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2024年3月

2024年3月24日 (日)

「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 2

一般の精神医学は、統合失調の者の言動が「了解不能」ということで、(特に脳の)「病気」として分かったこと(説明されること)にしていると述べた。

たとえば、精神科医のこのサイトでも、統合失調症が病気(疾患)とされることの根拠を問うなら、結局は、その者の言動が「了解不能」ということにあるとしている

しかし、そのように、他の者に「了解不能」とみなされる言動をとると、「精神病」と認定され、強制入院等の措置がとられる可能性があるというのは、考えてみれば恐ろしいことのはずである。もちろん、実際には、病気の症状として経験的に類型化されたものと照らして、判断されるわけだが、最終的な根拠が、「了解不能」ということにあることは、そこにかなり多くの影響を与えないはずがないのである。

精神病理学の先駆者とされるヤスパースは、統合失調症について、当時の「了解不能」の「脳の病気」で「治療不能」という一般的な見方に疑問をもち、現象学の方法をもって何とか、主観的な「感情移入」による「了解」に迫ろうとした。さまざまな前提と抽象によってこそ成り立つ、表面的な「客観的説明」などではなく、具体的に、主観レベルで「了解」できるものとしようとしたのである。

しかし、結局、ヤスパースも、あるところまでは「了解」できても、その先は「了解不能」であり、そこには、一般の「客観的な説明」を頼らざるを得ない、とせざるを得なかったようである。

ただ、その後の精神病理学は、ヤスパースのような妥協的な態度ではなく、何とか「了解」に迫ろうとする方向をそれぞれに探って行った。

前回私は、精神病理学の、「意識に現れたまま」を捉えようとする「現象学的な方法」に共感するということを述べた。

しかし、精神病理学のもう一つの大きな特徴は、近代的理性(による抽象的な原理や本質の理解)に疑いが挟まれて後の、個々の現実的、具体的な行き方を問題とする、「実存主義」的な態度にあるということも言える。

人々は、ニーチェが、「近代は、神を殺して、無を崇拝することになった」と言ったように、かつての神への信仰を失い、その神の性質を継承する「近代的理性」も疑われて、その隙から世界に顔を覗かせた「無」と直面せざるを得なくなった。

たとえば、パスカルは、「この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐怖させる。」と述べているが、それは、まさに、世界の根底に「虚無の深遠」をかいま見ていることの表現と言える。そして、これは、フッサールやハイデガー、サルトルなど、その後の実存哲学者たちにも、共通する感覚である。パスカルやキルケゴールなど、改めて神への信仰に至った者も多いが、それにしても、それは、世界の根底に「虚無の深遠」をみるところからこそ、始まっているのである。

精神病理学もまた、このような実存主義的な感覚を継承しているものが多い。だから、多くの精神病理学者にとって、「自己」がうまく成り立たって行かず、世界の根底たる「虚無」に搦め捕られたかのような、統合失調の者は、決して他人事ではなく、「了解」が全く不能なものでもない。そのような状態に陥った者を通して、改めて自分の生き方も問われてくるという意味で、「了解」への意欲をかき立てられるものでもある。

私は、世界の根底にある「虚無」に近づく方向を、「垂直的方向」としていたが、まさに、精神病理学の多くは、この垂直的方向から、統合失調を見据える目を、それなりに持っているのである。

だから、私が精神病理学に共感する部分というのは、実際には、この面にこそよっていると言える。

ただし、前回も述べたように、精神病理学は、(虚無の侵入を防ぐような、自己が成り立ちにくいなど)「統合失調状況に入って行く契機」をよく捉えているが、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものとは言えない。たとえ、部分的に明らかにするものがあるとしても、それは不十分なのである。それは、「水平的方向」の理解を欠いているからである。

「水平的方向」というのは、この場合、実際に「実体的」なものとして作用する、「霊的、オカルト的」な面を意味している。「統合失調状況」では、それまでの感覚的な領域での体験を超えた、新たな未知の要素が、実際に入り込み、それが「実体的」にその者に影響を与えるということが起こるのである。

このような新たな要素こそが、実際に「統合失調状況」に入り込んでいる者を捕らえて、惑わし、混乱させているのである。そして、そのような面こそが、人々に、恐怖を抱かせ、「了解不能」との思いをもたせるのである。あるいは、「了解不能」として、それ以上それに関わることを拒否する態度をもたらすのである。

そのようなものは、近代が、神への信仰以前に、「魔女狩り」の沸騰をもたらした元凶たる「悪魔的」で「おどろおどろしい」ものとして切り捨て、タブー化したものにほかならない。だから、 もはや「了解」の基盤もなく、しかも、その恐怖から、「了解」の舞台に上げることすら忌み嫌われるのである。

近代の理性に対して多くの疑問を付す精神病理学も、残念ながら、このような面においては、やはり近代の心情を受け継いでおり、そのような「霊的、オカルト的」な面、あるいは「水平的な面」にまでは着目しないので、「了解」といっても、十分に具体的なものにはならないのである。

次回は、著名な精神病理学者ビンズワンガーなどの例をあげて、もう少し具体的にみてみたい。

2024年3月11日 (月)

米国防総省はUFO・宇宙人への関心の火消しに走る

記事『米UFO調査機関新設の意図』で述べたように、米国防総省は、2021年に未確認飛行物体の調査機関を設置していたが、先日、その調査報告として、次のようなことを発表した。

〇「未確認飛行物体の目撃報告が地球外の技術の存在を証明するという根拠はない」

〇分析可能なデータが存在するケースを分析したところ、ほぼすべての(他の報道機関では「ほとんどの」と表現されている)報告が「普通の物体や事象の誤認だった」

〇「米政府、企業などが地球外技術を入手し、構造分析をした根拠は見つからなかった」

日本経済新聞の報道記事 参照) 

この記事でも触れられているが、このところ、メディアでは、米下院のUFO公聴会での元米軍関係者による証言のことがよくとりあげられていた。元海軍パイロットは、そこで、「米政府が地球外技術を入手し存在を隠蔽している」と証言して波紋を呼んでいたのである。

今回の調査報告は、まずもって、これらの公聴会での証言を、米国防総省として明確に否定することを意図したものと思われる。

UFO公聴会での元米軍関係者による証言は、前に記事『「公開プロジェクト摘要書」について』でもとりあげていた、グリア博士の主導する公開プロジェクトにおける元米軍関係者の証言とも一致しており、実際、そのプロジェクトに関わった者も参加しているようである。

ところが、この公聴会は、初めはメディアでもよくとりあげられて話題になったが、その後、メキシコの議会でUFO研究家が、宇宙人のミイラと称するものを持ち出してセンセーションとなり、それが分析の結果動物の骨をつないでできたものと報道されて後は、急に話題としてもとりあげられなくなっていた。( 報道記事  参照)

これには、UFO公聴会の話題性や(この件には関係しない)米軍関係者たちの証言の信憑性をも同時に削ぎ落そうする、かなりあからさまな情報操作の意図も疑われる。

そして、今回の国防総省の発表は、それに追い打ちをかけるように、公聴会での証言をはっきりと否定しにかかることになった。

「未確認飛行物体の目撃報告が地球外の技術の存在を証明するという根拠はない」という言い方は、(そもそも「地球外の技術の存在の証明」とはどういうことを言うのか、という問題もあるが)、地球外の技術の存在の「可能性」を正面から否定するものではないし、「ほぼすべての(他の報道では「ほとんどの」と表現されている)報告が「普通の物体や事象の誤認だった」というのも、地球外から来ているものがある可能性を、正面から否定するものではない。

しかし、この発表は、そのような可能性が、とりえず現在のところ、ほとんど認め難いものであることを、明らかに示すものではある。かつて空軍の調査機関、プロジェクトブルーブックが閉じられるときに出された報告書、「コンドン報告」とほとんど変わらない内容にまで後退している感がある。(記事『米UFO調査機関新設の意図』参照)

何しろ、UFO公聴会の米軍関係者の証言に関しては、ほぼ正面から否定したのである。

記事『米UFO調査機関新設の意図』でも述べたように、支配層は、「宇宙人の脅威」を「世界統一政府」樹立の、最終兵器のように利用したがっている。しかし、現時点において、正面からUFOや宇宙人の存在を認めることは、パニックになることが予想されることや、その宇宙人がどのような存在であるのかなどへの関心をあまりに喚起し、その多くが知れてしまう可能性があることなど、支配層にとって大きなマイナスの可能性も抱えている。

だから、これまで彼らは、UFOや宇宙人については、正面から認めるのではないが、同時に正面から否定することもなく、可能性としては含みを残しながら、曖昧にしておきたかったのだと思われる。曖昧なまま、必要以上に一般の関心を喚起することなく、いざというときに、かなり突発的に「宇宙人の脅威」を演出することで、「世界統一政府の必要性」を決定的にアピールしたかったのである。

しかし、今回の発表は、明らかに、そのような計画を犠牲にしても、現在の公聴会の証言を正面から否定し、一般のUFOや宇宙人に対する関心も、火消しするという必要に迫られたものということができる。それだけ、公聴会の証言と人々の反応には、危機感を感じていたということにもなろう。

実際、このような支配層の意図どおりに、この問題が終息してしまうのかどうかは、怪しいものだし、支配層としても、やはり完全に事態が終息することまでは望まないこともあるので、今後のUFOや宇宙人関連の出来事の動向が注目される。

 

2024年3月 2日 (土)

「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 1

「精神病理学」については、哲学的で晦渋なイメージがあって、興味があっても、とっつきにくいと思っている人が多いであろう。それは、確かにそう言える面があり、だからこそ敬遠されて、表面上「分かりやす」く、一般化しやすい、生物学的な精神医学の方に、多くの注目や期待が寄せられることにもなるのだろう。

私自身も、精神病理学には晦渋なイメージはあったが、最近、松本雅彦著『精神病理学とは何だろうか』(星和書店)や、松本卓也著『症例でわかる精神病理学』(誠信書房)という、明解で分かりやすく書かれた本を読んでみて、改めて、「統合失調」と「精神病理学」について確認できたことがある。(この二つの本は、それぞれよく書かれた本で、「精神病理学」に興味があるなら、ぜひ読んでみてほしい。)

それは、端的に言うと、次のとおりである。

まず前提として、「統合失調」を巡る問題とは、結局は、「了解」を巡る問題であるということ。そして、「精神病理学」は、一般の(生物学的)精神医学とは異なり、「了解不能」とするのではなく、それに鋭い視点から迫ろうとしていて、それぞれにみるべきものがあるということ。しかし、残念ながら、それは結局は、「統合失調状況に入る契機」を明らかにするものであっても、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものではない、ということである。

このことは、前から述べていたことではあるが、今回改めて、強く確認されたので、それについて述べる。

まず初めに、私自身の立場をはっきりさせておくと、私にとっては、自分の体験からして、「統合失調」には「了解しかできない」ということになる。

「統合失調」に陥る人にも、さまざまなパターンや現れの違いがあるだろうから、「了解しかできない」というのは、おこがましいようだが、そこには本質的なレベルで共通の要素があるのは確かで、そこが具体的に「了解」できれば、それらの違いも、十分「了解」的に推察できてしまうのである。

精神科医のあげる症例や本人の手記などを読んでも、自分の体験に照らして、「あの状況でこのような反応をしてしまっているからこうなるのだな」等の理解が、具体的に、できるのである。

精神病理学でいう「了解」は、客観的な「説明」ではなく、主観的に「感情移入」して「了解」できることを言うのだが、もちろん、そのような状況での「出口の見えない」「どうしようもない」苦悩を体験しているから、同じような状況にある者に対して、いやでも「感情移入」的な理解になる。

ところが逆に、自分がそのような体験をする前を振り返ってみれば、「統合失調」に対して特に知識があったわけではないが(一通りのイメージは持っていた)、そこには、「了解などできない」という確かな壁ないし断絶が、はっきりとあったと言える。それは、(「分裂気質」というものに対して親近性は感じていたのだが)自分が実際に「統合失調」という状態に陥ることは、とても現実的に考えられることではないという思いと、言い換えることもできる。

現在でも、「統合失調」には、実際に体験してみないと分かり様のない面が、多分にあると思わざるを得ない。体験していない者に「了解」してもらうことなど、期待しようがないと思わざるを得ないところがあるのである。

だから、精神病理学が、自ら体験したわけでもないのに、それなりに鋭く、「了解」に迫ろうとするものがあることには、感心と驚きの方が大きいのである。少なくとも、「了解不能」として切り捨てて、「脳の病気」として「分かった」ことにし、薬で治療すべきものとする生物学的精神医学とは、大きな違いである。

精神病理学は、近代が前提として立てる発想に疑問を付し、それらをかっこに入れて、「意識に現れるままを観察する」という「現象学」の方法に則るものが多い。特に、デカルトが立てた「近代的自我」とか心身二元論的な発想を予めの前提としない。だから、「統合失調」を単純に、「自我の崩壊」とか、心身二元論の発想に基づく、「脳の病気」などとはみない。

フロイト的な精神分析についても、無意識という意識に現れていないものに対する「解釈」に過ぎないということで、取り入れないものが多い。

そうした中で、それぞれに、近代社会の中で「正常」とみなされる者を含めて、人間が生きるということはどういうことかを探って行き、その中のある種「逸脱」的な生き方をしてしまっている「統合失調」の者の意識のあり様を、何とか「了解」していこうとするのである。

それは、初めに述べたように、それぞれにみるべきものがあるし、「統合失調に陥る契機」としては、本質を明らかにするものがかなりある。

しかし、この点については、次回に具体的に述べることにし、今回は、私の場合との相違についてさらにはっきりとさせておきたい。

私は、「統合失調状況」そのものは、「霊界の境域」などとも言ったように、この世界に通常の感覚においては捉えられない「霊的」な領域のものが侵入し、両者が混交している状況であるとした。そこには、はっきりと、それまでの(通常の感覚に基づく)体験とは異なる「未知」の要素が入り込み、特に「自我」が弱いわけでもなくとも、混乱させる要素が多くあるのである。

精神病理学は、近代の前提とする発想を疑い、かっこに入れるのだが、それは、「霊的」または「オカルト」的なものにまでは向けられていない。つまり、これまでみて来たように、近代が内的な「排除」の欲求に基づいて、「霊的」「オカルト的」なものを存在しないことにしたという発想までを問うものではない。だから、精神病理学では、「統合失調状況」にそのような新たに侵入した「未知」の要素までをも、みようとすることがない。

それで、「統合失調状況」というのも、結局は、「統合失調に入る契機」の延長で(多くは自己の成り立ちにくさや未熟なあり様のため)、混乱が極まった状況とみることになるのである。中には、新たな「未知」の要素を何らかの形で示唆するようなものもあるが、それは、「霊的」「オカルト的」とみなせるようなものではない。

ただし、それには、精神病理学が、「意識に現れたままを観察して記述する」という「現象学」の方法に則ることから来る、当然の限界もあると言える。「無意識」の領域すら、意識に現れないものの「解釈」として切り捨てるのだから、多くの者には意識に現れているわけではない、「霊的」「オカルト的」なものの存在や働きなど、認めることができないのは当然ということにもなる。

しかし、この点は、「それ」が「現に意識に現れた者」の側からすれば、全く異なることになる。私は、まさに体験のさ中でも、様々な妄想的解釈や葛藤の果てにだが、最終的には、「意識に現れたままを観察する」ことしかできないことに気づき、それを実践することにした。それは、どうしてもつきまとう、混乱や迷いの中での、危ういものではあっただろうけれども、まさに、意識せずとも、「現象学」的な方法を実践していたのと同じことになる

また、「無意識」領域で体験していたものについても、何度か述べたように、「思い出す」という仕方で意識に上るものになったから、それは、まさに「意識に現れるままを観察」することを可能にするものとなったのである。

先に言ったように、それらは、当時の体験のさ中においては、かなり危うい、不確かな面も多かったかもしれない。しかし、それは、現在においては、それらを通り越して通常の意識状態にある中において改めて観察されたり考察されたうえで、様々な統合失調に対する考えとも照らし合わせて提示されているもので、私としては、まさに「現象学的な方法」そのものと言えるのではないかと思う。その意味でも、精神病理学には、親近性を感じるのである。

ただし、先に言ったように、統合失調を体験したわけでもない精神病理学者の「了解」との間には、壁や断絶をも感じざるを得ないのは事実である。そしてそれは、致し方のないことでもある。

しかし、多くの人は、統合失調を体験したわけではないので、同じ立場から、精神病理学を通して、「統合失調」を「了解」しようという意図を共有することは、しやすいと思う。「了解」しようという意思を失い、「了解不能」ということで、「分かった」ことにしてしまえば、もはや一般に浸透している、生物学的な精神医学を「妄信」するしか途がなくなると思う。

そこで、最初にあげた精神病理学の基本的な本や、このブログで取り上げた、R.D.レインの『引き裂かれた自己』や、特に、新書という形にまとめられた、木村敏の『心の病理を考える』などの本を、ぜひ読んでみてほしいと思う。

もちろん、私のこのブログの記述に、十分の共感や理解を感じられる人がいるなら、それに越したことはないのであるが。

次回は、精神病理学のいくつかの説をとりあげつつ、もう少し具体的に述べてみたいと思う。

 

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