『遠野物語』の衝撃
前にも述べていたはずだが、私は、一連の体験の後、「読書神秘体験」とでも言えるような、強烈な読書体験をいくつかしている。
まず、その時期に読むにふさわしい本が必ず現れて、読むことになり、それが自分の体験を理解するうえで大きなヒントになることが、たびたびあった。また、本の内容が、異様にスッ、スッと自分の中に入って来て、頭ではなく、心の深いところから、自分の体験と見事に重なる感覚を味わうことも多かった。それらは、必ずしも、「統合失調体験」についてのものでなくとも、自分の体験と重なる限りでそのように吸収されていくのである。
体験の後初めに読んだ、河合隼雄『影の現象学』はそれがものすごかったし、次に読んだモーパッサンの『オルラ』もそうだった。体験のすぐ後は、「異常」な「尋常でない体験」で、他に同じような体験をした者はいないのではないかと思えていたのが、そのような読書体験を通して、徐々に、そうではなく、自分以前にも多くの者が似た体験をしていたのであることが分かる。
ふさわしい時期に現れて、大きな影響を与えた本としては、ジイナ・レイクの『テオドールから地球へ』、シュタイナーの『悪の秘儀』、EOの『廃墟のブッダたち』、カスタネダの『無限の本質』、そして最近では、ミナミAアシュタールの『新・日本列島から日本人が消える日』等がある。「ふさわしい時期」というのは、それを理解するのに必要な準備が、それまでの読書体験や考察によって、ちょうどできていた時期ということである。あるいは、それまでの読書体験や考察では、十分明確にならなかった部分や問題について、ちょうど問いただすような内容の本ということである。
これらは、ある種「特殊」な本と言えるかもしれないが、もっと身近なところでは、佐々木宏幹『シャーマニズム』がある。これは、体験の前にも読んでいて、違和感もかなりあったのが、体験後に改めて読んでみると、多くのことがスッと自分の中に入り、ここに述べられていることは全部「本当のこと」であることが、実感できた。つまり、シャーマンの交流する「精霊」は真実存在するものであること、様々な儀式には、「霊的」にみて十分の意味があること、シャーマンがシャーマンになる過程で受ける「死と再生のイニシエーション」は、真実のもので、私のした体験とも多く重なるものであることなどである。
「シャーマニズム」というのは、先住民文化を筆頭に近代以前の文化では「普遍的」なもので、このようなことから、私は、自分の体験が、決して「特殊」なものではなく、実は、「普遍的」なものに繋がっていることを、改めて理解することになった。ただ、「シャーマニズム」が本当に「生きている」のは、先住民文化であるという意味では、それは、身近と言っても、やはりある種距離のあるものと言えた。
ところが、そういったことは、もっと本質的に「身近」なところにあることを知って、衝撃を受けることとなった本がある。それは、柳田国男の『遠野物語』である。
「遠野物語」では、妖怪的なものとして現れることが多いが、「河童」や「山人」、「天狗」などの「精霊」的存在が、現に「生きた」ものとして当たり前のように現れる。「マヨイガ」のような、物質的存在ではない建物にも遭遇する。人が「神隠し」に会い、その者と何十年後かに遭遇する。そういったことが、多くの者によって、当然のように信じられ、共有されているのである。
そこでは、私が一連の体験で遭遇した事柄と通じるようなことが、当然のように展開されていたのだ。
「遠野物語」が出されたのは、明治43年で、明治維新後の日本での話である。遠野は、私も初め仕事で行くことになり、多くの印象的な体験をして、縁があるとしか思えず、今も好きでたまに行く(近くに好きな牧場があって、牛や鹿、鳥等と必ず不思議な交流がある)ところである。盆地で山々に囲まれており、田舎独特の、時間がゆったり流れる世界で、私的には、全体が、どこか別の次元からこの世界に降りて来たかのような独特の印象を持つ。けれども、決して、周りから隔絶された世界ではないし、明治の頃から、周りの村や都市との交通の要衝で、かなり栄えた街であったようである。
だからこそ、柳田国男も、『国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には、また無数の山神山人の伝説あるべし。願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。』と書くことができたのである。
つまり、「遠野物語」で語られていることは、何ら「特殊」の話ではなく、当時の日本の村々で、広く当たり前のように信じられ、経験されていた世界だということである。
もっとも、記事『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』でみたように、日本人にとって、1965年頃までは、「キツネにだまされる」のが当然のことであったのである。だから、明治の頃に、このような話が広く信じられ、経験されていたことは、何ら不思議なことではないとも言える。
むしろ、戦後しばらくした、1965年頃から、そのような世界を「迷信」として断絶する、あまりに「特殊」な世界観の支配する世界へと、移行したということなのである。
私は、「遠野物語」で語られていることは、ほとんどそのまま「事実」であると受け入れられたし、私の体験したような「特異」な「世界」が、そこでは、当たり前のように展開されていることに衝撃を受けた。先住民文化や近代以前の過去にまで遡らなくとも、「それ」は、あまりに身近なとこにあったことに気づかされたのだ。
自分の体験が、非常に「普遍的」なものであることを、改めて強く確信することになったということである。


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