統合失調状態では、「そこに確かに存在している」という、「実体的意識性」の感覚が生じ、それが起こっていることにリアリティを与える重要な要素になることを、記事『実体的意識性」と「オルラ」』「などで示した。
「実体的意識性」は、視覚や聴覚などの知覚に伴って生じることもあるが、それ自体が一つの独自の感覚として生じるものである。
たとえば、何か、ある「実体」のようなものが、見える形で、知覚されている場合は、そのような感覚が起こっても不思議ではない。ところが、見える形では、知覚されていなくて、「声」だけか聞こえるような場合にも、そこに、「何者かが実際にいる」という感覚を、強く伴うことが多いのである。さらに、「声」としては、知覚されなくとも、そばに、「何者かが実際にいる」という感覚だけが、強く生じるという場合もある。
但し、本人が、その「実体的意識性」を、実際に、「何者かがいる」という感覚として、意識するとは限らない。たとえば、実際に目の前にする人間がいる状況で、「声」を聞くような場合には、その人間を声の出所として意識するので、何か他のものがいると、あえて意識することは起こりにくい。だから、「実体的意識性」として意識することはないにしても、それは、その聞いている「声」に、何か特別の力を感じるという形で、感じられるということにもなる。
その場合にも、「声」に力を感じるもとになっているのは、「実体的意識性」であると言うべきなのである。
このように、統合失調状態では、単に幻覚が起こるのではなく、「実体的意識性」が伴うことによって、強烈なリアリティが生じるのである。だからこそ、それに捕らわれるということも起こる。また、それについての解釈である、妄想を強く確信するのも、そのような「実体的意識性」が、もとになっているのである。
統合失調の者は、「病識がない」などと言うが、それは、この感覚レベルで起こっている、「実体的意識性」とそのリアリティについて、全く理解しないからである。「統合失調=幻覚・妄想」という、短絡的な捉え方だと、そういう見方にもなってしまう。
統合失調状態では、単に、幻覚や妄想が生じるのではなく、そこに「実体的意識性」が伴うことによって、リアリティが生じているということが、ポイントなのである。
ただ、私は、この「実体的意識性」という言葉も、統合失調の者の強い捕らわれを言い表す言葉としては、不十分だと思う。
統合失調状況では、単に、そこに「何者かがいる」という感覚が生じるというのではなく、それが、何か、「ただならぬもの」、「特別のもの」、「未知のもの」であることを、強く感じさせるものとなるからである。
記事『2 「妄想」「幻覚」の特徴とされるもの』で、笠原著『精神病』がとりあげる、統合失調症の「幻聴」のいくつかの特徴をあげたが、その中の「超越性を帯びる」というのが、まさにこれを示している。
また、「リアリティ」を生じると言ったが、この「リアリティ」には、日常的に知覚する、通常の事物や存在以上のものがあるので、体験している本人にとっては、捕らわれずにいるのは難しいような性質のものなのである。
このような性質を言い表すのには、ルドルフ・オットーが、『聖なるもの』(岩波文庫)という本で用いた、「ヌミノーゼ」(体験または感情)というのが、適当だと思う。
「ヌミノーゼ」というのは、キリスト教のような「高等宗教」の神から、先住民文化の精霊やマナ(霊力)のようなものまで、あらゆる「聖なるもの」の体験の根底にある感情として、捉えられたものである。崇拝の対象としての、「神」や「精霊」というのは、そのような感情のもとに、作り上げられた観念なのであり、抽象的なものであるが、この言葉は、その根底にある具体的な体験または感情を、事実として、取り出しているのである。
「神」や「聖なるもの」というと、崇拝をもたらす神聖な感情というイメージになるが、実際には、「聖なるもの」には、恐れをもたらす、負の側面もあり、それこそが、崇拝をもたらす場合にも、根源的な感情として潜んでいる。従って、「ヌミノーゼ」というのは、「おそれをもたらすと同時に、ひきつけられ、魅惑される」、両義的な感情なのである。
日本の江戸期の国学者、本居宣長も、
「其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、」
と述べている。この言葉も、「カミ」が、観念的、抽象的なものではなく、我々を取り巻く具体的なもので、悪しきもの、怪しきものを含めた、畏怖をもたらす特別なもの全般を指すことを、よく示している。
オットーは、「薄気味悪く怖るべきもの」、「妖怪的なもの」という言い方で、この「ヌミノーゼ」感情の底に潜む負の面を、言い表している。
統合失調状況で起こる、「実体的意識性」というのも、まさにこのような意味の、「妖怪的なもの」を伴うことが多いのである。それは、先に述べたように、「ただならぬもの」、「特別のもの」、「未知のもの」であるにしても、どこか、「薄気味悪く」、「おどろおどろしい」ものを際立たせている。だからこそ、恐怖の感情とともに、否定的な捕らわれをもたらさずにはおかないのである。
統合失調の場合、恐らく、単に「実体的意識性」というよりも、このように、より具体的に踏み込んで、「ヌミノーゼ」体験、または「ヌミノーゼ」感情として捉えた方が、理解されやすいであろう。
前回、近代社会のシステムは、「オカルト的なもの」を排除したがゆえに、統合失調状態に陥った者も、「病気」として「排除」する必然性を生じたと言った。この「オカルト的なもの」を、言い換えるならば、「ヌミノーゼ的なもの」と言うこともできる。
近代社会は、「聖なるもの」全体を、実質的には、「排除」したも同然だが、その崇拝という面や、観念的、抽象的で、(近代社会のシステムにとって)利用でき、あるいは無害な面は、各種の「宗教」に取り込ませた。
しかし、その根底なす、実質的な面、すなわち、真に危険で、システムを揺るがしかねない、「ヌミノーゼ」の面は、「病気」という形で、本当に、「排除」したのである。「聖なるもの」の根源をなすものこそが、「病気」として排除されたことにより、「宗教」というのも、骨抜きにされたのである。
しかし、現在においても、統合失調という現象には、「病気」と呼んだところで、そこからはみ出す面が、常にどこか顔を覗かせている。すなわち、「ヌミノーゼ」的なものが、依然として醸し出されることを、決して止めたわけではないのは、明らかである。
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