オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 3—「狐憑き」の否定から「精神病」へ
日本の伝統的世界観の象徴とも言える「狐憑き」であるが、明治以降は、「迷信」として否定されるとともに、「精神病」という見方に取って変わられることになる。その者を取り巻く世界との、「見えない」繋がりを体現する「憑く心身」から、世界から切り離され、その者の内部に閉じ込められた、「病む心身」への転換がなされるわけである。
もっとも、記事『『精神病の日本近代』―「憑く心身」から「病む心身」へ』でも触れたように、江戸期にも、儒医等、「狐憑き」を狐が憑いたものとしては否定する者もいた。ただ、その場合も、心の乱れ、「気の狂い」など、やはり、世界との繋がりを媒介するものに着目しつつ、その乱れとして、一時的な回復し得る現象とみていたので、西洋医学で言う「精神病」と捉えるのとは異なる。
また、江戸期には、「狐憑き」の存在自体は否定しないが、多くの狐憑きは、実際に狐が憑いたものではなく、そう思い込むことから来る錯乱的な反応に過ぎない、と解する者も多かったようである。
ところが、明治になると、「狐憑き」そのものを、「迷信」として否定する流れが作られる。
以下、川村邦光著『幻視する近代空間』の「Ⅱ 狐憑きから「脳病」「精神病」へ」を参照しつつ、その流れを追ってみる。
前々回みたように、西洋人が、日本人をさらって、「血とり」や「脂とり」をするという風聞が広がり、庶民による一揆などの騒動が起こるが、それをきっかけに、メディアなどで、「迷信」を貶める運動が高まることになる。病気一般について、それまで伝統として伝えられた、「民間治療」も「迷信」として槍玉に上げられ、法律としても取り締まられ、西洋医学の療法によることが、押し進められる。
精神医学についても、基本的には、似たような道を歩むことにはなったが、一般の西洋医学の療法の場合以上に、簡単には進まなかった。「狐憑き」を「精神病」とする精神医学の見方は、なかなか一般に浸透しなかったし、精神病院ができて、その「治療」(隔離、収容)が実際に機能するようになるには、相当の年月を要している。
それには、一つには、精神医学自体が、当初から、西洋医学の中でも、一種の差別的扱いを受けていて、発言力も低かったことがある。そのような立場にあって、精神医学の学者等が、なかなか、一般の者への啓蒙を果たすことができなかったということである。
それには、もっともな点があって、精神医学は、当初から、知識人の間でも、根拠のはっきりしない、「うさんくささ」をもってみられていて、また「狐憑き」を否定するものであるにも拘わらず、そういうものに関わること自体が、忌み嫌われたという面もあるだろう。
しかし、精神医学の見方が広まらないのは、それだけ伝統として伝えられた「狐憑き」という見方の威力が、庶民の間では、大きかったということでもある。
それでも、それを着実に「迷信」として否定し、精神医学の「精神病」という見方を通俗化して伝えるのに、大きな力を発揮したのは、精神医学の学者ではなく、メディアだったり、「民間の真只中での咄家や広告屋・コピーライター、また忌み嫌われた巡査や役人、さらに加えると、医療のプロセスそのものと開化の象徴的建造物である病院であった」(『幻視する近代空間』)ということである。
開化を押し進めようとする層や、行政的な権力の働きかけがありつつも、庶民の近いところでも、「狐憑き」を「精神病」とする見方、あるいは「病院に収容」することで解決しようとすることを、受け容れる流れができつつあったことが窺える。
メディアでの「狐憑き」は「迷信」であるという運動の例をあげると、たとえば、明治10年の新聞の、「狐憑き退治の迷信」という見出しの記事がある。そこでは、譫語(とりとめもない言葉)を発するようになった者を、周りの者たちが狐憑きとし、打ち叩くなどの手荒な方法で、狐を追い出すということがなされた事件をとりあげ、「一天万乗(天子)のお膝元に近き土地にも今の世なお此の様な空気があるから恐れます。しかも揃いも揃いて」と締めくくられている。
前回見たように、狐憑きの者に対する「狐落とし」の療法には多様なものがあったが、狐憑きの者に対して、狂乱状態を抑えたり、憑いた狐を「追い出す」ため、かなり手荒なことがされることがあったのも確かのようである。しかし、そのような手荒な対処は、むしろ精神病院に隔離されることが始まってこそ、強められているので、このような一方的な咎めは当たらないというべきである。
何しろ、ここでは、「狐憑き」及びそれを「落とす」という伝統的なあり方を、愚かで、野蛮な「迷信」として、「否定する」ことが明確に打ち出されている。一方で、「揃いも揃いて」と表現されているように、このような出来事が、今も多く行われている現実が示されている。
さらに、明治21年出版の落語家の話で、幽霊や狐に騙されることを「神経病」とする見方が、次のように皮肉られているのが興味深い。
「怪談ばなしと申すは近来大きに廃りまして、余り寄席で致す者もございません。幽霊というものは無い、全く神経病だということになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。……狐にばかされるという事はある訳のものでないから、神経病、また天狗に攫われるという事もないからやっぱり神経病と申して、何でも怖いものはみな神経病におっつけてしまいますが、現在開けたえらい方で、幽霊は必ず無いものと定めても、鼻の先へ怪しいものが出ればアッといって尻餅をつくのは、やっぱり神経がちと怪しいのでございましょう。」
明治21年の段階で、「神経病」という見方が相当広まっていることが分かるが、一方で、庶民はこの話を笑うということは、その見方に決して与してなかったことも分かる。ただ、例として挙げられているのは、「狐憑き」ではなく、よりソフトな幽霊話と、「狐に騙される」ことであったことには、注意すべきである。
「狐憑き」の話では、重くなって、落語の話題としては相応しくないというのもあっただろうが、「狐憑き」そのものは、幽霊や「狐に騙される」ことに比べると、庶民の間でも、それほど信じられている状況ではなくなっていたことも、窺われるのである。いわば、中間段階的な状況をよく表していると言える。
一方、明治33年頃の状況が、門脇真枝という精神科医の『狐憑病新論』という著書の緒言の記述によく現れている。
「開明の芳香は到らぬ隈もなく、匂いわたり、幾多の妖怪的迷信の次第に失せ行くに拘わらず、今なお世人の脳裡に染印(せんいん)せるものは、その狐憑病ならん。あわれ狐憑病よ、こころなき俗人等のこれを信じるはとまれ、苟(いやしく)も日新の教育を受け、みずから社会の上流者をもってゆるせる人達にして、未だなお半信半疑の状態なるは、怪しむべきことというべし。」
迷信が失せ行く状況にあっても、狐憑きは世に広く残り、「上流の知識人」にあっても、半信半疑の状態としてあったことが嘆かれている。
伝統文化の中でも、「狐憑き」の特別さが露にされるとともに、知識人の間では、少なくとも、信じられるのではなく、「半信半疑」くらいの状況になっていることが、示されている。
精神科医たちの「狐憑き」は「精神病」という見方は、端的に言えば、狐憑きは「脳の病」または「神経の病」としての「精神病」なのであり、「狐憑き」なる「迷信」を信じるから、精神を弱らしめ、暗示にかかって、ヒステリー的に、そのとおりの言動をしてしまうのである。要は、「狐憑き」を信じること自体が、「妄想」なのである。
ベルツという精神科医は、「魔女」を信じることから来るヒステリー現象である、西洋の「魔女狩り」の場合と同様の現象としている。
だから、「狐憑き」という「迷信」を否定し、排することこそが、まずもって押し進められる。一般の西洋医学以上に、「伝統文化を迷信として否定」することが、精神医学の内容自体に、直接取り込まれているのである。多くの者にとって、「うさんくさい」ものではあっても、「迷信を否定する」という効果を直接もたらすうえでは、強力で欠かせない装置であったということである。
そこには、「精神病」は「脳病」であり「神経病」であって、「脳や神経の病である」という一つの根拠(というよりイデオロギー)があり、それこそが、「病む心身」という個人の内部に全てを閉じ込める見方の要となる要素である。しかし、結局は、「狐憑き」を「迷信として否定」することが、その直接に意図されることであることを鑑みれば、むしろ「迷信として否定」するためにこそ、「脳病」や「神経病」という見方が持ち出されているのが分かる。つまりは、それまでの伝統文化を否定すること、世界観の根本的変化をもたらすことが、意図されているということである。
但し、それが、達成されるのには、それまでの私宅監禁の制度を利用して、公的に監禁の制度をもたらすことを経て、精神病院が多く設立されて、「精神病者」を収容する制度が整うことを待たねばならなかった。
元々、私宅監禁の制度は、狐憑き等の精神を錯乱させた者について、私宅にそのための部屋を設けて監禁するものだが、あくまで錯乱による言動で周りを害することを抑えるために、一時的な措置としてなされたものである。しかし、明治政府は、この私宅監禁を、「精神病」を病む者に対して、つまりは、半永久的になされる監禁のための処置として利用したのである。
精神病院法(大正8年) で、精神病院を積極的に建設し、患者を収容させる施策が打ち出されるが、遅々として進まず、昭和10年頃からいくつかの都市で精神病院への収容が進み、私宅監禁が廃止されることになる。しか、それが本格化したのは、戦後からのようである。
そのようにして、「精神病」という、「病む心身」に全てを閉じ込める、「世界観」の根本的変化も達成される。この段階に至って、多くの庶民も、それまでの「狐憑き」を「精神病」として「精神病院」へ収容し、監禁すること、つまりは、「厄介払い」することを、概ね受け入れたものと言うべきなのである。
「狐憑き」という現象は、「魔女」の場合ほどではないにしても、捕食者的な「おどろおどろしい」面をかなり含んでいる。特に、害悪の面が強調される、江戸期の「おさき」や「おこじょ」などによる憑き、あるいは「狐持ち筋」による狐を飛ばされる憑きなどには、それが顕著である。そこには、やはり、「捕食者的なもの」に対する恐れが、塗りこめられていると言うべきである。
これらを、「迷信」として否定するということには、それらの要素が、かつての世界観において、全体として包まれることが難しくなった状況の変化もあるが、この時期には、率直に、それを否定したいという欲求が強まったということができる。西洋の場合には、「魔女狩り」の再現を恐れるという、かなりはっきりした理由があるが、日本の場合にも、それに類した思いがその時期に高まっていると言うべきなのである。
庶民にとっては、精神医学の見方が浸透することよりも、「狐憑き」が迷信として否定されるという直接的な効果の方が重要で、そのことによって、精神医学の見方が浸透し、受け入れられるようになって行くのである。
但し、これは、「魔女狩り」の場合と同じで、ただ「迷信として否定」しておけば済むというのではなく、実質、「捕食者」的な面を依然として表す者に対する、何らかの排除の措置がなされなければ、その意味は薄い。その処置こそ、精神医療であり、病院による隔離であるということである。そのための制度が整うことで、庶民は、「狐憑きを迷信として否定」することを、いわば安心して受け入れることができる。
その意味では、「精神病」という見方を受け容れることも、「必然」の要素として伴っていたと言わねばならない。
もちろん、庶民にとっては、それまで信仰の対象であったのだから、「狐憑き」を迷信として否定することには、相当の抵抗も伴う。この点で、もう一つ、重要な点は、よりハードな「狐憑き」は否定されても、よりソフトで害の少ない「狐にだまされる(化かされる)」ということが、存続することで、狐に対する信仰は何とか保たれているということである。
「狐にだまされる(化かされる)」が残されることで、狐への申し訳ができつつ、ハードな「捕食者的な面」は、否定することができたのである。1965年頃には、それも解消されてしまうことになるにしてもである。
そして、このようなことを通して、むしろ、「精神病」とみなされることで、排除された「捕食者」的な面は、結果として、「精神病者」にこそ、より一層塗り込められることになる。実際、「精神病」と「精神病院」のイメージは、より「おどろおどろし」く、陰惨なものになっているのである。
『幻視する近代空間』が言うように、「「脳病」「神経病」は遺伝するものであり、不治で死を待つほかないという通念ができあがり、「精神病者」は「狂暴・不潔・無恥・非道徳」といった差別の言説・属性をまとうことになった。」
次回は、これまで見て来た経過を踏まえて、「魔女狩り」の意味を再び明らかにするとともに、「迷信の否定」とはどういうことかを、改めて、端的に説いてみたい。
最近のコメント