「自然(じねん)」の自然観と「おのずから」と「みずから」
西洋近代の世界観というものが、いかに特殊で狭いものであるかを、折に触れて述べてきたが、その世界観の中の重要な要素として、「自然観」がある。
西洋近代の自然観のポイントは、「自己」という主観的な観察者に対峙するものとして、対象としての「自然(ネイチャー)」を立てるところである。我々が、客観的で疑わざるものとして信奉している「自然科学」も、この自然観を基礎にできている。
我々は、このような自然観が自明なものとして広がっている中で育っているので、この自然観が特殊の狭い見方であるとか、他の自然観があり得るなどということは、信じがたいことになってしまうのが普通だろう。
しかし、この観察者としての「自己」というものは、明らかに、一神教的な「神」の位置を引き継ぐもので、対象としての「自然」はその(唯一の神により合法則的に造られた)「被造物」ということを背景にもつものである。歴史的に言っても、かなり特殊な見方を背景にして、できている見方だということである。
このことは、近代以前の日本の自然観である「自然(じねん)」の自然観と照らし合わせてみると、よりはっきりする。
日本の「自然(じねん)」の自然観では、「自然」は「自己」と対峙するのではなく、「自己」を包み込んでいる。従って、「自然」は、自己が観察する、単なる「対象」ではない。むしろ、それは、我々の自己を超えた、「主体」なのである。それは、我々の「自己」をも包み込んでいると同時に、あらゆる「他の存在」も含みこんだうえでの主体でもある。
日本では、古来、「山」や「海」、あるいは「熊」や「狐」などの特定の動物が崇拝されてきたが、その背景には、このような「自然」そのものがあると言うことができる。
この両者の違いを図にすると、次のようになる。

日本の「自然(じねん)」の自然観についてはあまり取りざたされることがないが、たとえば、精神科医の木村敏が『自分ということ』(ちくま学芸文庫)※という本でかなり詳しくとりあげている。そこでは、「自然」の「自」あるいは、「自己」の「自」について、「おのずから」という面と「みずから」という面の両面があることが言われている。
これは、要するに、自己をも包み込む自然(じねん)を主体としてみたときの「自」のあり方が、「おのずから」であり、その中の「自己」を主体としてみたときの「自」のあり方が、「みずから」ということで理解できる。そして、この「おのずから」と「みずから」が矛盾なく一致するのが、「自然(じねん)」のあり方の本来の姿であり、理想とされる。
この「自然(じねん)」について、宗教家として端的に語っている者に、親鸞がいる。親鸞は、「絶対他力」を説き、阿弥陀仏の本願を信じることがすべてと説いた者で、しばしば「禅」などの「自力」の宗教と対立するものと捉えられる。しかし、親鸞は、阿弥陀仏とは、「自然法爾(じねんほうに)」のあり様を示すものだという。
そして、この「自然法爾」とは、「おのずから然る」ことだと言われている。また、「わがはからはざるを、自然とまふすなり。これすなはち、他力にてまします」と言われており、自分のはからいをしないで、阿弥陀仏の「自然(じねん)」の働きに任せるのが、「他力」とされている。
つまり、単独のものとしてあるかのような「自己」の「みずから」の働きをしないで、自己も包まれてあるところの、「自然」の「おのずから」の働きに任せるということである。
禅のような自力の宗教も、我のはからいを捨てて、「無の境地」を目指すのであり、結局は、自己を超えた「おのずから」の働きに身を任せることに帰する。ただ、とっかかりに、「自力」か「他力」かの違いがあるだけである。親鸞の「わがはからいをしない」というのも、要は、自己の「みずから」の働きが、自然(じねん)の「おのずから」の働きと一致するものと捉えることができる。
この「おのずらか」と「みずから」の関係を図にすると、次のようになる。

これは、仏教という一つの宗教において捉えられた観点だが、それは、基本的には、木村敏も言うように、近代以前の日本人に広くみられる、あるいは現在の日本人にも潜在的には多く残っている「自然」についての見方ということができる。
私も、父が好きだった影響もあり、10代の後半頃親鸞に興味を持った時期があるが、やはり、西洋近代の自然観に強く毒されていたことが影響してだろう、あまりピンと来なかったというのが本当のところである。その後、仏教そのものに興味を持って勉強したときには、親鸞についてもある程度理解したつもりだったが、やはり、西洋近代の自然観の影響が強く、このような「自然(じねん)」の発想そのものには本当には馴染めていなかった。
そして、それは、割と最近まで続いていたと言えるが、最近になって、ようやく、「自然(じねん)」の自然観が、ごく普通に受け入れられるようになり、身にもついて来たと感じている。「自然」は、とても単なる「対象」などではなくなっている。
※ 『人と人の間』としていましたが、同書でも「人と人の間」には「自然」を含めるべきとして同趣旨のことは述べられているものの、「おのずから」と「みずから」について特に述べられたものは、『自分ということ』でしたので、訂正しておきます。


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