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2023年12月

2023年12月24日 (日)

『病める心の記録』再読及びメモ

前回同様に、西丸四方著『病める心の記録(中公新書)も、大分前に読んで内容を忘れかけていたので、読み直した。

こちらは、ヒロシという日本の統合失調から回復した者の記録であり、『分裂病の少女の手記』に劣らず、インパクトのある内容である。また、精神科医である西丸の解説が、非常に分かり易く、的確と思うので、その意味でも貴重である。

今回も、感想と考えたことをメモ風に書き留めておくだけにするので、本の内容の説明自体はほとんどしないことにする。本を読んでいない人には、理解できないことが多いだろうが、了承されたい。

ヒロシは15歳のときに統合失調の発病により「発狂」し、精神病院に収容され、薬物治療をも含む治療で回復したが、著者との出会いを通じて、その体験の記録が表されることになった。

 『分裂病の少女の手記』は、垂直的な方向の「虚無」の色合いが濃く、「深み」のあるものだったが、その分「単調」との見方もできる。ところが、こちらは、「闇」や「人間ロボット」など、垂直的方向の色合いもあるものの、様々な「現実」の出来事と重なり合いながら、水平的な方向への展開があって、小説のような「物語」性がある。現実と夢想が交錯しながら進展し、どこまでが現実で、どこからが非現実なのか分からないような、まさに一つの「夢幻的な体験」なのである。

私の場合は、この両面があったので、両方ともよく理解できるし、共感できる。特に、一連の体験の前半は、このような「夢幻的体験」が多くを占めていた。

この記録は、西丸の補助もあってだろうが、文学者のような読ませる文章で、よくその時点での思考や感情、自分に現れ出たままの「出来事」を再現しており、引き込まれる要素が多い。そもそもが、著者にも現実か非現実か区別のできない、一種の「中間的現象」なのであって、それを回復後も忠実に再現的に表現していることから、そのような内容になっているとも言える。

『分裂病の少女の手記』が、サルトルの『嘔吐』にも似た、一つの「実存的体験」だとすれば、こちらは、記事『「幻覚世界」を表した本 2-統合失調的「夢幻世界」』で述べた、ヘッセの小説『荒野の狼』に出て来る「魔術劇場」そのものの体験である。

ケンジというミステリー好きの少年が、より幻想性を煽り、ヒロシの体験を媒介した面があるのだが、このケンジは、やはりヘッセの小説『デミアン』のデミアンの役を果たしているかのようである。

ヒロシが恐れ、迫害妄想の中心となる骨董屋の旦那に「食われる」という妄想など、統合失調体験につきものの、「捕食者」的な面もある。徐々に追い込まれて行き、ついには「発狂」して、裸で骨董屋の家に侵入し、病院に連れていかれるまでの、思考過程の描写は、非常に迫真的である。病院に連れて行かれてからの、医師や看護婦とのやり取りと、その者らを敵の一味とみるヒロシの妄想のありようの記述も、とてもリアルである。

治癒に向かった面については、病院で医師が、自分はロボットになったと思っているヒロシに、「苦しんで、抵抗していたとき、君は本当の自分だったんじゃないか」、「大変だが、本当の自分を取り戻そう」と言ったことが、大きなきっかけになっている。病院においても、「失われた自分」を取り戻せるように力づけられるか、無視や虐待的な扱いにより、それがますます壊されていくかが、一つの大きなポイントなのだと言える。

また、治癒に向けて、決定的なきっかけになったのが、寺の和尚が渡してくれた「聖書」と、とりわけ北原白秋の詩集『雀の生活』なのである。それを読んで、ヒロシは、「ロボットが、雀になり、犬になり、人間になった」と感じる。そして、ヒロシは、「雀に餌をやるのを忘れていた」という大きな気づきを得る。

この「雀」について、西丸は、「治癒におもむけば、本当の自分はどこにでもいる、<青い鳥>であることを見出す。」「…自然の小さな一部の雀に餌をやる、自然の一部の自分である。」と言っている。まさに、「雀」は、自然の一部である小さき「生命」の象徴であり、それに餌をやることでこそ、育てられるものなのだ。

この記録の最後も、「ぼくは雀に餌をやるのを忘れていたんだ」という言葉で、閉じられている。

私も、夢幻的な体験のさ中、アニマと名づけた精霊と交錯する形で、「雀」と出会うことで、大きな癒しを得たし、今も「小鳥」との不思議な縁は感じているから、この事態の重要性がよく分かる。ユングの患者も、エジプトの神話に出て来る黄金虫の話をしているときに、窓をたたく黄金虫と出会って、それが治癒に向けて大きく影響しているが、まさに、一種の「共時性の体験」と言える。

西丸の、この事例についての解説は、その他の点でも、とても的確だと思うし、統合失調一般についても、とても分かり易く、的確な説明をしているのも見逃せない。

そもそも、精神病については、次のように言われている。

「精神病のなかにこそ本当の人間を見つけることができることがある。…人間の心の奥にひそむ希望、恐れ、自覚が、精神病になると非常にはっきりした形をとって出現する。それは健康な人間に思いも及ばないような形をとる。象徴的に非常に誇張される。それで私たちにはそれの示す意味がよくわからないとさえ思われる。」

「精神病の世界はなんと美しく、汚なく、哀しいものであるかがわかる。美しく、汚なく、哀しいのは人間の普遍的な性質であるが、精神病においては、それがカリカチュア的に誇張され、象徴的に比喩されて私たちの目の前に現れてくるのである。」

私も、記事『人工的に「分裂」を作り出すことは可能か』で、この極限的な状況で現れ出るのは、誰もが持つ人間の「愚かさの集大成」のようなものと言っていた。「愚かさ」というのは、実際に、その面が特に強調的に現れるのに違いないが、春日武彦著『私たちはなぜ狂わずにいるのか』に引き寄せる形で述べたからでもある。西丸の言うように、実際には,美しく、汚なく、哀しい、人間のあらゆる面が、誇張されて現れるのだと言える。

ただし、それは、単に「極限状況」だからと言うのではなく、日常的には表に現れない「オカルト的」な面も絡む「未知の状況」だからこその、独特の反応なのである。

このような反応を、「了解不能」などとして、手に負えない「病気」のように決めつけることは、それこそ「愚かな反応」と言うべきである。

また、西丸の説明で、非常に分かり易いのは、このような精神病の世界は、日常の意識の力が弱まるので、それを形成する「バックグラウンド」から浮かび上がるものが前景に出て来て、現実と重なるようにして現れ出ることから来るもの、と言っていることである。

「バックグラウンド」とは、我々の認識や判断、行動などの材料となる、精神活動の裏側に横たわっているもので、そこには、過去の経験、希望、恐れ、期待、欲望などが、混沌として潜んでいる。目が覚めてしっかりしているときは、現実の状況に合うように、その混沌から材料が適格に選ばれるが、日常の意識が弱まると、夢の中のように、この「バックグラウンド」の混沌としたものが現れ出て来る。

そして、「バックグラウンドのものが、現実世界のかたちをとって出て来る。」あるいは、「外界のものを認識するときに、バックグラウンドからよけいなものがひょいと飛び出して付着する。」ということになる。それが、「幻覚」や「妄想」のもととなるわけである。

この「バックグラウンド」を、フロイト流の「無意識」、あるいはユング風の「無意識」、さらには、シュタイナーや私のように、「霊的、オカルト的な背景」をも含ませてみるかで、その内容はかなり違って来る。しかし、ごく一般化して大まかに言えば、西丸の言うように、「バックグラウンド」のものが現れるということで、よく理解できるはずのものである。

西丸がバックグラウンドとして、どのようなものを想定するかは分からないが、いずれにしても、それは、なにか訳の分からない、「了解不能」のものが、現れ出ているのではなく、誰にもある「バックグラウンド」が、混沌の様相のままに、誇張されて出て来ているだけである。

ただ、「バックグラウンド」が強く現れ出るのは、単に「日常の意識が弱まった」だけでなく、経験上理解できない「未知の状況」を迎えているので、積極的に「バッググラウンド」をフル回転して活性化することで、何とかその状況を理解しようと、躍起になっているのである。

そこにどうしても起こってしまう、「飛躍」や「矛盾」が、「了解不能」との見方をもたらすのだろうが、「未知の状況」を迎えていることに思いが及べば、その反応の全体を「了解」することは、けっして難しくないはずである。

西丸も、「未知の状況」にあることまで、積極的に認めるものではないにしても、感性的に、それとなく、そのような状況にあることをつかんでいるものと解される。

このように、体験者の体験の記録としても、それを通しての「統合失調」の説明としても、とても分かり易くて意義のある本なのだが、残念ながら、現在は、品切れになっているようである。是非、文庫などの形で、復刊してほしいものである。

 

2023年12月11日 (月)

『分裂病の少女の手記』再読及びメモ

大分前に読んでいたので、内容もほとんど忘れてしまっていた、セシュエー著『分裂病の少女の手記(みすず書房)を読み直した。

最初読んだときのようなインパクトはなかったが、主観に偏らない客観的で印象的な記述で、体験がつづられており、統合失調体験者の手記として、貴重な記録だと改めて思った。もちろん、私自身の体験と似たところも多く、共感し、頷けるところが多い。

今回は、その感想と考えたことをメモ風に書き留めておくだけにするので、本の内容の説明自体はほとんどしないことにする。本を読んでいない人には、理解できないことが多いだろうが、了承されたい。

ルネは、18歳のとき、統合失調症を発病し精神病院に入院したが、心理療法士である著者の献身的な、精神療法的な治療によって回復した。当時は、薬物療法がまだ始まる前で、統合失調は回復不能であるように思われていたので、この事例は多くのインパクトを与えたようだ。

精神医学者の間では、心理療法士の精神療法で回復したということが信じられず、この事例を統合失調ではないと疑う人もいるようだが、幻覚や妄想、さらに世界の変容などを伴う、明らかに、統合失調的な体験である。そして、むしろ、薬物などではなく、「的確な」精神療法が施されたからこそ、回復できたというべき事例である。

ルネは、母からまともに乳も与えられず、基本的な生命的欲求がかなえられていない。だから、著者の言うように、生命的な欲求が満たされていないことが、自我の解体をもたらした第一の原因というのには理由がある。そして、ルネが幼児的退行を起しているときに、母の代わりをして、その基本的欲求を満たしてあげたこと、幼児が世界に適応していくのと同じ様に、投射や模倣という「象徴的な実現」の方法を通して、新たに世界との関りをもたらしていったことは、全く的確な方法だったと言える。

ラカンは、統合失調の原因として、父との関りを通して、第三項的な「言語」の世界へと移行できなかったことを理由にあげるが、ルネの父も、虐待まがいの扱いをしていて、確かにその意味での不適応も起こしている。しかし、ルネの場合は、明らかにそれ以前の母との問題が大きく、それだけに不適応度も大きい。

そのような場合は、ルネ以外の事例でもままあるだろうし、幼児への退行というのは、私もそうだが、統合失調状況では、多くの場合に起こることだろうから、「象徴的実現」という方法は、かなりの場合に有効なものと思われる。ただ、事実上、あまりに大変だし、個人の能力にかかることで、やり方を間違えれば、むしろより酷い状態を招いてしまいかねないということはある。

ルネの体験で、興味深いのは、ルネが「光の国」や「組織」と呼ぶ、非現実的で圧倒的な、機械仕掛けの世界の体験である。ルネは、それを、たとえば次のように表現している。

「それはむしろ、現実界に対抗する一つの世界、無慈悲な、目もくらむ、影になる場所もあたえない光が支配し、果てしもない広漠たる空間や、無限に続く、平べったい、鉱物的な、冷たい月光に照らされた、北極の荒地のように荒涼とした国でした。このはりつめた空虚さの中で、すべてのものは不変であり、不動であり、凝結し、結晶していました。物体は意味もない幾何学的立方体として、そこここに配置された舞台の小道具のようでした。

 人々は薄きみ悪く振り返り、身振りをし、意味もなく動いていました。その人たちは無慈悲な電光におしひしがれ、果てしもないプランに従って、ぐるぐる回転している幽霊のようでした。そして私は、—私はその光のもとに、切り離され、冷え切って、裸にされ、目的もなく、失われてしまっていました。真鍮の壁がすべての人や、すべてのものから私をひき離していました。」

著者は、このような事態を、自我の解体による「幻覚」ないし「妄想」としかみないので、そこに取り立てて意味を認めてはいない。しかし、これは、まさに、私が述べて来た、(「不適応」による自我の揺らぎにより露になった)「霊界の境域」がこの世界へと重なるように侵入し、世界が変容してしまっている状況であるのが分かる。

これは、多かれ少なかれ、統合失調状況に入った人が体験するものと言えるが、垂直的方向の「虚無」に彩られる面が強いという意味で、私の体験した状況とかなり近い。実際、ルネは、水平的方向よりも、垂直的方向により進んで行って、「虚無」を間近にしていたものと解される。

ルネは、不適応のため、なまじっか、世間的なものを身に着けなかっただけに、水平的方向への妄想に絡めとられる度合いが少なかったのだと言える。水平的な方向の妄想は、起こっている事態を、世間的なものへと適合する形へ解釈することから生じるからである。それで、ルネの体験は、水平的方向の「陳腐な」妄想に終始する一般の事例より、よほど深い、「統合失調らしい」体験になっていると言える。

訳者もあとがきで、ルネの体験を、サルトルの『嘔吐』に記載された体験と非常に似ていると言っているが、まさに、一つの「実存的な体験」である。

垂直的方向の深みに入ることは、破壊性が強く、解体がより進む事態であることには違いない。しかし、同時に、「死と再生」の「イニシエーション」的な過程も起こりやすいのである。ルネが、幼児まで退行しつつも、回復できたというのは、まさに、一つの「イニシエーション」的な過程が成就したということである。

さらに言うと、これはまた、記事『「幻覚世界」を表した本 1-天国と地獄』で示した、オルダス・ハクスリーが自己の幻覚剤の体験を通して理解する、統合失調の世界そのものと言える。

ハクスリーは、幻覚剤によって、「事物そのものが、内から光り輝くような、強烈なリアリティと意味のもとに蘇る」という、禅の悟りにも似た体験をしたのだが、その体験を通して、それが恐怖のもとに受け入れられないときには、その体験は反転し、まさに統合失調的な地獄的体験となる、とした。

ルネの、強烈なリアリティを伴う、怖れに満ちた、「光の国」の記述は、まさにそのようなものであるのが分かるだろう。

あるいは、同じ記事で、ジョン・C・リリーが、やはり禅の悟りとも似た、天国的な体験の裏返しとして被った、地獄的な体験、「コズミックコンピューター」の世界とも非常に近い。それは、「宇宙」を、「いかなる意味も愛も人間的価値もまったくないこの巨大な宇宙的陰謀、このエネルギー物質のコズミック・ダンスにおける従属的プログラム」として見る体験だったが、ルネの表現するものと、非常に近いのが分かる。

まさに、それらは、強烈なリアリティの体験ではあるが、それが、恐怖のため(著者の言うように、「生命的な感情」を欠いたためでもあるが)、自己を脅かす、無機的な、「悪意に満ちたもの」として迫って来るのである。それこそが、ルネの体験した「光の国」であり「組織」であったと言える。

ルネは、「光の国」や「組織」を、この世界やこの世界の住人である人間を通して現れるものとしては見ていたが、「現実界に対抗する世界」と表現されているように、この世そのものの現実とは、単純に同一視していなかったとみられる。また、その「組織」の一味の「声」を聞いたりするのだが、それも、単純にこの世の者の現実の声そのものとして聞いたのではないと言っている。

これらのことも、ルネが回復できたことの大きな理由と言える。私は、「声」と「現実の物理的声」を区別できることが、統合失調状況で無暗にさまようことにならないための、大きな要因となると言っていたが、ルネはこのことを、自然となしていたのである。

前回、統合失調体験は、「切り離された個」としての意識で、「関係と繋がりのもとにある世界」を見たり感じたりすることで起こると言ったが、ルネの「光の国」の記述にも、「切り離された」という表現が何度か出て来るように、やはりこの要素があるのが分かる。

ルネは、「切り離された個」としての周りの集団の世界に適応できなかったのだから、「切り離された個」としての意識はほとんど身に着けなかったものと言える。しかし、それでも、やはりその「切り離された個」の意識は、少なくとも、潜在的には、内部に醸成されていたと言え、それが、本来は、「切り離されていない」、繋がりの世界であるはずの、「光の国」の体験のリアリティに照らされる形で、より強調されて、投影的に現れ出ていたのが分かる。

但し、通常の「切り離された個」がとるような、それを守るための防衛的な妄想に終始するような方向には、行かなかったということである。

何しろ、ルネは、母や父との健全な関係がなかったため、言語的な秩序や世間的なものを身に着ける度合いが少なかったのだが、むしろ逆説的に、だからこそ、垂直的方向の体験を比較的「純粋」にし、水平的な方向にさまようことにはならなかった。そして、著者のような精神療法家と出会い、その献身的な努力により、幼児的な退行から、新たに再生して、この世的なものと関わり適応していく方向へと、回復することができた。

もちろん、それは、喜ばしいことに違いない。そうでなければ、ルネはこの世界への適応の道を断たれて、途方に暮れるしかなかったであろう。しかし、ルネが適応することになったこの世界とは、「切り離された個の世界」であり、それは、ルネが体験した、「光の国」や「組織」において、強烈なリアリティに照らし出され、強調的に反映されることとなった世界でもある

ある意味において、ルネはそのような世界へと、帰って行ってしまったのである。私としては、そこに、幾分の、皮肉な結果をみないわけにはいかない。

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