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2022年10月

2022年10月28日 (金)

「イニシエーションなき社会」と統合失調症-「死」の意義

記事『一過性の現象としての「統合失調」』で述べたように、「統合失調症」なる「病気」は、近代になって初めて現れた(作られた)もので、それ以前の伝統社会には、存在していかなったものである。特に、先住民文化においては、一時的な錯乱状態としてしか知られていなかった。

その要因を、記事では、伝統文化においては、そのような状態に陥った者を、集団全体で対処し、解消する、「集団的癒し」のシステムが生きていたからだ、とした。たとえ、現代で言えば、「統合失調状況」に陥る者があっても、「集団的癒し」のシステムの中で、その状態が解消されるので、それは大きな混乱に発展せず、長期化することもなかったわけである。

逆に言えば、この「集団的癒し」のシステムを失った(捨てた)ために、近代においては、それは大きな混乱をもたらすものとなり、対処の仕様もなく、長期化するものになった。それで、「病気」というレッテルを貼るともとに、精神医療という別のシステムを作り上げて、それを囲い込む必要が生じたのである。

ただし、注意すべきは、この「集団的癒し」のシステムは、事後的に、「統合失調状況」に陥った者になされることで、作用するものである。

近代以前、特に先住民文化において、このような状況が、一時的な錯乱状態で終わっていたのには、もう一つ大きな理由があるそれは、そのような伝統文化においては、誰もが受ける、成人儀礼を代表とする、「イニシエーション」の儀式があったからである

「イニシエーション」とは、「死と再生」の過程とも言われ、何ほどかのレベルで、「死」を体験させ、それをくぐり抜けることで、それまでの自分に死に、新たに、「生まれ変わら」せるというものである。これらの儀式には、そういった過程が、必ず組み込まれているのである。(1)

そして、その「死と再生」の過程、特に「死」との直面は、記事『成人儀礼としての分裂病』でもみたように、「統合失調状況」に陥ることと、本質的には共通するものである。それで、「イニシエーション」の体験を経た者は、その経験を通して、「統合失調状況」をも、くぐり抜けやすくなるわけである。

このような、かつての「イニシエーション」を伴う儀礼は、やはり、近代になって失われた。儀礼は、残っているとしても、形式的なものとして、形骸化したのである。それで、近代人は、予め、「統合失調状況」を、疑似的にでも、体験する機会がなくなった。それで、実際にその状況に陥ると、なすすべもなく混乱し、その過程をくぐり抜けることは、難しいものになってしまったのである。

河合隼雄は、近代のこのような状況を、「イニシエーションなき社会」と言っていた。統合失調症に限らず、この「イニシエーションなき社会」が、現代の、多くの精神的な病の発生に大いに影響しているし、「大人」になり切れない、若者の様々な問題を生んでいる。そして、特に、死を急ぐというか、死を希求するかのような、自暴自棄的な行為に走る、若者の増加を生んでいることを、指摘していた。

フロイト風に言えば、「タナトス」(死の欲動)につき動かされる若者であり、これは、前に述べたように、私自身、まさしくそうだったので、身につまされる。

繰り返すが、かつての「イニシエーション」は、ともあれ、何ほどかのレベルで、「死」を体験させるものだったということが、重要な点である。「死と再生」というのも、「死」の体験がはっきりとあってこそ、「再生」ということも、起こり得るのである。

この「死」の体験を、近代人は、失ったので、「死」は、観念的に、想像するしかないものになったのである。

それで、「死」とは、単に、人生の最後のときに訪れる、「肉体の死」を意味するものでしかなくなった。それは、生きているときには体験できない、「未知のもの」となったので、当然恐怖をもたらすが、同時に、ある種の「魅惑」をもたらすものともなったのである。死の体験をできない若者は、そのような「死の魅惑」に、無意識に、つき動かされることにもなる。

さらに、唯物論的発想が広まると、その「死」とは、単に、自分という存在がなくなること、つまり「無」になることを意味するだけのものになってしまった。「死」というものが、未知のものであると同時に、ある意味で、分かり切った、薄っぺらなものになってしまったのである。

このような状況では、「死」そのものに「深み」があるという理解など、望むべくもない。

「イニシエーション」における「死」を、近代人は、「象徴的な死」などと言うし、河合もそのように表現していた。それは、「肉体の死」が「死」という理解だと、それそのものではないということで、そういう言い方がされることになる。しかし、記事『癒しのダンス』の最後のところで、先住民の者が明確に語っているように、それは、「肉体の死」と同じ、「死」そのものの体験である。

ただ、その「死」には、「深み」があり、それは、必ずしも、「肉体の死」を伴うとは限らない。だから、生きているときにも、体験できるし、むしろ、「肉体の死」というのは、「死」の深みからすれば、浅いレベルの体験ということになるのである。(2)

このように、「死を知る」ことは、現代人にとっては、禅の考案に等しい難問となったことを、記事『公案の2「死」とは何か』でも述べていた。

先にみたように、現代人にとって、「死」は、未知のものとなり、観念的な恐怖をもたらすものとなった。「統合失調状況」も、まさに、そのような「死」そのものが、何ほどかのレベルで、顔を覗かせる体験である。それまで、「死」と直面したことがなく、それを通り越したことがない現代人は、恐怖と混乱に翻弄されて、振り回されざるを得ない。その恐怖と混乱は、自我を崩壊(解体)させるほどのものとなり得るし、同時に、それを防ぐべく、強固な「妄想」にとり憑かれることにもなる。

しかし、逆に、「イニシエーション」を受けることは、必ずしも、「死を超える」ことではなく、「死」というものを、「体験的に知る」ことであることに、注意すべきである。それは、「死」が、即「深みから知られる」ことではなく、「深みがあること」を知ることであり、率直に、「恐るべきもの」と、知ることでもある。「死」は、「未知のもの」であり続けるし、「恐怖」ではあっても、それは、現代人の、「観念的恐怖」とは、明らかに異なっている。体験に基づき、実質を捉えた、「恐怖」というより、「畏怖」なのである。

成人儀礼で、「大人」になることは、「死を知る者」となることでもあることは、記事『成人儀礼としての分裂病』でも述べていた。

このように、「死の深み」を知り、「恐るべきもの」であることを、正面から認めて、それを引き受ける態度は、「統合失調状況」をくぐり抜けるうえでも、重要なのである。少なくとも、そのような態度がある限り、「統合失調状況」は、恐怖と混乱に振り回されるだけのものとはならない。

そういうわけで、伝統文化には、事後的な「集団的癒し」のシステムの他に、予め、疑似的に、「統合失調状況」の体験をできる、「イニシエーション」の儀式があったことも、「統合失調」なる病気のなかったことの、大きな要因である。

とは言え、河合も言うように、現代に、かつての、集団的な「イニシエーション」を復活させることは、もはや無理だし、望ましいことでもない。

だから、このような「イニシエーション」に相当する体験は、個人において、何らかのし方において、獲得されなくてはならない。河合は、夢や、心理療法、さらに最近増えている「臨死体験」などが、こういったものの代わりになり得ることを述べている。

しかし、さらに言うと、現代においては、「統合失調状況」に陥り、それをくぐり抜けることそのものが、かつての「イニシエーション」体験の代わりになるということも、言えるのである。というか、「イニシエーション」儀礼が失われた現代においては、そうするしかないのである。(3)

これまで述べて来たように、「統合失調状況」に陥り、それをくぐり抜けることは、現代においては、容易なことではないが、今後、社会全体の「ものの見方」が変わり、ある程度の支援が受けられるようになれば、十分可能性のあることである。

1 「死と再生」の過程をもつ「イニシエーション」の具体的な例については、記事『僕のイニシエーション体験』や『癒しのダンス』で、かなり詳しく述べているので、参照してほしい。また、前回述べた、バンジージャンプの起源となった、バヌアツの島の成人儀礼もその例である。

  垂直的方向の「死」には、「深み」があり、従って、「死と再生」といっても、それぞれのレベルでのものがあることは、記事『「イニシエーション」と「垂直的方向」』で述べているので、参照してほしい。

  精神科医でも、「統合失調」の本質を「イニシエーション」と捉える者はいて、その代表がR.D.レインであり、日本では加藤清である(記事『「疎外」からの「逸脱」/『経験の政治学』』、『加藤清の「狂気論」「治療論」』参照)。また、民俗学者赤坂憲雄が、「統合失調」を「イニシエーション」の観点から、的確にまとめていることを、記事『「物語としての精神分裂病」他』で述べた。

2022年10月14日 (金)

「深淵に飛び込む」ことと「深淵としての霊界の境域」

記事『『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い』で、カスタネダが、今後進むべき道の決定的な選択をするために、ドンファンから、崖から「深淵に飛び込む」という苛酷な課題を与えられたことを述べた。

カスタネダは、この課題を実行し、その深淵に迫る過程で、「意識の暗い海」または「無限」と遭遇して、それに包まれることで、死を回避し、自宅のベッドまで移動(テレポート)していたのだった。それは、「集合点の移動」という観点からは、集合点を移動することで、「黒の世界」といわれる、死ということのない、全く別の世界を構築した結果なのだった。

通常、崖から深淵に向かって飛び込めば、死を免れないから、このようなことは狂気の沙汰とも思われようが、実は、これと類似の儀礼や修行は結構ある。

たとえは、バンジージャンプというのは、バヌアツのペンテコスト島で行われる成年儀礼を起源とするもので、この儀礼は、成年を迎える人を蔓に巻き付けて、高い木組みの櫓から地面目がけて飛び込ませるものである。私も映像を見たことがあるが、バンジージャンプとは違って、実際に地面に体がつくほどのもので、命の保証などないというべきものである。現在は、蔓で巻き付けて行うが、かつては、もっと危険な方法で行われていた可能性がある。

このように、「深淵」に飛び込むことで、現実に「死」と直面し、「死」を知ること、さらには、その過程で、成人としての決意と選択が促されるわけである。

日本の修験道でも、吉野・大峯の「西の覗」といわれる行場で行われる儀礼または修行があり、断崖絶壁の崖から縄でつるして「深淵」を覗かせることで、自己を見つめさせるというものがある。これも、現在は、命綱で安全が図られているが、かつては、もっと危険な方法であった可能性がある。

現実に、「死」と直面することで、「深淵」にあるものと遭遇することでこそ、その目的が達せられるからである。

カスタネダのなした課題は、それにしても、常軌を逸しているが、これらの儀礼ないし修行の究極の形態と解せば、理解できないことではないだろう。この場合には、単に、「死」または「深淵」に遭遇するだけでなく、何ほどかそれを「超える」ということがなされない限り、命を失うという状況にまで、追い込まれるわけである。

本当に、物理次元で、こんなことがなされたのか分からないが、記事で述べたように、ドンファンが、カスタネダに対し、事前に、「お前は、この課題の後この世界に戻ることの合意がなされた」と言っていたことは、興味深い。これは、カスタネダに対し、命の保証をしたものとも解され、この時点で、カスタネダは、ドンファンにほぼ全面的な信頼を寄せていたから、この言葉は、カスタネダがこの課題を実行する動機づけとして、大きく作用したと解されるのである。

この深淵に飛び込むという課題において、「死ぬのではないか」という疑いがよぎれば、ます間違いなく、死んでしまうことだろう。カスタネダは、「高められた意識状態(変性意識の状態)」にあったこともあって、そのような疑いを取り払うことで、この課題を実行し、成功させることができたと思われる。

ところで、シュタイナーの『秘教講義1』(春秋社)という本では、「霊界の境域」を超えることは、「深淵」と向き合って、それを超えることであり、それを様々な警告を与えつつ、促して行くのが、「境域の守護霊」の役目であるという視点が、述べられている。

私は、前に、シュタイナーは、「水平的方向」の進化ということばかりを述べ、「垂直的方向」の深化ということには、ほとんど関わらないということを言った。しかし、この本を読むと、シュタイナーも、垂直的な方向の「深淵」ということを、強く意識していたのが分かる。ただ、その「深淵」は、あくまで、「超えられる」べきもので、それ自体を深く掘り下げるという視点は、なかったようではある。

シュタイナーも、「深淵を超える」ことで、「霊界の境域を超える」ことができるとしていたのである。それは、ドンファンのいう「集合点の垂直的方向の移動」に相当するものと言える。

前回、地球が5次元に焦点化したので、「波動領域を変える」ことは起こりやすくなったと述べた。しかし、物質的なものを完全に超えるには、やはり、このような意味で、「深淵を超える」ことは、依然として必要と思われるのである。

この「霊界の境域を超える」ときの「深淵」とは、カスタネダが崖から飛び込むことになった、「深淵」とも通じている。つまりは、「死」そのものであり、「無限」であり、「虚無」である。これは、「霊界の境域」をさまよう、狂気の者が予感し、あるいは遭遇する、「虚無」なのでもある。

私は、記事「「霊界の境域」の「図」」において、その境域は、あらゆる領域の根底に潜む、「虚無」の噴出口であるということを述べていた。「深淵」というのは、まさに、その境域に噴出する「虚無」そのものと言っていい。()

カスタネダは、その「深淵」としての「無限」と一体となったり、超えたわけではないが、少なくとも、「無限」に遭遇して、それに包まれ、肉体的な死を免れるという特異な体験をした。それは、「無限」との、一時的な一体体験を経て、戻って来た体験とも言える。

また、それは、私の一連の体験の最後に起こった、「闇に包まれる」体験とも、非常に似たものである(私の場合、物理的に移動することはなかったが、身体が消えるという感覚は、確かにあった)。カスタネダにとっても、それは、決定的な意味をもつ体験となったに違いないのである。

※ この「霊界の境域の図」では、感覚的領域と霊的領域を〇で囲んでいるが、これを立体的な球とみなしてほしい。そして、感覚的領域の淵に立って、霊的な領域との境にある底を覗いている状況を想像してほしい。それが、崖に立って、深淵を覗き込んでいる状況と同じということである。単に、「象徴的」に同じなのではなく、実際に、深淵に飛び込み、「死」と直面することは、感覚的な領域の淵に立って、「虚無」の渦巻く、霊的な領域との境界に飛び込むのと、実質的に同じことを意味するのである。

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