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2022年10月14日 (金)

「深淵に飛び込む」ことと「深淵としての霊界の境域」

記事『『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い』で、カスタネダが、今後進むべき道の決定的な選択をするために、ドンファンから、崖から「深淵に飛び込む」という苛酷な課題を与えられたことを述べた。

カスタネダは、この課題を実行し、その深淵に迫る過程で、「意識の暗い海」または「無限」と遭遇して、それに包まれることで、死を回避し、自宅のベッドまで移動(テレポート)していたのだった。それは、「集合点の移動」という観点からは、集合点を移動することで、「黒の世界」といわれる、死ということのない、全く別の世界を構築した結果なのだった。

通常、崖から深淵に向かって飛び込めば、死を免れないから、このようなことは狂気の沙汰とも思われようが、実は、これと類似の儀礼や修行は結構ある。

たとえは、バンジージャンプというのは、バヌアツのペンテコスト島で行われる成年儀礼を起源とするもので、この儀礼は、成年を迎える人を蔓に巻き付けて、高い木組みの櫓から地面目がけて飛び込ませるものである。私も映像を見たことがあるが、バンジージャンプとは違って、実際に地面に体がつくほどのもので、命の保証などないというべきものである。現在は、蔓で巻き付けて行うが、かつては、もっと危険な方法で行われていた可能性がある。

このように、「深淵」に飛び込むことで、現実に「死」と直面し、「死」を知ること、さらには、その過程で、成人としての決意と選択が促されるわけである。

日本の修験道でも、吉野・大峯の「西の覗」といわれる行場で行われる儀礼または修行があり、断崖絶壁の崖から縄でつるして「深淵」を覗かせることで、自己を見つめさせるというものがある。これも、現在は、命綱で安全が図られているが、かつては、もっと危険な方法であった可能性がある。

現実に、「死」と直面することで、「深淵」にあるものと遭遇することでこそ、その目的が達せられるからである。

カスタネダのなした課題は、それにしても、常軌を逸しているが、これらの儀礼ないし修行の究極の形態と解せば、理解できないことではないだろう。この場合には、単に、「死」または「深淵」に遭遇するだけでなく、何ほどかそれを「超える」ということがなされない限り、命を失うという状況にまで、追い込まれるわけである。

本当に、物理次元で、こんなことがなされたのか分からないが、記事で述べたように、ドンファンが、カスタネダに対し、事前に、「お前は、この課題の後この世界に戻ることの合意がなされた」と言っていたことは、興味深い。これは、カスタネダに対し、命の保証をしたものとも解され、この時点で、カスタネダは、ドンファンにほぼ全面的な信頼を寄せていたから、この言葉は、カスタネダがこの課題を実行する動機づけとして、大きく作用したと解されるのである。

この深淵に飛び込むという課題において、「死ぬのではないか」という疑いがよぎれば、ます間違いなく、死んでしまうことだろう。カスタネダは、「高められた意識状態(変性意識の状態)」にあったこともあって、そのような疑いを取り払うことで、この課題を実行し、成功させることができたと思われる。

ところで、シュタイナーの『秘教講義1』(春秋社)という本では、「霊界の境域」を超えることは、「深淵」と向き合って、それを超えることであり、それを様々な警告を与えつつ、促して行くのが、「境域の守護霊」の役目であるという視点が、述べられている。

私は、前に、シュタイナーは、「水平的方向」の進化ということばかりを述べ、「垂直的方向」の深化ということには、ほとんど関わらないということを言った。しかし、この本を読むと、シュタイナーも、垂直的な方向の「深淵」ということを、強く意識していたのが分かる。ただ、その「深淵」は、あくまで、「超えられる」べきもので、それ自体を深く掘り下げるという視点は、なかったようではある。

シュタイナーも、「深淵を超える」ことで、「霊界の境域を超える」ことができるとしていたのである。それは、ドンファンのいう「集合点の垂直的方向の移動」に相当するものと言える。

前回、地球が5次元に焦点化したので、「波動領域を変える」ことは起こりやすくなったと述べた。しかし、物質的なものを完全に超えるには、やはり、このような意味で、「深淵を超える」ことは、依然として必要と思われるのである。

この「霊界の境域を超える」ときの「深淵」とは、カスタネダが崖から飛び込むことになった、「深淵」とも通じている。つまりは、「死」そのものであり、「無限」であり、「虚無」である。これは、「霊界の境域」をさまよう、狂気の者が予感し、あるいは遭遇する、「虚無」なのでもある。

私は、記事「「霊界の境域」の「図」」において、その境域は、あらゆる領域の根底に潜む、「虚無」の噴出口であるということを述べていた。「深淵」というのは、まさに、その境域に噴出する「虚無」そのものと言っていい。()

カスタネダは、その「深淵」としての「無限」と一体となったり、超えたわけではないが、少なくとも、「無限」に遭遇して、それに包まれ、肉体的な死を免れるという特異な体験をした。それは、「無限」との、一時的な一体体験を経て、戻って来た体験とも言える。

また、それは、私の一連の体験の最後に起こった、「闇に包まれる」体験とも、非常に似たものである(私の場合、物理的に移動することはなかったが、身体が消えるという感覚は、確かにあった)。カスタネダにとっても、それは、決定的な意味をもつ体験となったに違いないのである。

※ この「霊界の境域の図」では、感覚的領域と霊的領域を〇で囲んでいるが、これを立体的な球とみなしてほしい。そして、感覚的領域の淵に立って、霊的な領域との境にある底を覗いている状況を想像してほしい。それが、崖に立って、深淵を覗き込んでいる状況と同じということである。単に、「象徴的」に同じなのではなく、実際に、深淵に飛び込み、「死」と直面することは、感覚的な領域の淵に立って、「虚無」の渦巻く、霊的な領域との境界に飛び込むのと、実質的に同じことを意味するのである。

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