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2024年10月

2024年10月24日 (木)

自我が外れたときの状況と、オルダス・ハクスリーの分裂病論の「意訳」

ブログ『統合失調とは本質的にどういう状況か』の方では、最近の設問21及び設問22で、「自我」または「自己」が揺らぎ、壊されて、自己と外界の境界が曖昧になったときに、その「自我」と連動していたそれまでの「現実」というものも多かれ少なかれ壊されて、新たに、見慣れぬものとして「生の現実」が現れ出るという状況のことをとりあげている。そのような状況で起こることが、統合失調の理解にとって、非常に重要だからである。

その状況自体のもたらす未知の恐怖はもちろん、あらゆる出来事が自分に関係しているかのように現れ出たり(「関係妄想」)、とても偶然とは思えない、意味的に関連する出来事(共時性の現象)を頻繁にもたらすことなどが、統合失調的な反応に大いに影響するのである。

ところが、こちらのブログでも、記事『「幻覚世界」を表した本 1-天国と地獄』で、このように「自我」が取り払われたときに現われ出る「世界」は、禅のいう「悟り」の体験ともなるとともに、恐怖と混乱のため、「統合失調状態」そのものともなることを、オルダス・ハクスリーやジョン・リリーの幻覚体験を通して、かなり具体的に述べていた。

その中で、次のように述べていたことが、特に重要なので、改めて掲げておく。

「要するに、この知覚の瞬間には、自己と世界との間に立ちはだかる「自我」という覆いが、取り払われているのである。それで、事物の本来の「リアリティ」が、強烈に立ち現れると同時に、それは、本来の自己と同一のものとして、感得されることにもなるのである。

ただし、それはまた、統合失調のような幻覚体験でも、多かれ少なかれ起こることである。統合失調状況においても(もともとの自我の脆弱さが影響することも多いだろうが)、また、自己と外界を境界づける「自我」は、大きく揺らぎ、または失なわれ、その区別を失わしめるような、強烈な「幻覚」が起こるからである。

幻覚体験そのものは、そのような、「自我」というものを当然の枠組みとしている日常の知覚体験とは異なり、「自我」が揺らぎ、または外れたときの、一つの必然的な「知覚体験」であり、客観的なものであるということを、押さえておくべきである。それ自体には、(プラスであれ、マイナスであれ)変な「価値づけ」は、なされるべきではない、ということである。

しかし、著者も言うように、そこには、事実上、「天国」と「地獄」と言ってもいいような、大きな質的な差が生じることがあるのも事実である。

また、そことでとりあげた、オルダス・ハクスリーの「分裂病」についての論も、とてもまとまっていて、的確なものなので、再び掲げる。

「精神分裂病者は罪深い人間という存在の上に絶望的な病というおまけのついた人間である。その病とは、常識という自家製の世界-便利な概念や共有された象徴や社会的に容認された習慣で成り立っているまったき人間の世界-にあって(正気の人間が普通そうしているようには)、内面及び外面のリアリティから逃避することのできない、その不可能性である。精神分裂病者は絶えずメスカリンの効力の下にある人間に似ている。従ってまた、あまり聖なる存在でないためにそれと直面して生き続けることのできないようなリアリティ経験から完全に逃れることができず、しかもそのリアリティが原初的事実の中でも最も動かしがたい事実であるがために言葉による説明で片づけることもできず、また単なる人間の眼で世界を見ることをそれが許さないためその徹底した異質性、その燃えるような意味の激しさを人間の悪意、いや宇宙の悪意の表れとすら解釈せざるを得ないほどに怯えることになり、殺人的暴力から緊張型分裂病つまりは心理的自殺に到るさまざまな必死の対抗手段に走るのである。それも一度下向線を、地獄への道をたどりはじめるとおそらく止まることは不可能であろう。」

ただ、これは、文学者らしい多少大袈裟な表現や、恐らく翻訳の問題もあって、読みやすくもないし、意味がとりにくいところがある。

私は、続いて、次のように解説していたが、それも多少端折り過ぎな説明で、決して分かり易くはないであろう。

「つまり、分裂病者は、リアリティへの感覚が鋭くあるため、通常の人間のようには、日常の世界に収まることができないが、かといって、聖者のように、それの取り払われた本来のリアリティの世界にも、落ち着くことができず、その「悪意ある」恐怖に対抗すべく足掻いて、混乱を深めていくしかない、ということになる。分裂病者の、どちらつかずの「中間的な位置」というか、一種の「中途半端さ」をよく言い表している。」

そこで、今回、上のハクスリーの引用部分を、私なりに、その「意」をとって、原文も参照せずに、恣意的もいいところだが、その独特の「表現」は生かしつつ、「意訳」風に再構成したものを、掲げておくことにした。

「精神分裂病者は、(一般の理解に沿う言い方をするならば)「罪深い人間という存在の上に絶望的な病というおまけのついた人間」である。しかし、その「病」の実質とは、実際には、「常識という自家製の世界―便利な概念や共有された象徴や社会的に容認された習慣で成り立っているまったき人間の世界―にあって(正気の人間が普通そうしているようには)、内面及び外面のリアリティから逃避することができない、というその不可能性」のことを意味している。

精神分裂病者は、絶えずメスカリンの効力の下にあり、「幻覚世界」にさらされている人間に似ている。従って、聖人のようには、それと直面して生き続けることのできないようなリアリティ経験から完全に逃れることができずにいる。しかも、そのリアリティとは、(言葉以前の)原初的事実の中でも最も動かしがたい事実であるがために、言葉による説明で片づけることもできない。また通常の人間の眼で世界を見ることをそれが許さないため、その徹底した異質性、その燃えるような意味の激しさを人間の悪意、いや宇宙の悪意の表れとすら解釈せざるを得ないほどに怯えることになる。

そうして、殺人的暴力から緊張型分裂病つまりは心理的自殺に到るさまざまな必死の対抗手段に走るのである。それも一度下向線を、地獄への道をたどりはじめるとおそらく止まることは不可能であろう。」

恐らく、ハクスリーの意図とも違わないと思うし、より分かり易くはなったことと思う。

ハクスリーの引用部分をこの「意訳」と入れ替えて、改めて記事の全文を読んでいただくと、より理解が深まることと思う。

 

 

2024年10月 5日 (土)

「雷」に「力」をみる、「カミ」をみる

私は、子供の頃、雷が怖かった(今でも、それはあるが)。それは、もちろん現象として現れている強烈な光、はげしい音というのもあるが、何かそれだけでないものを背後に感じ取っていたからだと思う。何か、本当に畏怖させるもの、激しい怒りを向けられているような、厳粛な気分にさせるものがあったのである。

記事『ニーチェと「狂気」』でもみたように、ニーチェは、強烈な雷が鳴るのを聞いて、そこに、あらゆるものの根底に働く「力への意思」を直感したという。雷にこそ、人間を超えた「力」をみたわけだが、私もそのことには理解がいく。

この度、最近とりあげていた人類学者の奥野克巳著『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(新潮文庫)を読んでみたのだが、そこでも、ボルネオ島の狩猟採集先住民プナンの雷についての見方がとりあげられていて、興味深かった。

プナンは、抽象的に「神」を信仰するということはなく、農耕民などに比べると、宗教的な制度のようなものがほとんどないのだが、雷に対しては、自然のカミの働きを明確にみ、人々の行為を顧みさせるものとして、畏れ、敬って来た。

少し長いが、著書のその部分を引用してみよう。

「そうした自然現象は、プナンにとって、天上のかなたからの、雷のカミの恐るべき怒りとしてイメージされてきた。

怒りとは、他者あるいは自己の「まちがった振る舞い」(ポニャラ)に対する憤りである。雷のカミは、時に、人間のまちがった振る舞いに対して怒髪天を衝くように怒りを爆発させ、まちがった振る舞いをした当事者を含めて、あたり一面に怒りをぶちまけることがあるといわれる。

時には、激しい雷雨とともに発生した洪水が生きとし生けるものすべてを流し去り、時には、雷に打たれた人がその時のままの姿かたちで石や岩になり、落雷で焼けただれた大地が火の色と人々の血の色で赤く染まるとされる。人面石は、過去に石化したかつての人間の名残りであり、赤色土もまた荒れ狂った雷のカミの所業の証であるとされる。プナンが住む地では、雷のカミを激しく怒らせるまちがった振る舞いは、時に、人間が野生動物を苛んだり、動物に対して非礼なことをしたりしたことに帰せられる。」

そのようなことは、狩猟して来た獲物などに対して、さまざまな禁忌をもたらすことにもなるが、それはニーチェが意味するような(人間的な)「倫理」以前のものであるということの、興味深い考察もある。

しかし、そのことはおいて、このプナンの雷に対する見方もまた、自分の子供の頃の体験とよく通じるもので、納得のいく要素が多くある。

このように、改めて、雷というものが、自然の起こす現象の中でも、特別の意味合いを持っていることを感じさせられる。

ところが、近代以降の人間は、この雷をどのように解しているかというと、それは、要するに、自然(ネイチャー=対象物としての自然)が起こす「電気的な現象」に過ぎない、と解しているのである。

 確かに、物質科学的な観点から見る限り、雷というのは、大気中で大量にプラスとマイナスに分離された電荷が、雲と雲の間や、地上との間で、放電された現象なのだろう。それで、強烈な光や音を発するのである。

それは、確かにそうなのであろうが、しかし、それに「過ぎない」ということになると、それは、もはや、(確かめられる)「事実」ではなくて、一つの「思想」であり、「ものの見方」と言うべきである。そのような物質科学的な見方以外の見方は、「間違っている」ものとして、「排除」するのだから、それも、強度に偏狭な発想と言うしかない。

ニーチェは、もちろん、雷が電気的な現象であることは知っていただろうが、それでも、その背後というか根底に、単に物質的なものを超えたものとしての「力」をみたのである。

プナンは、学校にでも通っていない限り、電気のことは知らないかもしれないが、プナンが雷にみていたのも、その背後または根底に働く「自然のカミ」の感情であって、その現象そのものが、何かそうした物質的な相互作用によって説明できるということではない。

たとえプナンが、雷が電気現象であることを認めたとしても、それによって、その背後に「自然のカミ」の働きがあるという見方を「排除」することはないであろう。

このようなことは、雷という現象に限らず、あらゆる物質的な現象について言い得ることである。

たとえば、精神病を「脳の病気」とみる(生物学的)精神医学も同じで、それを、「脳の作用がもたらしているに<過ぎない>」として、他の見方を「排除」しているのである。

それに対して、私もそうだが、それに反対する者は、精神病は、「脳の作用に過ぎないのではない」と言っているのだし、そのような脳の作用をもたらすような「原因」が、背後にあるということを言っているのである。そして、それに注目しない限り、精神病のことは理解できないと言っているのである。

 

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