「雷」に「力」をみる、「カミ」をみる
私は、子供の頃、雷が怖かった(今でも、それはあるが)。それは、もちろん現象として現れている強烈な光、はげしい音というのもあるが、何かそれだけでないものを背後に感じ取っていたからだと思う。何か、本当に畏怖させるもの、激しい怒りを向けられているような、厳粛な気分にさせるものがあったのである。
記事『ニーチェと「狂気」』でもみたように、ニーチェは、強烈な雷が鳴るのを聞いて、そこに、あらゆるものの根底に働く「力への意思」を直感したという。雷にこそ、人間を超えた「力」をみたわけだが、私もそのことには理解がいく。
この度、最近とりあげていた人類学者の奥野克巳著『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(新潮文庫)を読んでみたのだが、そこでも、ボルネオ島の狩猟採集先住民プナンの雷についての見方がとりあげられていて、興味深かった。
プナンは、抽象的に「神」を信仰するということはなく、農耕民などに比べると、宗教的な制度のようなものがほとんどないのだが、雷に対しては、自然のカミの働きを明確にみ、人々の行為を顧みさせるものとして、畏れ、敬って来た。
少し長いが、著書のその部分を引用してみよう。
「そうした自然現象は、プナンにとって、天上のかなたからの、雷のカミの恐るべき怒りとしてイメージされてきた。
怒りとは、他者あるいは自己の「まちがった振る舞い」(ポニャラ)に対する憤りである。雷のカミは、時に、人間のまちがった振る舞いに対して怒髪天を衝くように怒りを爆発させ、まちがった振る舞いをした当事者を含めて、あたり一面に怒りをぶちまけることがあるといわれる。
時には、激しい雷雨とともに発生した洪水が生きとし生けるものすべてを流し去り、時には、雷に打たれた人がその時のままの姿かたちで石や岩になり、落雷で焼けただれた大地が火の色と人々の血の色で赤く染まるとされる。人面石は、過去に石化したかつての人間の名残りであり、赤色土もまた荒れ狂った雷のカミの所業の証であるとされる。プナンが住む地では、雷のカミを激しく怒らせるまちがった振る舞いは、時に、人間が野生動物を苛んだり、動物に対して非礼なことをしたりしたことに帰せられる。」
そのようなことは、狩猟して来た獲物などに対して、さまざまな禁忌をもたらすことにもなるが、それはニーチェが意味するような(人間的な)「倫理」以前のものであるということの、興味深い考察もある。
しかし、そのことはおいて、このプナンの雷に対する見方もまた、自分の子供の頃の体験とよく通じるもので、納得のいく要素が多くある。
このように、改めて、雷というものが、自然の起こす現象の中でも、特別の意味合いを持っていることを感じさせられる。
ところが、近代以降の人間は、この雷をどのように解しているかというと、それは、要するに、自然(ネイチャー=対象物としての自然)が起こす「電気的な現象」に過ぎない、と解しているのである。
確かに、物質科学的な観点から見る限り、雷というのは、大気中で大量にプラスとマイナスに分離された電荷が、雲と雲の間や、地上との間で、放電された現象なのだろう。それで、強烈な光や音を発するのである。
それは、確かにそうなのであろうが、しかし、それに「過ぎない」ということになると、それは、もはや、(確かめられる)「事実」ではなくて、一つの「思想」であり、「ものの見方」と言うべきである。そのような物質科学的な見方以外の見方は、「間違っている」ものとして、「排除」するのだから、それも、強度に偏狭な発想と言うしかない。
ニーチェは、もちろん、雷が電気的な現象であることは知っていただろうが、それでも、その背後というか根底に、単に物質的なものを超えたものとしての「力」をみたのである。
プナンは、学校にでも通っていない限り、電気のことは知らないかもしれないが、プナンが雷にみていたのも、その背後または根底に働く「自然のカミ」の感情であって、その現象そのものが、何かそうした物質的な相互作用によって説明できるということではない。
たとえプナンが、雷が電気現象であることを認めたとしても、それによって、その背後に「自然のカミ」の働きがあるという見方を「排除」することはないであろう。
このようなことは、雷という現象に限らず、あらゆる物質的な現象について言い得ることである。
たとえば、精神病を「脳の病気」とみる(生物学的)精神医学も同じで、それを、「脳の作用がもたらしているに<過ぎない>」として、他の見方を「排除」しているのである。
それに対して、私もそうだが、それに反対する者は、精神病は、「脳の作用に過ぎないのではない」と言っているのだし、そのような脳の作用をもたらすような「原因」が、背後にあるということを言っているのである。そして、それに注目しない限り、精神病のことは理解できないと言っているのである。
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