「切り離された個」とドンファンの言葉及び「タブー」の意識との関係
1 前回までの一連の記事でみてきた、<憑く心身>から<病む心身>へという世界観の根本的変化は、<「繋がり」や「関係」のもとにある個>から、<切り離された個> への変化ということも言えた。
近代に至って、人びとは、周囲の世界から<切り離された個>となったわけである。
記事『『総まとめ(旧「闇を超えて」より)』』でドンファンの言葉をあげていたが、これはまさに、<切り離された個>としてしか世界を見ることのできないカスタネダに対し、ドンファンが鋭く指摘した言葉である。
それを、再び掲げる。
○「おまえが、自分は世界中で一番大事なものだなぞと思っとる限り、まわりの世界を本当に理解することはできん。おまえは目隠しされた馬みたいなもんだ。あらゆるものから切り離された自分しか見えんのだ。」
ところで、この観点からは、統合失調とは、世界から<切り離された個>が、<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界へと、(再び)侵入する体験であるとも言えるのである。世界から<切り離された個>という立ち位置から、そのような<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界へと侵入することで、<切り離された個>には混乱が生じ、その個が「解体」の危機を迎えているのである。
また、<切り離された個>の視点から、<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界を見るから、自己の個の中にあるはずのものと外にあるはずのものが、融合し、浸透し合うように感じたり、全てが、自己と関係するように思えたりするのである。
<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界に入っても、<切り離された個>の視点を脱することができないままに、<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界を見たり、感じたりしている、ということがポイントである。
「妄想」というのも、<切り離された個>の視点を(守ろうとして)脱することができないため、<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界を、<切り離された個>の視点に沿うように、無理やり解釈してしまっているのである。「組織に狙われる」というタイプの妄想が典型的である。そこには当然、はた目には、「無理」や「矛盾」、「違和感」が現れてしまうが、本人は、そうするしか方途がないのである。
2 かつて一連の記事『「タブー」の意識とオカルト 1』から『「タブー」の意識とオカルト 3』までで、オカルト的なものが「タブー化」された理由を考察したが、「タブー化」とは、まさに「恐れからそれに触れないようにする」ことだから、「迷信として否定」することとも重なっている。だから、今回の一連の記事は、その記事とも照らし合わせて読んでもらえると、より理解ができると思う。
また、その記事の最後にまとめた、タブー化された理由は、「迷信として否定」された理由としても当てはまる、重要なものである。それを再びあげておく。
ただし、3の「「神々」を含めて、全体として葬り去ったことの後ろめたさとタブー感」というのは、「捕食者的なもの」「オカルト的なもの」を「迷信として否定」した後、「霊的なもの」や「神々」に対する信仰をも失うことになって、「オカルト的なもの」一般に対する感情として残されたもののことである。
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