近代が本当に排除したかった文化「シャーマニズム」
記事、『オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 1』以降や、その他の記事で、近代社会とは、何よりも、「オカルト的なもの」を排除することで成り立っている社会であることをみた。
現に我々が住んでいる近代社会が、そのように、強力な「排除」によって成り立っている社会であることを鑑みないと、近代社会の中では当たり前のように通用しているが、近代社会以外の文化では通用しない、恐ろしく狭い考え方に捕らわれて、それ以外の見方をできなくなる。
ただ、そうは言っても、「オカルト的なもの」という言い方が引っかかる人は、依然多くいることだろう。「オカルト的なもの」という言い方では、おどろおどろしく、非合理なものを、当たり前に排除しているだけと感じたり、何か抽象的で、具体的なものを排除している感じがしない人も多いだろうからである。
そこで、言い方を変えるなら、近代社会が本当に排除したかったのは、現に生きていた文化として表現するなら、「シャーマニズム」なのだと言うことができる。
「シャーマニズム」は、近代社会以外の文化に「普遍的」に取り入れられ、あるいはそれこそが文化の中心をなしていたので、そのように本当に生きていた文化を、「排除」することによってこそ成り立っている社会が、近代社会なのだということで、実感が得られやすいであろう。
「シャーマニズム」とは、
「通常トランスのような異常心理状態において、超自然的存在(神、精霊、死霊など)と直接接触・交流し、この過程で予言、託宣、卜占、治病行為などの役割をはたす人物(シャーマン)を中心とする、呪術-宗教的形態である。」(佐々木宏幹)
この定義を読んだだけでも、「シャーマニズム」の実質に、「オカルト的なもの」を十分感じ取ることができるであろう。たとえば、「超自然的存在(神、精霊、死霊など)と直接接触・交流する」ということ、「予言、託宣、卜占、治病行為をする」ということなどに、「オカルト的なもの」が直接関わっているのが分かる。
「トランスのような異常心理状態」というのは、通常の意識状態からすれば、「非合理」で「無気味」、「不可思議」なものに思われるし、シャーマンがシャーマンになる前に受ける召命(巫病)は、しばしば「死」を連想されるような、壮絶な過程である。シャーマンが行う「儀式」というのも、動物の供犠を伴うなど、「おどろおどろしい」、怖れをもたらす要素が多くある。
「シャーマニズム」は、実際、(近代人からみれば)排除したくなるような「オカルト的な要素」に満ちているということができる。
歴史的に言えば、既に何度も見たように、近代の直前に、西洋においては、「魔女狩り」の「魔女」という形で、「シャーマン的なものを引き継ぐ者」が強力に排除された。記事『オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 4—「魔女狩り」と「魔女」を否定することの意味』でみたように、キリスト教指導者にとっては、民衆に根強く信奉されるシャーマンは、自己の信仰や地位を脅かすとともに、直接に悪魔的で恐ろしい存在である。民衆にとっても、一方で頼られる存在であると同時に、害をもたらす力をもった恐ろしい存在でもあった。
そのようなシャーマンに連なる者が、「魔女」として排除されたのである。
日本にも、同じように、シャーマン的な要素を残す者が、実質「魔女狩り」に近い形で排除されることはあったし、西洋文化を移入しようという過程で、伝統文化を引き継ぐ「老婆」が排除されたこともみた。(記事『オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 1 —「血取り」「膏取り」と「迷信撲滅運動」』など)
日本では、西洋以上に「シャーマニズム」は民間に根づいていたものだから、その排除とは、「伝統文化」そのものの排除とも言えるものがあった。そのように極端な排除をしたからこそ、西洋近代の移入が、他の西洋以外の文化圏に比して、早くなされることになったということも言える。
何しろ、近代が排除した「オカルト的なもの」とは、現に、具体的に民衆の文化として「生きて」いたものの「排除」だったということが重要である。そして、それは、近代においては、統合失調という「排除すべき病気」へと、置き換えられたのである。
だから、そのような元々の姿を伝える、生きた文化を本当に顧みることでしか、「統合失調」の実質を具体的に捉えることができないのも、当然のことと言える。
「シャーマニズム」は、自然の万物に霊的な存在をみる「アニミズム」とも関わり合っている。だから、「シャーマニズム」は、万物に物質的なものしかみない現代の物質主義的な観点からは、過去の「幸せ」(お花畑的)な「幻想」のようにもみなされやすい。
しかし、実際には、既にみたように、「シャーマニズム」には、「おどろおどろしく」、「恐ろしく」、力に満ちた「現実的な要素」が多分にあって、それこそが「排除」をもたらすことになったのである。
シャーマニズムのこのような「おどろおどろしい」面について、それはなぜそうなるのか、次回に改めて捉えなおしてみたい。
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