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2024年2月 9日 (金)

「シャーマン的巫病」と「統合失調」の相違 まとめ

前に、記事『6 他の「幻覚」の場合との比較』や、『「成人儀礼」としての分裂病』で、統合失調状況は、シャーマンの候補者がシャーマンになる前に体験する、「シャーマン的巫病」と酷似すること。しかし、さまざまな理由で、その「巫病」を「死と再生のイニシエーション」として乗り越えることができずに、その状況をさまようことに終始してしまう状態であることを説明した。

精神科医でユング派の分析家でもある武野俊弥という著者の、『分裂病の神話』(新曜社)という本で、ほぼ同様のことが、非常に的確にまとめて説明されていたので、今回はそれを紹介したい。

このところ、精神病理学の本を読んでいたのだが、それぞれ、「統合失調状況に入る契機」の説明としては、鋭いものがあり、本質に迫ろうとするものがあるが、「統合失調状況そのもの」の説明には届かないのを、いぶかしく思っていた(この点については、次回にでも改めて述べる)。

この本では、さすがに、「統合失調状況」を、あくまで「普遍的無意識」としてだが、自我を越えたものの現れとみて、それとどのように関わるかという視点をもつユングの意義を、改めて確認することになった。この本の著者の、多少割り切り過ぎる傾向はあるものの、分かりやすく的確な説明も、そう思わせることに寄与した。

他にも、統合失調全体について、とりあげる意義のあるものがいくつかあるが、それはいずれの機会にして、今回は、「シャーマン的巫病」との関係についてのみ述べる。この点に関しては、ユングというよりも、先住民文化の「シャーマニズム」という伝統にこそ、統合失調の本質を明らかにする大きな要素が、含まれているわけだが。

まずは、「シャーマン的巫病」では、分裂病の場合と同様の「解体のモチーフ」が現れるが、その意味がユングの普遍的(集合的)無意識に照らして次のように述べられる

「この断片化すなわち人格の完全な分裂・崩壊は象徴的には死に相当するが、その象徴的な死はまた宇宙が創造される以前の混沌(カオス)、すなわち宇宙の創造に先立つ名状しがたい無定形な状態への象徴的な回帰と等価でもある。つまり象徴的な混沌(カオス)への回帰は新たな創造への準備でもある。ユング心理学のことばで表現すると、この混沌状態は、無意識の蒼古的な構成要素すなわち集合的無意識を体験する機会をわれわれに与え、それによって無意識を統合する可能性をわれわれにもたらしてもくれる。」

シャーマンは、その状態を「死と再生のイニシエーション」として乗り越えることで、病的状態が克服されるが、統合失調症(分裂病)では、その状態が越えられることがないために、病的状態に終始してしまうことについて、次のように述べられる。

「シャーマンの入巫の病の場合、解体ないし分解、すなわち象徴的な死のモチーフにひきつづいて再生のモチーフが現れ、それが優位を占めるようになる。そしてその再生のモチーフは、病に引きつづく本来のイニシエーションを儀礼をとおして現実のなかに実現させる。他方分裂病の場合、再生ないし新生のモチーフはほとんど見いだされることも現実化されることもない。」

つまりは、分裂病の場合は、解体ないし分解をもたらすような、死のモチーフはあっても、再生のモチーフがなく、その状態から抜け出せないでいる、ということである。

そしてその理由についても、次のように述べられている。

「シャーマンは二つの世界、すなわち意識の世界と無意識の世界、あるいは外的現実の世界と内的イメージの世界の両方に住み、両者のあいだを自由に行き来している。シャーマンは二つの世界の価値と妥当性を同等に認めつつ、しかもその二つの世界を混同させないところにその卓越性がある。他方、分裂病者はこれら二つの世界を混同させ、あるいはそのどちらか一方だけにしか住めない。」

「シャーマンは能動的かつ任意に精霊を「見」そして「話しかけ」る。一方分裂病者は精霊の声を受動的に「聞き」、そしてしばしば不本意にそうすべきでないときに精霊を「見」あるいは「感じて」しまう。すなわちシャーマンは自ら精霊の世界(無意識の世界)に能動的かつ意識的に関わり、分裂病者は受動的かつ盲目的にその世界に巻き込まれとらわれてしまっている。」

「より高次の存在として再生されるためには、シャーマンはその解体のさなかにあっても自らの基本的アイデンティティだけはけっして失ってはならないのである。…分裂病者では再生のしいずえとなるべきこの骨の種子、すなわち基本的アイデンティティですら破壊的解体の対象となりそれを失ってしまう。」

「分裂病者の場合は、集合的無意識と出会うだけで、それとの創造的で相互的な関係はけっして確立しない。それゆえにいつまでも分裂病のままにとどまらざるをえないことになる。このような関係性の欠如がまさに分裂病の中心病理といえるのである。」

ただし、私も、このような違いが生じることには、そもそも伝統文化では、シャーマンを育てるためのノウハウが保持され、周りが集団的にそのような文化を共有していることが大きいことを指摘していた。著者も、そのような文化的理由にも、触れられている。

ただ、それにしても、先の著者の指摘のように、文化的理由はあるにしても、統合失調になる人は、そのような普遍的無意識の「元型」的な現れとうまく関わることができず、飲み込まれてしまうだけの、「自我の弱さ」や、「未熟さ」を抱えている場合が多いことは確かであろう。

しかし、ユングも言うように、普遍的無意識の「力」は、自我に対して強力に働くので、自我が強ければ、影響を受けないというものではけっしてない。シャーマンの候補者でも、巫病を経験した者が皆シャーマンになれるのではなく、それを本当に克服した一部の者がなれるのである。

ただ、自我が弱い場合は、その克服がより難しくなり、結果として、統合失調状況にさまようことになる可能性も高まるということは、間違いないであろう。

著者も、もはや文化あるいは集団として、そのような事態に関わって行く道は閉ざされているし、現代には必ずしもふさわしくもないので、いかに個人として、普遍的無意識と関わり、「個人神話」を生きて行くかが問題としている。ユング派の精神療法も、そのような視点から構成されている。

しかし、この「普遍的無意識」という捉え方も、それに飲み込まれないための距離の取り方としては意義がある(自我を越えたものでも、「無意識」という理解において、「他者」的な恐怖を緩和しつつ関わることができる)のは事実である。が、私は前から言っているように、実際の、統合失調状況をより具体的に理解し、乗り越えていくためには、やはり、先住民文化の「シャーマニズム」そのまままの、「霊的」な捉え方(精霊等の存在を実際に存在する「実体的」なものとして捉える)が必要になる、と思わざるを得ないのである。

なお、イニシエーションの具体的な内容については、記事『「<癒し>のダンス」』や『ぼくのイニシエーション体験』に詳しいので、参照してほしい。

 

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