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2023年7月 3日 (月)

オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 序 —「世界観の根本的変化」とは

今回から、何回かにわたって、前回みたような「世界観の根本的変化」はなぜ起こったのかについて、少し詳しく述べたい。

前回みた「世界観の根本的変化」とは、<「憑く心身」から「病む心身」へ>という言葉で端的に表されたように、「憑きもの」という捉え方から、「精神病」という捉え方への変化を意味した。

「憑きもの」は、憑かれる者を通して現れるが、関係や繋がりの問題であり、共同体の全体にかかわる、「外部的」な影響力の現われである。また、生霊、死霊、精霊、神々などの「見えない」「霊的」影響力の現われでもある。

それらが、「病む者」の個人的な心身の問題に帰され、「精神病」と捉えられるというのは、それまでの見方の中核である、外部的影響力も、霊的影響力も否定して、問題を個人の内部に閉じ込めるものである。このようなことが、世界観を「根本的」に変えるものであるのは、容易に理解できることだろう。

しかし、「世界観の根本的変化」とは、単に、そのような見方の大きな変化を意味するだけではなく、「物事を解釈する枠組み」が、根本的に変わったということを意味しているのである。

それは、「ある事実」というのがあって、それに対する「解釈」が変わったということではなくて、「ある事実」というものそのものを創出する、「ものの見方の枠組み」が変わったということである。

だから、前回も指摘したように、「病気」として捉えられるような「事実」そのものは昔もあって、ただそれに対する解釈が、「憑きもの」から「精神病」に変わったということではない。

「ある事実」というものそのものが、「憑きもの」という世界観の枠組みで捉えられるのと、「精神病」という世界観の枠組みで捉えられるのでは、全く異なるのである。実際、「憑かれた者」のとる言動と「精神病とされる者」がとる行動では、大きく異なるものがある。それらは、「世界観」と結びついて起こるものなので、それを抜きにして、「ある事実」として、取り出せるような事態ではないのである。

(ただ、抽象的、観念的には、両者に共通の要素が見出されるのは確かで、たとえば、「周りが問題視するほどの混乱や錯乱」、「周りの者が見たり聞いたりしないものを、見たり聞いたりする」というのが挙げられる。それが「世界観の根本的な変化」の元に、別な現象として現れ出たものとみなすことはできないことではない、ということである。)

トーマス・クーンは、『科学革命の構造』(みすず書房)という本で、たとえば、ニュートン的な古典力学から、アインシュタインの相対性理論、あるいは量子力学への変化は、科学の発達の結果、「連続的」に起こったのではなく、「パラダイム」(事実を構成する概念枠組み)の根本的な転換が起こった結果、全く新たな見方の元に捉えられるようになったことを明らかにしている。

「憑きもの」から「精神病」への「世界観の根本的変化」というのも、この「パラダイムの転換」というのと、同様なものとみなし得る。

このこととも、かかわるが、このような「世界観の変化」は、要するに、「科学」が発達した結果、当然に起こったのではないか、という見方をする人も多いと思われる。

それまでは、科学なるものがなかったので、「憑きもの」なるものが信じられたが、「科学」が発達したので、それらは「迷信」であることが判明し、「病気」という捉え方が当然になされたという見方である。

しかし、後にもう少し詳しくみるが、「科学」が発達したのは、それまでの見方が否定されて、「科学」を採用し、それを押し進めたからであって、その前からなのではない。「憑きもの」が「迷信」として否定されたのも、まだ科学が発達する前であり、「迷信」として否定するあり方も、実際、「科学的」と言えるようなものでは全くない。

むしろ、それまでの「憑きもの」のような見方を否定する、「世界観の根本的な変化」があったから、「科学」を採用し、発達させる方向に行けたのであって、それは全く逆なのである。むしろ、「物質科学」というものを発達させたいがために、「世界観の根本的な変化」を起こしたという方が、正しいのである。

従って、なぜ「世界観の根本的な変化」が起こったのかということに対して、「科学」が発達したからというのは理由にはならない

さらに、この「世界観の根本的変化」は、ある者とそれを取り巻く世界との関係や繋がりを否定し、切り離された「個人」の心身を専ら問題にするという、重要な見方の変化をもたらしたのだった。また、既にみたように、それまでの文化や信仰の基盤とも言える、「見えない」「霊的なもの」の影響力を否定するという、根底的な変化をもたらしたのでもあった。

この「見えない」「霊的なもの」の影響力の否定というのを、私は、「オカルト的なもの」の否定として、括ろうと思う。実際、「オカルト的なもの」を、一般的にみなされるように、「おどろおどろしいもの」つまり、「闇に関わるもの」とみても、本来の意味で「隠されたもの」とみても、それはよくあてはまるからである。

詳しくは、次回からみていくが、「憑きもの」にしてもそうであるように、まずは、我々にとって、「おどろおどろしい」「闇にかかわるもの」が否定されることで、「見えない」「霊的なもの」一般が否定されていくのである。

また、「隠されたもの」としての「オカルト的なもの」というのは、要は、我々の目に見えている個々の事物の背後にあって、「関係」や「繋がり」をもたらしているものであるから、その否定というのは、結局、先にみた「関係」や「繋がり」の否定という部分にも関わって来るのである。

「憑きもの」から「精神病」への「世界観の根本的な変化」というのは、この「オカルト的なもの」の否定ということを象徴する、非常に重要な事態なのであるが、問題設定としては、「オカルト的なもの」の否定ということで、より本質的に捉え返すことができる。

そういうわけで、今回は、この問題を述べる前に、序説として、注意すべき点を確認しておいた。

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