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2025年4月

2025年4月23日 (水)

『地球ドラマチック 古代ドイツ謎の女性シャーマン』~シャーマン研究の新しい可能性

4月19()7NHK Eテレで放映された、『地球ドラマチック 古代ドイツ謎の女性シャーマン』を見た。まず、番組内容を説明する短いコピーをあげておく。

「豪華な副葬品、首の骨の異常、歯に空いた謎の穴。9000年前に埋葬された女性の骨から、彼女が実はシャーマン、つまり、神や精霊と交信し、人々をいやす存在らしいことが分かった。最新DNA解析が、肌や目の色だけでなく、彼女の暮らしや社会的な役割までを浮かび上がらせる。さらに、CGによる顔の復元や、共に埋葬された子どもの骨の分析から、謎に包まれた古代の女性シャーマンの真実に迫る。(ドイツ2024年)」

豪華な副葬品のため、社会的な地位の高い男の骨とみなされていたが、実は中石器時代の狩猟採集民の共同体にシャーマンとして崇拝されていた、女性の骨であることが分かったことに、驚かれている。日本では、卑弥呼に代表されるように、女性シャーマンが多いことはよく知られているから、さして驚かれないだろうが、西欧では驚きのことのようである。

骨には、首の骨に先天的と思われる異常があり、頭を後ろに傾けると血管が圧迫されて血流が遮られ、意識の異常をもたらしたことが予測される。しかし、それは、意図的にトランス状態に入って、神や精霊と交流し、知識や治癒をもたらすシャーマンの能力に大きく貢献したと考えられる

また、前歯には意図的に開けられたと考えられる穴があって、はっきりと神経が見えている。いかにも、痛々しいそうだが、通常それはさらに悪化して歯が抜け落ちるし、周りの歯にも影響を与えるはずだが、この女性では、そういうことはなく、ちゃんと治癒されているという。それは、シャーマンが傷つけた歯の治療を自ら行うことで、他の人間にも治療を広げていったものと考えられるという。

ほかにも、最新のDNA解析の技術などで、この女性がシャーマンであったことが、いろいろと示唆される。

これまで、シャーマンの研究と言えば、先住民部族のフィールドワークに基づく考察が主だったわけだが、このように考古学的に物質的な面からもシャーマンの能力や生活の様々な面が明らかにされるようになって来るのは、望ましいことだ。もちろん、シャーマンの能力や生活は、物質的な面だけから明らかになるような性質のものではなく、フィールドワークに基づく考察が依然重要になるわけだが、それを物質的な面から補強できるようになるのは大きい。

今回の、首の骨の異常がシャーマンのトランス能力に結びつくことや、歯の異常がシャーマンの治癒能力に結びつくことなどの知見も、これら両面からの考察が結びついて明らかにされたものと言える。

ただし、トランス状態に入れることが即シャーマンの能力に結びつくわけではなく、トランス状態に入って何をするか、あるいは、トランス状態でも明晰な意識を保って行動できることが重要なのである。

また、歯に開けられた穴は、その強烈な痛みということ自体、記事『『ぼくのイニシエーション体験』』でもみたように、死を間近なものとして意識し、意識の変容をもたらす手段ともなっただろうし、その苦痛に耐えることが、「イニシエーション」的な意味合いもあっただろう

なお、この番組は、4月28日(月) 午前0:00からEテレで再放送されるようなので、興味がある人はご覧になるとよい。

また、シャーマンのトランス意識については、脳波等の脳の研究の方面からも様々に新しい知見が示されている

たとえば、セバスチャン・ボー、コリーヌ・ソンブラン著『シャーマン 霊的世界の探求者(グラフィック社)という本は、多くの図版とともにシャーマンとシャーマニズムについて一般的な分かりやすい解説を施したものだが、付論では、自ら太鼓の音を聞くことでトランス状態に入り、シャーマンと同様の体験をし、元に戻ることのできる女性の体験が述べられ、その脳波等の研究も紹介されている。

この女性は、トランス状態において、オオカミになったり、精霊と交流することができるようになったことから、シャーマンの能力は真実のものと確信するようになるし、モンゴルのシャーマンからも真正のシャーマンと認められる。

興味深いのは、通常の状態のときの脳波は、正常であるが、トランス状態に入ると、統合失調症等の精神異常の者の脳波と酷似するようになることである。彼女の場合、意識的に元の状態に戻れるので問題ないが、やはり危険なこととみなされてしまう。(これは、逆に言えば、統合失調等はシャーマンと同様の一種のトランス意識にあるのだが、元に戻れないがために危険(病的)な状態にある者ということができる。)

それで、彼女は太鼓ではなく、トランスをもたらすエッセンスを凝縮した器具を開発し、それを用いると、多くの人(80パーセント)が彼女と同じようにトランスに入り、危険なく元に戻れるようになることを証明できるようになる。つまり、トランスは、本来、精神疾患のような「異常」なものではなく、「普遍的」なものであり、むしろ知覚や意識の可能性を高めるものということである。

こちらも興味を持った人は読まれるとよい。

 

2025年4月12日 (土)

『千と千尋の神話学』と統合失調

図書館で、『千と千尋の神話学』(西條勉著、新典社新書)という本があったので、読んでみたら、なかなか面白かった。『千と千尋の神隠し』について、千尋の体験を「異郷訪問説話」の一種と捉えて、他の物語等の場合とも比較しながら、とても分かりやすく解説している。また、それは、統合失調との関係においても当てはまるものが多く、興味深いものがあった。

「異郷訪問説話」とは、「一言で言えば、ある人物が別世界に迷い込んで脱出する話」とされる。ただ、通常は、「異界探訪説話()」と言われるので、以下こちらの言い方をとることにする(「異郷」は「異界」とする)。この説話は、神話や昔話から、小説、映画など、世界に古くから、遍く広がっているものであり、日本における代表格は、「浦島太郎」とされる。

千尋の体験は、もちろん独自の展開も多くあるが、基本的には、他の多くの「異界探訪説話」と同じような、共通のプロットをもっている。そして、そこには、4つの法則があるとする。

まずは、「異界探訪説話」全体の概観のようなことが、とても分かりやすくまとめられているのでそれを引用しよう。

「このように、個々にみていくと別世界での体験はさまざまで、とても、ひとくくりにはできそうもありません。しかし、どれにでも共通するところがあります。それは、主人公が、それまでとは違った体験をするということです。しかも、身長が伸びたり縮んだり、魔法使いや河童が出て来たり、とても現実ではあり得ないことが起こることです。

 異郷での体験は非日常的で、異常な体験なのです

 要するに、とんでもない世界なわけです。千尋の迷い込んだところも、アリス(『不思議の国のアリス』)やドロシー(『オズの魔法使い』)におとらず奇怪な世界でした。それまでの平穏で、惰性的な生活は、一変します。

 このように、異郷訪問説話の主人公たちは、たいてい、それまでに体験したことのない出来事でもみくちゃにされます。その結果、主人公たちは変化します

 たいていの場合は成長しますが、もちろん、逆の場合もあって、たとえば、浦島太郎は元の国にもどって白髪のおじいさんになります。芥川の『河童』では、主人公は人間の世界にもどってどうやら河童になったようです。千尋は、どうでしょうか。ラストシーンのトンネルから出たところでは、りりしく、たくましい顔つきに変化していました。

 異郷から脱出して、主人公は変化し、成長し、変身するのです。」

共通するプロットとしての4つの法則とは、次のようなものとされる。

第Ⅰ法則 異郷に入るときは、偶然に行く。

第Ⅱ法則 異郷での体験は、異常体験である。

第Ⅲ法則 異郷から出るときは、自分の意志で出る。

第Ⅳ法則 異郷から出た後、主人公は変化する。

第1法則の「偶然に行く」というのは、自ら望んで(意志して)行くのではないということである。著者は、「自分から進んで行こうとしない理由は、そこが無意識の世界、気づかれていない世界だからである」としている。要は、気がついたら、別の世界に入っていたということである。

ただ、千尋の父母は、ご馳走を前にすると、自ら進んでその世界に入っていった。その結果、「ブタ」になってしまう。最終的には、千尋に救われて脱出することができるが、このように自ら望んで入ると「元の世界に戻れなくなる」ということが言われる(「死者の国」の食べ物を食べると、元の世界に戻れなくなるというのは、日本でも昔から言われて来たことである)。(※1)

第2法則の、別世界でする異常体験については、次のように言われる。

「ドロシーが異郷に行ってから、それまで意識しなかったことに気づいたのも、異常な体験が彼女の無意識を目覚めさせたからにほかなりません。異常な体験は、マンネリ化した日常の意識を破ります

 わたしたちは、自分のことをすべて意識しているわけではありません。しかし異常な体験をすると、ふだん眠っている部分が目覚め、活動しはじめるのです。異常な事態に遭うと、それまで気づかなかったいろんな深層意識を発見します。それが異常体験の意義の一つなわけです。」

しかし、一方で、このような「異界」は、狂気に通じる世界であることが、次のように言われる。

異郷は底の方に狂気をはらんでいる世界なのです

異郷は、不気味な世界です。

そこは、非現実で、あり得ない世界、夢の領域、失われた記憶の世界、あるいは現実社会の裏側であったり、人々の欲望を集める場所であり、無意識の領域です。

異郷は両義的です。ネバーランドがウェンディとピーター・パンで、その意味が対照的になったり、ファンタスティックな河童の国が、一皮むけば狂人の世界であったりします。そこは、わたしたちのイマジネーションにとって、無限の可能性をもった世界なのです。

異郷訪問説話という話型は、おそらく、わたしたちのこころの構造、内面世界そのものなのです。」

第3法則で、「異界」から脱出するときは、「自分の意志で出る」というのは、入るときと違って、そこが元の世界と違う「別世界」でることに気づいているからできることである。そして、そこにずっととどまるべきではなく、元の世界に帰ろうとする意志を持つことによっている

千尋も、ブタになった父母やハクを助けて元の世界に戻るべく、銭婆のいる「沼の底」というもう一つの「異界」へ赴く(※2)。そこで、カオナシが同行し、カオナシをその世界において行くことについて、著者は面白いことを言っている。カオナシは千尋の集合的な無意識であり、「影」のような存在で、それを切り離して、「沼の底」において行くことで、(大人としての)自己の自我に目覚めるとするのである。

このように、「異界」での異常な体験を通して、千尋は第4法則にみるとおり、この世界に戻った後、大きく変化して、成長する。それは、これまで何度も述べたように、「死と再生」を伴う、一つの「イニシエーション」であることも言われる。

ただし、初めに述べられたとおり、この法則どおりにはいかず、結局元の世界に戻れなかったり、芥川の『河童』のように、狂気に陥ってしまう場合もままある。

一つ興味深い点として、千尋が、元の世界に戻ったときに、銭婆からもらった金色の髪留めが光る場面がある。それは、宮崎駿が、千尋の体験した別世界が単なる「非現実」の世界ではなく、もう一つの「現実」の世界であることを強調したかったからだとされる。

しかし、このようなこと、つまり「異界」を探訪してそこで体験したことが、何らかの形でこの世界に戻ったときにも、(物理的な)痕跡として残るということは、よくある話である。たとえば、記事『幻覚的現実と物質化現象の「中間的現象」』でも述べたように、『遠野物語』の『マヨイガ』の話でも、そこに入って部屋にあった茶碗を持って帰らなかった者が、後に川の上流から流れてくるその茶碗を手に入れて手もとに残す、ということがある。

著者は、異界は「無意識の世界」としているが、単なる「夢」の世界とか、「非現実」の世界ではない、「実在」の世界のわけである。

また、著者は、異界訪問説話は、文字に記されたものとしては、『ギルガメッシュ叙事詩』からある古い説話としているが、文字に示されることがなくとも、この話は、シャーマンの「天上世界」や「地下世界」などの「異界探訪」の体験が元になっており、さらに古く遡れるものである。また同時に、現在も多くの先住民文化の中では、現に起こり続けている「生きた」ものなのである。

「異界探訪説話」について、このようにみて来て分かるとおり、この体験というのは、実に、「統合失調」の場合にも、多く当てはまるものである。統合失調体験も、まさに「異界探訪説話」の一種と言えるということである。

前回、統合失調の体験は、この世(物質的世界)とあの世(霊的世界)の境界領域で起こるということから、「境界的なもの」としていた。ただ、その場合の「境界」とは、まさに「異界そのもの」と言うことができる。この世からみた場合、あの世の領域は、境界領域を含めて、全体として「異界」と捉えることができるからである。実際、そこで統合失調の者は、「この世ならぬ声」を聞き、それに翻弄されることになる。また、「共時性」の体験など、日常世界では起こり難い出来事を、多く体験することになる。

あるいは、「あの世」の領域は、「他界」として捉えられ、その境界領域が、「異界」として捉えられることもある。いずれにしても、統合失調の「境界領域の体験」は、「異界」の体験そのものであり、それはそのまま、著者の言う基本的なプロットとしての法則にも当てはまるのである。

統合失調の場合、まさに自ら意図して「異界」に赴くわけではないので、第1法則に当てはまる。著者も言うように、初めは、別世界に入ったことに気づかれようがないのである。ただ、千尋や他の者が、いずれそこが別世界と気づいて、いろいろと知識を深め、知恵を身につけていくのに対して、統合失調の場合は、そこに入った者が、そこを「別世界」と気づこうとせず、むしろ、「この世」の延長であるかのように無理やり解釈してしまう。そのようにして、「異界」が元々はらんでいる「狂気の世界」へと、遂には落ち込んでしまうことになる。

そして、その場合には、そこから脱出して元の世界に戻るということも起こり難く、また戻ったとしても、それを成長や変化には、結びつけにくいということになるのである。

残念ながら、現在は刊行されていないようだが、興味を持った人は、図書館や古本で読んでみてほしい。

 

※1「自ら望んで入ると戻れなくなる」ということだが、著者は、(欲望にまかせて)警戒心を欠いていること、無意識である(周りの状況に十分気づいていない)ためと言っている。要は、後に説明したように、その世界から脱出しようとする意志や知恵を身につけることが難しい、ということになるだろう。「自ら望んで入る」ことについては、シュタイナーのように、霊的修行に基づいて自ら霊界に参入するという方法がある。しかし、この場合の「修行」というのは、まさに霊的世界についての危険を十分認識して、意識的に行動できるようにするための修行であり、単純に、無自覚的に「望んで入る」のとは大きく違っている。

※2 著者は、もう一つの異郷である「沼の底」に赴くことを「二重の異郷体験」としているが、湯屋を中心とする初めの異郷を異界の混沌とした「境界領域」、「沼の底」の異郷をより深い霊的世界として捉えることもできるだう。混沌とした境界をくぐり抜け、より深い霊界に参入することで、千尋は自分を取り戻し、脱出する知恵を身につけることができたわけである。

2025年4月 5日 (土)

「境界的なもの」の恐ろしさと禁忌(タブー)

記事『人類学で、近代社会の常識を「ひっくり返す」』でとりあげた奥野克巳著『ひっくり返す人類学』の他にも、最近は人類学の入門書的な本が矢継ぎ早に出版されていて、人類学に対する一般の興味が高まっていることを思わせる。それは、近代的な世界観の常識というものが、改めて問い直されているということでもあろう。

そんな中に、箕曲在弘著『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』(以下『切り崩す』と略)というのがあって、文化人類学の興味深いテーマを、分かり易く解きほぐしている。その中でも、先住民文化にあって、贈与が循環をもたらすことの意味や、「境界的なもの」が禁忌(タブー)の意識をもたらすことについての考察は、特に興味深い。

今回は、その「境界的なもの」がもたらす恐れや禁忌について、改めてとりあげてみたい。「境界的なもの」については、このブログでも、何度かとりあげているし、統合失調状況とも大いに関わるものである。

『切り崩す』では、文化的に規定されたある枠組みと他の枠組みのどちらにも収まらない「境界的なもの」が、いかに人々にとって不気味で恐ろしいものとなり、禁忌の意識をもたらすかが、メアリ・ダグラスの説とも照らしながら述べられる。

たとえば、我々は、つばや便など自分の体から外に出た排泄物を、「汚い」と思うが、それは外に出るまでは体の中にあったもので、別に汚いとは思っていない。その「汚い」という感覚は、どうして生じるかというと、体から出ることによって、自己の内にあるものではなくなったからだが、しかしそれは、他者のものというわけではなく、どちらつかずの「境界的なもの」になったことによっているのである。

また、古代ユダヤでは、ブタ、ラクダ、ウサギ、タヌキのほかに、ひれやうろこのない魚類や、羽のない昆虫、ヤモリやトカゲといった地を這う爬虫類も「汚らわしいもの」として食べてはならない禁忌とされていた。その意味は長らく不明だったが、ダグラスは、それらは、聖書の記述による「清浄なもの」のカテゴリーに入りそうで、そこから逸脱するもの、つまり、どちらつかずの「境界的なもの」であることを明らかにした。

このように、文化的なある枠組みに収まらない、どちらつかずの「境界的なもの」というのは、「落ち着きが悪」く、「気持ちの悪い」ものであり、なんとなく恐れを感じさせるものである。従って、禁忌あるいは排除の対象となり易いのである。

そのある枠組みというのは、文化が規定するものだから、文化によって異なるわけだが、先のつばや便のように、どの文化においてもほぼ共通するようなものもある。

「境界的なもの」については、記事『「無縁」の原理と「死」』でも論じていたように、「共同体」にとっての空間的な「境界」もまた、聖なるものと交わると同時に危険で恐ろしいものと出会う、両義的なものとして意識されるものだった。

統合失調についても、「この世的なもの」(物質的なもの)と「あの世的なもの」(霊的なもの)の境界である「霊界の境域」に入って、そこで受ける諸々の事象こそが問題なのだった。それは、日常的な「この世的なもの」からはみ出るような事象であるが、先祖や神々の関わる、完全に「あの世的なもの」なのでもない。この世にありながら、あの世的なものが侵入し、どちらつかずの「不気味なもの」に遭遇する、まさに「境界的なもの」なのである。

統合失調は、それゆえ、他の「境界的なもの」と同じように、無意識にも、不気味で気持ちの悪いものと思われ、恐れをもたらし、禁忌あるいは排除の対象となり易いのである。それは、意識レベルではどうあれ、無意識レベルでは、統合失調が「境界的なもの」と関わることを潜在的にも察すればこそであろう。

このように、「境界的なもの」が怖れをもたらすのは、文化的な枠組みから逸脱するからとされているが、実は、もう一つ根源的というべき理由がある。それは、記事『「霊界の境域」の「図」』でも明らかにしたように、そのような「境界領域」は、いかようにも枠づけることのできない、根底に控える「虚無」を覗かせる「深淵」ともなるからである。「境界的なもの」の怖れとは、「虚無」の怖れでもあるということである。単に、文化的な枠づけからはみ出るというのみでなく、それは、あらゆる枠組みを破壊しかねないような、普遍的、根源的な怖れとつながっているのである。そして、それは、統合失調についても言えることである。

しかし、先住民文化において、この「境界的なもの」は、単に一方的に恐れられ、禁忌として排除されるだけのものではない。先に、共同体の境界について、「両義的なもの」と言ったように、それは、聖なるものと交わるものでもある。そのような境界を超えることによってこそ、真に聖なるものとの交わりが生じるのである。

また、「虚無」に源を有する「境界的なもの」の恐るべき破壊的な力は、それまでの生の枠組みを破壊し、新たな生へと躍進させる力となるものでもある。だから、先住民文化では、成人儀礼のような儀礼や、シャーマンの成巫過程のイニシエーションなどにおいて、そういった「境界的なもの」と遭遇し、超えて行くことが、あえて組み込まれている。「境界的なもの」は「死と再生のイニシエーション」ともなるということである。

そして、そのこともまた、統合失調についても言えることである。

 

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