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2023年5月22日 (月)

「虚無感」は根源的なものであること 2

最近は、宇宙論においても、宇宙が「無」から生じたものであることが、よく取り沙汰される。

この「無」は、あくまで物理学的な理論において捉えられたもので、私がいう根源的な「虚無」と同じなのではない。しかし、この「無」も、全く「何もない」ということではなく、宇宙を生み出す、エネルギー的な揺らぎをはらんだ、あらゆる存在の大元である点は、「虚無」と通じている。

この「無」は、根源的な「虚無」が、物理学的な理論の範囲で、反映されたものとみなすこともできる。根源的な「虚無」は、物理的な存在に限らず、あらゆる存在の根底にあるものだからである。

記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』では、原初の存在が、自己を取り巻く「大いなる未知」を探索すべく、宇宙を創造し、さらに自己の分身を作り出して、様々な体験をさせることにしたという話をした。この自己を取り巻く「大いなる未知」とは、「虚無」そのものとみなせるものである。

そもそも、原初の、「創造神」ともいえる存在の、創造と探求の始まりが、「虚無」を探索したいという衝動により、生じているということである。そして、我々は、その原初の存在が自分を分割した、「分身」そのものだから、その「虚無」の探索は、具体的には、我々自身が引き継いでいるのである。

このように、あらゆる存在の創造と動きの原初的な原因こそが、「虚無」なのであり、だからこそ我々が存在し、動いて(生きて)いるのである。そしてその探索は、今も我々を通じて、引き靴がれているのである。そのような根源的な「虚無」を、どうこうしようとか、受け入れられないとか言うことが、いかに馬鹿げたものであるかが、分かろうというものである。

同じようなことは、ミナミAアシュタールのアシュタールによっても言われている。

アシュタールは、原初の存在を「絶対無限の存在」と言っているが、この「絶対無限の存在」が、「私とは何か」を知りたいと思って、自己を分割し、宇宙及び多くの存在を作り出して、様々な体験をさせようとしたとしている。

「絶対無限の存在」とは、絶対であり、無限である存在なのだが、「私とは何か」を知りたいと思うということは、何かしら、自己を取り巻く「私ならぬもの」、「未知なるもの」を意識することによって、起こり得るものである。この「私ならぬもの」、「未知なるもの」も、やはり、根源的な「虚無」とみなし得る。

つまり、アシュタールにおいても、あらゆる存在の創造は、「虚無」との関わりで生じているとみなし得る。そして、「絶対無限の存在」の「私とは何か」という、原初の問いは、やはり、現在も、その分身である、我々個々の「私とは何か」という問いとして、引き継がれているのである。

原初の存在が、「虚無」との関係で問い始めたように、我々個々の「私とは何か」という問いもまた、「虚無感」との関係で生じることの多いものであることは、誰もが体験していることだろう。

前回みたように、この「虚無感」は、「虚無」そのものではなく、「虚無」が我々の観念に反映されて、映し取られたものである。「観念」であるから、我々の様々な思考、見方がまとわされており、それは、時代や文化によっても、異なって来る。

特に、近代社会は、唯物論によって、「虚無感」は、ことさら強められ、我々の存在や行いが、結局は「無意味」ではないかということを、突きつけて来るものになっている。それで、近代社会は、その「虚無感」から逃れるために、「熱く動き続ける社会」を築いたわけだが、それでも、その隙間から、何かの折りに、「虚無感」はいつ襲って来ても不思議ではないものになっている。

このような「虚無感」は、それまでの「神的なもの」あるいは「霊的なもの」を否定した、唯物論という、近代特有の見方によって、ことさらまとわされたものに過ぎない。しかし、それも「虚無」の上にまとわされているのであり、そのことを通して、根源的な「虚無」を、身近に浮かび上がらせることになっているのは確かである。

このように、近代以降、「虚無」は、否定的な意味を塗り固められてしまったが、近代以前、特に東洋においては、「虚無」は必ずしも、否定的な意味ではなく、むしろ積極的な意味を帯びていた

古代中国の老荘思想しかり、仏教しかりである。老荘思想は、やはり「無」こそが、あらゆる存在の根源であるとし、本来「無」であるからこそ、あらゆることが調和的に成り立ち、可能となることを明らかにする。仏教も、本来「無」であるからこそ、この世的な執着や悩みから開放され、「悟る」ことができるのだとする。

日本でも、記事『「無縁」の原理と「死」』でみたように、本来、「無」であることは、何ものにも束縛されない、「自由」を意味したのである。

近代に生きる我々の「虚無感」は、我々の存在や行いは「無意味」ではないかということを、突きつけて来ると言った。しかし、逆に、我々の存在や行いに、特定の、予め決められた「意味」があるのだとすると、それは、本当に「意味のある」ことなのだろうか。その「意味」が分かったとして、その与えられた「意味」に従うしかないのだとしたら、それは、押しつけ的なもので、不自由なことにも思える。

本来「無」で、(特定の)「意味」がないということは、我々自身が、「意味」を主体的に見い出し、さらには、作り出して行くことができるということである。

宮沢賢治も、生徒に、「人生の目的は何でしょうか」と聞かれて、「それを探すことが目的ではないか」と答えたということだが、それも同じようなことを意味している。

実際には、先にあげた、我々の存在や行いは「無意味」という「虚無感」も、唯物論的な発想を通して、我々自身が、そこに「無意味という意味」を、付与しているのである。だから、それもまた、否定的になされた、一つの「意味」の創造だということになる。

アシュタールも、「思考が現実を作る」ということを、繰り返し述べているが、それは、本来「現実」というものが、固定的なものとして与えられていないことによっている。だから、「現実」は、思考によって、いかようにでも、作り出せるのである。この「現実」は、「意味」と置き換えられることもできるはずである。

要は、「虚無」、さらには「虚無感」というものは、否定的なものである必然性はなく、それをどう捉えるかは、我々次第であるということである。

そして、それは、先に述べたとおり、「原初の存在」の、創造の目的を引き継ぐものだということである。従って、どうあがこうと、その探索を、我々自身が引き受け、なして行くしか、手立てはないのである。

近代の「虚無感」が、「無意味」という否定的なものとして起こり易いのは確かであり、まずは、そのことも含めて、「受け入れる」ことをしない限り、その抑圧によって、内部に否定的な「虚無感」を、強く醸成させて行くだけのことになるだろう。

しかし、その「虚無感」とは、本来、根源的な「虚無」から来ていること、我々自身が、それに対して付与した「意味」が反映されているのであること、本来「無」だからこそ、主体的で自由な、「現実」や「意味」の創造が可能となること。そして、それは、「原初の存在」の創造の目的そのものであり、それを受け継ぐものであること、などを認識できれば、もはや「虚無」ないし「虚無感」を受け入れることも、難しいことではなくなるはずである。

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コメント

とても素敵な記事ですね。

>「現実」は、思考によって、いかようにでも、作り出せるのである。

本当にそうです!
見方を変えれば長所は短所、短所は長所 みたいなことですよね!

例えば環境問題も、ある意味、今まで人間が自然をおざなりにしていた「思考」が「現実化」したものだと思っています。
私が環境問題を知ったのは20年以上前です。
これは大変だ!と、周りに言ってもみんな興味を示しませんでした。
もちろん意味は理解できるけれど、「だからって個人でどうしろというの?」といった感じでした。
今になって、社会が動き出したから個人にも意識が芽生えましたが、正直時すでに遅し、といった感はあります。
なにかアクションを起こす起こさないではなく、一人ひとりが意識するだけでそれは新たな現実を引き寄せることになる、だから、せめて理解して意識してほしかったんですよね。
というか、もしかしたら、環境問題がどうこうより、倫理観を取り戻してほしいと思ってたかもしれません。
問題と感じてるのに、何もできないから何も考えないは違うくない?といった感じかな。
環境問題に限らず、何か問題が起こった時、ただ否定するでもなく、なかったことにするでもなく、どうしたらいいか、無理に答えを出す必要もないけど、無視はしてはいけないと思います。
もちろん遅いとはいえ、変わろうと思えば今からでも変われると思います。
こういうのって、広がる時は一気に広がりますからね!
動物でも植物でも、愛情ってかけたらかけただけちゃんと返してくれますから。

相変わらず話が脱線してすみません。

名無しさん、ありがとうございます。

「例えば環境問題も、ある意味、今まで人間が自然をおざなりにしていた「思考」が「現実化」したものだと思っています。」

そうですね。その通りだと思います。

私が記事で言ってることで言えば、人生は「無意味」という意味での「虚無感」も、まさにその思考、感じ方が、現実化して、そう思えるような現実を作り出しているという面が強いと思います。「うつ」の人には、そうなる傾向が強いと思います。

もちろん、統合失調的な「妄想」もそうで、その「妄想」は、その妄想が現実と思えるような現実をまさに作り出してしまうという怖さがあります。「集団ストーカー被害」というのも、まさにその典型ですね。

「なにかアクションを起こす起こさないではなく、一人ひとりが意識するだけでそれは新たな現実を引き寄せることになる、だから、せめて理解して意識してほしかったんですよね。」

これもまさにその通りで、「意識するだけで違うのだ」ということが重要ですね。「虚無」においても、意識から放り出すのではなく、意識するだけで、虚無に対する感じ方や虚無感の内容も、十分変わってくるのだということが、私も言いたかったことです。

最近、「虚無感」や「無」と同系列で、「大人の在り方」について考えています。
以前から漠然と現代の「大人」の在り方に不満を感じていて、昔自分が子供の頃に見ていた「大人」と現代の「大人」の違い様に焦りすら感じていました。
現代の「大人」といえば「老化」「劣化」「老害」といった悪いイメージがほとんどです。
奇しくも、上岡龍太郎さんがお亡くなりになり、彼の現役時代の映像を目にするにつけ、昔憧れていた「大人達」の姿を改めて認識しました。
同時に、現在お笑い界で大御所と呼ばれるコンビについての論争が巻き起こっていますが、これは実は地続きであり、結果の現れだな、と見ております。
そもそも、今話題のコンビが出てきた当時、「嫌なヤカラが出てきたな」と不穏な空気を感じていました。
案の定、当時の大御所の芸人たちから「芸じゃない」と否定的な意見が出ていましたね。
確かに、上岡さんも「芸人ははぐれ者の集まりのやくざ」と言っておりますし、横山やすしさんも自身がやくざのようなナリをしてました。
ただし、昔のヤクザには仁義があり、それなりの美徳がありました。
それに対して当時の彼らは、金が全てでしきたり無視の現代の「暴力団」、「半グレ」でのような存在でした。
それこそ周りのライバルに噛みついて潰しまくってましたからね。
そして、当時の視聴者もその怖いもの知らずの態度に自分を重ね酔いしれ、デスマッチを煽る聴衆のように彼らを神格化してしまいました。それが「芸」かどうかは無視して。 
最近、そんな彼らに、上岡さんが「弟子をとれ」と促していた映像を見ました。
それは、責任をとれる言動を身につけろ、という警鐘だと感じました。
正に、私が感じた昔の「大人」と、現代の「大人」の違いに感じる、「責任感の有無」です。
ところが、彼らは弟子をとらず、仲間を作った。何かあったら責任を取るのではなく、自分を助けろよ、という逃げ道を作ったわけです。
面白いことに、上岡さんはそのコンビに限らず今いる大御所全てを「素人芸」と表していました。
上岡さんをはじめ、昔の大御所芸人が表舞台から退いた時、私は「見限られた!置いて行かないで!」と感じたのを覚えています。
案の定、それまで脈々と受け継がれてきた技術は衰退し、「教える、教えられる」、といった本来の大人の立場も追いやられ、勢いだけが頼りのその場しのぎのお笑いに成り下がったように見受けられます。
もちろん、それを望んだのは現代の「大人」なのだから、自業自得なわけですね。
自分が見下していたから今度は見下される立場になったというわけです。
「虚無」…むなしいですね。そんな大人に育てられた子供にも虚無が広がるのではないでしょうか。
他にも彼らが及ぼした悪影響についていろいろ言いたいことはあるのですが、こちらはそいう場ではないので控えます。
因みに、今回非難した芸人が下手を打ったのは、自身も同じ芸人であったことと、ここまでの考察ができていないことですかね。

すみません、先ほどのコメントは名無しです。

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