「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 1
「精神病理学」については、哲学的で晦渋なイメージがあって、興味があっても、とっつきにくいと思っている人が多いであろう。それは、確かにそう言える面があり、だからこそ敬遠されて、表面上「分かりやす」く、一般化しやすい、生物学的な精神医学の方に、多くの注目や期待が寄せられることにもなるのだろう。
私自身も、精神病理学には晦渋なイメージはあったが、最近、松本雅彦著『精神病理学とは何だろうか』(星和書店)や、松本卓也著『症例でわかる精神病理学』(誠信書房)という、明解で分かりやすく書かれた本を読んでみて、改めて、「統合失調」と「精神病理学」について確認できたことがある。(この二つの本は、それぞれよく書かれた本で、「精神病理学」に興味があるなら、ぜひ読んでみてほしい。)
それは、端的に言うと、次のとおりである。
まず前提として、「統合失調」を巡る問題とは、結局は、「了解」を巡る問題であるということ。そして、「精神病理学」は、一般の(生物学的)精神医学とは異なり、「了解不能」とするのではなく、それに鋭い視点から迫ろうとしていて、それぞれにみるべきものがあるということ。しかし、残念ながら、それは結局は、「統合失調状況に入る契機」を明らかにするものであっても、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものではない、ということである。
このことは、前から述べていたことではあるが、今回改めて、強く確認されたので、それについて述べる。
まず初めに、私自身の立場をはっきりさせておくと、私にとっては、自分の体験からして、「統合失調」には「了解しかできない」ということになる。
「統合失調」に陥る人にも、さまざまなパターンや現れの違いがあるだろうから、「了解しかできない」というのは、おこがましいようだが、そこには本質的なレベルで共通の要素があるのは確かで、そこが具体的に「了解」できれば、それらの違いも、十分「了解」的に推察できてしまうのである。
精神科医のあげる症例や本人の手記などを読んでも、自分の体験に照らして、「あの状況でこのような反応をしてしまっているからこうなるのだな」等の理解が、具体的に、できるのである。
精神病理学でいう「了解」は、客観的な「説明」ではなく、主観的に「感情移入」して「了解」できることを言うのだが、もちろん、そのような状況での「出口の見えない」「どうしようもない」苦悩を体験しているから、同じような状況にある者に対して、いやでも「感情移入」的な理解になる。
ところが逆に、自分がそのような体験をする前を振り返ってみれば、「統合失調」に対して特に知識があったわけではないが(一通りのイメージは持っていた)、そこには、「了解などできない」という確かな壁ないし断絶が、はっきりとあったと言える。それは、(「分裂気質」というものに対して親近性は感じていたのだが)自分が実際に「統合失調」という状態に陥ることは、とても現実的に考えられることではないという思いと、言い換えることもできる。
現在でも、「統合失調」には、実際に体験してみないと分かり様のない面が、多分にあると思わざるを得ない。体験していない者に「了解」してもらうことなど、期待しようがないと思わざるを得ないところがあるのである。
だから、精神病理学が、自ら体験したわけでもないのに、それなりに鋭く、「了解」に迫ろうとするものがあることには、感心と驚きの方が大きいのである。少なくとも、「了解不能」として切り捨てて、「脳の病気」として「分かった」ことにし、薬で治療すべきものとする生物学的精神医学とは、大きな違いである。
精神病理学は、近代が前提として立てる発想に疑問を付し、それらをかっこに入れて、「意識に現れるままを観察する」という「現象学」の方法に則るものが多い。特に、デカルトが立てた「近代的自我」とか心身二元論的な発想を予めの前提としない。だから、「統合失調」を単純に、「自我の崩壊」とか、心身二元論の発想に基づく、「脳の病気」などとはみない。
フロイト的な精神分析についても、無意識という意識に現れていないものに対する「解釈」に過ぎないということで、取り入れないものが多い。
そうした中で、それぞれに、近代社会の中で「正常」とみなされる者を含めて、人間が生きるということはどういうことかを探って行き、その中のある種「逸脱」的な生き方をしてしまっている「統合失調」の者の意識のあり様を、何とか「了解」していこうとするのである。
それは、初めに述べたように、それぞれにみるべきものがあるし、「統合失調に陥る契機」としては、本質を明らかにするものがかなりある。
しかし、この点については、次回に具体的に述べることにし、今回は、私の場合との相違についてさらにはっきりとさせておきたい。
私は、「統合失調状況」そのものは、「霊界の境域」などとも言ったように、この世界に通常の感覚においては捉えられない「霊的」な領域のものが侵入し、両者が混交している状況であるとした。そこには、はっきりと、それまでの(通常の感覚に基づく)体験とは異なる「未知」の要素が入り込み、特に「自我」が弱いわけでもなくとも、混乱させる要素が多くあるのである。
精神病理学は、近代の前提とする発想を疑い、かっこに入れるのだが、それは、「霊的」または「オカルト」的なものにまでは向けられていない。つまり、これまでみて来たように、近代が内的な「排除」の欲求に基づいて、「霊的」「オカルト的」なものを存在しないことにしたという発想までを問うものではない。だから、精神病理学では、「統合失調状況」にそのような新たに侵入した「未知」の要素までをも、みようとすることがない。
それで、「統合失調状況」というのも、結局は、「統合失調に入る契機」の延長で(多くは自己の成り立ちにくさや未熟なあり様のため)、混乱が極まった状況とみることになるのである。中には、新たな「未知」の要素を何らかの形で示唆するようなものもあるが、それは、「霊的」「オカルト的」とみなせるようなものではない。
ただし、それには、精神病理学が、「意識に現れたままを観察して記述する」という「現象学」の方法に則ることから来る、当然の限界もあると言える。「無意識」の領域すら、意識に現れないものの「解釈」として切り捨てるのだから、多くの者には意識に現れているわけではない、「霊的」「オカルト的」なものの存在や働きなど、認めることができないのは当然ということにもなる。
しかし、この点は、「それ」が「現に意識に現れた者」の側からすれば、全く異なることになる。私は、まさに体験のさ中でも、様々な妄想的解釈や葛藤の果てにだが、最終的には、「意識に現れたままを観察する」ことしかできないことに気づき、それを実践することにした。それは、どうしてもつきまとう、混乱や迷いの中での、危ういものではあっただろうけれども、まさに、意識せずとも、「現象学」的な方法を実践していたのと同じことになる。
また、「無意識」領域で体験していたものについても、何度か述べたように、「思い出す」という仕方で意識に上るものになったから、それは、まさに「意識に現れるままを観察」することを可能にするものとなったのである。
先に言ったように、それらは、当時の体験のさ中においては、かなり危うい、不確かな面も多かったかもしれない。しかし、それは、現在においては、それらを通り越して通常の意識状態にある中において改めて観察されたり考察されたうえで、様々な統合失調に対する考えとも照らし合わせて提示されているもので、私としては、まさに「現象学的な方法」そのものと言えるのではないかと思う。その意味でも、精神病理学には、親近性を感じるのである。
ただし、先に言ったように、統合失調を体験したわけでもない精神病理学者の「了解」との間には、壁や断絶をも感じざるを得ないのは事実である。そしてそれは、致し方のないことでもある。
しかし、多くの人は、統合失調を体験したわけではないので、同じ立場から、精神病理学を通して、「統合失調」を「了解」しようという意図を共有することは、しやすいと思う。「了解」しようという意思を失い、「了解不能」ということで、「分かった」ことにしてしまえば、もはや一般に浸透している、生物学的な精神医学を「妄信」するしか途がなくなると思う。
そこで、最初にあげた精神病理学の基本的な本や、このブログで取り上げた、R.D.レインの『引き裂かれた自己』や、特に、新書という形にまとめられた、木村敏の『心の病理を考える』などの本を、ぜひ読んでみてほしいと思う。
もちろん、私のこのブログの記述に、十分の共感や理解を感じられる人がいるなら、それに越したことはないのであるが。
次回は、精神病理学のいくつかの説をとりあげつつ、もう少し具体的に述べてみたいと思う。
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