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2024年8月

2024年8月30日 (金)

人類学で、近代社会の常識を「ひっくり返す」

シャーマニズムは、近代が排除したものだから、近代の失ったものを改めて目の前につきつけてくるのだった。それだけでなく、あらゆる点で、先住民の文化を知ることは、近代の常識を「ひっくり返す」ことに通じて来る

というか、我々、近代社会の常識が当たり前のように浸透した社会に生きている者にとって、そのような機会はほとんどないので、先住民の文化を目の前にしてくれる、人類学のようなものに頼るしかなくなっていると言える。

昔の人類学は、『金枝篇』のジェームズ・フレイザーがそうであるように、「アームチェアの人類学」などと言われて、ただ文献的に先住民の文化のあり様をとりあげて、考察するようなものだった。フレイザー自身は、私も鋭い考察が多くあって、面白いと思うが、しかし、全体として、やはり、近代文化とは異なる「遅れた」「珍しい」文化を、「興味本位」にとりあげるという指向が、明らかにあった。

私が子供の頃も、『知られざる世界』など、「未開」の先住民の文化を紹介するテレビ番組があったが、私自身、ほとんど興味本位で、「今も原始的な生活をする民族の生活を、驚きとともに覗く」というような感じで見ていたのを覚えている。そのような見方以外、あり得なかったのである。

それが、人類学も、フィールドワークのように、実際に現地で生活を共にする「参与観察」の方法に基づくものが主流になり、徐々に、先住民文化に対する偏見のようなものが減って来た。レヴィ・ストロースのように、思想的に、近代とは異なる合理的な構造が支配する文化であることを明らかにする者も出て来た。

そのようなことを通して、徐々に、先住民文化が、近代文化とは異なる「対等」な文化であり、しかも、近代文化も学ぶべきものを多く持った文化であることが、認められるようになって来た。おそらく、現在でも、特に興味のない者は、相変わらず、「遅れた」「珍しい」文化ぐらいにしか思わないだろうが、少なくとも、そうでないことを認めめる人も増えて来たのである。

最近、奥野克巳著『ひっくり返す人類学(ちくまプリマ―新書)を読んだのだが、この本も、改めて人類学が、そのように近代社会の常識を「ひっくり返す」力をもったものであることを、人類学者としての長い経験を通して、分かり易く、具体的に説いているものである。

たとえば、学校という教育、経済的な格差や権力、心の病や死、自然を「対象物」として捉えていることなど、近代の常識では当たり前になっていることが、著者の長くフィールドワークした、ボルネオ島の狩猟採集民プナンの文化では、ことごとく、みられなかったり、「ひっくり返され」ていて、そのようなものや見方が、少しも普遍的でも必然でもないことを示してくれている。

学校などなく、「教える」という観念もない。子どもが生きるために必要なことは、子どもが、周りの大人から自然と身につけてしまうし、周りも、そのように促していく。狩猟して得た獲物は、共同体のみんなで分かち合うのが当たり前になっていて、ものの蓄積などという観念もないから、格差や権力の生まれる余地もない。

心の病や死については、このブログ的には、最も興味がもたれることだが、著者は、「うつ病その他の心の病」は、長い間プナンを見て来たが、「まったくない」と断言する。先住民でも、焼畑農耕民である他の部族には、「心の病」がみられることがあるようだが、少なくともこの部族には、ないという。

前に、記事『一過性の現象としての「統合失調」』でもとりあげたが、野田正彰著『狂気の起源をもとめて』(中公新書)も、パプアニューギニアのいくつかの地域で、西洋文明との接触のほとんどない伝統文化そのものの地域の人々には心の病というものがなく、西洋文明の影響を受けてかなり変容した地域の人々には、まさに「典型的」と言える心の病がみられる。そして、両者の境界的な地域の人々では、切迫した、急性的な分裂病的反応や、誇大妄想などの現象が、現に発生する現場をみることができる、ということを明らかにしていた。

『ひっくり返す人類学』では、「心の病」というとき、「うつ病」を中心に言っているが、それはおそらく、「うつ病」こそが現代文明の代表的な病であることと、統合失調症には、シャーマンのトランスに入ったり、何らかの存在の声を聞くなどの行為を含める見方をする者がいて、あえて(この本は、学生向きの本であることもあり)そのことには触れなかったものと思われる。

しかし、「うつ病その他の心の病はない」とはっきり言っているし、著者は、他の『これからの時代を生き抜くための 文化人類学入門』(辰巳出版)では、シャーマニズムのあり方にも詳しく言及しているから、当然、統合失調症とシャーマンの状態が異なることは、はっきりと認識したうえで言っているはずである。

『狂気の起源をもとめて』でも、西洋文明と接触のない地域には、「一過性の錯乱現象」はあるとしているが、これも、シャーマン的なトランスや、憑依現象によって一時的に混乱する者はいることを示しているのだと思われる。

いずれにしても、著者は、「心の病がない」ことの原因については、あまり踏み込んでいないが、ただ、「サラババ」と呼ばれる、現地で見られる、話しの脈略とは関係のない卑猥な言葉を吐く興味深い現象を紹介して、結局「心の病」と言われるものも、それと同じように、一種の文化現象なのではないかと問うている。(おそらく、この「サラババ」も、ある種の憑依や精霊等の悪戯が関係していると思われる。)

また、先にみたように、『これからの時代を生き抜くための 文化人類学入門』では、シャーマニズムについても、かなり分かり易い説明がされている。儀礼の過程について、(共同体または日常世界からの)分離・過渡・統合の過程をたどることや、その過渡の段階では、「コミュニタス」と呼ばれる、何ものにも所属しない境界領域、あるいはそれまでの世界が崩壊した、カオス的な状況を通り抜けることなどを明らかにしている。まさに、そのような過程を通り抜けることこそ、「イニシエーション」の意味するところなのである。

ここでは、簡単な説明だけになったが、どちらの本も、私がこれまで述べて来たことと通じる面が多く、近代社会の常識を「ひっくり返す」視点を十分に与えてくれるはずなので、ぜひ読んでほしいものである。

 

  「死」については何も述べなかったが、「死」については、死後の世界も含めた世界観を抜きに論じてもあまり意味はないし、著者も、(やはり学生向きの本であることもあって)、あえてそこまで踏み込まなかったものと思われる。ただ、近代人が死をタブー化するとともに、葬式や墓などでは逆にいつまでも死に拘わるようなあり方をしているのに対して、プナンの、死の儀礼は一通りするが、以後故人のことは忘れて、ほとんど死に拘らないあり方を興味深く伝えている。要するに、彼らは、死について「自然に受け入れている」し、それにはそれなりの背景(世界観や、「死」の要素を含む儀礼などの体験を含む)があるということである。
 
『生き抜くための人類学入門』の方では、そのような「死」や「宗教性」についても、ある程度踏み込んで述べているので、参照にしてほしい。

 

2024年8月16日 (金)

「かの始めのとき」と「無意識」

前々回、「先住民文化にとっても、誰もが神々や精霊や祖先と交流できた天上的な世界とのつながりは、いったんは失われたのであり、それを回復し、再現するためにこそ、「シャーマン」なる特殊技術者を、必要とした」ということを述べた。エリアーデは、そのように、「誰もが神々や精霊や祖先と交流できた天上的な世界とのつながり」があった時代を、「かの始めのとき」と呼んでいた。

このように、「かの始めのとき」というと、我々、直線的な時間観念を生きている者には、その時間観念の遠い過去の特定の時代を意味すると受け取られるかもしれない。しかし、この「かの始めのとき」というのは、単に、時間的な観念における過去を意味するのではない。それは直接的な時間観念の根底にあって、「いま現在」も常に働きかけているものである。それは、通常の「時間」を超えており、直線的な時間観念の中に収まるような、特定の時間を意味するのではないということである。

アボリジニのいう、「ドリームタイム」というのも同じことで、遠い過去の「神話的な時間」ということではなく、いま現在、さらに未来も含むような、直線的時間を超えて、根底に働いている「時間」を意味している。

だから、先住民族において、それが「失われた」といっても、それは、「いま現在」において、つながることのできなくなったものなのではない。それは、直線的な時間観念の支配する「日常的な意識」から失われたのであって、「無意識」の深くの「非日常的意識」へと沈み込んだものということができる。

なので、その「無意識」の深くの「非日常的意識」と何らかの方法で繋がることができるなら、その「かの始めのとき」とのつながりを、「いま現在」において取り戻すことができるわけである。それを取り戻す方法が、シャーマンにおける「エクスタシー」(脱魂)技術であり、そのシャーマンが指導する儀礼においては、他の共同体の者たちも、「かの始めのとき」とのつながりを何らかの仕方で、共有することができるようになる。

ところが、先住民族においても、その「日常的意識」と「非日常的意識」との溝は、けっして浅いものではないので、シャーマンにおいても、そのつながりを取り戻すには、多くの試練を超えなければならない。「死と再生」と言われるように、「日常的意識」に死んで、「非日常的意識」に新たに生まれる直すことができなければ、そのようなことは達せられないのである。シャーマンの指導において、儀礼の中で、「非日常的な意識」へと入る他の共同体の者においても、それはある程度言えることである。

記事『「<癒し>のダンス」』では、クン族の儀礼において、そのように、通常の自我の支配する「日常的意識」に死んで、「非日常的意識」に入っていく状況こそ、シャーマン的な「癒し」における要となる状況であることや、その難しさを、かなり詳しく述べたので、ぜひ参照してほしい。

また、このクン族では、「シャーマン」と呼ばれるような特殊の地位を有する能力者というものは立てられておらず、誰もが、儀礼の中で、そのような「非日常的意識」を獲得することによって、シャーマン的な能力を発揮し、しかし儀礼が終われば、もとのただの共同体の一員に戻るのだった。

このような例は、とても興味深く、いわば、誰もがそのような能力を発揮できた「かの始めのとき」と、シャーマンによってそのような時間が取り戻されるようになったシャーマニズム文化の、中間形態と言うこともできよう。

 それに対して、近代人においては、確かに、文化としてはそのようなものは、ほとんど「完全」に失われたが、本来、「かの始めのとき」は、「いま現在」も時間の根底に働いているのである以上、それとつながる可能性が、全くなくなったというわけではないのである。

ただ、そのようなものは、先住民族に比しても、より深い「無意識の奥」へと沈み、「日常的意識」との溝は、決定的に深まったと言うことができる。また、方法論としても、それを取り戻すような方法は失われ、そもそもそのようなものは、「ないこと」にすらされているので、そのような「溝」を埋める方法も、現実になかなか見いだせない状況にあるということになる。

しかし、繰り返すが、決して不可能なのではないし、「統合失調状況」の体験というのも、かなり歪みを受けた形ではあるが、「かの始めのとき」の何ほどかを、反映する体験ということは言えるわけである。

 

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