世界観の常識というものが、改めて問い直されているということでもあろう。
そんな中に、箕曲在弘著『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』(以下『切り崩す』と略)というのがあって、文化人類学の興味深いテーマを、分かり易く解きほぐしている。その中でも、先住民文化にあって、贈与が循環をもたらすことの意味や、「境界的なもの」が禁忌(タブー)の意識をもたらすことについての考察は、特に興味深い。
今回は、その「境界的なもの」がもたらす恐れや禁忌について、改めてとりあげてみたい。「境界的なもの」については、このブログでも、何度かとりあげているし、統合失調状況とも大いに関わるものである。
『切り崩す』では、文化的に規定されたある枠組みと他の枠組みのどちらにも収まらない「境界的なもの」が、いかに人々にとって不気味で恐ろしいものとなり、禁忌の意識をもたらすかが、メアリ・ダグラスの説とも照らしながら述べられる。
たとえば、我々は、つばや便など自分の体から外に出た排泄物を、「汚い」と思うが、それは外に出るまでは体の中にあったもので、別に汚いとは思っていない。その「汚い」という感覚は、どうして生じるかというと、体から出ることによって、自己の内にあるものではなくなったからだが、しかしそれは、他者のものというわけではなく、どちらつかずの「境界的なもの」になったことによっているのである。
また、古代ユダヤでは、ブタ、ラクダ、ウサギ、タヌキのほかに、ひれやうろこのない魚類や、羽のない昆虫、ヤモリやトカゲといった地を這う爬虫類も「汚らわしいもの」として食べてはならない禁忌とされていた。その意味は長らく不明だったが、ダグラスは、それらは、聖書の記述による「清浄なもの」のカテゴリーに入りそうで、そこから逸脱するもの、つまり、どちらつかずの「境界的なもの」であることを明らかにした。
このように、文化的なある枠組みに収まらない、どちらつかずの「境界的なもの」というのは、「落ち着きが悪」く、「気持ちの悪い」ものであり、なんとなく恐れを感じさせるものである。従って、禁忌あるいは排除の対象となり易いのである。
そのある枠組みというのは、文化が規定するものだから、文化によって異なるわけだが、先のつばや便のように、どの文化においてもほぼ共通するようなものもある。
「境界的なもの」については、記事『「無縁」の原理と「死」』でも論じていたように、「共同体」にとっての空間的な「境界」もまた、聖なるものと交わると同時に危険で恐ろしいものと出会う、両義的なものとして意識されるものだった。
統合失調についても、「この世的なもの」(物質的なもの)と「あの世的なもの」(霊的なもの)の境界である「霊界の境域」に入って、そこで受ける諸々の事象こそが問題なのだった。それは、日常的な「この世的なもの」からはみ出るような事象であるが、先祖や神々の関わる、完全に「あの世的なもの」なのでもない。この世にありながら、あの世的なものが侵入し、どちらつかずの「不気味なもの」に遭遇する、まさに「境界的なもの」なのである。
統合失調は、それゆえ、他の「境界的なもの」と同じように、無意識にも、不気味で気持ちの悪いものと思われ、恐れをもたらし、禁忌あるいは排除の対象となり易いのである。それは、意識レベルではどうあれ、無意識レベルでは、統合失調が「境界的なもの」と関わることを潜在的にも察すればこそであろう。
このように、「境界的なもの」が怖れをもたらすのは、文化的な枠組みから逸脱するからとされているが、実は、もう一つ根源的というべき理由がある。それは、記事『「霊界の境域」の「図」』でも明らかにしたように、そのような「境界領域」は、いかようにも枠づけることのできない、根底に控える「虚無」を覗かせる「深淵」ともなるからである。「境界的なもの」の怖れとは、「虚無」の怖れでもあるということである。単に、文化的な枠づけからはみ出るというのみでなく、それは、あらゆる枠組みを破壊しかねないような、普遍的、根源的な怖れとつながっているのである。そして、それは、統合失調についても言えることである。
しかし、先住民文化において、この「境界的なもの」は、単に一方的に恐れられ、禁忌として排除されるだけのものではない。先に、共同体の境界について、「両義的なもの」と言ったように、それは、聖なるものと交わるものでもある。そのような境界を超えることによってこそ、真に聖なるものとの交わりが生じるのである。
また、「虚無」に源を有する「境界的なもの」の恐るべき破壊的な力は、それまでの生の枠組みを破壊し、新たな生へと躍進させる力となるものでもある。だから、先住民文化では、成人儀礼のような儀礼や、シャーマンの成巫過程のイニシエーションなどにおいて、そういった「境界的なもの」と遭遇し、超えて行くことが、あえて組み込まれている。「境界的なもの」は「死と再生のイニシエーション」ともなるということである。
そして、そのこともまた、統合失調についても言えることである。
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