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2023年6月

2023年6月19日 (月)

『精神病の日本近代』―「憑く心身」から「病む心身」へ

兵頭晶子著『精神病の日本近代』(青弓社)という本は、記事『『精神医療に葬られた人びと』の追加等』でとりあげていた、織田淳太郎著『精神医療に葬られた人びと』という本でも、よくとりあげられ、引用されていた。

基本的に、日本近代において、「精神病」という捉え方が、それまでの「憑きもの」という捉え方に変わって起こり、確立していく過程を、歴史的に明らかにしている。しかし、それだけでなく、そのような捉え方の変化は、「世界観」の根本的変化と言うべきものであったことを、明らかにしている点に、大きな意義がある。

「精神病」というのは、近代において確立された捉え方だが、それを自明なものとして、過去にもあったもののようにみなすと、「精神病」というものが、過去にはどのような捉え方をされたかという視点で、見てしまうことになる。実際、ほとんどの精神医学史は、そのような視点で捉えている。

ところが、この著書は、「精神病」が、近代という「世界観」の創出とともに、新たに「創出」された捉え方であることを、しっかりと踏まえ、それまでの「世界観」のもとになされた、「憑きもの」という捉え方から、「精神病」という捉え方へと、「世界観の根本的変化」が起こったことを、明示しているのである。

従って、「精神病の日本近代」なのであって、「日本近代における精神病」なのではない。「精神病」という捉え方を生み出し、それが実際に機能することになった、「日本近代」を問題にしている、ということである。

その変化の過程としては、それまでの「憑きもの」という、その者を取り巻く、様々な人や事象がからむ事態に、共同体的に対処し、祈祷師等の力を借りて、その状態を解消に向かわせたあり方から、そのようなものは、その者個人に起こる「精神病」と捉え直されて、その者を病院に隔離し、「治療」すべきものとされるまでが、かなり詳しく述べられている。

その間、江戸期の儒医などに、「憑きもの」という民間信仰の捉え方は、「淫祠」として否定するが、「精神病」として、治療すべきものという発想はとらないという、いわば中間段階があるのも、興味深い。

そして、最終章では、この「世界観の根本的変化」の意味が、よくまとめられている。

それは、端的に、<「憑く心身」から「病む心身」へ>の変化ということで、言い表される。こう言うと、ただ「心身」に何ものかが、「憑く」ということから、「心身」が「病む」ということに変わっただけ、と思われるかもしれないが、そこでは、「心身」の捉え方そのものが、根本的に変わっているのである。

「憑きもの」というのが、どういうもので、どういう世界観を反映するものかは、記事『日本の憑きもの』でも、ある程度明らかにした。そこには、一種の差別の意識はありつつも、憑く側と憑かれる側に2分された、独特の「憑く」という現象を通じて、村落共同体に関わる不調和な事態を解消させるシステムがあり、それによって、憑かれる者の状態も回復するのだった。

著者も、「もの憑きの世界観」と、その現象のいわば結節点となる「憑かれる心身」について、よくまとめて的確に述べられているで、少し長いが、その部分を引用しよう。

<もの憑き>の世界観では、憑くものと憑かれるものも人間に限定されていなかった。人の恨みだけでなく、神々や生霊死霊の祟りも憑くものに含まれ、それらは人だけでなく農作物や牛馬などにも憑いて変化を起こすと考えられていた。また、憑くことは決してマイナスの結果だけを意味していない。農作物の豊穣や牛馬の息災を約束する神々の加護も、その身に神々を降ろして交渉できる宗教者を通じてもたらされる。<もの憑き>自体は絶対善でも絶対悪でもなく、そのバランスがどちらに傾くかによって変化しう。る。だからこそ、この世界観で意味づけられる病気も、マイナス面にとどまるものではなかった。傾いたバランスを元に戻すことで回復可能であり、場合によっては新たな宗教者の誕生のように、逆にプラスに高めることも可能だと考えられていたのである。

 そしてそこでは、病気は自らを取り巻く「もの」との関係性、つまり天地万物との<繋がり>によって生じると見なされた。したがって、それを治すためには乱れた<繋がり>を修復すればいい。問題となる<繋がり>が地域社会でのトラブルであれば、そのトラブルを解消するために憑いたものの要求を叶える儀礼がおこなわれ、近隣の人々も<繋がり>の修復を承認する。また、先祖の罪業などによる祟りのような問題であれば、宗教者や社寺などの民間治療場が中心となって、宗教的地平での<繋がり>を修復することになる。ものが憑く心身とは、このような<繋がり>のただなかでとらえられる、きわめて可変的かつ流動的な心身だった。

 そこで問題となっているのは、憑くものが何者かという点であり、なぜ憑いたのかという理由である。その理由を解決すれば、憑いたものは離れる。したがって、問題は憑いているという一時的な<繋がり>の異変にあり、たとえ容易に治らなくとも、それが永続的なものだと見なされることはなかった。ましてや、それが憑かれた側の個人としてのありように帰因するとは考えられていなかったと言えるだろう。」

要するに、「憑く」というのは、共同体に関わる様々な人や事物、祖先、自然の精霊や神々で、それは、その憑かれた者個人のではなく、共同体全体、さらにその者を取り巻く、宇宙的ともいえる、全繋がりの中の、何らかの「繋がり」に問題が生じたことを表しているのである。従って、憑かれた者だけでなく、共同体は、それぞれが自分の問題として、その問題の解消に努めることになる。

そして、その「繋がり」の問題を、祈祷師などの宗教者の力を借りて、明らかにし、その解消に当たることによって、繋がりが回復され、それに伴って、憑かれた者自身も回復することになるのである。

アフリカの先住民の例だが、記事『クンの「癒し」と「西洋医学」』でもみたように、クンの「癒しのダンス」によって癒されるのは、個人だけではなく、共同体の全体、さらには、周囲の環境、さらに宇宙の全体にまで及ぶのであった。そこでは、癒しとは、「全てを根底から統合し、増進する力」とされている。

特に先住民文化に代表されるものの、近代以前、あるいは西洋近代以外の伝統社会の「癒し」は、多かれ少なかれ、このような面をもっている。日本の場合もまた、それに当てはまる部分があったのである。

ここで、憑かれた者の「憑く心身」とは、単に個体的な「心身」ではなく、このような全繋がりの中の、一つの「繋ぎ目」であり、そこに繋がりの問題が露わになっているというに過ぎない(もちろん、憑かれた者自身に問題があって、そうなった場合も多いだろうが、それは決して、その者自体の中で閉じているのではなく、あくまで、全繋がりの中で生じた問題として、処理される。)

だから、「憑く心身」は、「繋がり」の中の一時的な状態としてあるもので、あくまで回復可能なものである。

ところが、「精神病」という世界観の中の、「病む心身」では、「繋がり」という視点はとり払われ、専ら、切り離された「個人」の「心身」が「病む」とされ、その個人の内部に閉じられた問題となる

それは、実際上、かつてのような、回復という方途を取り払われたも同然だから、その「病む」状態は半永久的にその者個人に帰せられ、その者は、過去、現在、未来にわたり、いわば、「存在」として「病む者」とみなされることになる。

人格への懲罰の意味をもつ、刑法の犯罪の主体ともされず(人格をもつ者とすらみなされず)、専ら、ただ社会にとって「危険な存在」として、犯罪も何もない段階で、未然に処置すべき存在とされる。

これらは、要するに、かつての「繋がりの問題」を、全てその者個人の問題に帰すことで、その者を「スケープゴート」(生贄の子羊)としているのも同然である。その者を、「病む者」とすることで、社会から隔離し、「葬り去る」ことで、社会その他の問題を、浮上させることなく、その者とともに、「葬り去る」ことができるのである。(もちろん、表面上であって、根本的な解決にはならない。)

記事『「うつ」と「自殺」の問題』でみたように、自殺の問題を、うつ病という病気の問題として済ませることは、現代でも続いている、その典型的なあり方である。

「精神病」は「脳病」とも称せられたように、「病む心身」における「心身」というのは、「脳」を中心にして見られることが多い。

ただ、当時は、すべてを「脳」に収めるほどの知見はなく、逆に、一種の反動として、「スピリット」の問題としてみる流れも生み、大本教のような多くの知識人を巻き込んだ宗教も生じた。ただし、それも弾圧され、全体としては勢いを衰えさせるが、「スピリット」ではなく、「サイコ」という立場から、「病む心身」をみる立場が、代わって台頭した。心理学や精神分析などである。

これらは、「スピリット」的な面は周到に排しつつ、「脳」では十分汲み取れないようなものを、そこに汲み取ることで、結局は、「切り離された個人」としての「病む心身」という近代の世界観を、強く補充させることになった。

現在では、もはや、単純に「脳の問題」とする方向が主流だが、いずれにしても、<「憑く心身」から「病む心身」へ>という世界観の根本的な変化が行き渡った結果なのである。

このような、世界観が行き渡った中にいると、「精神病」とか「病む心身」であることは、自明のことのように思ってしまうが、それは、このような世界観の根本的な変化の結果もたらされたものであることを、まずは、はっきりと認識することが必要である。

しかし、この著書も、「なぜそれが起こったのか」という点には、踏み込まれていない。

そこに踏み込むには、どうしても、かつての「憑き」というものが、「迷信」として否定されるに至ったこと、さらには、「オカルト的なもの」一般が忌避されるに至ったことに着目し、その意味を明らかにしなければならない。

既に何度か述べたことだが、次回ももう少し、この問題に踏み込んでみたい。

 

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